宣教局
信徒の皆さんが救いの喜び、信仰の尊さを味わい、生き生きとしたクリスチャンライフ送り、主と教会に仕えていくとめのセミナーです。講師は信徒の方々が立てられています。
疑いや不満を祈りへ
あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、灯をつけ、家を掃き、見つけるまで念入りに捜さないだろうか。 (ルカ15:8)
冷たい反応でも、それがなんらかの反応であれば、神はそれを求めておられます。無反応よりはずっとよいからです。
そんな神の御心を、主イエス・キリストは、一つのたとえ話に託して伝えられました。ある女性が家の中で十枚の銀貨のうちの一枚をなくしたときに、家中を掃いてでも捜す、という話です。当時、十枚の銀貨は結婚の記念品として紐に通し首飾りにしたようで、なくしたのがたった一枚でも記念の意味が台無しです。家中を掃くのは、当時の家は窓が小さくて暗く、灯では捜しきれません。そこでほうきを家具の下や間に差し伸べて、“チャリン”という音をたよりに捜すのです。父なる神をよく知っておられる御子イエスが、これこそ神の御姿だとお教えくださいました。祈りになり損ねるような私たちの声にも、聞き耳を立ててくださっておられます。
祈ったことがない人はいないくらい、人は祈ります。けれども、祈ったとおりにならなければ、祈りはたちまち不満や疑いに変わります。「神さま、私だけどうしてこうなのですか」とか、「どうせ神さまなんていないんだ」というふうに。
そんな不満や疑いは、祈りと言えないと思うかもしれません。けれども、その不満でも疑いでもよい、聞き耳を立ててくださる神がおられるのだと主イエスは言われます。それが。チャリン・という乾いたコインの音のようでも、神はそれに思いを集めて聞いてくださるのです。不満や疑いでもよい、神にぶつければよいのです。神にぶつけ続ければ、必ず神との対話になります。そうして、自分では思いも及ばなかった、大きく温かな神の御手に支えられていることを知るようになります。
教会に来て、共に祈りませんか。
この拙(つたな)い一文が、神のほうきとして、どうかあなたに触れますように。
相手の賜物を引き出す働き
総務局長 中道善次
コリント信徒への手紙一12章で、パウロは「霊の賜物」について述べている。同章28節には、「援助する者」という賜物が記されている。英語訳RSVでは、helpers(ヘルパーズ)となっている。助ける賜物である。
かつて教会の方々に「聖霊の賜物発見」の記入シートを使い、各自に与えられた賜物を見出してもらおうとした。ところが結果は、私が期待していたものとは異なっていた。多くの方の第一の賜物は、「補助者」(口語訳)であった。人を助ける。そこには日本人の性格も色濃く反映されている。また私個人も、自分に与えられた賜物を生かして教会の働きをしたいと願っていたが、空回りしていた。
賜物のことで葛藤していた時、教会成長に関するセミナーに出席した。講師は、リーダーシップの賜物があるかどうかを発見する方法を語られた。「それは簡単なことです。あなたの後ろを見ればいいのです。『私について来てください!』と言って前に進んでも、後ろを振り返り、誰もついてこなければ、あなたにはリーダーシップの賜物がないのです」。
その講義を聞いていた私は、リーダーを支える人がいなければ、リーダーシップの賜物は十分に発揮されないことを知った。
「賜物の受け手の重要さ」を学ぶ別の体験があった。「先生祈ってください」と熱のある方が祈りを求めて来られた。私は牧師として普通の祈りをした。翌週になり、「先生、癒されました」と感謝を述べられた。祈った私は、きょとんとした。そして気づいたことは、癒しの祈りを受ける側の大切さである。
「人々から助けてもらう」ことは、人々の賜物を引き出す大切な要素である。「助けてもらう賜物」は聖書に記されていない。だがⅠコリ一二22はそれを示唆している。人々に与えられた霊の賜物を引き出す役割を担う者が、キリストの体である教会では大切である。
わたしに従ってきなさい
「わたしに従ってきなさい。」(ヨハネ21:19/口語訳)
前号に引き続いて、献身の証をつづります。伝道者としての召命の御言葉をいただき、献身を決意した私は、帰省して報告すべく、母教会を訪ねました。4年前には牧師から頭ごなしに反対されましたが、その時ばかりは、再び反対されることがあっても、後にはひけぬ覚悟でした。ところが、吉津牧師は手のひらを返したように、私の献身の決意を受け入れ、喜んでくださったのです。どうも、本物かどうかを試しておられたようでした。その時、吉津牧師は次のような話をされました。1952年に、私の父は年会に出席して受洗しましたが、年会で行われた宣教大会に出席した父は、招きに応じて伝道者となる決意をしたというのです。吉津牧師はさらに続けてこう言いました。「その後、あなたのお父さんは教会を離れてしまい、その志は達せられなかったけれども、あの志は神から出たものであって、長い歳月を経てあなたに授けられたのです。あなたは今、それに応えなくてはならない……」と。この言葉をとおして、私の召命が確かなものであることを知り、身の引き締まる思いをいたしました。
教会を後にし、帰宅する前にもう一軒、立ち寄る家がありました。役員の深瀬夫妻宅でした。ご夫君は父の会社の同僚で、父に誘われて信仰に導かれた人であり、ご夫人は母と同じ長井教会出身で、母とは信仰の盟友でした。いつも親身に祈っていただいていた深瀬夫妻に、祈ってもらうために立ち寄ったのです。その時、深瀬夫妻は、一人の求道者が自死したことをめぐって教会が大きな試練に遭遇し、私の父をはじめとして多くの教会員が離散してしまった時のことを話されました。深瀬夫妻はその時、教会にとどまった数少ない信徒に数えられる忠実な人たちでした。その試練の中で、吉津牧師がどのようにして教会を建て直して行ったのか、私に話してくださったのです。食べるものがなく、山に山菜を取りに行ったり、「信仰苗代作り」と言って、幼児教育をとおして福音を伝えて行こうと、苦労して保育園事業を始めたことなど……。
その数週間後のことでした。私は下宿に戻り、朝、いつものように祈っていた時に、深瀬夫妻から聴かされたことを思い出されたのです。否、思い出したということではなく、主ご自身をとおしそのことを聴かされたのです。「あなたを導いた吉津牧師、石沢副牧師は、このようにしてわたしに従ってきたのだ。あなたはどうなのか。そういう覚悟はあるのか」。私は思わずその場にひざまずき、祈りました。「私もそのように従わせてください」と。