『献身しようか、迷っているあなたへ』

東京聖書学院長 錦織 寛

 あなたは、献身しようかどうしようか迷っているかもしれません。もし、そうであるなら、迷うことなくあなたに言いましょう。あなたは献身すべきです。献身しなければなりません。献身しなければ絶対に後悔します。
 もっと言いましょう。すべてのキリスト者は献身すべきです。「献身」とは何でしょうか。それは神に自らをささげることです。神さまのものとして自分をささげ、「神さま、あなたのおっしゃることなら何でもいたします。どうぞおっしゃってください」と耳を開き、心を開いて、主の御前に出ることです。それは牧師であろうと、信徒であろうと同じです。私たちは神に与えられる召しや賜物は違っても、みんな「私は、神さま、あなたのものです」と自らを神に明け渡すのです。牧師・伝道者になることを「直接献身」と言ったりします。でも、厳密にはこの言葉の使い方は間違っています。そもそも直接献身でない献身などないのです。私たちは、牧師であろうと信徒であろうと、直接宣教地に向かう宣教師であろうと、背後で祈ったり献げたりして支える者であったとしても、みな献身者です。
 私たちは自分の献身を誇ることはできません。そもそも献身とは、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ロマ12:1)とあるように、神の憐れみがその土台にあるものだからです。そして、私たちが献身する以前に、神さまがまずご自身を、そしてご自身の尊いひとり子を私たちにささげてくださいました。そこには、私たちを愛してくださった神の献身があったのです。
 献身に悲壮感は必要ありません。なぜなら、それは私たちを愛してくださった神さまを心から愛することだからです。
 ただ、すべてのキリスト者に求められている献身とともに、御言を語り、教会を牧するために、召されている人がいます。口が達者か口べたかは、あまり問題ではありません。モーセも自分は口が重いと言いましたし、非常に用いられた主の器の中にも、私は口べたで……と言う人たちが何人もいます。かえって口が上手くない方がいいかもしれません。口達者だと、案外、自分の雄弁さに酔ってしまうことがあるからです。ただ神の語りかけを真剣に聞き、神の御言に感動して、喜びをもって語る人が必要です。そこで求められているのは、神と人の前における愚直なまでの真実さです。
 自分にできるだろうかと心配ですか。それでいいと思います。心配がなかったら、その方が心配です。召してくださった真実な主は、必ず神さまの用いられやすい器へと、あなたのことを造り上げてくださいます。そもそも聖書の時代から、神さまの召される器は非常にユニークです。今でも、聖書学院で学ぶ修養生たちはとてもバラエティに富んでいます。いわゆる曲者揃いです。神さまの発想は実にユニークですし、ユーモアに富んでいます。神さまのなさることは何て愉快なんだろう、と自分を見ていても思います。
 ただあなたがもし、「神さまは自分のことをきっと召してくださっているから、聖書学院に入学したらがんばろう」と考えておられるとしたら、あなたはまだ準備ができていないかもしれません。本当に神の言を語るために、献身しようと考えられるなら、実際の聖書学院入学が何年先であっても、今あなたがいるその場所で、伝道者としての歩みを始めてください。聖書を読み、祈り、教会で奉仕し、牧師の指導に従って準備を進めてください。献身者としての生涯はもうすでに始まっているのです。そして、どうぞ聖書学院にご連絡ください。
 あなたのために祈りたいと思いますから。


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