2.三位一体


 唯一の神は、父と子と聖霊の三位格を持つ三位一体の神であり、その本質において同一である。

 キリスト教信仰において、その中心にある大切な教理は、「三位一体」の教理です。「三位一体」という言葉自体は、聖書にはありませんが、聖書が明らかに伝えている信仰内容です。「三位一体」とは、聖書に啓示されている神は、「父なる神」、「子なるキリスト」、「聖霊」という三つの位格を持つ、「唯一の神」であるということです。つまり、「三=一」ということですので、理性では理解しがたいことであり、この「三位一体」の教理が確立するまで、教会で真剣な議論が交わされました。それは単に理性で理解できるかどうかという問題ではなく、旧約聖書の時代から明らかにされた「神は唯一である」という信仰に対して、イエス・キリストはどのような方で、どのような立場をとられるのか、また聖霊はどのような関係にあるのかという、文字通り「神」を問う真剣な信仰の問いでした。
 そこで、「三位一体」の教理の確立にいたる、歴史的な事柄をはじめに紹介します。
この「三位一体」という言葉は、テルトリアヌス(二二〇年頃没)が最初に使ったと言われていますが、「三位一体」についての議論は、アリウスという人物の次のような主張が発端となりました。
「神だけが神であり、子は神ではない。子は存在しなかった時があり、子と神は異質的である。また、父は創造者であるが、子は、他の被造物と同じく、先在において神の意志によって無より造られた。すなわち父なる神と子なるキリストとの間には、差別があり、キリストは第二義的なものである。ところが、そのキリストは、全ての被造物の最初で最大のものとして父なる神から創造され、そのキリストが宇宙を創造した。つまりキリストは神の仲介的代理人であって、全ての被造物はキリストを通して創造されたのである。キリストに与えられた力と栄誉のゆえに、キリストは神として仰がれ、礼拝されるべきである」。
 この主張によって教会の中に混乱が起き、事態を収拾するためにコンスタンティヌス皇帝は、三二五年にニカヤという場所に教会会議を開きました。その席上でアリウスの説に反論したのは、アレクサンドリヤの監督アレクサンドロスでした。三一八人の教父が出席したと言われるこの会議では、激しい議論の末、「御子と父なる神は同一本質(ホモウーシオス)」であると宣言しました。この告白が「ニカヤ信条」の中核をなしています。
しかし、異端の宣告を受けたアリウス派の人々は、皇帝に中間的な立場をとるよう説得し、力を盛り返します。そこで三八一年、コンスタンティノポリスにて教会会議が再度召集され、アレクサンドロスの後継者アタナシオスらの主張する「三位格同一本質」が正統的信仰として勝利を収めます。こうして、キリスト教信仰の根本である「三位一体」の教理が確立しました。この時に制定された信条を「ニカヤ・コンスタンティノポリス信条」と言い、通常この信条が「ニカヤ信条」と呼ばれています。西方教会の流れにある教会では、使徒信条、ニカヤ信条、カルケドン信条、アタナシウス信条を、基本信条として尊重しています。特にニカヤ信条は、これがなかったなら、キリストが神であることや、聖霊が神であることが曖昧にされ、その後のキリスト教会は、聖書に即したキリスト教ではあり得なかったと言われるほど、大切な信条です。
以上のことをふまえて、わたしたちの信仰告白について考えてみましょう。

① 唯一の神

 聖書は、一貫して「神は唯一」であると伝えています。旧約聖書において重要な信仰告白は、《イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である》(申命記六・四)との告白です。新約聖書においても、《世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アーメン》(Ⅰテモテ一・一七)とあり、神が唯一であるということが旧新約聖書を一貫して告白されています。それはまた、今も変わらない教会の大切な信仰告白なのです。
 使徒パウロは、《偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている》(Ⅰコリント八・四)と記し、この唯一の神以外のものを神とすることは、偶像礼拝であると述べています。

② 三位格

 それでは、唯一である神と、イエス・キリスト及び聖霊との間にはどのような関係があるのでしょうか。確かに神は唯一の方ですが、実は父、子、聖霊の三つの位格(ペルソナ)においてご自身を明らかにされたのです。言葉をかえると、三位一体とは唯一の神の本質のうちに、父、子、聖霊としてそれぞれ知られている三つの永遠の区別がある、ということなのです。
 先に引用した申命記のみ言葉のように、旧約聖書には神の唯一性が強調されています。三位一体を暗示する言葉はありますが、むしろ、神の唯一性に強調点が置かれていると言えるでしょう。
 それに対して新約聖書には、父、子、聖霊なる神についての明確な記述があります。《あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである》(マタイ二八・一九~二〇)と主イエスは語られました。また、わたしたちの礼拝の終りにささげられる祝福の祈りは、《主イエス・キリストの恵みと、父なる神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように》(Ⅱコリント一三・一三)で結ばれ、三位一体の神の祝福とその神による世への派遣が明らかにされています。
 唯一の神が三つの位格(ペルソナ)においてご自身をお顕しになったということは、人間の理性から生まれた事柄ではなく、神ご自身の決断と方法によって、ご自身を明らかにされた「啓示」なのです。永遠なる神が、有限なる世界にご自身を明らかにされるとき、それを受け止める人にとっては、矛盾と思えることも起きます。なぜなら、人は永遠なる神を充分に理解できないからです。
  しかし、そのような永遠なる神が人にご自身を明らかにされたとすれば、そのことはまさに「救い」そのものなのです。なぜならば、人間は本来、自分を救うことも神を知ることもできない存在だからなのです。聖であり、義であり、愛である神は、罪に汚れた人を救うために御子をお遣わしくださいました。そして御子の十字架と復活によって救いは成就し、聖霊によって罪を悔い改め、イエスを主と信じる人に救いが届けられるのです。御子が遣わされ、人の罪を負って十字架上で神に捨てられるというこの驚くべき出来事は、三位一体の神の完全な交わりに亀裂を生じさせた出来事でした。しかしそこに神の愛が現されたのでした。《神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある》(Ⅰヨハネ四・九~一〇)とあるとおりです。
 ですから、わたしたちが罪赦され、救われて神の子とされるとは、この神の完全な交わりに招き入れられることでもあるのです。《わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである》(Ⅰヨハネ一・三)。

③ 本質において同一

 「本質において同一」という言葉は、先に紹介した「ニカヤ信条」で、「父なる神」と「子なる神」の同一性を表すのに用いられました。後にこの言葉は、三位一体の神の同一性を意味するものとなりました。「ニカヤ・コンスタンティノポリス信条」より後の、四〇〇年代前半に制定されたと言われる、基本信条の一つである「アタナシオス信条」の一部分を紹介し、この言葉の真意について考えてみましょう。

公同の信仰は唯一の神を三位格において、三位格を一体において礼拝する。
三位格は混同せず、一実態を分割しない。
父と子と聖霊は、それぞれ別の位格である。
父は造られず、子も造られず、聖霊も造られず。
父は永遠、子も永遠、聖霊も永遠。
しかし三つの永遠ではなく一つの永遠者。
父は全能、子も全能、聖霊も全能。
しかも三つの全能者ではなく、一つの全能者。
父は神、子も神、聖霊も神。
しかも三つの神ではなく、一つの神。

 ここには父も、子も、聖霊も、神であり、造られず、量りがたく、永遠であり、全能であり、主であると告白されています。このように、言葉を尽くして神の「三位一体」について語られていますが、これは神が人に啓示としてお与えくださった奥義であり、有限な理性では、とても受け止め理解することはできないことなのです。それはまた、わたしたちの信じる「神」は、理性で理解し尽くすことのできない方であることを表しています。まさにそれは信ずべき信仰の事柄なのです。

 このような三位一体の信仰は、教会が歴史の中で異なる教えと戦い、勝ち取ってきたものなのです。それは、教会が受け継いできた神の贖いのみ業を正しく受け継ぐ中で育まれ、確認され、大切にされてきたものなのです。贖罪こそは、三位一体の神の最重要事であったのです。贖罪は三位一体の神が、人の救いのために計画され、十字架と復活によってそれを実行され、わたしたち一人一人に、今、ここでそれを成就していてくださるのです。
 それですから、三位一体の神への信仰告白は、わたしたちの深い喜びの賛美であり告白でもあるのです。