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宣教局



 
神の宣教に仕える教会
逆転の神を見上げて ―たくましく、しなやかに―

 

生まれてからきょうまで

 

教団委員長 島津吉成

 

 主イエスは言われました。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34~35)。主イエスは、「びっくりするような奇跡を行ったら、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるであろう」とは言われませんでした。そうではなく、「互いに愛し合うならば」と言われたのです。互いに愛し合う教会こそ、神の宣教に仕える教会です。
 
 では、互いに愛し合う教会は、どのように造られて行くのでしょうか。神さまから無条件の愛で愛されている、ここにこそ、その鍵があります。神さまは、こんな私のことを愛してくださっているということを知るとき、その神さまの愛に包まれて、私たちも隣人を愛する者へと変えられていくのです。ここから、互いに愛し合う、神の宣教に仕える教会は造られていきます。
 
 そんなことはわかっている、と思われる方が多いことでしょう。しかし、残念ながら、そうなっていない現実が私たちの前にあることを認めざるを得ません。だからこそ、私たちは、いつも、いつも、神さまの無条件の愛というシャワーを浴び続けていくことが必要なのです。そこで前号では、神さまが造られた自然界を通して、私たちは神さまの愛を知ることができるということを書かせていただきました。今月は、自分の人生を振り返ることを通して神の愛を知る、ということを考えてみたいと思います。

 自分の人生を振り返ってみるとき、誰もが、悲しかったこと、辛かったこと、傷ついた経験などがあるに違いありません。思い出したくもない、ということもあるでしょう。でも、勇気を出して、神さまの愛の光の中でこれまでの歩みを振り返ってみてください。そのとき、エマオに向かう弟子たちのように、悲しかったとき、気がつかなかったけれどもイエスさまが一緒にいてくださったのだ、ということに気づいたり、エジプトに奴隷として売られ、「何でこんな目にあわなければならないのか」と思っていたであろうヨセフが、やがて家族を救うために、神が私をエジプトに遣わしたのだと悟ったように、辛かった経験にもこんな意味があったのだということを見出すことができるかもしれません。こうしてヤコブのように、自分の人生を振り返って、「生まれてからきょうまでわたしを養われた神」(創世記48:15)と言うことができたら、どんなに幸いなことでしょう。

 
(「りばいばる」7月号)
 
 

7月号

 

新しく造られた者

 
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(コリント人への第二の手紙5:17)
 
 私は、中学、高校とラジオ少年でした。今でいうとパソコンオタク?ゲームオタクでしょうか。

 いつも古いラジオやテレビを集めて、使える部品を取り出すところから始めます。新しいラジオを作るのが目標です。雑誌を脇に置いて、はんだごてを握り、徹夜しての作業。スピーカーから音が出たら、飛び上がって喜びました。本当は新しい部品を買ってきて作りたかったのですが、学生の身。お小遣いも、肝心な技術もなかったというわけです。
 
 ところで現代の最先端技術では、遺伝子にまでメスを入れ、人の性格まで作りかえるとか。ゲノム編集というそうですね。分子の配列をコピーし、クローン人間も作ることができるそうですが、こんな技術で、私たち人間を、清らかで優しい、しかも強くて優秀な人に作りかえることができたら、ずいぶん世の中は良くなるかもしれませんね。
 
 でも、誰が人の良し悪しを決めて、メスを握るのでしょう。ともすると、自分の心と気持ちを正せなくなる人類なのに。しかも多様な人々を受け入れながら、多様な価値観を柔軟に受けとめることができる人を作り上げる。その設計図?コピー元?どうするのでしょうか。
 
 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)
 
 私か大好きな聖書の言葉です。天と地とをお造りになった神さまが、私たちの人柄さえも、造りかえてくださると宣言します。「新しく造られた者」とあります。材料も部品も、元になるものが何もない、そこに造り出すという意味です。古いものの再利用ではありません。私たちのことを、新しい材料で新しく、です。しかも、人類の歴史の最初から、全部をご存知のお方が、そして世界の完成を目指しておられるお方が、優しい御手を動かしてくださるのです。
 
 「ラジオ少年だった君が、どうして牧師さんになったんだ?」と、当時の仲間がいぶかしがります。自分でも、そう思います。しかし、みなさんも、是非教会に行ってみてください。実は、教会に集まっている人たちは、みんなそうです。そしてあなたも。

 

 (「きぼう」7月号)
 
 

7月号

 

「出て行って(Go into)」

 

宣教局長 加藤 望

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)
  
 これは復活の主イエスが天にお帰りになる前に、弟子たちに遺された宣教命令です。あまりにも有名で、皆さんも耳にタコができるくらい聞いたかもしれませんね。先日、英語の聖書を読んでいてこの個所にきたとき、私はハッとしました。ゴー・イントゥとあるではないですか。ゴー・アウトではなくゴー・イントゥ! 出ていく行為が目的ではなく、どこに向かっていくのか、その対象が重要なのです。教会の外に出て行って福音を語らねばという義務感での宣教はゴー・アウトの宣教。あるいは積極的に御言を語る一方的宣教行為もゴー・アウトの宣教。出て行くこと自体が目的となってしまい、いずれも自己満足型の宣教になってしまう危険があります。

 ゴー・イントゥを直訳すると、「入り込んで」とでも言えるでしょうか。キリストの福音を伝える相手が抱える問題に関わり、ともに考え寄り添う、相手をよく知る、親しくなって相手のニーズを理解する……。福音の担い手にとって、相手に対するきめ細かい配慮が求められているのではないでしょうか。ある弟子化セミナーに出席したときのことです。シンガポールから来られた講師が、「ストップ・エバンジェライジング(一方的宣教は止めよう)、バット・スタート・ラビング・ピープル・イン・ザ・ネイム・オブ・ジーザス(イエスの御名によって人々を愛することから始めよう)」と言われました。そして、こんな例話が語られたのです。あるクリスチャンが、教会の特別集会に誘っていた友人を迎えに行くと、彼は子どもが熱を出していて行けないと断りました。その時あなただったら、強引に教会に連れて行きますか。そんなことはしないでしょう。残念そうに次の機会にと言って別れますか。多くの場合そうでしょう。その時、心の中で「サタンが働いて妨害した」と思いますか。熱心な方にありがちな反応かもしれません。でもむしろ、別れ際に「お子さんのために祈ってもよろしいですか」と尋ねてみたらどうでしょう。祈りを拒む人はいません。「イエスの御名によって人々を愛する」とはそういうことなのです。
 ゴー・イントゥ・オール・ザ・ワールド。あなたが置かれた世界で、福音を伝える相手が置かれている状況にあなたも飛び込み、その人に寄り添っていきましょう。あなたの存在を通して、神の愛が伝わって行くのです。

 
(「りばいばる」7月号)