聖書の光
胎児から成人までの一貫した教案誌(ワーク付)個人の学び家庭集会にも最適
大好評
四コマ紙芝居
-お詫びと訂正-
いつも教案誌「聖書の光」をご利用くださり、ありがとうございます。
現在、お使いいただいております第225号(2026年4~6月)の6月14日分の説教例(p.106)に、編集ミスがありました。
添付しました訂正版に、差し替えてお使いください。ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。
夕となり朝となった
タとなり、また朝となった。(創世記1:5)
「タとなり朝となった」(創世記一章)とは、神が世界から夕のような暗闇を追放し、光輝く朝を招来した時の言葉です。
神に造られた人間は、サタンに誘惑されて罪を犯し、暗黒の夕の世界にいました。神は人間に光輝く朝を迎えさせようと、光なるキリストをこの世界に送ってくださいました。キリストは、罪を背負い十字架で取り除き、三日目の朝に死を打ち破り復活し、光輝く朝をもたらされました。
私はこんな不思議な体験をしました。入学のために上京し大学の寮に入り、三人で六畳一間の生活をしました。同室者と半年間くらいは楽しく過ごしましたが、次第にそれぞれの本性が出てきました。
一人は毎晩酔っ払って夜中に帰る、もう一人は寮則を破り、夜中までスタンドを付けて本を読む、私はそんな彼らを許せず、怒りを爆発させました。寮におれず、夜になると町を徘徊しました。
ある夜、駅前で伝道している教会のグループに出会い、誘われて集会に出席しました。伝道者は、「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と、キリストの言葉を話しました。最後にその伝道者は、「どんな大魚でも命が無かったら小川に流されます。しかし、どんな小魚でも命があるなら大川も登ります。皆さんが罪悪に流されるのは命が無いからです。キリストはその命を求める者に与えてくださいます」と結び、決心を促しました。
私は、その晩、罪を悔いてキリストを借じました。すると、不思議なことに、わたしの心の闇が払われ光が満ちました。あの晩、わたしの心は「タとなり朝となった」のです。
神に造られた人間は、サタンに誘惑されて罪を犯し、暗黒の夕の世界にいました。神は人間に光輝く朝を迎えさせようと、光なるキリストをこの世界に送ってくださいました。キリストは、罪を背負い十字架で取り除き、三日目の朝に死を打ち破り復活し、光輝く朝をもたらされました。
私はこんな不思議な体験をしました。入学のために上京し大学の寮に入り、三人で六畳一間の生活をしました。同室者と半年間くらいは楽しく過ごしましたが、次第にそれぞれの本性が出てきました。
一人は毎晩酔っ払って夜中に帰る、もう一人は寮則を破り、夜中までスタンドを付けて本を読む、私はそんな彼らを許せず、怒りを爆発させました。寮におれず、夜になると町を徘徊しました。
ある夜、駅前で伝道している教会のグループに出会い、誘われて集会に出席しました。伝道者は、「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と、キリストの言葉を話しました。最後にその伝道者は、「どんな大魚でも命が無かったら小川に流されます。しかし、どんな小魚でも命があるなら大川も登ります。皆さんが罪悪に流されるのは命が無いからです。キリストはその命を求める者に与えてくださいます」と結び、決心を促しました。
私は、その晩、罪を悔いてキリストを借じました。すると、不思議なことに、わたしの心の闇が払われ光が満ちました。あの晩、わたしの心は「タとなり朝となった」のです。
(「きぼう」6
月号)
(「きぼう」アーカイブ)
新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。
ホセア書10章12節
宣教局長 加藤 望
新年度が始まり、2か月が過ぎました。私にとって2026年度は、まさに「新しい土地を耕す」年になりました。広島から沖縄の高原教会に転居し、新しい土地で、新しく出会った信徒のみなさんと共に、新会堂建築を目指します。
この御言葉の背景として、農作業が思い描かれています。イスラエルの農地は石地が多かったはずです。預言者ホセアの時代も、農夫たちが土地を耕すときには、まず石を取り除けることから始めたことでしょう。様々な障壁、不信仰の石(恐れや不安、この世の常識)を取り除けることを、私は肝に銘じています。農夫にとって、雨は天を司っておられる神の領域。「主はやがて来られ あなたがたを義で潤す」と同じホセア書10章12節後半に記されていますが、主が義の雨を注いでくださるのを待つのです。私たちも新しい土地を耕し、種を蒔き、主が義の雨を降り注がれるのを待つ、すなわち、主の義(救い)、豊かな実りを期待して待ち望むのです。
忘れてはいけないのは、種を蒔くことです。同じ12節前半には、種蒔きについて言及されていますね。「正義のために種を蒔く」のです。神の正義を求めて(己の正義ではありません)、信仰の種を蒔くのです。その種は主イエスが言われたように、御言葉の種と言ってもいいでしょう。神の約束の御言葉を信じて、心にしっかりと根付くように受け止め、豊かな結実を願いつつ待ち望むのです。やがて主の義の雨が降り注ぎ、私たちを潤し、豊かな実りを与えてくださいます。それは「慈しみ(ヘセド)の実」。主の変わらぬ慈愛の実りを、喜びの涙を流しながら刈り入れるのです。
新しい土地での新しい会堂建築。国際情勢は厳しく、すべてが高騰している今、会堂建築への道のりは困難が予想されます。けれども、「新しい土地を耕せ」と言われるお方を信じつつ、今こそ「主を求める時」であることを実感しています。必ずや主が、慈しみの実を刈り取らせてくださることでしょう。主の栄光が現されますように!
(「りばいばる」6
月号)
「りばいばる」アーカイブ
その輝かしい生き方を次世代に伝えて
「だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々、新たにされていきます。」(Ⅱコリント4:16)
去る3月の教団総会において、「新たな宣教と教会形成をめざして―受け継いだ実りを次世代の希望へ―」という、教団の改革案が決議されました。このような改革が迫られたのは、日本社会の少子高齢化という大きな変容によるものです。キリスト教界全体が著しくその影響を受けて教勢が低下し、これまで教会を担ってきた人々が高齢になり、世代交代を願いながらも、新型コロナの打撃が大きかっただけに、次世代の人々が定着できず、教会の新たな担い手が育てられてくることなく、存続が難しくなっている教会が少なからず起こっているからです。
この先どうなるのであろうと憂える中で、2月15日に上野教会において東京東部教区壮年会が行われ、上野教会員の中島總一郎兄が「輝かしき老年期」という題目で発題され、私は大きな励ましを得ました。年齢を重ねるごとに体力も思考も衰えるが、これまで積み重ねられてきた知恵と経験があり、老後は自由に使える時間がたっぷりとある。そして、何よりもクリスチャンは、上掲の御言葉にあるように、外なる人(外見の肉体)は衰えても、内なる人(霊的人格)は日ごとに新しく(成長)されてゆくと、老後の恵みにあふれた生活とその希望について、ご自身の体験を基に力強く語ってくださったからです。
だから、ご高齢の方にまだまだ頑張ってほしいと言いたいのではありません。ご高齢の方々が御言葉に親しみ、神の命に生かされて主と共に生き生きと歩んでおられることが、教会にとってどんなに大きな力であろうということに気づかされたのです。欠かさずに礼拝に出席し、多くのものをささげ、よく仕え教会を支えているのは高齢者の人たちです。要は、その魅力ある生き方、その信仰の継承ということです。その生きた信仰を、何としても次の世代に手渡してほしいのです。
私のこれまでの経験から言えば、信仰についての語らいは、年齢の隔てを超えるものです。あのマリアとエリサベトのように、年齢の隔てがあるがゆえに、日常の関心事にこだわらず、純粋に信仰の話ができるのです。よく高齢者によって戦争体験が小中学校の児童生徒に語られるように、どのようにして信仰に導かれたのか、その信仰の体験を若者に、小学生、幼児に語り伝えていただきたいと思うのです。
去る3月の教団総会において、「新たな宣教と教会形成をめざして―受け継いだ実りを次世代の希望へ―」という、教団の改革案が決議されました。このような改革が迫られたのは、日本社会の少子高齢化という大きな変容によるものです。キリスト教界全体が著しくその影響を受けて教勢が低下し、これまで教会を担ってきた人々が高齢になり、世代交代を願いながらも、新型コロナの打撃が大きかっただけに、次世代の人々が定着できず、教会の新たな担い手が育てられてくることなく、存続が難しくなっている教会が少なからず起こっているからです。
この先どうなるのであろうと憂える中で、2月15日に上野教会において東京東部教区壮年会が行われ、上野教会員の中島總一郎兄が「輝かしき老年期」という題目で発題され、私は大きな励ましを得ました。年齢を重ねるごとに体力も思考も衰えるが、これまで積み重ねられてきた知恵と経験があり、老後は自由に使える時間がたっぷりとある。そして、何よりもクリスチャンは、上掲の御言葉にあるように、外なる人(外見の肉体)は衰えても、内なる人(霊的人格)は日ごとに新しく(成長)されてゆくと、老後の恵みにあふれた生活とその希望について、ご自身の体験を基に力強く語ってくださったからです。
だから、ご高齢の方にまだまだ頑張ってほしいと言いたいのではありません。ご高齢の方々が御言葉に親しみ、神の命に生かされて主と共に生き生きと歩んでおられることが、教会にとってどんなに大きな力であろうということに気づかされたのです。欠かさずに礼拝に出席し、多くのものをささげ、よく仕え教会を支えているのは高齢者の人たちです。要は、その魅力ある生き方、その信仰の継承ということです。その生きた信仰を、何としても次の世代に手渡してほしいのです。
私のこれまでの経験から言えば、信仰についての語らいは、年齢の隔てを超えるものです。あのマリアとエリサベトのように、年齢の隔てがあるがゆえに、日常の関心事にこだわらず、純粋に信仰の話ができるのです。よく高齢者によって戦争体験が小中学校の児童生徒に語られるように、どのようにして信仰に導かれたのか、その信仰の体験を若者に、小学生、幼児に語り伝えていただきたいと思うのです。
(「りばいばる」視6
月号)
(「りばいばる」アーカイブ)
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