教育局


 説教勉強会

 
 

CS研究会、CSネットワーク

 
次世代ワーキンググループ
 

視聴覚

聖会の説教などのCD、DVD販売の注文

聖書の光

胎児から成人までの一貫した教案誌(ワーク付)個人の学び家庭集会にも最適

聖書の光の注文

〈お助け投稿コーナー〉

 

 

奥琵琶湖キャンプ場


琵琶湖のほとりにあるキャンプ場

宣教局



 
平和の祈り
 

4月号

 

「畏れる」を知らない時代でよいのか

 
「主を畏れることは命の源 死の罠を避けさせる」(箴言4:27・新共同訳)
 
 朝日新聞(2017.2.3)で鷲田清一氏が書いた「折々のことば」を読み、私は久し振りに新聞の切り抜きをしました。その記事の冒頭には、小説『沈黙』の著者である遠藤周作の言葉が引用されています。それは、次のような一文です。「畏(おそ)れると恐れるとのちがいを若い人は知っていない」。
 
 私か注目したのは、この遠藤周作の言葉を踏まえて、鷲田氏が「若い人というより時代の問題なのだと思う」と書いている点でした。
 
 まわりの人を無視するように自己中心にふるまい、自分を正当化する、その傍若無人ぶりを指摘しているのでしょう。あたかも自分が神であるかのような態度に、「『畏れる』を知らない時代」を見たのだと思います。
 
 確かに、毎日のように報道される殺傷事件の多くは、身勝手で、自分の都合しか考えないことで起きています。「畏れる」を知らないことが原因なのです。世界で繰り返される戦争やテロも同様です。そして、畏れを知らない人たちの行為が、至る所で「恐れ」を生じさせ、私たちの心に、究極の恐れである「死」を予感させています。
 
 私は子どもの頃、学校の帰り道で犬にかまれたことがあります。そのせいか、いまだに心のどこかに犬をこわがるところがありますが、このように、それらは、突然襲われた時に沸き起ってきた恐怖、あるいは、想像を絶するような自然災害に遭遇した時の恐怖心も含め、だれもが経験している「恐れ」を呼び起こし、「死」と直結させ、私たちを支配してしまうのです。
 
 それでは、その「恐れ」から逃れるためには、どうしたらよいのでしょう。
 
 それは「畏れる」ことです。「畏れる」とは、自分を圧倒する存在と出会うことであり、その聖なる存在に接して、自分の罪深さを知り、その前におののくことです。
 
 人が畏れるべきは神です。人が神を畏れ、神を礼拝する時、悪夢から覚めるように、傲慢さから解放されるでしょう。
 
 それだけではありません。その罪が、主イエスの十字架のあがないによってゆるされ、復活の力によって、死に勝つ信仰が与えられ、何の恐れもない生き方ができるようになるのです。

 

 (「きぼう」4月号)

主なる神はわたしの力

「視-過去を 今を 未来を」は、新教団委員長 島津吉成師(辻堂教会牧師)の就任に伴い、 5月よりタイトルを一新してお届けいたします。
 

信仰による義人は生きる

 

前教団委員長
中西 雅裕

 
「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」 (ローマ1:17)

 
 3月にもたれた第54回教団総会において、新しい教団委員長が立てられ、新年度の歩みを始めました。ルターによる宗教改革から500年となる今年、前身の東洋宣教会から、東洋宣教会ホーリネス教会として歩みを始め、ちょうど100年となります。新しい力を得て、歩み出す私たちでありたいと願います。前教団委員長としてのこの4年間の歩みを、祈りとともにお支えくださり、心から感謝いたします。1年目は「共に」、2年目は「喜んで」、3年目は「主なる神は私の力」を掲げ、主に信頼し、信仰によって主の御心に「生きる」(4年目)、を御言葉を通して与えられた主からの光(キーワード)として、教団委員をはじめ、同労者の先生方とともに進んできました。主よ、何故でしょうか……と問わざるを得ない、出来事や進展を前に、いつも立ち帰らされるのは、ハバクク書の御言葉でした。「義人は信仰によって生きる」。教団委員長の任を受けるに当たって、主から与えられた御言葉です。この主への信頼なくては、歩み得なかった日々でもあります。その中で、主は希望を見せてくださいました。(ユースジャム等における)青年たちの霊的成長、(牧師先生方のメッセージの研鑽により)御言葉に整えられていく各個教会、主からの知恵をいただき展開されるさまざまな伝道、国内外における協力関係(宣教協力)……主の御前に生きる、主の聖徒がいるかぎり、主のみわざは前進します。日本ホーリネス教団を日本の地に置いていてくださる主は、大いなる期待を持って私たちの教団を用いようとしておられるのだと肌身に感じた4年間でした。これからも、主のみわざは進むでしょう。「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる」(ハバクク3:18~19a)。新教団委員長、新しく立てられた教団委員と「これを琴に合わせ、聖歌隊の指揮者によって歌わせる」とあるように、ともに心を一つにして賛美し、告白する者でありたいと思います。教団とは、ともにそれができる共同体なのです。これからも、ともに喜んで主なる神は私の力であると主に信頼をし、信仰によって主の御心に生きる教団の一員でありたいと願っています。ありがとうございました。

 
(「りばいばる」4月号)
 

4月号

 

「成長させて下さる神」

 
東京聖書学院長 錦織 寛
 
 

 「だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである」(Ⅰコリント3:7)。

 ひとりの人が育つということは、とても大きなことだ。その背後に多くの祈りがある。多くのささげものがある。多くの励ましがある。また、多くの人の痛みを伴った叱責がある。そして、多くの愛と忍耐がある。多くの目がひとりの人に注がれ、多くの人の手がひとりの人に伸ばされている。そのような中でひとりの人が育っていく。ゆっくりゆっくり、またときにはびっくりするほど急激に、変わっていく。ひとりの人が育つということは、何と大きな喜びだろうか。ひとりの親として、牧師として、また聖書学院の教師として、それ以上の喜びはない。自分の関わりの中でそのことが起こってくることも、また自分の手を離れて、数年ぶりに再会した人の成長ぶりに驚かされることも、とてもしあわせなことだ。

 自分自身もまた、自分で気づいている以上に、多くの人の関わりの中で、育てられてきたのだと思う。私を受け入れ、励ましてくれた人がいた。私に期待し、厳しく叱ってくれた人がいた。何があっても、黙って受け入れ、祈ってくれた多くの人たちがいた。そして、誰よりも、教会の主であられるお方が目を注いでくださって、今の私が造られてきた。主の変わらないご真実がそこにあった。何度裏切られても信じ続け、私が主の御手の中にとどまり続けるときに、どんな者になりうるのかという、その成熟した私の姿を望み見続けてくださっているお方がいてくださる。自分はこれからもそのような多くの愛と信頼と恵みの中で育てられていくのだと思う。
 
 しかし、同時に、次の世代を育てなければならない立場になって、育てることの難しさを覚えることがある。大きな心の痛み覚え、自らの無力さに打ちひしがれることがある。あのときこうしていれば、このときこうしていればと、後悔で心がいっぱいになることがある。主に対して、また教会に対して、申し訳なくて顔を上げられない思いになることがある。祈りが祈りにならないときがある。
 
 それでも、主は教会に魂をゆだね、また聖書学院に献身者を託してくださっていることにとても厳粛な思いにさせられる。いろいろな課題や弱さを抱え、また同時に大きな可能性をもった主の器たちだ。主はあの十二弟子を選ばれたように、私たちを選び、また彼らを選んでいてくださる。この人たちともう一度、主の御前に出て行きたいと思っている。私自身も彼らを育てる働きに関わりながら、育てていただきたいと思っている。

 
(「りばいばる」4月号)

デッドリンクなどがありましたらお知らせ下さい。

4/22 
「聖書の光」説教構造案
4/6 
視、きぼう、りばいばる更新

東京聖書学院


 

【携帯電話からも閲覧できます】

東京聖書学院後援会

教区リンク


 

LINK