教育局


 説教勉強会

 
 

CS研究会、CSネットワーク

 
次世代ワーキンググループ
 

視聴覚

聖会の説教などのCD、DVD販売の注文

聖書の光

胎児から成人までの一貫した教案誌(ワーク付)個人の学び家庭集会にも最適

聖書の光の注文

 
 

奥琵琶湖キャンプ場


琵琶湖のほとりにあるキャンプ場

宣教局



 
平和の祈り
神の宣教に仕える教会
逆転の神を見上げて ―たくましく、しなやかに―

 

あなたは愛されています 

教団委員長 島津吉成

 
 今年度は、「『神の宣教に仕える教会』逆転の神を見上げて ―たくましく、しなやかに―」を標語に掲げて進んでいきたいと願っています。神は御国の完成を目指して、今も力強く宣教の働きを進めてくださっています。私たちはその神を見上げて、「主よ、あなたの宣教の御業のために私たちを用いてください」と祈りつつ、今、この時代の中で、それぞれの場にあって、神の宣教に仕える教会を形成していきたいと思います。

 そのための第一歩として、まず私たちが神をどのように理解し、受け止めているか、ということから始めたいと思います。「あなたにとって、神さまはどのようなお方ですか」ということです。神さまは大きなお方ですから、いろいろな受け止め方、表現の仕方があると思いますが、やはり一番大切なことは、「神は愛なり」ということでしょう。
 
 テーオドール・ボヴーという人が牧会ということについて、こう書いています。「一人一人に向かって、神の国の一員として語りかけ、キリストが彼を愛していることを知らせる、これが牧会である」(「魂への愛と慰め」)。これは、私が大切にしたいと思っている牧会についての言葉です。「キリストが私のことを愛してくださっている」、そのことを受け取ることができたら、神の子たちは健やかに育ち、教会は健全に成長・成熟していくことができるというのです。
 
 キリストが私のことを愛してくださっている、これはよくわかっていることのように思いますが、実はそうではない、とヘンリ・ナウエンは言います。「自分が、一切の条件なしに、限りなく愛されているということを知っている人は、本当に少ないのです」(「イエスの御名で」)。私たちは、自分でいろいろな条件を作ってしまいがちです。そして、その条件に届かない自分に失望し、そんな私は神さまの愛から外れてしまっている、と思ってしまうのです。また、自分の心の中にある醜いものを、こんなものがあると神さまは愛してくださらないと思って、自分の心にふたをして隠そうとします。そうすると、神さまとは表面的な交わりしか持てなくなってしまいます。
 
 「あなたは愛されています。何も恐れることはありません。神は愛をもって、あなたの心のもっとも深いところをかたち造られ、あなたを母の胎の中で組み立てられたのです」(詩篇139:13参照)(ヘンリ・ナウエン「イエスの御名で」)。この言葉を、この一か月、味わってみていただけますか。きっと素晴らしいことが起きると確信しています。
 
(「りばいばる」5月号)
 
 

5月号

 

さあ、思い切って教会へ

 

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)

 

 キリスト教の聖者の一人、アウグスティヌスという偉大な神学者、思想家は、その著書「告白録」の中で「人間は神の中に安らうまでは安らぐことはない」という言葉を残しています。

 

 考えてみてください。実際、私たち人間は何をしても満たされない空虚な心を内に持っていはしないかと言うことです。外見では笑顔で素敵な人の心の中も、そうでない人の心の中も実は…そうなのではないでしょうか。ある人は真理を求めて学問を究めようと努力します。ある人は、富や名誉が人の幸福と思い、飽くなき追及をする人もいるでしょう。

 

 いやいや、そんなつまらないことより一回きりの人生楽しまなきゃと酒とギャンブル、性欲の欲望に捕らわれる人もいます。誘惑に溺れる場合は本人のみならず、周囲の家族や友人をも巻きこんで混乱を来し、見過ごしできない問題ともなり得ますでしょう。

 

 聖人といわれたアウグスティヌスも、実は若い時期、肉欲に溺れ、名誉欲に駆り立てられた生活をし、また、他宗教にも心動かされていた時期がありました。ところが、30歳代の時に、それまで追い求めてきたものが空しく、何と移り気で、はかないものであるかということに気づかされたのでした。

 

 そのような時に、神を求める人は幸いです。彼は幸いなことに彼の母モニカの忍耐深い祈りと信仰に助けられて、神だけが満たすことのできる平安な心が与えられ、その後の彼は大いに変えられていったのでした。

 

 聖書の中でイエス・キリストは言います。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と。イエス・キリストは「神のもとに行く道はこれだよ」と教えたのです。

 

 「私の十字架の死によって、誰でも神の豊かさの中に憩うことができるのだよと」と紹介したばかりか、その上、神の御子としてのご自身の命を惜しげもなく投げだしたのです。教会に掲げられている十字架はその意味があるのです。

 

 あなたも思い切って教会に行ってみませんか。あなたの心の隙間にこの世の何をもってしても満たされない平安と豊かさが宿るでしょう。
 

 (「きぼう」5月号)

5月号

 

 
「神の宣教に仕える教会」逆転の神を見上げて
―たくましく、しなやかに―

 
教団委員長 島津 吉成
 
「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。」(ピリピ1:12)

 新年度の教団施政方針が教団総会で承認され、テーマは「神の宣教に仕える教会」、副題として「『むしろ』という御業を行ってくださる神を信じ、今を生きる。たくましく、しなやかに」、年間聖句はピリピ1章12 節となりました(内容については8頁をご覧ください)。新年度、私たちはこのテーマとみ言葉を旗印として掲げ、みんなで力を合わせて進んで行きたいと思います。そして、教団主催で行われる夏季聖会のテーマは、施政方針の副題を短くして、「逆転の神を見上げて―たくましく、しなやかに―」とさせていただきました。

 私たちは今、社会的にも、経済的にも、政治的にも、とても困難な状況の中に置かれていると思います。困難な課題を前にして、立ちすくむ思いになってしまうこともしばしばです。パウロがピリピ人への手紙を書いたときも、まさに困難な状況の中に置かれていたときでした。彼は捕らえられ、殉教も覚悟しなければならない状況の中に置かれていたのです。彼が自由の身であったならば、伝道はどんなに前進したであろうかと思います。しかし、彼はピリピの教会の人たちに書き送るのです。「わたしの身に起った事」とは、言うまでもなく、彼が捕らえられているということです。それが「むしろ」
 
 福音の前進に役立つようになった、と言うのです。彼はその理由として、彼が捕らえられることがなければ、おそらく福音を聞く機会がなかったと思われる兵士たちに福音を伝えることができたこと。また、彼が捕らえられることによって、教会の人々が奮起して立ち上がり、勇敢に神の言を語るようになったこと。さらに、パウロに対するねたみの思いからであったとしても、ともかくその人たちによっても、キリストが宣べ伝えられていること、などをあげています。

 神は、人間的な目では悲観的なことしか予測できない状況の中で、「むしろ」という逆転の御業を行ってくださるのです。このお方が今も働いて宣教の御業を進めてくださっているのです。ですから、私たちはこのお方を見上げて、進んでいこうではありませんか。そのとき、私たちはたくましく生きることができます。逆転の御業を行ってくださるお方が共にいてくださるのですから、「われ弱くとも恐れはあらじ」(新聖歌505)です。また、しなやかな心を大事にしましょう。パウロが伝道旅行の途中、アジヤ(東)に行こうとしたとき、主はそれを止めてマケドニヤ(西)へと導かれました。彼が自分の計画に固執していたら、ヨーロッパ伝道の道は開かれなかったことでしょう。私たちは、しなやかな心で主に従っていきたいと思います。主はそこに、逆転の御業を行ってくださいます。
 
(「りばいばる」5月号)

東京聖書学院


 

【携帯電話からも閲覧できます】

東京聖書学院後援会

教区リンク


 

LINK