宣教局
Level1セミナーの内容の中から、より信徒が実践できるものを抽出し、コンパクトにお届けいたします。具体的に以下の2つを学びます。
①コーチング(愛をもって人に接する姿勢)②福音を周りに伝えるための4つのステップ(手順)
Level1を学んだ方々でT&Mを実施している方を対象のセミナーです。親教会から子教会、または外に増え広がるスモールグループの発展的な宣教の広がりを学びます。
T&Mで取り扱われている証しの方法、三つの円を用いた伝道、エバンジェキューブを用いた伝道、訪問伝道、帰納的聖書研究などについての実践的な学びと訓練を致します。どなたでも参加できます。
主イエスを深く愛して
安息日が終わると、マグダラのマリア。ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った。(マルコ16:1~2)
イースターの朝、イエスさまに付き従ってきた女たちは、香料を持って墓に向かいました。彼女たちは前々日、ゴルゴタでイエスさまの十字架の死を、最後まで見続けました。
なぜ彼女たちは、気が遠くなるような残酷な場面を見続けることができたのでしょう。
それは、彼女たちが『主を深く愛したから』ではないでしょうか。では、なぜ彼女たちは主を深く愛したのでしょう。『多くの罪を赦された者は、多く愛する』、これは、イエスさまのお言葉です。主を深く愛した彼女たちは行動的です。安息日が終わるやいなや、早朝、墓に向かったのですが、墓の入り口の石をどのようにして取り除けられるかについての見通しはありません。軽率と言えば、その通りなのですが、しかし彼女たちは、一刻も早くイエスさまの亡骸に、香油を塗りたいと考えたのです。
そんな彼女たちが見たものは、入り口の石が取り除けられた空の墓でした。恐れる女たちに、御使いがイエスさまの復活を告げました。最初に復活の事実を知らされたのは、弟子たちではなく、十字架のもとにとどまり続けた女たちでした。復活の福音は、女たちから、恐れと悲嘆にくれる弟子たちに伝えられたのです。
また、復活のイエスさまが最初にご自身を現されたのは、ペトロでもヨハネでもなく、悲惨な過去から救われたマグダラのマリアでした。多く赦されたマリアは、イエスさまを深く愛しました。イエスさまなしでは生きられないマリアに、復活のイエスさまは、まず会ってくださったのです。そして主は、私にも出会ってくださり、多く赦してくださいました。主に愛され、主を愛する者としていただき、圧倒的な福音の恵みに生かされています。
ひとりの人を求めて
教団委員長 佐藤 義則
陽が沈み暗くなる前に、羊飼いは羊を引き連れて囲いのある家に帰って行くのです。ところが、一匹が見当たりません。羊飼いは、いなくなった一匹の羊をただひたすら求めて、すでに暗くなった野山を見つけるまでは、さまよい捜しつづけるのです。
今日も、われらの主イエス・キリストは、失われたひとりの人を求めて捜しつづけておられるのです。本来、人は神に向かって神中心に生きる者でした。しかし、アダムとエバの堕罪以来、イザヤ書五三6に、「私たちは皆、羊の群れのようにさまよいそれぞれ自らの道に向かって行った」とあるように、全く正反対の自己に向かって生きる者となったのです。人は神から遠く隔てたところで、たとい物質的に恵まれていたとしても、真の平安は得られず、時々心の中を通り抜けてゆく虚しさにさらされながら生きているのです。
教会が建っている街に、私たちの生活の周りには、主が捜し求めておられるひとりの人がいるのではないでしょうか。私もかつていなくなったひとりであり、神に見いだされた者です。私たちがそのようなひとりのために祈り関わって行く中で、主に見いだされ主の救いにあずかって行くのです。
新しい年度を迎え、教会にあって、一人のキリスト者にあって、そのひとりの人に気づかされて先ず祈り、勇気をもって声をかけ、関わりを持たせていただきたいと思うのです。この4年にわたる新型コロナ感染によって、教会はどんなに疲弊してしまったことでしょうか。しかし主は、ひとりの人が主イエス・キリストを信じて神のもとに立ち返るなら、天において大いなる喜びがあると主は言われました。このきよい喜びがきっと私たちの教会をよみがえらせ、立ち上がらせてくださることを、私は信じてやまないのです。
伝道者として召されて
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるの神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わなでしなさい。」(ピリピ二13、14/口語訳)
4月は桜がほころび、真新しい制服をまとった新入生が行き交う初々しい季節です。しかし、どういうわけか、私がこの4月に思い浮かぶのは、どんよりとした雲の浮かぶ仙台で予備校生活を送った頃のことです。現役で合格した友人が同じ仙台にいて、気晴らしにと言って新入生歓迎会に誘ってくれましたが、喜びはしゃいでいる学生たちを見て、一層落ち込んで帰ってきたのを思い出します。しかし、この仙台での一年が決して無駄ではなかったと思えるのは、入信して3年目でした。今までになく聖書を読み、あの暗がりの自室で主の語りかけを聴き、最初の伝道者としての召命の御言葉をいただいたことです。翌日、予備校授業を終えて教会を訪ね、「献身したいのです」と言ったところ、当時、出迎えてくださった山口幸子先生が、「先ずあなたは大学に進学しなさい」と言われました。その後、同じく母教会の吉津牧師に相談したところ、「あなたは伝道者にならない方がいい」と言われました。「主の御心ではないのか」とうなだれて部屋を出た時に、副牧師だった石沢先生が小声で私を呼び寄せて、「私は、あなたのために祈っていますから」と言ってくださったのを忘れることができません。
その後進学して、4年生になる3月、KGKの修養会があり、その帰りの西武新宿線の車中、吊革に掴まりながら、学生の信仰を指導するKGK主事から、「君は牧師に向いていると思うから、祈ってみたらどうだろう」と言われ、忘れかけていた献身の思いを再び見直す機会となりました。その半年後、食を断ち切実な思いをもって祈った時に、冒頭に掲げたピリピ2:13、14が与えられ、伝道者として召されていることを確信したのです。くしくもそれは、4年前に山口幸子先生が私のために祈ってくださった時に開いてくださった御言葉でした。その時、先生は決して反対していたわけではなく、もっとも良き道を通ってそこにたどりつけるように祈ってくださっていたのだということを知りました。
私は、誰よりも先にそのことを告げようとそのKGK主事と報告しましたが、「召された以上、生涯かけてその召しを全うしたいものですね」という控え目な餞はなむけの言葉をいただきました。その言葉は私にとって、時間をかけて召命の経験を深めるものとなりました。