総会・家族年会から新しく歩み出す教団
教団委員長 郷家一二三
3月に日本ホーリネス教団は第49回教団総会を開き新年度の方針を決定した。また5年ぶりに牧師とその家族とが横浜に結集して家族年会を持った。
特に家族年会では、教団は神の家族であることを強く再確認した。女性教職会総会では山脇正子師が女性教職のあり方を語られた。OMSの代表を迎えての夕食会では、日本で奉仕する宣教師が紹介された。また教団に新しく加入する3名が紹介され歓迎を受けた。二日目の年会講演は、柴又教会のご出身で学院卒業の、本郷台キリスト教会主任牧師池田 博先生・登喜子先生ご夫妻を講師にお迎えし、伝道者としての本質的な学びを共有した。会場を神奈川芸術劇場ホールに移しての111周年記念集会は本当に素晴らしかった。全国各地から集う姿をDVD が映し出し、教団の一体感を強く感じさせた。合同聖歌隊も澄んだ声で主への賛美をささげてくださった。特にジャムバンドが結成され、高橋 泉師が震災後に創られた曲が歌われ、また加藤久美子師がゴスペルフラで賛美された。圧巻だったのは牧師の子どもたちの、ステージいっぱいになっての賛美で、これは本当に感激した。三日目の追悼記念会では6名の召天された伝道者を思い、松木従子師が、悲しみながらも、そのままで神に信頼できる光を示して下さった。聖別派遣式では隠退される6名の方々に感謝状を贈り、5名に按手して正教師辞令を渡し、4名の新勧士を紹介した。そして一人ひとりの名まえが呼ばれ、主からの任命を受けて、全国に派遣されて行った。
どうか各教会は、任命された牧師家族とともに一丸となって、伝道と教会形成に励んでいただきたい。主が新しい歩みを祝福して下さいますように。
きぼう
5月号
偽りのない
「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)
石の彫刻にまつわる面白い話を聞いたことがあります。英語で
「偽りのない」とか「真実の」を表すシンシア(sincere)という言葉がありますが、語源をたどるとラテン語の「シネセラ」という言葉からきていて、それは「蝋(ろう)無し」という意味だそうです。芸術作品としての石の彫刻が完成した時、制作者は「これは百%石の彫刻です。決して蝋でごまかしてはいません。つまり、シネセラ(蝋無し)です」と言ってその作品を差し出したと言われています。食品で言えば「添加物無し」と言ったところでしょうか。
彫刻師の中には、欠損してしまった部分や細工の難しい部分を柔らかな蝋でごまかす者がいたのでそういう言葉が生まれたのでしょう。
しかし、何事につけ、人間はパーフェクトな自分を誇示します。時には見栄を張ったり、背伸びしてまで実際以上に見せようとします。
聖書には「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」という句があります。もし、私たちが人の目より神の目に心を用いるなら私たちの人生は大きく変わるかも知れません。
同じ指紋の人が世界に二人といないように、神さまは人それぞれに唯一無二の個性を備えて造られました。誰かと比べた自分ではなく、ありのままの自分を神さまの賜物として受け入れられたら、どんなに自然体で生きられるでしょう。
イエスさまの弟子の一人、パウロという人は自分の才能や境遇を自慢する人でした。それが、イエスさまと出会って以来、自分の弱さをすら誇る人間に変わりました。
私も人の子、流行を追う心理もわかります。昔は日本人女性の美しい髪の色を「髪はガラスの濡れ羽色」と言ったものです。それがいつの間にか「髪は醤油(しょうゆ)の煮染め色」になりました。それが今、そんな人たちの髪を何の違和感もなく見ています。要するにそれが流行というものなのですね。流行も多様化した価値観の一つというわけでしょうか。
しかし、そういう時代であればこそ、「心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」(Ⅰペテロ3:4・新改訳聖書)との聖書のお勧めを忘れてはならないと思います。
Yours sincerely 《敬具》
4月号
老いも死もまた善し
「わたしは…走るべき行程を走りつくした」(テモテヘの第二の手紙4:7~8)
寒い朝、私は手のひらにある小さな錠剤を見つめていました。やがて意を決し、私はそれを口に放り込み、用意した水で喉の奥に流し込んだのです。それは、初めて血圧降下剤を飲んだ朝のできごとでした。
血圧降下剤。妻から「飲み始めたら止められない」と聞いていた薬。「もう止められない」と思ろと、それを飲むにはそれなりの決意が必要でした。それに、「私も血圧降下剤のお世話になる年になったのか」と思うと感慨深く、それでしばらく手のひらの薬に見入ってしまったのです。
老いとか死と言ったものは、私たちにとって忌まわしいものに感じられます。しかし、最近、私はそれもまた悪くはないかなと感じています。それほど、私たちの生きている「この世」には苦しみや悲しみ、悩みやが満ちあふれているのです。
もちろん、だからといって私は「みなさん早く死にましょう」などと死の勧めをしているわけではありません。どんなに苦難が多く、つらい人生であっても、私たちは生かされているこの時を精一杯生きなければなりません。それは、私たちを愛し、大切に思ってくれている家族や友人、そして、神がいるからです。
聖書にはこのような言葉あります。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るぺき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(新約聖書テモテヘの第二の手紙4章7~8節)。
これはパウロという人が、自分の死を意識して語った言葉です。彼は、「この世」では本当に苦労をした人です。けれども、そのような苦難の多い人生であっても、神を信じて精一杯生きてきた私の人生は幸いであると言うのです。それは、たとえ苦難の多い人生を生き、老いて死を迎えることになっても、神は私を神の国に温かく迎えてくださり、そこで慰めといつくしみ、喜びと幸いという義の冠を与えてくださるからなのです。
今は苦難の多い時代。苦しいことや悲しいことがいっぱい起こってくるでしょう。しかし、たとえ苦難が多くても、神を信じて人生を精一杯生き抜くなら、必ず神からの慰めと憩いを得ることができます。神を信じて精一杯生きてこそ、「老いも死もまた善し」となるのです。
3月号
時にかなって美しい
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)
ニューヨークのハドソン川に、ジョージ・ワシントン・ブリッジ」という大吊橋があります。その壮麗な建造物を題材に、W・シューマンが、1950年に吹奏楽のオリジナル曲を作りました。高校時代、所属していた吹奏楽部の定期演奏会でこの曲を演奏したのですが、初めて楽譜が渡され各パートで練習を始めた時には、耳障りな不協和音と馴染めない奇怪なリズムに「なぜ、こんな曲を選んだのか」とぼやいたものでした。それでも、少しは曲を理解したいと思い、指揮者用のフルスコアに付記された解説を読んでみると、そこには、飛行機の上から見下ろした橋の印象を写実的に描くとありました。
パート練習から合同練習に移る最初の日、用事で遅れ、練習場に急いでいた私の耳に「ジョジ・ワシントン・ブリッジ」が聞こえてきたのです。私は感動のあまり鳥肌が立ちました。橋の偉容が目前に鮮やかに描かれたからです。橋上をにぎやかに往来する数多の車。幾何学的で繊細な橋の優麗な構造。上空から橋を見下ろし、次第に高度を下げ、橋に接近するや否や、橋が加速して背後に遠のいてゆくさま。そして最後に、あの「展覧会の絵」のキエフの大門を思わせるような壮大な橋の情景を描いて終わるのです。心の中で拍手喝采し、目には涙があふれてきました。
私たちの人生には、幸福に満たされる日もあれば、災いとしか思えないような時もあります。しかし、神はいずれも最善最良の日として私たちに与えてくださっているのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」からです。
単に偶然とか、積極思考ということではなく、「美しい」との言葉通り、その絶妙さ、精緻(せいち)さは芸術的でさえあるのですが、もし神を認めず、神のなされる「最善」を受けとめられないなら、それを知ることができないばかりか、目の前に起こってくる出来事に振り回されることになってしまいます。
しかし、パート練習では無味乾燥のように思えた曲が、実はすばらしい曲であったように、ある時はつらく、悲しいことがあったとしても、神の「美しい」ご計画を信じることにより、平安を保ち、またある時はその一端を垣間見て感動し、これからも導いてくださるとの希望をもって歩ませていただけるのです。
2月号
主の言葉を思い出した
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる」(マタイ4:4)
朝の通勤時間に三歳くらいの女の子が広い学校の敷地で遊んでいました。そこへ男性が通りかかりました。するとその女の子が、「おはよう」と声をかけたのです。恐らく二人は面識がなかったと思います。なぜなら、その男性はそのまま行き過ぎようとしたからです。ところが、女の子は、もう一度「おはよう」、さらに「おはよう」と声をかけたのです。さすがに男性は小さな声で「おはよう」と返事をしました。
女の子は満足げでレたが、男性も電車に間に合うように急いでいたでしょうし、仕事のことを考えていたかも知れません。普段ならまだしも、こんな時、見知らぬ女の子にあいさつされるなどと思いませんから、黙って行き過ぎようとしたと思います。しかし、いずれにせよ、この挨拶が彼を「本来の姿」に引き戻したことは確かです。
聖書にもイエスの言葉で我に返った人の記事があけます。
イエスが捕えられ大祭司の邸宅へひっぱって行かれた時、一番弟子のペテロは遠くからついて行き、中庭にいた人々の中にまぎれ混みました。ところがしばらくして、そこにいた人が気づき、「この人もイエスと一緒にいました」と告発に羊子。ペテロは思わず「わたしはその人を知らない」と打消すのですが、同じようにして、結局三度も裏切りの言葉を言つてしまうのです。その直後、鶏が鳴き、主イエスが振りむいてペテロを見つめられた時、彼は「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」との主のお言葉を思い出し、外へ出て、激しく泣いのでした(マタイ26章他)。
実は、ペテロはイエスが捕えられるほんの少し前、「わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と言ったばかりでした。ところが、主が逮捕された時、彼は恐れにつつまれました。その恐れが、命がけで従っていこうとした彼の人生を根底から覆したのです。しかし、それに気づかせ、人生の方向を取り戻させたのがイエスの言葉でした。
私たちの周りにも我を忘れてしまうような出来事が起こります。信頼を裏切られたり、怒り、病に打ち負かされる時、誰かがいやしてくれるのを待つこともできるでしょう。しかし聖書に耳を傾けてみてはどうでしょう。心の深層に届くイエスの言葉は、あなたを人間本来の姿に引き戻してくれるでしょう。
1月号
しののめを呼び覚ます
「わたしはしののめを呼びさまします」(詩篇108:2)
新年に神の祝福があびますように。 「初日の出」。元旦に厳粛な思いで朝日を待つものですが、困難な時代だからこそ、深い思いをもって新しい年をお迎えになったことでしょう。
聖書でも日の出がいくつか描かれていますが、その中で、ある詩人が描く、少し変わった日の出の表現を紹介いたします。「わたしはしののめを呼びさまします」(詩篇108:2)です。「しののめ(東雲)」とは、やってくる朝日に照らされる東の空の雲のことです。どこが変わっているかというと、「わたし」すなわち詩人がしののめを呼び覚ますというところです。おもしろいと思いませんか。普通はやってくる朝を待つのですが、この詩人は、自分が朝を来たらせると言うのですから。
詩人のこの言葉は、その前節のこんな言葉から続いて語られます。「神よ、わが心は定まりました。/わが心は定まりました。/わたしは歌い、かつはめたたえます。/わが魂よ、さめよ。/立琴よ、琴よ、さめよ。/わたしはしののめを呼びさまします」。つまり、心を定めることが朝を来たらせるのです。どういうふうに心を定めたのでしょうか。「神を歌い、ほめたたえる」ことによってです。
詩人には、人生の暗闇にいるような思いがあったのでしょう。自分が不幸だと嘆いていたのです。そういう思いで生きていると、明るい朝の光も心の中までは届かず、重苦しい心のまま過ごす一日の始まりを告げるだけになります。しかし、詩人はそういう心を後ろに投げ捨てて、不幸と思われる事々の中にも神は最善を貫いてくださっていると信じると「心を定めた」のです。そうすると、周りはそれまでと変わらない闇であっても、自分の心の中から朝日が照り始めたのです。最善をなし続けてくださっている神をたたえ、暗さに逆らって光を作る生き方を習い覚えたのです。
やってくる朝日があなたの心の中まで照らしますように。神の光にかげりはなく、最善以下はなさいません。そう信じて朝日を迎えられますように。そう信じることにくじけないために、どうぞ教会を訪ねてください。神を信じ歌いたたえて朝の光を作り続けている私たちにあなたも声を合わせてくださいますように。
12月号
上から来られた方
「わたしは上からきた者である」(ヨハネによる福音書6:23~24)
人が全く助けのない孤立した状況に追い込まれた時、それを「四面楚歌」と言います。この言葉は、楚の項羽が咳下という場所で漢の劉邦の軍に囲まれた時、夜更けて四面の漢軍中から盛んに楚国の歌がうたわれるのを聞いて、楚の民がすぺて漢に降伏したのかと、驚き嘆いたという『史記』の故事に基づくものです。
私たちの人生も、このままでは孤立し、助けのない絶望の中に追い込まれていくのではないでしょうか。それを一変してくれるのは、四面が囲まれても決して包囲されない上からの援軍なのではないでしょうか。
主イエスは、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」と宣言されています(ヨハネ6:23~24)。
ここで主イエスは、私たち人間は「下から出た者」すなわち「この世」に属する者として、「自分の罪のうちに死ぬ」と言われています。この言葉のように私たちは、生まれながらの状態では、罪のうちに永遠の死を刈り取らなければならない存在なのです。この「罪のうちに死ぬ」とは、周囲を罪に囲まれ四面楚歌の状態で地上の生涯を歩むことであり、最後はその罪の中で死ぬこと、すなわち永遠に罪からの救い主と離別することを意味しています。
しかし、このような状況にある私たちを救うため「上から来た」方、すなわち、天の父なる神のもとから降りてこられた方がイエス・キリストなのです。彼は神の御子であられたのに、この地上に肉体を備えて生まれてくださったのです。しかもこの方は、人が刈り取らなければならない罪をご自分の身に引き受けて、十字架におかかりくださり、死の恐ろしさを味わい、死に打ち勝って復活してくださったのです。実にこの「上から来られた方」、すなわち救い主を信じる者は罪の中で死ぬことはないのです。クリスマスとは、この救い主がこの地上に来てくださったことをお祝いする日なのです。メリークリスマス!
11月号
天にある国籍
「彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある」ピリピ人への手紙3:19~20)
今年三月、かつて経験したことのない巨大地震、津波が東日本を襲い、かけがえのない尊い命が失われました。行方不明者を合わせ、その数は二万人とも言われています。被災された方々に謹んでお見舞いを申し上げます。
そのような深い悲しみの中にも日本は今、希望をもって立ち上がろうとしていますが、時として、私たちもかけがえのない大切な命を失い、深い悲しみの中にも一縷(いちる)の望みを抱いて歩み出そうとすることがあるものです。そのような時、「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)との御言葉は、私たちの目を天に向けさせ、不思議に生きる力を与えます。
国籍と言われても、ピンと来ないでしょう。日本は比較的恵まれている国だからです。しかし、内戦や貧困にあえぎ、劣悪な環境の中に生きている人たちにとって国籍の違いは生死を分けることさえあり、そのため、密入国、あるいは偽装結婚や賄賂を使って不法に他国籍を取得しようとする人たちが後を絶ちません。
この言葉が書かれた二千年前も同様でした。当時の世界を支配していたローマ帝国の国籍を持つことは、多くの恩恵にあずかることを意味していたのです。だからこそ使徒パウロは、天の国籍を持つ者こそが幸いなのだと語ったのでした。
確かに、イエス・キリストを信じ、救われた者に与えられる天国籍を得たとしても、この世に生を受けている以上、災いや悩みはあります。けれども、あえて申し上げますが、そのような時こそ、そして、死に臨む時においてこそ、天国籍にあずかっていることがどんなに大きな祝福であり、光栄であるのかがわかります。
災いや悩みの時に、そして、生涯を終えようとしている時、この世で得た権利は何の効力も発揮できません。しかし、天国籍を持つ者には希望があります。力があります。喜びがあります。救いがあります。だから毎日を感謝し、賛美をもって喜々として生きられるのです。
「どんな手を使っても獲得すぺきは天の国籍である」と聖書は言います。そして、それだけ価値のある国籍は、主イエスーキリストを信じることだけで得られと約束されています。
10月号
勝ちにこだわる
「すべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ人への手紙8:26)
プロ野球のペナントレースも最終盤。サッカーW杯の予選や五輪の出場権をかけた戦いもあり、毎日一喜一憂しています。ただ、読者の中には「勝負事には興味がありません」、「なぜ勝敗にこだわるんですか」などと言われる方もおいででしょう。しかし、そのようなあなたも、実は、「勝負の世界に生きている」のです。しかもそれは、絶対に負けてはならない、勝ちにこだわらなければならない戦いです。
と言われても戦っている感覚はないでしよう。でも、自分の無力さを感じたことはありませんか。屈辱感を味わったことがないでしょうか。また、思い煩いや苦悩に満ち、焦りや見えないプレッシャーに押しつぶされそうになって生活をしているとしたら、それはあなたがその「戦い」に敗北している証拠です。
そうです。誰もが、否が応でも、日常の生活に起こってくる様々な問題と戦わざるを得ず、勝っていかなければなりません。ところが、いくら背伸びをしたところでそれに勝ち続ける力などなく、簡単な相手を破っても、すぐに強敵が現れ、打ち負かされてしまう。それが現実です。
それではどうしたらよいのでしょうか。
聖書には、「すべての事において勝ち得て余りがある」、つまり、「どんな相手でも圧倒的な勝利を得られる」秘訣が書かれています(ローマ8:31~39)。
「患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣」といった、私たちの生活に関わる重要事が列記されています。それらは回避できない、戦っていかなければならない課題として、いつも私たちの前に立ちはだかります。
これらの難敵を向こうに回し、「これらすべてにおいて勝ち得て余りある」と聖書が言い切っているのは、「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)、神を味方につけて戦えるからなのです。
私たちは常に敗北を味あわされています。もし、勝ち続けられるなら、どんなにすばらしいでしょう。そのために、今こそ、神と敵対する立場を取るのではなく、自分の無力さを認め、神を受け入れ、神に頼り、神を味方にして、勝ち続けていく生き方をすべきなのです。
9月号
主にゆだねよ
「あなたのなすべき事を主にゆだねよ」(箴言16:3)
七月に海外の二つのニュースが新聞の一面を占める事態が起こりました。一つはノルウェーの連続テロ事件、もう一つは中国の新幹線事故です。ニュースを聞いた人々は、「まさか!」と同時に、「やはり!」という反応だったように思います。
敬意とあこがれを持つ文化国家での驚くような残虐な事件、世界中の知恵と技術を集めた鉄道の事故、これらのニュースは大きなショックを世界中に与えました。両者とも人間の知恵をあざ笑うかのように起こった事件でした。
人の知恵は、それがどんなに優れていても必ず欠けている部分があります。また、人間が立てる計画は、それがどんなに完璧に見えてもどこかで行き詰まる部分を秘めているものです。行き詰まりを感じている日本の国に、すばらしい指導者が現れて、すばらしい政策を実行したとしても、どこかで何かの弊害を生み出す事は避けられないでしょう。
では、どうせ何をしても行き詰まるのならば、最初からあきめて無気力に生きていくべきでしようか。そうすれば何が起きようと驚かないかもしれません。それとも、さらに完璧を求めてばく進して行くべきなのでしょうか。
無気力に生きることは虚無的に生きることです。そこには人生の喜びはありません。一方、完璧を求めて強行に前進することは勇ましい事ですが、挫折した時の苦痛は痛ましいものがあります。また心のゆとりがなくなり、周りを蹴散らし傷つける危険性があります。
聖書は両者の中間とも思えるような道を私たちにボします。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3新改訳)。
私たちのする事の結果を神にお任せするのです。そこから生まれるものは無気力ではありません。心の穏やかさです。結果はどのように出たとしても、私たちを愛してくださる神はベストの方向へと導いてくださると信じるのです。私たちは自分のできる範囲内でベストを尽くせば良いのです。私たちは結果を完全にコントロールする事はできません。それは神がなさる領域です。それを信じて歩む私たちは揺らがないのです。
8月号
真の神がおられる
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(使徒行伝17:23)
日本に来てから不思議だと思つているのは(ちなみに私は韓国人です)、日本人の宗教への熱心さです。至る所に神社があり、寺院があり、熱心に手を合わせている姿をよく見かけます。しかし、私の驚きはそこではなく、それぞれに願い事はあるのでしようが、だからといって、どんなものにも、時には何がまつってあるのかわからなくても祈つている、そのような行為に対して疑問を抱いてやまないのです。
聖書に、同じ疑問を持つた人が出てきます。使徒パウロです。彼が伝道のために訪れたギリシャのアテネに来た時、驚くような光景を目にします。日本と同じく、神々が至る所に存在し、まつられている神の名も知らないのに、人々が熱心に拝んでいたからです(使徒行伝17章)。
パウロは、そのようなアテネの人たちの熱心な宗教心に触れながらも、それが本当の信仰ではないことを指摘しました。すなわち、「どんな神かもわからないのに、拝んでいるのはおかしい」というわけです。そして、彼は、「あなたがたが拝むべき神はただ一人、真の神はただ一人しかいない。あなたが知らずに拝んでいる真の神を教えよう」と語り始めます。
仮に、神社や寺院で祀られている神々の中に、本物の神が一つあったとしたら、それ以外のものは本物ではないことになります。もし、「そのようなことを考えなくてもいい。そこに寺社があるから手を合わせるのだ」と言うのであれば、それはもはや信仰の行為ではなく、ただの習慣的な、気休めに過ぎない行為、あるいは文化的な行為と言わざるを得ません。そこに救いはありません。
聖書は、真の神がおられることを教えています。しかし、すぺての人間は罪があるために、真の神の存在がわからなぐなっているとも証言しています。ですから、神が、自然などの被造物を通してご自身を表されていても、また、神の御言葉である聖書を通してご自身をはっきりと示してくださっていても、真の神がわからず、それゆえに、知らず知らず、身近な神仏を拝んで、安心を得ようとしているのです。
パウロは言います。「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」。
あなたを救う、真の神を求めてください。
7月号
神の陰で憩う
「主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰」(詩篇121:5)
夏は強い日差しをさえぎる涼しい木陰を求め、そこに憩いたくなるものですが、そのように、私たちは日常的に「陰」を必要とし、様々な「お陰」で生活が成り立っていると思うのです。「おかげさま」は、感謝の気持ちや挨拶で用いられているのですが、もともと「陰」とは「神仏の偉大な陰」を指し、その庇護(おおい守る)を受ける意味として使われてきました。
原発の事故による電力不足で、家庭でできる節電、エコ対策として、「緑のカーテン」作りが各自治体で推奨されてきました。歴史的には、遮光や目隠し効果を目的にした物が古くからありました。日本の夏の風物詩には「すだれ」「のれん」といったものがあり、外国でもカーテン、ブラインド等が存在します。特にブラインドは、古代エジプトの初期王朝から使われていたそうです。
さて、旧約聖書の中に登場する、ユニークな預言者ヨナをご存じでしようか。隣国の女性スケーターとは全く無関係な無骨男です。
彼は神の意向に逆らい、そのことが原因で、船から投げ出されて魚に食べられてしまいます。魚の腹の中で悔い改めた彼は、再度使命を与えられ、敵国の首都ニネベヘ行き、神の命令に従って「四十日後にニネベは滅びるぞ」と警告して回ります。敵ですから、そのまま滅んでしまえばいいとヨナは思っていたようですが、神はそのようなヨナを「陰」によって諭します。
強い日差しが容赦なく彼に照りつけていた時、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごま(ひょうたんの一種)を備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けます。ヨナはこれを非常に喜んだのですが、それはすぐ枯れてしまいました。陰を失い、ヨナは「どうして枯らしたのか」と神に訴えるのです。すると、神は、「お前がとうごまを惜しむ以上に、私はニネベの人々をも愛しているのだ」と言われたのでした。神がすぺての人たちをおおい、守ろうとされていることがわかったのです。
「主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である」(詩篇121:5)とあります。
神はあなたの全存在をおおう陰となってくださいます。このお方の陰で、あなたも心安んじて憩ってください。
6月号
神も仏もあるものか
「あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ」(アモス書5:4)
今年、私たちの国は未曾有の震災を経験しました。津波に流された地に立ち、被災された方々の事を思いますと、こんなことがあっていいのかと心が張り裂けそうです。そして、それこそ「神も仏もあるものか」という気持ちになります。
このような災害は、まことに不条理な悲しみです。そして、この不条理な悲しみは、何も地震だけの事ではありません。愛する者を亡くした悲しみ、いわれなき差別やいじめ、病の苦しみ。私たちの周りには、不条理な悲しみや苦しみが満ちあふれています。そして、不条理な悲しみに出会うと、いったい、何で私にこんな悲しみや苦しみが訪れるのかと思い。やり場ない悲しみと、ぶつけ先のない怒りの中で、「本当に神はいるのか」と叫びたくなります。
そんな時、牧師である私でさえ、「神はいない」という、その叫びの前に沈黙せざるを得ないような思いです。そして、それこそが不条理な悲しみが私たちを襲う本当の原因なのだと思うのです。
聖書は、「この世」を支配しているのは悪と罪であり、早め背後には、神に敵対する存在である悪魔がいると言います。この悪魔は、自分が存在していることを人に知ゝに7れないようにしています。人々が悪魔なんかいないと思うのが、彼にとって一番都合のよいことだからです。そうやって身を潜め、「神はいない」と人々に思わせることが悪魔のもうとも望むことなのです。だから、「神なんかいるもかか」と思うような出来事を私たちの前に差し出すのです。
みなさん。罪と悪とが支配する世界には、確かに神はいません。しかし、それは本当に神がいないというとではありません。罪と悪とが支配する「この世」には神がいなくとも、神は実在するのです。だから、私たちは、神のいない「この世」にあって、神を求めて生きていかなければなりません。罪と悪とが支配する世界に生きている者だからこそ、神を信じ、私たちの心を神に支配していただかなければならないのです。神の支配がおよぶ所には、愛と恵みと喜びがあるからです。
そして、その神の支配を私たちの心にもたらすために、神のひとり子イエス・キリストは十字架の上で命を投げ出し、罪と悪、そしてその背後にいる悪魔に勝利なさったのです。
りばいばる
5月号
課題への挑戦
総務局長 島津吉成
新しい年度がスタートして、一か月が経ちました。どのような思いで、この五月を迎えておられるでしょうか。これから私たちが進もうとしている道は、決して平たんな道ではありません。それは、私たちが置かれているこの国の課題、またこの世界の課題とも重なります。いまさら言うまでもなく、困難な課題が山積しています。しかし、その中で、私たちはひるむことなく、困難な課題に懸命に取り組み、道を開いていくことを通して、この世に希望の光を灯す教団・教会として前進していきたいと思います。
私たちの教団は、第二次構造改革後、任命制度の改革に着手し、「主体性に基づく任命制度」をスタートさせました。セクシュアル・ハラスメントの問題にも、逃げることなく取り組み、S・H防止・相談室を設け、電話相談の働きを立ち上げました。そして、「K元牧師性加害事件」の検証報告をまとめ、健やかな教団・教会の形成への取り組みを進めています。昨年は、大震災で被害に会われた方々に対する支援活動にも、懸命に取り組んできました。少子化の課題に対しては、次世代育成プロジェクトを、東村山の土地・建物がOMSから教団に移譲され、東京聖書学院が教団立になるという大変革に対してはネヘミヤ・プロジェクトを立ち上げ、取り組んでいます。さらに、各教会・教区の困難な課題に正面から取り組むために、「教会・教区再編委員会」が今年の総会で承認され、その働きを始めることになりました。
この国における伝道も教会形成も、生易しいものではありません。しかし、牧師も信徒も一つとなって、それぞれの置かれている場での課題に懸命に取り組み、挑戦して行きましょう。
4月号
新しい契約の力に頼って歩み出す
(エレミヤ31:31~34)
教団委員長 郷家 一二三
エレミヤは南王国ユダの王ヨシアの治世第13年(紀元前627年)に、およそ20歳で神に召され、最後の王ゼデキヤの治世第11年(紀元前587年)まで40年間、涙の預言者として歩んだ。王国の危機と滅亡を警告し、偽預言者らの反対を受けて苦しんだ。神から委ねられた預言を忠実に語る厳しさに泣き、祖国ユダの堕落した姿に嘆き悲しんだ。ヨシア以後に続く王たち、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤらは、すべて偶像礼拝をやめない背信の王たちであり、バアルを拝み、モレクに子を犠牲としてささげた。神はついにバビロンの王ネブカデネザルを呼び寄せて、神の民をバビロンに連行させ、神の都エルサレムを廃墟とされた。全ての原因は王たちの信仰にあり、偶像を拝み、頼るのはエジプトかあるいは神かという肉の迷いにあった。
肉の力は災いをもたらす。肉に無力になり、神の力が宿るように求めるのが信仰である。信仰者は主体的に生き自分で考え判断するが、その考えや判断はいつも主に祈り問いかけ、主の御心を求めつつなされる。だから聖書と説教に聴き、御言葉を繰り返し黙想し、祈る。また愛を持って真実に語り合う。そして決断し、実行し、委ねて進む。
「クリスチャン」(新改訳は「キリスト者」)という言葉は使徒行伝の11章と26章、それにペテロの第一の手紙四章16節に出てくる。ペテロは、「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜ぶが良い」、「キリストの名のためにそしられるなら幸いである」と告げ、「クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい」と勧めている。肉の思いはこれらを避けるが、クリスチャンは苦しみ、そしり、恥のすべてを「キリスト」からのものとして受けとめる。人間的に判断するなら逆と思えるが、受け止めて生きるときに、喜び、幸い、賛美が、そこから生まれてくる。
エレミヤは、神の裁きの中に救いがあり、捕囚の恥は70年で終わると預言する。神はさらに「新しい契約」の預言を与えられ、主イエス・キリストを十字架で裁き、悔い改めて信じる者を赦すこの預言を成就された。「不義を赦し、もはやその罪を思わない」救いの恵みの力。キリストに属し、キリストのものとされて生かされている力。わたしたちに宿る新しい契約の力に信頼しきって、新年度を歩み出そう。
3月号
さあ「向こう岸へ渡ろう」
東京聖書学院長 石原 潔
昨年3月11日、千年に一度と言われる大震災が東日本を被い、さらに福島第一原発の恐ろしい事故により多くの方々が被災され、今も苦闘しておられます。
この様な中で私たちは、創立111周年を迎え、新たな決意をもって新年度を始めようとしています。特に本年度は、TOJ(東京聖書学院・OMS・日本ホーリネス教団)にとって変革前の準備の年となります。すでに報じられているように、2013年にOMSより、約6千坪の土地のうち3千坪が教団に移譲され、学院の経営も教団側に移されようとしています。このことにより土地・建物の所有権と学院の組織が新たにされます。
こうした変動を前に、主イエスが弟子たちに語られた、さあ「向こう岸へ渡ろう」(マルコ四36)の言葉が心に響きます。このテキストは、ガリラヤ湖の岸辺に集まってきた多くの群衆に向けて、主イエスが「種まきの譬」を語られ、その解き明かしを弟子たちにされた後に続く箇所です。また直前には種の発芽や一粒のからし種の驚くべき生命力についても記されています。
この譬を語られた直後、主イエスは「向こう岸へ渡ろう」と言われ、対岸へと船出されたのです。ところが目的地に着く前に、弟子たちは湖上で突然の嵐に見舞われ怖じ恐れるのです。しかし、主イエスは風をしかり、海に向かって「静まれ、黙れ」と命じ嵐を静められたのです。弟子たちはこの奇跡を目撃し、命が守られる体験をしました。
対岸のゲラサ人の地、そこには汚れた霊に取り憑かれたレギオンが待ち構え、山腹には豚が飼われていました。主イエスはこの汚れた霊に取り憑かれた一人を訪ね、彼に出会い「汚れた霊よ、この人から出て行け」と命じられ、彼を正気の人へと回復されたのです。実に弟子たちが湖上で目撃した出来事も、このレギオンが正常な人に回復されたのも主イエスのひと言葉でした。この命の言葉が嵐を静め、悪霊を追放したのです。
更に主イエスの命ある言葉は、レギオンを正常にしたのみか、ゲラサの地を超えてデカポリスにまで広められていきました。正に三十倍・六十倍・百倍の実を結んでいったのです。主イエスは今日も私たちに語りかけられます。さあ「向こう岸へ渡ろう」と。嵐が待ち構え、人の力の及ばないレギオンが道を塞ぐ地へ向けて、主イエスの命の言葉に信頼して船出しようではありませんか。
2月号
「測りなわ」の落ちた所
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。 (詩篇16:6)
信徒教団委員 矢田 澄枝
今から111年前の2月。寒空の下、一組の夫婦がサンフランシスコから横浜に降り立ちました。A・B・シンプソンのメッセージを聞いて献身を表明したカウマン夫人と夫チャールス(共に後の東洋宣教会創立者)です。彼らの最初の宣教地として、神さまの「測りなわ」は「日本」に落ちたのです。携えてきたものは「宣教の幻」と僅かな献金だけでした。多くの働きがなされ、多忙な日々が続きます。やがて夫チャールスは健康を損ない、米国に帰ることを余儀なくされました。そして6年間、死の陰の谷を歩む身となっていきました。カウマン夫人信仰伝記によれば、夫人は当時のことを「生き地獄」と日記に記しています。やがて愛する夫は癒やされることなく天に召されていくのですが、その苦しみの期間に生み出されたのが、霊想書『荒野の泉』です。数年後には世界中を駈けめぐり、多くの信仰者を励ますことになるとは、その時には想像もしなかったことでしょう。長い年月を経て私のもとにも届き、ディボーションには欠かせない1冊となっています。神様の「測りなわ」にまちがいはなかったのです。
「測りなわ」とは、「人が選ぶのではなく神が選んでくださった」という意味があることを後で知りました。私自身の測りなわの落ちた所である教団委員での奉仕も、早1年が過ぎようとしています。課題は多々ありますが、落胆はしません。「祈りは物事を変える」とカウマン夫人から教えられているからでしょうか。
間もなく新年度を迎えようとしていますが、新しい歩みに踏み出すかたもたくさんおられることでしょう。神さまの「測りなわ」がどこに落ちようとも、そこは「麗しい地を示し、輝かしい嗣業を受ける」(詩篇一六6・新共同訳)所となると確信しています。たとえその場所が険しい所であったとしても、神は必ずその「困難」を用いて何かをなしてくださるはずです。チャールス師は一粒の麦となりました。その実を引き継ぐ私たちホーリネスピープルは、現在全国・全世界にいます。また夫妻をはじめ多くの証人が雲のように私たちを取り囲んでいます。何よりも主御自身が「右にいまし、わたしは揺らぐことはありません。」(詩篇16:8)なんと心強いことでしょう。今こそ私たちは心をひとつにし、「測りなわ」の落ちた所で、カウマン夫妻に与えられた「宣教の幻」を受け継ごうではありませんか。
1月号
神との絆・人との絆
教団委員長 郷家 一二三
「新しい心と、新しい霊とを得よ。わたしは何人の死をも喜ばないのである。」 (エゼキエル一八31)
エゼキエルはユダヤの「路傍伝道者」として22年間仕え、神の裁きと救いを語り続け、神から新しい霊を受け、神の方へと身を翻して信仰に生きよと、悔い改めを人々に迫った。偶像礼拝が招いた神の審判としての荒廃。迫り来る敵の包囲と破滅。その時代に召された彼は、神の預言、神の言葉の説教を語り、その通りに生きた。神に徹底的に服従して生きたことは、命じられた「預言者の象徴行為」の数々によって明らかである。バビロンによるエルサレム陥落の年(紀元前586年)に、彼は「目に喜びの妻」を失うが、「涙を流してはならない、声を立てずに嘆け」と言われた神の言葉に忠実に従う。人は滅亡と愛する者の死を悲しむが、何人の死をも決して喜ばれない神の痛恨さは、一体誰にわかるのだろうか。神とエゼキエルとの絆の厳粛さを、新しい年の初めに黙想し、献身の祈りをささげたい。
東日本大震災と原発事故との被害はなお続く。年末に福島に伺い、同じ国に住むお互いが、こんなにも違った環境で新年を迎えるのかと思った。震災による人と人との絆も、決して一時的なものにしてはならない。人と人との絆を一層堅くし、今年も共に歩みたいと願った。
鉾田教会から届いたクリスマス・カードには教会員のサインがいっぱいで、喜びと感謝が伝わってきた。「キング宣教師はじめOMSの皆様の工事を通じて、教会員の家族が洗礼を受ける予定です」とあり、ハレルヤ、心から主に感謝し喜んだ。国を越えた絆の恵みを思う。台湾・韓国・北米・ブラジルなど、ホーリネスの仲間の絆のありがたさを改めて感謝した。
震災は2万人近い人々の命を奪い、親子親族・関係者・多くの人々に、死の現実と悲嘆と恐れを突きつけた。死が勝利したかのような様子に見えた。しかし「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つために」来てくださった救い主、主イエス・キリストがおられる。死に打ち勝たれ、死をあなどる復活の主を、今こそ伝えることの緊急性を心に刻み、歩み出そう。
神は、何人の死をも願わず、すべての人が悔い改めて、神の方向へ身を翻し、教会に加えられ、永遠の命に生き、神を礼拝し、復活の希望の約束の中で、与えられた地上の生涯を神と隣人と共に生きることを願っておられる。神との絆・人との絆を、新しくし強くしてくださる聖霊に信頼して進もう。
12月号
弱い者を偏ってかばうな
教職教団委員 上中 栄
震災以降、私たちの教団は、さまざまな支援活動を、教団内諸教会にとどまらず、教派の枠を超えて継続的に行ってきました。さらに、支援対象をキリスト者に限定しませんでした。そして、支援を伝道の契機として利用するのではなく、真実な隣人愛に生きることを模索してきました。
こうした私たちの隣人愛に基づく行いには、一般的なボランティアと共通する部分が多くあります。震災から少し時間が経った今、私たちのキリスト者としての生き方を確認しなおしてみたいと思います。
冒頭の聖句は、隣人愛を説くレビ記第一九章の中の一節(新共同訳)です。弱い者を善人と見なす傾向のある私たちキリスト者にとって、自らの隣人愛を探られる言葉です。
弱い者を善人と見なすことは、弱い者を「受け入れる」ことと似て非なるものです。すべての人のための救い主の到来、それがクリスマスのメッセージでありましょう。被災者も支援する者も、すべての人は救われなければならない罪人です。罪はかばうのではなく、赦していただかなければなりません。
この救いに基づく隣人愛はどうでしょうか。例えば、被災者の体験を聞く集会に出て自問したことですが、被災者に寄り添おうとしながら、実際には「悲惨」な体験を聞きたいだけではないのか。そしてその話しに心打たれ、涙を流す「善人」である自分に酔いたいだけではないのか。あるいは、ボランティアに参加して、良い経験ができたという思いは、人の痛みを利用したことにならないのか。それは隣人愛なのか、等々…。
実際、被災者への善意に基づく言動が、被災者を苦しめることがあると聞きます。「善意」に被災者が反論することは難しく、すると苦しめた側もそれに気づかないのです。
弱い者を善人と見なすことは罪の是認につながります。ひいては、弱い者を善人と見なす自分の罪も是認することになります。これは性加害事件検証で指摘されている、「安易な悔い改め」に通じるものがあります。神の救いのみ業は、罪の是認ではなく罪の赦しです。ところが、弱い者のための善行が、批判
されることは殆どありません。それだけに、善行は絶対化・正当化されやすく、そうなると、せっかくの愛の行いも、正義を振りかざす自己義認と変わらないことになります。こうした感覚を質す信仰の仲間がいるでしょうか。
冒頭の聖句は、「正義をもって隣人をさば」け、と続きます。神の正義の実現を目指すのです。クリスマスの季節、神の恵みを心に留めながら、罪赦された者として、隣人愛に生きる者でありたいと願います。
11月号
この世の義に勝る神の義
信徒教団委員 伊藤聖治
「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」(マタイ五20)
不謹慎ではありますが、私が子どもの頃に流行った冗談の1つに、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という言葉があります。周囲の目を気にする日本人は、良くないことだとわかっていても、他の人も同じ事をしていれば、平気で行ってしまう傾向があります。
その「みんなでやればこわくない」ことが、最近大きな問題として顕在化するようになりました。大相撲の八百長事件、生肉による食中毒事件、大物芸能人と暴力団との関係、そして本来は正義を追求する立場にある検察官が証拠を改ざんする事件まで起きています。
このような事件が次々と起こる中、企業はいかにして世間の人々の信頼を得るか?ということに相当神経を尖らせています。不祥事を起こして信頼を失った企業は、存亡の危機に立たされ、回復には気の遠くなるような労力と時間を要するからです。そのようなリスクを回避するため自ら姿勢を正し、社会的責任(CSR)を果たす制度を整備して社員全員に遵守させる動きが、ごく一般的になっています。(詳しくは経団連の「企業の社会的責任」 http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/csr.html というHPが参考になります)。
このように、一般世間でも高い企業倫理を目指し、社員に責任ある行動を求める動きが活発になってきている中、私たちキリスト者はどうでしょうか。もちろん、一般社会での倫理基準と信仰とは、決して同列に比較できるものではありません。しかし、世間が一層高い倫理基準に向かっている中、誰よりも神の義ときよめに与るはずのキリスト者の姿勢は、更に高みへと向かっているでしょうか。
私は時々、「自分はパリサイ人になっていないだろうか?」と自問することがあります。パリサイ人の義は、御言葉よりも人々の言い伝えを重んじ、神様の目よりも周囲の人々の目を気にして格好良く振る舞うだけのもの。的外れな努力をして人々を裁き、真理も愛のかけらもない、単なる自己満足に過ぎません。
まことの義は、実に神様の憐れみにより、罪を悔い改め、きよめを求める者は誰でも与ることのできる恵みです。この恵みに感謝し、悔い改めに相応しい実を結ぶことこそ、神の義を具現化することです。この世の倫理基準よりはるかに勝る神の義ときよめの恵みを、更に追い求める者でありたいと切に願います。
10月号
勧士制度に見る共同牧会の結実
教育局長 平野信二
「御言に仕えた人々が伝えたとおり」(ルカ一2)
この夏、教育局主催の勧士セミナー講師として奉仕する機会が与えられた。牧会に関する特別な学びを積んだ訳ではないが、「牧師として24年間奉仕してきた経験から語ることがあるはず」との思いを胸に、祈りつつ備えた。教えることが一番の学びとなると言われるように、今回のセミナーを通して私は多くのことを教えられ、同時に、私たちの教団の将来について一縷の希望を見出すことができたように思う。
すでに勧士として任命を受けておられる方々の奉仕への真剣な取り組みと、それに伴う勧士としての成長には目を見張るものがあった。局員の一人がセミナー最後のセッションで、「すでに任命を受けて奉仕している勧士と、勧士志願者との間には歴然とした違いがある」と語ったことが今も心に残る。もちろん、志願者の方々が劣っていたのではない。彼らも教会員、役員として訓練を受け、忠実に教会に仕えてきた方々である。しかし、礼拝式等において御言を語るために自らの足りなさや罪深さと向かい合いつつ準備を重ね、御言を語る資格のない者が講壇に立つという畏れの中で奉仕する経験には、他では得られない、「御言に仕えた人」だけが知り得る神の恵みがある。
また、今回のセミナーの主題は「牧会」であった。「信徒説教者」である勧士が牧会に携わるのは、規則上、常駐する牧師のいない教会に任命された場合などに限られる。しかし、勧士たちは、すでに「牧会者」の視点で状況を捉え、御言に基づいて対応することを実践していた。そのことは事前に出された課題の発表、任命を受けている教会の実情とそこにおける自分自身の役割の認識、そして参加者同士の何気ない言動にも如実に表れていた。彼らの存在そのものが生きた教材となり、牧会とは何なのかを良く現していたと言える。
信徒が牧師と共に説教と牧会を担う勧士制度が導入されて6年が過ぎた。今、9教会に10名の勧士が任命され、11名の志願者が学びを行っている。今回のセミナーを通して、御言に仕える大切さと、そのことを通してのみ御言が伝わっていくという、ごく当たり前で基本的なことを教えられた。同時に、私たちの教団で10年ほど前より提唱されてきた「牧師と信徒の共同牧会」が、実りつつある姿を見た。
9月号
主からの使命の再確認
奉仕局長 内藤達朗
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を作り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」 (創世記一26)
神さまは人間を創造された時、その人間、私たちにこの世界を「治めさせよう」(26)、「治めよ」(28)と言われました。私たちがこの世界を治めることは神さまの意思であり、願いであり、私たちへの命令であり、それは、私たちに与えられている主からの使命です。
「治める」と言うのは、決して専制君主のように治めるのではなく、神さまのみ旨に従って、神さまが願っているように治めることです。私たちは主の祈りで、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。神さまの御心をこの世界に実現することが私たちの使命です。神さまの願っておられるようにこの世界を治めることです。それは、この世界のすべての生き物が、神さまの願っているように生きられるように治めることでしょう。
果たして、この世界はそのように治められているでしょうか。人間の便利のために他の生き物が犠牲にされているように、間違って治めてはいないでしょうか。海、空、地の上のすべての生き物を、適切に治めていると言えないのではないでしょうか。
救われて、神さまのみ旨を果たす使命に立った私たちは、それぞれの立場でこの世界を治める働きに「仕える」べきです。それぞれがついている仕事や働きを通して、神さまのみ旨が行なわれるように働くことです。
何かのもの作りがされているとするなら、それがこの世界を治めるために必要なのか、この世界を治めるために、この世界のすべての生き物が豊かに生きるために必要なものか、必要ならそのようなものとして作られているか、それらのことを考えながらもの作りをすることです。もし、そのように原子力発電もされていれば、このような事態を招かなかったことでしょう。
この世界の一部の利益、人間の利益のためにだけものが作られてはならなかったのです。教育、医療、介護においても、経済、政治においても、工業、農業、商業等においても、そして、子育て等家庭の営みにおいても、この使命を果たしているという使命を再確認しての生き方が行なわれるべきでしょう。一人ひとりが、それぞれの場で与えられている使命を私たちは生きています。
8月号
神にあって夢を見、幻を見る!
宣教局長 中西 雅裕
「その後わたしはわが霊を すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。」 (ヨエル二28)
ある時、電車に乗ってぼんやり外を眺めていたら、「若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」の文字が目に飛び込んできました。十字架の塔の下に垂れ下がった10数メートルもある大きな布に、この言葉が書かれていたのです。
3月11日の未曾有の大震災、原発問題と、今日本は変わらざる得ない時に来ています。被災された方々、被災地の教会の先生方とお会いし、お話しを聞く中で思わされるのは、今までの生活とはまったく違う緊張感の中での生活が続いておられるということです。まさしく走りっぱなしの数ヶ月間であり、先が見えない、またそれがいつまで続くか分からないということです。将来を見ることが出来なくなっているのです。未来に希望が持てない中で苦しんでおられるのです。それは被災地から離れた所に住む者たちも同じです。
神はヨエルを通して、先の御言葉を語られました。終わりの時に、御自身の霊を全ての人に注ぐとの約束です。ヨエルが預言して800年後、父なる神は御子をこの世に送られ、十字架につけられ、私たちの全ての罪を贖われ、三日目に死に勝利されました。復活されたイエスは、父の約束を待つように弟子たちに命じられ、天に昇られたのです。そして、ペンテコステの日に、祈り待ち望む弟子たちに聖霊が降臨しました。弟子たちを代表してペテロは、ヨエルを通して神が預言された約束が成就したと宣言したのです。
その時以来、聖霊は私たちに働いておられます。私たちを慰め、真理へと導き、イエスを主であると告白させて下さいます。父なる神が計画し、御子イエスがなされた救いの御業を私たちのところへもたらして下さり、神の恵みと慰めと愛で私たちを満たしておられるのもこの聖霊です。
そして、この聖霊はヨエルが預言したように、今私たちに幻を見させて下さる、夢を見させて下さるのです。この不安と恐れ、先の見えない混迷の時代、力と勇気を与えて下さるのは聖霊であることをしっかり覚えたいと思います。私たち自身を、教会を、この日本を、そして世界を新しく造り変える力は神から来るのです。この時、聖霊を通して幻を見させていただきましょう。夢を見させていただいて、神の約束を信じて立ち上がる者たちとさせていただきましょう。
7月号
キリストが、わたしのうちに生きておられる
財務局長 久田 博
「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ二19~20)
クリスチャンにとって、何が起きても決して変えてはならない人生の土台は、聖書信仰(み言)と、毎週の礼拝と、ディボーション(祈りの応答)です。「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白する信仰は、神からの賜物ですから、信じること無しには、揺るがない命も生活も無いのです。すべては主の御手の中にあり、罪赦され贖われ、救われている事に気づいた時に初めて、真の喜びや平安が与えられます。それは、「もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる」生涯です。
わたしは困難な時に祈ると、つい自分の思いや願いを遂げようとすることが中心となってしまうことがあります。「なんとしてもこの杯を取り除いて下さい…」と。それがきかれると喜び、きかれないと不信仰になってしまいます。しかし、祈りはみ言を通し、人の思いを超えた神の思いを聴き、従うことが中心です。「御心のままに…」と心を広くして、「この身のうちに、この身を通じて、キリストが働いて下さるように」と、自分を差し出した時に、聖霊がわたしのうちに住んでくださいます。主ご自身は、目の前にある現実の十字架の向こうにはっきりと復活を見ていました。だから、父なる神の御心を知り、信頼し、全てを委ねられました。
わたしの幸福は、他の人の手助けができること、そして他の人と一緒にいることです。キリストの救いからは、誰も除外されていません。どんな人も、神から大事に思われているということを知ってもらいたいのです。しかし、わたしはキリスト無しには何もできません。「キリストのおっしゃることは何でもします」と、神の僕として自分を差し出す時に、わたしは愛に燃える心を与えられます。
今も、あなたを通じてでなければあらわされない、神の助けを必要としておられる方が大勢おられます。全てを主なる神に明け渡して、自分の持っている最良のものを与える時に、あなたのうちに「このいと小さき者にしたのは、わたしにしたのである」という主のみわざが実現していくのです。主は、み言に聴き、礼拝し、祈りに生きるあなたを豊かに恵みで満たし、遣わそうと待っておられます。
6月号
イースターからペンテコステへ
総務局長 島津 吉成
3月11日、東北、北関東を巨大地震と大津波が襲いました。そして、あまりにも多くのかけがえのないいのちが失われました。たくさんの涙が流された春となりました。
その悲しみの中で、4月24日、私たちはイースターを迎えました。 「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」(ルカ二四46)。聖書は、あえて「三日目に」と言います。主イエスは死んですぐによみがえられたのではないのです。人間の体は、残念ながら時間と共に朽ちていきます。主イエスが人となってくださったそのお体も、また例外ではなかったでしょう。画家のホルバインは、その三日目の主イエスのお体を、「墓の中の死せるキリスト」と題して描きました。裸同然で横たわる、それは悲惨としか言いようのないお姿です。
主イエスは、この中からよみがえられました。「三日目に」、絶望の、まさにそのどん底からよみがえられたのです。ですから、私たちには、絶望はなくなったのです。今年のイースターほど、この恵みを深く噛みしめたことはありませんでした。
そして、私たちは来る6月12日、ペンテコステを迎えます。主イエスは、弟子たちを初めとする多くの人々にお姿を現してくださいました。こうして、主イエスは確かに死を打ち破ってよみがえられたことを明らかにしてくださったのです。そして父なる神のおられる天に帰られ、祈って待つ弟子たちに約束の聖霊を贈ってくださいました。
あのペンテコステの日、聖霊に満たされた弟子たちは、どのように変えられたのでしょうか。彼らは、「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」(使徒行伝二24)と、主イエスの復活を証ししました。失望と恐れの中にあった弟子たちが、まず復活のいのちにあずかり、希望と喜びに生きる者へと変えられたのです。そして、この恵みを証しする者へと変えられました。聖霊は、主イエスの復活の恵みに生きる力、この恵みを大胆に証しする力を与えてくださったのです。
今、深い苦しみと悲しみの中にある一人ひとりに、主イエスは復活の希望を与え、その希望に生きる力、そしてこの希望を証しする力を与えてくださいます。これは、自分の頑張りによって絞り出すものではありません。主からの贈りものです。私たちも、あの弟子たちのように祈って待ちましょう。今こそ聖霊を、豊かに注いでください、と。そして、信仰をもって立ち上がりましょう。
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