私たちの教団のホームページにようこそ!

教団委員長 島津吉成


 私たちの教団は、キリスト教の新教(プロテスタント)に属する教団で、全国に155の教会があります。
 「夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る」。これは、聖書の詩篇30篇5節というところに記されているみ言葉です。夜の闇がどんなに深くても必ず明るい朝が来るように、神さまはどんな人に対しても希望の光を注いでくださると約束してくださっているのです。嬉しいことですね。
 ぜひ、お近くの教会にお出かけください。きっと、素晴らしい出会いが待っています。(私たちの教団の教会は、このホームページの中にあります「全国教会所在地」に掲載されています)
 このホームページをご覧くださった皆さまの上に、神さまの祝福がますます豊かにありますようにお祈り申し上げます。

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(2017年6月15日)
(2017年4月13日)
平和の祈り
(ページ内よりダウンロードできます)
 

4月号

イースターおめでとう

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」
 (新約聖書 ヨハネによる福音書第11章25節)
 
 年賀状のお年玉懸賞3等・切手が当たり、郵便局に持って行きました。ある程度の枚数のやりとりがあるので、毎年「切手は当っています。その4枚を窓口で差し出すと、受付の女性が、「おめでとうございます」と言ってくださいました。
 3等でも当だったのだから、喜ばなければならないのですが、ピンとこない。1等なら喜ぶのでしょうが…。

 さて、ここでこれを読んでくださっているあなたに質問をさせていただきたいのですが、「イースターおめでとう」と言われてどのように思われるでしょうか。
 「おめでとう」とは、結婚、進学、就職、出産などの時に使われる、つまり、何かうれしい「出来事」があった時の言葉です。

 イースターとは、イエス・キリストの復活を記念したお祭りです。もし、このイエス・キリストが復活されていないとすれば、「イースターおめでとう」の挨拶は、ピンと来ないばかりか、人を惑わす言葉となってしまいます。

 学校の教科書で、イエス・キリストが十字架にかかった出来事は書いてあります。しかし、復活についは、「弟子たちは復活を信じて布教に当たった…」というようにしか書かれていません。

 イエス・キリストが復活されたことをどうしたら信じることができるのでしょうか。まず、多くの人にいのちを与えて来た、聖書の約束を聞くことから始まります。
 イエス・キリストは約束されました。「わたしはよみがえりです。命です。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きるのです」。

 この復活への信仰は、自分で獲得するというよりも、与えられるものなのです。自分ではどうしょうもない罪の暗やみの中で「イエスさま、助けてください」と祈る時に、実際にキリストの復活の力が与えられるのです。あなたも祈ってみてください。

 今年のイースターは4月1日ですが、毎週の礼拝も、キリストの復活を記念したものです。復活の主イエスを信じ、「おめでとう」と心から信じて喜ぶところなのです。しかも、くじではなくて、信じるすべての人に与えられるものなのです。

 

 (「きぼう」4月号)
 

4月号 

「イエス・キリストは主である」の信仰に生きる

―心を合わせ、ひざをかがめ、高らかに主を賛美しつつ
  

教団委員長 島津 吉成

「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆ
るものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(ピリピ人への手紙2:10〜11)
 
 4月を迎えました。新たな出発のときです。教団も「神の宣教に仕える教会」というテーマを昨年度から引き継ぎつつ、『「イエス・キリストは主である」の信仰に生きる〜心を合わせ、ひざをかがめ、高らかに主を賛美しつつ〜』をサブテーマとし、年間聖句としてピリピ二章10〜11節を掲げて新たな歩みを始めます。新年度はこのテーマとみ言葉のもと、「愛の共同体(教会・教団)の建設」「聖なる共同体(教会・教団)の建設」「宣教の共同体(教会・教団)の建設」に励んでいきたいと願っています。
 
 イエス・キリストは「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」人となり、「死に至るまで、しかも十字架に死に至るまで」従順を貫き通してくださいました。何のために、このような生涯を歩んでくださったのでしょうか。それは、私たちを愛し抜いてくださったからです。ひとりの滅びるのも望まなかったからです。私たちを罪と滅びの中から救ってくださるためです。そのためにキリストは、ご自身を投げ出してくださったのです。

 父なる神は、このキリストをよみがえらせてくださいました。イースターです。そして、このお方を高く引き上げてくださり、すべての名にまさる名を与えてくださいました。すべてを治める主としてくださったのです。ハレルヤ!

 私たちの主は、このように私たちをとことん愛し抜いてくださるお方、そして全世界、全宇宙を治めておられるお方です。私たちは、このお方こそ、「私の主」と告白するのです。主と告白するということは、主の言われることに「はい」と言って従うということです。そのとき、私たちは主の素晴らしい御わざを体験することができるのです。主に従っていったらどうなるのだろうかと心配になりますか。心配する必要はありません。私たちを愛し、私たちのことを一番よく知っていてくださるお方が導いてくださるのです。そして、責任は主が取ってくださるのですから。私たちの主がどんなことをしてくださるのかを期待して、新しい年度の歩みを進めていきましょう。
 

(「りばいばる」4月号)
神の宣教に仕える教会
逆転の神を見上げて ―たくましく、しなやかに―

いくらかでもあるなら

教団委員長 島津吉成

   
 ピリピの教会は、迫害の中でもイキイキとした信仰に生き、使徒パウロの伝道を親身になって助けた素晴らしい教会でした。しかし、その教会の中にも問題がありました。二人の女性の信徒の間に、いさかいがあったのです。ですから、パウロはこう記しています。「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい」(ピリピ四2)。彼女たちは、「福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たち」(四3)と言われていますので、信仰的にはとても熱心な人たちだったようです。ところが、原因はわかりませんが、二人の人間関係がどうもぎくしゃくしてしまったようです。それが二人の間だけで終わらず、教会の中に悪い雰囲気を醸し出してしまっていたようです。
 
 パウロは、そのことに心を痛めていました。そこでいきなりこの二人の名前を出すのではなく、第二章でまずこう記すのです。「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら」(二1)。「キリストによる勧め」とは、「キリストによる慰め」と訳してもよい言葉です。また、「愛の励まし」「熱愛とあわれみ」も、父なる神とキリストから与えられる愛に基づく相互の愛ということが言われているのでしょう。「私たち人間の中には、愛の持ち合わせはない。しかし、父なる神から、またキリストから、愛が注がれているよね」とパウロは言うのです。
 
 そして、そこに「いくらかでもあるなら」と言葉を添えるのです。父なる神から、またキリストから、愛は豊かに注がれているはずです。しかし、ここではそう言わないで、「いくらかでもあるなら」と言うのです。問題に直面するとき、問題ばかりが大きく見えてしまって、そこに神の働きが見えなくなってしまうことがあります。ちょうどユウオデヤとスントケは、そんな状態だったのではないでしょうか。そんな二人に、お腹をすかせた五千人以上の人々を前にして、「食べる物が何にもない」と嘆く弟子たちに、主イエスが「5つのパンと2匹の魚がある」ということに気づかせてくださったように、パウロは「ほら、よく見てごらん。あなた方の中に、小さいように見えても、愛が与えられているではないか」と言って、愛がすでに与えられていることに気づかせようとしているのです。そして、「その愛を、ちょっとした、小さなことでいいから、働かせてごらん」と勧めているのです。互いに愛し合う歩みは、足元の小さな愛に気づくところから始まるのです。

 
(「りばいばる」4月号)
 
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