2024年

ひとりの人を求めて

教団委員長 佐藤義則

「九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩かないだろうか。」(ルカ15:4)

 陽が沈み暗くなる前に、羊飼いは羊を引き連れて囲いのある家に帰って行くのです。ところが、一匹が見当たりません。羊飼いは、いなくなった一匹の羊をただひたすら求めて、すでに暗くなった野山を見つけるまでは、さまよい捜しつづけるのです。

 今日も、われらの主イエス・キリストは、失われたひとりの人を求めて捜しつづけておられるのです。本来、人は神に向かって神中心に生きる者でした。しかし、アダムとエバの堕罪以来、イザヤ書五三6に、「私たちは皆、羊の群れのようにさまよいそれぞれ自らの道に向かって行った」とあるように、全く正反対の自己に向かって生きる者となったのです。人は神から遠く隔てたところで、たとい物質的に恵まれていたとしても、真の平安は得られず、時々心の中を通り抜けてゆく虚しさにさらされながら生きているのです。

 教会が建っている街に、私たちの生活の周りには、主が捜し求めておられるひとりの人がいるのではないでしょうか。私もかつていなくなったひとりであり、神に見いだされた者です。私たちがそのようなひとりのために祈り関わって行く中で、主に見いだされ主の救いにあずかって行くのです。

 新しい年度を迎え、教会にあって、一人のキリスト者にあって、そのひとりの人に気づかされて先ず祈り、勇気をもって声をかけ、関わりを持たせていただきたいと思うのです。この4年にわたる新型コロナ感染によって、教会はどんなに疲弊してしまったことでしょうか。しかし主は、ひとりの人が主イエス・キリストを信じて神のもとに立ち返るなら、天において大いなる喜びがあると主は言われました。このきよい喜びがきっと私たちの教会をよみがえらせ、立ち上がらせてくださることを、私は信じてやまないのです。

新しい出発をされるあなたに

東京聖書学院長 錦織 寛

 
 「さあ行け。私はあなたを……遣わす。……私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。」(出エジプト記3章10、12節)

 3月。それぞれの学びを終えて、卒業される皆さん、おめでとうございます。春を迎えるこの時、卒業・入学、就職、引越など、人生の大きな岐路を迎えておられる方々も多いことでしょう。これから始まろうとしている新しい生活に夢を見ながらワクワクしたり、大きな期待に胸をふくらませたりしておられる方々も多くおられるはずです。
 
 しかし同時に、未知・未経験の世界に入っていくことに不安や恐れを抱くこともあるのだろうと思います。また、自分が思いもしなかったような状況の中に置かれ、生活の変化を強いられている方もおられることでしょう。居心地の良かったところ、慣れ親しんだ場所や人から離れていくということは、ある意味、勇気や覚悟がいることでもあります。

 けれども確かなことがあります。あなたをそこに遣わされるのは神さまです。そして、神さまはあなたのために、すばらしい時を、場所を、人を備えてくださっています。神さまはあなたを良い地に導き入れようとしておられ、そのために必要なすべてのことは備えてくださっているからです。足がすくむような思いがすることもあるでしょう。でもあなたを遣わすとおっしゃる主に信頼して、一歩を踏み出したいと思います。
 
 そして、何よりも、そこには神さまがおられます。神さまはあなたと共に行きたいと願っておられます。楽なことばかりではないかもしれません。もしかしたら、困難や試練の中を通ることもあるでしょう。しかし、そのような時にも、あなたはそこで、神さまがどんなにすばらしいお方であり、力あるお方であるかを経験するのです。神さまはあなたのためにすばらしことをしようと、あなた以上にワクワクしながらあなたを招いておられます。
 
 おめでとう。「私」とおっしゃる神がおられます。「私」と語られ、「あなた」と呼びかけてくださる主があなたと共にいてくださるからです。
 

言葉は失われず

教育局長 高橋 誠

 
 巨匠と言われるアニメ映画監督のドキュメンタリーが放映されていました。自分の長い監督人生の締めくくりとも言うべき作品に取り組む苦悩が描かれていました。話をどう展開するか、相当長い時間かけて考えている中で、「脳がパカーッと開けるんだよ」と言いました。苦悩しながらその状態となるのを待っているようでした。

 私が放映を見たのは土曜日で、その監督の苦悩がよくわかる気がしました。説教をつくるときとやや似ているからです。一定の時間をかけ作業を積み重ねれば必ずできるというものでもなく、やはり何かが開ける瞬間を待っていると言えばよいでしょうか。
 
 「やや似ている」と書きましたが、違うところもあるのです。それは、必ず開けると祈りつつ信じているからです。
 
あなたの言葉が開かれると光が射し
無知な者にも悟りを与えます。
 
 詩編第119編130節です。御言葉は自分で開くことができず、むしろ向こう側から開かれるのです。それは、こちら側にはノブの付いていない、天に向けられた扉のようだと言ってもよいでしょう。天の側にだけノブが付いているのです。そして、神がそのノブを開け、光の言葉を携えてやってきてくださるのです。意のままにこちらから開けるわけにはいきません。しかし、それは恵みです。こちらでは扉を開ける力すら失っているようなときでも、あちら側から神が自由に扉を開けてくださり、自分では考えようもなかった光を、神が与えてくださるのです。しかも、命がけの愛の真実をもって主イエス・キリストをくださったほどの御父ですから、あちら側からこちらをお訪ねになることを決しておやめになりません。私たちが言葉を失うことがない理由はここにあります。

 教育局は、教会が尽きることなく御言葉を語るために仕えることができればと願っています。

新たな年に、新しい歩みを

教団委員長 佐藤義則

 
「また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋の中に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も皮袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)
 
 昨年10月に召天された小林重昭牧師が、かつて新年聖会で話された説教を懐かしく想い起こしておりました。当時、新年聖会は教団主催で東京聖書学院にて行われていましたが、1986年はチャペルの改修工事を行っていたために、学院の図書館で行われました。その説教の中で同牧師は、冒頭に次のような話をされました。「幼少の頃、大晦日の夜には、母が枕元に真新しい肌着を、折り目正しく置いてくれました。元旦の朝にそれを着て、新年を迎えるためです。新しい肌着に袖を通すと、その匂いと肌触りによって初々しい気分がみなぎり、心も一新されるのです。しかしそれは、それほどに長く続くものではありませんでした。……この新しい年を迎えて、私たちを真に一新するものは、神の御言葉に聴いて従って歩み出すことです」。
 
 3年以上に及ぶ新型コロナ感染によって、私たちの生活は大きく変わりました。それは、教会生活においても大きく揺さぶられるような変動をもたらしました。昨年の5月以降、新型コロナは5類扱いとなり、私たちの生活は元のように戻って来たと言われますが、この時代の変化の中で戻るのではなく、神は新しい歩みを私たちに求めておられるのではないでしょうか。
 
 上掲の御言葉は、「あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのか」と人々から問われ、主イエスが回答された言葉です。メシヤが到来し新しい時代を迎えているのにもかかわらず、彼らは旧態依然として古くからの慣習にとらわれ、救い主を受け入れようとしなかったのです。私たちもまた、古くからの生き方に固執し縛られて、信仰の生命を失ってはならないのです。新たな年を迎えて主の御言葉をいただき、主によって新しく変えられることに臆することなく、新しい歩みをなして行こうではありませんか。
 
 

2023年

慰めの光輝くクリスマスを

教職教団委員 鈴木英夫

 
 大変な出来事が起こりました。トロアスという港町にパウロ一行がやってきて、ある家に集まり、夜中まで主の日の礼拝が続いていたときのことです。大きな港町ですが、夜中ですから周りの家は暗く静まり返っている中、この家だけに灯りがともり、さながら光の家、いえ「光の教会」でした。しかし、パウロが時間が過ぎるのも忘れて熱心に説教を語っている最中、青年エウティコが3階の窓に腰かけていたのですが居眠りをしてしまって、そこから下に落ちてしまったのです。打ち所が悪かったのか、彼は死んでしまいました(使徒言行録20:7~12)。
 
 これで終わってしまったら、後の教会への「礼拝中に居眠りをしてはいけない」とか、「長い説教は控えるべきだ」とかの教訓が残るだけだったでしょうが、そうではありませんでた。「パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。『騒がなくてよい。まだ生きている。』」(同10)。彼は生き返り、そして何事もなかったかのように、礼拝は続けられたというのです。しかもパウロは、さらに長い説教を続けました! そしてこの礼拝の出席者は、「人々は生き返った若者を連れて帰り、大いに慰められた」(同12)のでした。この慰めの光に満たされたトロアスの教会は、また私どもの教会です。
 
 今年のクリスマスは、コロナ明け後4年ぶりで外部に案内をして、多くの方と共にお祝いしようと準備している教会が多いのではないかと思います。クリスマスに欠かせないのは、キリストの誕生を告げる星の光やキャンドルの光です。この世を照らすまことの光であるイエス・キリストの光は、死に勝利した力ある慰めの光です。キリストが来てくださって、死んでくださり、しかしその死を打ち破ってよみがえられ、私どもに死をも乗り越える力ある慰めを与えてくださいました。「慰めの光輝く教会のクリスマスに、ぜひおいでください!」と、多くの方々をお誘いしましょう。
 

互いに重荷を担いなさい

奉仕局長 竹内 義晴
 

「互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。」(ガラテヤの信徒への手紙6章2節)
 
 奉仕局長となって半年が過ぎました。奉仕局と聞いて最初にイメージしたことは、イエスさまが弟子たちの足を洗う姿であり、「仕える者になりなさい」(マルコ10:43~45)の御言葉でした。その後、奉仕局員、事務の方、各委員会の委員のみなさまに支えられて務めてきましたが、その中であらためて思うことは、教団に属するすべての教職者、教会員が奉仕局の局員であり、奉仕局は、すべての方が互いに重荷を担い合っていただくことによってのみ成り立っているということです。奉仕局は、単に、そのための環境を提供しているに過ぎないのではないかと感じています。
 
 現在、奉仕局で検討していますことの一部を紹介させていただきます。

 奉仕局では、厚生基金、退職基金を運用し、牧師の退職金、隠退後の謝恩金(年金)をすべての牧師に公平になるように支給しています。これらはそれぞれ、各教会から納付いただく厚生費と退職積立金が主財源となります。各教会には大きな負担をお願いしていますが、それによって十分ではないにしても、牧師の隠退後の支えとなっています。また、この厚生基金は、医療費負担など、現役牧師への様々な援助費にも充てられています。厚生基金の枯渇の問題から、現在、一部の援助費が停止されています。何とか財源を確保し、段階的にでも援助費の支給を再開すべく検討を進めています。また、牧師が心身とも健康でご奉仕が続けられるように、年一回の健康診断とストレスチェックの実施を奉仕局としてもフォローしていきたいと考えています。
 
 重荷を担い合う形としては、精神的なサポート、献げること、祈り合うこと等、いろいろな形があると思いますが、何らかの形で、お互いのために重荷を担い合っていただけることを願っています。

育てること・育てられること

次世代育成プロジェクト委員長 錦織 寛

 
「この頭が基になり、体全体は節と節、筋と筋によって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ2:19)

 ユースジャム2023のためにお祈りご協力ありがとうございました。2004年に第1回のユースジャムが開催されてから6回目、対面での開催は2016年以来、7年ぶりとなりました。最初の開催の時は、牧師たちも青年たちも手探りで、担当した青年たちは本当に大変だったと思います。そして回を重ねるごとに、多くの部分が青年たちに委ねられていき、年上の世代の者たちは献金したり、Tシャツを買ったり、青年たちが参加しやすいように援助を用意したり、祈ったり、時に、ドキドキヒヤヒヤしながらも、どーんと構えて温かく見守り、必要な時にはバックアップするというサポートの側に回っていきました。
 
 そして、青年たち自身も、次回のジャムの中心になる人材を育てるという意識をもって今回のジャムに取り組んでいました。一人ひとりが育てる意識を持ちつつ、育ってきたことを思います。

 青年たちはとてもたくましく、またよく取り組んでいました。真剣に話し合いを積み重ね、共に主の御前に出ながら準備をしてきました。青年ならではの斬新な発想の数々に圧倒されました。裏方に徹した青年たちもいます。他の人たちが見えないところでぶっ倒れながらジャムを走り抜いた青年たちもいます。

 参加者の中高生・青年たちも、対面のジャムを満喫し、同じ年代の主にある兄弟姉妹たちと一緒に賛美し、一緒に御言葉を聞き、一緒に祈り、一緒に時を過ごす喜びが初日から会場にあふれていました。

 このような若者たちがいること、そして、彼らが育っているのを見ることは本当にうれしいことです。けれども同時に、そのような青年たちとふれ合いながら、牧師たちや他の世代の者たちも多くのことを教えられ、学ばせられていることを思います。若者たちから学ぶことはとても多いのです。私たちは一生、学び合い、また主の恵みの中で共に育てられていくのです。
 

勧士説教集の出版に期待する

教育局担当教団委員 宮島 亮

 
「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。」

(ヘブライ人への手紙12章2節)

 
 私は現在、財務局長をしておりますが、併せて教育局担当の教団委員としての働きもさせていただいております。

 さて、私たちの教団には、勧士が12名おられます。勧士とは主の召しを受けて、教団が定めたカリュキュラムを修了し、認定を受けて教団に任命された信徒説教者です。牧師としての献身ではありませんが、社会で働きながら、その豊かな人生経験を活かして説教をしていこうとする、信仰に燃えた、熱心な信徒献身者でもあります。

 ある時、この勧士の方々の説教をまとめて、説教集として出版できないだろうかと、数名の勧士が立ち上がりました。牧師の説教集は既にいろいろな形で世の中に出ていますが、信徒説教者である勧士の説教集は、まだ出版されていません。早速、教育局に相談し、全面的な支援をいただけることとなり、勧士による編集委員会が結成されました。

 そして、祈りつつ地道に編集委員会を重ね、さらに教育局・出版部の後押しをいただいて、いよいよ年内に勧士の説教集が出版されることとなりました。

 信徒として歩んできた波乱に満ちた人生経験を踏まえ、ていねいに紡ぎあげてきた勧士の説教は、必ずや多くの人々の共感を得ることができると確信しています。みなさんもぜひ、この勧士の説教集を手に取り、その説教に触れ、信仰の導き手であるイエスさまを見あげて歩んでいただければ幸いです。教団の将来を見据えて、牧師と共に教会を建て上げるために、信徒がそれぞれの立場で賜物を活かして、神と人とに仕えていくことができたら幸いです。

次世代のために祈ろう!

次世代プロジェクト担当教団委員 柳瀬 香
 

 いつも次世代育成プロジェクトの働きのために、お祈りと献金を感謝いたします。いよいよユースジャム2023が、8月15日(火)〜18日(金)に開催されます。7年ぶりに対面での開催となります。若者たちがこの大会を通して、多くの祝福を受け、さらなる信仰の成長に導かれることを期待しています。次世代育成の働きに携わらせていただく中で、牧師子弟の私に対し、ある先生が「幼い頃から多くの人に祈られて感謝ですね」と言われたことがありました。私はそれまで、背後にある祈りにあまりピンときていませんでしたが、その一言が、これまでの大いなる神の恵みに感謝するきっかけとなり、他者のためにも祈り続けることを示されました。
 
 5月号のりばいばるで、次世代育成主事が、「現時点で教会に若者がいない中でも、日本ホーリネス教団は一つの教会であることに目を向けるのなら、まだ多くの若者が与えられている。その者たちのために私たちは祈りたいと思う」と書いてありました。私の所属教会でも、前任者の開拓から50年の牧会を通して、クリスチャン二世や三世の若者が多く与えられていますが、20代の社会人となり、教会生活を守ることが難しくなってきています。親の信仰ではない、自分と神さまとの関係を確立していくことが重要であると感じています。実際、神さまを真剣に求めるきっかけとなるのは、一人ひとりが置かれる環境で、試練や苦難に遭う時かもしれません。救われ祈られている者たちを神さまはご存知です。社会生活で人間関係に悩んだり、結婚生活や子育てに苦労する中で、神さまを求めて再び教会に戻ってくるケースも多く目にしているのも事実です。

 ですから、子どもや孫たちのために祈っておられる皆さまは、なお祈り続けてください。必ず神さまは時を選び導いてくださるはずです。

 教会はいつでも温かく迎え入れる場所であり、祈り合うことのできる共同体であり続けたいと思わされています。

「私は、夜も昼も祈りの中で絶えずあなたのことを思い起こし、清い良心をもって先祖以来仕えている神に感謝しています。」(Ⅱテモテ1:3)

主イエスが願っておられた神の国

宣教局長 加藤 望
 

 復活の主イエスは昇天前の40日間、度々弟子たちに現れて、「神の国」について教えられました(使徒1:3)。主イエスの宣教も、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」との宣言で始まりました(マルコ1:15)。「神の国」こそ、主イエスの福音の中心です。
 
 主イエスは「神の国はいつ来るのか」聞かれたとき、「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない」と答えられました(ルカ17:20、21)。「神の国」とは、神の愛の支配にあずかった人々の間に生まれる、国境のない信
仰共同体です。ですから、主イエスは先ほどの答えに続いて、「実に、神の国はあなたがたの中
に[間に]ある」と言われたのです(同17:21)。

 しかし、弟子たちは「神の国」とは祖国イスラエルのことと早合点し、その復興(ローマからの独立)を主イエスに尋ねています(使徒1:6)。主は落胆せずに、最も大切な聖霊の約束をくださいました(同1:8)。聖霊の力を受けた弟子たちによる、神の国(神の愛の支配)をもたらすキリストの福音宣教こそ、復活の主イエス最大の関心事だったのです。

 私たち家族が、アメリカ最後の4年間を過ごした教会は、様々な人種の集まりでした。日本人は私たちだけでしたが、フィリピン人、メキシコ人、アフリカ系、ドイツ系、ユダヤ系、イタリア系のアメリカ人など多様な文化が混ざり合った教会でした。言葉は違っても、「アーメン・ハレルヤ・キリスト」さえ知っていれば、どんな国の人とも兄姉です。人種や言葉を超えた神の国、真の教会の姿を垣間見た思いでした。

 使徒言行録は、民族も言葉も超えた教会の誕生を記し、最後は「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」という一句で終わっています(28:31)。この神の国宣教の働きは、私たちに委ねられているのです。「御国を来らせたまえ。今日も、ここに」と祈りつつ、神の国の福音を広めていきましょう。
 
 

同じ教団に属する喜びと痛み

総務局長 中道善次

 日本ホーリネス教団に属していることのありがたさを感じた出来事がありました。
 今から22年前、日本ホーリネス教団から「開拓指定」をいただき、萩園教会の会堂建築を行い、献堂式を行いました。「開拓指定教会」でしたので、全国の教会から祈っていただき、尊い献金をささげていただきました。

 2002年の年会の時です。今は天国に帰られたS先生が私に近づき、親しみを込めて、「先生、献堂おめでとうございます! 祈っていましたよ!」と言ってくださり、祝献堂と記された封筒を手渡してくださいました。

 S先生のお名前は、もちろん存じておりました。また、東村山で持たれた年会の早天祈祷会でなされたメッセージを聞いたことがありました。しかし、父親のような年齢の先輩牧師でしたので、個人的にお話したことは、一度もありませんでした。私はとまどいながらも手渡された封筒を受け取りました。先輩のS先生から祈っていただき、お祝いを述べていただき、「なんとありがたいことか」と感激しました。S先生のお姿は、「喜ぶ者と共に喜び」(ローマ12:15)そのものでありました。

 同じ教団に属するとは、「喜ぶ者と共に喜ぶ」だけでなく、「泣く者と共に泣く」ことでもあります。パウロは教会をキリストの体に例え、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」Ⅰコリント一二26)と述べております。日本ホーリネス教団は、英語で表すとJapan Holiness Church(ジャパン・ホーリネス・チャーチ)です。Churches(チャーチーズ)という複数形ではありません。「一つの教会」であります。同じ団体に属する者たちが、喜びと痛みを「自分のこと」として共有することが大切なのです。

 病気と戦っておられる牧師がいます。その教会を助ける牧師がいます。定住の牧師が遣わされない教会があります。懸命に兼牧の働きをしている牧師がいます。

 私の恩師が、「自分のことで精いっぱいというところを超えて、隣人を思いやることができるように」とよく語っておられました。これは信仰者に向けて語られたメッセージですが、それぞれの教会も、自分に語られたメッセージとして受け止めたいと思います。

聖霊に導かれ、聖霊と共に生きる

教団委員長 佐藤義則

 
 「私は父にお願いしよう。父はもうひとり弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいようにしてくださる。」ヨハネ(14:16)
 
 1995年、あの阪神淡路大震災の年に、京都在住の戦前・戦中にホーリネスの伝道者だった新宮三之助ご夫妻を訪ねたことがありました。その時、私に語られた言葉を今も忘れることができません。「佐藤先生、どうかお願いですから、御言葉が聞ける教会を建ててください。御言葉が信じられる教会を建ててください。それは、クリスチャンばかりがそう願っているのではない。未信者の人もそう願っているのです。神がおられるなら、神を知りたい。神とお会いして、神の生きて語られる言葉を聞いてみたいと切に願っているのです」。
 
 われわれ日本人は、秀吉・家康の時代から長い歴史の中で、キリスト教信仰を拒み続けてきました。明治になって、名目上は解禁となりましたが、「和魂洋才」と言って、西欧の技術や知識は喜んで取り入れても、キリスト教信仰には硬く心を閉ざしてきました。しかし今日、3年以上にわたる新型コロナウイルスの蔓延によってわれわれの心は疲弊し、相次ぐ地震、気象災害や戦争によって恐れと不安のただ中にあります。このような時代にあって、頑なに閉ざしてきた心が少しずつ開かれ、神がおられるなら信じたい、神の生きて語られる言葉を聞いてみたいと切に願っている人々が、どんなに大勢いるのだろうかと察するのです。
 
 そうした人々にキリストの十字架と復活の福音が届くように、先ず家族や親しい友に、私たちの身になされた救いのみわざを語り伝えたいと思うのです。「この人の心に届くように」と祈り証しをするなら、どんな心の頑なな人の心にも聖霊は働きかけてくださるのです。聖霊はへりくだった神であって、雨水が建物のわずかなひび割れからしみ込み、雨漏りを引き起こすように、どんな石のような硬い心の人にも、かすかな隙間から聖霊はその心に入り込み、罪に気づかせ、キリストの十字架を鮮やかに見させてくださるのです。
 
 愛する同労者の牧師、勧士、宣教師の皆さま、「羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9:36)多くの人々を目に浮かべながら、主の御前に静まり、主の語りかけを聴かされ、いのちに溢れた御言葉を語り伝えるために、この年、新たな思いをもって自らを共にささげるものでありたいと思います。
 
 「あなたは、適格な者、恥じることのない働き手、真理の言葉をまっすぐに語る者として、自分を神に献げるよう努めなさい。」(Ⅱテモテ2:15)

主イエスの弟子として生きる鍵

東京聖書学院長 錦織 寛

 「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)
 
 今年も東京聖書学院は本科生5名、一年訓練生3名の卒業生を送り出しました。一人ひとりの生涯が祝されて、それぞれが忠実な主の弟子として生きることによって、豊かな実を結んで行くことを心から願っています。
 
 彼らだけではありません。私たちは皆、主イエスの弟子として生きるようにと召されています。
 
 主イエスが地上の歩みをしておられた時、主イエスはしばしば祈るために退かれました。決して働きづめに働くということではなく、祈ることを大切にされたのです。弟子たちもイエスさまがどれだけ祈りを大切にしておられるかを見ていましたし、主イエスが祈りによって支えられていることに気づいていました。そこで祈り終えられたイエスさまをつかまえるようにして、「私たちにも祈りを教えてください」と求めたのです。そのやりとりが、ルカ11章1~13節に記されています。
 
 弟子たちはイスラエル人ですから祈ることを知らなかったわけではありませんし、日常的に祈っていたはずです。でも、彼らは、イエスさまの祈りを学びたいと思ったのです。主イエスは、弟子たちに主の祈りを教えられました。祈りが天の父との対話であること、神さまを第一としあがめるものであること、私たちの存在がすべて神さまによるものであることを覚えてすがるべきこと、罪の赦しを求めるべきことなど、私たちという視点を大切にすること、そういった祈りの心を教えられたのでした。そして、また「求めなさい。そうすれば、与えられます」と主に信頼して、求め続けることを教えられました。私たちが主の弟子として生きるために、この祈りが生命線であることを思います。
 
 主イエスはここでたとえを語りながら、さらに教えられます。祈って与えられる、最も良い賜物、私たちが主の弟子として生きるために、神が私たちに与えたいと願っておられる最高の贈り物は、聖霊だというのです。
 
 ルカは、この福音書を教会の時代の中で書いています。そして、教会にとって祈りが、そして祈る者に豊かに注がれる聖霊が、どんなに大切なものであるかを、実際に見ていました。そして、弟子たちが生き生きと語る主イエスの物語を、「実際、今こうして教会の歩みを見ると、本当にイエスさまがおっしゃっていた通りでしたね」と、そのように聞いたのです。そして今も、主は私たちの祈りを喜んで聞き、喜んで聖霊を与えてくださいます。

喜んで後になる恵み

 
 「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ20章16節)
 
 春を迎えました。春と言えば「入学式」を連想する人が多いように、春は新しい生活に向かって一歩踏み出す思いを与えます。
 
 私にとっても今年は新しいスタートなのですが、それは高齢者医療制度において前期高齢者となること、つまり老後のスタートなのです。ブラジルではこれを人生の第三期と呼びます。家庭や学校で育てられる第一期。社会のメンバーとなり、人を育て、支える第二期。そして第三期です。統計によると、2040年での平均寿命は男性が83.27歳、女性が89.63歳と予想されています。この第三期をどう生きるのか。人きな課題です。
 
 そんな時期を生きる(?)ベテラン信仰者に対し、主イエスは冒頭の言葉をお語りになられました。同じ言葉が19章30節にも語られていますが、これらの言葉で挟むようにし、神の恵みを表わす「ぶどう園の労働者」の讐話が語られるのです。
 
 これは、ぶどう園の主人が労働者を雇い入れるために出かけるという物語です。まず、農繁期にもかかわらず仕事にありつけない人が招かれます。役に立たない、価値なしと決めつけられた人が招かれるという恵みです。さらに報酬の約束をされなかった人に、一日分の報酬が与えられます。それは「払ってやりたい」との主人の思いによりました。労働の対価ではなく、ただで受けるという恵みです。こうして後にいた者は神の恵みを得、この恵みに先にいる者は蹟くのです。
 
 救いを経験した時、誰もがこの後にいる者のようでした。ところが時が経つと、当然後にいる誰もが先にいる者になります。その時に恵みを忘れると、無価値だったはずの自分にも、長年頑張ってきたとの誇りが生まれます。責任感をもって奉仕をしていると、そうでない人に厳しくなることがあります。
 
 だから「先にいる者が後になる」は、いつまでも初めの恵みを忘れないようにとの戒めです。また、それは先にいる者が喜んで後になるようにとの勧めでもあるでしょう。後にいる者のために上手く自分の場所を譲る。そして、後にいる者が恵みに喜ぶ時、共に喜ぶのです。こうして先にいる者も後にいる者も、共に恵みをさらに知ることになるわけです。
 
 人生の第三期、後にいる者のために上手く後にまわる知恵を持ちたいと願います。こんな老後に向かって踏み出す春を翻っています。

「教団委員(長)選挙を前にして」

総務局長 佐藤信人

 「聖霊と私たちは、……しました。」。
           (使徒言行録15章28節)
 
 来月行われる教団総会で、教団委員長及び教団委員の選挙が行われます。教職と信徒の代議員60名により、新たに9名が選ばれます。全国のすべての信徒の方々も、各教区において総会代議員を選出することにより、間接的にこの教団委員の選出に関わっています。
 
 私はこの3月でその働きが終わりますが、この4年間、教団委員として求められる働きに対して、さまざまな面で足りないことを痛感させられました。自分なりに頑張ってきましたが、しばしば厳しいご指摘を受け、自分にはとても担えないと思うことが何度もありました。それでも、教団総会で選ばれたという事実の中に、主の御心があると信じ受け止めるがゆえに、働きを続けて参りました。
 
 そのような中で思うことは、選ばれた側の献身が問われるだけでなく、選ぶ側の献身も同時に大切ではないか、ということです。2021年発行の教団の式文(改訂版)によりますと、教団委員長及び教団委員就任式では、選ばれた教団委員(長)だけが誓約を求められています。しかし、役員就任式の式文には、選ばれた役員と選んだ教会員と両方の誓約が記されています。これが教団においてもあるべき姿だと思います。すなわち、教団委員(長)就任式においても、役員就任式と同じように選ばれた側だけでなく、選んだ総会代議員も誓約を求められるのではないでしょうか。
 
 私たちの教団が採用している監督制度というものは、選ばれた側と選んだ側の相互の献身によって成り立つものです。選ばれた側は、主によって選ばれたと受け止めて、その務めに献身します。選んだ側も、選んだ責任と献身をもって支え、協力します。この相互の献身がなければ成り立ちません。教団においても教会においても、使徒言行録15章にあるエルサレム会議の決定において表明されたように、双方が「聖霊とわたしたちとは……決めた」(口語訳)という信仰に立つことが求められます。
 
 来月の教団総会で、私たちは新しく教団委員長及び教団委員を選出します。主が最もふさわしい方々を選んでくださるように深い祈りを持って備えるとともに、選んだ以上、私たちもそれらの方々を精一杯支えて行く、そのような教団でありたいと心から願います。
 

神を喜ぶ礼拝をごいっしょに

教団委員長 大前信夫


「全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。喜びながら主に仕えよ。喜び歌いつつその前に進み出よ。」(詩編100編1〜2節)

 2023年の元旦は日曜日、主の日から始まりました。「一年の計は元旦にあり」と言いますが、まず主日礼拝式というのは嬉しいですね。この数年、いっしょに礼拝することが難しくなり、たとえ会堂に集まることができても、賛美は遠慮がちでした。それでも、礼拝にこそ私たちの信仰生活の焦点を定めるべきです。神への礼拝こそ、神の恵みの中に生きる私たちがなしうる最高の行為だからです。

 では、どのような礼拝を行っていくのでしょうか。礼拝への招きの言葉としてよく朗読される詩編100編から、私たちが招かれている礼拝の姿を確認しましょう。

 まず、喜びの声を上げることです。もちろんその喜びの声は神さまを賛美する歌です。声を上げよと言っていますから、元気に、喜びに溢れて神に歌いましょう。次に、仕えることです。これを礼拝式での司式や受付などの奉仕だと考え、礼拝式にただ座っているだけではダメなんだと思うかもしれません。そうではありません。礼拝そのものが仕えることなのですから、礼拝式の奉仕者として立っていても、会衆席に座っていても、等しく神に仕えているのです。

 そして、賛美をもって神の前に進み出るのです。賛美は歌う者に慈しみ深い神を覚えさせ、神と共にある喜びを与えます。こうして賛美は私たちを神の前に導き出します。そして、この賛美は感謝することから始まります。「感謝して主の門に進み、賛美しつつその前に進み出よ」(4節)とある通りです。感謝は神を喜ぶ歌へとつながるのです。

 数年前、妻が韓国でホームステイさせていただいたご家族は、小さなお嬢さんたちと一緒に毎晩家庭礼拝を行っておられました。この礼拝は、一人ひとりが三つずつ感謝することから始まりました。それはその日にあった小さなこと、例えば、「今日は日本のカレーライスを食べることができて感謝します」。こうして小さな感謝を集めていると、何とも言えない喜びが生まれ、神さまの恵みに心温まる思いがしたと言うのです。感謝とは、神の御業を思い巡らすことです。神の恵みを数え、感謝していると、過ぎ去った思い出ではなく、今も与えられている神の支えをそこに感じます。こうして感謝は喜びの歌となり、賛美は神と共にある確信に立たせるのです。

 新しい一年が始まりました。喜びの歌を歌いつつ、神と共に歩んでまいりましょう。

2022年

クリスマスの決心

 
 「クリスマスはお祝いだけど、神さまにとっては決心の時だったんだよね。イエスさまが十字架におかかりになるんだから」。子どもの頃、牧師だった父にそう言ったのを覚えています。気の利いた発言で親に褒められたかったのかもしれません。親が感心して喜んでいたのを覚えています。クリスマスのたびにこの対話を思い起こしますが、今もって本当にそう思うところもあるのです、神の決心のクリスマスだと。

 決心は、向かい合う事柄に困難が伴う時に求められます。人間でも、困難に直面しつつも大切なことならば決心し貫こうとします。まして神は、人間がご自身の救いの御心を受けとめようとしない困難に向き合いつつも、その決心を翻されません。羊飼いたちに現れた天軍は、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ二14)と歌ったものの、地に平和は響きませんでした。やがて主イエスがエルサレムに入城なさる時、人々は「天には平和、いと高き所には栄光があるように」(同一九38)と、似たような歌を歌いはします。けれども、天軍の歌とよく比べると、「地には平和」ではなく、「天には平和」と歌っています。地において平和として照るはずの神の栄光ですが、人々は天軍のようには地の平和を歌えませんでした。地上の平和のヴィジョンを失ったからでしょう。実際人々は、「ほしいのは戦いのメシアだ。ろばに乗る平和のメシアではなく」と主イエスを十字架にかけてしまいます。

 それでも神の決心は揺るぎません。そもそもメシアを捨て去るような救いを失った世界だからこそ、神は救おうと決心されたのです。そもそも神の平和と響き合うことができない人間だからこそ、神は平和の君として主イエスをお与えくださったのです。与えられた御子に改めて目を注ぎたいのです。そこにこそ、神の決心が揺らいでいないことを知ることができるのですから。

 戦争のニュースを聞きつつ過ごすことになった一年でした。依然、人間を救いうる平和を見つけ出すことができずにいる世界です。しかし、世界の平和力を条件に神が平和を増し加えてくださるのではないのです。こういう世、こういう人間をなお愛し、神は主イエス・キリストをお与えくださいました。その決心の揺るぎなさのゆえに、再び平和の君イエスを迎え、「地には平和!」と世界が叫び歌う日が必ず来ます。
 

「若い日のために主が備えてくださった恵みの大きさ」

「若き日に、あなたの造り主を心に刻め。」(コヘレトの言葉12章1節)
 

 私は若い日に、神さまを知ることができたことを本当に感謝しています。小学3年生の時にイエスさまを信じ、同じ年に献身を決心しました。高校時代にはサッカーに明け暮れて、思いっきり泥にまみれ、大学時代には多くのすばらしい恩師、先輩、友人たちと出会いました。大島泉の家に入り浸って、キッチンワーカーをして奉仕をしていました(実際にはのびのびと羽を伸ばし、遊んでいました。神さまが創造された世界を満喫しました)。

 東京聖書学院でも、教団を越えて多くの献身者たちと出会いました。卒業して結婚し、妻と2人で教会で奉仕し、多くの教会員の方々と出会いました。中高生たちとしょっちゅう一緒に食事をし、一緒に遊びました。子どもたちが生まれ、子連れで留学し、アメリカにいる日本人、また世界中からの兄弟姉妹たちと出会いました。
 
 若い日に経験できたこと、出会った方々、一緒に時間を過ごした仲間たち……そんな中で私は育てていただいたことを思います。祈ってくださった多くの人たちがいました。また、声をかけ、時間をかけて交わり、自腹を切ってごはんを食べさせ、また黙ってサポートを送り、お金を握らせてくれた人たちがいました。そして、何より主は忍耐強く、その慈しみをもって支え、私を負ってくださいました。

 「若い日」はとてもすばらしい時です。そして、若い日に神さまとつながることができたということはかけがえのない恵みです。私たちは教会に通ってくる青年たち、少年少女、子どもたちに、心いっぱい愛を注ぎたいと思います。最後の責任はとってあげてください。尻拭いは先に歩む世代のめです。失敗するのも貴重な体験です。失敗するのを許して上げてください。生意気なことを言っても、正論をぶつけて押さえ込んだり、黙らせたりしないでください。いつも正解をおしつけるのではなく、自分で答えにたどり着くのも大切なことです。いつも思います。日本ホーリネス教団の青年たち、とてもすばらしいですよ。突っ込みどころも多いかもしれません。でも、ダメ出しするのではなく、励ましてあげてください。温かく見守り、時には具体的に、励ましの声かけをしてください。「がんばれ」もいいですけれど、「がんばってるね」 「すごい!」 「あなたたちのこと大好きだよ」 そんな声が彼らを笑顔にするのです。

 

じっと見る。

「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」(使徒言行録3章4節)

 今わたしは窓の外に広がる青空と、風にそよぐ緑の木の葉をじっと見ています。それはいつもそこにあるけれど、普段目もくれることのなかった景色です。しかしじっと見ていると、ふとした美しさを見つけ、感謝が生まれることがあります。そんなことはないですか。
 
 ある日、ペトロとヨハネが神殿に祈りに行き、美しい門をくぐろうとしたその時です。一人の男に呼び止められ、立ち止まってじっと見た。彼は生まれつき足が不自由で、神殿の門の前でいつも施しを乞うていた人です。ペトロにとって、いつもそこにいたけれども目もくれなかった人。しかし、この時は立ち止まり、じっと見たのです。じっと見る、この意味に適した漢字は「視る」でしょう。あなたはいつも何をじっと視ていますか。スマホやパソコンの画面ですか。人の顔色ですか。鏡ですか。目では見えているけれども実は視えていない、見過ごしているもの、無視してしまっている人がいないですか。
 
 ペトロは一人の人をじっと視た。彼が何を嘆き苦しみ求めているのか。銀や金を求めてはいるけれども、彼に必要なものは銀や金ではない。「持っているものをあげよう」。ペトロは何をあげたのか? 主イエスをあげた。主イエスを手渡し、彼の手を取って立ち上がらせた。彼はたちまち躍り上がって立ち、神を賛美し、神殿に入っていきました。不自由であった彼は、主イエスによって自由とされた。神殿の外で嘆いていた彼が、主イエスによって神の御前で賛美する者とされた。主イエスによって救われた。ペトロは主イエスを持っていたのです。イエスのことなんか知らないと三度も言ったペトロです。しかし、そのペトロを主イエスがじっと視られた。主イエスはその罪を負って十字架で死なれた。ペトロは主イエスによって赦され救われたのです。立ち直らされたのです。その主イエスの眼差しを持ってじっと視た。主イエスを手渡した。
 
 あなたは何を、誰をじっと視ますか。主イエスはあなたをじっと視ていてくださる。裁きの眼差しではなく、愛の眼差しをもって。その愛に応えて主イエスをじっと視る時、目が開かれていく。世界に目が開かれ、隣人に目が開かれていく。そこに嘆き苦しむ人が、生きづらさを感じ、罪に捕らわれ不自由な人が、主イエスを必要としている人がいます。立ち止まって、主イエスの愛の眼差しをもってじっと視る。あなたが持っている主イエスを手渡すのです。
 

備えていてくださる主

 
「私の神は、ご自身の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」

(フィリピの信徒への手紙4章19節)


 栃木キリスト教会は、1996年3月に現在の会堂を建築して、移転してきました。そして、駐車場として会堂脇にある、教会で行き止まりの道路を使用してきました。長い間、専用の駐車場が与えられることを祈ってきました。
 
駐車場用の土地購入

 駐車場用の土地購入昨年の11月ごろに、不動産会社の方から、「教会の前のAさん宅の土地を買ってくれる方はいませんか」と声をかけられました。その時は突然のこともあり、聞き流していました。年が明けると、Aさんの義理の息子さんが、「教会で買ってもらいませんか」と訪ねてこられました。Aさんの入院治療費に当てるということでした。Aさんとは移転してきて以来、度々献金や差し入れをしてくださり、良い近所付き合いをしておりました。また、台風19号の時は床上浸水をして、タンスの下敷きになって動けなくなっていたところを、丸山峰子牧師が見つけて、一命をとりとめたこともありました。
 
 その後、臨時役員会を開き協議しました。幸い購入に当てる資金があり、その金額で購入できるのであればと、交渉してみることになりました。また、建物を取り壊して、更地の状態での購入という条件を提示しました。

 交渉を進めていくうちにAさんの病状が悪化し、いつ亡くなるかわからないので、急いでほしいとのことでした。

 急遽、臨時総会を開き協議し、購入を決めました。2022年2月20日に売買契約をして、翌21日に不動産登記がなされました。後から聞いた話によると、Aさんは不動産登記がなされた後、亡くなられたそうです。

購入した土地の整備

 購入した土地を駐車場として使用するためには、整地しなければなりません。しかし、蓄えは土地購入のために使ってしまいましたので、資金がありませんでした。しかし、有志の方からの多額の献金がありました。見積金額には不足していましたので、イースター献金の「駐車場整備のため」として献金をお願いしました。集まった献金は、「多くもなく少なくもない」という金額で整備することができました。

 神さまは私たちの考えを遙かに超えたお働きをなさるお方であると、教会員一同感謝しております。

天国預金のお勧め

信徒教団委員 宮島 亮

 
「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
(マタイによる福音書6章19~21節)
 
 財務局のお仕事をするようになってから、全国の教会から献げられた献金が、とても尊い大切なものであることを、より強く認識するようになりました。そして、このことを改めて思いめぐらしていた時に、この冒頭の御言葉が示されました。私たちが主への感謝の思いを持って献金することは、まさに天に宝を積んでいることなのだと、改めて思わされています。

 『天に宝を積む』ということは、単に献金のことだけを指しているのではないと思います。私たちが飢えている人に食事を与え、のどが渇いている人に水を飲ませ、住むところのない人に宿を貸し、着るものが無い人に服を着せ、病気の人の世話をし、囚われている人を訪ねるときに、主はそれらの行いを喜んでくださり、尊い宝物として私たちの『天の預金通帳』に積みあげてくださるのではないでしょうか。主は、私たちがさらに献げ
ることができるように、また主に喜ばれる善い行いができるようにと、祝福のうちに導いてくださいます。
 

「必ず、私はあなたがたのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ書3章10節)

 私が尊敬するマザー・テレサの詩の一部をご紹介します。
 
『 主よ 今日一日 貧しい人や病んでいる人々を助けるために 私の手をお望みでしたら
 今日 私のこの手をお使いください
 主よ 今日一日 友を求める小さな人々を訪れるために私の足をお望みでしたら
 今日私のこの足をお使いください
 主よ 今日一日 優しい言葉に飢えている人々と語り合うために
 私の声をお望みでしたら
 今日 私のこの声をお使いください』
 
 この詩のように、私たちの手や足や声や心を、それを必要としている人たちのために用いていただくときに、真の意味で私たちは天に宝を積むことになるのではないでしょうか。

 私は愛するみなさんに、天国預金をお勧めいたします。天国預金は私たちの人生を、より豊かに祝福してくれるからです。
 

限りなく深い主の愛

信徒教団委員 大枝千恵子

 
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。」(コリント信徒への手紙一13章4~6節)
 かなり前のことですが、当時、私は非常に悩み、考え込んでしまう課題にぶつかっていました。時が過ぎた今、その具体的な内容についてはっきりとは思い出せませんが平安がなく、「主よ。どうしてこのようなことが……」と、悶々とした中で祈りつつ、日々が過ぎていきました。
 
 そのような中で、ある時「愛は寛容であり、愛は情け深い……(口語訳)」の御言葉が私の心に響きました。主の御心だと察したのですが、その御言葉に向かう勇気が出ませんでした。無理だと思いました。重く感じ、脇に置いて過ごしていました。けれども、家事をしていても、仕事をしていても、常にその御言葉が私に迫りました。ある日、私はとうとう観念しました。「主よ。わかりました。今の私に必要な御言葉なのですね。受け取ります」と祈りました。すると主は、この御言葉を『生涯の言葉、糧とするように』と語りかけてくださり、そして光がサァーッとさすように瞬時に、私を悩みから解放へと導いてくださいました。すべての問題や課題は、主から来る愛の中で解決していくのだということを学びました。主に委ねきること、ひたすら祈ることか、解決への唯一の近道であるのですね。
 
 私たちの罪を担い、十字架におかかりくださり、救いの道を開いてくださった主イエスさまの歩まれた道には、限りなく深い愛が溢れ、刻まれていることを覚えます。姦淫の女に対して、主イエスさまは罪に定めることはなさらず、やり直て生きるいのちの道を与えられました。また、弟子たちの足を洗うという行為を通して、主は弟子たちに愛をあらわしてくださいました。その他、沢山の主の愛のみわざを、福音書の記事を通しても知ることかできますし、私たちの日々の生活の中にも、生きて勣かれる主の愛の恵みを覚えます。
 
 パンデミックの最中、戦争も起き、平和を強く願わされる時代の只中にあり、私たちの心の思いや言動は、さらに主の愛に深く根差すものでなければならないことを思わされます。
 
 「互いに愛し合いなさい」という主の戒めを深く心に留め、復活の主を仰ぎ見て、聖霊の助けをいただきつつ、愛を追い求めて共に歩んでまいりましょう。

すべての聖なる者たちのための祈り

宣教局長 中道善次

 
「どのような時にも、霊によって祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ五
18)

 OMSと日本ホーリネス教団は、長年の宣教協力にある。歴史をさかのぼれば、日本全国へのトラクト配布や天幕伝道がある。ECC(「すべての造られたものに福音」の部署)による開拓伝道の推進。そして今は、T&M(訓練と増殖)とコーチングである。

 しかし、忘れてはならない大切な働きは、「執り成しの祈り」の働きである。

 私がそれを知ったのは、2011年夏であった。T&Mは、まだ「チャーチ・マルティプリケーション」(教会増殖)と呼ばれていた。OMS本部がある米国インディアナ州グリーンウッドで2週間にわたり、教会増殖セミナーが開催された。宣教局に関わっていた私は、日本で働くOMS宣教師の誘いもあり出席した。しかし、当時の私は個人的な問題を抱えており、教会増殖の学びどころではなかった。2週間の滞在の最初の木曜日、元OMS日本の宣教師で、OMS本部近くに住んでいたミーク先生から、「私たちは毎週木曜日の昼食時、断食して日本のために祈っています。日本のための祈祷会に来ませんか?」と誘われた。
 
 祈祷会が持たれていたのは、M F M(メン・フォー・ミッション)のオフィスがある建物の一室であった。10名ほどの人々が祈祷会に集まっていた。リーダーは信徒のM兄。彼は今でも私の祈りのサポーターである。

 メン・フォー・ミッションの働きは、建築や修繕だけでない。「執り成しの祈り」も大切な働きだ。祈祷会には、OMS日本で働かれたアモス先生、ミーク先生、エドワーズ先生がおられた。彼らは日本での働きを終えても、日本を覚えて祈っている。心が熱くなった。

 テーブルの上には、日本地図が広げられていた。そして、日本で働く宣教師たちのプレイヤーカード(祈りの支援を願う葉書サイズのカード)がおかれていた。そこには当時、茅ヶ崎に遣わされていた短期宣教師エミリー・スミス姉のカードもあった。OMSが開拓した地域にはピンが刺され、彼らはそれらの教会のためにずっと祈り続けている。

 2012年5月に、「祈りの歩行チーム」が日本に来た。信徒が主導する祈りのミニストリーは、OMS本部だけでなく全米に広がる。彼らの祈りの助けもあり、茅ヶ崎教会は土地とビルを取得するに至った。私たち(JHC)は、OMSにいつも祈ってもらっている。私たちもOMSの祝福を祈る者でありたい。
 

人が神にならないために

 

総務局長 佐藤信人

「静まれ、私こそが神であると知れ。」(詩編46:10)
 
 ロシアによるウクライナ侵攻が続いています。プーチン大統領は、すべてのことを自分の思い通りに進めようと、力にモノを言わせて周りの人々を動かし、反対する者がいれば容赦なく消し去ろうとしています。私たちは今、神に成り上がって生きる独裁者の恐ろしい姿を見せつけられています。

 しかし、これは遠い世界の話ではなく、プーチンのような人は私たちの周りにもいるように思います。自分の思い通りにならないと気が済まず、そのためには地位や立場、お金や腕力などを用いて相手を自分の思いのままに動かそうとする。自分が置かれている小さな世界の支配者、独裁者になって生きようとする人たちが、職場や学校、家庭や地域にも存在するのではないでしょうか。そればかりか、私たち自身の中にも、他者を自分の思いのままに動かしたいと願う支配者の心が潜んでいるのではないでしょうか。プーチン大統領の横暴を目にしながら、「私の中にもプーチンがいる」という恐ろしい現実に気づくべきでありましょう。
 
 私たちをそのような罪から解き放つために、「静まれ、私こそが神であることを知れ」と主は語られます。人間に過ぎない者たちがこの世の神になろうとする、支配者になって生きようとする、その罪から逃れる唯一の道は、主こそ神であることを知ることです。人が神にならないために、神が人となってくださり、十字架による贖いのわざを成し遂げてくださいました。このお方は、ご自分の力を用いて罪人たちを消し去るのではなく、罪人たちの手によって十字架に上げられてくださいました。この主イエスこそ、私たちがひれ伏すべき真の神です。

 私たちの信仰生活における本当の戦いは、キリストを退けて自分が神になって生きようとする、古き人との戦いです。日ごとに、この古き人が死に、キリストのいのちに新しく生かされる、聖化の道に生きるようにと私たちは招かれています。そのとき、「静まれ、私こそが神であることを知れ」との語りかけは、私たちを罪の囚われから解き放つ喜びの知らせに違いありません。私たちはもはや自分が支配者となる必要はありません。主イエスが恵みをもってすべてを治めてくださるからです。そのお方に向かって、「あなたこそ私たちの主」と喜んでひれ伏すところに、人が人として生きる健やかな歩みが生み出されていくのです。

主に遣わされたわたし

教団委員長 大前信夫

 
「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。』」 (ヨハネによる福音書20章21節)
 
 2019年12月に初めて報告された新型コロナウイルス感染症は、社会に大きな不安を与えました。そしてその不安は、多くの人を自分を守るため安心できる場所に引きこもらせました。それは私たちの信仰生活も同じであったかもしれません。

 主イエスの傑刑の後、弟子たちもユダヤ人を恐れ、家の戸に鍵をかけ閉じこもりました。そんな彼らの不安と恐れの中に主イエスは立ち、「平和があるように」と告げられました。この言葉は、弟子たちに主イエスにある喜びを取り戻させました。弟子たちはこれで何もかもが元通りになると思ったかもしれません。

 しかし主イエスは重ねて、「平和があるように」と告げられます。それはただ繰り返されたのではなく、弟子たちへの祈りのようです。なぜなら恐れて閉じこもる弟子たちを、主イエスを拒んだ社会に遣わそうとされていたからです。そして、これがご自身を現わされた復活の主のご目的でもありました。

 父が私をお遣わしになったようにと、主イエスは言われました。弟子たちは自分の理想を追い求めるのでも、長年の夢を実現させるためでもありません。神に託される使命に向かって遣わされたのです。
 
 新年度、教団は「主イエスに遣わされたわたし」というテーマを掲げました。「あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています」(エフェソ2章20節)と言われるように、今日の教会は使徒たちの教えを受け継ぐのですが、同じように神に使命を託され遣わされていることも受け継ぐのです。それは、今あなたが置かれている所に、神があなたに託された働きがあることを意味しています。たとえ意に沿わない場所であっても、もう自分にできることはないと思えても、その地域で、その状況の中で、神があなたに期待されているものがあるのです。
 
 だからもう一度あなたが置かれた場所の必要を考えてみましょう。そのために諦めないで最善を尽くしてみませんか。主イエスの復活は、人の常識や計算がすべてでないことを表しています。だから、主イエスが思いがけない扉を開かれる明日を待ち望むのです。置かれた場所に主イエスのいやしと平和が広がっていく夢を、私たちの祈りにしませんか。

向きを変えて〜卒業する皆さんに向けて〜

東京聖書学院長 錦織 寛

「あなたがたは長くこの山地にとどまっている。向きを変え、出発して……」(申命記1:6〜7)
「あなたがたはこの山地をもう十分に歩き回った。向きを北に変えなさい」(同2:3)
「私たちは向きを変え……」(同28、31)

 3月は卒業式の季節です。高校を卒業して、親元を離れて大学に進学しようとする方々、大学を卒業して社会人になろうとする方々も多くおられることでしょう。東京聖書学院でも、この3月に5人の方々が卒業しようとしておられます。卒業はゴールではありません。出発の時でもあります。
 
 卒業する方々はある意味、その学校の最終学年におられます。多くの責任を負ってこられたと共に、その学校においては一番のボスのように振る舞うことができたかもしれません。その学校において、いろいろなことを一番よく知っているのは皆さんで、皆さんは後輩に頼られ、また当てにされてきたことでしょう。それは皆さんのとても居心地のよい場所になっていたかもしれません。
 
 イスラエルの民は、荒れ野で40年を過ごしてきました。それは彼らの不従順のゆえに始まったものでしたが、同時に主はそのような中にあっても彼らを守り、大きなあわれみをもって彼らを支えてくださいました。40年の天幕生活は大変であったでしょうけれども、荒れ野の生活しか知らない若者たちも多くいたでしょうし、荒れ野の40年間はほぼ戦いもなく、また何もしなくても朝にはマナが降り、夕にはうずらが飛んできて、食べるものに事欠かない・・・・・・ある意味で、居心地の良さを感じる部分もあったかもしれません。
 
 けれども、ここで主はモーセを通してイスラエルの民に、「向きを変えて、出発」するようにと語られます。それはある意味、今まで歩んだことのない未知な世界、何が待っているか分からない、私たちを時に不安にさせるような世界かもしれません。そこには今まで経験したことのないような戦いが待っています。ヨルダン川を渡ったら、マナが降ることは止み、もう一度、新しく主に信頼して歩む生活が始まろうとしています。けれども、荒れ野がどんなに居心地が良い場所になっていたとしても、主が語られるとき、そこに止まっていてはいけません。主が語られるように、向きを変えて出発するのです。知ってください。主が必ずあなたと共に行ってくださいます。そして、主はあなたにすばらしい祝福を備えていてくださるのです。
 
 卒業生の方々だけではありません。私たちは、新しい歩みを始める方々のために祈り、励まし、送り出すと共に、皆、自分の歩みに一つの区切りをつけて、新しい思いで新しい年度に踏み出して行きたいと思うのです。

星を仰ぎ見て、思う。

総務局長補佐 松本 順

 夜、天を仰ぎ星を見ることはありますか。この季節、夜空は澄み切っていて星をたくさん見ることができます。私は毎夜、星を仰ぎ見て数えるのを楽しみにしています。冬の晴れた夜だと、多い時は20ほどの星を見つけられます。夏だと多くて5つ。たくさん星を見つけられるとうれしくなりますから寒い夜も悪くありません。そんな時に心に思う御言葉があります。
 
あなたの指の業である天を
あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。
人とは何者なのか、
あなたが心に留めるとは。
人の子とは何者なのか、
あなたが顧みるとは。
(詩編8編4、5節)
 
 目に見える星は多くはありません。でも、それは私の目に見えないだけで、空には満天の星、数え切れない星がある。ハワイのマウナケア山から見た星空は、まさに満天の星と驚く数の流れ星(オンラインで中継されています)。神さまの据えられた星の輝きの多さに圧倒されます。神さまがアブラハムに、「星を数えることができるなら、数えてみなさい」と言われた意味がよくわかる。数えきれません。私の目に見える神さまの指の業、恵みはほんのわずか。でも、それは見えないだけ。しかし、暗くて寒い闇、苦しみの中で悩みの中で仰ぎ見る時、溢れるばかりの神さまの御業が、数えきれない恵みが降り注がれているのを見ることができる。明るく温かな昼間には見えない。深い闇でこそ目が開かれ、寒い夜でこそ輝きが増す。その神さまの恵みを見て、思う。 
 
 計り知れない天の広さ、月や星がちりばめられた宇宙の大きさ。その中にあって私という存在がなんとちっぽけな者か。神さまの心に留められるような者ではない、神さまに顧みられるような者ではない。小さく弱く罪深い私。なのにこんな私が何者なので、神さまは心に留め顧みてくださるというのですか。あなたが据えられた月と星を仰ぎ見て、思う。計り知れない神さまの愛を十字架に仰ぎ見て、思う。もう何者かであることを誰かに承認してもらう必要は無い。何者でも無い私を「愛する子」と呼んでくださり、心に留め、顧みてくださる神さまを仰ぎ見て、思う。
 
 今も闇に覆われ寒さに震えるような状況です。しかし、神さまの愛する子らは星のように輝いている。キリストのからだである教会は世の光として闇の中に輝いている。今注がれている、神さまの恵みと愛を仰ぎ見て、思う。

主よ、我らの主よ御名は全地でいかに力強いことか。

(詩編8編2節)

向こう岸に向かって

教団委員長 大前信夫

  さて、その日の夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。(マルコによる福音書4章35節)
 
 新しい年のため、どのような主からの挑戦、約束を受けとめておられるでしょうか。

 そんなことを考える時でない。もう人生の夕暮れだから。静かに過ごせれば良いのだ。自分の現実を見ると、そんな気持ちにもなるかもしれません。しかし、主イエスは夕方になって弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と声をかけられたのです。
 
 「向こう岸へ渡る」。それは主イエスが示される信仰のゴール、人生のゴールへと進む信仰者の姿であり、さらに教会の姿を表しています。その目的はただ湖を渡ることだけではありません。湖をどのように渡るのか、つまりそこで与えられる経験を経て、主イエスを知り、主を信頼する者になっていくこと、そこに真の目的がありました。

 しかし、当の弟子たちはそんなことに気づいていません。思いがけない突風に、舟のコントロールを失いました。舟を扱い慣れた弟子たちでしたが、死を覚悟するほどだったのです。弟子たちは恐れ、艫の方で眠っておられた主イエスに言いました。「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」。私たちは苦しんでいるのに、どうして寝ているの。その驚きは、「だから私たちも大丈夫」との信頼に結びつきません。それは不満、怒りになりました。「私
がどうなっても構わないのですね」 「私なんてどうでも良いのですね」。
 
 予想外の出来事に心のコントロールを失い、恐れに捕らわれる時、どうしても人の弱さが剥き出しになってしまいます。強い不安、身勝手さ、人への無関心などなど、自分って、この社会ってこの程度なのかと思うほどです。
 
 このような思いがけない突風、手に負えない逆風は、主イエスと共に進む歩みにおいて、前に進むことを妨げるものに思えるのです。しかし、この出来事においては、それら突風、逆風は妨げなのではなく、弟子たちの弱さを露わにするものに過ぎませんでした。その弱さとは、「どうせ私なんて」と言ってしまう神の愛への信頼のなさでした。
 
 私たちの前に開かれた新しい年、主イエスはどこに向かわせられるでしょうか。弱さがむき出しになり、「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」との声を聞くかもしれません。それでも主が指し示される岸を見つめましょう。主に大きな期待をもって進みましょう。主が共におられるのですから。恐れるな。

2021年

さあ、光を祝いましょう

 教会堂の前のもみの木に、毎年イルミネーションを施します。小さくはない木なので、毎年苦労します。ある年、クリスマスの後、それを片付けていたら、教会の前を通りかかった小さな女の子を連れたお母さんが、「この子が楽しみに見ていました。ありがとうございました」と言われ、嬉しいやら後に引けないやら。昨年も苦労して設置し終わって、自然とみんなで祈りました、「どうか、教会にある光がこの町に届きますように」と。数週間後、葬儀があって、その葬儀社の人から、「この教会の前をよく通るがイルミネーションを見るたびに、コロナ下で落ち着かない心が明るくなります」と言われ、リップサービスと思いつつもうれしく思いました。みんなどんなに光を求めていることでしょう。闇が大好きという人はいないでしょう。子どもの頃、何度も見た悪夢は、真っ暗な部屋でやっと電灯のスイッチを探し当て点けるのですが、それこそ〝蛍光灯〟で、いつまで待っても点かず、恐怖心が極まって目が覚める、というものでした。光がないのは、恐ろしいことです。

 「まことの光があった」(ヨハネによる福音書一9)。この光によって世界はでき、人間も造られました。だからこそ、光とは人間にとってあってもなくてもよいようなものではありません。どうしても必要なものです。「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」を、ある人は「この方は、この世にうまれて来るすべての人を照らすべきまことの光であった」と訳しています(塚本虎二訳)。つまり、世に生まれてくる人には漏れなく光が照っているべきで、主イエスはその光だと言うのです。心惹かれる訳です。人間がどんなに神に愛され、光の中で命が与えられたか。しかし、人間はせっかく与えられている神の光を忘れます。その光に気づかせるために、主イエスがやってこられました。苦しみにも、死の闇にも、神の光があることを示すためです。十字架の道を歩まれ、闇の最も深いところで改めて、私たちすべてを漏れなく、死の闇すら照らす光があることを明らかにしてくださいました。
 
 一年を振り返り、あのことにもこのことにも確かに光が届いていたことを知るクリスマスとなりますように。クリスマスの祝いはイルミネーションを設置するより大切な教会の使命です。もちろん、光は私たちが灯すのではありません。神が灯してくださった光を喜ぶのです。私たちの使命として。

時を与えてくださる主

「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。……しかし、あなたは、何事にも身を慎み、苦しみに耐え、福音宣教者の働きをなし、自分の務めを全うしなさい。」 (テモテへの手紙24:2~5)

 神さまはいろいろな時を与えてくださいます。私にとって今は、自由に使える時間を与えられています。長年勤めていた会社を退職し、両親の介護、家庭、教会、主のために使える時間を与えられていると思います。
 
 武毛教区信徒代議員として、6期12年間教団のご奉仕にあたらせていただき、教団監事としても3期、教団委員会をとおして教団委員の方々と深い関わりを持ってきました。本年度からは奉仕局長のご奉仕が与えられて、何もわからないまま、奉仕局の主事や局員の先生方に助けられて今に至っています。

 奉仕局の事務連絡として、隠退を迎える先生に電話で話す機会があり、かつてお世話になった頃を思いだされた反面、お年をめされた先生が電話の向こう側におられました。奉仕局長として、どれだけ恩返しができるかと思ったことでした。

 奉仕局としては、退職金・謝恩金をもって隠退を迎える先生方や隠退された先生方を支えることになります、財源は教会からの尊い献金とそれぞれの基金です。また、基金についてはリスクを伴いますが、基金の枯渇をさせないために運用しています。

 現役教師の先生方の福利厚生については、一部停止とさせていただいております。手当・援助の見直しも検討課題の一つとなります。

 隠退された先生方の安否確認も大切な働きとなります。コロナ禍にあっては、直接訪問してさしあげたい先生方も居られますが、電話・お手紙を差し上げて確認させていただき、交流誌「めぐみの輝き」の原稿をお願いしています。
 
 主は「自分の務めを全うしなさい」との御言葉を与えてくださいました。コロナ禍の今にあっても、神さまが与えてくださった時ですから、神さまに御業を期待し、信仰と希望を持って前に進んで行きたいと思います。

大いなる祝福の約束

信徒教団委員 大枝 千恵子
 

 神は言われた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」(創世記22:2)
 
 イサクはアブラハムにとって、神から与えられたかけがえのない大切な約束の子でありました。いよいよ定められた場所に着き、アブラハムがイサクを屠ろうとしたその時、神は御使いを通して言われました。

「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今わかった。……私はあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように大いに増やす。」(創世記22:12、17)
 
 アブラハムの信仰をご覧になり、イサクを献げることに待ったをかけ、子孫の祝福を約束してくださった神さまは、後に独り子なるイエスさまを、私たちの救いのために献げてくださいました。父なる神さまの驚くべき深い御愛を仰ぎ見る時、今握りしめているものはないだろうか、すべてを空にして愛する主の前に出ているだろうか、ひたすら主の御旨を求めているだろうかと自らを探る思いになります。そして、何とか主の御愛に応答できる者になりたいという願いが湧き上がり、胸に迫ります。

  私は教団のご奉仕に加わり、半年が経過しました。今年度の教育局主催の研修や祈り会は、Zoomによるものではありますが、スタッフとして参加し、貴重な学びの恵みにあずかることができ感謝しています。先生方や勧士の方々と触れ合う機会が与えられ、立てられた尊い器のお働きがより身近に感じられるようになり、只々感謝でいっぱいになります。これからのお働きの上に聖霊の豊かな助けと導きがありますよう、切に願い祈ります。
 
 昨年からの新型コロナウイルスのパンデミックは、日を追う毎に拡大しており、一体いつ終息するのだろうかという思いになります。また、今まで経験したことのないような自然災害も各地で発生しており、正に今は混沌とした時代の真っ只中にあると思えてきます。

 しかし、このような時だからこそ、一人でも多くの方が福音に触れ、救いの恵みに導かれますよう、心から祈っていきたいと思います。そして、全国各地に置かれている教会、また私たち一人ひとりが豊かに用いられ、この試練の先にある、困難な状況を超えた神さまのご計画と大いなる祝福の約束を信じて、さらに祈りつつ前進していきたいと願っています。

 

そして未来へ次世代に繋ぐ
信仰の財産

財務局長 宮島 亮 

 
「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちことを思い出しなさい。彼らの生き様の結末をよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13:7~8)

 教団財務局のご奉仕が与えられて、約半年が経過しました。財務局の仕事は初めてのため、財務局の主事や局員、教団委員の方々に、いろいろとご迷惑をおかけしてきましたが、何とかみなさんに支えられて、今日まで来ることができました。

 改めて言うまでもなく、教団の財産は、全国の教会からの尊い献金の積み重ねです。言い換えると、教団の長い歴史の中で築きあげられてきた、尊い信仰に基づく献金の積み重ねと、的確な資金運用がなされてきたからこそ、今の教団が成り立っているともいえるのではないでしょうか。このことを思う時に、改めて身の引き締まる思いがいたします。

 ところで、過去に今の教団の財務管理の基礎を築いてくださった方がおられます。彼はいつも教団の将来を見据えて、地道な資金運用のご奉仕を、極めて誠実に、熱意を持って取り組んでくださいました。資金運用はある意味でとてもリスクの多い面があります。その大変なご奉仕を、彼は教団の過去の歩みを振り返りつつ、今なすべきことを的確な判断力をもって取り組まれ、教団の将来を見据えながら、次世代に繋いで行こうという強い決意と信仰を持って、財務の基礎を築き上げてくださいました。しかし、教団のご奉仕を辞されてからしばらくして重い病を患い、67歳の若さで天に旅立っていかれました。最期は奥さまの歌われる賛美を聴きながら、もしもこの病が癒されたら、東京聖書学院で学び、故郷の青森・弘前の地で伝道・牧会をしたいという大きなビジョンを胸に抱きつつ、天に凱旋して行かれました。
 
 私たちの教団は、じつに多くの信仰の諸先輩の方々が築いてくださった、信仰の財産を受け継いで現在に至っています。今度は、今の私たちが次世代の方々にその信仰の財産を継承して行かなくてはならないと思います。

 コロナ禍で、私たちはある意味で身動きがとれない状況におかれているようにも見えますが、決して悲観的になることなく、昨日も今日も、また永遠に変わることのないイエス・キリストを仰ぎ見つつ、将来への信仰と希望を繋いで行こうではありませんか。

若者は幻を見、老人は夢を見る

次世代育成プロジェクト委員長 錦織 寛

 
 いよいよユースジャムがやって来ます。2004年から始まったユースジャムも、5回目になります。最初、牧師たちがリーダーシップを取りながら、手探りでスタートしました。振り回されてしまった青年たちは、とても疲れたことと思います。そして、今回は新型コロナウイルスの感染拡大がおさまらない中で、初めてのネット開催という形になります。準備する青年たちも、実際に同じ部屋で集まって議論したり、祈り合ったり、準備する機会はとても少なかったと思います。牧師たちも数名はアドバイザーとして関わっていますが、青年たちがリーダーシップをとり、企画を練り、ここまで準備をしてきました。
 
彼らはある者は仕事をし、またある者たちは勉強をしながらの準備でした。本当に大変だったと思います。けれども、彼らは本気でこれに取り組んできました。本気で時には議論を文字通り戦わせ、本気で祈りを積み上げてきました。
 
 今回のジャムは40歳以上の人は牧師も含めて、直接的なプログラム参加はできません(但し、ファミリージャムは49歳まで)。集会に関しては後からユーチューブ配信される予定なので、楽しみにしていていただければと思います。どうか祈りによって参加してください。また企画する青年たち、参加する若者たちに励ましの声をかけてください。
 
 次世代育成の働きは、次の世代を育てるということです。一人ひとりが先輩の世代の人たちから学び、彼らに習いながら、次の世代を育てていくのです。次の世代を育てるということは、次の世代を受け入れ、愛し、仕え、そのために喜んで犠牲を払うということです。教えることもしますが、それは長々とうんちくを語るというよりも、彼らに寄り添い、共に時間を過ごし、彼らに聞き、また次の世代のためによい模範を示していくということです。それは次の世代にバトンを託し、働きを委ねていくということでもあります。それは次の世代に丸投げするということではありません。失敗もあるでしょう。失敗をすることを許すということも大切なことです。失敗からしか学べないこともあるからです。けれども、失敗したからだめではなく、尻拭いは喜んでしながら、彼らがそこで学び、経験を積み上げていくことを励ましていくのです。

 そして、若者もまた自分の次の世代を育てる意識を持ってほしいと思います。そのようにして私たちは聖霊による夢を、幻を、みんなで見せていただきたいのです。
 

神の言葉はつながれていません

宣教局長 中道善次
 

 東京聖書学院修養生のとき、私が夏期伝道に派遣された教会の先生から、「絵はがき」をいただいたことがある。コンクリートの壁を背にして座る囚人パウロの姿が描かれていた。手や足に鎖がつながれている。その絵の横に、「しかし、神の言葉はつながれていません」(Ⅱテモテ2:9)の聖句が記されていた。パウロからのメッセージを聞いた思いがした。
 
 昨年から今年にかけて、私たちは新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けた。会堂に集まる礼拝を何度か中止した。もちろん、地域により緊急事態宣言発出の回数が異なり、コロナ対策の方法もさまざまである。

 私たちの教会(茅ヶ崎、鵠沼、秦野)では、昨年度、首都圏に出された2度にわたる緊急事態宣言の期間、20回の主日礼拝をオンラインのみで行った。礼拝はオンラインで続けられても、どうやって伝道したらいいのだろう?」、そのような歯がゆさを覚えていた。

 しかし、コロナ禍にあっても、主なる神ご自身が宣教のわざを進めてくださる。

 冬のある主日の朝、茅ヶ崎教会の会堂でその日に配信する礼拝の録音を終えた。自宅に戻ろうとするとき、一台の自動車が駐車場に停まっていた。「誰がこの時間に自動車を停めているのだろう」。そこには、コロナ禍で礼拝を中止しているのに人が来るはずがないと思い込んでいた自分がいた。自動車の中には、2人のお子さんを連れた女性がいた。「教会学校に子どもを連れて来ました。私はクリスチャンではありませんが、子どもの教会はやっていますか?」と問われた。「今はZoomで教会学校を行っています。もうすぐ始まります。Zoomを使えますか」と尋ねた。女性は、「Zoomはやったことがないので帰ります」と言われた。私は、「せっかく来られたので、20分だけですが、お子さんのために集会を持ちます。どうぞ教会の中にお入りください」と案内した。先に自宅に戻っていた娘たちを呼び戻し、ギターを弾いてもらい、賛美を歌い、聖書の紙芝居を読んだ。彼らはそれからずっと続けて教会学校に来ている。

 コロナ感染拡大で会堂の礼拝を中止していたとき、神は教会学校に子どもたちを送ってくださった。「神の言葉はつながれていない」というパウロの言葉を思い出した。神は今もご自身の宣教のわざを進めておられる。
 

我は聖霊を信ず

 

総務局長 佐藤信人


「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20:22)
 新型コロナウイルスの影響を受けて、多くの教会では、礼拝の形式が様変わりしたことと思います。新規感染者の増減により、出席人数の制限を設けたり、さらには集まることそのものを中止したりなど、状況に即した対応が繰り返し求められていることでしょう。このため、インターネットを利用して礼拝のライブ配信を行っている教会、あるいは説教原稿を印刷して配付する形で礼拝を続けている教会も多くあることと思います。
 
 このような形での礼拝が一年以上も続く中で、牧師としては、「果たしてこれで教会員の信仰が養われていくのだろうか」 「コロナが収束し、制限なく集まることができるようになったとき、教会はどうなっているのだろうか」という迷いや懸念といったものを抱いているのではないでしょうか。
 
 そのように迷いつつではありますが、たとえどのような方法や手段であったとしても、神のことばが説き明かされるとき、そこに聖霊なる神が生きて働いてくださって、聴く一人ひとりの心の内にみことばを届けてくださり、「アーメン」と応答する信仰を呼び起こしてくださると私は信じています。
 
 今から120年前の1901年4月、中田重治、カウマン夫妻らによってホーリネスの宣教が開始されました。そのホーリネスが大切にしてきた信仰は、みことば信仰と表裏一体となった聖霊信仰です。すなわち、みことばが語られるとき、そこに聖霊なる神が生きて働いてくださるという信仰でした。死から甦られた主イエスが、いのちを失っていた弟子たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、新しいいのちに生かしてくださったように、今も主は、霊感された神のことばをとおして、信じる者たちに信仰のいのちを豊かに注いでくださると先達は堅く信じたのです。
 
 そのホーリネスの流れに生きる私たちは、コロナが猛威を振るうこのようなときにも、「我は聖霊を信ず」と告白し続けたいと思います。インターネットの向こうで、教会の方々がどのようにこれを聴いているのか、説教者には分かりません。しかし、神のことばが説き明かされるとき、そこに聖霊なる神が確かに働いてくださり、一人ひとりを生かしてくださると信じて、喜びの知らせを語り、また聴く務めに励む私たちでありたいと願います。
 

恐れるな、主が共におられる

教団委員長 大前信夫
 

 「恐れるな、私があなたと共にいる。たじろぐな、私があなたの神である。私はあなたを奮い立たせ、助け、私の勝利の右手で支える」(イザヤ41:10)

 一昨年福島に遣わされた私たち夫婦を、友人が県沿岸部に案内してくれました。もちろん原発事故のその後を知るためでした。この事故の後だったでしょうか、「正しく恐れる」というフレーズで、放射能とその付き合い方について語られていました。しかし、10年を経ても福島は原発事故を抱えたまま。この現実の中で「正しく恐れる」というフレーズに、人間の知恵と知識をもって事に当たれば、恐れなくても大丈夫との人の傲慢さを感じてしまいました。やはり恐ろしいものは恐ろしいのです。
 
 ところで教団総会において承認された右記の今年度のテーマ、年間聖句には「恐れるな」とあります。私たちは、恐れることは神を信頼しない不信仰だと考えますから、これを命令、戒めのように受け取るかもしれません。でも前後を読むと、神は厳しく恐れるなとは言われていないようです。この言葉は、不信仰だと否定するものではなく、誰でも恐れる、恐れるのが当然という現実に直面している信仰者への励ましだと思うのです。
 
 2月13日、福島県で震度6強の地震が起こりました。この強い余震は、10年前の恐怖をよみがえらせました。ある人たちには、被災経験が過去の思い出にはならず、現実のまま、いや傷ついたままなのです。こうした癒しを必要とする人や社会を見ると、この地に遣わされた教会、信仰者の使命は大きなものです。人の小さな愛と力で何ができるだろうと思うばかりです。
 
 このイザヤ書にある神に選び出され、神のわざを託された「しもべ」(889節)とされる人々も、誰だって恐れる現実の中にありました。だから、神は「恐れるな」と語られたのです。そして、あなたが見ている現実がすべてではない、あなたが恐れる現実の中に私が共にいるから、恐れるあなたを奮い立たせ、助け、支えると約束されました。
 
 恐れる現実はそう簡単に変わらないかもしれません。しかし、そこに神が共におられます。私たちは何があっても恐れないと言えるような勇者ではないかもしれません。だから神に向かって祈りの手を上げるなら、その手を掴むように神が勝利の手をもって支えられます。そして、恐れを喜びに換えられる神を知るのです。新しい年度の歩みに踏み出す人たちよ、恐れるな、主があなたと共におられます。
 

主が輝き出で、主の栄光が現れる

東京聖書学院長 錦織 寛

そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけられた。(マルコ5:24)
 
 会堂長のヤイロは群衆をかき分け、主イエスの前にひれ伏ししきりに願いました。幼い娘が瀕死の状態だったからです。顔を地面にすりつけるようにして願ったのは、目と目を合わせて願える立場ではなかったからです。「シナゴグ」と呼ばれる会堂は律法学者、ファリサイ派のホームグラウンドであり、ヤイロはその仲間でした。同書3章には、ファリサイ派の人々はヘロデ党の者たちと主イエスを殺す陰謀を企てたとあります。ヤイロと主イエスとはきわめて険悪な関係にあったのです。しかし、娘の命には変えられない。ヤイロはなりふり構わず必死に願ったのです。それに対する主イエスの応えが冒頭のみ言葉です。何も言わずに一緒に出かけられたのです。
 
 東日本大震災から10年を迎えました。被災地ではめざましく復興が進み、災害の傷跡はすっかり取り去られてきました。しかし、家族を失い、家や故郷を失った人々の心の傷は今もなおうずいていると、現地の牧師が話してくださいました。そうした方々の心が、主によっていやされるように、これからもともに祈りつづけてまいりたいと思います。
 
 震災の一ヶ月後、携行缶2個にガソリンを詰め、シャベルと長靴などを車に積んで、緊急支援対策室の先生方の先導の下、修養生とともに石巻にボランティアに行ったときのことを今も鮮明に覚えています。この被災地でのボランティア活動をとおして、これまで私のいだいていた宣教のあり方を、主は大きく転換してくださいました。ひとつは、福音宣教は教派の隔てを取り除くものであるということです。主の御心は、教会は違っても災害支援という志の下にひとつとされることでした。もうひとつは、宣教は出て行くものであるということです。助けを必要とする人のもとへ行ってよく話を聴き、善意と誠意をもって最善を尽くすということです。
 
 主イエスはヤイロの要求に無条件で応えられました。無言のままヤイロとともに出かけられた主の姿に、はかり知れない神の愛が表わされています。東日本大震災後、地震や気象災害が全国各地で相次ぎましたが、被災地には、常に黙々と支援活動にいそしむキリスト者の姿がありました。そしてそこには、人の心をいやし、生きる勇気を与える神の無言の愛が注がれてきたのです。

 神の無言の愛にいやされて

奉仕局長 佐藤義則

 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけられた。(マルコ五24)
 
 会堂長のヤイロは群衆をかき分け、主イエスの前にひれ伏ししきりに願いました。幼い娘が瀕死の状態だったからです。顔を地面にすりつけるようにして願ったのは、目と目を合わせて願える立場ではなかったからです。「シナゴグ」と呼ばれる会堂は律法学者、ファリサイ派のホームグラウンドであり、ヤイロはその仲間でした。同書3章には、ファリサイ派の人々はヘロデ党の者たちと主イエスを殺す陰謀を企てたとあります。ヤイロと主イエスとはきわめて険悪な関係にあったのです。しかし、娘の命には変えられない。ヤイロはなりふり構わず必死に願ったのです。それに対する主イエスの応えが冒頭のみ言葉です。何も言わずに一緒に出かけられたのです。
 
 東日本大震災から10年を迎えました。被災地ではめざましく復興が進み、災害の傷跡はすっかり取り去られてきました。しかし、家族を失い、家や故郷を失った人々の心の傷は今もなおうずいていると、現地の牧師が話してくださいました。そうした方々の心が、主によっていやされるように、これからもともに祈りつづけてまいりたいと思います。
 
 震災の一ヶ月後、携行缶2個にガソリンを詰め、シャベルと長靴などを車に積んで、緊急支援対策室の先生方の先導の下、修養生とともに石巻にボランティアに行ったときのことを今も鮮明に覚えています。この被災地でのボランティア活動をとおして、これまで私のいだいていた宣教のあり方を、主は大きく転換してくださいました。ひとつは、福音宣教は教派の隔てを取り除くものであるということです。主の御心は、教会は違っても災害支援という志の下にひとつとされることでした。もうひとつは、宣教は出て行くものであるということです。助けを必要とする人のもとへ行ってよく話を聴き、善意と誠意をもって最善を尽くすということです。
 
 主イエスはヤイロの要求に無条件で応えられました。無言のままヤイロとともに出かけられた主の姿に、はかり知れない神の愛が表わされています。東日本大震災後、地震や気象災害が全国各地で相次ぎましたが、被災地には、常に黙々と支援活動にいそしむキリスト者の姿がありました。そしてそこには、人の心をいやし、生きる勇気を与える神の無言の愛が注がれてきたのです。
 

私の時は主の御手に

宣教局長 加藤 望

 
 今年の聖句として、主が私に個人的に示してくださったのは、「私の時は御手にあります」(詩編31編16節)という御言葉です。「時」という言葉は、ヘブル語原文では複数になっています。「時々」と訳すと日本語では違う意味になってしまいますね。ただ11節に「命」「歳月」とあるように、重ねた年月、齢という意味で捉えることができるでしょう。私の時、それは私が積み重ね、これからも続く歳月、人生そのものです。私の人生・命はすべて主の御手にあります、とダビデは詠ったのです。
 

 ところでギリシャ語の七十人訳聖書では、「時」という言葉にカイロスを使っています。時計で測れる時間・クロノスではなく、機会(チャンス)を意味するカイロスです。私のチャンスは主の御手にあると言うのです。
 

 この詩の背景は不明ですが、ダビデの命が敵の謀によって脅かされており(14節)、悲しみや嘆きを吐露して自らの過ちにも触れていることから(11節)、彼が晩年、息子アブシャロムに王位を追われて都落ちした時かもしれません(サムエル下15章以下)。アブシャロムは実の妹が腹違いの兄に犯されたのに、父ダビデは彼を厳しく咎めなかったことを深く恨んでいました。息子たちの教育の失敗を、ダビデは自ら責めていたのかもしれません。まさに人生最大のピンチでした。
 
 この危機的状況の中で、ダビデは直面している問題から目を離し、神を仰ぎ見たのです。「しかし、主よ、私はあなたに信頼します。私はあなたに言いました。『あなたこそわが神』と」(15節)。この信仰告白に続いて、「私の時は御手にあります」とダビデは詠いました。主に信頼して自分の人生も命も委ねるとき、ピンチは必ずチャンスに変えられます。国が分裂の危機に瀕していたとき、主はダビデを王に復帰させ、彼もアブシャロムの反逆に加担した者たちを寛大に処して、王国分裂の危機は避けられました(サムエル下19章15節)。人生最大のピンチが、人心を一つにするチャンスに変えられたのです。
 
 今、私たちは新型コロナウイルスとの闘いの真っ只中にいます。変異種が出現し、ワクチンが効かない可能性も取りざたされています。先行きが見えず暗中模索……。不安しかありません。しかし、だからこそ私たちは主に信頼し、「あなたこそわが神」 「私の時は御手にあります」と告白するのです。主は必ずピンチをチャンスに変え、不安と恐れという「敵の手」から私たちを救い出してくださいます。

 

2020年

「今日あなたに、救い主がお生まれになった 」

教職教団委員 鈴木 英夫

今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11)

 私が遣わされている成田教会では、毎年クリスマスの頃に市内の大きなスーパーのイベント会場で聖歌隊がキャロルを歌い、多くの方々が聞きに来てくださいます。また、空港そばのホテルの結婚式用の美しいチャペルで、私が司式と短い説教をし、聖歌隊が歌い、キャンドル・サービスをいたします。ホテルのイベント部門の責任を持っておられた方が信仰をもたれ、その方のホテルでの企画が通り実現しました。毎年90名ほどの座席が満席となりますが、2016年から昨年までで4回続きました。その他、チャペル・コンサート、子どものためのクリスマス会等、クリスマスの喜びを地域の方々にお伝えしようと毎年行っていますが、今年のクリスマスは全部中止になりました。皆さんの教会も同じかと思います。このような中で、私どもはどのように今年のクリスマスを迎えればよいのでしょうか。

 先に記しました御言葉を、クリスマスの季節に耳にしないことはないでしょう。この「今日」とはいつのことでしょうか。「ダビデの町」とはどこのことでしょうか。もちろん、二千年以上前のユダヤのベツレヘムのことに違いありません。しかし、その知識を得るためだけでしたら、毎年この御言葉に聴く必要はないでしょう。
 
 森有正というフランス文学者であり、キリスト者の哲学者である方がおられました。この方がある教会の礼拝で語られた説教が残されていますが、その中でこのように語りました。「人間が誰はばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで人間は誰も神さまに会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んで恥じている。そのような心の一隅がある。その一隅でしか、人間は神さまに会うことはできない」。

 2020年のクリスマスは、もしかしたら例年よりも、ゆっくり、じっくり、御言葉に耳を傾けるときがもてるのではないでしょうか。2020年のクリスマスの「今日」、あなたの「心の一隅」に、人となってこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださってよみがえられた、救い主イエス・キリストをお迎えいたしましょう。あなたが求道者でしたらそれが救いの経験ですし、キリスト者でしたらきよめの経験です。

 

今日集めるべきマナ

教育局長 平野 信二

 彼らはそれぞれ朝ごとにその食べる分に応じて集めた。(出エジプト記16:21)

 神さまは、朝ごとに降り積もるパン(マナ)と、夕ごとにと飛んでくる肉(うずら)、時に応じて湧き出る水によって、イスラエルの人々の過酷な荒野の生活を支え、彼らを養ってくださった。マナの総額は、食パン1斤を200円/一人一日1斤で計算しても、約200万人に365日で約1500億円、40 年で約6兆円となる。主食のパンだけでこの金額なので、主菜である肉(うずら)や水を加えると、途方もない額になる。マナは朝ごとに、その日の必要な分が与えられた。しかし、それは日が熱くなると溶けてしまい、安息日の分を除けば、腐敗するため翌日まで取っておくこともできなかった。一日の必要はその日に与えられ、そしてその日のうちに消費されていったのである。

 マナは日ごとに与えられる食物や、心のごはん=御言による養いに譬えられる。神さまは、私たちに必要なその日の糧を必ずお与えくださるという約束である。そして、それは神さまが私たちの肉体と心と魂に必要なものを与えて生かしてくださるということだけでなく、神さまに生かされている私たちには、神の栄光を現すための使命が与えられているということを意味する。食物はいのちを支え、与えられたいのちは神の使命を果たすために用いるものなのである。

 新型コロナウイルスの感染は、なかなか終息の気配を見せない。4月まで頑張れば、夏になればと、様々に具体的な対応を始めてから8ヶ月余り、一年の2/3を耐えるように過ごしてきた。その中で新しい取り組みがなされ、今までとは異なるアプローチで福音が語られてきている。しかし、私たちはいつしか「コロナ禍が収束したら」とコロナ後に目標を定めて、今日集めるべきマナ、今日果たすべき神の使命を忘れてはいないだろうか。今だからこそできること、今だからこそ必要とされていることに目を向けていこう。
 

「貧しくもせず、富ませもせず」

奉仕局長 佐藤 義則

私は二つのことをあなたに願います。
私が死ぬまで、
それらを拒まないでください。
空しいものや偽りの言葉を
私から遠ざけ、
貧しくもせず、富ませもせず
私にふさわしい食物で
私を養ってください。
私が満ち足り、あなたを否んで
「主とは何者か」と言わないために。
貧しさのゆえに盗み、
神の名を汚さないために。

箴言30章7~9節
 

 アグルという人の敬虔な祈りの言葉です。

 2つのことを願うというのですが、ひとつは、虚偽的なものから遠ざけということです。噓をつかないということもそうですが、あるがままの自分を恥じず、虚飾のない生活をするということです。もうひとつは、貧しくもせず富ませもせず、ふさわしい食物で養われることです。裕福になって霊的感性が鈍り、神を忘れてしまうことがないように。あるいは貧しくて物を盗み、神の名
を汚すことのないようにという、身の丈をわきまえた慎ましい祈りです。
 
 近年、トマ・ピケティというフランスの経済学者の著書『21世紀の資本』が話題になり、彼の考えに共鳴する政治・経済学者が、資本主義の暴走に歯止めをかけなければならないと警鐘を鳴らしています。その暴走が温暖化などの環境破壊を生み、経済のグローバル化が進んで個人や一国に富を集中して社会に歪みを生じさせ、国際社会においてはテロを、一国においては凶悪犯罪を生んでいるからです。その歯止めとは、できるだけ富を各個人・各国に拡散させ、自然にこれ以上の負荷を与えないものであれば、経済は低成長であってもいいという国際間の理解です。しかし、その呼び声もむなしくその暴走を止められない中で、今年のはじめに新型コロナウイルス感染が起こりました……。
 
 新しい生き方が求められている今日、私たちキリスト者は、神に造られたものとしてふさわしい人間の本来の生き方を、言葉で伝える以上に、身をもって証しする時代が到来しているのではないでしょうか。貧しくもせず富ませもせず、神を畏れ、他人に分かち与えることにこそ、人としての真の幸いがあることを、身をもって証ししてゆきたいと思います。

「コロナ禍にあって神と共に生きる」

信徒教団委員 柳瀬 香 

 
 昨年の今頃、今日のような混乱した状況の中にあることを誰が想像していたでしょうか。コロナ禍がなければ、念願の東京オリンピック開催が終わり余韻に浸っている中、次はオリンピックセンターでのユースジャム2021開催に向けての最終準備に取りかかっていたのではないでしょうか。けれども今、来年に延期されたオリンピック開催の実現も危ぶまれている状況の中、人と人との接触をできるだけ避け、ソーシャルディスタンスを気にして日常の生活もままならない、不安な日々を過ごしている方々がおられるのではないでしょうか。
 
 しかし、そのような中であっても、神さまは「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ二八20)と私たちを励ましていてくださいます。困難な状況下にあっても、神さまはあらゆる方法を用いて益に導いてくださるお方であると感じています。
 
 ユースジャム2021は、全国から青年たちが集まるオリンピックセンターでの開催ではなく、オンラインを使っての8月12~14日の2泊3日での開催となりました。具体的な内容は今後、青少年委員会やユースジャム実行委員会等で計画されていきますが、それを見越してのオンライン集会が6月から月に1~2回、7月からは月に1回第4日曜日の午後に開催されており、全国の教会から多くの中高生や青年たちが参加しております。先日の8月16日の午後には、オンラインキャンプが行われました。前半は、中高生と青年に分けて違う講師からメッセージを聞き、ともに賛美やゲームをし、最後は少人数のグループに分かれての交わりの時を持ちました。
 
 距離や様々な要因で日頃なかなか交われない信仰の友と、オンラインという手段を通して容易に交流できるチャンスを、神さまは与えてくださっています。もちろん、オンラインといっても問題がないわけではありません。何よりも直に集まる自由な交わりが一番だと思いますが、これからの社会は、新たな発想が求められる時代になると思います。集会や伝道の方法も、従来のやり方から大きく変化していくかもしれません。
 
 次世代育成プロジェクトの担当として係わらせていただき4年目になりますが、今までの働きを見させていただき、時代や社会の状況に柔軟に対応しながら、様々な企画や方法を積極的に取り入れ、子どもたちやクリスチャンファミリー、そして若者たちへの霊的サポートや励ましがなされていると感じています。
 
 なお、これらの働きのために引き続き覚えてお祈りくだされば幸いです。

「ウィズコロナの時代を生きる」

 
 新型コロナウイルスについて充分な情報がない中、感染防止の観点から三密を避ける必要が生じた。行事の多くは中止になり、礼拝もオンラインとなり、会議もZoomで行われるようになった。パソコンやスマホなどを媒体として、YouTubeなどの動画サイトにも触れる機会が増え、多くの人がいろいろな情報を共有する時代となった。
 
 かつてにぎわっていた町には、一時人々の姿が消え、ゴーストタウン化した。特に観光などのサービス業は打撃が大きかったようだ。今は規制が解除され、人出は徐々に戻りつつあるようだ。
 
 コロナ対策には何よりもコロナにかからない健康管理が必要であるという。ビジネス誌『プレジデント』の7月3日号には、自然免疫力が強調され、特集が組まれていた。それによると、食生活が大事であること、その次は腸内環境、ストレス対策、体温を上げる、運動をするなどが記されていた。
 
 よく考えてみれば当たり前のことである。目先の対策だけのことでなく、これを逆手に取った行動が必要ではないだろうか。また、新型コロナウイルス感染症は世界同時発生であるし、この影響は世界規模である。
 
 また、異常気象やバッタの大発生などが世界的な不況や食糧不足を起こすかもしれない。中国とアメリカの対立や中印国境での衝突、中東情勢など戦争の危機を想像するのに十分な条件さえある。世界的には失業が多くなり、不況のはずなのに、なぜか株価は回復している。国民一人一律10万円が支給されたが、この金はどこから来たのだろうか、実は借金である、世界中がこれをやっているのだ。

 都内の貸しビルは空き家になり、飲食店などのサービス業は低迷している。政府はV字回復をもくろんでいるが、そんなに簡単ではないと思う。三密を防ぐことが必要ということで、集会のやり方も伝道方法も賛美も変わるだろう。今こそそれぞれが主とつながるべきだ。そして終末に備えて、家族伝道に力を入れるべきだ。パソコンが使えない人は手紙もいいだろう。食事会も野外がいいのではないか、野外礼拝も可能だろう。集まることが制限されて、交わりの大切さも強く感じた。大勢で集まって共に賛美することの素晴らしさも再認識した。コロナは悪いことばかりではない。

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピの信徒への手紙2章13節)
 

「主イエスを模範として」

 不思議なことが起こり、その時は理解できなくても時が来れば解ることがあります。神さまとの出会いや御言の奥義を知らされ、目が開かれた時もその一つであるでしょう。

「私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。」(ヨハネ一三15)

 最近、示されている御言でありますが、ご自分を「模範にしなさい」と言えるのは、神さまだけではないでしょうか。人間には言えない言葉であると思うのです。私たちに「模範にしなさい」と言ってくださる方を知っていることは、大きな恵みであります。そのようなお方を持っているのと持っていないでは、人生の歩み(生き方)に大きな違いが出ると思うのです。
 
 この御言の前段で「私があなたがたにしたことが分かるか」(一三12)と、主イエスは弟子たちに、ご自分の行為の倫理的意義を説明されます。キリスト教倫理の根本は、キリストがなさったことを模範とすることです。私たちキリスト者は何をなすべきか、その答えを主イエスはご自分の模範をもって示しておられます。「それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」(一三14)とあります。そしてこの個所の結びで、あなたがたがこれらのことを知っていて、祝福を受けたいと願うなら、それを行うときにあなたがたは祝福される(一三17)と、主イエスは言われています。
 
 私たち人間の思いでは、足を洗い合うような行動をすることはできないことを、主イエスはご存じです。ですから、私が与える聖霊によってそのことはできるから、聖霊を受けて互いに愛し合いなさいと言われ、主イエスを模範として歩むことを勧めています。私たちは仕え合うとき、へりくだる時、神さまからの愛をいただいて、それをすることができると、主は言われるのです。
 
 また、私たちが神さまの御心だと思って進んでいる歩みであっても、もし御心でなければ、神さまは御言によって正しい道に導いてくだると信じます。贖われ生かされている者は、主の御言により、主に信頼し、聖めの信仰に立って証しをして行けることを覚えたいと思います。
 
 「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ三14)

家から家へ

宣教局長 加藤 望

 
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、早い所では、3月から会堂での礼拝や集会を自粛してこられたことと思います。2カ月あるいは3カ月も教会での集まりができずに、週報や説教要旨を郵送あるいはメールやファックスで送ったり、またオンラインで礼拝動画を配信したりと、すべての教会が様々な工夫を凝らして、在宅での礼拝や祈祷会を実施してこられました。新型コロナ感染症が終息した暁には、今の非常事態が常態となる、新しい社会のありよう(ニューノーマル)が生まれていることでしょう。たとえば、教団委員会も3月からずっとZoomを使ったウェブ会議になっています。私は過去3年間、月に2、3回広島から東村山まで新幹線や飛行機で通っていましたが、今では自宅でPC画面を通して、教団委員会に参加しています。多額の交通費や宿泊費もセーブできますし、身体への負担も軽減される利点があります。もちろん、PC画面では空気感が伝わりにくく、活発な議論にならない不利な点もありますが。でも今後このようなウェブ会議等、最新のテクノロジーを駆使して、自宅から会議や集会に参加することが常識となっていくのでしょう。
 
 この在宅礼拝という現状に、私は改めて家の教会について考えさせられました。初代教会は家の教会でした。ペンテコステ直後の弟子たちや信徒たちは、日々エルサレム神殿に通って祈りをささげていましたが、その信仰生活の中心は「家」でした。使徒言行録2章の最後にこう記されています。「信じた者たちは……毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していた」(46~47節)。「家では」は「家ごとに」と訳せる前置詞が使われています(ギリシャ語の「カタ」という単語)。私が持っている英語の聖書では、「フロム・ハウス・トゥ・ハウス(家から家へ)」と訳されています。2階座敷の120名が聖霊を受けた後、3千名が新たに加わり、3百から4百の家庭になったはずです。その家ごとに、復活のイエスの臨在を覚えてパン裂きと愛餐会が開かれていました。家から家へ、喜びに満ちた交わりと神への賛美が広がっていたのです。在宅礼拝が余儀なくされている今こそ、初代教会の喜びを追体験するチャンスではないでしょうか。PC設定を手伝ってくれるお孫さんが一緒に礼拝動画を見ています。まさに家族の救いに繋がるのです。家から家へ、聖霊によって復活の主イエスが共に働いてくださいますように。

 

 

 

一つの体、日本ホーリネス教団

総務局長補佐 鈴木英夫

 
わたしたちは皆、……一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。(Ⅰコリント12:13)
 
 私が東京聖書学院の1年生だった1987年度、英語の授業を担当してくださったのは、OMSの宣教師の通訳や東宣社等の働きをしておられた小見侃士先生でした。私はできの悪い生徒でしたので英語は身に付きませんでしたが、小見先生がテキストに選んでくださった神学書の内容や先生の解説の言葉に、多くのことを教えられました。ある授業のときに、小見先生が「洗礼というのは、体に別の体の一部が合体するようなものだ」とおっしゃいました。私はこの言葉にハッとさせられ、洗礼の意味(どれほど強い結びつきを生み出すことか)と、教会がキリストの体であるということのイメージをつかむことができました。そして牧師となってからの教会での受洗準備のときに、いつも求道者に、「あなたが洗礼を受けることによって、キリストの体であるこの教会に合体させられるのです」と伝えるようになりました。

 「キリストの体」と言ったとき、私どもが先ずイメージするのはそれぞれの各個教会だと思います。一人の方の受洗入会も、その教会の会員となることによって、キリストの体に合体することを考えるでしょう。受洗入会した教会に責任をもって教会生活を送ることが、キリスト者の歩みにおいて最も大切であることは言うまでもありません。しかし日本ホーリネス教団は、「教団全体が
一つの教会である」という信仰的立場に立っています。全国にある152の教会の一つひとつが、一つのキリストの体の一部を構成し、152の教会によって、日本ホーリネス教団という一つのキリストの体を形成しています。
 
 ですから一人の方が洗礼を受けるということは、洗礼を受けたその教会に合体させられると共に、日本ホーリネス教団という更に大きなキリストの体に合体させられることを意味します。洗礼式の誓約にこうあります。

問 あなた(がた)は、聖書に基づき、日本ホーリネス教団が重んじてきた四重の福音、すなわち新生、聖化、神癒、再臨の教義を受け入れ、日本ホーリネス教団の信仰告白に言い表されている信仰を告白しますか。

答 はい。受け入れて、告白いたします。あなたもこの信仰告白を告白し洗礼を受け、日本ホーリネス教団という一つの体の一部分とされました。他の部分の喜びを喜びとし、痛みを痛みとして、共に歩みましょう。
 

荒野に水がわきいで

教団委員長 島津 吉成

 
 
「その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである」(イザヤ三五6)

 2020年、新しい年が始まりました。皆さんは、この新しい年をどんな思いで迎えられたでしょうか。大きな期待をもって迎えた方もおられると思います。しかし、いろいろな困難な状況の中で、重たい心をもって迎えた方もおられるかもしれません。

 すべてをご存知の主は、新しい年の始まりに当たって、私たち一人ひとりに、冒頭に掲げたみ言葉をもって語りかけてくださっています。預言者イザヤは、バビロン捕囚という厳しい状況の到来を見据えています。しかし、彼の眼はさらにその先を見ています。主が見せてくださったのです。今、見えるところは「荒野」です。しかし、そこに水がわきでるようになるというのです。今、見えるところは「さばく」です。しかし、そこに川が流れ出るようになるというのです。
 
 使徒行伝を読むと、教会は様々な困難に直面しながら、その度にそれをチャンスに変えて、前進していった様子を見ることができます。6章では、日々の配給のことで問題が生じたとき、使徒たち以外の働き人を立てることによって、教会の組織が整えられていきました。8章では、大迫害によってエルサレムから追放された人々が、散らされて行った各地で福音を伝えることによって、福音が地方へと広がっていきました。16章では、アジヤへの伝道の道が閉ざされて行き詰っていたときに、マケドニヤ(ヨーロッパ伝道)への道が開
かれました。同じく16章では、ピリピでパウロとシラスが捕らえられ、むちで打たれたとき、その獄中で祈りと賛美をささげることによって、獄吏が救われるという御業が起こりました。問題だ、行き詰まりだ、という所が、神の御業が起きる場所となったのです。
 
 私たちは今、少子高齢化という問題、過疎化という問題に直面しています。牧師をすべての教会に遣わすことも難しい状況の中にあります。しかし、荒野に水を湧き出させてくださる主は、ここにも、私たちには思ってみない御業を行ってくださると信じましょう。ここから新しい教会の姿、新しい伝道のあり方が生まれてくるに違いないと、私は期待しているのです。人は変化を嫌います。しかし、変わらないことは最大のリスクだとも言われます。信仰を持って挑戦しましょう。主は、私たちが問題だと思う所をチャンスに変えてくださるのです。

「心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。』」(イザヤ三五4)

2019年

「主イエスの誕生を祝う」

 9月21~23日の3連休に、社会人限定の大人の青年キャンプが今年初めて開催されました。会場は芦ノ湖キャンプ村で、講師に千代崎満子師が立てられ、忙しい生活の場から離れ、穏やかな自然の中に身を置き、じっくりと御言葉に触れ、信仰の仲間と語り合い、祈り合う時を持つことができ、感謝しているとの報告を受けています。

 参加者のアンケートを読む中で一番心に残ったのは、「癒し」を求めて参加している者が多いということでした。日頃の生活の場では、ほとんどクリスチャンがいない中で、価値観の違いから疎外感を感じたり、様々な人間関係に疲弊したりすることが多いのだろうと思います。そのような中、このキャンプではほぼクリスチャンの集まりでしたから、ゆったりとした中で気兼ねない会話を通して交わることができ、神さまを礼拝し、御言葉から力が与えられ、導き主である主イエスさまに魂を生き返らせていただき、またそれぞれの置かれている場に帰っていくことができたのだと思います。何よりも一人ひとりが神さまに取り扱われ、神さまとの関係を再確認できたことがこれからの歩みを力づけるものとなるのだとも思います。
 
 この号は、祝クリスマス号です。
 
 クリスマスの出来事に思いをはせてみても、救い主である主イエスの誕生にいち早く立ち会えたのは羊飼いたちでした。「幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」(ルカ2:12)と御使いから告げられたのです。そのみ告げを飼葉おけの中の幼な子を見つめているヨセフとマリヤに伝えました。特にマリヤは、羊飼いたちの言葉にどんなに慰められたことでしょう。

 その当時、羊飼いは虐げられ、疎外されていた者たちでした。我々クリスチャンも、今の日本社会で生きる中で、疎外感を感じる状況も少なくはないでしょう。しかし、クリスマスの真の意味を知り、御子イエスの誕生を心から崇める者たちは、疎外感から解放され、キリストの証し人となって生きることができるのではないでしょうか。

 最後になりましたが、いつも次世代育成プロジェクトの働きのために尊い献金とお祈りを感謝いたします。ユースジャム2021の開催も決定し、準備も着々と進んでいます。来年は一年前ということで、全国を回ってのアピールも予定しています。一人でも多くの若者たちが参加できるよう、また必要が満たされますように、引き続きお祈りとご協力をよろしくお願いいたします。

「主の訓練の中に」

 不思議な流れの中で教団委員となり、10月で半年が経ちました。今まで外側から見る景色とは大きな違うものがあり、驚いているのが現状であります。
 
「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである」(へブル12:5~6) 
 
 最近、示されている御言葉でありますが、「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に平安な義の実を結ばれるようになる」とへブル12
章11 節で約束されています。
 
 人間の弱さがあり、信仰の深さを問われることがありますが、十字架の血潮と神の愛が、私たちの置かれている働き場を守っていてくださることを思わされるのです。そして、今の時を生かして主のわざに励んでいくところに備えられると信じます。自分の考えでは理解できないことが起こることを通して、事が繋がったり、恵みに変えて戻ってくることが不思議な感じであります。
 
 神さまは、ある時はその人の信仰(考え)を試される時があるのではないでしょうか。
 
 ある時は人を通して教えようとされているのに、頼まれたことを断ったりすれば、神さまの望んでおられることを悟ることができないばかりか、相手が躓く元を作ってしまったり信仰の恵みを受け損ねるということになったりするのだと思うのです。
 
 どれだけ真剣か、信頼しているかで人間の弱さが出るとき、「主の訓練を軽んじてはいけない」と、はじめの御言葉を思い出させてくださいます。
 
 主の十字架は、人から背負わされるのではありません。たとえそれが、人から来た苦しみの問題や痛みであったとしても、それらを神さまは用いて備えられるのであります。
 
 私たちがいつも人間を対象として問題を見る時、そこには自分の肉の判断だけが働いて、信仰の目が塞がれることになります。
 
 神さまは私たちに何を望んでおられるのかを思い、耳を傾け、聖霊の力を求めいただいて、心を開いたところから、聞こえて来ることを覚えたいと思います。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(へブル12:2)
 

「福音宣教に、再び心を燃え立たせ」

奉仕局長 佐藤 義則

「そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである」(ローマ1:15)
 
 私はこの4月から東京仲よしキリスト教会を兼任することとなりましたが、同教会は今年で設立40周年を迎えました。記念誌を発行することになり、筆を執りながら、この新たな任命に伏せられた神の摂理を思いめぐらしておりました。

 私の出身教会である小国教会(奥羽教区)の応接室の壁には、かつて一枚の誓約書が大事に額に入れられ掲げられておりました。そこには、「命のある限り、伝道の協力関係を結ぶ」と記されてありました。東京仲よし教会と小国教会との間に交わされた伝道協力の誓約書です。小国教会の初代牧師であった故吉津こう牧師は歯に衣を着せず、はっきり物を言う人でした。当時、一般社会において、地方は忘れ去られ、置き去りにされるような時代風潮がありましたから、都会の教会の人たちが地方の教会にもの珍しさで一時は来てくれても、暫くしたら来なくなるだろうと吉津牧師は見越して、釘を刺すようにして持ちかけた誓約だったのではないかとふり返っています。通常ならば、大変な牧師、大変な教会に捕まってしまったということでしょうが、東京仲よし教会の人たちはそうではありませんでした。渋々ではなく、喜んでその約束に応じてくださったのです。
 
 この協力伝道は、30数年続けられました。仕事を終えてから、徹夜で数台の車に20数人の人たちが乗り合わせ、早朝教会に到着しました。それから仮眠を取り、朝7時には学校や会社の門の前に立って、集会案内のチラシが配られました。夕方には、商店街で路傍伝道が行われました。各集会にはあふれるほどの人たちが集まり、そこで決心し信仰に導かれる人たちが起こされて行ったのです。

 迎える小国教会も財を投じて30組の寝具を用意し、附属保育園の園舎を宿泊所とし、教会総出で食事の準備がなされました。
 
 私は多感な青年期に、東京仲よし教会の人たちの宣教の情熱に触れ、宣教のために財と労を惜しまなかった母教会の牧師と信徒の姿を垣間見、伝道者として献身したいという志が育まれていったのです。
 
 宣教がはかどらないこの時代、この国にあってよく祈り、再び心を燃え立たせ、福音を宣べ伝えてまいりたいと思うのです。
 

 「あなた方の計画は私だけが知りでいる。」

 

  この原稿を執筆している現在(8月13日)、超大型の台風10号が近づいてきています。進路に当たる、四国や九州地方の皆さんはいろいろな不安を持ちながら過ごしていることでしょう。気象庁の予報が正確になって、ある程度は予想ができるようになった台風。しかし、健康や社会のこと、世界の安全や平和については予測し難いことが多いのではないでしょうか。8月は終戦の月でもあるし、原爆投下の月でもあって、それらにまつわる生々しい映像に触れる機会がありました。心配したらきりがないほど、紛争の火種が世界中にあります。いつまた日本もそれに巻き込まれるか心配になります。

 目先の必要、今楽しければいい、そんな現代社会に私たちは身を置いています。そして、より楽な方法、自分にとっていいと思う方向に目を向け歩いています。

 先日、『パウロ 愛と赦しの物語』という映画を見ました。そして感動しました。パウロの生き方と私の生き方、なんと違うことでしょうか。物語はルカが使徒行伝に記録した事柄に沿って展開しています。皇帝ネロの迫害のさなか、信仰の仲間が毎日とらわれ、殺されていく。物語の中で、復讐でなく無抵抗の祈りが印象的でした。武器をもって反抗しようとする若者とそれを止めようとするパウロ。恐怖と憎しみの中で声を合わせて祈る主の祈り、「われらに罪を犯すものを赦しますから、われらの罪をも赦したまえ……」。日頃礼拝の中で祈る主の祈りは、こういうことだったのかと理解しました。赦せる状況でない中にあって赦す祈りの姿に感動しました。

 礼拝説教でエレミヤ書29章11節から、「このところは神さまだけが知っていることで、あなた方にはわからないという意味だ」と。そして、何も心配しないで前に進めばよいと私は理解したのでした。

 状況が良くても悪くても、健康不安のある中でも、希望をもって前に進みましょう。教会への奉仕を通して、ともに主に使えるものでありたいと願っています。
 
「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」

(エレミヤ29:11)

「嗅覚への気づき」

教育局長 平野 信二

「この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり」 (使徒行伝二四5)
 
 福音宣教にとって大切なことは、時代の流れを読み、即座にその要求に対応していく柔軟性と、変えることのできないものを堅持していく頑固さです。パウロの行動は、時に緻密かつ計画的で、時に衝動的にさえ見えることがあります。そして、彼は「天下をかき回し」「騒ぎを起している者」と呼ばれます。

 6月に行われた第28回弾圧記念聖会において、ホーリネス弾圧に関する新たな視点と、私たちに対するチャレンジをいただいたように感じています(講演詳細は6頁を参照)。その中で、講演された戒能信生牧師は、仮説としながらも、「国家権力は民衆・大衆のうちにある国家権力にとって真に恐るべき存在となりうるものを本能的に知る嗅覚で嗅ぎ分け、その故にホーリネス系教会を壊滅させるために弾圧した」と結論づけています。それでは、今日の権力者たちの嗅覚は、私たちの教会にどのような臭いを感じているのでしょうか。私たちの教会は、今日の国家権力にとって当時のホーリネス系教会のような恐るべ
き存在になっているのでしょうか。それとも、国民の精神衛生のために役立ち、権力者が国民を支配するために利用できるもの、あるいは、役に立つ訳ではないが邪魔にもならないものと見られていないでしょうか。対立関係になる
ことが目的なのではありません。しかし、真に福音に与る者だけが持ち得るこの臭いを大切にしなければならないのです。

 さらに、私たち自身はどのような嗅覚を持っているのでしょうか。その一つは前述の逆で、国家権力が持つ臭い(指向性)を見極める嗅覚の必要性です。そしてもう一つは、この世にある課題/世にある人々の求めを知る嗅覚ということです。プロテスタント宣教の第二世代は、民衆・大衆への伝道を積極的に展開していきました。単に民衆に基盤を置いているだけだったとしたら、大衆受けする流行りのものやポピュリズムと何ら変わらないものになってしまいます。神の言に土台を置きつつ、神さまが私たちに与えてくださった十字架の恵み、ホーリネスの恵みを証しし続けることを大切にしたいのです。
 

「キリストの言葉を豊かに宿らせて」

宣教局長 加藤 望

 
「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。」(コロサイ3:16)
 
 私が遣わされている教会では、この聖句を掲げて2019年をスタートしました。日常生活の中で何を私たちの心に宿らせるのか、すなわち、何が私たちの心を独占しているのかが問われているのです。私は食べることが大好きです。この春には焼き野菜に凝って、春キャベツ、アスパラガスや筍などをシンプルに焼いて食べ、素材の持つ旨味を楽しみました。時々晩御飯を食べた後に料理番組を見て、小腹がすいたと言ってお菓子をつまみ、妻に呆れられたりします。日常生活の中で私の心を占めているのは、「美味しいものを食べたい」という願望であることは明白です。
 
 それと同じような強い願望を、キリストの言葉、すなわち御言に対して抱いているでしょうか。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)と主イエスが語られたように、御言は心の糧です。キリストの命が宿った御言こそ、私たちの心に活き活きとした力を与え、どんなに落ち込みそうになっても、否定的な感情が押し寄せてきても、私たちの心を奮い立たせてくれるのです。
 
 何年も前のことですが、刑務所から出てきて更生を願う人を信仰に導き、その手助けをする機会が与えられました。彼は熱心に求道していたのですが、私の求めることと彼が求めることに食い違いが出てきたのでしょうか、信頼関係が壊れてしまいました。彼には恨まれ脅され、私自身精神的に追い込まれてしまい、ついには教団にまで迷惑がかかるようになってしまいました。そのとき、「あなたはわたしが呼ばわった日にわたしに答え、わが魂の力を増し加えられました」(詩篇138:3)との御言が心に響いたのです。主に助けを祈り求め、その答えとして与えられた御言です。主の助けは、障害が取り除かれ問題が無くなることではないのです。直面している問題に自ら立ち向かう勇気と力を与えてくださる、それが主の助けなのです。私はこの御言によって勇気づけられ、毅然と問題に対処することができるようになりました。
 
 キリストの言葉を豊かに、溢れるばかりに私たちの内に宿らせましょう。御言に勇気をいただいて、人生の荒波を越えて生きましょう。御言の与え主キリストが必ず共にいて、私たちを励まし、直面するあらゆる問題の解決へと行動する勇気を与えてくださるのです。
 

「聖霊の導きを信じて」

―創立年変更に思う
「聖霊とわたしたちとは、……決めた。」(使徒行伝15:28)

 
 お気づきの方もおられると思いますが、本紙第一面、題字の上の部分の記述が、先月号から「創立1949年」に変わりました。これは3月に行われた第
56回教団総会において、それまでの「1901年創立」から、「1949年創立」へと変更されたことによるものです。わたしたちの教団にとり、これは歴史認識を大きく変えるところの重大な議案でしたが、大きな混乱や反論などほとんどなく、思いのほかすんなりと承認されました。この創立年の変更は、あるいは教団内の者たちよりも、教団外の方々のほうが大きな関心と驚きをもって受け止めたのかもしれません。

 教区選出の代議員として総会に出席していたわたしは、少し複雑な思いで協議の様子を見つめていました。20年程前、1997年の第34回教団総会において教団の信仰告白を制定する際、わたしたちの教団は「1901年創立」を承認し、これを公式見解としました。その翌年には、2001年の教団創立100周年を記念する事業の一つとして、歴史編纂委員会が設置され、「教団100年史」の執筆が始められました。それから20年あまり、委員の一人としてこれに携わり、かなりの時間と労力をそれに費やしてきたわたしは、今回の決定は頭では理解しているものの、どこか納得できない思いがあります。今となっては、自分たちの教団の歴史ではない部分を執筆したことになるからです。「20年前の教団総会のあの決議は何だったのか」という問いは残されたままです。
 
 しかし、それだからこそ、原始教会の大きな分岐点となったエルサレム会義において、「聖霊とわたしたちとは、……決めた」と語った使徒の言葉を心に刻んでいます。使徒たちがそうしたように、わたしも自分の中にある思いを退けつつ、「ここに神の御心がある」と信じて、これを受け止めようとしています。

 皆さんの教会においても、同じようなことが起こるでありましょう。様々な考えを持つ者たちが集まっているゆえ、意見が対立するときもあるでしょう。しかし、真剣に議論した末に出された決定に対して、一人ひとりが「小さな死」を経験し、「ここに神の御心がある」と信じて受け止めていくとき、そこに「イエスは主」と告白する教会が確かに形づくられて行くのです。

「聖霊による喜びに生きる」

―苦難に打ち勝つ信仰-

 新しい年度がスタートしました。教団はこのページに記されていますように、年間標語として「聖霊による喜びに生きる―苦難に打ち勝つ信仰―」、年間聖句としてⅠテサロニケ1:6〜7の御言を掲げて新年度の歩みを始めました。
 パウロがテサロニケで伝道したとき、激しい迫害が起こりました。「多くの患難の中で」とは、そのことを指しています。しかし、その患難に負けてしまうのではなく、その患難の中で、「聖霊による喜びをもって御言を受けいれ」る人々が起こされたのです。主イエスを信じたら患難に遭うのです。そのことを承知の上で、主イエスを信じる人たちが起こされました。これは、すごいことですね。どうして、このようなことが起きたのでしょうか。  第一に、それは「御言の力」です。「福音の力」と言ってもよいでしょう。パウロがテサロニケで伝道したときのことが、使徒行伝17章に記されています。3節にはこう書かれています。「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを、説明もし論証もした」。ここに、パウロがテサロニケで伝えた御言のエッセンスが記されています。主イエスの十字架と復活、そして、このイエスこそキリスト、これがパウロの伝えた御言の中心的な内容でした。この福音(グッドニュース)を聞いたとき、テサロニケの人々は喜びをもって御言を受け入れたのです。御言(福音)は、患難の中で、患難に打ち勝ち、喜びに生きる力を与えるのです。

 もう一つのことは、聖霊の働きです。Ⅰテサロニケ2:13に、テサロニケの人々が、パウロが伝えた御言をどのように受け入れたかということが記されています。「わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として―事実そのとおりであるが―受けいれてくれたことである」。パウロが伝えた福音の言葉を、人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れるということは、普通に起きることではありません。真理を明らかにしてくださる聖霊が働いてくださったのです。


 聖霊は、患難の中でも、喜びをもって御言を受け入れる人々を起こしてくださったのです。私たちにも福音が託されています。聖霊は今も働いてくださっています。私たちも聖霊による喜びに生き、苦難に打ち勝つ信仰を証ししてい
きましょう。

 

大いなる将来への光 ― 財務の奉仕に関わる祝福
財務局長

 
 この2年間財務局長として教団の財務の責任を 担わせていただきました。それまでの2年間は、 教団委員として奉仕局の仕事に関わらせていただ きましたが、財務の仕事は、わたしにとり貴重な 祝福でした。
 
 ご存じのように教団の本部費は、各教会の什一 献金と集会献金の十分の一を基本として納めてい ただいております。大きな教会も小さい教会も、 基本的にこの比率は同じであります。決して低 いものではありませんが、会計担当の方は大変だ ろうと思われる教会もきっちりとお納めくださっ ております。なかには、教団のために早々に全納 していただく教会もあります。このことは、財務 上運営資金となり、大変助かっております。また この2年間のうちで、多額の特別献金もありまし た。献金の趣旨などがそれとなく伝わり、素晴ら しい信仰の姿勢に触れさせていただきました。
 
 予算の支出項目ですが、教団会計の素晴らしい ところは、予算の 26 パーセントが謝儀支援という 教会援助に使われていることです。私の手元に 今から 18 年前の2000年の謝儀支援委員会の 記録があります。謝儀支援件数は 24 件と今とほ ぼ同じですが、支援の対象教会は大幅に変わって おります。この教会援助は、教団だからできる貴 重な働きです。若干改正する事項もありますが、 継続すべき大切な制度です。二番目に額が大きいのが、東京聖書学院の援助で、毎年1200万 円拠出されております。それは、本部予算額の15 パーセントに当たり、東京聖書学院の予算の 25 パーセント、四分の一に該当します。他教団の献 身者にも等しく門戸が開かれ、次世代の教役者育 成に献金が使われています。
 
 本部の予算5万円は、什一献金していただいた 各教会会計の 50 万円に該当し、さらに什一献金す る信徒の500万円に相当いたします。このこと に気づいてから、予算に組まれていたとしても、 より厳しい稟 りん 議 ぎ をお願いするようにいたしまし た。少子高齢化社会を迎える、いわゆる2030年問題があります。今から対応する必要がある でしょう。昨年から本格的に始まりました次世 代育成献金は、予算を倍増する献金がなされてお り、大いなる将来への光を見る思いです。「私の 主、キリストを知っていることの素晴らしさ」(ピリピ3:8)にハレルヤ!

神のいだかれる計画を信じる

 
総務局長 大前信夫

 
「主は言われる、わたしがあなたがたに対して いだいている計画はわたしが知っている。それ は災を与えようというのではなく、平安を与えよ うとするものであり、あなたがたに将来を与え、 希望を与えようとするものである」。 (エレミヤ29:11)
 
 年度の開始月には教会によって違いがありま す。それでも今の時期は、教会でも教団各局、各委員会でも、総会資料の準備で忙しくされている でしょう。一年を振り返りながら総会資料を作 成していると、たくさんの感謝をささげられるも のですね。そして同時に、さまざまな課題とも向 き合います。高齢化という言葉にするまでもな い現実があります。伝道の停滞と教勢の低下も 見られます。そんな明るい話題の少ない教会に あって、右記の約束はじつに闇に灯る光のように 思います。
 
 ところで、エレミヤを通して伝えられたこの神 の約束は、ユダ王国の崩壊と共に異教の地バビロ ンに捕らえ移された人たちに送られた言葉で、王 国の存続にこだわり、敗北と屈辱を受け入れない 人への約束ではありません。神の心は現実に抗 うことではなく、神への信頼を失った結果を受け 入れ、さばきの器となったバビロン軍への降伏に ありました。しかし、当然ながら敗北を受け入れ ると、住み慣れた地を離れ、築かれてきた多くの ものを手放さなければなりませんでした。もは や生活の見通しなどなく、命の保証すらありませ
ん。しかし、意にそぐわない捕囚の地で新しい生 活を築く人たちに、神は驚くほどシンプルで、前 向きな約束を与えられたのです。
 
 私たちの教会・教団はどのようにあることを目 指すのでしょうか。「信仰をもって伝道すれば何 とかなる」「心を合わせて祈って神を待ち望みま しょう」で終わらせないで、教会でも、教団でも しっかりとした一年の振り返りを行いましょう。 その上で将来に向かって思い描く姿、伝道のビ ジョンについて互いの理解を深めたいのです。
 
 今年は三年に一度行われる任命に関する要望書 の提出年です。これは全教会と全牧師に求めら れます。この要望書を提出するため各教会では 準備された問いに従い、自分たちの状況を診断し ます。これをしないで要望だけを出さないよう にしましょう。しっかり診断した上で、将来の姿 を思い描きます。こうして私の願いではなく、神 のいだかれる計画を信じるのです。それが私た ちに平安、将来、希望を与える計画です。

 

健やかなホーリネスの恵みに生きる

教団委員長 島津 吉成

 
「主は言われる、わたしがあなたがたに対して いだいている計画はわたしが知っている。それ は災を与えようというのではなく、平安を与えよ うとするものであり、あなたがたに将来を与え、 希望を与えようとするものである」。 (エレミヤ29: 11)
 
 年度の開始月には教会によって違いがありま す。それでも今の時期は、教会でも教団各局、各 委員会でも、総会資料の準備で忙しくされている でしょう。一年を振り返りながら総会資料を作 成していると、たくさんの感謝をささげられるも のですね。そして同時に、さまざまな課題とも向 き合います。高齢化という言葉にするまでもな い現実があります。伝道の停滞と教勢の低下も 見られます。そんな明るい話題の少ない教会に あって、右記の約束はじつに闇に灯る光のように 思います。
 
 ところで、エレミヤを通して伝えられたこの神 の約束は、ユダ王国の崩壊と共に異教の地バビロ ンに捕らえ移された人たちに送られた言葉で、王 国の存続にこだわり、敗北と屈辱を受け入れない 人への約束ではありません。神の心は現実に抗 うことではなく、神への信頼を失った結果を受け 入れ、さばきの器となったバビロン軍への降伏に ありました。しかし、当然ながら敗北を受け入れ ると、住み慣れた地を離れ、築かれてきた多くの ものを手放さなければなりませんでした。もは や生活の見通しなどなく、命の保証すらありません。
 
 しかし、意にそぐわない捕囚の地で新しい生 活を築く人たちに、神は驚くほどシンプルで、前 向きな約束を与えられたのです。
 
 私たちの教会・教団はどのようにあることを目 指すのでしょうか。「信仰をもって伝道すれば何 とかなる」「心を合わせて祈って神を待ち望みま しょう」で終わらせないで、教会でも、教団でも しっかりとした一年の振り返りを行いましょう。 その上で将来に向かって思い描く姿、伝道のビ ジョンについて互いの理解を深めたいのです。
 
 今年は三年に一度行われる任命に関する要望書 の提出年です。これは全教会と全牧師に求めら れます。この要望書を提出するため各教会では 準備された問いに従い、自分たちの状況を診断し ます。これをしないで要望だけを出さないよう にしましょう。しっかり診断した上で、将来の姿 を思い描きます。こうして私の願いではなく、神 のいだかれる計画を信じるのです。それが私た ちに平安、将来、希望を与える計画です。

2018年

「躍動する信徒たち」

信徒教団委員 

 
 「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」(へブル12:1)。
 
 日本ホーリネス教団として祈り、待ち望んできました第9回全国信徒大会おきなわ大会が、いよいよ今月開催されようとしています。早いもので、前回の千葉大会から4年の月日が経過しました。この大会を目指して、南西教区の信徒・教職の方々が力を合わせて、きめ細かな準備を進めてくださいました。主がこの大会をどのように祝福し導いてくださるのか、期待して待ち望みたいと思います。前回の千葉大会の実として、千葉教区に連合壮年会が誕生しました。今回のおきなわ大会においても、主はすばらしい祝福と共に、何らかの実を与えてくださるのではないかと期待しています。
 
 さて、日本ホーリネス教団には勧士制度がありますが、新しい勧士制度となってから10年が経過しました。少子高齢化の時代を迎え、教団に所属する教会にとっても厳しい時代となってきました。そういった環境の大きな変化の中で、この勧士制度は、さらに重要な役割と期待を担っていくものと思われます。勧士に関する規程にはその職務として、信徒説教者としての役割と共に、専任の牧師が任命されていない教会などにおいて、牧会の任に当たることができると規定されています。私たちの教団にこういった勧士制度があることは、とても感謝なことであると思っています。前述した全国信徒大会と共に、この勧士制度は、教団の中における信徒の活躍の場として大いに用いられていくべきではないでしょうか。
 
 現在、教育局としてもこの勧士制度に大きな期待を込めて、働きながら学ぶ勧士志願者を念頭においた、新たなカリキュラムの策定を検討しています。またさらに、この10年間の勧士たちの歩みを振り返りながら、これからの働きを見すえて、「勧士の働き事例集」(仮称)出版のための編集委員会も発足いたしました。
 
 これからの時代は、今まで以上に教職者と信徒たちが力を合わせて、難しい局面を乗り切っていかなくてはならないと思います。躍動感に満ち溢れた信徒たちが教団の未来を担い、聖霊に満たされて、一人ひとりが重荷をもって活躍していく時代が、今まさに来ているのではないでしょうか。どうぞこのことのために、皆さまの尊いお祈りをよろしくお願いいたします。
 

  『罪きよめられた罪人』として」
教職教団委員 鈴木 英夫

 今月末31日が宗教改革記念日ですが、改革者マルティン・ルターは、キリスト者である私どもの姿を「罪赦された罪人」「義人にして同時に罪人」であると表現しました。そして同時に強調したことは、「キリスト者の全生涯は悔い改めの人生である」ということです。主イエス・キリストの十字架の贖いによって私どもの罪は全く赦され、神は私どもを義なる者と認めてくださいましたが、私どもはその後にも自らの罪に気づかされる度に悔い改め、赦しの恵みに立ち帰り続けます。この「罪赦された罪人」というルターの言葉を思い巡らしていたとき、「聖化/きよめの信仰に生きる私どもは、『罪きよめられた罪人』なんだ」との思いが、私の心に浮かんできました。

 「『日本ホーリネス教団の信仰告白』解説」の中で、「完全な聖化が与えられ」の告白の部分の解説はこのように記されています。―わたしたちは、新生の経験をした時点では、罪や信仰について、まだ浅い理解しかできません。それが信仰の歩みを続けていく中で、なお深い罪の自覚へと聖霊によって導かれ、その罪すらも主イエスの十字架の贖いによって赦されていることを、知らされるのです。それはわたしたちにとって、時には新生の経験にも匹敵する大きな喜びを伴う経験となるため、新生が人生における「第一の転機」であるのに対し、この経験が「第二の転機」といわれます。このような経験は一度だけのものではなく、何度でも繰り返され、その度により深い罪の悔い改めと、より大きな神の恵みを体験することになります。この自覚的な経験としての「第二の転機」をわたしたちの教団は強調しています。―聖化/きよめの経験をした私どももなお罪を犯してしまい、悔い改め続けます。悔い改めに卒業はないのです。
 
 7月の教団夏季聖会では水野晶子牧師(日本イエス・キリスト教団委員長)がヨナ書のヨナの姿を通して、9月の千葉聖会では鎌野直人牧師(関西聖書神学校長)が創世記のヤコブの姿を通して語られた説教を、私は聴かせていただきました。正にヨナもヤコブも罪人ですが、神の恵みに立ち帰り続けた「罪きよめられた罪人」として生きました。それはまた私自身、私どもの姿でもあります。

 ペテロは「御霊のきよめにあずかっている人たち」(Ⅰペテロ1:2)に対して、「あなたがた自身も、……聖なる者となりなさい」(同15)と語りました。「罪きよめられた罪人」として、なお聖化/きよめの恵みに立ち続けましょう。

「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」詩篇133:1

教育局長 平野 信二

 11月22日(木)〜23日(金)、那覇市のパシフィックホテル沖縄において「第9回全国信徒大会おきなわ大会」が開催されます。冒頭聖句の「兄弟(姉妹)」には、3つの意味が考えられます。

 第一は、信徒大会に参加するすべての信徒・牧師たちです。「前夜祭/ちゃんぷるナイト」での食事と交わり、「礼拝/ほーらしゃ」での賛美と御言、「分科会/ゆんたく」での発題と分かち合い、24日の観光ツアーや25 日の南西教区内教会での主日礼拝式出席を通して、参加するすべての人が、聖霊により、互いに結び合わされ、愛の内に育てられていくのです。
 
 第二は、この大会のために準備している実行委員を始めとした南西教区の方々です。キャンプなどを企画した私自身の経験から言えることは、一参加者として大会に参加するよりも企画・運営する方がワクワクし、多くの恵みを受けることができます。もちろん、準備する中で戸惑うことや、意見がまとまらず苦慮することもあったでしょう。プログラム立案のような企画だけでなく、ホテル/旅行社との折衝など、実行委員会の働きは多岐にわたります。しかし、それらのことを通して、一つの目標に向かって進んでいく中で、主にある交わりが深められていくのです。
 
 そして第三は、沖縄大会のために祈り、信徒仲間や牧師を送り出してくださる全国の方々です。
 
 その兄弟(姉妹)が「和合して共におる」ことを、神さまはお喜びになるのです。ここでちょっと立ち止まり、改めてこの言葉を開催地・沖縄という文脈で考えてみたいと思います。旅行ガイドなどで見る美しい海、三線の音色と躍動感にあふれる賛美、日本で最も早くプロテスタント信仰が伝えられたクリスチャンの人口比率が最も高い県。私たちが普段イメージしている側面だけでなく、沖縄の歴史、今も負わされている痛みと苦悩に目を向け、耳を傾けさせていただきたいと願います。そのようにして理解を深めるところから、真に「和合して共におる」ことが可能になるのです。そのための新たな一歩を踏み出す全国信徒大会となるならば、神さまは私たちを「麗しく楽しい」とお喜びくださるのではないでしょうか。
 

「他者のために生きる教会」

奉仕局長 佐藤 義則

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ16:25)。

 過去をふり返って、私にとって「信仰の危機」と言われるような経験がありました。うつ状態になり、「パニック症候群」と言われるような症状がありました。それまで心の病を持っている人に対してなかなか理解し得ない私でしたが、他者に少しでも寄り添えるようになるために貴重な経験であったとふり返ります。
 
 起きていても眠っていても辛いという状態で、生きていること自体が苦痛でした。礼拝堂の中を何度も何度も歩き回りながら懸命に祈りました。その中でたどり着いた祈りは、「あなたのために生きたい!」というものでした。不思議なようにその祈りから私は変わり、立ち直ることができたのです。自分を救おうと思えば思うほど、自分のいのちは薄れてゆき、自分を見失い、神を見失いました。そのようにもがき苦しむ中で、「主のために生きる」ということに気づかされたということではなく、それが私の心のうちにあった真の欲求、心の奥底から込み上げてきた叫びだったのです。
 
 主のために、神のために生きるとは、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:
40)と主が言われたように、自分に助けを求め、自分を必要とする人のために生きるということです。教会も同じことが言えるのではないでしょうか。
 
 かつてある教会員から、どうして教団に本部費を納めるのですかと尋ねられたことがありました。私はいくつかその理由を述べた後で、本部費は、教会や牧師が経済的に困窮する時に互いに支え合うためのものであると返答したのです。彼は腑に落ちて、「それならば、もっとささげましょう」と言いました。
 
 今、奉仕局で社会保険加入の問題に取り組みながら、その財源の問題に苦慮している中で、その言葉を想い起こしておりました。私たちの教団はひとつの教会であると言われてきました。喜んで他の教会のためにささげ、教会が互いに支え担い合ってゆく時に、受ける教会が生かされるだけでなく、与える教会も生かされ、神の祝福を受けてゆくのではないでしょうか。

「必ず恵みといつくしみとが伴う」

財務局長 

 
「わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」

(詩篇23:6)

 
 2017年の決算が教団委員会で承認されました。暫定的でありますが、報告をさせていただきます。

 まず、教会から直接献金されます本部費は、予算を50万円超えました。厳しい教会会計からご献金くださり、感謝申し上げます。また、特別献金は、予算額に対して10倍の献金が与えられました。一人の方が多額の献金をしてくださったことに大きな理由があります。次世代育成献金についても、予算額200万円を30%超える献金が与えられました。皆さまの次世代への強い期待を感じております。
 
 支出についても、ご報告いたします。
 一番大きな科目は、教会援助費(謝儀支援)で2 1 0 0 万円を予算計上しておりましたが、2054万円程で決算されました。謝儀支援という形で苦闘する教会を全国の教会が支え合うためのこの働きは、教団の大切な役割のひとつであり、やがてそれぞれの教会が自立できることを願ってやみません。また、東京聖書学院には、予算どおり1300万円を支援することができました。

 ネヘミヤ・プロジェクトで教団債としてご協力いただいた返済額700万円も、一般会計から500万円、教団基金から200万円拠出して返済に充てました。決算書を眺め、つくづく不思議な働きを感じ、厳粛な思いになります。
 
 東京聖書学院の決算も、聖書学院理事会、教団委員会の承認を受けましたので、ご報告させていだだきます。
 
 私がビジネス委員長として聖書学院の会計を与かるようになった前後、学院の会計は厳しく、予算を立てるにも赤字予算にならざるを得ない状況でした。さすがに、赤字予算は立てられませんので、積立金を取り崩して予算を立てた時期が数年続きました。
 
 聖書学院の会計は、大きく教団の拠出金、後援会からの献金、学事収入によって運営されております。今年度は黒字になりました。このような業績になった理由は、ネヘミヤ効果ともいうべき維持費、修理費の減少、修養生の増加等が考えられますが、背後に主の明確な導きを感じます。「必ず恵みといつくしみとが伴う」ことに、ハレルヤ。
 

キリストの平和を心に

宣教局長 加藤 望
 

 私たちの心を支配しているものは何でしょう。怒りの感情でしょうか。私はなかなか自分の思い通りに物事が進まなくて、いらいらして沸々と怒りが湧いてくることがしばしばです。買い物に行ってレジの長蛇の列に並んでいらいら。その時の顔は決して穏やかな顔ではありません。眉間にしわを寄せ、人を寄せつけないオーラを放っているのです。一緒にいる妻から「顔が怖いよ」と言われて、ハッとすることがあります。そんなときに限って、「あっ神さまのお話の先生だ」とこども園の園児さんや保護者の方に出会って挨拶されるのです。どんなときにも笑顔でと自分に言い聞かせながら、情けないことですが、牧会上の問題を抱えているときなど、頭の中で「こう言われたら、ああ言おう」などと悶々とシュミレーションして、自然と怖い顔になっているのです。

 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ3:15)。この聖句を掲げて、私の教会は2018年度に踏み出しました。私たちの心を支配するべきもの、それは「キリストの平和」なのです。自分の計画でも、自分の感情でもありません。まして自分の平和、すなわち、安穏な日常への希求、あるいは政治的な平和運動でもないのです。平和の君なるキリストが持っておられる平和、キリストが十字架で命をささげられて打ち立てられた神との和解、そして、キリストが十字架によって敵意という隔ての中垣を打ち壊してくださったことによって実現した人と人との平和なのです。キリストを内に宿すことによって、平和そのものであるキリストの「平和」が、私たちの心を支配してくださいます。キリストの平和に生き、キリストの平和が滲み出でるようなお互いでありたいですね。平和にぴったりな顔の表情は笑顔です。昔はやったピース・マークの笑顔のように、敵をも愛するキリストの平和の福音を、私たちの笑顔で周りの人々に届けましょう。
 
 そのために、宣教局では新しい伝道の手引きを皆さんから募集選定して、教団HPに掲載する予定です。子ども向け、中高生向け、青年向け、中高年向け、高齢者向けと、全年齢層に届く手引きを整えたいと願っています。個人作でも教師会作でもかまいません。奮ってご応募ください。また一人ひとりが真のキリストの弟子となり、弟子を生み出すためのT&Mセミナーも高知や南西教区で始まり、信仰に導かれる方が何人も起こされています。興味のある方は宣教局までお問い合わせください。

「弱さを中心にした交わりの教会」

総務局長 大前 信夫

 
 新しい年度がスタートして一か月、私たちは何に期待しているでしょうか。とくに牧師の異動があった教会では、期待も大きいことでしょう。牧師もまた期待に応えようと頑張ります。そして、「ハネムーン期間」が過ぎる頃、周囲の評価が始まります。するとさらに牧師が頑張る……。かつて開拓伝道がたけなわの頃、牧師たちは使命感と周囲の期待により、自分自身を叱咤激励し、伝道と教会形成に励みました。その生き方に感動する教会員が、その牧師と教会を支えていました。頑張り続ける牧師にも、頑張れない牧師にも、どこかこうした伝統が今もまだ残っているような思いがします。
 
 数年前、世界ホーリネス教会連盟教育大会が台湾で行われました。この大会の主題は「牧師への教育・訓練」で、そのキーワードは「バーンアウト」「燃え尽き症候群」でした。熱心で強靭な信仰者の韓国人牧師、前向きで明るい台湾人牧師は、このようなテーマをどのように理解するのかと私には不安でした。「献身が不十分だ!」「神を期待して祈れ!」……そんな言葉が飛び交うのでは想像していたのです。もちろん私が無知だったのですが、どの国からも牧師の燃え尽き症候群の報告がなされました。そして、この「バーンアウト」が意味する人の弱さについて話す時、その言葉は優しさや慰めで豊かだったのです。

 かつて教会形成セミナーでは、どうすれば教会は成長するかがその主題の中心でした。そこでは「弱さ」よりも「強さ」が語られていたように思います。「強さ」について語られる時、人に焦点が合っているようでした。ところが、「弱さ」について語る時には、神を見つめているのです。この台湾の大会では、「強さ」ではなく「弱さ」が中心になったため、参加者の心は優しさで満ち、語る言葉がお互いの心の壁を超え、神の恵みだけが残ったような思いがしました。すべての講演が終わった時、会場には何とも言えない一体感がありました。言葉、文化といったものを超えて人と人をつなぐものが人の「弱さ」であったことは嬉しい驚きでした。そして、ここに教会の姿があると思ったのです。
 
 新しい年度、飛び抜けた能力を持つスーパーマンに期待するのではありません。一人ひとりが神の前にひざをかがめ、貧しい者を生かす神の恵みに焦点を合わせましょう。そうすればそこに「弱さ」を中心とした交わりが豊かになり、その中で生まれる喜びや神への賛美に、人は惹かれていくのではないでしょうか。

「イエス・キリストは主である」の信仰に生きる

―心を合わせ、ひざをかがめ、高らかに主を賛美しつつ   

 

教団委員長 島津 吉成

 
 「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(ピリピ人への手紙2:10〜11) 
  
 4月を迎えました。新たな出発のときです。教団も「神の宣教に仕える教会」というテーマを昨年度から引き継ぎつつ、『「イエス・キリストは主である」の信仰に生きる〜心を合わせ、ひざをかがめ、高らかに主を賛美しつつ〜』をサブテーマとし、年間聖句としてピリピ二章10〜11節を掲げて新たな歩みを始めます。新年度はこのテーマとみ言葉のもと、「愛の共同体(教会・教団)の建設」「聖なる共同体(教会・教団)の建設」「宣教の共同体(教会・教団)の建設」に励んでいきたいと願っています。 
  
 イエス・キリストは「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」人となり、「死に至るまで、しかも十字架に死に至るまで」従順を貫き通してくださいました。何のために、このような生涯を歩んでくださったのでしょうか。それは、私たちを愛し抜いてくださったからです。ひとりの滅びるのも望まなかったからです。私たちを罪と滅びの中から救ってくださるためです。そのためにキリストは、ご自身を投げ出してくださったのです。 

 父なる神は、このキリストをよみがえらせてくださいました。イースターです。そして、このお方を高く引き上げてくださり、すべての名にまさる名を与えてくださいました。すべてを治める主としてくださったのです。ハレルヤ! 

 私たちの主は、このように私たちをとことん愛し抜いてくださるお方、そして全世界、全宇宙を治めておられるお方です。私たちは、このお方こそ、「私の主」と告白するのです。主と告白するということは、主の言われることに「はい」と言って従うということです。そのとき、私たちは主の素晴らしい御わざを体験することができるのです。主に従っていったらどうなるのだろうかと心配になりますか。心配する必要はありません。私たちを愛し、私たちのことを一番よく知っていてくださるお方が導いてくださるのです。そして、責任は主が取ってくださるのですから。私たちの主がどんなことをしてくださるのかを期待して、新しい年度の歩みを進めていきましょう。 
 

「あなたのために祈った」ルカ22:32

東京聖書学院長 錦織 寛

 
 東京聖書学院の一年が終わろうとしています。今年は本科生・一年訓練生・特別研修生、合わせて13人が聖書学院を巣立っていくことになっています。主イエスには12人の弟子たちがいました。主イエスもご自身の弟子たちと3年間寝食を共にして育てました。弟子たちに語り、弟子たちを教え、また自分のしていることを見せ、実際に実践させて学ばせました。そしてこのルカ22 章は、3年間の終わり、聖書学院でいえばまさに卒業というところです。弟子たちもそういう気分になっていたことかと思います。しかし、そのような中で、主イエスは弟子たちに言われます。あなたがたのうちの一人が自分を裏切ると語り、また誰が偉いかなどと議論している場合ではない。あなたがたは私を捨てていってしまう。ペテロ、あなたもだ、私のことを三度知らないと言うだろう。3年いたのに何を学んできたのだと叱られそうなところです。

 ペテロは言います。私には覚悟があります。でも主イエスはおっしゃるのです。あなたの覚悟では間に合わない。でもそのような中で、主イエスはおっしゃいました。わたしはあなたのために祈った。弟子たちは大きな試練に遭おうとしています。それまでの経験や覚悟がぶっとび、自分の自信が粉々に砕かれてしまうような、そんなところに立たされようとしていました。しかし、私のために祈ってくださったお方がいてくださいます。

 そして、主はおっしゃいます。「あなたの信仰はなくならない」。私の信仰は、私に土台しているのではありません。私のためにとりなしてくださる主によっているのです。「あなたは立ち直る」。あなたは私のことを三回知らないと言う。しかし、おしまいではなく、主は私のために祈っておられるのです。あなたは立ち直る。「あなたは兄弟たちを力づけるようになる」。そして、主は、ペテロに再びリーダーとして、他の弟子たちを励ます存在になるとおっしゃるのです。

 まさに、わたしのために祈ってくださるお方が私を支えてくださいます。祈ると言うときに、確かに、「わたしの」祈りもあるのですが、同時に、それ以上に、わたしのために祈っていてくださるお方がいてくださることを覚えたいと思います。そしてこのわたしのために祈ってくださったお方こそまさに、わたしのために十字架で死に、死を打ち破ってよみがえってくださったお方なのです。

伝統・文化との狭間で神の御前に立つ

教育局長 平野信二

 
 
「ダニエルは、……以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。」(ダニエル6:10)
 
 「建国記念の4日」の2月11日には、「信教の自由を守る日」として、キリスト者によってさまざまな集会が開催されています。戦前は「紀元節」と呼ばれ、現人神・天皇を中心とする帝国日本にとって重要な祭日だった日に、信仰のあり方を考えるのは意義深いことです。日本のさまざまな慣習や人々の考え方との狭間で生活していると、本来の意味や目的を知らないまま、いつの間にか伝統や文化の中に飲み込まれてしまうことがあります。主イエスも、「自分たちの言伝えによって、神の言を無にして」しまうことに注意を促しています。
 
 私たちに託されている伝道/宣教の使命は、単純素直にイエス・キリストを救い主と信じる信仰へと導くことと、信じた者が言葉と行いと生活のすべてにおいてキリストを主として生きることを通して、日本の文化・社会の中に福音を根づかせていく取り組み(文化脈化)です。時には、異なる文化の中に食い込んでいくためのせめぎ合いや、しのぎ合いがあるものです。福音を伝えるための工夫やアイデアは大切ですが、波風立てず嫌われないようにという配慮(忖度?)が過ぎて、戦前のように福音そのものが変容・変質してしまわないように注意深くあるべきです。また、天皇の生前譲位などの報道が増える中で、以前のように、言えない空気が醸成されないように注視するのも、私たちに託された「見張り人」(エゼキエル33:2新改訳)としての使命です。

 異教世界に生きる神の民として、ダニエルを取り巻く状況がさらに厳しくなる中で、彼は「以前からおこなっていたように……神の前に祈り、かつ感謝」しました。ここに私たちが福音に生き、福音によって日本に奉仕する原点があります。祈りは、ここに神がおられることを確認し、祈りに応えてくださる神を体験する場です。祈りの中で神の御心を求め、私たちが「神の言」と神ご自身の御前に立つところから、日本における福音宣教の道が開けてくるのです。

それがなんであろう!

教団委員長 島津 吉成

 
「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい」(ピリピ1:12)。
 
 昨年の4月、2017年度のスタートに当たって、私たちはピリピ一章12節のみ言葉をいただいて、その歩みを始めました。「むしろ」という御わざを行ってくださる主を信じてスタートしたのです。そして、今、昨年の4月からの歩みを振り返ってみるときに、このピリピ1章12節のみ言葉が真実であったか、ということが試され続けた日々であったことを思わずにいられません。思いがけない、いろいろなことが起きてきました。その中で、本当にこのことが、「むしろ福音の前進に役立つようになった」と言えるのか、と問われ続けたのです。正直言って、「とてもそのようには言えない」と思ったことが、何度あったことでしょう。今も、まだ、そのようには言えない、という課題を抱えています。おそらく、この地上での歩みの中では、私たちには目の前のことしかわからないので、「わたしの身に起こった事が、むしろ福音の前進に役立つようになった」と言い切れる日は来ないのではないかとさえ思ってしまいます。
 
 ところがパウロは、言い切ったのです。彼だって、全部のことを見通していたわけではないでしょう。しかし、彼は課題を抱えつつも、「役立つようになった」と言い切ったのです。
 
 パウロが捕らえられていることをチャンスと考え、その間に自分たちの勢力を拡大しようという不純な動機から伝道している人たちがいました。そのことについて、パウロはこう言っています。「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(ピリピ1:17〜18 新共同訳)。何という突き抜けた信仰でしょうか。うんざりするような問題、課題がある中で、「それがなんであろう」と言って、問題にしないのです。それは、「むしろ」という御わざを行ってくださる神を信じるからこそ立つことのできる信仰の姿勢です。
 
 新しい年の歩みの中でも、私たちはさまざまな課題に直面することでしょう。しかし、「むしろ」という御わざを行ってくださる神を信じ、「それがなんであろう」と言って乗り越えていく、突き抜けた信仰をもって歩んでいきたいと切に願います。  

2017年

光の主の輝きを見よう

教職教団委員 鈴木 英夫

 もう20年以上前に、田村正和・木村拓哉・宮沢りえが出演していた「協奏曲」というテレビドラマが放映されていました。有名な建築家・海老沢(田村)と若手建築家・貴倉(木村)の、榊(宮沢)を巡る人間関係が描かれています。貴倉は大手ハウスメーカーの社長(辰巳)のバックアップで注目され始めていましたが、長年取り組んでいた鎌倉のある教会堂の設計をやっと完成させ、その教会堂が竣工して、海老沢に見てもらいでき栄えを評価してもらいます。その後辰巳もやって来て、海老沢と二人きりになったときに、礼拝堂を見ながらこう問います。「大きいだけでがらんとして何の装飾もない。私はこの建物がわからないのです。彼には本当に才能があるのだろうか」。それに対して海老沢はこう答えます。「この礼拝堂には700人の席がある。700人が集まったときに来てごらんなさい。夕日が差し、光があのガラス(礼拝堂正面に曇りガラスの部分があり、十字架がかかっている)から差し込んだときに来てごらんなさい。誰も装飾が足りないとは思わない。人と光がこの空間を満たしているはずだから」。
 
 このドラマの作家は、そこまでの意図をもって言わせたのではないでしょうが、この言葉の意味することは、「礼拝堂は、そこで礼拝する者たちが集まることによって、はじめて礼拝堂として成り立ち、礼拝堂として完成する」ということです。また、光についてのくだりも象徴的です。ドラマでは残念ながら「夕日」と言わせていますが、東から昇る朝日の光は復活のキリストの象徴であり、その光が礼拝堂を満たすことは、まさにキリストの臨在を意味しているのです。「光の主に招かれた者たちが集まって礼拝をささげるとき、この空間は光が射し込み、まことの礼拝堂となる」。ちょっと深読みかも知れませんが、私はこの建築家の言葉をそのように受け止め、深い感動を覚えました。
 
 「見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。」(イザヤ書60:2)
 
 2017年最後の月を迎えましたが、私どもはこの一年間、私どもを取り巻く社会に、また教会や教団の状況において、そしてまた私ども一人ひとりをも覆う闇を見ざるを得ませんでした。しかしそれ以上に、その闇を消し去る光として来てくださったキリストの輝きを、礼拝において見させていただきましょう。
 

若者に語り伝えてほしい

奉仕局長 佐藤 義則

 
神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。(使徒行伝2:17)

 今年の年会で隠退された牧師は、15名おられました。「りばいばる」5月号に折り込まれる任命一覧表の「隠退」の欄には、100名余の名前が連ねられております。そうした先生方の互いの消息を知り、共に祈り合うことができたらと願って、錦織博義先生が奔走されて、文集を編集・発刊してくださいました。奉仕局でなすべきところ、自らお独りの手と足で制作されました。感謝に絶えません。

 今年から奉仕局の仕事に就かせていただいて、神さまから賜わったもっとも大切な務めは、隠退された先生方の御労をねぎらうことであると受けとめております。隠退された先生方は、長い歳月にわたって慎ましい生活をしながら、すべてをささげ切って福音を語り伝え、群れを牧してこられました。天で報われこそすれ、この地上では報われることの少ない仕事です。だからこそ、奉仕局としては限られたものではありますが、少しでもその御労をねぎらい、安心して老後を送っていただきたいと願っております。
 
 さて、私の仕えている青梅恵み教会の礼拝堂には、すでに天に帰られた堀井美佐代牧師の書が掲げられています。それは端正な美しい書で、冒頭のみことばがしたためられています。このみことばを仰ぎ見るたびに、私の心は勇気と希望にあふれてきます。

 日本という国は、宣教がもっとも困難な国のひとつと言われますが、この国のすべての人々に聖霊が注がれるなら、信仰に対して反抗的な息子が、あるいは無関心な娘が「預言をする」、親にみことばを語って聴かせる者となるのです。また、現実に押しつぶされて虚無的になっている若者が幻を見、将来を憂えているご年配の方が夢を見るというのです。
 
 今日の私たちの教団の最重要課題のひとつは次世代育成です。ご年配の方々にお願いしたいことがあります。ご自身の信仰の体験を若者に語っていただきたいのです。そして、これからの教会に夢と希望があることを語ってほしいのです。 

次世代への宣教の急務

信徒教団委員 

 
「すると、イエスはシモンに言われた、『恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ』。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った」。(ルカによる福音書5:10~11)
 
   この箇所での「彼ら」とは、ペテロの他にゼベダイの子ヤコブとヨハネが含まれています。この二人は兄弟で、共に青年であったと考えられます。もしかしたら、十代から二十代前半であったかもしれません。すなわち、若い時に救い主イエスと出会い、十二弟子の一員となったのです。そして、イエスの十字架と復活の後、世界宣教へと導かれていきました。初代教会の働きは、若者たちによって進められたとも言えます。そして、私たちの国、日本の明治期の宣教も若者たちによって担われました。  日本におけるキリスト教会の現状はどうでしょうか。少子化の流れもありますが、若者たちへの伝道が非常に難しくなっている中、牧師の子どもたち、クリスチャンホームの子どもたちへの福音・信仰の継承までもが、必ずしも順調とは言えないのではないでしょうか。私たちの教団の現状を考えると、次世代への宣教は急務だと思います。
 
 今年度から組織改編を経て、「次世代育成プロジェクト」の働きが本格的にスタートしました。私も担当させていただく中で、いろいろと考えさせられています。まず皆さまにお願いしたいことは、この働きのために覚えて祈っていただきたい、信仰の先輩である歩みの証を伝えていただきたい、そして、必要のためにささげていただきたいということです。
 
 次世代育成基金のための献金袋が用意されます。その使い道としての主なものが、教団主催のキャンプやユースジャムのような大会に、全国から一人でも多く参加してもらうための交通費援助です。教区主催のキャンプでの交わりも恵まれますが、全国規模での信仰の友との交わりを通して、年代の近い、共通の悩みや思いを持つ者たちが、祝福を分かち合い、互いに励まし合えるようなキャンプや会に、一人でも多くの若者たちを送り出してほしいと願います。そこで受けてくる恵みや祝福が、送り出した教区、教会へも注がれていくことでしょう。
 
 ぜひこの働きに関心を持っていただき、引き続きお祈りとご協力を重ねてお願いいたします。

教団の財政上の使命

財務局長 
 

 
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Ⅰヨハネ1:9)。
 
 本部主催の夏季聖会は、今年は箱根ではなく、東京聖書学院で行われました。私も全期間参加することができ、4回の聖会のうち2回も恵みの座に出させていただき、幸いな時を持ちました。この御言葉はその時わたしの胸に強く迫ってきた箇所です。きよくなければ神の国を受け継ぐことができないという厳然とした信仰に立つ限り、つねに素直に罪を告白し続けることが、祝福の源であると示されました。
 
 数週間前からある信徒の厳しい言葉が脳裏から離れません。それは、教団の財政についてであります。皆さまのご理解をいただきたく少し詳しく述べさせていただきます。現在全国の教会から本部費を納入していただき、教団の運営がなされております。その合計額8000万円余。そのうち割合の高いものから申しますと、苦闘する教会を支援するため謝儀支援として26パーセントにあたる2100万円が、さらに16パーセント、1300万円が聖書学院に支出されます。そしてその他、兼牧支援金、教会教区活動費、次世代育成費、宣教師派遣費等に本部費が使われています。このような働きは、個々の教会単独では困難なことがらであり、教団だからできる働きと言えましょう。教団の財務関係の資料は、公開されておりますので、ぜひご覧になり、御理解いただきますようお願いします。
 
 ネヘミヤ・プロジェクトが、完成間近であります。教団として負担する5700万円を、10年で返済しなければなりません。現在の教団の財政状況を考えると厳しいと思われますが、これは主のわざです。大いに期待して、なお続けてお祈りと献金をお願いいたします。

「信徒の時代・勧士の時代」

信徒教団委員 

 
「彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明かしてくださったと
き、お互の心が内に燃えたではないか』」(ルカによる福音書24:32)
 
 教育局では、毎年8月に勧士と勧士志願者のためのセミナーを開催しています。具体的には、「説教セミナー」と「牧会セミナー」を隔年ごとに交互に実施しています。この二つのセミナーは、すでに勧士となられている方々にとっては大切な研修の場となっていますが、同時に勧士を目指して学んでいる方々は、必ず両方のセミナーを受講してレポートを提出することが、勧士となるための必須条件の一つとなっています。さらに勧士を目指す方々は、東京聖書学院の本科(旧約聖書概論・新約聖書概論・神学概論)ならびに信徒コースの学び(選択制)の合計200単位を受講する必要があります。決して平たんな道のりではありませんが、信徒の方々は、ぜひ熱き使命を持ってチャレンジしてほしいと願っています。

 現在、勧士は全国に17名おられ、それぞれの教会で信徒説教者として活躍されています。兼牧が増えている現在の私たちの教団においては、これからますます勧士の役割が大切になってくることでしょう。私は、勧士でなければ語れない説教もあると思っています。勧士の方々は、永年社会人として厳しい社会の現実に直面しながら、クリスチャンとしてのしっかりとした信仰と証しを携えて生き抜いてこられました。その豊かな社会経験を背景に語られる説教は、ある意味ではとても新鮮で、具体的かつ説得力があるのではないでしょうか。そして、さらにその説教がキリストのご臨在と聖霊のお働きによって、聞き手の霊的な深みに触れ、聖書が豊かに説き明かされるときに、冒頭のみ言葉のように、心の内なるものが燃やされていくのだと思います。
 
 私たちの教団に勧士制度があるということは本当に感謝すべき、すばらしいことであると思います。正に今は、信徒の時代・勧士の時代と言っても過言ではありません。
 
 東京聖書学院で深く学んでこられた教職者の方々と社会経験の豊かな勧士の方々とが、それぞれの役割を尊重しながら良い形で連携し、互いに協力して教団の未来に向かって前進していけるということは、何と幸いなことでしょう。これからも福音宣教のために、熱き使命を持った、新たな献身者や勧士志願者が起こされるようにと願ってやみません。

「出て行って(Go into)」

宣教局長 加藤 望

 
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ一六15)。
 
 これは復活の主イエスが天にお帰りになる前に、弟子たちに遺された宣教命令です。あまりにも有名で、皆さんも耳にタコができるくらい聞いたかもしれませんね。先日、英語の聖書を読んでいてこの個所にきたとき、私はハッとしました。ゴー・イントゥとあるではないですか。ゴー・アウトではなくゴー・イントゥ! 出ていく行為が目的ではなく、どこに向かっていくのか、その対象が重要なのです。教会の外に出て行って福音を語らねばという義務感での宣教はゴー・アウトの宣教。あるいは積極的に御言を語る一方的宣教行為もゴー・アウトの宣教。出て行くこと自体が目的となってしまい、いずれも自己満足型の宣教になってしまう危険があります。

 ゴー・イントゥを直訳すると、「入り込んで」とでも言えるでしょうか。キリストの福音を伝える相手が抱える問題に関わり、ともに考え寄り添う、相手をよく知る、親しくなって相手のニーズを理解する……。福音の担い手にとって、相手に対するきめ細かい配慮が求められているのではないでしょうか。ある弟子化セミナーに出席したときのことです。シンガポールから来られた講師が、「ストップ・エバンジェライジング(一方的宣教は止めよう)、バット・スタート・ラビング・ピープル・イン・ザ・ネイム・オブ・ジーザス(イエスの御名によって人々を愛することから始めよう)」と言われました。そして、こんな例話が語られたのです。あるクリスチャンが、教会の特別集会に誘っていた友人を迎えに行くと、彼は子どもが熱を出していて行けないと断りました。その時あなただったら、強引に教会に連れて行きますか。そんなことはしないでしょう。残念そうに次の機会にと言って別れますか。多くの場合そうでしょう。その時、心の中で「サタンが働いて妨害した」と思いますか。熱心な方にありがちな反応かもしれません。でもむしろ、別れ際に「お子さんのために祈ってもよろしいですか」と尋ねてみたらどうでしょう。祈りを拒む人はいません。「イエスの御名によって人々を愛する」とはそういうことなのです。
 ゴー・イントゥ・オール・ザ・ワールド。あなたが置かれた世界で、福音を伝える相手が置かれている状況にあなたも飛び込み、その人に寄り添っていきましょう。あなたの存在を通して、神の愛が伝わって行くのです。

「聖会に行こう神の言葉を聴こう」

総務局長 大前 信夫

 
「主はきて立ち、前のように、『サムエルよ、サムエルよ』と呼ばれたので、サムエルは言った、『しもべは聞きます。お話しください』。」(サムエル記上3:10)

 この少年サムエルの言葉は、神の言葉を聴こうとする人たちの祈りです。残念ながら、当時は誰もが自由に神の言葉を聴くことはできませんでした。しかし、今は違います。聖書を開くとき、語りかけてくださるキリストの前に立っていると信じることができます。そして、誰もが「しもべは聞きます。お話しください」とお応えできるのです。

 洗礼を受けて2年目のことでした。母教会から2名の青年が東京聖書学院に入学したこともあり、東京聖書学院で行われる聖会に参加したい、東村山に行こうと盛り上がりました。それで母教会から10数名が、その年の新年聖会に出席しました。チャペルの扉を開けると、会場に満ち溢れる賛美の声。そして、心に迫る力強いメッセージ。初めての教団主催の聖会は、予想以上に素晴らしいものでした。そして、最も印象深かったのは、み言葉に聴きいる人々の姿でした。さらにメッセージの後、語られたみ言葉に応えようと懸命に祈る姿……。初心者の私もその祈りの中に進み出ました。すると気づかないうちに、友人が隣でいっしょに祈っていてくれました。私は聖会でみ言葉を聴く喜びを経験し、続く春季聖会(年会時にありました)へと一人上京。この聖会で、いつかこの場所で聖書を学び、神に仕える人生を生きたいと、説教後の「恵みの座」において願いました。こうして、み言葉を聴き、み言葉に応えて祈るという姿勢を、確かに聖会で教えていただいたのです。
 
 この夏も各地で聖会が行われます。きっと聖会を大切にされる多くの方々が集まって来られるのでしょう。でもまだ聖会の未経験者、初心者、さらに敬遠者もおられるはずです。もし聖会でみ言葉を聴く喜びをあまりご存じないなら残念です。いや2泊3日の聖会では体力的にきつい、忙しくて時間がないという方もおられるかもしれません。そんな方に朗報があります。教団主催の夏季聖会が、会場を熱海から東京聖書学院に変更します。だから大丈夫。東村山ですから日帰り、部分参加にも無理がありません。この夏、聖会においていっしょに「しもべは聞きます。お話しください」と祈りませんか。あなたにも「恵みの座」は開かれていますから。多くの方々の参加申込みをお待ちしています。
 

「神の宣教に仕える教会」逆転の神を見上げて
―たくましく、しなやかに―

 

教団委員長 島津 吉成

 
「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。」(ピリピ1:12)

 新年度の教団施政方針が教団総会で承認され、テーマは「神の宣教に仕える教会」、副題として「『むしろ』という御業を行ってくださる神を信じ、今を生きる。たくましく、しなやかに」、年間聖句はピリピ1章12 節となりました(内容については8頁をご覧ください)。新年度、私たちはこのテーマとみ言葉を旗印として掲げ、みんなで力を合わせて進んで行きたいと思います。そして、教団主催で行われる夏季聖会のテーマは、施政方針の副題を短くして、「逆転の神を見上げて―たくましく、しなやかに―」とさせていただきました。

 私たちは今、社会的にも、経済的にも、政治的にも、とても困難な状況の中に置かれていると思います。困難な課題を前にして、立ちすくむ思いになってしまうこともしばしばです。パウロがピリピ人への手紙を書いたときも、まさに困難な状況の中に置かれていたときでした。彼は捕らえられ、殉教も覚悟しなければならない状況の中に置かれていたのです。彼が自由の身であったならば、伝道はどんなに前進したであろうかと思います。しかし、彼はピリピの教会の人たちに書き送るのです。「わたしの身に起った事」とは、言うまでもなく、彼が捕らえられているということです。それが「むしろ」
 
 福音の前進に役立つようになった、と言うのです。彼はその理由として、彼が捕らえられることがなければ、おそらく福音を聞く機会がなかったと思われる兵士たちに福音を伝えることができたこと。また、彼が捕らえられることによって、教会の人々が奮起して立ち上がり、勇敢に神の言を語るようになったこと。さらに、パウロに対するねたみの思いからであったとしても、ともかくその人たちによっても、キリストが宣べ伝えられていること、などをあげています。

 神は、人間的な目では悲観的なことしか予測できない状況の中で、「むしろ」という逆転の御業を行ってくださるのです。このお方が今も働いて宣教の御業を進めてくださっているのです。ですから、私たちはこのお方を見上げて、進んでいこうではありませんか。そのとき、私たちはたくましく生きることができます。逆転の御業を行ってくださるお方が共にいてくださるのですから、「われ弱くとも恐れはあらじ」(新聖歌505)です。また、しなやかな心を大事にしましょう。パウロが伝道旅行の途中、アジヤ(東)に行こうとしたとき、主はそれを止めてマケドニヤ(西)へと導かれました。彼が自分の計画に固執していたら、ヨーロッパ伝道の道は開かれなかったことでしょう。私たちは、しなやかな心で主に従っていきたいと思います。主はそこに、逆転の御業を行ってくださいます。
 

「成長させて下さる神」

 
東京聖書学院長 錦織 寛

 
「だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである」(Ⅰコリント3:7)。
 
 ひとりの人が育つということは、とても大きなことだ。その背後に多くの祈りがある。多くのささげものがある。多くの励ましがある。また、多くの人の痛みを伴った叱責がある。そして、多くの愛と忍耐がある。多くの目がひとりの人に注がれ、多くの人の手がひとりの人に伸ばされている。そのような中でひとりの人が育っていく。ゆっくりゆっくり、またときにはびっくりするほど急激に、変わっていく。ひとりの人が育つということは、何と大きな喜びだろうか。ひとりの親として、牧師として、また聖書学院の教師として、それ以上の喜びはない。自分の関わりの中でそのことが起こってくることも、また自分の手を離れて、数年ぶりに再会した人の成長ぶりに驚かされることも、とてもしあわせなことだ。

 自分自身もまた、自分で気づいている以上に、多くの人の関わりの中で、育てられてきたのだと思う。私を受け入れ、励ましてくれた人がいた。私に期待し、厳しく叱ってくれた人がいた。何があっても、黙って受け入れ、祈ってくれた多くの人たちがいた。そして、誰よりも、教会の主であられるお方が目を注いでくださって、今の私が造られてきた。主の変わらないご真実がそこにあった。何度裏切られても信じ続け、私が主の御手の中にとどまり続ける
 
 ときに、どんな者になりうるのかという、その成熟した私の姿を望み見続けてくださっているお方がいてくださる。自分はこれからもそのような多くの愛と信頼と恵みの中で育てられていくのだと思う。

 しかし、同時に、次の世代を育てなければならない立場になって、育てることの難しさを覚えることがある。大きな心の痛み覚え、自らの無力さに打ちひしがれることがある。あのときこうしていれば、このときこうしていればと、後悔で心がいっぱいになることがある。主に対して、また教会に対して、申し訳なくて顔を上げられない思いになることがある。祈りが祈りにならないときがある。

 それでも、主は教会に魂をゆだね、また聖書学院に献身者を託してくださっていることにとても厳粛な思いにさせられる。いろいろな課題や弱さを抱え、また同時に大きな可能性をもった主の器たちだ。主はあの十二弟子を選ばれたように、私たちを選び、また彼らを選んでいてくださる。この人たちともう一度、主の御前に出て行きたいと思っている。私自身も彼らを育てる働きに関わりながら、育てていただきたいと思っている。
 

 

「短期宣教旅行が生み出すもの」

 

宣教局長 中道 善次

 
 OMS日本で8 年近く働かれたスティーブ・キング宣教師が影響を受けた本が、「Iron Shapens Iron」である。「鉄は鉄を研ぐ」(箴言27:17 )の聖句に基づく(信徒宣教者の証し集、邦訳なし)。これは、OMSがどのようにして世界規模の宣教団体として発展していったかを記す本でもある。その大きな要因は、信徒宣教部門MFM(メン・フォー・ミッション)が開かれたことである。神学校を卒業していない献身的な信徒によって、OMSは大きく発展していった。最初は、短期宣教ボランティアから始まり、その中で「主の召し」の声を聞き、やがてフルタイムの宣教師として宣教地に赴く人々の証しが、数多く記されている書物である。キング宣教師は、アメリカで建築会社を営む社長であった。会社経営のかたわら、一年に二度ほど、二週間の休暇を利用して、中国やカリブ海の島国に孤児院建設のボランティアに出かけておられた。そのような中で、主の召しを聞かれ、日本にやってこられた。リタイアされてからではなく、まだ現役のときにすべてを献げ、フルタイムの宣教師として来日された。

 2013年夏、茅ヶ崎教会の改築工事をキング宣教師に行っていただいた[右上写真]。約2ヶ月間、週6日、午前8時から午後5時まで、猛暑の中、黙々と働かれた。一日だけM建築士の紹介で、地元の大工さんが手伝いに来られて、一緒に働かれた。言葉が通じなくてもお互いプロなので、大工技術を見たらどのぐらいの技量かすぐにわかる。一日が終わるころにはすっかり仲良くなり、私が「この方はアメリカからの宣教師で、ボランティアとしてこの仕事をしてくださっています」と伝えた。大工さんは、「へえ、この人、日当なしでやっているの!」と驚きを隠せなかった。プロであるからこそ、いかに尊いもの(技術)を無償で提供しているかがよくわかったのである。

 私たちは宣教師と聞くと、説教ができると思ってしまう。だがキング先生は、「私は信徒です。説教はできません」とおっしゃった。しかし、行いを通して御言葉の真理を茅ヶ崎教会の人々に示してくださった。

 日本ホーリネス教団でも、信徒によるボランティアの働き(メン・フォー・ミッション・ジャパン、MFMJ)がある。MFMJが、海外の短期宣教に赴き、そこから宣教師が生み出されることを夢見ている。

 

「ホーリネスの覚悟」

 教職教団委員 佐藤 信人 

 
「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(Ⅰペテロ1:
16)
 
 2017年はルターの宗教改革から500年となる大きな節目の年ですが、私たちの教団にとりましても、東洋宣教会ホーリネス教会が創立されて100年となる記念の年です。
 
 1901年に中田重治とカウマン夫妻らによって始められた宣教活動は、当初は東洋宣教会という伝道団体でしたが、ルターの宗教改革400年となる1917年10月31 日に、東洋宣教会ホーリネス教会という一つの教団となりました。正式にホーリネスを名乗ったのは、このときが初めてとなります。それから100年、私たちの教団は今もホーリネスの看板を掲げています。
 
 このホーリネスという名称について、私たちの教団は大きな宿題を抱えたまま現在に至っています。1936年に東洋宣教会ホーリネス教会が二つに分かれて和協分離がなされたとき、「両団体は今後旧名称を用いず」という覚書を取り交わしました。それにもかかわらず、1949年に私たちの教団が創立された際、かつての約束を反故にし、「日本ホーリネス教会」(後に教団)という名称を用い、それを今も使い続けています。この名称問題の最終的な解決に向けて、創立100周年を機に、覚書を交わしたきよめ教会の流れを汲む基督兄弟団との協議を再開しています。
 
 東洋宣教会ホーリネス教会創立100年を迎えるにあたり、私たちに求められている大切
な一つのことは、ホーリネスの看板を掲げる教団としての覚悟でありましょう。私たちには、ホーリネスの名に恥じぬ歩みが求められています。ホーリネスを名乗り続けるということは、それだけの責任があります。皆さんの中には、「自分はたまたまこの教団に集うようになっただけ」という方が多くおられると思いますが、教会に連なるということは、その教会の歴史や課題を自らも担うということです。それゆえ、これは日本ホーリネス教団に属する私たちすべての者たちの課題です。
 
 歴史の紆余曲折を経て、私たちの教団が今なおホーリネスを名乗っている厳粛な事実に対して、私たちはこれを「聖なる者となりなさい」という神からの大いなる期待として受け止めたいと思います。そこから、その神の召しに喜びをもって応えていくホーリネスの歩みが始まります。
 
 

 新しい歩みを導かれる主

 

 教団委員長 中西雅裕
 

 「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい」。(ピリピ1:12)

 

 ピリピの教会の人々は、投獄されたパウロの身を案じます。またこのことが福音宣教の妨げとなり、今後の教会の歩みに大きな支障となるのではないかと心配します。自分たちの福音宣教のリーダーが、捕らわれてしまったからです。しかし、パウロはこのことがむしろ福音の前進に役立つようになった。心配しないようにと書き送ります。この前進と訳されている言葉は、軍隊用語の工兵隊を意味します。本隊が進む先に行って、草を刈り、木を切り、障害物を取り除いて、本隊が進むための道を作る働きをするのが工兵隊です。戦いそのものを見据えながらの、「整え」の働きです。パウロは白分か捕らえられ、投獄されたことが、福音の前進、つまり福音が伝えられていくための障害を取り除き、道を開くことに役立ったことを主に教えていただいたのです。主がともにおられてそうしてくださったことを知ったのです。主がなそうとする働きの「整え係」に任じられた我が身を喜ぶのです。それがどんなに苦しいことであったとしても……。前に進む時に、何らかの力がいります。水中で前に進む時のことを思うと、良くわかるかも知れません。始めの一歩のための力を、私たちが信じる神さまは私たちに与えてくださいます。そして御手の中におかれたすべてのことを益へと変え、苦しみやつぶやきを歌声と変えてくださるお方です。このお方に信頼し、各々が与えられた任を全うする者たちでありたいと願います。

 

 今年、教団として次の新しい三つのことを進めていきます。
1.昨年もたれたユースジャム2016には、500人近くの中高生・青年たちが集い、祝福のときとなりました。この働きを通して、教団に関わるすべての人々に祝福がもたらされることを願っています。このためにも各局に分散している次世代育成のための組織を改編して一つにし、働きを進めていきます。
2.全教職者の厚生年金保険・健康保険の加入を検討していきます。
3.統合も視野に入れた宣教協力が具体的に進められていくために、教団教派の責任者や宣教部門の責任者を中心に、団体としての教団教派間の協力とともに、各地域での個々の教会間の協力と交わりを積極的に作っていきます。

 

 キリストにあって、パウロがピリピの教会の人たちとともに、この思いもかけない「むしろ福音の前進に役立つ」経験を感謝したように、私たちの日本ホーリネス教団も、新しい年に、新しい歩みを導いてくださる主犯期待しつつ、前進するための困難を乗り越え、キリストにあって感謝をささげていきたいと思います。

 

2016年

信徒の力を結集して
 

信徒教団委員 
    

 
 「万軍の主は、こう仰せられる、『エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。みな年寄の人々で、おのおのつえを手に持つ。またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる』」。(ゼカリヤ8:4~5)
 
 
 今年もクリスマスの季節を迎えました。クリスマスは、伝道に効果的であると言われていますが、私自身も1972年に、当時、東京中央教会の組会の一つであった「池袋仲よし会」の方々が主催するクリスマス・レセプションに招かれて、そこで生まれて初めてクリスチャンの方々と出会いました。そして、この出会いがきっかけとなり、翌年の春、東京中央教会の夜の伝道会に出席するようになり、やがてイエス・キリストを救い主として信じ、その年の夏に受洗することができました。ですから、私にとってクリスマスは、人生のかけがえのない出会いに導かれた、とても意味のある季節なのです。
 
 この出会いを実現してくれたのは、当時の東京中央教会に所属していた信徒たちでした。この信徒の方々の福音宣教に対する熱い思いがなかったら、私は救われることはなかったでしょう。彼らの福音宣教に対する熱い思いによって、その後、たくさんの方々が救いに導かれていったのです。

 当時、東京中央教会では応援伝道が盛んに行われ、私が記憶しているだけでも、旭川、小国、矢板、茂木、広島等の各教会に積極的に出かけていました。そして、その応援伝道チームは、伝道に対する熱い思いを持った信徒たちによって構成されていました。今あらためて、信徒による伝道の大切さをとても強く思わされています。信徒一人ひとりが燃える思いをもって福音宣教に取り組むことにより、私たちの教団の輝かしい未来が開かれて行くと言っても過言ではないでしょう。

 さて、教育局では、この信徒たちの結集の場として全国信徒大会を主催し、応援しています。一昨年の2014年には、第8回大会が千葉教区の担当で成田市において開催されました。そして、いよいよ第9回大会は、2018年に、南西教区の担当で開催されようとしています。南西教区はいくつかの島に分かれており、全教会が同じ場所に集まって準備していくことはとても大変だと思いますが、インターネット等を活用し、会議方法を工夫しながら、南西教区らしい魅力あふれる信徒大会にしてくださると期待しています。

 全国信徒大会は、決して単なるセレモニーではなく、信徒たちが一つところに集まって、主を賛美し、祈り合い、語り合い、信徒同士の連携を深めていくことが大きな目的です。どうかこの信徒大会の祝福のために、みなさまの尊いお祈りをお願いいたします。
 

  (「りばいばる」12月号)

「子どもたちも高齢者も」 

総務局長 島津 吉成

 
 「万軍の主は、こう仰せられる、『エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。みな年寄の人々で、おのおのつえを手に持つ。またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる』」。(ゼカリヤ8:4~5)
 
 9月に沖縄の那覇で行われた南西教区役員研修会に行かせていただきました。集まるだけでも大変という環境の中で、ほとんどの教会から役員、または信徒リーダーの方々が集まってくださり、2泊3日の幸いなときを持たせていただきました。さまざまな課題を抱えつつも、その中で教会を愛し、主に仕えている兄姉の姿に頭が下がる思いがいたしました。

 教会によって抱えている課題は異なりますが、すべての教会が共通して抱えている課題としてあげられていたのは、「高齢化」の問題でした。そして、これは南西教区だけではなく、全国の教会が直面している問題です。ですから、教団でも「次世代育成」を教団全体の課題として掲げています。今年の8月に行われた「ユースジャム」は、その取り組みの大きな成果だと言えるでしょう。その上でということですが、私は「高齢者伝道」ということも大事だと感じています。
 
 これは、「どちらが大事か」ということではなく、「どちらも大事」ということなのだと思います。私が励まされているのは、ソビエト時代の教会について書かれた次の言葉で
す。「50年もの間、ロシアの教会は死を目前にしていると言われてきた。教会のために心を砕く者は老人しかいなくなったからだと言うのである。だが、この老人たちが、50年の間に死に絶えなかったということは注目に値する。それどころか、諸教会は教勢を伸ばし、最近では若い人びとをまたもや加えつつあるのである」(クリスティアン・メラー著『慰めの共同体・教会』)。

 「わたしが弱いときにこそ、わたしは強い」(Ⅱコリント12:10)という福音の真理を、一番身をもって証詞できるのは高齢者です。死という現実を間近に感じながら、魂の渇きを一番感じているのは高齢者です。高齢者による高齢者への伝道、素晴らしいではありませんか。「教会に高齢者しかいない」と言って、それに引け目を感じることはやめましょう。高齢者が生き生きと信仰に生きていたら、きっと若者はその生き方に魅力を感じるはずです。ゼカリヤの見た幻を私たちも見させていただいて、しぶとく、しなやかに、この困難な時代を乗り越えて行きましょう。

耐え忍んで走りふこうではないか

 信徒教団委員 
 

 「このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」(ヘブル12:1) 
 
 全国で夏季聖会が開かれ、多くの方々が祝福を受けられたことと思います。私は箱根小涌園での第65回夏季聖会に全期間参加することができ、あらためて「私の主キリストを知っていることの素晴らしさ」と、新たな献身の思いに満たされ、箱根の山を下って参りました。
 
 忘れえぬ聖会と言えば、私か19歳のとき、城ヶ島での青年対象の聖会が強く心に残っております。アメリカから帰国して間もない小林和夫先生が、70年安保の学生運動の激しい中、聖化の大切さを獅子奮迅の気迫で説教されました。聖化には、①性的な側面と、②富に対する側面と、③名誉に対する側面があり、若い青年たちに性的な聖化の大切さを説かれました。清くなければ神の国を継ぐことはできないというメッセージ、その後何度も思い出しては、自分の信仰の支えといたしました。聖会は、日本ホーリネス教団にとっては大切な信仰の財産ですので、これからも大切に守り、発展させたいものです。
 
 じつは夏季聖会の2か月前、4月下旬頃から、仕事の多忙さによる疲労と、新しい事業が順調に進んでいくことへの自分の傲慢さに、信仰の危うさを感じるようになっておりました。このままではいけないという危機感から、早朝の黙想、聖書研究、祈りに時間を充分取るようにいたしました。そのような時、このヘブル書十二章に出会いました。そして、自分の使命は、「いっさいの重荷とからみつく罪をかなぐり捨てて、耐え忍んで走りぬくこと」であると確信し、夏季聖会で確認の祈りをささげました。
 
 今、社会は大きな変革のうねりに直面しております。そして、その中には、教会に関わることも多々あります。例えば、マイナンバー制度、社会保険制度の拡大適用、金利政策等ありますが、小さな会社を経営している者として、大前奉仕局長のもと、奉仕局長補佐として任務を全うしたいと思っております。

什一献金の勧め

財務局長 間室 照雄

 主の御名を賛美申し上げます。いつも尊い献金をもって、教団の働きを支えていただき感謝に堪えません。日本経済の先行きが不透明な中にあり、また、各教会も少子高齢化によって会員数が減少する中で、教団にとって中心的な財源となる本部費を、忠実に献げてくださっておりますことを感謝申し上げます。また、ネヘミヤ・プロジェクトや国内宣教献金、国外宣教献金についてもお献げくださり感謝申し上げます。
 
 教団も財源が大事なように、各個教会も、信徒のみなさんの献金はとても重要です。しかし、子育て、子どもの教育、住宅ローンなど、収入の大半が必要経費で消えてしまうような状況や、年金だけでは生活もできないような状況もあるでしょう。そういう中にあっても献げてくださっている多くの方々に感謝したいと思います。

 献金とは何でしょうか。私たちの体も健康も時間も能力も職業も、すべて神さまから賜ったもの、そして、私たちは神さまを礼拝するものとして創られた存在です。そのことに対する感謝のしるしとしての献げもの、献身のしるしとしての献金だと思うのです。こんなことがありました。礼拝献金のとき、財布の中を見ました。「しまった千円札がない」。そのとき、これも主の導きであると受け止め、一万円をおささげしたことでした。考えてみれば、神さまから多くのものをいただいているのですから、一万円でも安すぎると思うのです。また、教会の礼拝献金を数えているとき、一万円札が二枚重ねて入っていたことがありました。この方は見えないところで、主に感謝したのだと思いました。もちろん献金は額ではありません、しかし、その心は額に表されるものです。なぜなら、献金は礼拝における献身のしるしだからです。
 
 多くの方が月定献金をもって、教会を支えてくださっていることと思います。これこそ、教会会計の一番重要な献金です。マラキ書に「十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい」(マラキ3:10)とあります。十分の一が具体的にどれほどのものかわかりませんが、Ⅱコリント9:7にあるように、惜しむ心でなく示されたとおりにささげるべきなのです。そのとき主は何倍もの恵みをもって導いてくださるのです。引き続き遣わされた教会と牧師を支えていただくようお願いいたします。

共に育つということ

教育局長 錦織 寛

 
 「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、キリストの満ち満ちた徳の高さにまで至るためなのである」(エペソ4:13)
 
 育つというのは、うれしいものだ。以前は子どもだったのに、久しぶりに再会して、すっかり大人になっていて驚くことがある。「え~〇〇君?」「〇〇ちゃん? びっくりだなあ」。声を上げる横で、親が目を細めて息子や娘を見つめている。
 
 確かに人が育つのを見るのはうれしいことだが、私たちも一生育っていかなければならない。昨日と今日が全く違うというわけではないし、「どう? 変わった?」とまるでせっかく芽を出した種を、毎日引っこ抜いてチェックし、一ミリでも成長しないと不安になるかのように、変わった変わらないと神経質になる必要もないだろう。神さまは私たちを育ててくださる。もちろん、私たちの生涯には節目があるし、大きな転機もある。でも同時に、毎日毎日主と共に歩むことによって、少しずつ変わっていくのだ。私たちはもっともっと大きく構えて、育ててくださる主に信頼していい。
 
 また、一人ひとりが主の前に、そして人の前に育っていくということとともに、「共に育つ」ということがある。机に向かって本を読み、思索にふける中で、多くの情報を得、また整理し、理解を深めていくという孤独で地道なプロセスも大切にしなければいけないだろう。一人になるということ、ひとりでいられるということも学ばなければならない。しかし同時に、私たちは主にある兄弟姉妹たちや、共に仕える同労者たちとの交わりの中で多くのことを学び、また育っていくものなのだ。
 
 最近の教育局の歩みの中では、とくにこの「共に」ということを大切にしている。何かのエキスパートの人を講師としてひたすら聞き、ペンを走らせるというよりも、参加者が豊かな時間を共有しながら、共に教え合い、共に学び合うということによりウェイトが置かれている。たくさん情報を身につけて帰ろうと気合いを入れて参加すると、裏切られることになるかもしれない。知識「量」を増やすことにばかり気を取られていると、私たちはすぐに自分の知識や賢さを誇るようになってしまう。大切なのものはなかなか量れない。大切なのは、神と人に対する愛と信仰に土台した知恵が、身についていくということなのだ。

 教育局のセミナーだけのことではない。教会でも同じだ。共に信仰の歩みをする仲間がいるということは、ものすごく大きなことだ。私たちは仕え合いながら、共に主の御前に育っていくのだから。
 

教会増殖―チャーチ・マルティプリケーション

宣教局長 中道 善次

 
 バプテスト教会出身の宣教師から、「チャーチ・プランティング・ムーブメント」(英語の頭文字を取ってCPMと言う、直訳すると「教会開拓運動」)という題の本を紹介されて読んだのが10年以上前であった。バプテスト教会の宣教師が書いた本で、日本語にも訳されている。著者はデビッド・ガリソン。邦訳は、日本バプテスト宣教団バプテストメディアセンターから出版されている。それから1年後、OMS日本の宣教師たちから、CPMを同盟の本とともに紹介された。
 
 その本の冒頭の部分で、次のような事例が記されていた。西ヨーロッパに派遣されていた宣教師が、半年間の本国での働きを終えて宣教地に戻った。彼の不在中に、集会の数が3倍に増えていた。人為的に何かがなされたのではなく、聖霊のお働きである。そのような現象が、世界の各地で見られるという報告が1990年代からなされている。多くの人々が救われ、新しい群れ(スモール・グループ)が次々に生まれ、信徒リーダーたちが起こされていた。世界各地の聖霊の働きを観察して書かれた本が、CPMであった。著者は、各地で起こされた現象から10の原則を引き出した。内容を説明するスペースはないが、10の原則の各項目を紹介したい。

1.並はずれた祈り
2.福音の豊かな種まき
3.意識的な教会の開拓と再生産
4.聖書の権威
5.現地の人々によるリーダーシップ
6.信徒のリーダーシップ
7.ハウスチャーチ
8.教会を開拓する教会
9.急激な倍増化
10.健全な教会
 
 OMSの宣教を推進するECC(すべての造られた者にキリストを)は、CPMという現象を戦略化して、CM(チャーチ・マルティプリケーション、訳して教会増殖)という宣教の方策を打ち出した。聖霊のお働きを邪魔しないことを念頭に置いた戦略であることは言うまでもない。CMの働きは、全世界のOMSのフィールド(宣教地)に広がっている。
 
 日本ホーリネス教団では、戸惑いを覚えつつも、主が世界でなされている働きを覚え、日本で適用可能なスタイルを模索している。教団内の一つの教会がこの夏からCMに取り組んでいる。
 
 神が世界でなしておられる働きが、日本でもとどめることができないほどの勢いで広がり、日本宣教1%の壁が打破されるように。

「行って同じようにしなさい」 

奉仕局長 大前 信夫 

「すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」 (ルカ10:29)

 私は誰の隣り人になるべきでしょうか……私が愛すべき、手を差しのべるべき人は誰なのかと問うのです。主イエスは「善きサマリア人のたとえ」をもって答えられます。その隣り人は、あなたの助けを必要としている人です。しかし、主の答えのほとんどは、誰があなたの隣り人かよりも、あなたは誰の隣り人なのかという問いであり、チャレンジでした。あなたは誰の、そして、どのような隣り人であるのかを問われるのです。
 
 阪神淡路大震災以降、日本でもボランティア活動が見られるようになりました。隣り人を得た被災者たちが、その後別の被災地で善き隣り人になる姿も見られます。こうして自分も含めて、誰もが隣り人を必要とし、誰もが隣り人になる必要に気づかされているのです。このような意識の変化は、社会の成熟の表れと言えるのですが、もちろんまだ多くの課題があるでしょう。その一つが、長期的な支援の必要性への理解だと言えます。
 
 教団緊急支援対策室が、室員研修に使用する『危機対応最初の48時間』(いのちのことば社)の最終章では、この長期的な支援が訴えられます。ここでは、被災者の発する三つの言葉でまとめられています。

①私たちを忘れないで
 
 災害直後は助けたい一心で支援がなされますが、一時的なものが多いのが現状です。忘れるのです。だから、援助者が行う最悪の行動について、「何も起こらなかったような態度をとること」と指摘されます。

②回復のための時間をください

 「いつまで?」と支援の終わりを問い、「もう乗り越えて、先に進むべきだ」と口にしてしまいます。それは、私たちが「……時間の枠を設け、終わりをはっきりさせたがる傾向がある」からだとします。大切なことは、過去の意味を知ることではなく、将来の計画を描くことでもなく、「この一日を一緒に乗り越えよう」と今を一緒に歩くことなのです。

③前の私に戻って欲しいと言う

 新しい日常が築かれていかなければなりませんが、援助者はゴールに連れて行くことはできません。ただ旅の仲間になるのです。被災地の方々に対し、長く隣り人でありたいと祈っています。「そこでイエスは言われた、『あなたも行って同じようにしなさい』。」

「摂理の信仰に生きる」

総務局長 島津 吉成

 
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)。
 
 新年度がスタートして一カ月が経ちました。新たな思いで、伝道と教会形成に務めておられることと思います。私たちの置かれている状況は生易しいものではなく、逆風の中を進むような状況であることを思いますが、そのようなときであればこそ、「摂理の信仰に生きる」ということが大切であると思います。

 私の手元にある「新明解国語辞典(第三版)」(だいぶ版が古いのですが)で「摂理」の項目を引くとこう記されています。「[キリスト教で]最終的に人を善へ導く神の意志」。私は、この定義が好きです。そして、この摂理の信仰を最もよく言い表しているのが、冒頭に掲げたローマ8:28のみ言葉です。

 ①主語は「神」です。主語が「私」になるとき、順調なときは「私がやった」と言って高慢になり、不遇なときは不平や不満の虜になってしまいがちです。しかし、主語を「神」とするとき、エジプトに売られたヨセフが、兄たちに「神は、……わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」(創世記45:7~8)と言ったように、置かれた状況に左右されず、神の使命に生きる力が湧いてくるのです。

 ②神は万事の中に働いていてくださいます。人間の目でプラスと見える事柄の中だけでなく、マイナスと見える事柄の中にも神は働いていてくださいます。パウロは獄中の中からピリピの教会に宛てて書いた手紙の中でこう記しています。「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい」(ピリピ1:12)。パウロは、自分が捕らえられたことが、「むしろ」福音の前進に役立つようになったと言って、いくつかの理由をこの後に記しています。神はマイナスと見えることの中にも働いていてくださり、「むしろ」というみわざを行ってくださいます。

 ③神のご意思は私たちを「善」へと導くことです。ここで言う「善」とは、私たちを「御子のかたちに似たもの」としてくださるということです。そのご意思が達成されるために、神は万事の中に働いて「益」としてくださるのです。摂理の神が私たちを導いてくださっています。この神を信頼して前進する新年度の歩みとさせていただきましょう。
 

「福音の喜びにともに生きるホーリネス」―信仰によって生きる―

 

教団委員長 中西 雅裕

 
「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力で
あって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる」(ハバクク3:18~19a)
「しかし義人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:4b)
 
 新しい年度「信仰によって生きる」、日本ホーリネス教団でありたいと願います。「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる」(ハバクク二4)は、新約聖書に3回引用されています。ローマ書1章では、信仰によって義とせられる福音の偉大さに触れ、ガラテヤ書3章では、信仰によってのみ義と認められる祝福、ヘブル書10章では、主の御前に信仰をもって生きることに触れています。
 
 この新約の御言葉の光に照らし合わせながら、「福音の喜びにともに生きるホーリネス〜信仰によって生きる〜」者たちでありたいと願うのです。あなたにとって「福音は喜び」でしょうか? 十字架で流されたイエス・キリストの血潮によって義とされる、その喜びに生きているでしょうか? この御方への愛に、真実に生きているでしょうか? 与えられている恵みを軽く見積もってはいないでしょうか? ハバクク書の「その魂の正しくない者は衰える」を、新共同訳では「高慢」、新改訳では「うぬぼれていて、まっすぐでない」と訳されています。ハバククの時代の南王国ユダの民のように、主の選民であることにうぬぼれ、安住するのではなく、「主の愛の汝が内に満ち溢れおる」生き方をと願います。この私たちに与えられている恵みを心から感謝して、その恵みの中で信仰を持って今を生きる、私たちとさせていただきましょう。

 今年は第4回目になる「ユースジャム2016」が持たれます。すでに青年たち、若手の牧師たちを中心に準備が進められています。「FindYou」をテーマに、大会の期間を通して、キリスト者としての生き方が語られているローマ書12章から御声を聞きます。青年たち一人ひとりが主の御心を求め、主の御心に生きるために立ち上がれるときとなるようにお祈りください。そして、与えられた恵みが全国の教会・すべての信徒の方々へ広がっていくように。
 
 また、9月には「第6回日本伝道会議」が神戸で持たれます。「再生へのRe-VISION」をテーマに、日本の教会が宣教のために連携して、どのようにこの時代、この日本で歩むべきかが話し合われる予定です。教団としても参加協力をして、積極的に日本と世界の宣教のネットワーク作りに加わっていきたいと願っています。
 
 新しい年度の歩みの上に、主の豊かな祝福と守りがあることを信じつつ……。 

「変えられていくというしあわせ」

 

東京聖書学院長 錦織 寛
 

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによる(Ⅱコリント三18)

 

 東京聖書学院の修養生や訓練生は、いろいろな背景をもって入ってきます。年齢やクリスチャンとしての年月も、知識や経験もさまざまです。高卒で入って来る人もいれば、大学院まで出て入って来る人もいます。しかし、そうした者たちが一緒に机を並べて、一緒に学びます。一緒に食事をし、一緒に作業をし、一緒に祈り、また一緒に奉仕をします。そこでしか経験できない数々の祝福があるとともに、献身者たちが集まっているのになぜ? というようなぶつかり合いもあります。そして、そういう困難や試練を通る中で、自分に向き合い、そして神さまの恵み深さを知ることになります。

 これは教会でも同じです。教会は仲よし倶楽部ではありません。神さまが愛し、選び、召された者たちが、さまざまな背景を抱えて集まって来ます。欠点のない、完璧な人たちが集まるのではなく、いろいろな問題を抱えながら、そこでともに主を見上げて変えられ続けていく。「自分が」ということだけではありません。「わたしたちはみな」変えられていくのです。問題がない教会がよい教会なのではありません。大切なのはその問題にどのように向き合うかです。問題がある状態は、神さまの恵みのチャンスでもあります。そこで私たちはともに主の御前に出ます。そして私たちの主は、私たちが問題の中でつぶれていくのではなく、その中でしか経験できない、主の恵みを経験させようとしておられるのです。

 確かなことが二つあります。一つは、私たちはみな、変えられなければならないということです。私もそうだし、教会もそうだし、教団もそうです。私たちは主と同じ姿に変えられていくために召されています。変わるというのは、時に勇気がいることです。それは、「主と同じ姿」と比べたら、おそらくまだまだギャップがある、私たちは自分が完成品ではなく、変えられ続けていかなければならない存在であることを認めなければならないからです。また私たちには、本当に変われるのだろうかという恐れもあります。

 しかし、もう一つ確かなことがあります。私たちは変えられ続けていく、主は私たちを変えてくださる、ということです。私たちがいろいろな問題に向き合うとともに、そこで主に向くときに、私たちは栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。「これは霊なる主の働きによる」。私たちを変えてくださる霊なる主に信頼したいと思います。

「涙をもって種まく者は」

信徒教団委員 宮島亮

 「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(詩篇126:5~6)。

 冒頭の御言葉は、私か青年の頃、東京中央教会から山形県の小国教会に応援伝道に行った時に、当時、小国教会の主任牧師であられた吉津先生がいつも語られたメッセージの聖書箇所です。小国教会に遣わされた吉津先生の歩まれた筆舌に尽くしがたい苦難の道のりと、その後の大いなる祝福のお証詞は、今も私の心に深く刻まれています。吉津先生はある時、朝食をとることができないほど困窮しておられましたが、信徒の前では決して空腹な素振りを見せず、いつもにこやかな笑顔で接しておられたとのことでした。当時はまだ、牧師謝儀支援制度もない時代でしたから、そんな厳しい状況の教会がたくさんあったことと思います。それでも吉津先生はいつも神さまを信頼し、信徒たちを心から愛し、最期まで真実な信仰を貫かれて、天に凱旋して行かれました。

 私はいつも、この吉津先生の語られたお証詞と御言葉を心の片隅に留めて、信仰生活の一つの支えとしております。

 全国の教会一つひとつがキリストの体であり、それぞれの教会にはきっと苦難や試練の歴史があることでしょう。また、それぞれの牧師や信徒一人ひとりにも苦難や試練の歩みがあると思います。その一つひとつの痛みや苦しみを自分なりにいつも心に留めて、小さき者ですが与えられた責務を果たしていきたいと願っています。

 さて、今年はいよいよユースジャム2016が開催されます。一昨年、第8回全国信徒大会(教育局主催)が千葉県で開催されました。私はその実行委員の一人として準備に関わらせていただきました。その時の経験から、一つの大きな行事を準備することがいかに大変であるか、身をもって知ることができました。このため、私なりにこのユースジャムの実行委員の方々のご苦労は身にしみてわかっているつもりです。

 涙をもってまかれた種を、喜びの声をもって刈り取ることができるように、どうかみなさまの尊いお祈りとご支援をお願いいたします。このユースジャム2016が未来への懸け橋となって豊かに用いられますようにと祈ります。

「福音を喜び、信仰に生きる」

教団委員長  中西雅裕

 「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」(ローマ1:16~17)

 「先生はハバクク書がお好きなんですね」と言われました。教団のことを祈る中で、ここ数年示されている御言葉が、ハバクク書であるからでしょう。ハバクク書は、悩みの中からの神への問いかけです。「どうしてこんなことが起こり続けるのでしょう」と苦難に遭う中で、主の憐れみを乞い、御心を示された時に、自分の思いとは異なっていても、御心がなるようにと祈っていくその姿勢にはやはり学ばされるのです。

 昨年末、本を整理していた時に、ふと「ダビデがどんなに親しく神を知るようになったか」との一文が目にとまりました。親しく神を知る者には見えてくるのです。ハバククにも、神さまは先祖たちになされた神のみわざの数々を想起させてくださいました。「ああ、あの時の……」と神のみわざと導きに、感謝をささげることができるようにさせてくださるのです。神の偉大さに気かっかされ、確かな信頼に目が開かれ、神のみわざに期待していくのです。神のみわざを、「静かに待とう」という成熟した信仰に立たせていただくのです。それは過去を懐かしみ、立ち止まることではありません。今、この時にも働いておられる神さまと親しく共に語り合いながら、今を生きるということです。私たちもそうありたいと思います。どのような状況の中でも、「信仰によって生きる」私たち日本ホーリネス教団でありたいと願います。

 今年、教団は創立115年を迎えます。振り返るときに「ああ、あの時も……この時も」、主のみわざはなされていったのではないでしょうか。弾圧、戦後……ああ、何という苦難。しかし、その中に主はおられた。主の深い深い御愛と導きは変わることがなかったのではないでしょうか。そして今、この時代ならではの課題が私たちに押し寄せてきます。しかし、教えていただきましょう。想像以上の逆風の中でも、「信仰によって生きる」喜びを、この時代の中で証しする者たちとさせていただきましょう。それは、「親しく神を知る」ことから始まります。「福音を喜び、信仰に生きる」救われたこの身を喜び、信仰の目を持って生きる幸いに満ちた1年となりますように。

2015

宣教師の帰国と派遣

宣教局長 中道 善次
 「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)。
 「フェリース・ナタール」(ブラジル、ポルトガル語でのメリー・クリスマス!)
 ロシアのプロテスタント教会では、12月25日だけでなく、1月7日(ロシア正教のクリスマス)にも御降誕を祝います。
 
今月中旬、12年間のブラジル宣教の使命を果たし、新谷聡一郎、聖美宣教師ご夫妻が帰国される。新谷宣教師ご夫妻は、ブラジル福音ホーリネス教団リベルダージ教会(サンパウロ市)とクリチバ教会の日本語部の牧師として日系ブラジル人一世、二世への宣教と牧会に励んでこられた。日本とブラジルの架け橋となり働いてこられた新谷宣教師ご夫妻のミッションに感謝し、心から出迎えたい。
 「お帰りなさい! ブラジル日系人教会での尊い働きを感謝します。」
 新谷宣教師ご夫妻は、2016年1~3月の2ヶ月半であるが、巡回報告をされる。

 帰国される宣教師とバトンタッチするように新しい宣教師候補が、宣教地での働きを進めている。今年6月4日、河瀬愛子宣教師候補は、ロシア極東の都市ウラジオストクに出発された。働きの場所は、ウラジオストク長老インマヌエル教会である。ソビエト連邦が崩壊した直後、韓国人宣教師がロシアに入国し、開拓された教会である。教会学校の子どもたちに伝道し、彼らを育て、23年かけて一つの教会を形成してこられた。教会の規模は大人
50名、子ども25名。会堂はスリッパ履きで、日本の教会のようで違和感がない。河瀬愛子宣教師候補は、韓国からの宣教師夫妻、韓国系ロシア人の副牧師、白系ロシア人の神学生、長老夫人で構成される牧会チームの一員として働いておられる。7月1日、ウラジオストクにて現地の教会と日本ホーリネス教団との間で宣教師派遣契約を結んだ。

 河瀬愛子宣教師候補は3ヶ月の宗教ビザで、すでに2度のウラジオストクでの働きを終えられた。次の出発は、2016年1月3日である。この3ヶ月間で、長期(3年)の宗教ビザの申請を行う。ロシアで長く働く道が開かれる
ようにお祈りいただきたい。

 「私も宣教師になりたいビジョンを持っておりました」 そのような篤い願いを持ちつつも、日本での伝道と牧会に励んでこられた先生方を知っている。自分が宣教地に行く代わりに、宣教師を送り出し、宣教地を訪問し、帰国される先生方を迎える。日本でそのような立場を取る者も必要である。日本ホーリネス教団宣教局国外宣教の役割はそれである。

 

教団委員の重責

信徒教団委員 

 「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」(詩篇20:7)。
 
 教団委員になって、6か月が過ぎようとしております。この間教団委員会だけでも11回開かれ、1回の会議が、朝から夜まで9時間に及ぶこともありました。それでも会議が終わらず、持ち越す議案のあることもあり、そのことにまず驚きました。会議が終わった後は、疲労と高揚感がどっと襲い、今までに経験したことのない感情に見舞われます。
 
 普通2時間以上の会議は避けるべきだと言われますが、教団委員会は審議しなければないことが多く、それぞれの議案について知恵と深い信仰を必要とします。私は今、公益社団法人を始め3つの業界の理事をしておりますが、教団委員会は全く異なります。新人ですので、会議中はまず聞くことから始まります。以前に教団が決断したことが、実は当時の教団委員会の苦渋の決断だったことも知り、その議決について昼夜を問わず思い出されてならない議案もありました。このような重責の教団委員が、私に務まるだろうかと危惧を持つこともあります。
 
 私は、ホーリネスの信仰の中で育てられたことを感謝しております。「御言葉」が与えられるまで徹夜の祈りをも辞さない青野雪江先生の生きざま。「御言葉」をにれはむことの重要性を解き明かしてくださった車田秋次先生。神癒の信仰に目覚めさせてくださった西村敬一先生。どなたも忘れえぬ先生方です。このような先生方の信仰の流れの中で、大学受験の会場で、詩篇20:7の御言葉が与えられ、この経験を契機としてさまざまな試練を私は祈りの内に乗り越えてきました。
 
 大学紛争の渦中にも、医者をしている長男が、生まれて間もなく脳の後遺症の危険に見舞われたときも、二回の流産の後、前置胎盤で次男が生まれたときも、私はこの「御言葉経験」に支えられ祈って参りました。
 
 「御言葉経験」を土台に、神さまへの真剣な祈りを積み、的確な判断のできることを祈りつつ、教団委員というこの重責を果たさせていただきたいと願っております。

「育つということ」

教育局長 錦織 寛

 
「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださる」(ピリピ1:6)
 
 生まれる……それは本当に神秘的なこと、大きな喜びをもたらすことだ。教会でもやはり新しく主を信じて、神の子として生まれる人が与えられるということは、どんな喜びにも変えられない。天ではどんな喜びにもまさる喜びがある。今まで死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった、という大変革がそこにはある。そもそもいないといるでは大きな違いだ。この秋にも、さらに多くの主を知らない人々が主を知ることができるようにと心から願っている。
 
 ただ、それで終わりではない。育つ、ということがその後に続く。そしてこの育つプロセスは、多くの場合ずっと長いし、地味だ。必ずしも劇的な変化が毎日起こっていくのではない。毎朝、主の前に近づき、静まり、御言の中にとどまる、そんな繰り返し、毎週礼拝を守り、兄弟姉妹の交わりの中にときを過ごす、そんな積み重ねが、キリスト者を作っていく。
 
 キリスト者には転機が必要だ。聖書人物たちの実例も、歴史の中に生きた聖徒たちの生涯の証詞も、そのことを物語っている。転機としての恵みを求めるべきときがあるし、主が私たちに悔い改めを、献身を、信仰を迫られるときに、大胆に踏み出すべきここぞというときが確かにある。けれども、転機だけで信仰を育てることができるだろうか。もし転機しかなかったら、やけにバランスの悪いキリスト者しか生まれてこないだろう。今日歩む一歩は、必ずしも昨日と大きな差がないかもしれない。しかし、それが一ヶ月二ヶ月、一年二年と積み重なっていくときに、大きな違いになっていく。キリストの似姿を映すようになり、その品性が備わっていく。
 
 それは主とともに歩み、信仰の先輩たちとともに時間を過ごす中で、映っていくものなのだ。私たちは一生変えられ続けていく。やがて主の御前に立って、そのみ姿を見、その似姿に変えられるその日まで、私たちには終わりはない。信仰良書に触れたり、研修に参加したり、またさまざまな学びを積み重ねていくのもよい。神は求める者に答えてくださる。与えてくださる。
 
 地道に変えられ続けるということは、必ずしも、今の自分を否定することではない。さらに豊かな恵みを与えようと願い、祝福を備えて、私たちの前に立っていてくださる主を喜んで、子どものようにその御腕の中に飛び込んでいくことなのだ。
 

「内なる人は新しくされる」

 
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(Ⅱコリント4:16)。
 
 現在、日本は国民の4人に一人が65歳以上となり、すでに高齢化社会ではなく、超高齢化社会と呼ばれます。ある地域の敬老会では、以前は70歳以上の方をお祝いしていたそうですが、今ではお祝いされる人とお祝いする人が一緒になったと言われました。教会はどうでしょうか。やはり高齢化は教会の現実です。教会から子どもたちがいなくなり、教勢面では停滞した状況です。個人の信仰生活を見ると、思うような奉仕ができなくなり、年金生活ですから献金も減らさざるを得なくなる……。
 
 聖書は、この教会の高齢化や、個人の身体的な衰えについて、それが当然のことのようにして、「外なる人は滅びる」と言います。けれども大切なことは、「内なる人は日ごとに新しくされていく」ところにあります。たとえ見えるところの成長がなくても、神のいのちがあるなら内に成熟が進んで行くのです。
 
 「外なる人」の成長は、神が与えられつつも努め励み、獲得していく面もあります。できないことができるようになり、活発な活動で生活は飾られ、高みに登っていくようです。ところが「内なる人」の成熟には、自分を飾っていたものを一つずつ外し、努力して得てきたものを手放し、できることができなくなる……そんな降って行く姿があります。成熟は行動ではなく、そのあり方に関わるのです。たとえトラクト配布ができなくても、奉仕が満足にできなくても、そして、教会の礼拝に行く力がなくなっても、それでも自分を卑下したり、役立たずなどとは思わない。自分の力が小さくなればなるほど、内にある宝物の輝きが増してくる。そこに信仰の成熟があります。
 
 超高齢化社会の中にある教会の務め、老いながら進んで行くキリスト者の成熟、これらは大きなチャレンジです。そして、これらの課題について一緒に学ぼうとするのが、毎年行われる「奉仕局セミナー」です。「外なる人が滅ぶ」という時期を人生の夕暮れ時とも呼びます。しかし、夕日に染まる空は美しいものです。このような美しい、輝いた時を過ごすために、ご一緒に学び、備えてまいりましょう。
 
 11月23日の奉仕局セミナーでお待ちしています。

「『イエスは主』との信仰を貫いて」

 

教職教団委員 佐藤 信人

「あなたはわたしのほかに、なにものをも 神としてはならない」(出エジプト20:3)。
 
 この月、戦後70 年という大きな節目を迎えるにあたり、私たちの教団の過去の歩みを振り返ります。過去の歴史を振り返るのは、ただ過去の出来事を問題にするのではなく、今日の自分たちの信仰の姿勢を顧みるためです。
 
 私たちの教団は、あの戦時下の厳しい状況の中で、政府による弾圧を経験いたしました。けれども私たちの教団は、国家に対する抵抗姿勢を最後まで貫いたわけではありませんでした。神格化された天皇制を支持し、神社参拝や宮城遙よう拝は いを行い、戦争協力を進めていきました。聖書の教えに反するものでありながらも、それらを国民の当然の義務とする政府の指導を、教会運営の指針としたのです。その結果、イエス・キリストの父なる神を礼拝しながらも、同時に天皇をも神として礼拝するという歪んだ姿勢を生み出しました。
 
 このようなことを教会で話題にしますと、それは信仰とは直接関係のない「社会問題」とみなされたりいたします。しかし、この戦時下の私たちの教団の問題は、極めて信仰の問題です。私たちが何を信じているのか、その信仰の本質が問われているのです。
 
 戦後70年を迎え、かつての戦時体制へと逆戻りするような危険な動きがいくつも見られる中で、問われていることは昔も今も変わりません。この世の国が何を言おうとも、私たちが聖書を信仰と生活の唯一の規範とするか否か、そしてイエス・キリストだけを礼拝する、「イエスは主」との信仰を貫いて生きるか否かということです。かつて、「ローマ皇帝は主」と告白することが強要される中、キリスト者たちは命をかけて、「イエスは主」と告白しました。そのように、「イエスは主」という告白は、イエス・キリスト以外のいかなる存在をも神とはしないという、この世に対する私たちの命をかけた信仰の告白です。
 
 しばしば、「伝道のためには、こういう話題には触れないほうがいい」という声を聞くことがあります。確かに、そのほうが一般の受けはいいかもしれません。しかし、信仰の根幹をなす「イエスは主」という告白の意味を曖昧にしたままで伝えられる福音とは、果たして真正な信仰と言えるかどうかがまず問われるべきでしょう。
 
 戦後70年を迎える今、「イエスは主」と告白する信仰だけが、神ならぬものを神として拝む愚かさから解放してくれるものと信じ、この告白にひとすじに生きる私たちの教団でありたいと願います。

「その実が残るためです」

財務局長 間室 照雄

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16新共同訳)。
 
 セントポーリアというかわいい花がありますが、これと同じ仲間で、さらに大型の花を咲かせる、ストレプトカーパスという花をご存じでしょうか。名前の由来は『ねじれた実』からきています。ねじれがバネになっていて、熟した種がその鞘に触ると、はじけて種を飛ばします。ホウセンカやかたばみも同じで、その鞘に触ると種がはじけて、多くの実を飛ばします。種を飛ばして、新しい命をつなぐためなのです。
 
 先日、梅の実を収穫しているときのことです。どっさりとたわわに実った枝があるかと思うと、ほとんど実をつけていない枝がありました。なぜだろうと考えているうちに、冒頭の御言葉が浮かんできたのです。太くてまっすぐ天に伸びている枝には実がなく、小さな枝には実がついているのです、おそらく花芽ができるときに、勢いの強すぎない枝には実がつき、強すぎる枝には実がついてないのではないかと思いました。梅の実は鳥や動物によって木から離れたところに蒔かれるのですが、我が家の梅の木も垣根の中で、いつの間にか芽生え大きくなったものです。大きくなり収穫が困難になったために、太い枝を切って、こじんまりと枝を整えました。そして3年経った梅の木です。
 
 自然界では古い木は枯れ、蒔かれた種が育ち、その木がまた実を結んで、新しい命を創り出していきます。何百年の年月にわたって、命が受け継がれています。信仰の世界も、親から子へ、子から孫へ、さらには友人からそのまた友人へと信仰が受け継がれてきました。実が残るとは、そういうことなのではないでしょか。花が咲けばミツバチが交配を助け、多くの葉がその実の成長を促します。実った実はいい香りがし、黄色く色づいて、動物に食べられ、さまざまな方法で蒔かれるのです。
 
 私も実を残すために、強すぎる枝でなく、弱すぎない枝になりたいのです。神さまの恵みをいただくのに必要なのは、砕けた魂なのですから。
小さな者の働きのためにもお祈りください。
 

「わたしはよい羊飼」

総務局長 島津 吉成

 
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。(ヨハネ10:11)
 
 「わたしはよい羊飼である」と言ってくださる主イエスは、私たち一人ひとりを、教会を、そして教団を養い育ててくださいます。では、よい羊飼いでいてくださる主は、どのように養っていてくださるのでしょうか。その主な内容は、癒し・支持(共にいて支えること)・導き・和解の4つだと言われます。
 
 私は、兄たちによってエジプトに奴隷として売られて行ったヨセフに対する主のお取り扱いの中に、主がどのように養い育ててくださるのか、という具体的な姿を見ることができるように思います。
 
 ヨセフは、兄たちによって奴隷として売られたのですから、兄たちを恨み、心に深い傷を負ったとしても不思議ではないでしょう。しかし、ヨセフは売られて行ったポテパルの家でも、濡れ衣を着せられて獄に入れられた時も、さらにエジプトの王から政府の高官に取り立ててもらった時も、謙遜さを失わず、忠実に仕える者であり続けることができました。これは、ヨセフがどこにいても、「主が共にいてくださる」という主の支えの中で、彼が励まされ、慰められ、そして癒されて行った結果だったのではないでしょうか。以前のヨセフは、これを言ったら兄たちはどう思うか、ということに無頓着で、思ったことをそのまま言ってしまう少年でした。しかし主の癒しは、彼の心の傷を癒しただけではなく、自分の至らなさに気づかせ、彼を謙遜な人に造り変えたのです。癒しによる回復は、単に元通りにすることではなく、前よりもさらに豊かなものをその人にもたらすのです。
 
 また、食料を求めてヨセフのもとに来た兄たちが、ヨセフを売ったことを悔やんでいる姿を見たとき、彼は声をあげて泣き、兄たちを赦し、和解することができました。そして、「わたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」と言うことができたのです。彼は、自分の辛かった過去を、神の視点で見直すことができました。そのとき、彼の過去は癒され、「神の民を救う」という神のビジョンに生きる者へと導かれたのです。
 
 主は深い御旨の中で、愛をもってヨセフを養い育て、彼を、癒し、共にいて支え、導き、ついには和解をもたらす器としてくださいました。ヨセフをこのように養い育ててくださった主は、私たちの牧者でもいてくださり、私たちをも養い育ててくださいます。そして主は、この恵みを証しする器として、私たちを遣わし、用いてくださるのです。
 
 
 

主イエスの弟子であるということ

東京聖書学院長 錦織 寛

 
自分の十字架を負うてわたしについて来る者でなければ、わたしの弟子となることはできない(ルカ14:27)
 
 
 主を信じる者はすべて主の弟子です。信じている、キリスト者ではあるけれど、弟子ではないというのは言葉の矛盾です。それでは、私たちはどのように主の弟子となるのでしょうか。一生懸命何かをし、宗教的実践を積みましょうか。それも大切なことです。しかし、どんなにすばらしいキリスト教的実践を積んだとしても、もしあなたが主を愛し、十字架を負って主に従う道に生きていなかったら、あなたは主イエスの弟子ではありません。
ここで主イエスは、主の弟子である私たちに何を求めておられるのでしょうか。
 
1 捨てる
 
 自分の家族も、財産も、命も捨てる、ということが主イエスの弟子であるためにはとても重要なことです。ここで「捨てる」というのは、決して粗末にするということではありません。これは優先順位の問題です。あなたの一番愛するものは何ですか。第一でないものを「捨てる」ことができますか。
 
2 主イエスについていく
 
 主イエスのもとに行き、主イエスについていくということです。「自分の十字架を負って」とイエスさまはおっしゃいました。主は私たちそれぞれにも負うべき十字架を備えておられます。十字架は本来は負いたくないものです。そこには痛みが伴います。人に理解されないかもしれません。しかし主は、十字架を負って従って行くものを、必ず祝福してくださいます。
 
 今、神の畑は色づいて刈り入れを待っています。収穫は多いのに、働き人は少ない。神の畑は、猫の手も借りたいくらい忙しい。しかし、どんなに猫の手があっても、必要なのは十字架に生きる猫の手です。それ以外の手は、どんなに立派であってもあまり役に立たない。逆に言ったら、あなたが主の語られたように、自分の十字架を負って、十字架の主イエスについていったら、あなたがいろいろな弱さやゆがみを抱えていたとしても、主があなたのことを祝し、用いてくださるのです。
 
 あなたには覚悟がありますか。「私には覚悟があります」という人も、きっと神さまはそのあなたの覚悟をゆすぶられるでしょう。しかし知ってください。実は「自分の覚悟」というのは何ともあてにならないものです。しかし
主は、主に信頼するあなたをその手の中に置いて、十字架を負って主イエスについていく主イエスの弟子へと造り上げてくださいます。主ご自身がまず、十字架を負って歩んでくださったからです。

…この土の器にも…

教団委員長 中西 雅裕

 
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(Ⅱコリント4:7)
 
 
 三浦綾子さんの自伝的代表作「道ありき」の第2部は、この御言葉から「この土の器にも」と題がつけられました。肺結核と脊椎カリエスに病み、長い間の療養生活を強いられ、無理の利かない身体。しかし、このような状況の中にも、宝を持っていると、この土の器の中に。私たち一人ひとりも土の器です。脆く弱い存在です。肉体面に限らず、精神的・霊的にも、すぐに重荷につぶれ、気持ちが萎えてしまいがちな私たちです。しかし、こんな私たちであっても素晴らしい宝を持っているとパウロは私たちを励まします。
 
 この宝とは、文脈からはキリストの栄光の輝き(4)、あるいは、新しい契約(3:6)と言えるでしょう。笹尾鉄三郎牧師は内住のキリストだと言い切っています。イエスさまに出会い、この御方を主と受け入れたときから、私たちはこの宝を持っているのです。罪と自我という悪臭を放つ泥水から、神の与えたもう恵みの宝石へと私たちの中味が変わったのです。そしてこの宝から、測り知ることの出来ない力が出て来ると言うのです。
 
 この宝を持っているからこそ、パウロは続けて書きます。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」(3:8~9)。何があっても、どんなことが起こっても、立ち上がらせ、課題に立ち向かい、乗り越えさせる力が現れると。これがまさしくイエスさまが約束された平安です。「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」(ヨハネ14:27)。
 
 パウロはここで私たちと書きました。私パウロだけでなく、あなたがたもみなこの測り知れない力のことを知っているではないかと。この力によって立ち上がった、課題を乗り越えた、慰められた経験が私たち一人ひとりにあるではないかと。この力は今も私たちに働くのです。働き続けているのです。あなたに、そして教会に。私たちが生きている時代、直面する現実、そして将来は厳しいものがあります。しかし、こういう時代だからこそ、喜んで自我に死に、イエスのために生きる「この宝を土の器の中に持っている」生き方をしていきたいと願うのです。諸先輩方から手渡されてきたこの宝を、この世の人々に手渡し続ける私たちとして。

知恵をもって歩む者は救を得る 箴言28:26

総務局長 平野 信二

 
 教団委員としての4年間を振り返り、改めて私たちの教団に与えられている知恵に驚きを感じています。教団の歴史や組織、規則などについて知っているつもりでいましたし、教育局長として、新卒者や正教師志願者の方々に規則の大切さを伝えてきました。しかし、とくにこの2年間は総務局長として申請、要望、交流、交渉、問題処理の窓口など多岐にわたる働きをする中で、いかに自分が規則を知らなかったかを痛感しました。また、個々の規則は理解していたとしても、複数の規則の関連性、それぞれの規則の背後にある精神を知ることは、神さまの恵みに関する新しい発見の連続でした。
 
 現在、各教会に配付されている「諸規則集」は、2008年9月に発行されたものをベースに、規則が改正、新設されるごとに差し替え版を送付することによって改訂してきました(みなさんの教会にある「諸規則集」は最新版になっているでしょうか)。教憲・教規の下に種々の規程や細則が定められ、さらに指針、ガイドラインなどが定められることによって、誰もが同じ理解に至り、公平・公正に運用されるように工夫されています。人の記憶やそれに基づく判断は必ずしも一定ではありませんので、誰にもわかるかたちで基準を表すことは、ひとつのキリストの体なる教会としての教団運営にとって重要なことです。
 
 規則というと、どうしても縛りつけるような息苦しさ・堅苦しさや、律法主義的な響きを感じるかも知れません。しかし、教団の諸規則には、先達の祈りと信仰に基づく知恵が込められています。どうしたら私たちに託されている使命を全うし、神の栄光を現すことができるかを問うてきた営みの結晶と言ったら言い過ぎでしょうか。確かに、規則が生み出された背景には、罪や過ちがあったことも否めません。だからといって、規則を否定したり、不要とすることはできません。そこで気づかされ、悔い改め、神の赦しと回復の恵みに与ったことを記憶するため大切にすべきものなのです。今後も、状況の変化や起こってくる諸問題に対応するため、あるいは、規則の不備を改めるために規則の新設や改正がなされるでしょう。私たちがそのように与えられた規則を神からの知恵として生かし、それに則って教団の歩みを進めていくことがさらなる祝福に繋がると信じます。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ1:29

 

奉仕局長 内藤 達朗

 
 年間予定では、昨年の7月の巻頭言が最後の予定でしたが、図らずも、パウロの手紙のように最後が2回来ました。
 
 私たちの救い主は、「罪からの救い主」です。励ましてくださったり、必要を満たしてくださったり、癒してくださったり、守ってくださる方ではありますが、私たちを罪から救い、罪を取り除いてくださる方です。バプテスマのヨハネも、弟子のヨハネもイエスさまをただ一つ、「罪を取り除く神の小羊」として紹介、否、宣言しました。罪が赦されるということはすばらしいことです。ですから、クリスチャンの私たちはその恵みの体験の故に、平安で希望を持って、喜んで献身して主に仕えることができ
るように、生かさせていただいているのです。
 
 私たちの教団の信仰の姿勢は、神さまに対して罪を悔い改めることを強調してきました。現代の教会では、「あなたは高価で尊い」「ありのままで良い」「愛されるために生まれた」などが強調されてきました。それは一部の真理です。しかし、それが強調されることで、「変わる必要はない」「そのままでいい」「解決は無くてもいい」となる可能性もあります。心理学が発達し、まるでそれによって解決が得られるかのような風潮もあります。人や自分を理解するために、私も心理学を利用させていただいています。しかし、それが人の問題の根本を解決す
るわけではないでしょう。
 
 ヨハネたちは、問題は罪であって、罪を取り除かれる必要があり、その罪を取り除くことができるのは十字架にかかられた神の小羊、イエスさまだけだと宣言しています。そして、罪が赦される経験によって罪が取り除かれるのだ、と言っています。
 
 当教団が戦争責任告白を出したとき、私たちの罪を告白することができました。それ以来、今まで以上に、私は過ち、罪を告白することが容易になりました。「K元牧師性加害事件検証報告」にも積極的に応じることができました。当時の対応が適切であったかどうか、当時の教団委員長とともに、総務局長として対応したことを検証してもらいました。罪は赦されても、その責任を負う必要があります。
 
 「罪を取り除く」は、元訳では「罪を任おう」、文語訳では脚注に「罪を負う」となっています。十字架の上で主が私の罪を引き取り、負ってくださった恵みは私を限りなき命に生きさせます。イザヤ53章を心に留めつつ、この恵みを伝えるものでありたいのです。

主なる神はわたしの力!

 

教団委員長 中西 雅裕

 
「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる」(ハバクク3:18~19a)
 
 預言者ハバククは、「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれてくださらないのか」と祈りはじめます。神の民たちの中に暴虐があり、目の前で略奪、論争、闘争が起こり、公義が曲げて行われている有様だからです。神さまは答えてくださいました。しかしそれは、遠くカルデヤ人を起こして民を裁くとのハバククには理解できない答えでした。ハバククはまた訴えかけます。「あなたを知らない凶暴なカルデア人の侵入を許して民を裁くとは、あなたのきよさに矛盾するのではありませんか」。その神さまを待ち望むハバククへの答えは、さまざまな道のりを通ることがあったとしても、最後には神さまは高ぶる者たちを必ず裁き、信仰によって生きる者を救われるということでした。
 
 ハバククは、神さまの遠大な御計画のすべてを理解できたわけではありませんでした。しかし、彼はこの神さまを信じたのです。そして、その御方こそが、「主なる神はわたしの力」であるとの喜ばしい告白にハバククは導かれて行くのです。このお方は、「わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる」のです。現実がどうであれ、今しばらくの困難が見えたとしてもこの御方に寄り頼み、この御方を信じて生きて行くときに、「わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ」ことができるようになるのだと。
 
 この時代の中で、教団をみるときにさまざまな課題があります。祈り続けなければなりません。しかし、その中で「主なる神はわたしの力」でいてくださるのです。何と感謝なことでしょう。昨年、わたしたち夫婦も、祈っても祈ってもどうにもならなく見える課題の中におかれました。そのとき、「主も彼らと共に働き」(マルコ16:20)の御言葉が与えられ、支えられました。「主なる神はわたしの力」だと実感させられる経験でした。現状はなかなか進展しません。しかし、その中で毎日ともに「あなたを信じます」と告白していく中で、言いようもない平安に満たされていきました。「主なる神はわたしの力」なのです。
 
 今与えられている問題が、すぐに好転するわけではないかもしれません。何故だろうと思う方向に行くように見えるときがあるかもしれません。しかし、主を信じて「主なる神はわたしの力」と告白しながら、この新しい年を歩みだしたいと願います。人生の力の源泉が神にある生き方に導かれた幸いな者たちとして。

2014年

「祈りの結実としての幻」

信徒教団委員 伊藤 聖治

「香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。」(ルカ1:10~11)
 
 イエスさまが誕生された当時のイスラエルの祭司にとって、聖所に入って香を焚く当番に当たることは、一生に一度あるかないかの極めて光栄なご奉仕であったと聞きます。年老いた祭司ザカリヤにとって、一世一代の大仕事であったことでしょう。緊張しつつ神さまの御前に香を焚くザカリヤの前に、突然、御使が現れ、やがてイエスさまの御降誕にまでつながる最初の大切な預言を告げられました。
 
 この箇所は、祭司であるザカリヤにスポットが当たりがちですが、その背後には神殿の外で心を合わせて祈る多くの民衆がいたことを聖書は記しています。ローマ帝国の支配下で苦難の生活を強いられていたイスラエルの人々が、メシヤの到来を今か今かと待ち望みつつ祈る切なる祈りに応えて、神さまはザカリヤに御使を送り、御救いのよき訪れを告げ、預言が成就する幻を見せてくださいました。
 
 私事ですが、今年度で信徒教団委員の任期を終えようとしています。教団の組織も運営もよくわからず、交友関係も広くない者が信徒教団委員に選出されたことは畏れ多いことで、まさに聖所の勤めを行うくじに当たったザカリヤのような気持ちでした。教団を代表する者の一員となる重責に、果たして責務を全うすることができるだろうか、サラリーマンですから仕事との兼ね合いをどうしようかと、不安で押しつぶされそうでした。この重大な務めに相応しい者ではないことは、誰よりも自分が一番良く知っています。それでも憐れみ深い神さまは、約4年間の任期を守ってくださり、困難な教団運営の中にもユースジャムやネヘミヤプロジェクトなど、明るい未来につながるいくつもの幻を前進させてくださいました。それは自分が何かを為し得たからではなく、背後で祈ってくださった教団の先生方、信徒のみなさまお一人おひとりの祈りの積み重ねに神さまが応えてくださった結実であり、主の幻を拝させていただく恵みに与ることができた幸いに心から感謝しております。
 
 新しい年を迎えようとする今、どうか引き続き教団のためにお祈りください。教団運営を委ねられている教団委員会のために、教会を牧会なさっている先生方お一人おひとりのために、私たちが一致して祈るとき、その切なる祈りに神さまは必ず応えて、困難な現実の中にも壮大な幻を垣間見させてくださり、希望の明日を開いてくださると信じます。

「徹底して仕える恵み」

教職教団委員 佐藤 信人

「水をくんだ僕たちは知っていた」(ヨハネ2:9)
 今月24 日、祈り待ち望んで参りました第8回全国信徒大会が開催されます。千葉教区を中心とする実行委員の方々は、最後の準備に忙しくしておられることでしょう。
 わたしが遣わされている仙台の地でも、4年前、東北教区と奥羽教区の共催で第7回大会が行われ、全国から四百名を超える方々が参加してくださいました。当時、わたしは東北教区の教区長として、顧問という立場で実行委員会に加わっておりました。この信徒大会は、教育局の中の「信徒教育」という部門の働きとされています。すなわち、これを単なるイベントとして行うのではなく、信徒教育の一環として行ってほしいということでしょう。そこでわたしは、最初の実行委員会が行われたとき、委員のみなさんに次のようにお話ししました。「今回の信徒大会を引き受けるにあたり、開催に向けて準備をしていくこと自体が、教会形成や教区活動に大きな
益をもたらすものと信じて、行ってほしい」。
 約2年間にわたって準備を進めていく中で、実務を担当した者たちに求められたことは、「仕える」ということでした。さまざまな事柄を話し合いによって決めていきますが、ときには自分の考えとは異なる結論が出ることもあります。また願っているような協力が得られず、自分たちばかりが奉仕を担っている、というときもありました。それでも、主から委ねられた務めとして、徹底して仕えていくことが奉仕者に求められました。
 このことは、それぞれの教会においても同じでありましょう。役員をはじめ、すべての奉仕者は、徹底して仕えることが必要となります。そのとき必ず、「己に死ぬ」という信仰の大きな課題に直面することになります。聖化の重要なテーマであるこの「己に死ぬ」ということは、痛みが伴うものです。自分の思いや願いを貫きたいという心と闘い、そこでこそ、「イエスはわが主」と告白することが求められるからです。わたしは最近、「己に死ぬ」ということは、痛みを負いながら本当に死んでいくことなのだなあと思わされています。そして、私たちが己に死に、キリストとその教会に徹底して仕えていくとき、それをとおして神のすばらしいみわざが進められていきます。それは、主のしもべとして仕えている者だけが知ることのできる大きな喜びです。
 この秋、キリストと教会に徹底して仕えていくことの恵みと喜びが、全国の教会に広がっていきますように。

「二つの平安」

信徒教団委員 矢田 澄枝
(ヨハネ一四27)

 いつも前向きで、はつらつとしている世の人たちに接すると、「その秘訣は何ですか?」と逆に質問してしまうことがあります。クリスチャンではないのに輝いている彼らが不思議に思えたからです。
 あるとき聖書の中に、『世が与える平安』という意味合いの御言葉に出会いました。「そういう平安もあるのだ」と、ふたつの平安の存在に気づいたのです。
 イエスさまは十字架にかけられる前に、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」(ヨハネ一四27)と約束してくださいました。「この平安は、この世が与える平安とは比べものになりません」(リビングバイブル)と断言なさったのです。
 じつは、世の人たちもこの変わらぬ「平安」を求めていることもその先にある答えであることを知りました。
 ここ数年、世界的な規模で災害、事件、戦争等が立て続けに発生し、「主よ、助けてください」と祈ることしかできない者です。と同時に、そのような事態に自分が置かれたらどうなるのだろう、という恐れがいつも心の中に
あります。
 去る6月に開かれた「第12回関東連合女性大会」で、講師の佐藤彰先生を通し、私どもが一番知りたかったことをお伺いすることができました。「すべてを失った中にも確かに主は生きておられる」ということです。最期のひと息にいたるまで、「わたしの平安を与える」との約束は真実であったのです。
 復活の日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸にしっかりと鍵をかけ、肩を寄せ合うようにして集まっていました。そのとき、突然イエスさまが中に入られ、「平安があるように」と挨拶をされたのです。8日たったのちにも、同じようなことがおこりました。(ヨハネ二〇19~26)
 火の中、水の中、恐怖に怯えるただ中にも、主は現れてくださるのです。そして、人間の力や理解をはるかに超えた神さまの平安を与えてくださることも主のお約束であります。パウロはそれを、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」(ピリピ四7)と表現しています。なんという恵みでしょう。
 さて、教団では4年に一度の「全国信徒大会」を千葉県にて開催いたします。「シャローム」という挨拶をもって、「主の平安」をともに喜べたら幸いです。

「喜びの礼拝への招き」

教職教団委員 佐藤 信人

「さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。」(詩篇95:6)
 わたしが牧師になってからの最大の衝撃は、自分はこれまで礼拝をしてこなかった、という驚くべき事実に気づいたことでした。「礼拝」という名のつく集会には生まれたときから出席していましたが、本当の意味で神を礼拝していなかったのです。親元にいたときのわたしにとり、礼拝は無理やり出させられるもの、「ほふり場にひかれて行く小羊」のような心境でした。わたしだけではありません。周りの大人たちを見ても、父が説教をしている間、じっと目をつぶり、ひたすら耐えている修行僧のようでした。その頃のわたしは、礼拝とは何かがわかっていなかったのです。
 礼拝とは、神の前にひれ伏し、拝むことです。しかし、わたしには「神を拝む」という意識はほとんどなく、「説教を聴く」という受け身の姿勢に終始していました。礼拝が聖書講演会のようなものとなり、そこで神を拝むことをしていなかったのです。説教が礼拝の中心であることに間違いはありません。けれども大切なことは、御言葉の説き明かしをとおして描き出されるキリストに向かって、「あなたこそ、わたしの主」とひれ伏し拝むことです。普段の生活の中で、知らず知らずのうちに自分が神になってしまっているところから向きを変え、「わたしではありません。あなたこそわたしの主、わたしの神です」とひれ伏すこと、それが礼拝です。
 礼拝とは何かがわかったとき、すべてが変わりました。礼拝こそ、クリスチャン生活の中心であることがわかったのです。救われるとは、それまでの「わたしが主」という生き方がひっくり返って、「イエスこそわたしの主」という生き方に変わることです。きよめとは、「イエスはわが主」という告白が、わたしたちの生活の隅々にまで、貫かれていくことです。そして、伝道とは、「イエスはわが主」と告白する礼拝共同体を形成することであるとわかりました。
 礼拝とは何かがわかったとき、礼拝は喜びとなりました。それは誰かに強いられてするものではありません。神が神であることがわかるとき、そのお方のみ前にひれ伏すことは、わたしたちにとって何よりもの喜びとなります。詩人はそのような喜びの礼拝へと、わたしたちを招いています。
「さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。」
 毎週の礼拝において、「あなたこそ、わたしの主」と告白する、真実な礼拝をささげようではありませんか。

「聞く心をしもべに与えて」(列王紀上3:9)

教育局長 錦織 寛

 神がソロモン王に「あなたに何を与えようか、求めなさい」と言われたとき、イスラエルの王になったばかりの若いソロモンは「聞きわける心をしもべに与えてください」と求めました(列王紀上三9)。そして、神はソロモンに応えて、神の知恵を与えられたのでした。このところで、「聞きわける心」と口語訳聖書で訳されている言葉は、直訳すると「聞く心」となります。このところで、聖書は、知恵とは聞く心だと言います。
1.神の言を聞く心
 私たちにとって何よりの知恵は、神の言を聞くということです。サムエルは「しもべは聞きます」と祈りました(サムエル記上三10)。旧約聖書の人物たちは文字通り、神からの直接的な語りかけを聞きました。そしてイスラエルの民は、預言者や王たちの語る神の言を聞き、また祭司たちの読む聖書の朗読を聞きました。まさに聖書はもともと耳で聞くものでした。聖書を読むというだけでなく、聖書を読んでもらって聞いたり、また自分で音読しながら耳で聞くこともとても大切な習慣だと思います。しかし、主イエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃったように、音としては耳に入っていても、心で聞いていないことがあります。私たちは、私たちを生かす命の言である神の言をしっかり聞いて従うお互いでありたいと思います。
2.人の言葉を聞く
 「聞くに早く、語るにおそく」(ヤコブ一19)とありますが、私たちはすぐにしゃべりたくなりますし、たくさん聞いてもらいたくなります。それも大事なことですが、私たちは同時に人の話に耳を傾け、心を傾けて聞き合うことのできるお互いでありたいと思います。私たちはすぐに教えたくなりますし、またアドバイスしたくてうずうずしてくるものです。とことん「聞く」ということは謙虚でないとできません。まさに「聞く」ということは愛することでもあるのです。
 ソロモンは「聞く心をしもべに与えてください」と求めました。それは、神が自分に託しておられる務めを全うするためでした。そして、ソロモンは自分の中にそれがないこと、自分がそれを必要としていること、そして、神は自分にその賜物を与えることがおできになることを知っていたのです。私たちも神に聞き、人に聞く心を与えていただこうではありませんか。

「いのちに命で応える生」

奉仕局長 内藤 達朗

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(Ⅰヨハネ3:16)
 私が本紙の巻頭言を書かせていただくのはこれで最後だと思います。それで、私の一番大事にしてきたことをお伝えさせていただこうと思います。
 私はこの御言葉の恵みで生かされてきました。イエスさまはこのようなどうしようもない者のために、「いのち」を、文字通り捨ててくださいました。このイエスさまの、私のような者への思いを通し、私のような者が愛されているという恵みを感じてきました。ですから、このイエスさまに対して、少しでもお役にたてればと思い、今日まで生きてきました。
 決して順調な日々ではありませんでした。努力をしても結果がでるわけではないこと、自分の責任ではないことを負う、自分がしなければならないことではないことを負う、これをして何の意味があるかなど、さまざまな矛盾、不条理と思われることに出会いました。しかし、そのたびごとに、この御言葉は私の力となりました。主がこんな者に与えてくださった恵みだと受けとめさせていただくとき、これによって少しでも主のご愛にお応えさせていただけるなら、うれしいと思いつつ歩んでまいりました。
 すると不思議にも、それぞれがどんなに幸いなことであったのか、それが誰かのお役にも立っているということが長い年月の後にわかるとき、言い知れない喜びがあふれてきました。それだけではなく、申し訳ないことですが、それらを通して、自分にも恵みが与えられ、次の奉仕のための大事な備えになっていることを発見すると、なんと感謝してよいかわかりません。
最近、自分のこれまでの生活を振り返ることがときどきあります。確かにいろいろなことがありました。しかし、それが思い出されるとき、その困難なこと、辛いことより、その結果生みだされた恵みを思い、よかったなあと思っている自分を見い出します。
 こんな幸いな生涯に入れていただいて、今日まで歩ませていただいていることを、心から主に感謝しています。これからもこの恵みを伝えていきたいと願っています。

「わたしよりも大きなわざをおこなう」〔ヨハネ14:12〕

財務局長 間室 照雄

「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」 (ヨハネ14:12・新改訳)
 イエスさまの行ったみわざ、それは水をぶどう酒に変えたり、病気を癒したり、死んだラザロを生き返らせたり、盲人の目を癒したり、5千人の給食などです。牧師から「皆さんはそれができると信じますか、イエスさまのようにできると信じていますか」と問われ、信じていなかった自分に気がつくのです。さらに牧師は語ります。「イエスさまが私たちの内におられて、みわざをなしてくださるのです。私たちがするのではなく、イエスさまが私たちを通してなさるのです」と。
 2月14日に降った大雪によって、私のとこ
ろでは約3百坪のビニールハウスが倒壊し、一時は茫然としました。間もなく私には新たなビジョンが与えられていました。この経営を再構築することを。その後、多くの主にある兄姉の援助もあって、つぶされたところが片づけられ、修復され、古い温室で無駄に使われていたところがリニューアルされて、新たな温室に生まれ変わりました。まさに、主が共におられて導いてくださったのです。
 3月7日、私は温室の修理の最中にはしごから落ちて、左足かかとを骨折をしてしまいました。1カ月余り動くことのできない不 自由さを経験し、大雪を通して主は少しずつ
私を整えてくださいました。もう一度挑戦する勇気も与えられたのです。そして、4月から任命された牧師によって、冒頭の御言葉が示され、先日の聖日のメッセージでは「なおざりにしない」(ヘブル二3)生活態度が重要であることを教えられたのです。
 今更ながら、真剣さが足りないことや、なおざりにして過ごしてきたいろいろなことに気づかされました。
 日々の生活の中で主を思うこと、祈りが足りなかったことなど。そして、イエスさまのなさったみわざを行うものにさせていただきたいと願うようになりました。
 ネヘミヤプロジェクトに対する必要な資金のために祈っています。今、聖書学院を再構築する必要があるのです。日本と世界の次の時代を担う牧師を養成するために、時代に合ったものに作り替える必要があるのです。この事業は私たちを通して主がなさる事業です。共に祈っていただければ幸いです。

「全世界に出で行って」(マルコ16:15)

宣教局長  中道善次

 35年間、フィリピン宣教に従事されたエノプレ悦子宣教師が、5月に帰国されます。「悦子宣教師、長い間ご苦労さまでした!」
 悦子宣教師(旧姓寺島)は、日本ホーリネス教団(以下JHC)から海外に出かけた最初の宣教師です。JHC80周年記念大会で宣教師として紹介されました。JHCから正式に任命を受け、台湾に派遣されたのは平田金次郎・喜美子宣教師(81年)ですが、悦子宣教師は1979年にフィリピンに渡り、ペドロ師と結婚され、宣教を開始されました。当時の海外宣教委員長は松原次郎師でした。
 昨年9月12日に、ミンダナオーグロリアス教会は、フィリピン福音ホーリネス教団に加盟いたしました。宣教局長の中道と国外宣教担当主事の松沢が、調印式に臨みました。ミンダナオーグロリアス教会の現地法人格と土地建物の名義は保持したままの加盟です。宣教師が宣教地で開拓をし、教
会を建て上げる。そして現地の働き人にその教会を委ねてゆく。これは世界宣教の働きの原則です。OMSは日本に対してそれを貫いてきてくれました。JHCも、フィリピンで開拓した教会をフィリピン福音ホーリネス教団に委ねることができました。アルーリペラ牧師が、今年2月末にミンダナオーグロリアス教会に着任いたしました。JHCのフィリピン宣教が一つの目的を達成したと感謝しております。
 不思議なめぐり合わせですが、現在の宣教局長の中道と国外宣教担当主事の松沢実喜男は、新谷正明牧師と松沢力男牧師の指導を受けてまいりました。中道は、新谷牧師が牧会しておられた京都紫野教会で救われました。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコー六15)というメッセージを何度聞いたかわかりません。松沢実喜男は、大阪栄光教会で育ち、父上から世界宣教のスピリットを受けてこられました。
 JHCは、これまで9組の宣教師単身者を含む)を世界に派遣してまいりました。海外宣教委員長を引き継いだ新谷正明師が海外宣教局長となり、松沢力男師が受け継がれました。その後、宣教局長として岡田邦夫師、郷家一二三師、中西雅裕師が国外宣教の働きに携わってこられました。
 JHCの宣教師派遣を考えるとき、これまでの働きを引き継ぐだけでなく、新しい宣教師を派遣しなければならない重荷を覚えております。JHCから、新しい宣教師を国外に派遣できるようにお祈りいただければ幸いです。

「福音の喜びに生きる!」

教団委員長 中西 雅裕

 
「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」(ローマ7:25a)
 この25 節以前は「わたし」で書かれていたものが、ここでは「わたしたち」となります。弱さを抱えたお互い。しかし各々がイエス・キリストに出会ってから、「共に」神を賛美する者に変えられた「喜び」がここにはあります。あなたも私も、共に神を感謝する「わたしたち」なのです。ほむべきかな、私を救ってくださるイエス・キリストは「わたしたちの主イエス・キリスト」なのです。
 しかし、25節の後半部分「このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」を見ると、そこには解釈の難しさが出てきます。神を賛美した後に、なおも自分の罪に苦
しむのか…ということです。それは本当の喜びなのか…という疑問です。ある学者は、この2つのフレーズの「間(ま)」に目を留めます。主の救いを受けた者の感謝は、本物で真実です。その喜びは偽物ではありません。し
かし、置かれている現状(この世での戦いや葛藤)は、御国に行くまで取り去られることはないのです。この矛盾ともみえる中で…。その現実を深く思い、その中でイエスを見上げさせていただける恵みに気が付かされ、目を上げる、その「間(ま)」です。何と感謝なことか。この御方を仰ぎ見つつ生きることのできるすばらしさが、私たちには与えられているのです。それに気づかされるときに、再び私たちはイエス・キリストに目を向けさせていただけるのです。
 この恵みを忘れず、おごり高ぶることなく、イエスから目を離さずに生きていきましょう。私たちの現実には色々あるでしょう。弱さばかりが気になりうつむいてしまうときもあるでしょう。しかし、その中で神の恵みを噛みしめつつ、イエスを見上げて前進させていただきましょう。私たちの救い主なる主を「共に喜びをもって」ほめたたえつつ。
 新しい年度、私たちは「福音の喜びに共に生きるホーリネス」を心に留めながら、進んできたいと願っています。心の奥底からジワジワと湧き上がってくる喜びを噛みしめて。

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ十六20)

総務局長 平野 信二

 2月4日、OMS(ワン・ミッション・ソサイエテイ)と日本ホーリネス教団との間で調印式が行われた。正確には財団法人東洋宣教会維持財団の「財産清算式」として、OMSから東京聖書学院と教団本部のある東村山の土地・建物が教団に移譲され、OMSに管理を委託していた回転融資金・開拓融資金の管理が教団に移され、東京聖書学院と東宣社の運営責任が教団に移された。併せて、昨年夏に東京都から規則認証された宗教法人OMSクリスチャン・ミッション教会に不動産が移譲されて、財団法人東洋宣教会維持財団が正式に解散したことになる。教団への移転登記の手続きはその日の内に行われ、2月7日に完了した。これらのことは2008年の公益法人制度改革と無縁ではないが、それ以上に私たちの教団の宣教を導いておられる神様のご計画の中にあることと信じている。この記念すべき歴史的な式典に、教団委員の一人として出席することができたことを光栄に感じている。
 1901年、中田、カウマン夫妻らにより中央福音伝道館が開設されて日本宣教が開始されたとき、併せて聖書学院が設立された。それは、日本の宣教は日本人の手によってなされるべきとの理念に基づいていた。そして、聖書学院を卒業した者たちの働きは日本国内に留まらず、朝鮮半島、中国大陸、北米、南米へと進められていった。また、OMSの働きも、E・A・キルボルン宣教師が見た「太平洋を越えて大きな橋が日本に掛けられ、更に韓国に、そして更に掛けられていた」幻のように、全世界へと拡げられていった。今回の調印式が、その孫であるE・ジュージ・キルボルン師の短期宣教期間中になされたことに神の配剤を思う。
 今も、OMSは全世界に多くの宣教地を持ち、多くの神学校や伝道者養成所を運営している。中には韓国や台湾のように、すでに神学校の管理・運営を現地の教団に移譲している国もあり、今回の出来事はそれに倣ったことになる。しかしそれは、私たちが不動産の管理や東京聖書学院の運営の責任を負うということだけでなく、日本宣教を担ってきた多くの人々の宣教のビジョンと、それを支え続けたOMSの宣教の情熱を受け継ぐことに他ならない。移譲に伴う組織や規則の整備、人材の確保、2年目を迎えるネヘミヤ・プロジェクトの推進など、多くの課題がある中で、私たちはもう一度、神から託された日本宣教の使命を再確認することが求められている。

メピボセテの人生

信徒教団委員  矢田 澄枝

サムエル下9:1~13
 
 「働かない、働けない若者が現在331万人。不安定な雇用状況にある若者が5人に1人。就労後3割が3年以内に離職。また、かつて受けたいじめが原因でひきこもりになり、就活や社会の関わりに蹟き、社会に出られなくなった若者も増加傾向。その厳しさを理解できない親世代が、将来を案じる余り圧力をかけ、親子間の溝を生じさせてしまう現象などが社会問題に。そんな中、怠け者というイメージの強い『ニード』ではなく『レイブル=遅咲き』との呼び名で前向きな就労を促す取り組みなどを紹介」(NHK総合「あさイチ」放映より)。これらの報道に、厳しい現実の中に生きる彼らの辛さが伝わってきて、たいへん心が痛みました。
 「次世代育成」や「信仰の継承」は教団にとっても大きな祈りの課題です。私も教団の将来に不安を覚えるときがあります。そんなとき私の心に現れるのが「メピボセテ」なのです。
 彼は5歳のとき、祖父サウル、父ヨナタンを戦いで亡くしました。悲報を聞いた乳母が彼を抱いて逃げるとき、彼を落としてしまい、メピボセテは両足が不自由になってしまいます。その後の人生は定かではありませんが、自分を「死んだ犬のようなわたし」(9:8)と表現していることから、メピボセテはひきこもりの日々を過ごしていたのかも知れません。そんな彼に一大転機が訪れるのです。
 ダビデがヨナタンとの契約(サムエル上20:14~17)ゆえにサウルの家系の生き残りの者を探し出させ、ついに彼を見つけ出します。そして、ダビデはサウル家所有の土地を返還し、メピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をすることになるのです。王の宮殿で暮らし、王と食事を共にしながら、彼は失われた日々を取り戻していったと想像できます。
 同じことが現代にも当てはまらないでしょうか。イエス・キリストと私の契約ゆえに、暗黒にいる者を探し、見つけ出し、王の食卓につかせ(礼拝)、天国を所有として与えてくださる(救い)。それは一方的な恵み(9:1、3、7)ゆえになされる神の恩寵優先の業です。ここに大きな希望を見出すことができます。
 九章の終わりを見ると、彼の不自由な両足はそのままであったようです。若者の置かれている現実はそのままであっても、私たちとイエス・キリストとの友情ゆえに、彼らの失われた日々は取り戻され、神さまの導きにより道が備えられることを信じます。「遅咲き」であっても咲かせてくださる神に期待するとき、若者の人生に光が灯ることでしょう。

「この喜ばしいわが身!」

 

教団委員長 中西 雅裕

ハバクク三18~19a
しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。

(ハバクク3章18~19節a)

 この新しい年、私たちはどのように歩んでいくべきでしょうか。昨年来、我が家で流行っているフレーズがあります。「牧師とは?この喜ばしい仕事!」というもので、あるシンポジウムのチラシに書かれていたものでした。妻が気に入り、食卓で一日の終わりに、合言葉のように「牧師とは?」と問われ、「この喜ばしい仕事!」と(それも笑顔で)返事をするのがお約束になってきています。不思議なもので「この喜ばしい仕事!」と口にすると、互いに「そうだよねぇ」と励まされるのです。感謝が湧き上がってくるのです。
 忙しい毎日、心打ち沈むことも多々ある、「主よ!」と助けを求めて祈らなければならない多くの課題に囲まれる現実です。目の前の出来事に心を奪われ、牧師という、この喜ばしい仕事に就かせて頂けている恵みとありがたさが、いつのまにか後ろの方に押しやられてしまうのです。ハバククは絶望的な状況の中で、「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。」と告白しました。この信仰を私たちも持ちたいと願うのです。喜ぶことを繰り返し勧めたパウロにも見えていたのです。痛みの中で、なおそこにいてくださる御方の存在が、わが身の使命が。「クリスチャンとは?この喜ばしい立場!」と言い換えても良いでしょう。考えてみてください。なんと「喜ばしい」存在にさせていただけている私たちでしょう。「教会学校教師とは?」「牧師の配偶者とは?」「日本ホーリネス教団の一員とは?」と問いあう中で、「この喜び」に目を向けさせていただきたいと願うのです。与えられた奉仕も、働きも「そうは言ったって・・・」の大変さをかかえているかもしれません。しかし、神を仰ぎましょう。その光に照らされるときに、この何と喜ばしい!わが身であるかかが見えてきますから。その務めを与えられた者として、喜びをもってその働きに生きる一年とさせていただきましょう。

2013年

「闇に輝くいのちの光」

教職教団委員 佐藤 信人

ヨハネ一4~5
 
 2011年3月、東日本大震災の発生直後、仙台に住むわたしの地域でも、3日間停電しました。情報が不十分なため、自分たちがどのような状況に置かれているのかさえわからずにいました。頻発する余震に怯えながら、真っ暗闇の夜を過ごしました。
 2日目の夜、こちらの状況を教団の先生に伝えようと、近くの公衆電話に並びました。懐中電灯の小さな灯りを頼りに、暗闇の中、寒さに震えながら順番が来るのを待ちました。
 ある教団の先生に電話したところ、ご夫妻とも不在で、何度か会ったことのあるお嬢さんが応対してくれました。用件を伝え終えて電話を切ろうとしたとき、そのお嬢さんがひとこと、「お祈りしています」と声を掛けてくれました。これまで、数え切れないほど聞いてきた言葉でしたが、こちらのことを心から案じるその言葉は、いのちの言葉として、暗闇の中にいたわたしの心を照らす光となりました。それは凍りついていたわたしのからだと心とを溶かしてくれるようでした。
 真っ暗な道を再び家に向かって歩きながら、次のみ言葉がわたしの心に喜びの言葉として大きく響いていました。
 「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(ヨハネ一4)
 
 そう、いのちのことばは、暗闇の中でも輝いていたのです。大地が大きく揺れ動き、人々が絶望の淵に落とされていたときも、キリストは変わることなくわたしたちの光だったのです。
 世界は闇に覆われ、その闇が教会の中にも、わたしたちの心の中にも忍び込んでいる、そのような時代にわたしたちは生きています。その闇の力の大きさに圧倒され、望みを失いそうになります。しかし、たとえどんなに闇が深くても、わたしたちにはこのいのちのことば、光なるキリストが与えられています。この光は、闇よりも強いのです。だからこそ、わたしたちは闇から目をそむけるのではなく、勇気をもってさまざまな闇に立ち向かうことができるのです。
 今年のクリスマスも、いのちのことば、光なるキリストがわたしたちのただひとつの慰めとなり、喜びとなりますように。
 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

「自由の用い方」

信徒教団委員 伊藤 聖治

 
 中秋の名月の日、仕事帰りに空を見ると、とてもきれいな満月でした。デジタルカメラで写真を撮ってみましたが、月の表情をきれいに撮るために何度も試行錯誤を重ねました。カメラのレンズは、明るい部分か暗い部分か、どちらかにしか感度を合わせられませんが、人間の目には、明るい部分も暗い部分も、周りの風景さえも、すべてがちょうどよく見えるのです。改めて、神さまの創られた人体の神秘を思わされました。
 神さまが天地創造を完成されたとき、すべてをご覧になって「はなはだ良かった」と言われました。大自然の奥深さ、生命の神秘を調べれば調べるほど、驚くほど精巧に、すべての組織が相働いて、見事に融和しています。
どれほど科学が進歩し、技術が発展しても、神さまの造られたこの世界といのちを超えるものを作り出すことは到底できないでしょう。
 そして何よりも素晴らしいことは、神さまは私たち人間を神に似る者として創造され、自由を与えてくださいました。唯一、私たちを縛り付ける罪さえも、愛と憐れみに富む神さまは、独り子イエスさまを十字架につけて罪から解放し、自由を回復してくださいました。何をしようか、どのように生きようか、すべて私たちの自由です。この自由を、私たちはどのように用いればよいのでしょうか?
 私が思う人間の素晴らしい点は、この自由をもってさまざまな課題を解決する能力が与えられたことではないかと思います。ロボットは、人間が設計した通りにしか動きません。いかに優れたコンピューターも、プログラムした通りの結果しか出しません。できることは人間以上にできても、できないことは一切できないのです。不可能だ、無理だと思える難題を、できないと決めつけずに自由な発想で捉え、どのようにしたらできるかを考え出すことは、私たち人間だけができることです。これこそが、神さまが私たちに自由を授けてくださった意義ではないかと思うのです。私たちの信仰生活の現状は、さまざまな困難があるでしょう。絶望の淵に立たされるときもあるでしょう。  
 私たちの教団や教会も、さまざまな難問・課題が山積しています。しかし、神さまからいただいた自由を神さまの
ために用いて、私たちに今何ができるかを考えるとき、無から有を生み出す神さまは不可能を可能へと導いてくださるでしょう。私たちの自由をもって神さまに仕え、主に信頼する者はどんなことでもできると確信して、今日も力強く、前向きに歩ませていただきたいと願います。

「神にはできる」

教育局長 錦織  寛

マルコ10:17~27
 
 主イエスは永遠の生命を求めて主イエスのところにきた金持ちの青年に、足りないことが一つある、と言われた。いろいろ大事なこともあるけれど、これも大事だよ、これもがんばってね、という話ではない。他のことが
全部そろっていても、これがないと永遠の生命を得られないという非常に重要な指摘である。「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい……そして、わたしに従って来なさい」。
 主イエスは、この要求が彼にとって非常に厳しいことであることを承知しながらも本気で彼に向き合っておられる。私たちは、自分はお金持ちではないから……と人ごとのように見ていることはできない。主は私たちにも、足りないことが一つ、と真剣に迫られる。
 主イエスは無理難題をふっかけておられるのではない。主は永遠の生命が、神が与えてくださる救いと祝福が、どんなに大きく豊かなものであるかを知っておられるのだ。また、私たちにどうしても救いと祝福とを与えたいと願っておられるのだ。主は本気だ。
 またここでは本当に何に頼って生きるのかが問われている。実は目に見えるものはいざという時には全然頼りにならない。私たちは何に頼っているのだろうか。お金や財産か、自分の能力や才能か、地位や人脈か、それとも、私たちを愛し、ご自身をも献げてくださった主なのか。
 主はおっしゃる。私に従って来なさい。上から目線で何かを命令し、ここまで従えるかと迫り、それをクリアしたら、また次の課題が待っている……いいや、主は、私たちのところもまで下ってきて、私たちの一歩先を歩みながら、うしろについてくるようにと招いてくださっているのだ。
 せっかく自分の必要に気づいて、主のもとに来ながら、彼は悲しみながら立ち去ってしまう。主ご自身はもっと悲しい顔をしておられたことだろう。主は彼のために、命を捨てようとしておられたのだから。
 
 私たちは本当に主イエスの期待に応えることができるのだろうか。私たちは本当に永遠の生命をいただくことができるのだろうか。私たちを愛し、私たちの前に本気で立っておられるお方の前に、真実に生きることができるのだろうか。私たちは救われるのか。
 主は今日も、私たちを見つめておっしゃる。人にはできないが、神にはできる。

「今の時代を生きるには?」

ローマ12:1~2
 
 今の時代は非常に混沌としています。このような時代にどのように生き、どのようにすればいいのか多くの人たちが迷っています。政治家も各界のリーダーたちも迷っています。私たち教会、キリスト者や牧師はどうでしょ
うか。現代の状況で適切な判断ができているでしょうか。聖書はそのような時代の中で、私たちに語りかけています。
 前掲の聖句2節には何が善であって全きことであるか、わきまえるようにと言われています。「正しいこと」は冷たく人を裁きます。しかし、「善なること」はそれに係わる者を温かく包み、活かすものではないでしょうか。
 全きことは、冷たさを感じるかもしれませんが、部分の正しさではなく一面的でもなく、統体としての判断です。歴史に耐え、全体の益をもたらす判断です。原発にしても、経済だけを考えれば一つの判断が出ます。しかし、歴史に耐え、広がりのある見方をすると、別の判断となるでしょう。それができなかったことが現代の大きな課題となっています。
 そのような判断は単なる方法論ではなく、何が神さまの御旨であるか、何が神さまに喜ばれることかをわきまえることです。それは考えとしてではなく、神さまに語り、神さまに伺い、神さまと向かい合って、神さまの御旨を思いはかり、神さまが喜んでくださっているかを悟ることです。そのとき、人が予想しない、時代に耐えられる判断ができることでしょう。
 そのために私たちに勧められていることは、まずこの世と妥協しないことです。不本意な決断、すべきでないのに状況から行ってしまう、また、この世の価値観、数の論理、データーのみに基づくなど、妥協する危険は無数にあります。なんと私たちは、これに陥ることでしょう。私にも苦い経験があります。
 パウロは言います。これには、心を新たにし、造り変えられること、と。そんなことが人間にはできるのでしょうか。
 どのようにして人は造り変えられるのでしょうか。それは、まさに礼拝です。あなたがたのからだを献げなさい、と。私たちは礼拝を通して、私たちの何かをささげることが起こるべきです。物を、権利を、正義を、考えを、こだわりを、メンツを、自分の判断基準を、一つ一つ献げるのです。そのとき、私たちは神さまの御旨、神さまの喜ばれることを悟ることができるのです。真の判断を邪魔しているものを献げ続けるのです。この時代に互いに適切な判断をして主に仕えましょう。

『伝道の書』の伝道楽観主義

 
 『伝道の書』は、効果的な伝道方法が書かれている書物ではありません。知恵ある生き方を教える書物です。しかし伝道の書11:1〜6は、伝道に関する示唆を多く与えてくれます。『伝道の書』から、伝道を難しく考えず、楽観的に考えることを学びたいと思います。
 「パンを水の上に」(11:1)は、無意識の慈善、あるいはガラテヤ6:7〜10のような善行と理解されます。また別の解釈では、パンを送り出す海上貿易のことという解釈があります。しかし私たちは、この箇所から教会学校における伝道の教訓を得てきました。
 教会学校の奉仕は、パンを水の上に投げるように、報いをすぐに得られない働きです。しかし多くの日の後、それを得るのです。私たちの教会で、一人の姉妹が今年のイースターに受洗しました。彼女が教会学校を卒業してから20年後のことです。
 風を恐れ、雨が降ることに不安を覚える人は種まきをしません(十一4)。私たちが伝道にともなう危険や不安を気にすると消極的になり、福音の種を撒くことができません。人間は収穫を予測することができません。ただ人間にできることは種を撒くことです(11:6)。2001年、聖書学院のミッション生が、伝道11:1〜6より茅ヶ崎教会の早朝礼拝でメッセージを語りました。彼は一年生でした。人生初の説教を通して、一人の青年が入信を決意しました。6節の御言葉が心に響いたのです。入信した青年は、その後毎年ミヤンマーの孤児支援献金してくれます。私たちが与えられた機会を活用して、できることを精一杯やるとき、主は働いてくださるのです。
 「あれかこれか。もしかしたら両方とも上手く行くかもしれない」。これが『伝道の書』が教える「伝道楽観主義」です。2006年、私たちの教会の青年たちが、東海大学湘南キャンパス(平塚市)の近くに学生対象の喫茶店を開きたいというビジョンを持ちました。私を含めた大人たちは、「そんなの上手く行くはずがない」と否定的でした。しかし「彼らにやらせてみましょう。私が後見人になります」と年長の牧師が申し出ました。「上手く行くはずがない」と思った伝道の働きが、期待を超える実を結び、今日に至っております。
 朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。(伝道の書11:6)

「この宝を土の器の中に持っている」

財務局長 間室照雄

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである(Ⅱコリント4:7)
 
 私は45年前に福音に導かれ、そして救いの経験をしましたが、若いときはがむしゃらに働き、健康のことなどほとんど考えもしませんでした。社会的な付き合いが広がり、不規則な生活、とりわけ食事は偏っていきました。気がついたときは、「高脂血症の疑いがあるので、専門医の診察を受けなさい」というところまで行ってしまいました。身長168センチ余、体重82キログラムでした。
 25年前、母が62歳で脳内出血で倒れ、以来、半身不随の生活をしています。そうならないようにとダイエットに挑戦して、今は67㌕になりました。そして、健康になり、スタミナも増加しました。
 東日本大震災の折、報道された避難の方法として、一番先にしなければならないこととして、「自分の身を守ること」というのがあって、意外な気がしました。被災し、けがや病気になったら、ほかの人を助けることができないというのがその理由でした。
 私たちの川越のぞみ教会は3年前に会堂建設をしました。そのきっかけは、一人の兄弟が祈り始め、みんなで祈ることを訴えました。やがて時間を決めて、一斉祈祷会が始まり、その結果として、大きな壁が取り除かれまし
た。そして、ある兄弟が召され、その財産全部がささげられ、7年間も場所の選定や資金的なことで停滞していた計画が、一気に進むことになったのです。そして多額な教会債も教会員によって与えられたのです。
 祈ることによって、それぞれの考えが一つにされ、より強固な協力体制が作られました。そして、土地代金を含め、1億4千万円もの事業が完成しました。銀行や教団からの資金を利用することなく完成したのです。
 今教団のことを考えるとき、全国の信徒の皆さんの一致が必要です。祈りが必要です。それぞれの信徒が元気になり、教会が活性化され、救いの恵みにあふれる教会となることが求められています。でもその前に、自分の
健康管理ではないでしょうか。せっかくいただいた宝を活用しない手はありません。でも土の器なのです。大事にしなければ壊れてしまうもろいものなのです。
 「土の器」(Ⅱコリント4:7)なるそれぞれが献身を新たにし、受けるよりは与えるほうが幸い(使徒20:35)の信仰に立って、進むとき、主からいただいた宝が力を発揮できるのではないでしょうか。   

「あなたはどう読むか」

平野信二

「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」 (ルカ10:26)
 1997年に総会決議された「戦責告白」以降、私たちは「福音理解」を問い続けてきた。今まで持ち続けてきたものに対して「これで良いのか」という問いを発しつつ、自らの立ち位置を確認しながら進むべき方向を指し示してきた。「変える勇気」と「受け入れる冷静さ」だけでなく、変えてはいけないものを変えることなく持ち続ける頑固さも大切にしてきた。第一次、第二次構造改革や主体性に基づく任命制度改革においても、新しいものを取り入れることと同時に、失われつつあった大切なものを再確認・再構築してきた。そして、それらの営みは、教団委員会だけでなく、各局・委員会、教団に属する教会・教区、そして、牧師・信徒による共同作業としてなされてきた。
 その過程で大切にしてきたことの一つが、相互のコミュニケーションであった。情報や意見の交換をする中で、時には正面からNOを言われなければならないこともあった。そのことについて、私は「NOを言う勇気」に感謝するとともに、「NOを言うことのできる教団であること」を誇りに感じる。冒頭の聖句にあるように、神は私たち一人ひとりに「あなたはどう読むか」と問いかけておられるからだ。言い換えれば、当たり前のことだが、私たち一人ひとりが聖書の真理に照らして「YES」か「NO」かを判断していくのである。しかし、そこでは単に意見や理想を語るだけでなく、語った言葉に従って生きていくことが求められ、語った言葉によって再び自らが問われていくのである。そのことなしに語る言葉がいかに虚しく、意昧のないものであるかは、「良きサマリヤ人」の讐えがよく示している。
 私たちは時折、あの律法学者のように「自分の立場を弁護」する誘惑に駆られる。しかし、私たちはそこで踏み止まって、自らの弱さ、足りなさ、罪深さと対峙し、そこに光を与え、赦しときよめとを与えてくださる神と向かい合わなければならない。先月亡くなった中坊公平氏が「医者は人の生命を、宗教者は人の死を扱う職業である」と言われたが、死の先に用意されている永遠の生命に至る道を知っており、それを伝える使命を与えられている私たちの責務は重い。「あなたはどう読むか」と問われる神に対して、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして」応えていかなければならない。

「共に『アーメン』と言って、主に従う。」

中西雅裕

「会衆はみな『アァメン』と言って、主をさんびした。そして民はこの約束のとおりに行った。」(ネヘミヤ記5章13節b)
 
 新しい年度が始まりました。この初めの時にネヘミヤ記5章から、主に従う者達が危機に陥った時に、どの様に「神の民」としての自分達を立て直し、行動したかを見ていきたいと思います。そして、主が私達の教団に何を望まれ、私たちが何を行動基準にしていくのかを考えてみたいと思います。
 この時、ネヘミヤ達の神殿の壁の工事は、外部からの妨害に続いて内部の問題が表面化してきました。順調に進む工事の一方で、貧富の差が大きくなるという内側の問題が起こってきていたのです。田畑、家や息子娘たちを売らなければならなくなった者たちが訴え出ます。共に労してきた神の民同士が、相対立するかも知れないという危機に陥ったのです。このままでは城壁の再建どころではなくなります。ネヘミヤは慎重に対応し、それぞれの立場の者達が共に『アァメン』と言って主を賛美して、再び工事に向かうことが出来るようになっていきました。
 まず私達が知っておくべきことは、この時のように神の業が進む時に、サタンの妨害が起こるということです。彼らは内部分裂をも狙ってきます。私達の教会の於いても、教団においてもあり得る話です。しかし、私達は主にある民として、その問題に対処出来るのです。
 第一に、主の御前でよく考えることです。ネヘミヤは貧しい者たちの訴えを聞いて怒りましたが、「自ら考えたすえ」とあります。感情に流されませんでした。事実確認を怠たらず、自分を律し、神の御前で考える時を過ごすのです。私達も、問題を主の御前に祈ること無しに判断してはなりません。
 第二に、自ら率先して犠牲を払うことです。ネヘミヤは富んだ者たちを集めて、利息を自分は取らない、奴隷になった人々を買い戻すと宣言しました。先ず自分が犠牲を払うと。互いに犠牲を払い合う中で「会衆はみな『アァメン』と言って」心を一つにしていくのです。
 第三に、神を畏れて歩むことです。ネヘミヤは神を恐れたと繰り返します。これは神の裁きを恐れたのではなく、畏敬の念をもって神の前に出たということです。また「民はこの約束のとおりに行った」のです。主に従って歩む、神の臨在を常に意識して歩む。これこそホーリネスの生き方と言えます。
 最後の19節の「わが神よ、わたしがこの民のためにしたすべての事を覚えて、わたしをお恵みください」の祈りは真実の訴え、心からの祈りです。「私」を「私たちの教会」、「日本ホーリネス教団」と置き換えて祈りたいと思います。わが神よと。この年度、私達の教会が、教団が歩んだ全てのことを覚えていただけるような歩みをしたいと願うのです。ホーリネスの民として、この日本の地で。

主と同じ姿に

         錦織 寛

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(Ⅱコリント3:18)
 
 新しい年度が始まる。
 子どもたちや学生たちは新学期を迎える。
 新しく社会人として歩みを始める人たちもいるだろう。
 新しい牧師を迎えて、喜びと期待と緊張感の中にこの時を過ごしている教会もあるに違いない。そして、東京聖書学院でも、全国から新しい献身者たちが集まって新しい生活を始めようとしている。
 不安がある。正直、恐れもある。私たちはある意味、まだ歩んだことのない新しい一日を踏み出していくのだ。また失敗したらどうしよう。だめだったらどうしよう。いろいろ批判されたら立っていけるだろうか・・・。
でも、私たちは知りたい。私たちはひとりではない。一緒にこの未知の一日に一歩を踏み出していく同士なのだ。私たちは共にこの新しい年度を歩み出す。知ってほしい。あなたのために祈っていてくれる仲間がいる。そして、あなたの祈りを必要としている仲間がいる。
 そして、知ってほしい。私たちには神さまの約束がある。私たちは栄光から栄光へと変えられていく。この一歩は神の栄光へと続く一歩だ。また主と同じ姿に変えられていくための一歩だ。人々は知りたい。イエスさまとはどういうお方なのか。それを人々に示していく責任が私たちにはある。もちろん、足りないところだらけだろう。まだまだイエスさまにはほど遠い・・・その通りだ。でも、私たちは一日一日、主に似せられていく。
 大事なことがある。主を見つめ続けていることだ。自分の弱さや、この世に吹き荒れる嵐を冷静に見ながら、でも主を見つめていくことだ。
 私たちの覚悟や、修養努力や、新しい決断も確かに尊い。でもそれが私たちを変えるのではない。私たちのうちに働いて、そのことをしてくださるのは霊なる、命なる主だ。
 一度に百歩も二百歩でなくていい。主イエスを見つめ、主に期待して、一歩一歩歩んでいこう。主がそのことをしてくださるのだから。
 
 
 

「神のみわざはどこに…」ヨハネ福音書第9章

教団委員 上中 栄

 
 「神のみわざはどこに…」  生まれつきの盲人の目が開かれた。しかし、それを喜ぶ人は描かれていない。彼が哀れに見えるうちは、親切にした人もいただろうが、モーセの弟子を自認する人々は、自分たちが正しいと思う信仰の理屈によって、彼を追放してしまった。この「信仰者たち」は、どのような感性を持っていたのだろうか。
 私たちの信仰的な考えや判断・感情が、表面的なことに流されることは往々にしてある。震災後、建物に被害が少なかったある教会の牧師は、支援に来る人の中には建物を見て、「何だこの程度か」という顔をする人がいて、「被害が少なくてすみません」という思いになったという。支援の思いに偽りはなかったであろう。哀れに見える方が情は動きやすいことも分かる。だが被災者にこのような思いを抱かせ、それに気づかなくとも、そのことを問わない風潮が、今の日本のキリスト教界にはある。「隣人愛は善」という、これもある種の信仰の理屈であり、それ自体は間違いではないが、この感性は看過されてよいのだろうか。
 「この人が生まれつき盲人」なのはなぜか。因果応報の否定だけに躍起になると、「神のみわざ」が何であるかが霞む。信仰の感性の分岐点はここではないか。主によって目が開かれた人は、信仰者社会の現実を目の当たりにする。それでも彼は「主よ、信じます」という信仰に導かれた。「神のみわざ」である。
 さて、私たちの教団は、教勢や財政に課題を抱えつつ歩んでいる。世俗化、安易な悔い改めといった、福音理解の危機に瀕している。公権力は、巧みに私たちの信仰を骨抜きにしようと動いている。しかし多くの人は、自分とこうした事柄とはあまり関係がないと思い、それでも信仰生活は成り立つと考えている。そんなことはない。教団が哀れな状態に陥れば、関心は高まるのか。それでは遅い。すでに私たちは待ったなしの状況にある。そして、私たちの信仰が篩(ふる)われる時が近づいている。表面的なことに流されると本質を見失う。
 私たちは、共に信仰の感性を磨きたいと思う。そのためには、目を開いていただくしかない。その時目の当たりにする自分自身の姿や、教会や教団の状況は決してバラ色ではないだろう。主に目が開かれた人が信仰を言い表した時もそうだった。しかし彼は、主を見出し、神のみわざに与った。私たちも同じ信仰に生きている。同じ教団に連なっていることを喜ぶ感性を大切にしながら、私たちにも現わされる神のみわざを期待しつつ歩みたい。

新田を耕せ

総務局長 島津吉成

 「あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。」(ホセア10:12)
 
 この御言葉は、2013年、新しい年を始めるに当たって、主が私に語りかけてくださった聖句です。主は「新田を耕せ」と命じておられます。荒地に鍬を入れ、そこを耕し、そして種を蒔きなさい。現状維持に留まるのではなく、新たな挑戦をしなさい、と。
 荒地を開墾するということは、とても大変な仕事です。ですから、尻込みしたくなる心理も働きます。また、「古いのが良い」(ルカ5:39)と思うのは、人間の自然な感情です。過去に、それでうまくいったという体験があればなおさら、それを切り替えるのには勇気が要ります。さらに、もう歳だから、いまさら新しいことを始めるのは、という思いがわいてきたり、若い人でも、挫折感や閉塞感に捕らわれて、前に進めないということもあります。ですから、まず鍬を入れるべきところは私たちの心です。いつの間にか固くなってしまっている心に鍬を入れなければなりません。新田を耕す業は、ここから始まります。
 新田を耕す働きには労苦もありますが、それ以上に望みがあります。今、目の前に見える地は荒地であったとしても、ここが耕され、やがて豊かな収穫の時が来るのです。黄金色に輝く穂が広がっている光景が心の目にはっきりと見えるとき、労をいとわず、望みをもって荒地に鍬を入れて行くことができるのではないでしょうか。
 主が私に見せてくださっている光景は、ゼカリヤ書8:4~5に記されている回復したエルサレムの光景です。
「万軍の主は、こう仰せられる、『エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。みな年寄の人々で、おのおのつえを手に持つ。またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる』」。
 「次世代育成」ということが教団のテーマとして掲げられていますが、ここに、小さな子どもたちからお年を召した方まで、全世代の人々が共に集い、喜びに溢れて主を礼拝する教会の姿が描かれています(ゼカリヤ8:18~19)。
「今は主を求むべき時である」。主がしてくださると約束してくださっているのです。ですから、主に祈りつつ、主が見せてくださるビジョンに向かって、新田を耕しましょう。

素晴らしき 人生!

教団委員長 郷家一二三

 
 あるキリスト教の雑誌の付録に、映画「素晴らしき哉(かな) 人生!」のDVDが付いていた。映画史上に残る失敗作が奇跡的な復活劇を遂げた、それが「素晴らしき哉 人生!」である。一九四六年製作のアメリカ映画だが、当初は興行面では惨敗し、製作費も回収できなかった。映画会社が著作権の更新手続を忘れ、著作権フリーとなり、テレビでクリスマスに放映が繰り返され、八十年代には全米で愛される有名な映画となって行く。映画のストーリーも奇跡的な復活劇で、人生のどん底の状態で、「自分は生まれてこなければ良かった」ともらす主人公が、生きる喜びを回復する物語だ。彼の前に天使が現れ、もし彼が生まれなかったらこの街がどんなにわびしく惨めなものになっているかを見せてやり、自分と出会わなかった妻も寂しい人生を送っている姿を見て、主人公は自殺することをやめて人生の意義を取り戻す。(この映画の監督も長生きをして、奇跡的な復活劇を目の当たりにすることになる。)
 わたしたちはいろいろな問題に行き詰まると、やはり自分は適任ではなかったとか、こんな人生なら生まれなかったほうが良かったとか、ヨブに似た言葉を漏らしやすい。もしもこの街に教会がなかったら、おそらく自分は主イエス・キリストの救いに出会わなかっただろう。でも教会があったので福音を聞いて信じることができている。高校時代に校門までトラクト配布していた二人の友人は、おそらくそれがわたしを教会に導いたと知らないだろうが、わたしは最大の贈り物をくれた友人だと感謝している。福音にまさる贈り物はない。福音を伝える伝道的な教会の存在に勝るものはこの世にはない。キリストの体である教会形成に仕える以上の喜びはない。
 イザヤはどん底の民に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と預言する(イザヤ43:4・新改訳)。洗礼を受ける必要のない主イエスの洗礼にあって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」(マルコ1:11)との声が天から響く。これは主にあって洗礼を受けた者への声として受けとめられる。御言葉ははっきり宣言している。あなたは神に愛されている。主イエス・キリストの命を犠牲にするほどにあなたは高価で尊い。そしてあなたは神の心にかなう人、神を喜ばせている者なのである。
主によって救われている人生こそ「素晴らしきかな人生」であり、今年も新たにその一歩を踏み出そうとしている。