2017年

ゆるされる幸い

「われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(新約聖書 イザヤ書第55章7節)
 
 「お母さんは、うそついたことないの?」。3人の子どもたちは、ある年齢になると、同じように聞いてきました。そのたびに、お母さんのうそつき物語が始まります。
 
 「お母さんが幼稚園に行ってた時だよ。今みたいに、送り迎えがなくて、ひとりで歩いて幼稚園に行ってたの。ある日、お友達のB君がね、『帰りにA子ちゃんのお家を見に行こう』って言うの。だからお母さんね、『寄り道はだめよ』って言ったの。そしたらねB君こう言ったの。『お家の人に怒られたら「帰る途中で風が吹いて帽子が飛んで行ったの。追いかけたら遅くなった」って言えばいい』って。こんなうそ、ばれないのかな。
お母さんはね、A子ちゃんのお家を見に行きたかったの。だから見に行っちゃった。そして急いで帰った。そしてね、その通り話したの。『途中で風が吹いて帽子が飛んで行ったの。追いかけたら、遅くなったの』って。そうしたら、お父さんが、大きな目で私のことを見て、ゆっくりこう言ったの。『本当はどうして遅くなったの?』って。やっぱり、うそだってわかるんだよね。それで、『A子ちゃんのお家を見に行きました。うそついてごめんなさい』とあやまったのね。ゆるしてもらってよかった」。
 
 子どもに、「うそをつくとわかる?」と聞いたら、3人とも、「すぐわかるよ。おかあさんもうそついちゃだめだよ。ゆるしてもらってよかったね」と言われました。
 
 自分の言動で相手を深く傷つけたり、また関係を悪くしてしまうことがあります。いつかあやまろうと思っているうちに機会を失い、うやむやにしてしまったり、あやまってもゆるしてくれないことさえあります。ゆるされないことほど苦しいことはありませんが、多くの人たちは、ゆるされない自分を引きずって生きているのです。
 
 しかし、聖書を開くと、そこにあなたの心を安らかにするゆるしが書かれてあります。
 
 神の御子イエス・キリストは十字架の上で私、そしてあなたのために祈ってくださいました。「父よ、彼らをおゆるしください」。この言葉こそが、私たちに与えられるゆるしの鍵の言葉です。教会に来られるならば、どんな罪もゆるしてくださるお方と出会えます。

幼な子のように

 
「幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉い」(新約聖書 マタイによる福音書第18章4節)
 
 「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』」(マタイによる福音書18:1)
 
 「そのとき」とは、主イエスご自身が、「これから私は、苦難を受け、十字架にかけられて殺される。だが、3日目によみがえる」と伝えられた直後のことです。その話を聞いて、弟子たちは「非常に心をいためた」とあるものの、ここでは、それを忘れてしまったかのように、「だれがいちばんえらいのですか」と質問しているのです。
 
 師が直面する重大問題には「我関せず」で、自分の立場を少しでも有利にしたいとする思惑をあからさまに示す姿勢に、人間の本質を見ることができます。
 
 昔も今も、変わりません。私たちは、意識する、しないに関わらず、絶えず他者と自分の立場を比較しながら、自己利益を画策して生きています。その点で、この世は競争社会ということができるでしょう。
 
 しかし、それだけでは社会は成り立ちません。イエスは弟子たちの質問に対し、どう答えたのでしょう。
 
 「すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのであるビ(マタイ18:2~4)と諭しています。
 
 主イエスが幼な子を引き合いに出したのは、清純であるとか、かわいさをたとえるためではなく、自分を低くすることができるからです。
 
 競争社会では、確かに切磋琢磨して能力を伸ばすことができるでしょう。しかし反面、幼児はもちろん、老人、病人、障がい者、経済的困窮者など、社会的弱者は片隅に追いやられ、じゃまもののように扱われてしまうことが起こってくるのです。
 
 そのような人たちもまた、社会の一員として活躍することができることを認め、お互いに助け合って生きなければ、共存できる理想的な社会を築いていくことはできません。
 
 主イエスは、けん制し合い、自己主張するのではなく、互いに愛し合って生きる、天国の生き方を示されたのです。

救い主の意味


「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(新約聖書 マルコによる福音書第16章16節)
 
 「神がいるなら、どうしてこんなひどいことがあるのか」。特に東日本大震災や九州の地震などで、そう思った方も多いのではないでしょうか。牧師である私も、この質問に答えるのは長年苦手でした。本当に苦しんでいる人からそう言われると、なかなか返せる言葉を見つけられなかったのです。
 
 それがある時、はたと気づいたのです。「イエスさまは救い主」と言う、何度も口にしてきた言葉の中に、すでにその答えがあったのです。
 
 イエスさまが救い主であるならば、イエスさまは救うのです。それでは救いが必要なのはどういう時でしょう。いわゆる大丈夫な時には救いは必要ありません。危ない時、窮地です。ですからイエスさまは救い主だというフレーズには、世界には窮地があり悲惨があることが既に織り込まれているのです。
 
 ではなぜこの世には悲惨があるのか。その理由は聖書の最初のところで、神のせいではなく人の罪のせいと速やかに記されます。一方聖書の膨大な残りの文章ほぼすべては、救いについての言葉なのです。「人の罪が、この世界を混乱、窮地に追いやった。だからひどいことは、ある。だけど大丈夫!救い主を用意したから。このイエスを信じる人を、彼は救うよ」。
 
 先日105歳で召された聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生は、常に新しい世界に足を進める人でしたが、またそういう生き方を人にも勧めて活動された人でした。彼のように生き彼のように死にたい、と感じたのは私だけではないでしょう。
 
 聖書が示す救い主とは、日野原先生の生き方と相通じると思うのです。つまり、過去や起きたことに縛られる生き方ではなく、新しい明日を期待し前進を志す生き方です。日野原先生はそういう生涯を全うされました。
 
 「私には救い主がいます」とは、たとえ今までがどうであったとしても、これからに救いがあるということです。救い主は救うから、救い主なのです。
 
 イエスさまご自身が「信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる」(マルコ16:16)と言われます。彼のこの言葉に賭けてみませんか。その人は必ず、必ず、救われます。私も、「主イエスが救い主である」と明言できる証人の一人です。

無駄はない

 
「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(新約聖書 ローマ人への手紙第8章28節・新改訳)
 
 ある時、ひとり娘が病気で死にかかっていたヤイロという人が、イエスさまのところにやってきました。彼は人目もはばからず、イエスさまの前にひざまずいて、自分の家にきて娘の病気を治して欲しいと願いました。ところが、多くの群衆のためになかなか前に進むことができなかった上に、突然、イエスさまが「誰かが私に触り、私から力が出ていった」と、触った人を探し始めたのです。娘の病状を考えれば一刻も早く家に向かいたいヤイロとすれば、無駄にも思える時間が過ぎていきました。
 
 やがて一人の女性が進み出て、どのような事情でコッソリとイエスさまに触って病気が治ったかを人々の前で告白しました。するとイエスさまは「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と告げます。ところがそのイエスさまの言葉をかき消すように、ヤイロの家から「お嬢さんは亡くなられた」との悲報が届きました。ヤイロにしてみれば、「だから言ったじゃないですか。私の方が先でしょ。この女性の病気は治ったのだから、それで良かったでしょ。何をグズグズしていたのですか」とでも言いたいところです。しかし、イエスさまは彼に「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」言われました。
 
 ヤイロが「無駄」と感じていた時間の中で、イエスさまは彼のために時間を用いていました。イエスさまに最後の望みをかけて病気を治してもらった女性の証言も、恐れと不安に飲み込まれそうになる中で娘の悲報が飛び込んで来るまさにその時に女性に告げられた「安心して行きなさい」との言葉も、実は、ヤイロのための言葉でもあったのです。イエスさまに期待して訪ねてきたヤイロの信仰を、一回りも二回りも強く、確かなものとするために、その女性の信仰と、彼女を救った神の子救い主なるイエスさまの御業を見ることが必要でした。
 
 神さまにあって無駄なことはありません。私たちが経験するすべてのことも、いえ、私たちが経験していないということすら、やがて私たちが神さまの恵みと祝福を受けるための大切な土台となるのです。
 
「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28・新改訳)

 

新しく造られた者

 
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(コリント人への第二の手紙5:17)
 
 私は、中学、高校とラジオ少年でした。今でいうとパソコンオタク?ゲームオタクでしょうか。

 いつも古いラジオやテレビを集めて、使える部品を取り出すところから始めます。新しいラジオを作るのが目標です。雑誌を脇に置いて、はんだごてを握り、徹夜しての作業。スピーカーから音が出たら、飛び上がって喜びました。本当は新しい部品を買ってきて作りたかったのですが、学生の身。お小遣いも、肝心な技術もなかったというわけです。
 
 ところで現代の最先端技術では、遺伝子にまでメスを入れ、人の性格まで作りかえるとか。ゲノム編集というそうですね。分子の配列をコピーし、クローン人間も作ることができるそうですが、こんな技術で、私たち人間を、清らかで優しい、しかも強くて優秀な人に作りかえることができたら、ずいぶん世の中は良くなるかもしれませんね。
 
 でも、誰が人の良し悪しを決めて、メスを握るのでしょう。ともすると、自分の心と気持ちを正せなくなる人類なのに。しかも多様な人々を受け入れながら、多様な価値観を柔軟に受けとめることができる人を作り上げる。その設計図?コピー元?どうするのでしょうか。
 
 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント五17)
 
 私か大好きな聖書の言葉です。天と地とをお造りになった神さまが、私たちの人柄さえも、造りかえてくださると宣言します。「新しく造られた者」とあります。材料も部品も、元になるものが何もない、そこに造り出すという意味です。古いものの再利用ではありません。私たちのことを、新しい材料で新しく、です。しかも、人類の歴史の最初から、全部をご存知のお方が、そして世界の完成を目指しておられるお方が、優しい御手を動かしてくださるのです。
 
 「ラジオ少年だった君が、どうして牧師さんになったんだ?」と、当時の仲間がいぶかしがります。自分でも、そう思います。しかし、みなさんも、是非教会に行ってみてください。実は、教会に集まっている人たちは、みんなそうです。そしてあなたも。
 

 

神に向かって

 
「わたしが神にむかって声をあげれば、神はわたしに聞かれる」(詩篇77:1)
 
 今年の大型連休も行楽地への人出は多かったようです。都心に帰る人たちのピークだった4日には、関越自動車道上りは高坂SA付近から約40㎞もの渋滞が発生したとのことでした。
 
 お気づきだと思いますが、電車、道路などでは、行き先を案内するために、便宜上の起点を設けて「上り」「下り」を用います。関越道の場合は東京の練馬で、そこに向かう時が上りとなります。
 
 聖書にも時々、「上り」「下り」が出てきます。「さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである」(創世記12:10)もその一つです。信仰の父と呼ばれているアブラムですが、この場面では非常に軽率な行動を取っています。「ききんがあったので、エジプトに下った」のです。
 
 今まで神さまに頼って生活していたのに、ききんになったら、「神さまは信用しません。食料が豊富にありそうなエジプトに行きます」というわけです。聖書は、この、神さまを捨てるようにしてエジプトに行くことを「下る」と表現しました。
 
 こうもりの話を知っていると思います。鳥には「私は翼があるからあなたたちの仲間ですよ」といい、けものたちには「私は毛が生えているからあなたの仲間です」と都合良く振る舞うという寓話です。日本の政党にも、都合良く、あっちへいったり、こっちへ来たりして、いつも有利な方につく人たちを見受けます。しかし、そのような人たちは、このこうもりの話の結末のように、結局、信用を失い、本質を暴露され、みじめな姿になってしまうのです。
 
 考えてみると、目の前だけの利益に動かされて、都合良く生きようというご都合主義が、大半の生き方であるかも知れません。「今日はこっち、今度はあっち」。自分がどのように生きるのかをしっかり考えていなければ、そんなことをし続けていくうちに、自分を見失って、いつしか、世の中に流されしまうのです。
 
 アブラムはエジプトに下ったことで、自分の愚かさをさとり、神に信頼する、本来の生き方に戻すべく、エジプトを離れ、神のもとに「上って」いきました。あなたも、ご都合主義と決別し、神に向かって「上って」ください。

 

さあ、思い切って教会へ

 
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)
 
 キリスト教の聖者の一人、アウグスティヌスという偉大な神学者、思想家は、その著書「告白録」の中で「人間は神の中に安らうまでは安らぐことはない」という言葉を残しています。
 
 考えてみてください。実際、私たち人間は何をしても満たされない空虚な心を内に持っていはしないかと言うことです。外見では笑顔で素敵な人の心の中も、そうでない人の心の中も実は…そうなのではないでしょうか。ある人は真理を求めて学問を究めようと努力します。ある人は、富や名誉が人の幸福と思い、飽くなき追及をする人もいるでしょう。
 
 いやいや、そんなつまらないことより一回きりの人生楽しまなきゃと酒とギャンブル、性欲の欲望に捕らわれる人もいます。誘惑に溺れる場合は本人のみならず、周囲の家族や友人をも巻きこんで混乱を来し、見過ごしできない問題ともなり得ますでしょう。
 
 聖人といわれたアウグスティヌスも、実は若い時期、肉欲に溺れ、名誉欲に駆り立てられた生活をし、また、他宗教にも心動かされていた時期がありました。ところが、30歳代の時に、それまで追い求めてきたものが空しく、何と移り気で、はかないものであるかということに気づかされたのでした。
 
 そのような時に、神を求める人は幸いです。彼は幸いなことに彼の母モニカの忍耐深い祈りと信仰に助けられて、神だけが満たすことのできる平安な心が与えられ、その後の彼は大いに変えられていったのでした。
 
 聖書の中でイエス・キリストは言います。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と。イエス・キリストは「神のもとに行く道はこれだよ」と教えたのです。
 
 「私の十字架の死によって、誰でも神の豊かさの中に憩うことができるのだよと」と紹介したばかりか、その上、神の御子としてのご自身の命を惜しげもなく投げだしたのです。教会に掲げられている十字架はその意味があるのです。
 
 あなたも思い切って教会に行ってみませんか。あなたの心の隙間にこの世の何をもってしても満たされない平安と豊かさが宿るでしょう。

「畏れる」を知らない時代でよいのか

 
「主を畏れることは命の源 死の罠を避けさせる」(箴言4:27・新共同訳)
 
 朝日新聞(2017.2.3)で鷲田清一氏が書いた「折々のことば」を読み、私は久し振りに新聞の切り抜きをしました。その記事の冒頭には、小説『沈黙』の著者である遠藤周作の言葉が引用されています。それは、次のような一文です。「畏(おそ)れると恐れるとのちがいを若い人は知っていない」。
 
 私か注目したのは、この遠藤周作の言葉を踏まえて、鷲田氏が「若い人というより時代の問題なのだと思う」と書いている点でした。
 
 まわりの人を無視するように自己中心にふるまい、自分を正当化する、その傍若無人ぶりを指摘しているのでしょう。あたかも自分が神であるかのような態度に、「『畏れる』を知らない時代」を見たのだと思います。
 
 確かに、毎日のように報道される殺傷事件の多くは、身勝手で、自分の都合しか考えないことで起きています。「畏れる」を知らないことが原因なのです。世界で繰り返される戦争やテロも同様です。そして、畏れを知らない人たちの行為が、至る所で「恐れ」を生じさせ、私たちの心に、究極の恐れである「死」を予感させています。
 
 私は子どもの頃、学校の帰り道で犬にかまれたことがあります。そのせいか、いまだに心のどこかに犬をこわがるところがありますが、このように、それらは、突然襲われた時に沸き起ってきた恐怖、あるいは、想像を絶するような自然災害に遭遇した時の恐怖心も含め、だれもが経験している「恐れ」を呼び起こし、「死」と直結させ、私たちを支配してしまうのです。
 
 それでは、その「恐れ」から逃れるためには、どうしたらよいのでしょう。
 
 それは「畏れる」ことです。「畏れる」とは、自分を圧倒する存在と出会うことであり、その聖なる存在に接して、自分の罪深さを知り、その前におののくことです。
 
 人が畏れるべきは神です。人が神を畏れ、神を礼拝する時、悪夢から覚めるように、傲慢さから解放されるでしょう。
 
 それだけではありません。その罪が、主イエスの十字架のあがないによってゆるされ、復活の力によって、死に勝つ信仰が与えられ、何の恐れもない生き方ができるようになるのです。
 

「人生の休息」

 
「わかしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイによる福音書11:29)
 
 3月は年度替わりのあわただしい季節です。卒業式や入学、そして新社会人の準備は大変でしょう。それでなくても、忙しい毎日を過ごしておられるのですから、「いつになったら、ゆっくり休めるのだろう」と思うのも当然です。
 
 かつて、湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞した時、あるアナウンサーが、夫人にマイクを向け、「奥様が一番ご苦労された事はなんでしたか」と質問すると、「主人を寝かせることがとても大変でした」との答えが返ってきたとのことでした。帰宅しても机に向かい続け、周囲が白み始めても、朝になったことに気がつかなかった、それほど没頭し、休みなく研究していたのだそうです。
 
 ちょうど戦後の復興期にあたり、このような逸話が利用され、昼夜休みなく働くことが当然のように奨励されていきました。自分のみならず、家庭も顧みず、休みなく働き続けた結果、確かに経済発展は果たしたでしょうが、その代償はそれ以上に大きかったと言わざるを得ません。
 
 過労死なども問題にされながら、他人事のように、これ以上、忙しいことが生きている証拠のように毎日を送るなら、あなた自身にも、ゆとりや心の豊かさを求める気持ちが失せてしまう時がくるでしょう。
 
 もし、自分には休みが必要なのだと思われたならば、何をさしおいても、ぜひ礼拝にご出席ください。そこはあなたの心の休み場所となります。
 
 神の前に出て、すべてから解き放たれる時間、何よりも聖書の言葉によって魂の活力を受ける時、あなたは新しい命に満たされるでしょう。仕事にも意欲やビジョンが芽生えてきます。家事や育児にも、そして人間関係にも心の平安が反映され、良好な関係が築けるはずです。神の力と知恵に満たされて、今まで求めても得られなかった、解決の道が開かれるに違いありません。
 
 「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29)と主イエスは言われました。肩の力を抜いて、神の前に休まれてはいかがでしょうか。
 
 体ではなく、心の休息こそが、今のあなたには、そしてあなたの人生には必要なのです。

「光が描く鮮やかな世界」

 
「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつ」(ヨハネ8:12)
 
 山形県在住で、知人でもあるステンドグラス作家の遠藤昭雄さんが、88歳にして初の個展を昨年末に地元で開催しました。
 
 若い頃より聖書を題材にした絵画やガラス絵など、長年創作活動に没頭してきた遠藤さんが、最終的にたどり着いたのがステンドグラスでした。ヨーロッパ製の色ガラスを仕入れ、図案に基づいて大小様々な形にカットし、200~300個ものパーツを、鉛で丹念につなぎ合わせて一枚の作品を完成させていくのだそうです。
 
 吸い込まれるような深い青を基調とし、絵画のような鮮やかな色づかいで描かれる遠藤さんの聖書物語の世界は、時に荘厳であり、時にユーモラスであり、限りない優しさをたたえています。
 
 ステンドグラスは光があってこそ美しく輝きます。日差しを浴びる角度によって、登場人物は、刻一刻とその表情を変えます。そっと手で触れてみると燃えるような光の熱さが伝わってきます。夜間は、外からの光を当てることで、日中とは異なった趣きを楽しむことができます。灯りのついた室内からステンドグラスの窓を眺めたところで、感動のないモノクロの世界でしかありません。しかしそこに背後から照明を当てるやいなや、作品に命が注ぎこまれ、画中の人物がにわかに躍動し、多様な色彩が輝きを放つフルカラーの世界へと一気に変貌します。
 
 東日本大震災の際、各地で計画停電が行われましたが、電力の供給がわずか数時間ストップするだけでも、どれほど困難なことであるかを痛感させられました。夜間の停電は、普段は当たり前と思っていた灯りの絶えない生活空間を、順番に漆黒に染めていきました。
 
 今日、人も世界も多様性に輝いています。それぞれが独自のカラーを持ちながら、一つに調和して輝くためには外からの光に照らされる必要があります。イェスーキリストという光で互いの存在の中心が貫かれ、燃えるような熱い神の命が注ぎこまれるなら、冷たく感動のないモノトーンの世界は、喜びに満ちた彩り豊かな世界へと変えられていくのです。
 
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもっであろう」(ヨハネ8:12)
 

「神を賛美する」

 
「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます」(詩篇145 : 14)
 
 日本の多くの教会は、日曜の朝十時半頃から、礼拝が始まります。私の教会では、最近、礼拝の始まる十五分ほど前に、ギターを伴奏に「プレイズタイム」という時間を持つようになりました。
 
 プレイズ(Praise)とは、称賛する、ほめたたえるという意味です。誰をほめたたえるのかというと、神です。礼拝が始まる前に、まず神をほめたたえ、賛美する。日常から解き放たれて、ただ神だけを礼拝する、そのための心の準備体操の時といったら良いでしょうか。私にとって、礼拝はもちろんなのですが、このプレイズタイムが、とても心地よい時間となっています。
 
 聖書には、神を信じて生きてきた人たちの言葉が数多く残されていますが、彼らはいつも神を賛美し、神の御名をほめたたえています。
 
 とは言っても、彼らがいつも順風満帆の人生だったかというと、そうでもありません。むしろ苦境に立たされたり、その困難のために打ちひしがれたりすることもしばしばです。けれども、彼らは神を忘れません。困難の中にあっても神を信頼し、神と共に歩もうとしていくのです。そして、神もまた、彼ら一人一人を忘れず、見捨てず、倒れそうになる時には支え、うずくまるような思いになる時には、立ち上がれるような助けを用意してくださるのです。そして、この助けに気づく時、賛美が生まれ、神の御名をほめたたえる歌声が響いてくるのです。
 
 真実に神を信じる者は、自分が弱い存在であることを知っています。だからこそ、神を信頼し、確かに導く神をほめたたえるのです。
 
 新しい年が始まりました。新しい年に皆さんはどんなことを期待していますか。また、何か新しいことを始めてみようと心に決めたことはありますか。
 
 教会は敷居が高いといわれることがあります。でも、どの教会も皆さんがいらっしゃることを心待ちにしています。新しい年が始まったこの時だからこそ、心機一転、お近くの教会に行ってみてはいかがでしょうか。共に神さまを賛美いたしましょう。

「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます」(詩篇145:14)

 

2016年

「神の非常手段」

 
「御子(イエス)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ3:16)
 
 あの3・11の震災以降、どこで大地震が発生しても不思議ではないのだと感じるようになりまし瓷。特に、約三百年に一度、断層がずれて大震災をもたらしてきた南海トラフが、その時期にさしかかっているといいますから、まさに非常事態です。ただ、当然、手をこまねいているだけではありません。様々な場面を想定しての対処、救済方法が考えられ、備えられています。
 
 さて、今年もクリスマスシーズンが到来しました。キリストの誕生を祝う日であることは知られていますが、イエス・キリストがどういうお方で、その誕生がどのような意味を持つかについては、あまりご存じないのではないでしょうか。にぎやかにイルミネーションをともし、ケーキを囲んで楽しもうとする前に、ぜひ、クリスマスが「神の非常手段」であったことを知っていただきたいと思います。
 
 神は人間を特別な愛の対象としてお造りになったのですが、初めの人アダムは神に背き、そこから人間の罪の歴史が始まります。神から離れた人間は、その後も罪の度合いを深めながら、現在に至りました。このままでは、人間は滅びるのみです。
 
 造り主である神は、正しいお方ですから、罪を必ずさばかれるのですが、ご自身の造られた人間がさばかれ、滅ぶことを望まれず、救う道を備えられます。そこで、神が私たち人間を愛し、慈しみ、その罪と死から救うために非常手段をとられたのです。 非常手段とは、どうしても達成したい時に取る行動、奥の手のことをいいますが、神がなされた人間への救いは、まさに意表をつくような方法でした。
 
 それはご自分の独り子であるイエス・キリストを地上に送り、私たち人間の罪を負わせて身代わりの死をとげさせた上で、それを信じる者は、罪がないものとみなす、というものでした。 このことにより、日々の生活の中でも共に寄り添い、守り、助け、導いてくださりながら、この地上の生涯を終えた後は、必ず訪れる死とさばきの時に、信じる者は罪をゆるされた者として、神のもと(天国)に受け入れられる道を開いてくださったのです。
 
 クリスマスは、神があなたを救うため、イエス・キリストを降誕させてくださるという、非常手段を決行してくださった記念日なのです。

「神と共に歩む」

 
「わたしはあなたと共にいて、…あなたを捨てず」(創世記28:15)
 
「その男は不安と絶望の中、とぼとぼと旅を続けていた。頭上にはジリジリと容赦なく輝つける太陽、周りは果てしなく広がる荒野。なにより、孤独であるのがつらかった。
 
 男の名はヤコブ。信仰の父といわれるアブラハムの孫である。彼は、父の跡継ぎを巡って兄と争い、策略を尽くしてきたが、ついに兄の激怒をかってしまい家にいられなくなってしまったのだ。そして、母の実家の地へと逃れることになった。目的地支で七〇〇㎞。そこまでの一人旅を始めたところである。
 
 その日も一日歩き続け、日が暮れようとしていた。彼は一つの大きな石を取って、枕元に置き、そこで野宿をすることにした。悶々としつつも、なんとか眠りにつき夢をみた。
 
 大きなはしごが天と地とをつないでおり、そこを天使たちが上り下りしていた。ふと気づくと祖父と父から聞いていた、主なる神がヤコブのそばからこう語りかけた。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこに行くにもあなたを守る。そして必ずこの地に連れ帰る。わたしは決してあなたを捨てず、このことを行うであろう」。
 
 ビックリして目覚めたヤコブは、しかし、もう孤独感にさいなまれることはなかった。自分には神が共にいてくださる。この旅も神が守ってくださり、そして、またこの地に帰って来ることができるのだ。彼は枕元に置いた石を立てて、そこを神と出会った記念とし、力強く旅を再開した」(創世記28:10~22)。
 
 あなたはこの話をどのように受け取られるでしょうか。
 
 私たちも日々の生活の中で様々な困難に出会います。不安に駆られる時、絶望を感じる時があります。誰かに相談したくても、中々その思いに共感してもらえるような人に出会うことができません。家族や友人に話せない場合もあるでしょう。そんな時、なにより孤独であることが身にしみます。
 
 しかし、神さまは、私たちに、「わたしはいつもあなたと共にいるよ。わたしは決してあなたを捨てることはないよ」と言ってくださるお方なのです。誰よりも力強い味方なのです。
 
 あなたがいつも共にいてくださるこのお方を心にお迎えする時、あなたはもう孤独ではないのです。

「宝物が隠されている」

 
「錬達は希望を生み出す」(ローマ人への手紙5:3~4)
 
 思わず、「なぜ?」、「どうして?」と思ってしまうこと、ありますね。そんなとき、それをどう受け止めたらよいのでしょうか。

 もちろん、算数の問題ではありませんから、1十1=2というように、いつでも同じ答えが出せるというわけにはいきません。
 
 そんなときに、私がしている一つのことは、賛美歌を歌うことです。
 
 私のお気に入りは、「こどもさんびか」の「主イエスとともに」という曲です。この歌の中に「うれしいときも、悲しいときも、歩きましょう、どこまでも」という歌詞があります。うれしいときだけでなく、悲しいときこそ、イエスさまはそばにいてくださり、一緒に歩いてくださっているのですね。
 
 ところが、うれしいときはイエスさまがそば近くにいてくださると思うのですが、悲しいときは、ひとりぽっちで、何だかイエスさまが遠くに行ってしまったように感じてしまうことがあります。でも、この賛美歌を歌っていると、「そうだIイエスさまが一緒に歩いてくださっているのだ」という思いが強くわいてきて、勇気が与えられるのです。「なぜ?」、「どうして?」と思うようなことに直面するときほど、「それでも、イエスさまは私のことを愛してくださっている。一緒にいてくださっている」と信じることが大切だと感じています。
 
 それから、もう一つのことは、「そこに宝物が隠されている」と受け止めると良いと、ある方から教わりました。悲しいことは悲しいし、苦しいことは苦しいです。ですから、悲しいときは泣けばいいし、苦しいときは、「苦しいよ~!」と叫んでよいと思います。でも、「きっと、これは、悲しいだけでは終わらない。苦しいだけでは終らない。そこに、宝物が隠されている。すぐにはわからないかもしれない。見つかるのは、一年後、二年後、いや、ずっと後になってからかもしれない。でも、きっと宝物が隠されている」。そんなふうに思ってみたらどうでしょう。きっと、希望がわいて来ます。だって、聖書はこう約束しているのですから。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」(ローマ5:3~4)と。

「白髪になるまで背負われて」

 
「白髪になるまで、背負って行こう」(イザヤ46:3~4・新共同訳)
 
 「朝には四本足、昼には二本足、夕方には三本足の生き物はな~んだ?」。これは、ギリシャ神話に出てくる有名なスフィンクスのなぞなぞです。答えは…「人間」です。赤ちゃんの時は、はいはい、その後は立って歩き、老人になると杖を突いて歩くようになるからです。人間は、体の機能が衰えても、人生で培われてきた知恵を使って歩くことができます。
 
 しかし、私たちは、杖を使うことができなくなる時が来ることを知っています。年齢を重ねると、ついには自分の力で歩けなくなります。病気や事故のために歩けなくなることもあるでしょう。
 
 聖書は興味深いことを伝えています。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」(イザヤ46:3~4・新共同訳)。
 
 誰もが、生まれた時には、誰かに負われなければなりませんでした。人生の最期もそれと同じように、誰かの助けがなければ生きられません。
 
 人の記憶は、3、4歳の頃からのものです。ですから、私たちは、自力で歩けず、トイレも食事もすべて世話されていたことは覚えていません。私たちは、お世話してくれていた人たちのことを忘れているように、神さまのことも忘れてしまっています。しかし、親が子を忘れることがないように、神は私たちを忘れることがありません。赤ちゃんだった時に負われていたように「あなたが、白髪になるまで、背負って行こう」と最後まで私たちを背負って、共にいてくださるというのです。
 
 神が遣わされたイエス・キリストは、神を忘れ、自分勝手に生きていた私たちの罪をも背負い、私たちの身代わりに十字架についてくださいました。私たちの悩み、病気、心の痛みを理解し、共に担ってくださる方です。
 
 神は、歩けなくなってから背負うだけではなく、白髪になるまでの途中の日々も、つまり全生涯を担ってくださっています。私たちが、誰の力も借りずに自分の力で歩いていると思っている時も、実は、神に負われ、生かされているのです。

「私たちを導く牧者」

 
「主はわたしの牧者」(詩篇23:1)
 
 「永遠のベストセラー」と呼ばれる聖書の中に、古今東西の人々を慰めてきた有名な詩があります。ダビデ王によって書かれたものです。
 
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23:1~4)
 
 聖書では、主(神、キリスト)と私たち人間との関係を、牧者(羊飼い)と羊の関係にたとえています。というのは、羊と人間はどこか似ているところがあるからです。
 
 たとえば、羊は迷いやすい動物です。目の前の仲間について行こうとする習性があるそうです。仲間が右に行けば自分も右に行く、仲間が左に行けば自分
も左に…。そんな調子ですから、容易に道に迷います。また、羊はたいへん弱い動物です。猛獣に襲われたら、なすすべもなく餌食となります。そのため羊には牧者が必要です。正しく導いてくれる牧者、強敵から守ってくれる牧者。そういう存在がどうしても必要なのです。
 
 私たちも近視眼的で遠くの方がなかなか見えません。他の人と同じことをしていれば何となく安心ですが、違うことをしていると不安です。そこで周りを見て、なるべく同じことをしようとします。でも、大勢の人について行けば、果たしてそれで良いのでしょうか?間違いのない道を歩めるのでしょうか?
 
 また、人間は強いようでいて案外弱い一面を持っています。この世には多くの危険や罠があります。地位も財産も家族も持っている人が、一瞬の災害や事故ですべてを失うことだって、あるいは一瞬の誘惑ですべてを損じることもありうるのです。
 
 羊のように弱くて迷いやすい私たちには牧者が必要です。「わたしはよい羊飼である」とイエス・キリストは言いました(ヨハネ10:11)。
 
 この私たちの牧者は、私たちを造り、愛し、いのちを与えてくださるお方です。どんな時でも私たちを見捨てないお方です。このお方に守られ、導かれながら、この世の生涯を歩みませんか。
 

「愛される人生」

 
「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ43:4・新改訳聖書)
 
 ある生命保険会社のCMが、一時期TVで放映されていました。「人生は○○のようだ」という切り口です。人生は…延長戦、オーケストラ、山登り、フルコースなど、人それぞれで違い、とても面白いコマーシャルでした。これは、「あなたは自分の人生をどのように見ていますか?」という問いかけです。
 
 有名なアルピニストは「人生は山登りのようだ」、あるシェフは「フルコースのようだ」、世界的指揮者は「オーケストラのようだ」。他にも、ガンジー、エジソンなど、有名な人々の言葉を紹介していました。
 
 さて、あなたはどのような人生のイメージをお持ちですか?自分が強く意識したものであろうが、無意識であろうが、そのイメージが、あなたの人生を導く可能性が強いのです。
 
 もし「人生はパーティだ」と考えるなら、その人の人生の価値観は楽しむ事です。「人生はレース(競争)だ」と考えるなら、その人の価値は早い事にあり、何でも急いでしてしまうでしょう。マラソンなら、忍耐が重要な価値観となります。戦いなら、勝利する事が最も重要な人生の価値になります。
 
 フロイトという心理学者は、「人生とは愛することと働くこと」と言いました。私はまさにそうだと実感しましたが、ある大学教授か、フロイトの言葉を批判しました。「働く事ができなくなれば、それで人生は終わりなのか。また愛する対象を失うことも人生にはあるのです」
 
 私たちはみんな年を取ると慟けなくなります。若くても、病気になることがあります。他の問題で働くことができなくなる事も起こります。働いているかどうかで、私たちが測られるとしたらそれは厳しいことです。どれだけ役立ち、できるかで、人の価値が計られるのですから。愛する人を突然亡くすこともあります。
 
 聖書は、人の価値をその人の能力や何かをすることに置きません。その人が、その人であるがゆえに尊い。聖書の神は、私たちを大切な存在だと言って、愛してくださるのです。私たちが誰かを愛する前に、私たちは神に愛されているのです。
 
 「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ43:4・新改訳)

「魂の渇きをいやす」

 
「わたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ福音書7:37~38)
 
 地球以外の他の星に生物が存在するかどうかを調べる時に、水がその星にあるか、ないかが問題になります。中でも火星には氷の存在や地表に水が流れた痕跡などから、地球外生物が存在した可能性があると言われています。水はすべての生き物の命を生かすために必要です。
 
 それだけではありません。聖書はさらに深ぐ、人間の「魂」に必要な水について教えています。
 
 「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」(詩篇42)とあります。干ばつが続く中東の山岳地帯にあって、動物の本能に従い、生きるために水を求めて深い谷間をおりて行く鹿を見た人が、その鹿の姿と人間の魂の渇きとをだぶらせて詩をよんだものです。
 
 「わが魂もあなたを慕いあえぐ」の「あなた」とは神です。人間の魂は、自分を創造された方が神であることを知っていて、神だけが渇いた魂を満たすことができるとの本能から、神を慕い求めるのです。
 
 イエス・キリストは、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と叫ばれています(ヨハネ福音書7:37、38)。
 
 人は、内にある強い思いをどうしても届かせたい時に、叫ぶのではないかと思います。
 
 セカチューと称され、映画化もされた「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説がありましたが、イエス・キリストは二千年前に、すべての人類に向かって、魂を満たす生ける水を与えたいために、叫ばれたのです。
 
 ある日、久しぶりに教会の礼拝に来られた方がおられました。どことなく、疲れているような暗い表情で席につかれました。しかし、その方は、礼拝が終わると、見違えるほどの明るい表情で、「礼拝に来て本当によかった」と言われたのです。後で話を聞いてみると、「何か目先の問題が解決したというのではなく、礼拝に来たことで、自分の渇きがいやされたのです」と言われました。
 
 教会の礼拝は、キリストによって、生ける水を飲むことができます。神を慕い求める魂は、真の神への礼拝によって、その渇きがいやされるのです。
 

「支え合う群れ」


「愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう」(Ⅱコリント13: 11)

 ある時、ビデオ映像投稿サイトで、興味深い映像を見ました。
 
 子どもの牛がトラの群れに襲われ、水辺まで逃げましたが捕らえられます。その上、そこに川からワニが襲いかかり、絶体絶命。その瞬間、画面の左から牛の大群がその子どもの牛を助けるために押し寄せて来、トラを蹴散らして仲間の命を敵から救い出すのです。
 
 おとなしい弱いものでも大軍になれば、強いものに立ち向かっていける。この光景はイエ
ス・キリストを中心とするキリスト者の群れである教会と重なり合います。
 
 「最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう」(Ⅱコリント13:11)。
 
 教会に集う一人ひとりは、持っている性格や能力も異なっています。そればかりではなく、生い立ちや人生経験、家庭環境も違います。当たり前のことですが、信仰という唯一の共通点がキリスト者を一つの群れとしてまとめている、それが重要です。
 
 そして、何よりも、信仰を持った時、私たちには神の霊(聖霊)が分け隔てなく、そして等しく心に与えられることがわかります。この聖霊の働きは、どんなに異なる個性を互いに持ち合わせていたとしても一つにさせることができ、またその聖霊は、私たちが弱さともろさを持った土の器のようなものであることを教え、助け合うことの必要性を促すのです。
 
 信仰は一人で守り抜くことはできません。だからこそ、支え合う信仰の仲間が不可欠です。
 
 神は、血のつながった家族と同様に、お互いに支え合い、励まし合い、そして受け入れ合う場として教会を与えられました。その教会では、人の力ではできなくても、聖霊の力と助けによって可能となる世界が造り出されていくのです。それが、イエス・キリストをかしらとする教会の姿です。
 
 もしあなたが教会に足を運ばれたならば、神がここにおられるという思いと、その神を信じる者たちが互いのために祈り合う、うるわしい関係にふれることができるでしょう。
 

「希望のあいさつ」

 
「イエスは死人の中からよみがえられた」(マタイ28:7)
 
 生まれて数十日で天に帰った娘の葬儀で、その父である牧師が司式をなさり、「やがてこの子と、天で『おはよう!』と挨拶を交わす時が来るでしょう」と語られました。愛する者を失う大きな痛みの中でも、神を信じる者にとって、肉体の死は最後ではない、復活への希望があるのだというメッセージでした。
 
 地上での家族や友人との関係、また自分との関係さえいつか終わりを迎えます。どんなに願っても別れなければならないのが現実です。ただあきらめるしかないならば、なぜ生まれ、なぜ生きてきたのか、生きる意味がわからなくなってしまいます。
 
 しかし、すべての意味を失わせる死への恐ればかりでなく、あきらめるだけでは納得できない感覚、もっと現実を超えたその先の世界があるのではないか、そのように考える力が人には与えられています。
 
 このようなことは、いつもいつも考えているわけではないでしょう。それでも、永遠を思い、真実な愛を求め、人生の節目には何かきよらかな存在に触れたいと願う感覚は、誰もが抱くものではないでしょうか。人と人との関係だけではなく、自分の存在に意味を与えている大いなる絶対的な存在との関係が、人には必要なのです。
 
 聖書には、神から人への呼びかけの言葉が記されています。そして、主イエス御自身が、人に命を与える命そのものであると宣言されています。復活された主イエスは、墓の様子を見にきた女性たちに「おはよう」と言われました(マタイ28:9・新共同訳)。これは喜びを促し希望をもたらすあいさつでした。
 
 人は自分に命を与え、生かしておられる神と出会う時、自分の深いところにある渇望が満たされる経験をします。限りない世界をもつ神との関係によって、限りあるものがなくなっても失われない世界をもつのです。私たちの命は限りあるものですが、主イエスによって与えられる命によって、死の恐れは復活への希望へと変えられるのです。
 
 「おはよう!」というあいさつは、新しい一日の始まりを告げます。復活の希望も、生きる意欲を呼び起こします。私たちは日々新しく与えられる神の恵みをうちを、喜びをもって歩むことができるのです。
 
 

「あなたは高価で尊い」

 
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
 
 年頭、人気グループの問題が国会やNHKニュースでも取り上げられ、話題になりました。彼らの代表曲が、教科書にも載っている「世界で一つだけの花」だったからかも知れません。 花だって一つとして同じものはない。それは人間も同じ。だから、「ナンバーワン」にこだわる必要はないじゃないか。あなたはもともと、あなただけしかいない特別な「オンリーワン」なんだよと歌いかける内容は、学校や会社で競い合い、いつも勝つことを強いられてきた日本人の心をとらえました。
 
 私も感動したものの一人ですが、実は、この生き方は、まさに、聖書があなたに語っているメッセージなのです。
 
 たとえあなたが神さまに背を向けて歩いていたとしても、神さまは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」、つまり、「あなたは世界に一つだけの花」だと言ってくださっているのです。
 
 神が私たちを尊い存在だとする二つの理由があります。
 
 まず、神さまが人間を造られたのは、神さまと交わりをもつためだったからです(創世記1:27)。神さまは、何よりも、あなたとも交わりをもちたいと願っておられる、だから尊いのです。次に、人間が「命の息を吹き込まれた」存在だからです(創世記2:7)。神さまは、私たちを特別優れているからとか、道徳的に立派だからと言う理由で愛するのではありません。「生かした」からこそ、分け隔てなく愛し、尊い者としてくださっているのです。
 
 この神さまの愛は、イエス・キリストによって、明らかにされました。キリストは、私たちの滅びと死の原因である罪を消し、救うために、身代わりとして十字架にかかられました。私たちに代わって死んでくださった、これ以上の愛はありません。それは、私たちひとり一人の存在が、神の前に尊い者とされていることの証明でもあるのです。
 
 この神の愛のゆえに、私たちは背伸びすることも、一番になる必要もありません。神が「そのままのあなたが尊い、わたしはあなたを愛している」と語ってくださっているからです。

 「よそ見をしない」

「全き者となりなさい」(創世記17:1)

 わが家では、年頭に「今年の目標」を発表し合っていますが、ある子どものそれは、「よそ見をしない」でした。いつも小学校の先生に言われているのでしょう。
 さて、神さまはある時、99歳の老人に向かって、「全き者となりなさい」(創世記17:1)と言われました。非の打ち所のない、完璧な者になれとの命令のように受け取れます。そう言われたアブラムはどう答えたでしょうか。「もう、ここまで生きたのですから、私のやりたいことをやらせてください」、そう考えてもおかしくありません。
 しかし、果たして、神さまは本当に、私たちにどこまでも清廉潔白で罪も汚れもない完璧な人間になるようにと、ご命令されているのでしょうか。
 人が完璧を目指しても、そうはなり得ません。逆に、ストレスがたまっていき、そのうち、目標に届かない自分の情けなさに嫌気がさしてしまいます。
 多くの人たちは、前記のようにして、聖書を倫理、道徳の教科書のように読んでいます。「敵を愛せよ」との言葉を耳にすれば、その瞬間、「愛せるわけがない」と思ってしまう、そのため、聖書からの本当のメッセージをつかめないのです。
 神さまは、アブラムにこう言われたのです。「あなたはわたしに従って歩み、私の顔を見続けて、よそ見をしないようにしなさい」。「全き」とは、倫理的完璧さではなく、心の方向が神さまにのみ向かっている、その姿勢を示しているのです。
 誰かを好きになった時、「その人しか見えない」と表現することがあります。そうなると、いつもその人のことを考えるようになります。その人がいやだと思うことはしなくなるでしょう。相思相愛であることがわかると、一日は充実し、不思議に自分の生活が変わっていくはずです。
 信仰とは、倫理の実践ではなく、神さまに向くことなのです。
 周りには、あなたに興味を抱かせる様々なものがあり、現に、きょろきょろといろいろな所を向いているかもしれません。しかし、それは不安定きわまりない生き方なのです。
 神さまは、あなたを祝福しようと、今も語られています。「あなたの心を私に向けて、よそ見をしないようにしなさい」。

笑顔は祝福のもと

「心の楽しみは良い薬である。たましいの憂いは骨を枯らす」(箴言17:22)

 あなたは昨年、どのくらい笑ったでしょうか。
 あなたは、ご自分の生活の中に笑いを取り入れていますか。
 笑いを誘うテレビ番組の一つに、「笑点」があります。不思議と笑っているうちに、一日のいやな事が忘れられ、元気をもらったような気持ちになります。
 「笑う門には福来たる」ということわざがありますが、いつも笑いがあふれる家には自然に幸運が訪れ、明るく朗らかであれば幸せがやってくるという意味だそうです。確かに笑いは「笑いに勝る良薬はなし」などと昔から知られています。
 また、3回薬を飲むより1回笑う方が身体に良い。よく笑い、よく寝れば医者はいらないなど、笑いと健康に関する言葉が世界中に存在します。笑いには、痛みの緩和、内分泌に関する影響があるほか免疫系で働くNK細胞の活性化が上昇するなどの効果も認められています。精神面においても、不安や緊張の緩和などの効果があるようです。
 このように考えてみると、笑いは私たちに健康を与えると共に周囲の人々の心を明るくする「希望の光」と言えるのではないでしょうか。
 さて、同じ「希望の光」であっても聖書が示す「希望の光」はイエス・キリストご自身です。このお方はあなたに笑いならぬ「生きる喜び」を与えてくださるのです。現実に多くの人々がイエス・キリストを心に迎え入れることによって、あきらめと絶望の中に、生きる喜びと、新しい人生の道を見い出すことができています。
 リンゴも食べてみないとその味がわからないように、信仰の世界も同じです。昧わってみないとわかりません。
 あなたが聖書の言葉に聞き、守る時、たましいに幸いを得、そして心身共に健康で活気に満ち、何事にも感謝する肯定的な生活を送ることができるのです。
 迎えた新しい年、あなたの人生に神さまの豊かな祝福が注がれますようにお祈りいたします。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5:16)
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2015年

「キリストを心に迎えて」


「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった」(ルカ2:11)

「御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである』」(ルカ2:10~11)

 私は30年程前、ある精神病院の検査科に勤務していました。自分の仕事が終わると患者さん方とおしゃべりをし、一緒に歌うことを日課としていました。

 ある時、病院内のクリスマス会で病棟の出し物について相談を受けたので、「クリスマスにぴったりの劇があるので任せてください」と申し出ました。

 私は、アルコール依存症の30代~70代の20数名の男子病棟の担当となりました。早速、降誕劇の台本を書き各自にお渡ししたところ、「こりゃ外国の劇かい?」「男だけで大丈夫?」「へえー。イエスキリストは馬小屋で生まれたんだ!」など、さまざまな反応があり、いずれにしても、この劇に患者さんたちが興味を持ってくれたことを、神さまに感謝しました。

 マリヤの配役には筋骨隆々の30代の男性、天使は全身入れ墨だらけの60代の男性が名乗りをあげ、その他、ヨセフ、羊飼い、博士、天の軍勢、星、羊、宿屋の主人、ナレーターなどもスムーズに決まりました。約一ヶ月間、病棟では朝から患者さん方の台本の読み合わせや笑い声が聞こえてきました。そして、クリスマス当日、全員が緊張しながらも劇を無事やり遂げ、最後に冒頭の御言葉を一同で言えたことは本当に神さまの恵みでした。

 この劇の内容は歴史上本当にあった事実です。今から約二千年前にユダヤのベツレヘムに神のひとり子、イエス・キリストが人類の罪を救うためにお生まれになりました。イエスさまは私たち人間の罪を背負って十字架にかかり、死なれました。しかし3日目に死人の中からよみがえられ、今も生きて信じる人の中に住んでおられます。イエス・キリストを信じるだけで天国への切符が手に入るのです。

 クリスマスは神のすばらしい愛の現れの出来事です。あなたもどうぞイエス・キリストをご自分の救い主としてお迎えし、本当のクリスマスの意味を知ってください。神に栄光あれ!。
 ハレルヤ!
「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ1:37)

 

「『神の福音』が私たちを支える」

 
「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えてぷ言われた」(マルコ1:14)
 
 皆さんのご記憶にも新しい事と思います。二ヶ月ほど前、鬼怒川の堤防が決壊しました。大量の泥水が、茨城県常総市の町々に被害をもたらしました。私も、下流にある水海道の町々が、一面、湖のような状態になったのを目の当りにして驚きました。その水海道には、私たち夫婦が交わりをもたせていただいている牧師家族が住んでいます。教会堂の被害は床下浸水とのことでしたが、道路が通れるようになり、先生方を訪ねることができたのは、堤防決壊から一週間後でした。
 
 その時、被災した水海道の町中を通りましたが、改めて被害の大きさに心が痛みました。被災された方々が、水に濡れて使用できなくなった家具や畳などを外に積み上げていました。その動作は、一つ運んではしばらくたたずむというものでした。体に力が入らないといった様子です。泥を被って白黒になった町の風景が、被災された方々の落胆した心中を表しているようにも思いました。
 
 そうした中で、私は、次の日曜日の礼拝で開く聖書の御言葉を思い巡らしていました。イエス・キリストが、福音を「神の福音」と語られたことについてです。
 
 福音は、私に復活の命の喜びを与え生活に色彩を与えるものです。このたびの、色が失われてしまうような出来事は、人ごとではありません。私にも、力が本当に出なくなり、落胆する事が起こり得るのです。祈っても起き上がる勇気と力が与えられないまま、失意のうちに亡くなる事もあり得るのです。それは、私には、福音を作ることも、祈りで福音を操作することもできないということでしょう。
 
 イエス・キリストが語られました。福音は、十字架の死と復活によってもたらす「神の」福音ですと。私は、ここに福音の確かさがあると思いました。
 
 「私」ではなく、「神」によるゆえの確かさです。私たちが失意のうちにうなだれても、大きな喜びにあふれても、神は、私たちを神の福音でいつも支えぬいておられる。だから私たちは、なお望みある者として、喜び、悲しみ、励み、落胆することができるのだと。そう私は心を巡らしました。
 
 このたびの豪雨で被災された方々や町々の早期の回復を祈ります。

「バトンをつなぐ」

 
「私の助けは天地を造られた主からくる」(詩篇112:1~2)
 
 柿が色づく季節となりました。秋は芸術の秋、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋などさまざまな「○○の秋」がありますが、秋というと、私はスポーツの秋が最初に浮かんできます。
 
 小学生時代、夏休みが終わると運動会の準備に取りかかったものです。あの当時は裸足で競技をしましたから、校庭の石拾いから始めました。秋風が心地よく、空にはうろこ雲が出ていて何とも言えない清々しさを感じたものです。
 
 運動会当日、早朝に、「パン、パン、パン」という花火の音を合図に気合が入り、朝飯をそこそこに、運動会に参加しました。今のようにテレビゲームのない時代でしたので、身体を動かす事が唯一の楽しみでした。綱引き、棒倒しでは真剣に汗を流し親子競技ではそれぞれの家族が大声を出して応援している姿が懐かしく思い出されます。競技中につまずいたり、転んだりする生徒が出ると、「がんばれ!」と声援がとび、運動会が盛り上がります。しかし、人生の歩みで予期せぬ出来事に遭遇した時には、多くの人は、盛り上がるどころか逆にヘコミます。
 
 私は二十二歳の時、ある国家試験に落ちるという経験をしました。その時は就職も決まっており、大学生の弟の面倒をみながら、働きながらの勉強となりました。十数冊ある教科書を、もう一度最初から勉強をするのは大変骨の折れる作業でした。上司に「今年落ちたら辞めてもらう」と言われ、がんばったつもりがダメでした。その時は、何と報告したら良いかわからず、トイレで祈りました。心に詩篇112篇1、2節「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこからくるのだろうか。私の助けは天地を造られた主からくる」の御言葉が響いてきました。私は祈りつつ上司に報告しました。「もう一度だけチャンスをあげるから」と言われ首が繋がりました。翌年、合格することができました。
 
 聖書の神さまはあなたがどんな状況の時も見捨てず、必要な助けを必ず与えてくださいます。たとえ、つまずき、転んだとしても、大丈夫!神さまは御言葉を通して、起き上がる勇気と力を与え、最善へと導いてくださいます。この神の恵みのバトンをあなたにも手渡したいのです。是非、教会の門を叩いてみてください。

「前向きに」

 
「信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」(Iヘテロ1: 8~9)
 
 私はサッカーが大好きです。Jリーガーの三浦知良さんと同い歳で、その尊敬するカズが引退するまでは私も頑張り続けるつもりです。とは言っても年々体の衰えは進み、近年、通算12回目の骨折を始め怪我との戦いが絶えません。さらに、足を引きづっているところを家内に見られると「もうやめなさ!」の一撃が飛ぶので、痛みに耐えて振る舞う、今日この頃です。
 
 他にもいろいろな事にチャレンジし、何事も前向きに受け止めて歩んでいますが、以前の私はそうではありませんでした。両親も兄弟も友達も、そして自分自身も好きになれず、下ばかり向いて、空しい毎日を過し、「自分は生きていなくてもいいんじゃないか」「自分という存在がなくなってしまえばいいのに」、そう思っていました。
 
 18歳の春、親元を離れて、東京で一人で生活するようになりました。色々な行き詰まりの中、「死にたい」「死にたい」と思うようになっていたそんな時、高校の時のお世話になっていた先生の言葉が頭をよぎりました。
 
 「困った時や苦しい時は、教会へ行ってごらんよ」。その言葉になぜか素直になれて、近くの教会を搜して、集会に集うようになりました。毎週の礼拝の中で、疑問に思っていたこと、わからなかった事の答えが語られてとても驚きました。神さまは生きて働き私に語りかけておられることを感じました。そしてある日、イェスーキリストは、人を憎み、神を神としない自分勝手なこの私の醜い罪のために私に代って十字架にかかってくださったことがわかりました。
 
 イエスさまを心に迎えると、私には大きな変化が起こりました。目に見えるすべてものが輝いて見えるようになったのです。そして、神さまに愛されている自分を大切にし、周りの人々のために祈る者とされました。
 
 今私は、子どもがサッカーボールを夢中で追いかけるように、前向きに喜びを持って歩んでいます。
 
 「あなたがたは、イェスーキリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」(Iペテロ1章8~9節)

ひと休みしませんか

 
「わたしのもとにきなさい。あなたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)
 
 学校の夏休みや企業の休みが集中する8月は、たくさんの方が旅行に出かけます。皆さんの中にも、実家に遊びに行く計画を立てている方、あるいは、海や山に休養を兼ねて旅行を予定している方もいらっしやることと思います。
 
 私の住む所から車で20分程のところに、伊勢湾岸高速道のパーキングエリア(PA)、刈谷ハィウェィオアシスがあります。なんでも、日本のテーマパークの中で、昨年の来場者数が第三位だったそうです。もちろん、第一位は東京ディズニーリゾート、第二位は大阪のユニバーサルースタジオージャパンです。 刈谷PAは、一般道路からも乗り入れがでます。単なる休憩場所ではなくて、温泉施設あり、併設の児童遊園地あり、スーパーありと、魅力あふれる場所になっています。買い物客の多くは近隣の住民で、何回もやって来るそうです。
 
 古くから、多くの先人たちは、「人生とは旅だ」と表現してきました。サッカーの元日本代表選手、中田英寿さんも、引退メッセージのタイトルにその言葉を使いました。
 
 皆さんも、いろいろな意味において、「人生は旅だ」とお思いになりませんか。子どもから大人に成長するまでの日々を思い起こしてください。中年から老人と呼ばれるまではどうだったでしょう。勉強や子育てに悩んだ日々もあれば、失業やリストラの恐怖におびえた時、自分の健康や家族の介護のことで忙しかったりと、ホッとする暇もない、忙しい毎日が続いたり…。本当に、苦労が多く、大変ですよね。
 
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と、イエスさまは私たちに呼びかけます。しかも、あなたと一緒に、あなたの肩の重荷を担ぎ、あなたを決して孤独にさせないと言うのです。呼べば、必ず来てくださる神さまです。
 
 聖書に登場する人物や信仰者の多くも旅人として描かれています。彼らでさえ、苦しみや悲しみに直面すると、失望し途方に暮れます。しかし、イエスさまは彼らと一緒に旅を続けて、支え続けます。皆さんもホッとひと休みしてみませんか。イエスさまを呼んでみませんか。

忙しいですね

「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」(ルカ10:42)
 最近、あなたは忙しいですか。そうですよね。本当に毎日、追いまくられて生活しているような気がします。
 さて、聖書の中にも、忙しさが話題になっている箇所があります。ルカによる福音書第10章38~42節にある、マルタとマリヤという姉妹が登場する記事です。
 
 その日、姉のマルタは、イエスさまと弟子たちの一行を自宅に迎えて、接待に忙しく動き回っていました。一方、妹のマリヤは座って、教えを語り始めたイエスさまの話をじっと聞いていました。それを見たマルタは、たまりかねて、「わたしの手伝いをするように妹におっしやってください」とイエスさまに訴えました。ところが、イエスさまの反応は意外なものでした。一生懸命世話をしていたマルタよりも、じっとしていたマリヤの方をほめたのです。イエスさまの話を聞くことこそが、最も重要であるとの理由からでした。
 
 私たちの人生に当てはめてみましょう。
 学生の頃から部活や受験勉強、そしてアルバイトや就活。社会人になれば様々な責任が課せられ、家庭を持てば自分だけではすまなくなります。その折々に成し遂げたい目標があり、それが忙しさに拍車をかけているわけです。
 
 しかし、この、一見充実しているかのような時期を過ぎた時、あなたには何か残っているでしょうか。また最晩年に当たって、どんな目標を持っていると思われますか。
 
 やがて人は誰でも老いを迎え、最後にはこの世での人生を終えねばならない時が訪れます。その時、自分の人生は忙しいだけで何もなかったのかと肩を落とすことのないように、聖書は「忘れてはならないこと」を教えています。
 
 それは何でしょうか。マリヤのように神さまの言葉をじっと聞くことです。そのことで、私たちは永遠のいのち、すなわち、神とつながって生きるという、人間の究極の目標を知ることができるからです。
 
 もしこの目標をつかんでいるなら、忙しさの中にも、自分を見失うことなく、最後まで、人として豊かな生き方ができるのです。ぜひ、聖書に触れ、また教会の集会にご出席ください。

自分の日を正しく数える

「おのが口を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩篇90:12)
 
 今年二月に運転免許証を更新しました。ただ、その際、私に「高齢者講習」の通知が届いたのです。「お~、私は高齢者だったのかあ(心の中でつぶやく)」。今までほとんど気にもしてなかった自分の齢を急に感じた瞬間でした。
 
 先日も同様なことがありました。バスカードで駅の改札口を出る時、「料金不足」が示されたのですが、精算に手間取っていると、後ろの若い女性がまことに丁寧に教えてくれたのです。
 
 「そんなにもたついてた~?(心の声)…そういえば郵便局でもあったなあ、送金の方法を聞いたら、小学生に説明するかのように、記入欄すべての書き方を教えられたっけ。(あの~、書き方は知ってるつもりだけど、年寄り扱いなの?)」。
 
 しかし、思い返すと、家の中で、一日に何回かモノを捜しています。「老い」を認めざるを得ないのでしょうか。
 
 誰にも「老い」が来ます。自分に残された年月は、今までの年月よりずっと短いのです。「自分には死など来ない」と思っているかのように行動する若い人たちにも「老い」は必ず訪れます。そして死は確実に、そう、100%の確率で誰にもやって来るのです。
 
 ですから、自分に訪れる死と、そして死後、どうなるかを知っている人は幸いだと思います。なぜなら、それに備えた生き方を、今のこの時に、することができるからです。
 
 このことについて、聖書はどう言っているでしょう。
 
 「われらのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、はねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。…われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩篇90:10、12)
 
 あなたが30歳なら過ぎた日は1万1千日、80歳まであと1万8千日です。その人生の日々を生きる知恵を得させていただこうではありませんか。
 
 この知恵とはキリストの救いを示しています。キリストの救いは、あなたに永遠のいのちを与えます。この「永遠のいのち」を得ていれば、死も、そして死後の心配もなくなり、今のこの時を、充実させて生きていくことができるのです。

わたしが道である

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6)
 
 私は愛知県の三河地方に住んでいます。
 ある日の午後、教会の案内を配って歩いていると、ある所で石碑を見つけたのです。
 
 それは、日本地図を作成した伊能忠敬が「この所で宿泊した」という記念碑でした。そこには次のような刻印があったのです。
 
「伊能忠敬
享和3年1803年4月14日
本田定石衛門宅」
 
 学生時代から知っていた人物でしたが、調べてみました。
 伊能忠敬は、50歳の時に隠居し、家督を長男に譲ったのち、江戸に出て、江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などをおさめて、1800年56歳の時に、第一次測量を開始したということでした。全国を歩きまわり、日本地図をつくったのです。
 伊能忠敬は日本中を歩いて、その歩数で測量したのですが、その歩幅は正確でした。前に汚いものがあっても「ふんづけて」歩いたというようなエピソードもあります。歩いた距離は、実に四万キロ、つまり地球を一周したことになるそうです。
 明治時代になっても使われたという正確な地図を作るために彼は歩いたのです。それと同時に実は北極星を観察して自分の位置(緯度)を測量、確認しつつ歩きました。
 
 北海道を車で旅行した時です。真っ暗になり、方向が全くわからない中、カーナビがあったことによって目的地にたどりつけたということがありました。また、そのカーナビも目的地があったからこそ、機能したのです。
 
 私たちは、この地上を歩いて生活しなければなりません。 私たちは「どこから来て、どこに行けばいいのでしょうか」。この質問の答えが出てこないとしたら、この地上の放浪者となってしまうでしょう。
 イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14:6)と約束されました。私たちはこの変わらない約束を見て歩むことができるのです。なんとすばらしいことでしょう。どこに行ったらよいのかを知ることができるようにされているのです。
 
 キリストは、その道を備えてくださり、その道を歩む力「命」を与えてくださるのです。

本当の自由

「自由を得させるためにキリストはわたしたちを解放して下さった」(ガラテヤ人への手紙5:1)
 
 「自由」と「自分勝手」の違いは何でしょう。
 
 スポーツ中継などで、「本当にあの選手は自由にプレーしていますねー」という解説を耳にし
ます。伸び伸びプレーをしているのならいいのですが、もし、ルールを無視して自分のやりたい放題のプレーをしたら、試合は壊れ、本人は退場です。本来あるルールにのっとっているのか、自分で作ったルールで行動しているのかが、「自由」と「自分勝手」の違いなのです。皆さんは、自由に生きていますか?それとも自分勝手に生きていますか?。
 
 人を創造された神は、聖書の中に、人が自由に生き生きと生きるために、人間本来のルールを示しています。それに従って生きていく時、人は自分勝手ではなく、本当の自由を得るのです。
 
 そのルールとは、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本文である」(伝道の書12:13)です。後半を別の訳では、「これが人間にとってすべてである」としています。「神を恐れ、その命令を守れ」とは、天地創造の真の神を神として信じ、認め、造ってくださった神を愛し、従うこと、また、神の命令である「自分を愛するように隣人を愛すること」です。
 
 ではどうしたらこのルールに従って人間本来の歩みができるのでしょうか。
 
 聖書にザアカイという人物が出てきます。権力とお金が彼のルールでした。神を恐れず、隣人を愛することもしない、権力とお金というルールの中で自分勝手に生きてきた彼の心には、本当の自由はなく平安も喜びもなく、隣人との関係も悪いものでした。しかし、本来の人間の姿を失ったそんな彼に主イエスは近づき、神の愛による救いを与えたのです。彼は、自らの過ちに気づき、悔い改め、神を愛し、隣人を愛する者に変えられ、本当の自由を得たのです。
 
 誰でも、イエスーキリストのなしてくださった十字架のみわざと復活の力によって、恐れていた罪や死の力からも解放されます。神が人間に与えられている本来のルールに従って生かされ、初めて本当の自由を得て、伸び伸びと人生を歩めるのです。
 
 「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」(ガラテヤ5:1)。

決して沈まない人生

 
「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(マタイによる福音書14:27)
 
 寒い冬には硬く小さかった蕾(つぼみ)も徐々にふくらみ、春の訪れを待っているかのように咲きはころびます。私は梅花の香りが好きで、春がやって来るのが毎年楽しみです。
 私たちの人生にも、同様に、忍耐を必要とする時があります。突然の病気や、仕事や試験の失敗、人間関係のトラブルなど、まるで寒い冬のように思える出来事が起こることがあります。しかし、私たちがこの天地宇宙を創造し、私たち人間一人ひとりをこよなく愛し造られ、私たちの人生をも導いてくださるイエスさまに目をとめて信じ受け入れるならば、硬く小さかった蕾が春になれば必ず開花するように、冬のように思えた辛く苦しい時期さえも、やがて必ず解決される時が来ると期待する生き方へとあなたは変えられるのです。
 聖書には「水の上を歩いた弟子ペテロ」の話があります(マタイ14:29)。舟で湖を渡ろうとしましたが、沖に行くに従って波風が強まり、舟は思うように前に進みません。このことは、私たちの人生を表しているかのようです。そこに、嵐の中を湖上を歩いて舟の近くまでやって来たイエスさまが登場します。
 イエスさまを幽霊と間違えて震え上がる弟子たちに、イエスさまは「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と語りかけます。この励ましに、ペテロは湖上におられるイエスさまに言うのです。「わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
 この直後、イエスさまの招きに従ったペテロは、なんと水の上を歩いたのです。イエスさまから目を離さずにじっと見つめながら、彼は確かに歩いたのです。
 みなさん、私たちの人生もそうです。イエスさまを見て信じて歩む時、私たちも決して沈みません。イエスさまから目が離れそうになる時にも、イエスさまを、あなたの人生の導き手、救い主として受け入れる時、決して沈まないのです。
 なぜなら、これまで神に背いてきたあなたの罪を、イエスさまが十字架の死によりすべて処分してくださったからです。そのイエスさまが信じるあなたの腕をつかんで決して離さないのです。どうぞ、あなたも救い主イェス・キリストを信じ、決して沈まない人生を歩んでください。

人を生かす言葉

 
「この言に命があった」(ヨハネによる福音書1:4)
 
 以前、ある人がこのような話しをしてくれました。
 二人の女の人が、『もうじき一歳になる息子が大きくならない』と言って病院にやって来ました。確かに標準より小さかったのですが、医者はその子の成長しない原因が全くわかりませんでした。そこで、とりあえず、入院させたところ、何も特別なことはしなかったのに、元気に成長していったので、医者は、その子を退院させました。
 それからしばらく経ってから、またその母親が赤ちゃんを連れてやって来ました。医者はその子を見てびっくりしました。それは、その子が退院した時から成長していなかったからです。医者は成長しない原因を知るために母親といろんな話しをしました。するとあることがわかりました。この母親は過去につらい経験をしたことで、わが子を愛することができず、ほとんど話しかけることをしなかったのです。そのことによって赤ちゃんは力を失い成長することができなくなっていたのです。でも、入院をしていた時は、毎日看護師に優しく声をかけられていたので、赤ちゃんは成長することができたのです」。
 この話のように、言葉には大きな力があるのです。
 聖書には「この言(ことば)に命があった」(ヨハネ1:4)と書かれています。「この言」とは神の言葉のことです。
 神の言葉には人の体と心を生かす大きな力があります。私たち人間はそのような神に似せて造られた者なので、私たち人間の言葉にも大を育て、生かし、成長させる力があるのです。
 ところが、私たちはその言葉を正しく使えず、言葉によって大を攻撃し、あるいはその母親のように語るべき言葉を語らず、人の体と心を壊してしまうことがあります。なぜでしょうか。それは、私たちの心も悲しみや苦しみ、そして、憎しみや妬み、傲慢さなどあらゆる罪によって壊れているからです。
 しかし、神はそんな私たちを憐れんでくださり、言葉によって愛と力を与え、そして、赦し、慰め、いやし、正義、希望を与えて壊れてしまった心を治してくださるのです。
 もし、心に痛みや問題を抱え、苦しんでいる方がいたら、神の言葉が書かれている聖書をぜひ読んでみてください。

あなたも変えられる

「キリストにあるならば、その人は新しく造られた者」 (Ⅱコリント5:17)
 
 暦にはいろいろな節目がありますが、生き方を変えようと思うならば、やはり新年が一番良い時でしょう。昔から「一年の計は元旦にあり」と言われている通りです。
 そこで、今年の計画を立てられた方にお聞きしたいのですが、今年のそれは、昨年と同じような内容になっていないでしょうか。そうなのです。「今年こそ今年こそはと暮れにけり」。誰が詠んだのかわかりませんが、暦が変わり、年が改まっても、自分の心が変わらない限り、自分の生き方を変えることはできません。
 では、自分の心を変えることはできるのでしょうか。自分の性格、生き方を変えて、人生をやり直すことは可能でしょうか。
 聖書には、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)との言葉があります。例外なく、すべての人に与えられた約束として記されています。私もその体験者の一人として、この言葉が真実であると明言させていただきます。
 私は若い頃から自分の無能と意志の弱さに苦しみ、強い劣等感に支配され、過去におかした罪の呵責にうめくような、希望とか喜びなどとは無関係と思えるような生活をしていました。それがキリストと出会って一変したのです。劣等感からも解放され、生きる喜びにあふれ、希望をいだける者に変えられたのです。私が特別な努力や修養をつんだのではありません。キリストにつながった(信じた)だけで、新しく造り変えられたのでした。
 「キリストにある」とは、簡単に言えば「キリストとつながる」ことです。
 柿には渋柿と甘柿があります。不思議なことに、甘柿の種を育てても、その実はすべて渋いそうです。一生懸命に育てても渋柿しかならないのなら、まさに徒労です。これが「『今年こそ』と期待して暮れていく」生き方だと言えます。
 しかし、その木に甘柿を実らせる方法があります。甘柿の木を「接ぎ木」すると、渋柿しかならなかった木は、甘い実をならすことができるのだそうです。
 同様に、どんな人でも、キリストとつながった時、今までとはまったく違った、新しい人生を歩むことができるようになるのです。

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2014年

クリスマスの喜び

「あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカによる福音書2:11)
 
 クリスマスと聞いて、まっさきに思い浮かぶのものは何でしょうか。私は「クリスマスプレゼント」です。最初にもらったのは、祖母が枕元に置いてくれた絵本とおもちゃでしたが、躍り上がるほどうれしかったことを覚えています。
 
 クリスマスプレゼントにまつわる実話を紹介しましょう。
 アメリカに五人の幼い子どもを一人で育てていたお母さんがいました。生活は貧しく、やっと見つけた仕事はドライブインの深夜勤務。彼女は子どもたちのために一生懸命働きましたが、クリスマスプレゼントを買うお金さえたまらないまま、とうとうクリスマスがやってきてしまいました。結局何も用意できず、肩を落として帰宅しようと車のドアを開けると、何と、車内に箱がいくつもあります。子ども服やおもちゃ、たくさんのごちそうも。恐らく小さい子を抱えて夜通し働くお母さんの姿を見ていた人がそっと車に人一れておいたのでしょう。お母さんは、車の中で涙を流しながら神さまに感謝しました。」(『百万人の福音』02年12月号付録リトルブレッドより抜粋)
 
 おそらく、このような心が温かくなるようなお話は数多くあるでしょう。なぜなら、クリスマスは、自分を犠牲にしても、他の人たちが幸せになるようにと願う気持ちがあふれてくる、不思議な日だからなのです。
 
 では、なぜそのような気持ちになるのでしょうか。クリスマスはイェスーキリストの誕生を祝う日ですが、実はこのことと大いに関係があるのです。
 神は、あなたの心の中にある様々な悲しみや苦しみ、つらい思いをご存じで、その原因である罪を負うために、キリストをこの世に送られました。キリストが十字架にかかって犠牲の死をとげてくださったことにより、私たちに幸せの日々がもたらされる道が開かれたのです。
 
 そうです。キリストは、あなたが幸せになるように用意された、神からのプレゼントだったのです。だからクリスマスは温かい気持ちになるのです。
 神の深い愛を知ったなら、あなたも変えられます。ぜひ教会においでになりませんか。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)

見にきてごらんなさい

 
「さあ、見にきてごらんなさい」(ヨハネ福音書4:29)
 
 「見にきてごらんなさい」。これは罪ゆるされたひとりの女性の心からの呼びかけです。実にシンプルですが、これを聞いた大ぜいの人たちが、イエスのところにやって来て、イエスを信じるようになったのです。これは現代人にとっても、とても重要な呼びかけです。
 
 サマリヤという町にひとりの女性が住んでいました。彼女は道徳的に非常に乱れた生活を送っていました。周りの人からは「ふしだらな女」というレッテルを貼られていたのです。いつもうしろめたい生き方をしていたので、人が集まる涼しい夕方ではなく、わざわざ暑い日中の時間帯を選んで、水を汲みに来ていました。
 
 ある日のこと、いつものように水がめを持って井戸に来ると、そこに旅の疲れを覚えて、腰をおろしている人がいるのに気づきました。まさか、この旅人が救い主であるとは夢にも思いませんでした。おそらく初めのうちは、彼女の目にはただのユダヤ人としか映らなかったに違いありません。しかし、会話を交わしていくうちに、この人の中にただならぬものを感じ取っていったのです。
 
 そのやりとりを通して彼女は、イエスが自分のすべてを言いあてたことに驚かされました。また、「わたしはキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています」と言うと、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」と断言したイエスの言葉に大きな衝撃を受けたのです。
 
 彼女は水を汲むのも忘れ、自分の町に急いで帰って行きました。到着するなり、人々に向かって「見にきてごらんなさい」と語ったのです。人目を避ける彼女が「見にきてごらんなさい」と大胆に人々に呼びかけているのです。実に驚くべき魂の変革です。イエスを救い主と信じて、罪がゆるされ、魂に真の満足を与えられた人は、そう叫ばずにはいられないのです。
 
 初めて教会に行くことは、とても勇気のいることです。誰かといっしょならまだしも、ひとりでとなると、誰もがためらいを覚えるものです。キリスト教はいい宗教だと思っていても、なかなか思い切って教会に行けない人にも「見にきてごらんなさい」とやさしく呼びかけられているのです。

見にきてごらんなさい

「さあ、見にきてごらんなさい」(ヨハネ福音書4:29)
 
 「見にきてごらんなさい」。これは罪ゆるされたひとりの女性の心からの呼びかけです。実にシンプルですが、これを聞いた大ぜいの人たちが、イエスのところにやって来て、イエスを信じるようになったのです。これは現代人にとっても、とても重要な呼びかけです。
 サマリヤという町にひとりの女性が住んでいました。彼女は道徳的に非常に乱れた生活を送っていました。周りの人からは「ふしだらな女」というレッテルを貼られていたのです。いつもうしろめたい生き方をしていたので、人が集まる涼しい夕方ではなく、わざわざ暑い日中の時間帯を選んで、水を汲みに来ていました。
 ある日のこと、いつものように水がめを持って井戸に来ると、そこに旅の疲れを覚えて、腰をおろしている人がいるのに気づきました。まさか、この旅人が救い主であるとは夢にも思いませんでした。おそらく初めのうちは、彼女の目にはただのユダヤ人としか映らなかったに違いありません。しかし、会話を交わしていくうちに、この人の中にただならぬものを感じ取っていったのです。
 そのやりとりを通して彼女は、イエスが自分のすべてを言いあてたことに驚かされました。また、「わたしはキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています」と言うと、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」と断言したイエスの言葉に大きな衝撃を受けたのです。
 彼女は水を汲むのも忘れ、自分の町に急いで帰って行きました。到着するなり、人々に向かって「見にきてごらんなさい」と語ったのです。人目を避ける彼女が「見にきてごらんなさい」と大胆に人々に呼びかけているのです。実に驚くべき魂の変革です。イエスを救い主と信じて、罪がゆるされ、魂に真の満足を与えられた人は、そう叫ばずにはいられないのです。
 初めて教会に行くことは、とても勇気のいることです。誰かといっしょならまだしも、ひとりでとなると、誰もがためらいを覚えるものです。キリスト教はいい宗教だと思っていても、なかなか思い切って教会に行けない人にも「見にきてごらんなさい」とやさしく呼びかけられているのです。

優しい人になりたい

「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ福音書19:26)
 
 「あなたはどんな人になりたいですか?」。
 そう聞かれたら、あなたは何と答えるでしょうか。まさか「意地悪な人になりたい」などと言う人はいないと思います。
 「優しい人になりたい」。先日、幼稚園に行った時、4歳の女の子がそう言いました。生まれてまだ4年しかたっていない幼子が「優しい人になりたい」とは…。小さな子どもさえ、自分の心の状態を知っているのです。
 実は、その言葉を聞いて、以前、5歳の女の子が、3歳の弟に、「『おもちゃを貸したくない』つて思ってしまう自分の心が嫌なの」と泣き出したことを思い出しました。その女の子は、弟に優しく、いつも弟を優先にしていました。でも、自分の本当の心は、いつも「嫌だ」と思っていたというのです。大人だけではなく、幼い子どもも「心」がわかるのです。
 「今日こそ、心から優しく接してあげよう」。そう決意しても、気づかないうちに、悪い思いが頭をもたげ、それだけではすまず、実際に人を傷つけるようなことを言ってしまう。子どもの頃から、それがわかっていたとしたら、私たちは今までどれだけこのような「自己嫌悪」を味わってきたのでしょうか。
 そんな私たちに、神は、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ19:26)と語って、望みを与えておられます。
 人間が、自分の努力で心を造りかえることは不可能です。しかし、神は私たちをお造りくださった方です。つまり、私たちがどのように造られていて、今がどのような状態であるのかも、すべてご存知なのですから、あたかも、不具合が生じた製品を修理し、元通りにするように、私たちを造りかえることがおできになるのです。
 それでは、造りかえていただくためにはどうすればよいのでしょうか。私たちを造られたのが神であり、その神が、私たちを造りかえることができると信じるなら、神は私たちの祈り、願いを聞いてくださいます。たとえ、「あの人は、絶対変わることがない」という人でも、神を信じることによって変えられるのです。
 「あなたはどんな人になりたいですか?」。神はあなたを造りかえることができるお方です。

私たちは何につながる

「わたしがその人とつながっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ福音書15:5)
 
 先日、知人から「ラインとかしているの?」と聞かれた。今、様々なコミュニケーション手段があるようだ。特に現代の若者たちは、主にそれらを使って、お互いに情報交換をし、人間関係を構築している。
 しかし、つながりを求めるあまり、多くの人と「友達」になってしまうと大変だ。昼夜を問わず着信がくるようになり、返信しなければ「無視された」「嫌われた」と受け取られるため、絶えず返信しなければならなくなる。お互いのコミュニケーションがうまくいっている時はいいが、返事をすぐにくれなかったなど、関係が崩れ始めると、他の仲間を巻き込んで、相手を中傷するようなことになりかねず、いじめなどを誘発するため、社会問題にもなっているのは周知の通りである。
 このように、私たちは人間関係をよくしようと思いながら、その人間関係で悩むことが多くある。人とのつながりは大切ではあるものの、良好だった状況が一変するもろさをはらんでいる。
 では、私たちは何につながれば真の安心を得るのだろうか。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人かわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ福音書一五5)と聖書に記されている。
 ここで「ぶどうの木」とは主イエスのこと、「枝」とは私たちのことで、私たちが主イエスにつながることで、その人は豊かに実を結ぶようになると言っている。
 私たちは、だれかとつなかっていなければ安心できない。だから、安易に「つながる」ことだけを求めるのだが、しかし、結局その「つながり」に悩んでいる。
 聖書の言葉に注目してほしい。主イエスと「つながる」ならば、苦しみではなく、豊かに実を結ぶようになると約束してくださっているではないか。
 もしあなたがこの「つながり」に生きるなら、主イエスの愛が枝である私たちに注がれ続け、その愛によって私たちの心に喜びや平安が与えられていくのである。それこそが、あなたを生かす、最も大切な「つながり」なのである。

「いのちの水のあるところ」 

 
「かわいている者はここに来るがよい」(ヨハネの黙示録22:17)
 
 最近コンビニエンスストアに行き、ドリンクを買おうとするとよく目につくのは特定保健用食品。といわれるもの。いわゆるトクホの炭酸飲料やお茶、コーヒーなどです。日本人が好む健康志向に合わせた飲み物で、これらを飲めば高血圧予防になり、脂肪吸収を抑えることができる。また脂肪燃焼を効率よく行うなど、メタボリックな私もそのうたい文句に誘われて、よく買ってしまいます。
それと共に、目立つのが"エナジードリンク"です。ひと昔前は茶色い小瓶に白地のラベルが貼ってあるおなじみのドリンク剤だけでしたが、最近は、今風のデザインが施され、それを飲めばパワーがみなぎり、エネルギッシユに仕事に取り姐めそうなものが数種類あり、トクホと共に、ドリンクコーナーの一角を占めるようになりました。
 今年に入り、日本の経済も少しずつ上向きになってきたと言われますが、そのような実感もあまりなく、相変わらず自分の人生の目標達成のために、家族の幸せのために老若男女間わず、私たちは一生懸命に働いています。そのような世の中に、トクホ飲料やエナジードリンクは一役買っているのでしょう。しかし、当たり前ですが、それらのものは、一時な効果しかありませんし、自分の人生がそれらによって成り立っているわけでもありません。それでも、それらの飲み物を欲してしまうのには、一時だけでも、健康に健全に、そしてエネルギッシュに生きたいと願い「渇いている」からなのではないでしょうか。
「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ四14)
「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙示録二二17)
 共に聖書の言葉です。
 イエス・キリストは、この現代社会に生きる私たちの”渇き”を十字架の贖いといういのちの水で満たしてくださいます。そして、その渇きがいやされた私たちは、本当の意味での平安と活力に満ちた生活を送ることができるのです。そのいのちの水は聖書の中に、そして教会にあります。ぜひ足を運んでみてください。

岩を土台とした人生

 
「倒れることはない。岩を土台としているからである」(マタイ7:25)
 
「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである」(イエス・キリストの言葉)
 東日本大震災と原発事故から、三年以上がたちます。避難者数は二六万三千人(復興庁発表、2014年4月25日)ということです。ふるさとに帰りたいと思いながらも、耐えている方々が、こんなにいるかと思うと胸が痛みます。一日も早い帰還を祈ります。
 さて、人災は別にして、自然の災害は避けることができないのが現実です。また、人生においても、失敗や挫折まない方が良いのですが、必ずあると考えた方が現実的です。それでは、どう対処したらよいのでしょうか。それは「備える」ことです。
 先日「災害緊急対策セミナー」に出ました。そこで教えられたことの一つは「三日間の食料と飲料を準備しなさい」でしたが、人生での「備え」は何でしょうか?それは「ゆるがない土台」です。しっかりと人生を立ち上げることができる土台です。
 聖書は「(人生の)土台はキリストである」と言っています。しかも、「キリストはきのうもきょうも、いつまでも変ることがない」、「天地は滅びるであろう。しかしわたし(キリスト)の言葉は滅びることがない」と聖書にあるように、「岩」でもあるイエス・キリストを信じて、その言葉に従うならば、人生はゆるがず、どんなことがあってもそれを乗り越えられるのです。
 ある方の体験です。18歳で疲れた彼は、生きていても楽しくなく、人生がつまらないものに思われました。そんな時、このイエスと出会い、信じました。すると、本当の心の「土台」を得たことで、何とも言えない安心感と安定感のようなものを得、さらに、心から喜びがあふれてきたのです。それは泉がわき出てくるようなものでした。それからの人生は、積極的になり、喜びに変わっていったそうです。
 このようにイエスを人生の土台としたならば、喜びにあふれた豊かな人生になります。あなたも、イエス・キリストを人生の土台とするならば、もっとすばらしい人生を送れるのです。

不安を解消するために

 
「キリストはわたしたちの平和」(エペソ2:14~16)
 
 人には決して解決することができないものがあります。それは「不安」です。
 多くの人たちは心の安心を得ようとして自分の地位を高めようとしたり、様々なものを所有しようとします。しかし、たとえ、すべてのものを得、目標を達成できたとしても、不安は解消できず、平安な気持ちは訪れません。なぜでしょうか。それは、「平安」が神さまから与えられるものだからなのです。
 ほんのひとときなら、平安を味わうことができるかも知れません。しかし、それは状況が変わってまた暗転したり、別の不安が襲ってきて、かき消されてしまうのではないでしょうか。もし、神さまに背を向けて続けているなら、私たちはいつまでも不安から抜け出せず、さ迷い続けていくしかありません。
 神さまが与える平安は、どんな人生の嵐に見舞われようとも、失われることのない真の平安です。神さまだけが、与えることがおできになるものです。 真の平安を得るためには何をしたらよいのでしょう。
 神さまとの平和を取り戻すことです。
 私たちは、神さまに背を向け、また必要とせず、無視したような生き方をしてきました。それこそが、神さまとの断絶をもたらす、人間最大の罪です。しかし、その罪は人間の努力では消えません。その罪をきよめる方法はただ一つ、聖書にこのように記されています。
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまっ
たのである」(エペソニ14~16)
 キリストが、私たちの持っていた罪を十字架によって滅ぼしてくださったので、それにより、神との平和がもたらされると書かれてあります。このキリストの十字架のわざを信じることによって、神さまと和解でき、私たちの心に揺るぎない真の平安がもたらされるのです。
 平安を得るために、神さまとの平和を求めてください。

飢えを知る

「人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)
 
 学生時代、私は、牧師夫妻宅で夕食をいただいていました。ある日の夕方、改札を抜けようとすると非常によい匂いがしてきました。「大判焼き」のお店からでした。いつも以上に空腹であった私は、たまらず5つほど買い、道々、「どうせ今日も同じような夕食だろう」と考えながら、着いた時には、すべてを平らげていました。ところが、ドアを開けると、こう言われたのです。「今日はすきやきよ!」。
 明らかに、私の喜ぶ顔を期待しての告知でしたが、私のお腹は、もう、何か出てもおいしく食べられる状態ではありませんでした。が、私は顔を引きつらせながら喜びを表現し、苦しみながらおかわりをせざるを得なかったのです。人生最悪の食事でした。
 今、この国に住む私たちは、飢えることを知りません。同時に、絶えず満たされている生活は、私たちに本来もつべき、生きる喜びを損なわせています。
 神は、神の民たちを四十年も、何もない荒野をさまよわせました。なぜでしょう。聖書には、民たちが物の豊かさで満足し、それを幸せだと誤解していることに気づかせるためだったと記されてあります(申命記8:1~5)。
 やり手のビジネスマンが末期がんを宣告されました。その時、その方は初めて死を実感し、同時に、自分は今までどんな生き方をしてきたかを振り返ったのだそうです。仕事や家庭に生きがいを感じていたようにも思いました。しかし、あらためて、「自分の生き方」を問い直してみると、「何もなかった」ことに気づき、情けなくなったそうです。
 そうなのです。人間は、荒野のような状態、つまり、それまで、依存していたものが取り去られた時、何のために生き、またどう生きればいいか、わからなくなってしまうのです。
 先の方は、絶望の中、以前もらった聖書を開き、初めて神と向き合いました。この方が「飢え」を知った時、神の言葉が心に響き、神を認めないことこそが、最大の罪であることをわからされたのです。その後、信仰を告白した彼の心には、今まで味わったことのないような、平安が訪れました。
 「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)。ぜひ、「飢え」の中で真の生き方を見いだしてください。

のがれる道

 
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(コリント人への第一の手紙10:13)
 
 私たちには、思いも及ばない色々なものが降りかかって来る場合があります。突然交通事故にあったり、思いがけない大きな負債を負わされたり、入試がうまく行かなかったり、仕事がなくなったりなどです。それこそ、途方に暮れるようなことがあります。
 しかし、ある方がこう言われました。「神の許しがなければ、私たちのところに、何一つ来ないのだから、必ず、解決の道、のがれる道があるはずだ」。その通りだと思います。
 途方に暮れるようなことが起こったりすると、誠に残念なことですが、自殺してしまう人もおります。しかし、その時こそ、神さまを見上げましょう。
 エジプトの奴隷になっていたイスラエルの民は、モーセに率いられて、脱出に成功します。ところが、歩を進めていくと、その先には海がありました。渡ることができないばかりか、後方からは心変わりしたエジプトの軍隊が、おい迫ってきました。絶体絶命です。すると、神さまは「あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい」(出エジプト一四16)と言われ、モーセがその言葉のようにすると、なんと目の前の海が二つに分かれたではありませんか。これこそが、神の用意された「のがれの道」です。
 聖書には、主イエスが「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」(ヨハネによる福音書一六の二三)と言われた言葉が紹介されています。
 もし、あなたが四方八方ふさがれて、万事休すと思った時でも、あきらめないでください。イエス・キリストの名を信じてとなえ、真剣に祈るならば、神は、あなたが考えつかなかったような方法をもって、あなたに「のがれの道」を明らかにし、救いを実現してくださるでしょう。
 あなたに良き道が聞かれるよう、祝福を祈ります。

あなたも変えられる

「キリストにあるならば、その人は新しく造られた者」 (Ⅱコリント5:17)
 
 暦にはいろいろな節目がありますが、生き方を変えようと思うならば、やはり新年が一番良い時でしょう。昔から「一年の計は元旦にあり」と言われている通りです。
 そこで、今年の計画を立てられた方にお聞きしたいのですが、今年のそれは、昨年と同じような内容になっていないでしょうか。そうなのです。「今年こそ今年こそはと暮れにけり」。誰が詠んだのかわかりませんが、暦が変わり、年が改まっても、自分の心が変わらない限り、自分の生き方を変えることはできません。
 では、自分の心を変えることはできるのでしょうか。自分の性格、生き方を変えて、人生をやり直すことは可能でしょうか。
 聖書には、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)との言葉があります。例外なく、すべての人に与えられた約束として記されています。私もその体験者の一人として、この言葉が真実であると明言させていただきます。
 私は若い頃から自分の無能と意志の弱さに苦しみ、強い劣等感に支配され、過去におかした罪の呵責にうめくような、希望とか喜びなどとは無関係と思えるような生活をしていました。それがキリストと出会って一変したのです。劣等感からも解放され、生きる喜びにあふれ、希望をいだける者に変えられたのです。私が特別な努力や修養をつんだのではありません。キリストにつながった(信じた)だけで、新しく造り変えられたのでした。
 「キリストにある」とは、簡単に言えば「キリストとつながる」ことです。
 柿には渋柿と甘柿があります。不思議なことに、甘柿の種を育てても、その実はすべて渋いそうです。一生懸命に育てても渋柿しかならないのなら、まさに徒労です。これが「『今年こそ』と期待して暮れていく」生き方だと言えます。
 しかし、その木に甘柿を実らせる方法があります。甘柿の木を「接ぎ木」すると、渋柿しかならなかった木は、甘い実をならすことができるのだそうです。
 同様に、どんな人でも、キリストとつながった時、今までとはまったく違った、新しい人生を歩むことができるようになるのです。

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2013年

クリスマスの喜び

 
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカによる福音書2:11)
 
 クリスマスと聞いて、まっさきに思い浮かぶのものは何でしょうか。私は「クリスマスプレゼント」です。最初にもらったのは、祖母が枕元に置いてくれた絵本とおもちゃでしたが、躍り上がるほどうれしかったことを覚えています。
 クリスマスプレゼントにまつわる実話を紹介しましょう。
 アメリカに五人の幼い子どもを一人で育てていたお母さんがいました。生活は貧しく、やっと見つけた仕事はドライブインの深夜勤務。彼女は子どもたちのために一生懸命働きましたが、クリスマスプレゼントを買うお金さえたまらないまま、とうとうクリスマスがやってきてしまいました。結局何も用意できず、肩を落として帰宅しようと車のドアを開けると、何と、車内に箱がいくつもあります。子ども服やおもちゃ、たくさんのごちそうも。おそらく小さい子を抱えて夜通し働くお母さんの姿を見ていた人がそっと車に入れておいたのでしょう。お母さんは、車の中で涙を流しながら神さまに感謝しました。」(『百万人の福音』○二年一二月号付録リトルブレッドより抜粋)
 このような心が温かくなるようなお話は数多くあるでしょう。なぜなら、クリスマスは、自分を犠牲にしても、他の人たちが幸せになるようにと願う気持ちがあふれてくる、不思議な日だからなのです。
 では、なぜそのような気持ちになるのでしょうか。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日ですが、実はこのことと大いに関係があるのです。
 神は、あなたの心の中にある様々な悲しみや苦しみ、つらい思いをご存じで、その原因である罪を負うために、キリストをこの世に送られました。キリストが十字架にかかって犠牲の死をとげてくださったことにより、私たちに幸せの日々がもたらされる道が開かれたのです。
 そうです。キリストは、あなたが幸せになるように用意された、神からのプレゼントだったのです。だからクリスマスは温かい気持ちになるのです。
 神の深い愛を知ったなら、あなたも変えられます。ぜひ教会においでになりませんか。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)

すぐ近くにある助け

 
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)。
 
 結婚式っていいなァ。
 花婿、花嫁が今までの人生の中で最高に輝いていて、幸せそのものです。その幸せが、お祝に集まった人たちにも伝染してみんなが幸せ気分に満ちます。
 結婚式はけっして一瞬のできごとではなく、その後の二人の人生の幸せな時間の始まりでしょう。神の前に誓約した二人は、その幸せを人生の幸せへと育てていくことでしょう。そういう歩みの中で、だれも予想しないことが起って、悩まされたり苦しめられることだってあります。それが人生ではないでしょうか。
 さて、婚宴の最中に、その家の人たちを困惑させる事態になってしまった話が聖書に記されています。
 イエスの育ったナザレという町から北へ十四㎞にある小さな町、カナでのことです。結婚の祝宴は親類、友人知人が招かれ、一週間以上にも及ぶといわれます。イエスとその弟子たちも招待されました。その婚宴の最中に、用意していたぶどう酒が足りなくなってしまいました。婚宴でぶどう酒が切れてしまうことは、非常に不名誉なことでした。
 その時、この席に居合わせ、宴の手伝いをしていたに違いないイエスの母マリヤが、「何とかしてほしい、助けてほしい」とイエスに懇願します。イエスは、その家に置いてあった四、五斗も入る石の水がめに水を満たすよう料理人に指示します。彼らはその言葉に従い水を満たし、それを汲んで料理がしらのところへ持って行くと、驚いたことにその水がぶどう酒に変わっていたのです。単に変わっていたというだけでなく、料理がしらは花婿に驚嘆の言葉を口にします、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」(ヨハネ2:10)と。
 窮地から救われたのは、そこにイエスがおられたからです。
 悩まされ、苦しめられることがあっても、このお方を私たちの生活の中にお迎えし、このお方が生活の中におられるなら、これほど心強いことはないでしょう。そのような歩みをした人が言いました、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。あなたにとってもそういうお方です。

良い実を結ぶには?

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)
 
 実りの秋がやってまいりました。米を始め、ぶどう、柿、梨、栗、そしてみかんなどが収穫の時を迎えつつあります。最近では、米においても、また、色々な果実においても品種改良が進んできています。ぶどう一つをとってもたくさんの種類の、また、色々と味の違うおいしいものができてきています。
 さて、聖書の中で、イエス・キリストは「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)と言われました。
 渋柿の木はどんなに肥料をやり、日あたりを良くし、良く水をやって、多くの柿の実がなったとしても、渋柿には変わりがありません。それは渋柿の木だからです。甘柿の木にしか甘柿はならないのです。
人間も、性質が根本的に良くならなければ、良いものは出てこないのです。愛の心から愛の行動が出てき、きよい心からきよい行動が出てくるのです。
 それではどうしたら、憎しみと欲に満ちた自己中心的な心が、きよい、愛の心に変わるのでしょうか。
 難行苦行をしてもあまり変わりません。しかし、聖書にはその方法が記されています。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)です。
 ここに「キリストにある」とありますが、これは「キリストを信じる」という意味です。キリストを信じることによって、古い罪や醜い悪い性質が造り変えられて、きよい、愛の心になるというのです。それは悪がキリストの十字架によって解決したからです。
 万引きをどうしてもやめられない方がおりました。やめようと決心してもどうしてもやめられなかったのです。しかし、キリストを信じて本当に変えられた時に、それをやめることができたのです。それはその人の心がキリストを信じることによって新しく造りかえられたからです。きよい、愛の心が与えられたからです。それによって、きよい、愛の行動を行うものとされ、良き実を結ぶ者とされたのです。
 ぜひ、あなたも、イエス・キリストを信じて、良い実を結ぶものとなってください。

神の消しゴム

「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である」(イザヤ43:25)。
 
 三島由紀夫やトルストイは自分が生まれた時の光景を克明に覚えていると述べています。幼稚園の年少組に聞くと胎児の時や産道を出てくる時の感覚を話す子どもがいますが、小学生になるとほとんど忘れてしまうと言います。それはそのような記憶を消してしまう脳の機能があるようです。前に進んで生きていくために、神がその記憶を消されるのではないかと思います。
 百歳の詩人といわれた柴田トヨさんの詩集「くじけないで」に“ことば”という詩があります。
「何気なく/言ったことばが/人をどれほど/傷つけていたか/後になって/気がつくことがある/そんな時/私はいそいで/その人の/心のなかを尋ね/ごめんなさい/と言いながら/消しゴムと/エンピツで/ことばを修正してゆく」
 あの時、ああすれば良かった、こうすれば良かった、選択を間違えた、失敗だった…など、後悔するような過去の記憶。人からあんな辛い思いをさせられた、状況から苦しい思いをさせられたなど…、悔しい思いが残る過去の記憶。それは消したくてもなかなか消すことのできないものです。
 意を決して、その過去の記憶を解釈し直して、人のせいにも、自分のせいにもせず、私の人生、これでしかなかったし、これで良かったと、人生ノートを消しゴムとエンピツで修正することは可能でしょう。
 しかし、どうしても消すことのできない記憶があります。それは何かいけないことを言ってしまった、やってしまった、思ってしまったという良心の呵責、罪責感のともなう罪跡です。
 それはきっと神が消さないからでしょう。それでは人は救われないので、イエスが遣されて、十字架において私たちに代わって、罪の責め、神のさばきをすべて受けてくださり、あがないをなしとげてくださいました。そのことを信じて、悔い改めるなら、その罪跡は消しゴムで消すように神が消してくださるのです。
 神ご自身が「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」(イザヤ43:25)。それが神の国に入れる「記録」となるのです。

世に勝つ者はだれ?

「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(Iヨハネ5:5)
 
 今年も、暑い夏がやって来ました。
 涼を求めて、海に、山に、川にと繰り出す人がいる一方で、「こんなに暑いのに出かけるなんて」と、もっぱらクーラーの効いた部屋に立てこもったり、街中の冷房のよく効いた施設で楽しむ人もいたりと、様々です。
 そうした中で、毎年恒例の「夏の甲子園」には、ただただ脱帽です。「熱闘、甲子園」とはよく言ったもので、灼熱の日差しを浴びながらグランドでプレーする選手や審判たちはもちろん、アルプススタンドで応援する観客、テレビの前で観戦する者まで巻き込み、優勝を目指して「勝つか、負けるか」の熱い戦いが繰り広げられます。
 考えてみれば私たちは、「生まれた時から『勝つか負けるか』の競争社会」の中に置かれています。「体重や身長」「髪の毛の多さ」「色の白さ」等の比較に始まって、本人の知らぬところでも、いつから歩き出し、話し出したなどと話題にされながら成育して行きます。
 長じると、本人白身にも、「勉強ができる、できない」「スポーツが得意、苦手」「モテる、モテない」などの競争心が芽生え、やがては、「どこの学校に入った」「どこの会社に入った」「どんな職業を得た」、などと競争が激烈になっていき、やがては、「勝ち組」「負け組」などとレッテルを貼られてしまいます。
 この世の評価は、どんな肩書きを得たのか、どれだけの財産を築いたのか、どんな家を建てたのかなど、もっぱら目に見える事に焦点を当てます。
 ただ、「人生」はいつまでも続きません。必ず、すべての人に死がおとずれます。人生の長さや死に様は異なったとしても、死は平等にすべての人におとずれ、死の彼方には、何一つ持っては行けないのです。
 しかし、その限りある人間に、永遠に続くものとして与えられるのが、イエスーキリストを信じることによってもたらされる「永遠の命」です。
 聖書ははっきりと、「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネの第一の手紙5:5)と断言しています。
 限りある人生において「永遠の命」を獲得する、これこそが最大の勝利ではないでしょうか。どうかあなたも、獲得なさってください。

潤った園のように

「あなたは潤った園のように水の絶えない泉のようになる」(イザヤ58:11)
 
 梅雨が明け、毎日暑い日が続きます。最近では熱中症が心配され、給水に心がけるようにと盛んに言われています。しかし、それと同様、人の心が渇いては大変なことになってしまいます。
 聖書に、「あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる」(イザヤ58:11)とあり、イエスさまが、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」(ヨハネ7:38)と言われているように、イエスさまを信じる人の心の奥底からは、生ける水の川が流れ出るように、いつも、命に輝く人になることができると書かれています。
 あなたの心は渇いていないでしょうか。
 心が潤うためには、まず、自分が飢え渇いている状態であることを認め、満たされることを求めなければなりません。
 あなたが心の渇きをいやされたいと求め、命の水があふれ続けることを慕い求めておられるならば、幸いです。その渇いている心を持つ人が幸いな人なのです。イエスさまが、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになる」(マタイ5:6)と言われたのは、そのことを指しています。
 それではどのように求めたら、満たされるのでしょうか。 私たちが水を飲む時、蛇口をひねります。水道には水があふれていると信じているからです。
 イエスさまは「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ7:37)と叫んで言われましたが、イエスさまこそが、私たちの渇いている心を満たす、唯一のお方です。イエスさまが成し遂げられた十字架と復活の奇跡が証拠です。それは神と人とを結びつけ、神の無尽蔵の豊かさを人に与えるためのものでした。それを信じるのです。信じる時に、あなたは必ず満たされ、そして、祝福されるのです。
 自分の渇きを認め、そして、その心を潤すことができるのはイエスさまであると、信じるならば、必ずあなたの心はいやされ、潤った園のように、水の絶えない泉のようになるのです。
 あなたが豊かな命の水にあふれ、生き生きと輝く毎日を過ごすことができますように。

飢えを知る

「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)
 
 ある日、駅の改札を抜けようとすると「大判焼」のよい匂いが…。私は、たまらず5つ買って、歩きながら食べ始め、着く頃にはすべてを平らげていました。ところが、ドアを開けると、妻がこう言ったのです。「今日はすきやきよ!」。明らかに、私の喜ぶ顔を期待しての告知でしたが、私のお腹は、もう、どんなごちそうが出ても、おいしく食べられる状態ではありませんでした。私は、顔を引きつらせながら喜びを表現し、苦しみながら、おかわりをした、人生最悪の食事でした。
 不況と言っても豊かな生活をしている私たちは「飢え」を知りません。それは生き方にも影響を与え、多くの人は、心も満たされているかのように感じて生きているように思います。
 旧約聖書申命記八章には、神があえて、神の民を何もない荒野に導き、「あなたを苦しめて試し、あなたの心にあること」を知ろうとされた、とあります。イスラエルの人たちは、エジプトでは奴隷であったものの、食べるものは十分あったと思われ、満たされていたからこそ、真剣に神と向き合わず、奴隷である環境に甘んじていたと考えられます。
 先日、ある方にお会いしました。これからという時、末期の胃ガンを宣告されたのです。その時、初めて「人間、死ぬのだ」と実感し、同時に、今までどんな生き方をしてきたのか振り返ったのだそうです。仕事や家族のためとは思ってやってきたが、「自分の生き方」については何も考えていなかったことに気づき、動揺したと言っていました。
 そうです。人間は、荒野のような状態、つまり、丸裸にされなければ、自分が何者であるかを考えないのです。そして、それまで依存していたものが取り去られた時、どう生きればいいか、わからなくなってしまうのです。
 その方は、その後、自分の生き方を探して神と出会い、聖書を読み続けていくうちに、神を認めないことこそが、最大の罪であることがわからされ、悔い改めて神を信じましたが、自分が依存しているものがすべて取られたらどうなるのか。心の飢えの状態をイメージし、自分の生き方を問い直すべきだと思います。その時、神は、「人はパンだけで生きているのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と語られるのです。

人生には希望がある

「まず神の国と神の義とを求めなさい」(ヨハネ14:6)
 
 最近、私は、ある方から、「人生四毛作」という考え方を提案されました。
 第一に、私たちが誕生から25歳まで「人生の方向付けの期間」、第二が26歳から50歳まで「人生の基礎作りの期間」、第三は51歳から75歳まで「人生の収穫の期間」、そして第四が76歳から死ぬまで「自分の好き勝手に生きて良い期間」というものです。
 非常に巧みにまとめた面白い考え方だと感心してしまいました。しかし、このように人生を区分し、「76歳になったら、自分の好きなように生きても良いですよ」と言われても、計画通りうまく進むでしょうか?将来は不確かですから、まず不可能だと言えるでしょう。
 人生には大きな喜びや楽しみがありますが、正直なところ、私の体験でも「生きる」ことは大変疲れることです。ある人が「生身の人間である私たちは『忍耐』という細い糸に『苦悩』という大きな重荷をぶら下げて生きている。忍耐の糸は細く容易に切れやすいので、いつも修繕をしなければならない」と言いましたが、その通りだと思います。
 私たちには日毎に追いかけて来る極度のストレスがあります。気力は失せ、悲しみは増し、心の病になって健康な社会生活を送れなくなることもあります。それでも、辛さに耐えながら、生きる努力をしなければならないのが人生。誰がこのような日々を?…と深く悩みます。
 しかし聖書には、私たち以上の苦難にであった人物パウロが次のように語っています。
「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」(Ⅱコリント4:8~9)。彼はどんな人生にも生きる希望と秘訣があると語ります。悲しみ、苦悩、絶望の中でも喜んで生きる道があり、それはすでに、救い主イェスーキリストによって準備されていると教えています。
 私たちの人生はすべて神の御手の中にあります。神を離れて物事を考え、思い悩むべきではありません。全能の神を信じる時、神は私たちに必要なすべてを備えてくださいます。もし今、悩みの中に在っても必ず、そこに解決の道を備えてくださいます。
〈イエス・キリストの言葉〉「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)

人生の道案内

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)
 
 今は、多くの車にナビゲーションが搭載されています。日本全国の地図を見ることができるので、どこへ行くにも楽に行くことができます。知らないところへ車で行く時には大変便利です。自分の行きたい場所の住所や電話番号、ルートを選んで人力すれば、画面上で行き先を案内し、到着時刻や距離を表示してくれます。また、間違った道を走った時でも、すぐ新たに表示し直し、渋滞情報やその他にも有料道路を利用すると料金も知らせるのです。様々な情報を教えてくれるので、至れり尽くせりです。ですから、一度経験するともう手放せなくなるかもしれません。
 しかし、困ったことがない訳ではありません。古い地図が搭載されているカーナビで運転した時のことです。そのナビは正確に目的地を示すことができず、近くまで来ているものの、迷ってしまいました。また時々、違ったルートを教えることもあるので、安心して走っているとかえって遠回りすることもあり、気をつけなければなりません。それを避けるためには新しい情報を得る必要があります。また、目的地の近くまで来ると、案内を終了することがありますので、注意して運転しなければなりません。
 昔、イスラエルの民たちは、エジプトで奴隷生活をしていましたが、神は、イスラエルの民の中からモーセという指導者を立てて、エジプトから脱出させました。その時、神は、「彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らし、昼も夜も彼らを進み行かせられた」とあります。彼らは、神ご自身に道案内され、昼は暑さから守られ、夜は獣や寒さから守られ、ついに約束の地へと導かれた、という経験をしました。
 イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。イエスは、私たちが歩むべき道を示し、常に誠実に命へと続く道を案内してくださるのです。たとえ、私たちが道からそれたとしても、正しい道へと修正してくださいます。安心して人生の道案内をお任せできる人はなんと幸いなことでしょう。
 あなたもイエス・キリストに道案内していただいてはいかがでしょうか。

満員はありません

「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)
 
 今年の1月2日、私たちの教会のYさんが、大変安らかに、96歳で亡くなられました。京都出身で、京言葉と笑顔がすてきなおばあちゃんでした。私は6年足らずのお交わりでしたが、印象的な思い出があります。
 ある日の礼拝が終わって、Yさんとお話ししていた時のこと。おかげ様で元気だけれども、みんなの世話になっているなど、いろいろお話しくださる中で、「早よ天国に行きたいんやけど、なかなかお迎えに来てくれはらしまへん」と言われました。と、そこで言葉が止まって、真剣に考えるような表情をして少し間が空いてからひとこと、「天国…満員なんやろか?」と言われたのです。その表情が本気とも冗談ともとれるようなご様子で、言った後に本人も声を上げて笑っておられましたが、私も何とも言えずおかしくなって一緒に笑ってしまいました。でも「そんなことないですよ、イエスさまがちゃんと立派な住まいを用意してくださっていますからね」とお話し七ましたら、ニコニコと聞いてくださっていました。その笑顔は忘れることができません。
 私はYさんとの交流の中で、ああこの方は、人は死んで終わりじゃないと心から信じている、本当に天国に希望を持っているんだ、と思わされました。
 人は死んだら終わり、だから今の人生を一生懸命に生きる。それも一つの考え方でしょう。しかし、自分の存在が肉体と共に消滅するというなら、死は私たちにとって恐怖以外の何ものでもありません。そしてその恐怖の出来事に向かって進んでいく人生というのは、何ともむなしく、希望がないように思うのです。でもYさんのように、死の先を信じて歩むことができるならば、人生そのものも希望ある人生になるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)、また、「あなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネ14:2)と言われました。主イエスが十字架と復活によって、死に勝利する道を示されただけでなく、信じる者に、天の住まいを用意してくださっている。それが聖書の語るメッセージです。
 天国に満員はありませんので、どうぞご心配なく。あなたの住まいも用意されています。

救いの道

「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」(ヨハネによる福音書14:6)
 
 私はある城下町で生まれ育ちました。城下町は敵を防ぐために複雑な道の作りになっています。ですから少年時代、慣れない場所に行くと、道に迷ったものでした。少し路地を入ると目印もなにもなく、複雑な入り組んだ道の連続で、行きたい方向と全く違う所に出てしまうのです。
 そんな町で育った私にとって、今住んでいる京都はとても道がわかりやすいと感じています。道が碁盤目状になっているからです。交差点名は南北の通りと東西の通りの名を合わせたもので、通りの名と順番を覚えれば、それが目印となって、大体自分がどこにいるのかがすぐにわかり、とても便利です。
 私たちは初めての場所に行く時、目的地までわかりやすい道、はっきりした目印があれば、安心してそこに行けます。しかし、道がわかりにくく、目印もないとしたらどうでしょう。不安でしかたがないと思います。
 あなたの人生行路はいかがでしょう。現代は「標(しるべ)無き時代」と言われています。頼みとしていたものが崩れ、人々は右往左往し、先行き不透明な現状に嘆いています。まるで目印のない、入り組んだ道で迷っているかのように。私たちはどこへ進めばいいのでしょうか。
 イエス・キリストは「わたしは道である」と言われました。イエスご自身が道なのです。どこに進んだら良いのか、共に歩んでくださいます。
 イエスを知り、イエスを求めることによって、イエスは真理であられるゆえ、正しい生き方の極みを具体的に示されました。イエスに従う人を真理、正しい所に導いてくださるのです。また、いのちであられるゆえ、生きる道、本来人の行くべき道を知っておられるのです。
 イエス・キリストは人類を救うために、救いの一本道となられました。このお方ご自身が道なのです。このお方に信頼して歩む時、あなたの人生は平安に満ちた、目的のあるいきいきとしたものになるのです。

私は変わりたい!

「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」(ルカ19:5)
 
 新年を迎えると新しい気持ちになります。そして、今年は今までと違って新しい年であるようにと願います。できれば、自分も新しくなりたいと願うでしょう。はたして、私たちは変わるのでしょうか。教会が新しく開設された時、教会の前の看板にこう書きました。「人は道徳や宗教で変わるでしょうか?」教会の前を通ってこれを見た方はどう感じたでしょうか。「人は道徳や宗教では変わらない、と言いたいのだろうか?」、「道徳では変わらないのか、そうかもしれない。宗教でも変わらないと言いたいのだろうか?宗教でも変わらないのなら、何で変わるのだろうか?キリスト教も宗教ではないか、キリスト教でも人は変わらないと言いたいのだろうか、キリスト教会の看板に、キリスト教でも変わらないと書いてあるのはどういう意味だろうか?」この看板を見て、見た人に考えてもらいたかったのです。自分は変わりたいのか、自分は変わることができるのか、ならば何によって変わることができるのか?と。この看板の意図は、人には道徳や宗教はためにはなるが、人を変えることは無理であることに気づいてほしかったのです。
 キリスト教でも変わりません。しかし、キリストによって人は変わるのです。
 聖書には、キリストによって人が変わった歴史が書いてあると言っても過言ではありません。キリストの教えを守って変わったのではありません。キリストに対面し、キリストの言葉を聞き、キリストに出会った時、その人は変わりました。ザアカイもそうでした。彼はキリストを一目見ようと、人混みを避けて木にのぼります。そこに通りかかったキリストが、彼に向かって「下りてきなさい、今日、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけられるのです。それを聞いたザアカイは、急いで降りてきて、喜んでイエスを受け入れます。彼はその時、変わりました。その後、どのように変わったのかは、新約聖書ルカによる福音書一九章を読んでみてください。
 あなたも彼のようにキリストによって変わることができますように。 

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2012年

好奇心と再生

「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」(伝道の書2:11)
 
 今年8月5日、米国航空宇宙局(NASA)は火星探査機「キュリオシテイ(好奇心)」を赤道付近にあるゲイルクレーターヘ着陸させ、本格的な探査活動を始めました。キュリオシティーからは火星の様子を伝える画像が次々に送られ、約二年をかけて火星に生物が存在していたかを調査するそうです。また10月8日には、再生医療の実現に道を開くIPS細胞(人工多能性幹細胞)を作りだすことに成功した山中伸弥・京都大教授か、2012年のノーベル医学生理学賞に輝きました。
 このように科学や医学の発展は目覚ましく、人に限りない希望を与えているかに見えます。確かにかつては謎であった領域に光が投じられ、不可能と思えたことが可能になっていきます。しかし他方、自然破壊が急速に進んで地球の破滅が迫っていることや、おぞましい殺害が毎日のように報じられている現実も忘れてはなりません。それは輝かしい技術の進歩とは裏腹に人類を覆う闇が日増しにその暗さを増しているかのようです。
 聖書は「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」と告げています。すなわち、人は誰にでも「永遠を思う」好奇心が与えられていますが、神のなされるわざの全貌を見極めることはできないのです。では「永遠」とは何でしょうか、それは「永遠の命」または「永遠の神」と置き換えられます。実は人は潜在的にこのことへの好奇心を与えられているのです。
 主イエスの弟子ヨハネは「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と書き残しました。
 クリスマスはこのことが現実となった日です。神のひとり子イエスが人の罪を身に負って十字架で死なれるために来られたのです。そしてこのイエスを救い主と信じる人に「永遠の命」が与えられるのです。それは人の心を再生させる命です。体の一部を再生させるIPS細胞ではありません。人の心を生まれ変わらせる神の命です。

豊かさは衰亡の原因

「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:3)
 
 政治のトップはたやすく変わっても、混迷は続いています。国の内外に深刻な課題が山積しているにもかかわらず、何も解決されていないように感じているのは私だけでしょうか。ついに、「国の存亡の危機」とまでおおっぴらに言われるようになりました。
 「なぜ国家は衰亡するのか」(中西輝政著・PHP新書)には、大英帝国、ローマ帝国、また江戸時代などを取りあげながら、なぜ隆盛を誇った国が衰退していったのかが検証されています。詳しくはご一読いただきたいと思うのですが、興味深いのは、ここで指摘されている衰退の予兆となる社会現象が、現代の日本にぴったりと当てはまることなのです。
 海外旅行、温泉ブーム、グルメツアー、各地で連日催されるイベントの数々、文字離れと同時に起こるマンガ文化、そして次々に組織される新興宗教。重ねて申し上げますが、これは、現代の日本で起こっていることを列記しているのではなく、前述した国家においてみられた現象です。
 確かに、言われてみれば、その通り、歴史で学んできた出来事ですが、それが国家滅亡の兆しだったとは。豊かさこそが、国家衰退の原因を作っているのだなあとあらためて考えさせられました。
 さて、そこで私たちは、何のために生きているのか、何をもって幸福というのかを自分自身に問わなければならないと思います。
 物があふれ、何の不自由もなく生活ができる豊かさは、人間に何をもたらすのでしょうか。滅びです。「盛者必衰」を歴史が証明しているのに、私たちはなおもさらに、その愚かさを繰り返し続けるのでしょうか。
 主イエスは、有名な山の上の教えで「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ5:3)と言われています。
 物質的な富、またはすべての組織を思い通りに動かすような権力、名誉が無意味であり、幸福にはなり得ないということを知って、そのようなものを求めず、神こそが、自分の心を満たす方であると信じるならば、あなたの心に喜び、平安、愛、様々な祝福がもたらされると言われたのです。

あきらめない

「わたしを強くしで下さる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ人への手紙4:12~13)
 
「わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ4:12~13)
 東日本大震災から一年半が過ぎました。いまだに復興が進まない中にあって、先日、岩手県釜石市にある一つの仮設住宅を訪問いたしました。
 この場所にある談話室では月二回、手芸教室が開かれており、それを楽しみにしている方がおられます。ほとんどが女性ですが、その中に一人、男性が通っておられます。今回は、その方とお話しをする時が与えられました。「毎回来ておられるのですか?」とお聞きすると、「そうだ。ボケないためにやっているんだ」と、元気な声でこたえてくださいました。毎日、朝から昼の三時まで、休まず手芸をしているのだそうです。地震と津波ですべてを失い、八十歳を過ぎていてもなお、前向きに生きている姿を見て、とても励まされました。
 確かに、困難を乗り越えようとすることや、そのような人を助けてあげようとすることは大切です。しかし、限界があることも事実です。「もうだめだ」、「無理だ」、「やめよう」という気持ちと戦って、絶えず自分を奮い立たせていかなければなりません。さらに、先の見えない中で、どのような将来を考えることができるでしょうか。誰も確かな保証をしてくれないのです。
 しかし、そのようなあきらめと絶望の中で、私たちに希望と前向きに生きる力を与えてくださるお方がおられます。そのお方こそ、今もあなたに語りかけ、招いておられるイエス・キリストです。
 主イエスは、信じる者を「強くし」、「何事でもすることができる」ようにし、「ありとあらゆる状況に処する秘訣を」与えてくださるのです。
 あなたのすべての悩みや問題を、このお方にお任せしていくならば、挫折してしまいそうなあなたの心を強くし、様々な方法によって驚くべき道を示し、心を平安にし、希望に満ちあふれさせ、真の「あきらめない」人生を歩ませてくださるでしょう。お祈りしています。

教会の敷居は高い?

「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」(ヨハネによる福音書1:39)
 
 ある放送局の宗教調査によると、日本人の三分の一以上が、「宗教を信じるならキリスト教」と答えられたそうです。
 ところが、教会の礼拝に出席する人は少ないようです。どうしてでしょうか。教会はバリアフリーの教会も多いですが、建物の構造だけではなく、イメージの問題でしょう。
 そんな方々のことを考え、地域の教会と一緒になって、教会の様子を知らせる「教会ってどんなとこ」というパンフレットを作りました。
 開くと、中には大きく「教会って身近なところ?」なのですよと書かれています。カラー漫画で教会が紹介されています。
①教会は「楽しい」ところなのです。餅つき大会、キャンプ、等々、様々な「楽しい」体験ができます。小さい子どもと接し、大人も、お年寄りも元気をもらえます。
②教会は「ためになる」ところです。色々な奉仕をすることでスキルを養い、高めることができます。お年寄りから、人生の知恵や体験を伺えます。「おばあちゃん、すごい!」など、感動することも多いのです。また、色々な職業の人に会うことができ、交流することで、情報交換ができたり、違った世界を体験できます。子育てなどの経験に基づく情報も得られます。聖書や礼拝を通して、悩むことも祝福につながる体験ができます。ピンチはチャンスになるのです。病気など困難等に出会っても、祈ってもらえます。また、転ばぬ先の杖、それが教会でもあります。さらには、感動して生きる希望や目標や方向性を手にすることでき、学びや働きに確信が持てます。退職する前に、教会で人間関係を築いているので、退職後もスムースに生活できます。
 このように、教会は困った時だけの教会ではなく、私たちの「生活」に深くかかわっており、赤ちゃんからお年寄りまでいて、大きなファミリーのようです。
 また、教会は、世界の人々が本当に幸せな生活ができるため、平和な世界、差別のない世界、一人の人が大事にされる世界を、罪を犯す社会から真の生き方へ、神さまが願っている環境、世界になることを願って日々仕えています。
 これが教会です。

死の恐れからの解放

「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(ヘブル人への手紙2:15)
 
 最近、有名人で亡くなられた方の報道を聞くたびに、以前より死を身近に感じるようになりました。同世代を生きてきた仲間の死に感じるのです。地井武男、小野ヤスシ、ザーピーナツの伊藤エミ。親を看取る立場から、自分の死を受け止める立場に移ってきたのでしょう。逃げられない死の現実が、しだいに迫ってきているのだと実感しています。
 ですから「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」という聖書の言葉を発見すると、ハツとします。心の底まで光に照らされるようです。
 高校三年のときに、私は親友の死に直面しました。四十年以上も前ですが、遺体の前で体が震えるのを押さえることができなかったことを覚えています。
 「死の恐れの奴隷」とは、かつての自分そのものでした。変わり果てたこの友のようにいつか自分も死ぬ。そうして棺に納められ、焼かれて行く。時がたてば、みんな忘れ去ってしまう。存在のはかなさ。死んだらすべておしまいなのだ。何をやっても死んだら何もないのだろうか。
 友人の死をきっかけに教会に通い出し、どこから死の恐れが来るのかを教えてもらいました。「罪の支払う報酬」それが「死」であり、裁かれる恐れである。しかし神は、イエス・キリストをわたしたちの罪の身代わりとして十字架で裁かれ。信じ者の罪をゆるし、永遠の命を与えてくださる。もう罪の結果としての死を私たちが味わうことはない。この聖書が語る救いのメッセージが、高校生の私をとらえました。自分の存在が死んで無に帰することを思い、不安で恐れていました。でもその死の恐れから私を解放し、永遠の命に生きる者と変えてくださったのです。
 よく人は、神には人間の死の苦しみはわからないだろう、と思いやすいのです。事実は逆です。罪の裁きとしての死の本当の恐れは、神の子であるイエス・キリスト以外にはわからないのです。この方だけが誰よりも深く死を恐れ、完全に受け止め、死んでくださったのです。この十字架を感謝し、罪を悔い改める時、私たちは死の恐れから解放されている自分を知るのです。

幼な子のように

「幼な子のように神の国を受けいれる者」(マルコによる福音書10:15)
 
「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(マルコによる福音書10:15)
 幼児の心は素直です。大人(親)の言葉をそのまま信じ、絶対の信頼を持つものです。
 幼児教育の働きをしていた頃、ユミちゃんという五歳の女の子がいました。ユミちゃんは図鑑を見たりして、いろいろなことを覚える知識欲旺盛な女児でした。ある日、ユミちゃんと一緒に幼稚園バスに乗っていると、バスの脇をコンクリートミキサー車が通過しました。するとユミちゃんは、「先生、あの車はね『コンクリーター』 って言うんだよ。お父さんが教えてくれたの」。それを聞いた時、私は(えっ?「コンクリーター」こと思いました。お父さんが「コンクリートミキサー車」を「コンクリークー」と教えるわけがないし、ユミちゃんの勘違いだろうと思って言いました。「ユミちゃん、あれはね、『コンクリートミキサー車』っていうんだよ」。
 するとユミちゃんはムキになって反論しました。「先生、違うよ、お父さんが『コンクリークよって教えてくれたんだから『コンクリークー』だよ。先生が間違ってるよ!」「でもね、この間図鑑で見たでしょ?あれはコンクリートミキサー車、っていうんだよ」。再度私に言われてしまったユミちゃんは顔を真っ赤にして「お父さんが教えてくれたんだもん!・コンクリーター!・コンクリーター!・コンクリーター!」と叫んで怒って向こうを向いてしまいました。ユミちゃんはきっと、お父さんの言葉まで否定されたと思いこんだのでしょう。私の言う言葉になど聞く耳を持ちません。そっとしておくことにしました。
 翌日、ユミちゃんは幼稚園に来て私に、「先生、昨日の車ね、お父さんにきいたら『コンクリートミキサー』って言ってたよ」と話してくれました。私はそのようなユミちゃんの姿を見ながら、お父さんの言葉への信頼感はすごいと思いました。
 イエスさまの「幼な子のようにならなければ」という御言葉は、そのような父なる神への絶対的な信頼ではないでしょうか。あなたも幼な子のような信頼をもって御言葉を受け入れるならば、神の国に入ることができるのです。

愛の光

「最も大いなるものは、愛」(コリント人への第一の手紙13: 13)
 
 「神さま、たとえ今日、何ができなかったとしても、神を愛し、人を愛する時をしっかりと持つことができるようにしてください。それが人生のすべてなのですから」(R・ウォレン)。
 この祈りの言葉は、私と親しくしてくださっていたKさんが、枕もとにおいて毎朝、目覚めたら口にしていた言葉です。
 あなたは、どんな気持ちで今朝、目覚めましたか。心を表現することが難しい方は、たとえば色におきかえて、今朝の気持ちを表現してみてください。
 やさしい緑、澄んだ青、情熱の赤などと表現する時には、きっと毎日が充実していたり、自分の思うように事が運んでいるような時だと思います。けれども、ある時にはよどんだ色や、暗い色しかイメージできない日もあるかもしれません。
 しかし、そのような時にこそ神さまに祈ってみませんか。暗い心を引きずって一日を歩むのではなく、イエスさまに心を向けて、どのような心を持ちたいか祈ってみるのです。
 先ほどご紹介したKさんは、「神を愛し、人を愛する時をしっかり持つことができるように」と、朝ごとに心を染め直しておられました。
 ここで戸惑う方がおられるかも知れません。
 多くの人は「愛する」との言葉に、「愛とは人類の永遠のテーマである」などととらえて難しく考え過ぎてしまい、自分には関わりのないことにように感じてしまうようです。しかし、あえて申し上げたいのですが、むしろ素直に「愛に生きたい」と思うことが大切です。
 マザー・テレサは、「多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです」との言葉で、現代社会が抱える悲しみを表現したことがあります。だからこそ彼女は、世界中の人々に向かって、「愛はほほえむことだけで始まります」と提唱したのです。
 「愛」は自分を、そして人を生かします。だから祈るのです。神さまに心を向けて祈る時、神さまの愛があなたに注がれるでしょう。「祈る時、私たちは神さまの愛の光になります」と彼女は言いましたが、神さまの愛はあなたの人生をすばらしい色に染めあげてくださるでしょう。
 まずはぜひ、あなたの心を神さまに向けてください。

偽りのない

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)
 
 石の彫刻にまつわる面白い話を聞いたことがあります。英語で「偽りのない」とか「真実の」を表すシンシア(sincere)という言葉がありますが、語源をたどるとラテン語の「シネセラ」という言葉からきていて、それは「蝋(ろう)無し」という意味だそうです。芸術作品としての石の彫刻が完成した時、制作者は「これは百%石の彫刻です。決して蝋でごまかしてはいません。つまり、シネセラ(蝋無し)です」と言ってその作品を差し出したと言われています。食品で言えば「添加物無し」と言ったところでしょうか。
 彫刻師の中には、欠損してしまった部分や細工の難しい部分を柔らかな蝋でごまかす者がいたのでそういう言葉が生まれたのでしょう。
 しかし、何事につけ、人間はパーフェクトな自分を誇示します。時には見栄を張ったり、背伸びしてまで実際以上に見せようとします。
 聖書には「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」という句があります。もし、私たちが人の目より神の目に心を用いるなら私たちの人生は大きく変わるかも知れません。
 同じ指紋の人が世界に二人といないように、神さまは人それぞれに唯一無二の個性を備えて造られました。誰かと比べた自分ではなく、ありのままの自分を神さまの賜物として受け入れられたら、どんなに自然体で生きられるでしょう。
 イエスさまの弟子の一人、パウロという人は自分の才能や境遇を自慢する人でした。それが、イエスさまと出会って以来、自分の弱さをすら誇る人間に変わりました。
 私も人の子、流行を追う心理もわかります。昔は日本人女性の美しい髪の色を「髪はガラスの濡れ羽色」と言ったものです。それがいつの間にか「髪は醤油(しょうゆ)の煮染め色」になりました。それが今、そんな人たちの髪を何の違和感もなく見ています。要するにそれが流行というものなのですね。流行も多様化した価値観の一つというわけでしょうか。
 しかし、そういう時代であればこそ、「心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」(Ⅰペテロ3:4・新改訳聖書)との聖書のお勧めを忘れてはならないと思います。
   Yours sincerely 《敬具》

老いも死もまた善し

「わたしは…走るべき行程を走りつくした」(テモテヘの第二の手紙4:7~8)
 
 寒い朝、私は手のひらにある小さな錠剤を見つめていました。やがて意を決し、私はそれを口に放り込み、用意した水で喉の奥に流し込んだのです。それは、初めて血圧降下剤を飲んだ朝のできごとでした。
 血圧降下剤。妻から「飲み始めたら止められない」と聞いていた薬。「もう止められない」と思ろと、それを飲むにはそれなりの決意が必要でした。それに、「私も血圧降下剤のお世話になる年になったのか」と思うと感慨深く、それでしばらく手のひらの薬に見入ってしまったのです。
 老いとか死と言ったものは、私たちにとって忌まわしいものに感じられます。しかし、最近、私はそれもまた悪くはないかなと感じています。それほど、私たちの生きている「この世」には苦しみや悲しみ、悩みやが満ちあふれているのです。
 もちろん、だからといって私は「みなさん早く死にましょう」などと死の勧めをしているわけではありません。どんなに苦難が多く、つらい人生であっても、私たちは生かされているこの時を精一杯生きなければなりません。それは、私たちを愛し、大切に思ってくれている家族や友人、そして、神がいるからです。
 聖書にはこのような言葉あります。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るぺき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(新約聖書テモテヘの第二の手紙4章7~8節)。
 これはパウロという人が、自分の死を意識して語った言葉です。彼は、「この世」では本当に苦労をした人です。けれども、そのような苦難の多い人生であっても、神を信じて精一杯生きてきた私の人生は幸いであると言うのです。それは、たとえ苦難の多い人生を生き、老いて死を迎えることになっても、神は私を神の国に温かく迎えてくださり、そこで慰めといつくしみ、喜びと幸いという義の冠を与えてくださるからなのです。
 今は苦難の多い時代。苦しいことや悲しいことがいっぱい起こってくるでしょう。しかし、たとえ苦難が多くても、神を信じて人生を精一杯生き抜くなら、必ず神からの慰めと憩いを得ることができます。神を信じて精一杯生きてこそ、「老いも死もまた善し」となるのです。

時にかなって美しい

「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)
 
 ニューヨークのハドソン川に、ジョージ・ワシントン・ブリッジ」という大吊橋があります。その壮麗な建造物を題材に、W・シューマンが、1950年に吹奏楽のオリジナル曲を作りました。高校時代、所属していた吹奏楽部の定期演奏会でこの曲を演奏したのですが、初めて楽譜が渡され各パートで練習を始めた時には、耳障りな不協和音と馴染めない奇怪なリズムに「なぜ、こんな曲を選んだのか」とぼやいたものでした。それでも、少しは曲を理解したいと思い、指揮者用のフルスコアに付記された解説を読んでみると、そこには、飛行機の上から見下ろした橋の印象を写実的に描くとありました。
 パート練習から合同練習に移る最初の日、用事で遅れ、練習場に急いでいた私の耳に「ジョジ・ワシントン・ブリッジ」が聞こえてきたのです。私は感動のあまり鳥肌が立ちました。橋の偉容が目前に鮮やかに描かれたからです。橋上をにぎやかに往来する数多の車。幾何学的で繊細な橋の優麗な構造。上空から橋を見下ろし、次第に高度を下げ、橋に接近するや否や、橋が加速して背後に遠のいてゆくさま。そして最後に、あの「展覧会の絵」のキエフの大門を思わせるような壮大な橋の情景を描いて終わるのです。心の中で拍手喝采し、目には涙があふれてきました。
 私たちの人生には、幸福に満たされる日もあれば、災いとしか思えないような時もあります。しかし、神はいずれも最善最良の日として私たちに与えてくださっているのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」からです。
 単に偶然とか、積極思考ということではなく、「美しい」との言葉通り、その絶妙さ、精緻(せいち)さは芸術的でさえあるのですが、もし神を認めず、神のなされる「最善」を受けとめられないなら、それを知ることができないばかりか、目の前に起こってくる出来事に振り回されることになってしまいます。
 しかし、パート練習では無味乾燥のように思えた曲が、実はすばらしい曲であったように、ある時はつらく、悲しいことがあったとしても、神の「美しい」ご計画を信じることにより、平安を保ち、またある時はその一端を垣間見て感動し、これからも導いてくださるとの希望をもって歩ませていただけるのです。

主の言葉を思い出した

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる」(マタイ4:4)
 
 朝の通勤時間に三歳くらいの女の子が広い学校の敷地で遊んでいました。そこへ男性が通りかかりました。するとその女の子が、「おはよう」と声をかけたのです。恐らく二人は面識がなかったと思います。なぜなら、その男性はそのまま行き過ぎようとしたからです。ところが、女の子は、もう一度「おはよう」、さらに「おはよう」と声をかけたのです。さすがに男性は小さな声で「おはよう」と返事をしました。
 女の子は満足げでレたが、男性も電車に間に合うように急いでいたでしょうし、仕事のことを考えていたかも知れません。普段ならまだしも、こんな時、見知らぬ女の子にあいさつされるなどと思いませんから、黙って行き過ぎようとしたと思います。しかし、いずれにせよ、この挨拶が彼を「本来の姿」に引き戻したことは確かです。
 聖書にもイエスの言葉で我に返った人の記事があけます。
 イエスが捕えられ大祭司の邸宅へひっぱって行かれた時、一番弟子のペテロは遠くからついて行き、中庭にいた人々の中にまぎれ混みました。ところがしばらくして、そこにいた人が気づき、「この人もイエスと一緒にいました」と告発に羊子。ペテロは思わず「わたしはその人を知らない」と打消すのですが、同じようにして、結局三度も裏切りの言葉を言つてしまうのです。その直後、鶏が鳴き、主イエスが振りむいてペテロを見つめられた時、彼は「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」との主のお言葉を思い出し、外へ出て、激しく泣いのでした(マタイ26章他)。
 実は、ペテロはイエスが捕えられるほんの少し前、「わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と言ったばかりでした。ところが、主が逮捕された時、彼は恐れにつつまれました。その恐れが、命がけで従っていこうとした彼の人生を根底から覆したのです。しかし、それに気づかせ、人生の方向を取り戻させたのがイエスの言葉でした。
 私たちの周りにも我を忘れてしまうような出来事が起こります。信頼を裏切られたり、怒り、病に打ち負かされる時、誰かがいやしてくれるのを待つこともできるでしょう。しかし聖書に耳を傾けてみてはどうでしょう。心の深層に届くイエスの言葉は、あなたを人間本来の姿に引き戻してくれるでしょう。

しののめを呼び覚ます

「わたしはしののめを呼びさまします」(詩篇108:2)
 
 新年に神の祝福があびますように。 「初日の出」。元旦に厳粛な思いで朝日を待つものですが、困難な時代だからこそ、深い思いをもって新しい年をお迎えになったことでしょう。
 聖書でも日の出がいくつか描かれていますが、その中で、ある詩人が描く、少し変わった日の出の表現を紹介いたします。「わたしはしののめを呼びさまします」(詩篇108:2)です。「しののめ(東雲)」とは、やってくる朝日に照らされる東の空の雲のことです。どこが変わっているかというと、「わたし」すなわち詩人がしののめを呼び覚ますというところです。おもしろいと思いませんか。普通はやってくる朝を待つのですが、この詩人は、自分が朝を来たらせると言うのですから。
 詩人のこの言葉は、その前節のこんな言葉から続いて語られます。「神よ、わが心は定まりました。/わが心は定まりました。/わたしは歌い、かつはめたたえます。/わが魂よ、さめよ。/立琴よ、琴よ、さめよ。/わたしはしののめを呼びさまします」。つまり、心を定めることが朝を来たらせるのです。どういうふうに心を定めたのでしょうか。「神を歌い、ほめたたえる」ことによってです。
 詩人には、人生の暗闇にいるような思いがあったのでしょう。自分が不幸だと嘆いていたのです。そういう思いで生きていると、明るい朝の光も心の中までは届かず、重苦しい心のまま過ごす一日の始まりを告げるだけになります。しかし、詩人はそういう心を後ろに投げ捨てて、不幸と思われる事々の中にも神は最善を貫いてくださっていると信じると「心を定めた」のです。そうすると、周りはそれまでと変わらない闇であっても、自分の心の中から朝日が照り始めたのです。最善をなし続けてくださっている神をたたえ、暗さに逆らって光を作る生き方を習い覚えたのです。
 やってくる朝日があなたの心の中まで照らしますように。神の光にかげりはなく、最善以下はなさいません。そう信じて朝日を迎えられますように。そう信じることにくじけないために、どうぞ教会を訪ねてください。神を信じ歌いたたえて朝の光を作り続けている私たちにあなたも声を合わせてくださいますように。

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2011年

上から来られた方

「わたしは上からきた者である」(ヨハネによる福音書6:23~24)
 
 人が全く助けのない孤立した状況に追い込まれた時、それを「四面楚歌」と言います。この言葉は、楚の項羽が咳下という場所で漢の劉邦の軍に囲まれた時、夜更けて四面の漢軍中から盛んに楚国の歌がうたわれるのを聞いて、楚の民がすぺて漢に降伏したのかと、驚き嘆いたという『史記』の故事に基づくものです。
 私たちの人生も、このままでは孤立し、助けのない絶望の中に追い込まれていくのではないでしょうか。それを一変してくれるのは、四面が囲まれても決して包囲されない上からの援軍なのではないでしょうか。
 主イエスは、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」と宣言されています(ヨハネ6:23~24)。
 ここで主イエスは、私たち人間は「下から出た者」すなわち「この世」に属する者として、「自分の罪のうちに死ぬ」と言われています。この言葉のように私たちは、生まれながらの状態では、罪のうちに永遠の死を刈り取らなければならない存在なのです。この「罪のうちに死ぬ」とは、周囲を罪に囲まれ四面楚歌の状態で地上の生涯を歩むことであり、最後はその罪の中で死ぬこと、すなわち永遠に罪からの救い主と離別することを意味しています。
 しかし、このような状況にある私たちを救うため「上から来た」方、すなわち、天の父なる神のもとから降りてこられた方がイエス・キリストなのです。彼は神の御子であられたのに、この地上に肉体を備えて生まれてくださったのです。しかもこの方は、人が刈り取らなければならない罪をご自分の身に引き受けて、十字架におかかりくださり、死の恐ろしさを味わい、死に打ち勝って復活してくださったのです。実にこの「上から来られた方」、すなわち救い主を信じる者は罪の中で死ぬことはないのです。クリスマスとは、この救い主がこの地上に来てくださったことをお祝いする日なのです。メリークリスマス!

天にある国籍

「彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある」ピリピ人への手紙3:19~20)
 
 今年三月、かつて経験したことのない巨大地震、津波が東日本を襲い、かけがえのない尊い命が失われました。行方不明者を合わせ、その数は二万人とも言われています。被災された方々に謹んでお見舞いを申し上げます。
 そのような深い悲しみの中にも日本は今、希望をもって立ち上がろうとしていますが、時として、私たちもかけがえのない大切な命を失い、深い悲しみの中にも一縷(いちる)の望みを抱いて歩み出そうとすることがあるものです。そのような時、「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)との御言葉は、私たちの目を天に向けさせ、不思議に生きる力を与えます。
 国籍と言われても、ピンと来ないでしょう。日本は比較的恵まれている国だからです。しかし、内戦や貧困にあえぎ、劣悪な環境の中に生きている人たちにとって国籍の違いは生死を分けることさえあり、そのため、密入国、あるいは偽装結婚や賄賂を使って不法に他国籍を取得しようとする人たちが後を絶ちません。
 この言葉が書かれた二千年前も同様でした。当時の世界を支配していたローマ帝国の国籍を持つことは、多くの恩恵にあずかることを意味していたのです。だからこそ使徒パウロは、天の国籍を持つ者こそが幸いなのだと語ったのでした。
 確かに、イエス・キリストを信じ、救われた者に与えられる天国籍を得たとしても、この世に生を受けている以上、災いや悩みはあります。けれども、あえて申し上げますが、そのような時こそ、そして、死に臨む時においてこそ、天国籍にあずかっていることがどんなに大きな祝福であり、光栄であるのかがわかります。
 災いや悩みの時に、そして、生涯を終えようとしている時、この世で得た権利は何の効力も発揮できません。しかし、天国籍を持つ者には希望があります。力があります。喜びがあります。救いがあります。だから毎日を感謝し、賛美をもって喜々として生きられるのです。
 「どんな手を使っても獲得すぺきは天の国籍である」と聖書は言います。そして、それだけ価値のある国籍は、主イエスーキリストを信じることだけで得られと約束されています。

勝ちにこだわる

「すべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ人への手紙8:26)
 
 プロ野球のペナントレースも最終盤。サッカーW杯の予選や五輪の出場権をかけた戦いもあり、毎日一喜一憂しています。ただ、読者の中には「勝負事には興味がありません」、「なぜ勝敗にこだわるんですか」などと言われる方もおいででしょう。しかし、そのようなあなたも、実は、「勝負の世界に生きている」のです。しかもそれは、絶対に負けてはならない、勝ちにこだわらなければならない戦いです。
 と言われても戦っている感覚はないでしよう。でも、自分の無力さを感じたことはありませんか。屈辱感を味わったことがないでしょうか。また、思い煩いや苦悩に満ち、焦りや見えないプレッシャーに押しつぶされそうになって生活をしているとしたら、それはあなたがその「戦い」に敗北している証拠です。
 そうです。誰もが、否が応でも、日常の生活に起こってくる様々な問題と戦わざるを得ず、勝っていかなければなりません。ところが、いくら背伸びをしたところでそれに勝ち続ける力などなく、簡単な相手を破っても、すぐに強敵が現れ、打ち負かされてしまう。それが現実です。
 それではどうしたらよいのでしょうか。
 聖書には、「すべての事において勝ち得て余りがある」、つまり、「どんな相手でも圧倒的な勝利を得られる」秘訣が書かれています(ローマ8:31~39)。
 「患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣」といった、私たちの生活に関わる重要事が列記されています。それらは回避できない、戦っていかなければならない課題として、いつも私たちの前に立ちはだかります。
 これらの難敵を向こうに回し、「これらすべてにおいて勝ち得て余りある」と聖書が言い切っているのは、「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)、神を味方につけて戦えるからなのです。
 私たちは常に敗北を味あわされています。もし、勝ち続けられるなら、どんなにすばらしいでしょう。そのために、今こそ、神と敵対する立場を取るのではなく、自分の無力さを認め、神を受け入れ、神に頼り、神を味方にして、勝ち続けていく生き方をすべきなのです。

主にゆだねよ

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ」(箴言16:3)
 
 七月に海外の二つのニュースが新聞の一面を占める事態が起こりました。一つはノルウェーの連続テロ事件、もう一つは中国の新幹線事故です。ニュースを聞いた人々は、「まさか!」と同時に、「やはり!」という反応だったように思います。
 敬意とあこがれを持つ文化国家での驚くような残虐な事件、世界中の知恵と技術を集めた鉄道の事故、これらのニュースは大きなショックを世界中に与えました。両者とも人間の知恵をあざ笑うかのように起こった事件でした。
 人の知恵は、それがどんなに優れていても必ず欠けている部分があります。また、人間が立てる計画は、それがどんなに完璧に見えてもどこかで行き詰まる部分を秘めているものです。行き詰まりを感じている日本の国に、すばらしい指導者が現れて、すばらしい政策を実行したとしても、どこかで何かの弊害を生み出す事は避けられないでしょう。
 では、どうせ何をしても行き詰まるのならば、最初からあきめて無気力に生きていくべきでしようか。そうすれば何が起きようと驚かないかもしれません。それとも、さらに完璧を求めてばく進して行くべきなのでしょうか。
 無気力に生きることは虚無的に生きることです。そこには人生の喜びはありません。一方、完璧を求めて強行に前進することは勇ましい事ですが、挫折した時の苦痛は痛ましいものがあります。また心のゆとりがなくなり、周りを蹴散らし傷つける危険性があります。
 聖書は両者の中間とも思えるような道を私たちにボします。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3新改訳)。
 私たちのする事の結果を神にお任せするのです。そこから生まれるものは無気力ではありません。心の穏やかさです。結果はどのように出たとしても、私たちを愛してくださる神はベストの方向へと導いてくださると信じるのです。私たちは自分のできる範囲内でベストを尽くせば良いのです。私たちは結果を完全にコントロールする事はできません。それは神がなさる領域です。それを信じて歩む私たちは揺らがないのです。

真の神がおられる

「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(使徒行伝17:23)
 
 日本に来てから不思議だと思つているのは(ちなみに私は韓国人です)、日本人の宗教への熱心さです。至る所に神社があり、寺院があり、熱心に手を合わせている姿をよく見かけます。しかし、私の驚きはそこではなく、それぞれに願い事はあるのでしようが、だからといって、どんなものにも、時には何がまつってあるのかわからなくても祈つている、そのような行為に対して疑問を抱いてやまないのです。
 聖書に、同じ疑問を持つた人が出てきます。使徒パウロです。彼が伝道のために訪れたギリシャのアテネに来た時、驚くような光景を目にします。日本と同じく、神々が至る所に存在し、まつられている神の名も知らないのに、人々が熱心に拝んでいたからです(使徒行伝17章)。
 パウロは、そのようなアテネの人たちの熱心な宗教心に触れながらも、それが本当の信仰ではないことを指摘しました。すなわち、「どんな神かもわからないのに、拝んでいるのはおかしい」というわけです。そして、彼は、「あなたがたが拝むべき神はただ一人、真の神はただ一人しかいない。あなたが知らずに拝んでいる真の神を教えよう」と語り始めます。
 仮に、神社や寺院で祀られている神々の中に、本物の神が一つあったとしたら、それ以外のものは本物ではないことになります。もし、「そのようなことを考えなくてもいい。そこに寺社があるから手を合わせるのだ」と言うのであれば、それはもはや信仰の行為ではなく、ただの習慣的な、気休めに過ぎない行為、あるいは文化的な行為と言わざるを得ません。そこに救いはありません。
 聖書は、真の神がおられることを教えています。しかし、すぺての人間は罪があるために、真の神の存在がわからなぐなっているとも証言しています。ですから、神が、自然などの被造物を通してご自身を表されていても、また、神の御言葉である聖書を通してご自身をはっきりと示してくださっていても、真の神がわからず、それゆえに、知らず知らず、身近な神仏を拝んで、安心を得ようとしているのです。
 パウロは言います。「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」。
 あなたを救う、真の神を求めてください。

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