2024年

主イエスを深く愛して

 安息日が終わると、マグダラのマリア。ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った。(マルコ16:1~2)
 
 イースターの朝、イエスさまに付き従ってきた女たちは、香料を持って墓に向かいました。彼女たちは前々日、ゴルゴタでイエスさまの十字架の死を、最後まで見続けました。
 
 なぜ彼女たちは、気が遠くなるような残酷な場面を見続けることができたのでしょう。
 それは、彼女たちが『主を深く愛したから』ではないでしょうか。では、なぜ彼女たちは主を深く愛したのでしょう。『多くの罪を赦された者は、多く愛する』、これは、イエスさまのお言葉です。主を深く愛した彼女たちは行動的です。安息日が終わるやいなや、早朝、墓に向かったのですが、墓の入り口の石をどのようにして取り除けられるかについての見通しはありません。軽率と言えば、その通りなのですが、しかし彼女たちは、一刻も早くイエスさまの亡骸に、香油を塗りたいと考えたのです。
 
 そんな彼女たちが見たものは、入り口の石が取り除けられた空の墓でした。恐れる女たちに、御使いがイエスさまの復活を告げました。最初に復活の事実を知らされたのは、弟子たちではなく、十字架のもとにとどまり続けた女たちでした。復活の福音は、女たちから、恐れと悲嘆にくれる弟子たちに伝えられたのです。
 
 また、復活のイエスさまが最初にご自身を現されたのは、ペトロでもヨハネでもなく、悲惨な過去から救われたマグダラのマリアでした。多く赦されたマリアは、イエスさまを深く愛しました。イエスさまなしでは生きられないマリアに、復活のイエスさまは、まず会ってくださったのです。そして主は、私にも出会ってくださり、多く赦してくださいました。主に愛され、主を愛する者としていただき、圧倒的な福音の恵みに生かされています。
 

疲れた人を招かれる神

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(マタイ11:28 新改訳)
 
 イエス・キリストを神の子・救い主と信じる恵みの一つは、疲れた心に慰めを得ることです。人は何によって疲れるのでしょうか。聖書の語る疲れの原因のひとつは罪を隠すことです。
 
 刑事ドラマでよく見かける光景に、取り調べの場面があります。秘密を話せば刑罰を受けますから、犯人はその犯した罪を必死に隠すのです。そこに刑事さんがやってきて、カツ丼を犯人にご馳走してから「楽になれよ」と諭す。犯人は涙ながらに自らの犯した罪を語る、そんな場面です。
 
 このような犯人の涙は、「罪を隠して生きる苦しみから解放された安堵」を表しているのではないでしょうか。嘘をつき続けるのは、疲れるのです。ところが、人は正直になることを恐れるのです。この疲れ、この恐れ。取り調べを受けずとも、誰もが知った心でしょう。時代が変われど教会に集う人が後を絶たない理由は、ここにあると思うのです。
 
 教会とは何でしょうか。日本語では「教える会」と書きますから、何かを習いに行くのだろうと考えがちですが、元々は、「神に呼ばれた者の集まり」という意味です。神さまが人をお呼びになるのです。どなたを、でしょうか。罪を告白する場所を持てず、人生に疲れている人を、です。
 
 イエス・キリストは十字架にかかられ、すべての人の罪の代償となられました。それは、この地上で人に罪をあがなうことはあっても、もはや神の前にはあがなうべき罪がないことを意味します。
 
 キリストは私たちの名前を呼び語るのです。「私が打たれたのだから、あなたはもう赦されてよいのだ。あなたが傷つけてしまった家族や友人がいても、私がその人をも癒すのだ。だから、あなたは先ず私の元に来て、罪を赦されなさい」。
 
 このお方を信じ受け入れるなら、人は重荷を負って尚、人生を歩み得るのです。あなたもこの恵みを一緒に受け取りませんか。

新たな年に、新しい歩みを

教団委員長 佐藤義則
 

「また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋の中に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も皮袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)

 昨年10月に召天された小林重昭牧師が、かつて新年聖会で話された説教を懐かしく想い起こしておりました。当時、新年聖会は教団主催で東京聖書学院にて行われていましたが、1986年はチャペルの改修工事を行っていたために、学院の図書館で行われました。その説教の中で同牧師は、冒頭に次のような話をされました。「幼少の頃、大晦日の夜には、母が枕元に真新しい肌着を、折り目正しく置いてくれました。元旦の朝にそれを着て、新年を迎えるためです。新しい肌着に袖を通すと、その匂いと肌触りによって初々しい気分がみなぎり、心も一新されるのです。しかしそれは、それほどに長く続くものではありませんでした。……この新しい年を迎えて、私たちを真に一新するものは、神の御言葉に聴いて従って歩み出すことです」。
 
 3年以上に及ぶ新型コロナ感染によって、私たちの生活は大きく変わりました。それは、教
会生活においても大きく揺さぶられるような変動をもたらしました。昨年の5月以降、新型コロナは5類扱いとなり、私たちの生活は元のように戻って来たと言われますが、この時代の変化の中で戻るのではなく、神は新しい歩みを私たちに求めておられるのではないでしょうか。
 
 上掲の御言葉は、「あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのか」と人々から問われ、主イエスが回答された言葉です。メシヤが到来し新しい時代を迎えているのにもかかわらず、彼らは旧態依然として古くからの慣習にとらわれ、救い主を受け入れようとしなかったのです。私たちもまた、古くからの生き方に固執し縛られて、信仰の生命を失ってはならないのです。新たな年を迎えて主の御言葉をいただき、主によって新しく変えられることに臆することなく、新しい歩みをなして行こうではありませんか。
 

2023年

あなたのための救い主

 
今日ダビデの町に、
あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。 (ルカニ1)
 
 クリスマスが近づくと、街にはイルミネーションやクリスマスの飾りつけがされ、ウキウキし気持ちになります。だれもがクリスマスを楽しく過ごしたいと願っていることでしょう。しかし中には、とても寂しい気持ちになる方もいるかもしれません。自分のことをだれも気に留めていないような、だれにもわかってもらえない気持ちなど、孤独や苦悩の中にある方々もいるはずです。
 
 イエス・キリストがお生まれになった初めのクリスマス。 その当時も、疎外感の中にいた羊飼いたちがいました。神さまは私に目をとめてくださっているのだろうか、自分には関係のないことだと思っていたかもしれません。イエスさまが生まれた夜、羊を見守りながら野宿をしていた羊飼いに、天使たちが現れて、「あなたのための救い主が生まれましたよ!」と言われたのです。ずっと約束されていた救い主、私たちを罪と滅びから救い出してくださる方、イエスさまの誕生の知らせを真っ先に受けたのは、まさかの羊飼いたちでした。 羊飼いたちは驚きと喜びにあふれ、馬小屋のかいばおけ (餌箱)に寝かされている赤ちゃんイエスさまを見つけて、礼拝しました。
 
 神の子イエスさまは、あなたのためにこの世に来てくださったのです!あなたもイエスさを信じて心にお迎えしませんか? あなたの心に光が、 本当のクリスマスの喜びが訪れます。

生ける水

 
祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。
「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書が語ったとおり、
その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」。
(ヨハネ7:33~38)
 
 この「生ける水」の言葉の意味は、勢いよく流れ出る水のことです。
 ある日曜の朝、教会横の道路の上水道が漏れ、勢いよく水が吹き出て、水道局に通報しましたが、休日ということもあり、なかなか工事の人が来れず、夕方にやっと直りましたが、周辺道路は川のようになっていました。
 
 このとき私は2年前に被災した、阪神・淡路大震災のことを思い出しました。水道が一週間ほど止まり、幸い家には井戸があったのでなんとかなりましたが、普通の家にはありません。皆、給水車に二時間ほど並んで水を手に入れたりしていました。
 
 そんな時、近所の道路の水道管が漏れ、水が溢れ出ました。 水を求める人々が我先にと、容器を持って水を汲んでいました。あの時ほど、水が大切なもので、蛇口をひねればきれいな水が出るというのがどれだけありがたいことかを感じたことはありませんでした。

 この聖書の箇所の「祭り」とは、秋にエルサレムで行われる「仮庵の祭り」のことです。乾季が終わる頃、雨を求めて祈ります。日本に住む私たちにはあまりピンとこないかもしれませんが、イスラエルでは約半年間、一滴の雨も降らない乾季があるのです。祭りの期間中は毎日、神殿から祭司がエルサレムの丘を下って、シロアムの池から水を汲み、神を賛美しながら神殿に運び上げ、祭壇の所にある容器に水を注ぐのでした。
 
 「渇いている人」とは誰のことでしょうか。それは魂が渇いている人です。自分の罪を自覚し、その罪の赦しを求め、いやしを求めて、平安を切に願う人のことです。その人が私に来て飲みなさいと言われるイエスさまを信じるとき、真の平安が、潤いが与えられるのです。それは、谷底深く汲みに行かなければならないような水ではなく、信じるだけで与えられる、勢いよく溢れ出る水なのです。

あなたの心を知る方がおられる

 
この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ4:13~14)
 
 「女心と秋の空」という諺があります。女性の気持ちは、まるで秋の空模様のように変わり、移ろいやすいということを指していますが、もともとは「男心と秋の空」という言葉から派生したようです。男女ともに揺れる心を持っています。それは愛情のことだけでなく、決意や心情も含まれます。どんな人でも、心の内に真面目さと弱さが同居しているからです。
 
 新約聖書に、主イエスと出会ったサマリアの女性のことが書いてあります。
 
 暑い盛りに井戸のそばで出会ったのです。一対一の二人だけの会話でした。この女性は、いつものように人目を避けて水を汲みに来ただけでしたが、思いがけず主イエスのカウンセリングを受けたのです。イエスが「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われると、女は「私には夫はいません」と言い、イエスが「もっともだ。あなたには五人の夫がいたが、いま連れ添っているのは夫ではない。あなたが言ったことは本当だ」と答えます。主はこの女性の生活、心の奥底を見抜いておられました。もしかするとこの女性は、自分のことをわかってくれる人と一緒に生きていきたかった、本当の対話を求めていた、しかしその願いはいつも破れ、男性を替えていくことでは満たされなかったのかもしれません。
 
 「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」。この女性はサマリア人としての信仰を持っていましたが、真の救い主、イエス・キリストを信じる信仰を知らなかったのです。
 
 主イエスは、あなたの渇きを知っておられます。あなたの心の虚しさ、惨めさ、本当の願いに蓋をしていること、真実を生きたいという願いを。主は、そのあなたと出会いたいと願っておられます。あなたを潤したいと待っておられるのです。生ける水の井戸のほとりで。

天のまなざし

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。(マルコ10:21)
 
 「テンモウカイカイ ソニシテモラザズ」。こう言われて私は育った。「天網恢恢、疎にして漏らさず。天の網は大きく広い。しかし、まばらのように見えても見逃すことはないぞ」。天から見張られているような、どう見られ評価されているか、いつも気にして生きるのは窮屈だった。野獣化していった。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」(「山月記」中島 敦)の虎が住んでいた。ほめられては有頂天、けなされるとどん底。その繰り返しだった。19歳で洗礼を受けて、自分に注がれる主のまなざしを知った。
 それからもいろいろな事が起こった。お前はキリストを信じているから大丈夫なんだろう、と言われるが、実は逆で、信仰のゆえに苦しみが深くなることが多い。それでは信仰にはどのような恵みがあるのだろうか。池渾夏樹の「また会う日まで」に、主人公・秋吉利雄の妹トヨが、兄利雄に送った手紙の結びにこうある。
 「主(しゅ)はさまざまな運命を私たち人間にお与えになります。いえ、この言いかたは間違っています。私たちは自由意思を与えられ、自分の判断で生きてゆく。その途中でさまざまなことが起こる。ただ、主はいつでも見ていて下さる。私は夫が、教派は違えても同じ信仰をもつものであることを嬉しく思います。そこに主イエスのまなざしをかんじるからです」
 妻のヨネには「第七戒」の痛みがあった。夫の末次郎も知っている。それにもかかわらず、神のまなざしを、夫の中に感じている。信仰が与える恵みとは、お互いと、すべての出来事とに注がれる「主イエスのまなざし」ではないか。
 この慈愛と赦しの中でなら、これで終わりと諦めることはない。「望み得ないのに望みを抱いて信じる」ことが始まる。人間に与えられている真実に生きようとする思いは、くじかれることはない。

神に造られたわたし

胎児の私をあなたの目は見ていた。すべてはあなたの書に記されている。形づくられた日々の、まだその一日も始まらないうちから。(詩編139:16)

 日本はクリスチャンでない人々がほとんどです。そして私が生まれた家もそうでした。「神さまなんて本当にいるんだろうか?」「おとぎ話の創作ではないだろうか」。神も聖書も知らなければそこに答えはありません。まして日本人は「セルフイメージが低い」「自己肯定感が無い」と言われています。「自分なんか要らない存在だ、役に立たない人間だ、この世に生きていても意味がない」、若くてもそのような虚無的な心になりがちです。さらに、もしも神が存在して、私を造ったのなら、どうしてこんな風に造ったのか、もっとましな人間に造ってくれれば良かったのに、どうしてこういう環境、こういう家族、こういう性格、こういうからだ、そしてこういう境遇に置いたのか、と言いたくなってしまうのではないでしょうか。


 しかし、そうではないのです。聖書には、神は御心によって私たちを造られた、と書かれています。私たちは良いことをしたから選ばれたというわけではありません。まだ私たちが母親の胎内にいるうちから計画をもって形作り、すばらしい作品としてくださったというのです。それは私たち自身の思いを越えた神の御業です。私たち自身がどう思おうと、神は私たち一人びとりをこの世に生まれる前から計画し、作り上げ、母親の胎内を通してこの世に生まれさせてくださいました。

 私は18歳の時に神と出会うまでこのことを知りませんでした。もっと早く聖書を知り、神と出会い、このすばらしい神の御計画を知っていたらと思います。
 もしも、これを読んでいるあなたがまだ神を知らないとしたら、ぜひ知っていただきたいのです。神があなたを最高の存在として造られたということを。

私を忘れない神

しもべイスラエルよ、まことにあなたは私の僕。あなたは私に忘れられることはない。(イザヤ44:21)
 
 私は千葉県の水郷地帯で生まれ育ちました。近くには香取神宮があり、参道にあたるわが家にも、仏壇があり、神棚があり、鹿神が祭ってありました。鹿まで神さまにしてしまう風土の中に生まれた私小さい頃からいろいろな神さまを拝んでいたのは自然なことであったのです。
 
 しかし聖書には、神に愛され、神のものとされたイスラエルの民も、同じような姿であったことが書かれています。彼らは山から木を切ってきて、それを薪にしてストーブであったまり、その上でパンを焼いて、空腹を満たし、最後に余った木切れで神さまを作って拝んでいる、というのです。
 
 なぜ神の民イスラエルが・・・と思いますが、その理由は「彼らは知ることも悟ることもない。目は塞がれて見ることができず、心も塞がれて悟ることができない」(イザヤ44:1)からだとあります。しかしそんな愚かな民に神は語るのです。「私はあなたを忘れない」と。本当の神を知らずにいた私が遠藤周作の『沈黙』に衝撃を受け、教会に導かれ、洗礼を受けたのは高三の時でした。しかし大学進学とともにだんだんと教会から離れて行きました。「神さまに頼らなくても自分の力で道は開ける」と傲慢になっていたのです。

 やがて結婚してから試錬が続きました。障がいを持った長男の子育て。精神病を患い、アルコール依存症になった夫は、交通事故で亡くなり、人生のどん底で私は生きる希望を失いました。
 
 しかし神さまは、愚かなイスラエルの民そのものである私の目を開いてくださったのです。「あなたは私に忘れられることがない」。この神の愛を知り、私はもう一度生き直すことができました。私は神を忘れていましたが、神が私を忘れなかったからです。

人はなぜ生まれ、生きでいるのか?

 
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」(創世記1:26)
 
 人生を生きることは大変です。「人生はつらいことばかりだ、人生は思うようにはいかないことが多い、しかし私は生きている、いったいなぜ生きているのだろうか、少しでも人生を楽しみたい、私にもそのチャンスがあるだろうか」などと考えます。
 
 私たちはいろいろな困難に出会うと「私はなぜ生まれたのだろう、何のために生きているのか」など、と自分の生きているワヶを考えます。しかし、その答えをなかなか見つけ出すことができません。
 
 聖書に目を向けてみましょう。神さまが人間を創造する時の、神さまの思いが書かれています。
 人間を創造する前に、神さまはある決意をします。「造ろう!」と決意したのです。私たちは何かを決し行動する時、「さあ、やるぞ!」と自分を鼓舞します。まるで、人間の私たちを創造する時、神さまもやる気十分に思いを込めて創造しようとしたかのようです。最高のものを造ろうとしたのです。その気持ちは、造る人間を愛していたからです。また、造ろうとしている人間に期待していたからです。
 
 私たちは、愛され、期待されて創造され、生まれてきたのです。たとえ親に望まれなくて生まれたとしても、神さまは愛し、期待して私たちを誕生させてくださったのです。そのことを忘れないようにしたい。
 
 そして、人間を創造した目的は、神さまが創造した最高のこの世界を、神さまの願うように「治める」ために人間を創造したのです。私たちは自分の幸せのためではなく、世界に住むすべての生き物が喜んで生きられるように治める使命があります。どんな仕事であっても、どんな生活であっても、それを用いて、この世界を神さまの願う世界に治める使命があるのです。生きている限り、その使命が与えられているのです。すべての人が互いに支えあってそれを行なうのです。その人生はなんと幸いな人生でしょう。

主のように仕える

 
キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:6~8)
 
 あるセミナーで冒頭の聖書箇所から「イエスさまがご自分を低くして仕えたように、その生き方に倣って仕えるべきです。人と比較して競争に負けた者として仕えるのは卑屈であり、見せかけの謙遜です。自分を認め、自分と同じように相手を認めなければ仕えることはできません」と語られました。
 
 私はドキッとしました。社会人としての最後の十年間、会社の中で昇進できなかった私は、若いころの部下の下で働くというストレスの溜まる環境で仕事をしていました。そこでどんな人にも仕えるという主からの訓練を受けることができたので、牧師として人に仕えることができると思っていたからです。
 
 しかし、私の現役最後の十年は人と比較して競争に負けた者としての卑屈な十年でした。その卑屈さの上にイエスさまがご自分を低くして仕えられた姿勢を乗せることはできないと気ついたのです。
 
 そして、7~8節にかけて「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。コロナウィルス感染拡大と同時に牧師としての生活を始めた私は、社会人としての経験を生かして人に仕える牧師になれるだろうと、漠然と描いていたイメージを見直さなければいけないと思わされています。
 
 イエスさまがご自分を低くして仕え、十字架の死にまで従順であられた姿、そこに倣うことなしに信仰者の歩みは整えられないのだと思います。世界中が戦争や自然災害、政治・経済の混乱、貧困や格差社会の拡大という混乱と不安の中にある時代だからこそ、愛と慈しみなるお方のりくだられた姿に倣っていきましょう。主の十字架を負う者となりましょう。それこそが主のように仕えることであり、主が私たちに望んでおられることなのだと思います。

サザエさん症候群への処方箋

あの方は…かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。(マタイ28:6)
 
 日曜日の夕方、テレビアニメ「サザエさん」が放送される時間になると、憂うつな気分になることを、「サザエさん症候群」と呼ぶそうです。明日から仕事や学校が何日も続く現実を前に、気が滅入るのです。筆者は子ども時代に、延々と巡る毎週のサイクルに嫌なことが多くて、「こんなことがいつまで続くのだろうか」と絶望して、子ども心にも「自分は死んだほうがマシだ」と思ったことが何度もありました。
 
 ただ、個々人の「サザエさん症候群」もずっと続くわけではないのです。放送開始以来50年間、サザエさんはずっと若いままですが、私たちは誰もが年をとって職場から去り、やがては地上の生涯を終えなければなりません。
 
 さて、七日間で一週間という単位は聖書に起源がありますし、学校や職場が日曜日に休みという習慣や制度もキリスト教に由来していることをご存じでしょうか。日曜日が休日であることの意味は、日曜日に復活したイエスさまを礼拝することにあります。日曜日はイェスーキリストの復活の記念日なのです。
 
 イエスさまは私たちの身代わりとして十字架で死に、罪の呪いをその身に受けて私たちの罪を処分してくださり、その復活によって私たちに永遠のいのちを約束してくださいました。私たちは、イエスさまによって、新しいからだを着て天国に迎えられる希望を与えられます。どんなに苦労が多い人生も、この天国の希望によって、生き甲斐をもって乗り越えることができるようになるのです。
 
 自殺願望を抱えていた筆者にとっては、日曜日は悲しみの日でした。しかし、イエスさまを信じたことで心が変わり、生きる喜びを感じるようになり、日曜日が自分を活かしてくれる大事な喜びの日になりました。
 
 あなたにとっても、日曜日が永遠に至る希望を確認する日になることを、願ってやみません。

春の訪れを待つ

キリストは…最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました。    (Iコリント15:7~8)
 
 私は三月の初旬に生まれましたが、三月が好きではありませんでした。
 その理由の一つは、「寒さ」を一番感じるのが三月だったからです。私は京都に生まれましたが、三月の京都は特に寒さを感じました。あかぎれ、しもやけに毎年悩まされました。
 
 もう一つの理由は、「早生まれ」です。小学校入学時、私は他の子たちよりも体が小さく、他の子が大きく見えました。そして同級生にできることが私にはできないという経験を何回もしました。「早生まれは損だな」と思ったものです。
 
 使徒パウロというキリスト教の初期に活躍した人物は、先輩たちと比べて、「私は未熟者」ということを「月足らずで生まれた」の言葉で表現しました。
 
 このパウロ、イエス・キリストと出会う前はキリスト教が大嫌いで、キリスト教を迫害した人物でした。しかし、キリストはパウロに現れて、彼に語りました。
 
 その言葉を聞いたパウロは「目からうろこが落ちる」体験をして、イエス・キリストを宣教する人になり支した。復活のキリストと出会ったことを「最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました」と手紙に書いています。「復活」はキリスト教において最も重要な教えです。パウロは突然、復活のキリストに出会い、未熟者ということを受けとめつつも、復活の力に生かされて、誰よりも一所懸命に神と人のために働く者となりました。
 三月は好きではない、早生まれは損と思った私ですが、寒い中、地面の下では球根が春を待ち、暖かくなった時に新しい命となって地面から出てくるように、春を待つ季節にも意味があると、今は感じています。春が訪れるように、イエス・キリストは、あなたにも出会ってくださいます。

翼の陰に守られて

 
私を憐れんでください。神よ、私を憐れんでください。私の魂はあなたのもとに逃れました。災いが過ぎ去るまであなたの翼の陰に私は逃れます。(詩編五七2)
 鉢植えの胡蝶蘭が咲き終わり、その枝を切って、室内で大切に育てていたのですが、私の気持ちとは反対に葉が萎れ、半分以上枯れてしまいました。
 考えた末、教会庭の大木のへこんだ部分に、蘭の根を苔に包んだ状態にしてそのまま置いて、半ばあきらめながらも様子をみることにしました。夏は太陽が燦々と降り注ぎ、台風時期は強風や雨にさらされていく中で、もう枯れてしまったと思っていると、大木の葉の隙間から枝が2つに伸びてそれぞれに胡蝶蘭の花がきれいに咲いているのをみて、驚きました。そしてよく見ると、蘭のまわりを木々の葉が包み太陽の直射日光と雨風を遮り、また枯れかけていた葉の横から新しい芽が出て生き生きと成長し、きれいな花を咲かせていたのです。
 このように、弱っている部分を他の木々が労り合うことで癒された植物が、美しい花を咲かせることができたのです。
 私たちは相手との関係を大切に育てようと思いながらも、自分の思いとは反対に家族や隣人や職場や学校の中で互いの関係に誤解や亀裂が生じたり、また仕事の上で行き詰ったり、とそれぞれ日々の生活の中に問題や課題が生じてくることがあります。
 人生の嵐と思えるような状況の中で私たちは悩んだり孤独を感じたり傷ついたり無力感に苛まれ、人生に希望を見い出せないような時もあります。しかし神さまは私たちを憐れんでくださり私たちに逃れの場を備えていてくださるのです。その逃れの場は神さまの翼の陰です。神さまは私たちの弱っている部分をその愛をもって包み癒してくださり、私たちはその愛に育まれ新たな力を蓄えることができるのです。
 いま悩みの中におられるでしょうか。いろんなことで行き詰まりを感じてはいませんか。どうぞ教会にいらして、神さまの翼の陰に身をゆだねてみませんか。
 

星のように輝く

 
 そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。(フィリピ2:15~16)
 
 あけましておめでとうございます。
 新しい年を迎え、「今年こそは」と目標を立ててスタートした方もおられるのではないかと思います。良い一年であるようにと願っています。
 
 さて、皆さんは星を観られることはあるでしょうか。星に関心のある方は、毎日でも夜空を眺めておられると思います。私も星には関心があり、夜空を見ることがよくあります。
 
 フィリピの信徒への手紙の著者・パウロは、主イエスを信じる者たちを、この世では「星のよう」だと言っています。なぜなら、星は周りに影響されないからです。春には春の星座が現れ、夏には夏の星座が同じ場所に現れます。星の移動はあっても私たち人間のように周りに影響されないのです。また、星は周りを明るく照らします。「星」という言葉は、他に「光」や「明かり」と訳せる言葉です。
 
 主イエスは、ご自分のことを「私は世の光である」(ヨハネ8:12)と言われました。「光」や「明かり」は、暗くなればなるほど輝きを増して、周囲を明るく照らします。月自身は輝きませんが、太陽の光を受けて輝きます。それと同じように、主イエスは、主イエスを信じる者を輝かせてくださいます。
 
 現代は混沌として、先が見えない時代だといわれます。また、冒頭の御言葉にもありますように、「ゆがんだ邪悪な時代」です。
 
 世の中は、これから益々悪くなっていくでしょう。私たちが思ってもいない方向へ進んで行くかもしれません。しかし、そのような中でも周りの影響を受けず、しっかりと星のように輝き続ける生き方があります。
 主イエスは、私たちを「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と呼んでくださいます。私たちはこの世にあっても、主イエスによって、星のように輝く一年とさせていただくことができるのです。

2022年

飼い葉桶の中の王の王・主の主

 
ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。(ルカ2:6~7口語訳)
 
 ハレルヤコーラスは、全地を統べ治める王の王・主の主なるお方がクリスマスに誕生したと、歌い上げますが、聖書はこのお方が誕生したのは家畜小屋だったことを記します。厳しい旅路を終え、マリヤとヨセフはベツレヘムに着きます。そこでマリヤは月が満ち、子を産むのですが、生まれた子は布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされるのです。動物の臭い、息づかいの中でこの御方は誕生されたのです。
 
 王宮でなく、金持ちの柔らかいベッドでもなく、「客間には彼らのいる余地がなかった」と言われるようなところに、王の王・主の主は誕生してくださったのです。私たち人間の持つ、不安と恐れの中で夜を過ごす者の気持ち、寒さの中で凍える者の辛さ、力で支配しようとする権力におびえる民の気持ち、空腹に耐える者たちのひもじさを理解してくださるお方として。
 
 これは神のご計画でしか。このお方の十字架の死は、私たちの罪の身代わりだったのです。この死と復活によって、私たちの罪は赦され、神の御許に行く道が開かれました。私たち人間の全ての不安や恐れや不幸の根源である死に勝利してくださったのです。このお方は、私たち人間の持つ根本的な課題や苦しみを解決してくださる、王の王・主の主なのです。
 
 またこのお方は、私はあなたの友であるとも言われました。憂いの時、悩みの時、重荷を負わされた時、大に誤解された時、私の友と言ってくださるのです。人の目を気にして見栄を張ってしまったり、すぐ挫折してしまったりする私です。その私をそのまま受け入れてくれる。あなたを決して見捨てはしないと。もう肩ひじを張って生きようとする必要はないと!
 
 王の王・主の主、全地を統べ治められるお方はクリスマスに生まれ、飼い葉桶に寝かされました。弱く情けない私たちのために! 「王の王・主の主、ハレルヤ!」
メリー・クリスマス!

実を結ぶ

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には。それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。(ヘブライ12:11)
 
 11月は月末に収穫感謝祭があります。日本では11月23日が勤労感謝の日ですが、この頃、アメリカやカナダなどでは収穫感謝祭(サンクスギビングデー)を祝います。日本のキリスト教会でもお祝いするところがあります。米や葡萄や栗や梨などは自然の恵みであり、自然を支配する神さまからのものです。労した方に、また神に感謝を献げるのです。
 
 さて、葡萄の実が良くできるためには、適切な温度と日光と共に、夜が大切ということを聞きました。どうして夜が大切なのかなと疑問に思っていましたが、少し調べたところ、夜になると光合成でなく、呼吸作用になり、呼吸作用にエネルギーを使わないような低い温度だと多くの糖分を蓄えやすくなるという説明がありました。人間も、労動の後は、感謝して、ゆっくり休むことも大切なのだと教えられました。
 
 ところで、聖書に、鍛錬を耐え抜いた者に「平安な義の実を結ばせる」とあります。悪への誘惑や弱さに負けそうな時に、それに負けないで義の道を歩む者に「平安という義の実が結ばれる」ということです。この「平安」とは「平和」という意味があります。神と人に対して「平和」があり、自分の心のうちに「平安」があるのです。そこには豊かさと満足があります。
 
 また、聖書に「義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます」ともあります。決して、戦いによって平和はもたらされないのです。正義の戦いはミサイルや武器によらないで、相手と自分の命を尊ぶ中で、平和のうちになしていく時に、義の実として本当の平和がもたらされるのです。

神の愛に繋がる一番のお方

私は確信しています。
死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリストーイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
(ローマ8:38~39)
 
 私たちの教会の近くには、茶団子と抹茶を出すお店が連なる素敵な川があります。その川の名は宇治川です。この川はある意昧日本一の川といえます。それは日本一の湖、琵琶湖から流れ出る川だからです。宇治川は宇治の人の郷土愛を一つにするシンボル的な風景なのではないでしょうか。
 
 皆さんのお住いの地域にも、郷土愛を育むようなものがあると思います。私たちが郷土愛に繋がるなにかを持っているように、神さまに繋がるために大切な方がおられると聖書は教えています。
 
 それはイエスさまです。冒頭の聖書の言葉は、イエスさまを信じる人は、神さまの愛から私たちを離さないといっています。神さまの愛とは、私たちが抱く郷土愛のような性質とは違う気がします。神さまへ向ける愛の心はとても大切です。しかし、ここでいう愛とは、神さまの方が私たちを愛しておられる愛を指します。それは神さまの愛ですから、この世で一番の愛なのです。他には類を見ない、琵琶湖以上に大きな愛なのです。
 
 神さまの愛から私たちを離そうとする力は、この世にたくさん存在します。しかし、この世のどんな力も、イエスさまを信じる限り神さまの愛から私たちを引き離すことはないというのです。どうしてそう言えるのでしょうか。それはイエスさまが他のどんなものにも勝るすばらしいお方だからです。ですから、イエスさまの十字架の救いを信じる人は、神さまの愛から離れることがないのです。
 
 日本一の宇治川が日本最大の琵琶湖に繋がるように、この世で一番であるイエスさまを信じるならば、一番である神さまの愛から私たちは引き離されることがないのです。

神さまの愛

あなたの神である主を愛しなさい。…隣人を自分のように愛しなさい。
(マタイ22:37~39)
 
 冒頭は、マタイによる福音書22章37~39節に書かれている言葉です。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。
 
 この箇所のキーワードは「愛する」という言葉です。そしてその「愛する」対象、つまり何を愛するかということについて、この聖書の御言葉は2つを上げています。それは神さまと隣人です。それぞれ、神さまを愛しなさい、隣人を愛しなさい、とイエスさまはここで教えておられます。
 
 隣人を愛するとはどういうことでしょうか。隣人とは私たちの周りにおられるすべての人を指しますが、この人々を愛するとは、この人々を受けいれることから始まります。他者を受け入れ、他者を生かす生き方が私たちに生きがいを与えます。
 
 神さまを愛するとはどういうことでしょうか。それは神さまの愛を知ることから始まります。イエスさまが御自分の命と引き換えに私たちを救ってくださったのは、かけがえのない私たちへの愛ゆえでした。ですから誰一人滅んではならないのです。そのイエスさまの愛を知り、その愛に生きることで私たちは、神さまの愛にお応えすることができます。そして、それだけではありません。神さまを愛することで私たちは、先ほど上げました隣人を愛することができるようになります。
 
 どうしてそのようなことができるのでしょうか。それは神さまが圧倒的な愛で私たちを包んでくださり、愛を私たちにお与えになられるからです。そのキリストの愛で私たちは、隣人をも愛することができるのです。神さまを愛することが感謝な日々の一歩です。神さまの愛はあなたに素晴らしい人生を与えます。

神さまアシスト付き人生

私か「足がよろめく」と言ったとき主よ、あなたの慈しみが私を支え思い煩いが私の内を占めるときもあなたの慰めが私の魂に喜びを与える。(詩編94:18~19)

 夏の暑い盛りに、自転車で出かけた時のことです。
 上り坂にさしかかったので、7段変速の中で一番パワーが出る1速に入れ、ペダルはぐるぐると早くこぎながら、ゆっくりと進んでいたんです。そうしたらその横を、一台の自転車がスッと通って追い抜いていったんですね。
 
 「あっ、抜かれた!」と思って見てみたら、後ろにチャイルドシートをつけて幼稚園くらいのお子さんを乗せたお母さんで、さらにダイダイと進んでゆくんです。そうしたら、何だかムキになるスイッチが入ってしまって、一生懸命こいで追いかけました。でもどんどん引き離されてしまって、結局最後まで追いつくことはできなかったんです。
 
 それもそのはず、その方の自転車は電動アシスト付き自転車だったのです。あらためてこの電動アシストというのは凄いなあと思わされたのと共に、そんなことでムキになっている自分の精神年齢の低さを思って、何だかおかしくなってしまいました。
 
 さて、皆さんの中には、神さまを信じるということを考える際に、神さまというのは、人生を左右するような大きな出来事や、苦しみ、大変なことがあった時に助けを求めるものなんだ、と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 
 もちろん神さまは、人生の一大事においても助けてくださるお方です。でもそれだけではなくて、それこそ電動自転車のアシストで上り坂も気にならずに楽々進めるように、いつもの毎日の生活で苦しいことがあったとしても、そこを落ち着いて堂々と乗り越えることができるようにアシストしてくださるのもまた、神さまというお方ではないかと思うのです。
 
 あなたの「足がよろめく」ような時、日々、あなたを支えてアシストしてくださるお方がいる。そのようなお方として、神さまを求めてみてはいかがでしょうか?

故郷に帰るそなえ

彼らはさらにまさった故郷、すなわち、天の故郷にあこがれていたのです。             (ヘブライ11:16)

 夏が来ました。山や、海の季節です。この夏、大自然を訪れる計画を立てている方々もいらっしゃるかもしれませんね。また、新型コロナウィルスへの向き合い方もわかってきて、ウィルス自体も変化する中、そろそろ実家に帰ろうかという方々も、いらっしゃるかも知れません。私自身、もう卒寿を前に5年も孫に会っていない義母の顔が頭の隅にチラついています。そろそろ帰らねばと思っています。

 さて、右の聖書の言葉は、天国を、私たちが帰るべき天の故郷だと言っています。しかも、そこを懐かしむと言うよりも、あこがれの場所だと言います。まさしく私たちは、人生に与えられた神からの使命を終え、全てのなすべき事を果たし終えて、そこに帰るのだと言っています。このように、地上の生涯の先に、帰る場所があるということは、何と心強いことではないでしょうか。ニュースで帰るべき場所を失った人々のことを拝見する度に、故郷の大切さを改めて噛みしめています。


 もしかしたら、本誌の読者の中には、なぜ教会に行くのか、教会には何をしに行くのかと、疑問に思っておられる方もいらっしやるかもしれません。もちろん、これが全てではありませんが、私は、教会に来て、神さまを求めることは、この人生の先にある天国に帰る準備の1つだと思っています。特に、きよい、正しい神さまにお会いするには、毎週の「心のおそうじ」は、欠かすことはできません。


 私たちが天の故郷に帰り、天の神さまに会うためには、きちんと準備をする必要があります。それが、イエス・キリストを知ること、受け入れることです。そして、教会に行くことです。あなたも、天の故郷に帰る準備として、お近くの教会に足を運んでみませんか。皆様がお越しくださることを、どの教会もお待ちしています。

愛という字は温かい

あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
 
 去年のことです。私たちの教会で展示会と体験会を開催しました。展示したものの中には、聖書の内容をテーマにした書道の掛け軸がありました。書道に興味のある方々が掛け軸を見るため教会に来てくださいました。その時、掛け軸を見ていたある女性のことを今でも鮮明に覚えています。その女性は「愛」と書かれていた掛け軸の前にしばらく立っていました。そして、このように言いました。「やはり『愛』という文字は温かいですね」。
 
 その掛け軸は韓国から送られてきたものでした。韓国のある町のクリスチャン美術家と書道家たちが集まって日本の宣教のために掛け軸の展示会を開いて、その掛け軸を私たちの教会に送ってくれたのです。その掛け軸の中には、日本では使われていない漢字が書かれているものもありました。日本とは違う言葉と文化の中から送られてきたものだからです。しかし、それらを見た人々は「愛」の温かさを感じたのです。
 
 「愛」の掛け軸の作家は、自分に与えられたイエスさまの愛を隣り人にも伝えようという思いで書いたそうです。そしてその心の通り、愛の温かさは伝わりました。掛け軸を見るために教会に来た人たちのほとんどはイエスさまを知らない方たちでしたが、イエスさまの愛の温かさを少しでも感じていただけたと信じています。
 
 聖書は、愛は神から出るものと語っています。神さまが私たちを愛しておられるからこそ私たちも誰かを愛することができるのです。文化と言葉の違いを越えて、愛の温かさが伝わったように、私たちがイエスさまのように互いを愛する時、その愛は必ず伝わると確信しています。

私(イエスさま)は道

 
私は道であり。真理であり。命である。
私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。
                  (ヨハネ14:6)
 
 私たちが生きている今は、二度とありません。同じような時を過ごしても、同じではないのです。あなたはこの大切な一瞬一瞬を、どのように生きていますか。なぜ、イエスさまを信じないのですか。なぜ、イエスさまを信じたのですか。
 
 私は長いこと、イエスさまを知らずに過ごしていましたが、今は、父なる神さまのもとへ行きたいと、「これは道だ。これに歩め」と、イエスさまに言われ、「道であるイエスさま」を信じて生きています。
 私たちはよく道に迷います。知らない道を行かなければならないこともあるかもしれません。そんな時、一緒に行く人がいたら心強いですね。「あなたが行く道は、私だ」と、イエスさまは言われます。イエスさまは道を教えてくれるだけではなく、あなたと一緒に行ってくださるお方です。イエスさまが一緒なら安心です。イエスさまと一緒に生きて、イエスさまの道を歩むなら、あなたにとって、その生涯の道は確かなものとなります。
 
 ある牧師が「私の足は泥だらけで、その道を行けないと大は言う。けれども、イエスさまは足を洗ってくださるお方です。道は踏まれて行くものだ。イエスさまは『踏まれても良い』と、『私は道だ』と仰った」と、祈られたそうです。
 
 「人の世話になんてならない。自分の道は自分で!」と、自分の力だけで歩むのではなく、イエスさまの道を歩むなら、父のもとへ行ける。そして、イエスさまの道を歩むなら、神の愛が滝のように注がれます。その愛を受け取る時、あなたの人生は変わります。神の愛の言葉を、「はい。信じます」と受け取る時、あなたには神の力が与えられ、イエスさまという道を歩み、その人生は豊かにされるのです。道に迷い、戻ったり、進んだりして来られたでしょうか。
 
 さあ、あなたが歩んで行くべき道を、イエスさまと共に歩みませんか。

世界に目を向ける

人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、
人々にもそのとおりにせよ (ルカ6:31口語訳)
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。
そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
(ルカ10:36~37口語訳)
 
 国際連合のある職員から聞いた、中東の国イラクでの話です。イラクと言えば、湾岸戦争やフセイン大統領の裁判や死刑、タリバーンなど、現代の混乱の中心のような所です。
 
 その方が赴任した時、公式にはイラクに日本人は5人だけ駐在していたそうです。うち4人が国連職員、もう1人はその職員の奥さんでした。部署はお互い違いましたが名前が特徴的だったそうで、機会を捉え話したら、なんと職員4人中3人がクリスチャン、もう1人の方の奥さんまでクリスチャンだったそうです。つまりイラクにいる日本人5人中4人がクリスチャンで、せっかくだからと赴任中、毎週4十1人(奥さんの夫)でZoom祈り会をしていたそうです。
 
 イラクが世界でもとびきり混乱し大変な状況なのは皆知っています。だから何とか助けたいとは、誰でも思うのではないでしょうか。その上で、思うだけではなくそこに行き実際に闘っているのが、その瞬間あらかたクリスチャンだったということに、私は単なる偶然以上のものがあるように感じるのです。
 
 キリスト教で救いとは、イエスさまの十字架を、私の罪の報いの身代わりだと信じたら与えられる、新しい世界であり新しい生き方です。神のいのちとか、永遠のいのちと呼ばれることもあります。救われると救われた喜びに溢れるので、イエスさまを一層意識するようになります。そこで、イエスさまの歩みが、自分ではなく他者のために御自身をささげた歩みだったと知るようになるのです。十字架はその頂点です。主イエスが他者のためにとご自身をささげて救われたと感謝しているなら、感謝の歩みは主にならって他者に向くのです。
 
 実際はやってみても、なかなかうまくいかないことがままあります。それは反省して次に生かせばいいのです。でも取り組み始めるそれだけでも、すでにあなたは新しい命を生きているのです。

足元を照らす光

あなたのみことばは、
私の足のともしび、
私の道の光です。 (詩篇119・105 口語訳)

 私の実家は東京の下町、深川です。片側三車線の大通りに面した商店街の中にあり、夜中でも街灯が灯っています。昔は都電、今は地下鉄東西線が走り、地上では一晩中トラックが往来しています。空はいつもどんよりしていて、私は真っ暗闇を経験したことがありませんでした。
 
 高校一年の夏、キャンプに参加した時のことです。夜、集会場から、宿泊していたキャビンに戻ろうとした時、その日は月も星も出ていなくて、外は真っ暗でした。私はその時、生まれてはじめてまっ暗闇を体験したのです。
 
 懐中電灯で足元を照らしながら、キャビンに到着しました。道は続いているのに、見えるのは一歩先だけです。でも、その懐中電灯の光のおかげで、ちゃんと目的に地に着くことができました。
 
 人生、一寸先は闇、といいますが、先の事は判りません。ある日突然、予想もしない事故や災害に巻き込まれることもあります。さまざまな事情で愛する人を失い、悲しみに押しつぶされそうになることもあるでしょう。さらに、自ら病を負い、肉体的にも精神的にも追いつめられ、どうやって生きていったらよいのかわからない、そんな状況に追いこまれることもあります。コロナの問題もなかなか収束しません。
 
 このような、先の見えない人生の暗闇の中で、私たちが生きていくための足元を照らすともしび、道の光となってくれるのはいったい何なのでしょうか?
 
 それは、神のことばである「聖書」です。神さまは私たちを愛し、その一人ひとりの人生に御計画を持っておられます。そして、「将来と希望を与える」(エレミヤ二九1)と言われます。
 
 ぜひ聖書を開いてください。か聖書の御言葉を通して神さまと出会い。光を見い出させていただきましょう。

自分らしく、大喜びで

 
私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。(エフェソ2:10)
 
 『X理論・Y理論」という言葉を聞いたことがおありでしょうか。これはアメリカの心理学者マクレガーによって提唱された、人間観や動機付けに関する対立的な理論です。
 
 X理論では、人間は怠け者であって、放っておくと仕事をしなくなると考えます。そのため人を動かすには『アメとムチ』で機嫌を取り、強制的に命令しなければならないとされています。一方、Y理論では人間は働くことが好きで、自発的に仕事をしたがると考えます。そのため、個人の自主性を重んじることで人は自己実現のために努力をするとされています。X理論とY理論、あなたはどちらに惹かれますか?
 
 永遠のベストセラーと呼ばれる、『聖書』によると、私たち一人一人は神の作品であるというのです。しかも、神は一人一人になすべきよい行い(働き)を前もって準備してくださったと。言わば、神さまが私たちの制作者で、一人一人には製作者によって意図された大切な働きがあるのです。
 
 そして、「作品」は「製品」とは違います。製品は工場で大量生産されています。同じ形、同じ機能、同じ働きのものがたくさん作られます。しかし、「作品」は芸術家が一つ一つ心を込めて作るもの。同じものが二つとありません。私たちは神の製品ではなく作品です。天の神さまはあなたをかけがえのない存在として造られました。心をこめて、愛をこめて。
 
 聖書には、キリストと出会った弟子たちが「私について来なさい」という招きを聞いて、喜んで従った様子が記されています。イエスさまは決して「アメとムチ」で無理やり従わせたわけではありません。彼らはイエスさまの愛の眼差しに感激し、喜んで従っていったのです。そうです。神さまは私たちを信頼と期待をもって見つめておられます。私たちは自分らしく、大喜びで神さまに従う歩みができるのです。

ヨセフたちが夢見た救いと希望

マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ1:21)

 
 あけましておめでとうございます。新しい年を迎え、初夢について話題にした方もおられるのではないでしょうか。

 聖書の世界にも、夢についての話はときどき登場します。旧約聖書の登場人物で夢の人と言えば、創世記の後半に登場するヨセフという人物ではないでしょうか。
 
 彼は夢を通して神さまの不思議な導きを受けました。そして夢の導きに従った結果、0人の兄たちと和解して、イスラエル一族は再び一つとなり回復しました。そして創世記45章7節で、夢による導きは「大いなる救いに至らせるため」であったとヨセフによって告げられます。これは大飢饉の中で滅びの道を歩んでいた自分たちが、夢を通して神さまの導きを受けて救われたのだという驚きの言葉でした。このシーンはとても感動的です。旧約聖書のヨセフが夢見た導きは、神は私たちを救われるということでした。
 
 新約聖書にももう一人、有名なヨセフが登場します。イエスの父ヨセフです。こちらでは、マタイによる福音書一章10節で、婚約者マリアが身ごもったのは神さまの働きであるということが夢により知らされます。マリアに宿る赤ちゃんの名前を「主は救い」という意味のイエスと名付けること、そして「主は救い」という名の通り人々を罪から救う者になることが告げられます。ここでも神さまの救いが示されたのです。
 
 ここで私たちは信仰をもって夢見るとき、素晴らしい未来が開かれるということを教えられます。なぜなら、イエスさまは私たちを救う神さまだからです。
 
 神さまは私たちに悪いことはなさいません。ヨセフたちのように神さまの言葉に信頼しましょう。今年は寝る時の夢だけではなく、心の中にイエスさまの救いと希望を夢見ていただきたいです。皆さまがイエスさまの救いを信じて、希望に満ちた年となるように心からお祈りしています。

飼い葉桶の中の王の王・主の主

 
ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。(ルカ2:6~7口語訳)
 
 ハレルヤコーラスは、全地を統べ治める王の王・主の主なるお方がクリスマスに誕生したと、歌い上げますが、聖書はこのお方が誕生したのは家畜小屋だったことを記します。厳しい旅路を終え、マリヤとヨセフはベツレヘムに着きます。そこでマリヤは月が満ち、子を産むのですが、生まれた子は布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされるのです。動物の臭い、息づかいの中でこの御方は誕生されたのです。
 
 王宮でなく、金持ちの柔らかいベッドでもなく、「客間には彼らのいる余地がなかった」と言われるようなところに、王の王・主の主は誕生してくださったのです。私たち人間の持つ、不安と恐れの中で夜を過ごす者の気持ち、寒さの中で凍える者の辛さ、力で支配しようとする権力におびえる民の気持ち、空腹に耐える者たちのひもじさを理解してくださるお方として。
 
 これは神のご計画でしか。このお方の十字架の死は、私たちの罪の身代わりだったのです。この死と復活によって、私たちの罪は赦され、神の御許に行く道が開かれました。私たち人間の全ての不安や恐れや不幸の根源である死に勝利してくださったのです。このお方は、私たち人間の持つ根本的な課題や苦しみを解決してくださる、王の王・主の主なのです。
 
 またこのお方は、私はあなたの友であるとも言われました。憂いの時、悩みの時、重荷を負わされた時、大に誤解された時、私の友と言ってくださるのです。人の目を気にして見栄を張ってしまったり、すぐ挫折してしまったりする私です。その私をそのまま受け入れてくれる。あなたを決して見捨てはしないと。もう肩ひじを張って生きようとする必要はないと!
 
 王の王・主の主、全地を統べ治められるお方はクリスマスに生まれ、飼い葉桶に寝かされました。弱く情けない私たちのために! 「王の王・主の主、ハレルヤ!」
メリー・クリスマス!

実を結ぶ

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には。それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。(ヘブライ12:11)
 
 11月は月末に収穫感謝祭があります。日本では11月23日が勤労感謝の日ですが、この頃、アメリカやカナダなどでは収穫感謝祭(サンクスギビングデー)を祝います。日本のキリスト教会でもお祝いするところがあります。米や葡萄や栗や梨などは自然の恵みであり、自然を支配する神さまからのものです。労した方に、また神に感謝を献げるのです。
 
 さて、葡萄の実が良くできるためには、適切な温度と日光と共に、夜が大切ということを聞きました。どうして夜が大切なのかなと疑問に思っていましたが、少し調べたところ、夜になると光合成でなく、呼吸作用になり、呼吸作用にエネルギーを使わないような低い温度だと多くの糖分を蓄えやすくなるという説明がありました。人間も、労動の後は、感謝して、ゆっくり休むことも大切なのだと教えられました。
 
 ところで、聖書に、鍛錬を耐え抜いた者に「平安な義の実を結ばせる」とあります。悪への誘惑や弱さに負けそうな時に、それに負けないで義の道を歩む者に「平安という義の実が結ばれる」ということです。この「平安」とは「平和」という意味があります。神と人に対して「平和」があり、自分の心のうちに「平安」があるのです。そこには豊かさと満足があります。
 
 また、聖書に「義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます」ともあります。決して、戦いによって平和はもたらされないのです。正義の戦いはミサイルや武器によらないで、相手と自分の命を尊ぶ中で、平和のうちになしていく時に、義の実として本当の平和がもたらされるのです。

神の愛に繋がる一番のお方

私は確信しています。
死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリストーイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
(ローマ8:38~39)
 
 私たちの教会の近くには、茶団子と抹茶を出すお店が連なる素敵な川があります。その川の名は宇治川です。この川はある意昧日本一の川といえます。それは日本一の湖、琵琶湖から流れ出る川だからです。宇治川は宇治の人の郷土愛を一つにするシンボル的な風景なのではないでしょうか。
 
 皆さんのお住いの地域にも、郷土愛を育むようなものがあると思います。私たちが郷土愛に繋がるなにかを持っているように、神さまに繋がるために大切な方がおられると聖書は教えています。
 
 それはイエスさまです。冒頭の聖書の言葉は、イエスさまを信じる人は、神さまの愛から私たちを離さないといっています。神さまの愛とは、私たちが抱く郷土愛のような性質とは違う気がします。神さまへ向ける愛の心はとても大切です。しかし、ここでいう愛とは、神さまの方が私たちを愛しておられる愛を指します。それは神さまの愛ですから、この世で一番の愛なのです。他には類を見ない、琵琶湖以上に大きな愛なのです。
 
 神さまの愛から私たちを離そうとする力は、この世にたくさん存在します。しかし、この世のどんな力も、イエスさまを信じる限り神さまの愛から私たちを引き離すことはないというのです。どうしてそう言えるのでしょうか。それはイエスさまが他のどんなものにも勝るすばらしいお方だからです。ですから、イエスさまの十字架の救いを信じる人は、神さまの愛から離れることがないのです。
 
 日本一の宇治川が日本最大の琵琶湖に繋がるように、この世で一番であるイエスさまを信じるならば、一番である神さまの愛から私たちは引き離されることがないのです。

神さまの愛

あなたの神である主を愛しなさい。…隣人を自分のように愛しなさい。
(マタイ22:37~39)
 
 冒頭は、マタイによる福音書22章37~39節に書かれている言葉です。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。
 
 この箇所のキーワードは「愛する」という言葉です。そしてその「愛する」対象、つまり何を愛するかということについて、この聖書の御言葉は2つを上げています。それは神さまと隣人です。それぞれ、神さまを愛しなさい、隣人を愛しなさい、とイエスさまはここで教えておられます。
 
 隣人を愛するとはどういうことでしょうか。隣人とは私たちの周りにおられるすべての人を指しますが、この人々を愛するとは、この人々を受けいれることから始まります。他者を受け入れ、他者を生かす生き方が私たちに生きがいを与えます。
 
 神さまを愛するとはどういうことでしょうか。それは神さまの愛を知ることから始まります。イエスさまが御自分の命と引き換えに私たちを救ってくださったのは、かけがえのない私たちへの愛ゆえでした。ですから誰一人滅んではならないのです。そのイエスさまの愛を知り、その愛に生きることで私たちは、神さまの愛にお応えすることができます。そして、それだけではありません。神さまを愛することで私たちは、先ほど上げました隣人を愛することができるようになります。
 
 どうしてそのようなことができるのでしょうか。それは神さまが圧倒的な愛で私たちを包んでくださり、愛を私たちにお与えになられるからです。そのキリストの愛で私たちは、隣人をも愛することができるのです。神さまを愛することが感謝な日々の一歩です。神さまの愛はあなたに素晴らしい人生を与えます。

神さまアシスト付き人生

私か「足がよろめく」と言ったとき主よ、あなたの慈しみが私を支え思い煩いが私の内を占めるときもあなたの慰めが私の魂に喜びを与える。(詩編94:18~19)

 夏の暑い盛りに、自転車で出かけた時のことです。
 上り坂にさしかかったので、7段変速の中で一番パワーが出る1速に入れ、ペダルはぐるぐると早くこぎながら、ゆっくりと進んでいたんです。そうしたらその横を、一台の自転車がスッと通って追い抜いていったんですね。
 
 「あっ、抜かれた!」と思って見てみたら、後ろにチャイルドシートをつけて幼稚園くらいのお子さんを乗せたお母さんで、さらにダイダイと進んでゆくんです。そうしたら、何だかムキになるスイッチが入ってしまって、一生懸命こいで追いかけました。でもどんどん引き離されてしまって、結局最後まで追いつくことはできなかったんです。
 
 それもそのはず、その方の自転車は電動アシスト付き自転車だったのです。あらためてこの電動アシストというのは凄いなあと思わされたのと共に、そんなことでムキになっている自分の精神年齢の低さを思って、何だかおかしくなってしまいました。
 
 さて、皆さんの中には、神さまを信じるということを考える際に、神さまというのは、人生を左右するような大きな出来事や、苦しみ、大変なことがあった時に助けを求めるものなんだ、と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 
 もちろん神さまは、人生の一大事においても助けてくださるお方です。でもそれだけではなくて、それこそ電動自転車のアシストで上り坂も気にならずに楽々進めるように、いつもの毎日の生活で苦しいことがあったとしても、そこを落ち着いて堂々と乗り越えることができるようにアシストしてくださるのもまた、神さまというお方ではないかと思うのです。
 
 あなたの「足がよろめく」ような時、日々、あなたを支えてアシストしてくださるお方がいる。そのようなお方として、神さまを求めてみてはいかがでしょうか?

故郷に帰るそなえ

彼らはさらにまさった故郷、すなわち、天の故郷にあこがれていたのです。             (ヘブライ11:16)

 夏が来ました。山や、海の季節です。この夏、大自然を訪れる計画を立てている方々もいらっしゃるかもしれませんね。また、新型コロナウィルスへの向き合い方もわかってきて、ウィルス自体も変化する中、そろそろ実家に帰ろうかという方々も、いらっしゃるかも知れません。私自身、もう卒寿を前に5年も孫に会っていない義母の顔が頭の隅にチラついています。そろそろ帰らねばと思っています。

 さて、右の聖書の言葉は、天国を、私たちが帰るべき天の故郷だと言っています。しかも、そこを懐かしむと言うよりも、あこがれの場所だと言います。まさしく私たちは、人生に与えられた神からの使命を終え、全てのなすべき事を果たし終えて、そこに帰るのだと言っています。このように、地上の生涯の先に、帰る場所があるということは、何と心強いことではないでしょうか。ニュースで帰るべき場所を失った人々のことを拝見する度に、故郷の大切さを改めて噛みしめています。


 もしかしたら、本誌の読者の中には、なぜ教会に行くのか、教会には何をしに行くのかと、疑問に思っておられる方もいらっしやるかもしれません。もちろん、これが全てではありませんが、私は、教会に来て、神さまを求めることは、この人生の先にある天国に帰る準備の1つだと思っています。特に、きよい、正しい神さまにお会いするには、毎週の「心のおそうじ」は、欠かすことはできません。


 私たちが天の故郷に帰り、天の神さまに会うためには、きちんと準備をする必要があります。それが、イエス・キリストを知ること、受け入れることです。そして、教会に行くことです。あなたも、天の故郷に帰る準備として、お近くの教会に足を運んでみませんか。皆様がお越しくださることを、どの教会もお待ちしています。

愛という字は温かい

あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
 
 去年のことです。私たちの教会で展示会と体験会を開催しました。展示したものの中には、聖書の内容をテーマにした書道の掛け軸がありました。書道に興味のある方々が掛け軸を見るため教会に来てくださいました。その時、掛け軸を見ていたある女性のことを今でも鮮明に覚えています。その女性は「愛」と書かれていた掛け軸の前にしばらく立っていました。そして、このように言いました。「やはり『愛』という文字は温かいですね」。
 
 その掛け軸は韓国から送られてきたものでした。韓国のある町のクリスチャン美術家と書道家たちが集まって日本の宣教のために掛け軸の展示会を開いて、その掛け軸を私たちの教会に送ってくれたのです。その掛け軸の中には、日本では使われていない漢字が書かれているものもありました。日本とは違う言葉と文化の中から送られてきたものだからです。しかし、それらを見た人々は「愛」の温かさを感じたのです。
 
 「愛」の掛け軸の作家は、自分に与えられたイエスさまの愛を隣り人にも伝えようという思いで書いたそうです。そしてその心の通り、愛の温かさは伝わりました。掛け軸を見るために教会に来た人たちのほとんどはイエスさまを知らない方たちでしたが、イエスさまの愛の温かさを少しでも感じていただけたと信じています。
 
 聖書は、愛は神から出るものと語っています。神さまが私たちを愛しておられるからこそ私たちも誰かを愛することができるのです。文化と言葉の違いを越えて、愛の温かさが伝わったように、私たちがイエスさまのように互いを愛する時、その愛は必ず伝わると確信しています。

私(イエスさま)は道

 
私は道であり。真理であり。命である。
私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。
                  (ヨハネ14:6)
 
 私たちが生きている今は、二度とありません。同じような時を過ごしても、同じではないのです。あなたはこの大切な一瞬一瞬を、どのように生きていますか。なぜ、イエスさまを信じないのですか。なぜ、イエスさまを信じたのですか。
 
 私は長いこと、イエスさまを知らずに過ごしていましたが、今は、父なる神さまのもとへ行きたいと、「これは道だ。これに歩め」と、イエスさまに言われ、「道であるイエスさま」を信じて生きています。
 私たちはよく道に迷います。知らない道を行かなければならないこともあるかもしれません。そんな時、一緒に行く人がいたら心強いですね。「あなたが行く道は、私だ」と、イエスさまは言われます。イエスさまは道を教えてくれるだけではなく、あなたと一緒に行ってくださるお方です。イエスさまが一緒なら安心です。イエスさまと一緒に生きて、イエスさまの道を歩むなら、あなたにとって、その生涯の道は確かなものとなります。
 
 ある牧師が「私の足は泥だらけで、その道を行けないと大は言う。けれども、イエスさまは足を洗ってくださるお方です。道は踏まれて行くものだ。イエスさまは『踏まれても良い』と、『私は道だ』と仰った」と、祈られたそうです。
 
 「人の世話になんてならない。自分の道は自分で!」と、自分の力だけで歩むのではなく、イエスさまの道を歩むなら、父のもとへ行ける。そして、イエスさまの道を歩むなら、神の愛が滝のように注がれます。その愛を受け取る時、あなたの人生は変わります。神の愛の言葉を、「はい。信じます」と受け取る時、あなたには神の力が与えられ、イエスさまという道を歩み、その人生は豊かにされるのです。道に迷い、戻ったり、進んだりして来られたでしょうか。
 
 さあ、あなたが歩んで行くべき道を、イエスさまと共に歩みませんか。

世界に目を向ける

人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、
人々にもそのとおりにせよ (ルカ6:31口語訳)
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。
そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
(ルカ10:36~37口語訳)
 
 国際連合のある職員から聞いた、中東の国イラクでの話です。イラクと言えば、湾岸戦争やフセイン大統領の裁判や死刑、タリバーンなど、現代の混乱の中心のような所です。
 
 その方が赴任した時、公式にはイラクに日本人は5人だけ駐在していたそうです。うち4人が国連職員、もう1人はその職員の奥さんでした。部署はお互い違いましたが名前が特徴的だったそうで、機会を捉え話したら、なんと職員4人中3人がクリスチャン、もう1人の方の奥さんまでクリスチャンだったそうです。つまりイラクにいる日本人5人中4人がクリスチャンで、せっかくだからと赴任中、毎週4十1人(奥さんの夫)でZoom祈り会をしていたそうです。
 
 イラクが世界でもとびきり混乱し大変な状況なのは皆知っています。だから何とか助けたいとは、誰でも思うのではないでしょうか。その上で、思うだけではなくそこに行き実際に闘っているのが、その瞬間あらかたクリスチャンだったということに、私は単なる偶然以上のものがあるように感じるのです。
 
 キリスト教で救いとは、イエスさまの十字架を、私の罪の報いの身代わりだと信じたら与えられる、新しい世界であり新しい生き方です。神のいのちとか、永遠のいのちと呼ばれることもあります。救われると救われた喜びに溢れるので、イエスさまを一層意識するようになります。そこで、イエスさまの歩みが、自分ではなく他者のために御自身をささげた歩みだったと知るようになるのです。十字架はその頂点です。主イエスが他者のためにとご自身をささげて救われたと感謝しているなら、感謝の歩みは主にならって他者に向くのです。
 
 実際はやってみても、なかなかうまくいかないことがままあります。それは反省して次に生かせばいいのです。でも取り組み始めるそれだけでも、すでにあなたは新しい命を生きているのです。

足元を照らす光

あなたのみことばは、
私の足のともしび、
私の道の光です。 (詩篇119・105 口語訳)

 私の実家は東京の下町、深川です。片側三車線の大通りに面した商店街の中にあり、夜中でも街灯が灯っています。昔は都電、今は地下鉄東西線が走り、地上では一晩中トラックが往来しています。空はいつもどんよりしていて、私は真っ暗闇を経験したことがありませんでした。
 
 高校一年の夏、キャンプに参加した時のことです。夜、集会場から、宿泊していたキャビンに戻ろうとした時、その日は月も星も出ていなくて、外は真っ暗でした。私はその時、生まれてはじめてまっ暗闇を体験したのです。
 
 懐中電灯で足元を照らしながら、キャビンに到着しました。道は続いているのに、見えるのは一歩先だけです。でも、その懐中電灯の光のおかげで、ちゃんと目的に地に着くことができました。
 
 人生、一寸先は闇、といいますが、先の事は判りません。ある日突然、予想もしない事故や災害に巻き込まれることもあります。さまざまな事情で愛する人を失い、悲しみに押しつぶされそうになることもあるでしょう。さらに、自ら病を負い、肉体的にも精神的にも追いつめられ、どうやって生きていったらよいのかわからない、そんな状況に追いこまれることもあります。コロナの問題もなかなか収束しません。
 
 このような、先の見えない人生の暗闇の中で、私たちが生きていくための足元を照らすともしび、道の光となってくれるのはいったい何なのでしょうか?
 
 それは、神のことばである「聖書」です。神さまは私たちを愛し、その一人ひとりの人生に御計画を持っておられます。そして、「将来と希望を与える」(エレミヤ二九1)と言われます。
 
 ぜひ聖書を開いてください。か聖書の御言葉を通して神さまと出会い。光を見い出させていただきましょう。

自分らしく、大喜びで

 
私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。(エフェソ2:10)
 
 『X理論・Y理論」という言葉を聞いたことがおありでしょうか。これはアメリカの心理学者マクレガーによって提唱された、人間観や動機付けに関する対立的な理論です。
 
 X理論では、人間は怠け者であって、放っておくと仕事をしなくなると考えます。そのため人を動かすには『アメとムチ』で機嫌を取り、強制的に命令しなければならないとされています。一方、Y理論では人間は働くことが好きで、自発的に仕事をしたがると考えます。そのため、個人の自主性を重んじることで人は自己実現のために努力をするとされています。X理論とY理論、あなたはどちらに惹かれますか?
 
 永遠のベストセラーと呼ばれる、『聖書』によると、私たち一人一人は神の作品であるというのです。しかも、神は一人一人になすべきよい行い(働き)を前もって準備してくださったと。言わば、神さまが私たちの制作者で、一人一人には製作者によって意図された大切な働きがあるのです。
 
 そして、「作品」は「製品」とは違います。製品は工場で大量生産されています。同じ形、同じ機能、同じ働きのものがたくさん作られます。しかし、「作品」は芸術家が一つ一つ心を込めて作るもの。同じものが二つとありません。私たちは神の製品ではなく作品です。天の神さまはあなたをかけがえのない存在として造られました。心をこめて、愛をこめて。
 
 聖書には、キリストと出会った弟子たちが「私について来なさい」という招きを聞いて、喜んで従った様子が記されています。イエスさまは決して「アメとムチ」で無理やり従わせたわけではありません。彼らはイエスさまの愛の眼差しに感激し、喜んで従っていったのです。そうです。神さまは私たちを信頼と期待をもって見つめておられます。私たちは自分らしく、大喜びで神さまに従う歩みができるのです。

ヨセフたちが夢見た救いと希望

マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ1:21)

 
 あけましておめでとうございます。新しい年を迎え、初夢について話題にした方もおられるのではないでしょうか。

 聖書の世界にも、夢についての話はときどき登場します。旧約聖書の登場人物で夢の人と言えば、創世記の後半に登場するヨセフという人物ではないでしょうか。
 
 彼は夢を通して神さまの不思議な導きを受けました。そして夢の導きに従った結果、0人の兄たちと和解して、イスラエル一族は再び一つとなり回復しました。そして創世記45章7節で、夢による導きは「大いなる救いに至らせるため」であったとヨセフによって告げられます。これは大飢饉の中で滅びの道を歩んでいた自分たちが、夢を通して神さまの導きを受けて救われたのだという驚きの言葉でした。このシーンはとても感動的です。旧約聖書のヨセフが夢見た導きは、神は私たちを救われるということでした。
 
 新約聖書にももう一人、有名なヨセフが登場します。イエスの父ヨセフです。こちらでは、マタイによる福音書一章10節で、婚約者マリアが身ごもったのは神さまの働きであるということが夢により知らされます。マリアに宿る赤ちゃんの名前を「主は救い」という意味のイエスと名付けること、そして「主は救い」という名の通り人々を罪から救う者になることが告げられます。ここでも神さまの救いが示されたのです。
 
 ここで私たちは信仰をもって夢見るとき、素晴らしい未来が開かれるということを教えられます。なぜなら、イエスさまは私たちを救う神さまだからです。
 
 神さまは私たちに悪いことはなさいません。ヨセフたちのように神さまの言葉に信頼しましょう。今年は寝る時の夢だけではなく、心の中にイエスさまの救いと希望を夢見ていただきたいです。皆さまがイエスさまの救いを信じて、希望に満ちた年となるように心からお祈りしています。

2021年

たいせつなものは?

 
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 (ルカ2:11新改訳2017)
 
 去年も今年も目に見えないウィルスとの闘いが続く中で、クリスマスを迎えます。その間、私たちの生活は一変し、以前の生活に戻ろうにも戻れない日々が続いています。
 
 ある時、とある会社の商品広告の一節に目が留まりました。「見えないものと闘った1年は、見えないものに支えられた1年だと思う」。…なるほど、と思いました。大変な状況だからこそ、人とのきずなやちょっとした気遣い、やさしさ、温かさがいつも以上に心に染み渡り、生きることへの力になる、ということがあります。
 
 「いちばんたいせつなことは、目に見えない」とは有名な物語『星の王子さま』の一節です。愛、やさしさ、真実や勇気、希望…。空気も含めてどれも目には見えませんが、私たちにとって生きる上でなくてはならないものばかりです。
 
 聖書の神さまも私たちにやさしく語りかけます。思いつきや偶然でなく、神さまの深い愛と恵みのご計画の中に形づくられ、生命を宿す者となった私たちだからこそ、真に私たちを支え元気にし、生かすのは神さまからのよきものだと…。
 
 約2千年前、目に見えない多くの神の良きものと愛を私たちに注ぎ、暗い時代の中にも幸いだと思える人生へ導くためにイエス・キリストが、私たちのも七へ来てくださいました。生きていくことが、そんなに簡単なことではないと知っておられるからこそ、恵みに溢れた言葉とその真実によって私たちを支え、寄り添い、厳しい中にも、私たちにとっての小さな一歩を踏み出せる勇気に満たし助けるために、この方は来てくださいました。
 
 これからも先が見えない闘いが続きます。でも、そのような苦悩の時代に生きるお一人お一人が、心の目で私たちのために来られた救い主を見つめ、神さまからの目には見えない大切な何かに与り、少しでも力と希望を受けて歩めますよう心から祈ります。

本当の幸せ

あなたがたは私の友である。(ヨハネ15:14)

 本当の幸せとはなんでしょうか。お金があることでしょうか。それとも、知識があることでしょうか。良い高校に入って、良い大学に入って、良い会社に入社することでしょうか。確かに、バブル景気の時期はそのように思えていました。しかし、今の時代、本当にこれらのものがあったら幸せなのでしょうか。隣の人の名前は知っていても顔も知らず、仕事も、家庭環境も知らない。自分だけが幸せならばそれで良いと考えて生きている。それが本当の幸せでしょうか。

 マタイによる福音書の9章1節から13節に、マタイという人物と、彼の友人が
出てきます。このマタイは、新約聖書の冒頭に置かれた「マタイの福音書」を書いた人物です。彼は元々取税人でした。お金は持っていました。けれども、彼には本当の友人はいませんでした。彼の友人は、同じ取税人や罪人たちでした。しかし、そのマタイに。イエスさまは声をかけてぐださったのです。声をかけるどこうか、そのままのマタイを受け入れてぐださったのです。マタイが何か特別なことをしたわけではありません。ただ、いつものように座っていただけです。イエスさまは、そのマタイに声をかけてぐださいました。その時、マタイはすべてを捨ててイエスさまに従っていきました。初めて自分を必要としている人と出会ったからです。

 本当の幸せは、あなたを本当に必要としている人に出会えたときに、手に
入るのではないでしょうか。そして、あなたを本当に必要としている人物は必
ずあなた自身を受け入れてくださるのです。
 マタイは、自分自身をそのまま受け入れてくれる人に出会いました。そして、その人は彼の友人をも受け入れてくれました。今まで誰にも相手にされないでいた自分たちを受け入れてもらえる場所を見つけたのです。そして、イエスさまは、彼らと食事をしました。これは、この当時、彼らと真の友人になったという表れでした。そして、イエスさまはきっと、そのことを本当に喜んでおられたのです。

 本当の幸せはどこにあるのでしょうか。あなたを本当に受け入れてくれるところにあるのです。イエスさまこそがあなたをあなたのままで受け入れ、愛してくださる方です。もし、今あなたが自分は幸せではないと感じていたとしても、イエスさまの愛を受け入れた時に本当の幸せがやってくるのです。

神さまも絶望を経験しているの?

わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。 (マタイ27:46)
 
 人生に絶望したことはありますか?日々平凡な生活を送っている中でも、雪原に現れるクレパスのように深い闇を見てゾッとすることがある。孤独と死への誘いに吸い込まれそうになる。
 
 神と格闘している若者がいる。3才まで乳児院で育ち、養子縁組で新しい家族の下で育った。5才の時に発達障害と診断され、生きづらさを抱えながら生きている。「神は僕に生まれる苦しみと生きる苦しみの二つを与えた」。死にたいという魂のうめきはラップミュージックと出会うことで感情を表現することにより喜びや希望を見出した。某新聞の取材に「芸術は弱点を武器にできる。他の人が見ていない世界を自分の言葉で伝えたい」と話していた。
 
 病棟で小児癌になった8才の少女の深い孤独な瞳に出会ったことがある。学校へ行く。友だちと遊ぶ。家族と共にいる。健康な体で過ごすという何気ない日常が突然奪われた。
 
 イエスさまは十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。深い絶望から魂の振り絞るような叫びが聞こえてくる。父なる神さまとしっかり繋がれていた手がほどけて闇の世界に落ちていくような孤独を経験されたイエスさま。
 
 私たちが苦しみと格闘している姿は、みじめな姿・敗者の姿だろうか?いや、神さまは「すごいね、勇者だね」と声をかけてくださると思う。なぜなら魂は最も神さまの近くにあり神さまと対話しているのだから。
 
 神さまは私たちの叫びをしっかり聞いておられる。必ずや私たちの手をしっかり握り、闇の世界から引き上げてくださる。私たちの重荷を負ってくださる。その懐で休ませてくださる。主は魂を奮い立たせ、目に光を与え、命の癒しと祝福をお与えになる。

神さまは本当にいた!

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  (ヨハネ12:16)
 
 私はクリスチャンの家に生まれましたが、成長するにつれ、神さまを信じられなくなっていきました。学校の教科書で習うことと、聖書に書いてあることが矛盾していると思ったからです。そして高校生になったころ、ついに教会に行くのをやめてしまいました。
 
 転機はその二年後に起こりました。クリスチャンであった私の祖父が亡くなったのです。祖父は大変、頭の良い人で、私は何か良い本があったらもらおうとしていました。そのとき、『それでも神は実在するのか』という本を見つけたのです。興味のあったことだったので、夢中でその本を読みました。その本には科学の最先端国アメリカで、一流の科学者であるのにクリスチャンであるという人たちのインタビューが載っていました。そこには世界がどんなに素晴らしくできているのか、人間や動植物がどれほど「あり得ない」ような整えられた環境の中で生きているのかということが書いてありました。
 
 その本を読んで、世界を創った神さまというのは、本当にいるのではないかと思うようになりました。そして、聖書は私たちの造り主である父なる神さまが、自分の創造である人間を愛しているがゆえに、その罪から救うため独り子イエスさまを十字架につけたのだと書いています。人間を愛し、人間のために死んでくださる神さまは、この世界の中でたった一つしかありません。もし世界を創った神さまがいるのなら、その愛の神こそ真理だと確信しました。
 
 二年間お祈りなんて全くしなかった私は、そのとき二年ぶりに神さまに祈りました。「私にはあなたが本当にいるのかどうか分かりません。いるなら信じられるようにしてください」。祈り終えた瞬間に、なぜか神さまがすぐ近くにいるような気がしました。その時から今日まで、私は神さまの存在を疑うことなく、神さまを礼拝する者として歩んでいます。

変えたければ、まず自分から

新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるものだ。(マタイ9:17)

  
 今は、ぶどう酒は瓶に入れて保管しますが、昔は羊やヤギの皮を剥いで袋にして入れていました。新しい葡萄酒は発酵力が強いので、古い皮袋に入れると袋に弾力性が無いので破れてしまいます。
 
 同じように、新しい考え方があっても、相変わらずの価値観や生活スタイルに執着していると、いつまでたっても新しい展開はありません。新しい考えがあっても枠を壊すことにおっくうになって、従来のままで何もしないなら、何一つ新しくはならないのです。新しい形で実行するのは一種の冒険です。冒険をするためには、考え方や行動に弾力がなければなりません。また、結果がどうであれ、その結果を受け入れる勇気が必要なのです。物は考えようです。人生は心躍る、ワクワクする冒険です。何事も拒否する前に受け入れてから判断することも必要となります。
 
 私はいろいろなことに挑戦しますが、何一つ満足したことはありません・今までも10種類ほどの楽器に挑戦しましたが中途半端で終わっています。
 
 机の中に小学六年生の時に学校の授業で習ったハーモニカを見つけ、吹いてみたらその当時を思い出して、もう一度ユーチューブを見て練習したら、ベースを入れたり、複雑な吹き方ができるようになりました。教会のクリスマス会で披露できるまでに上達し、拍手喝さいでした。
 
 さらに、何かの楽器に挑戦したいと思ったのですが、三日坊主で終わってしまいそうで躊躇していましたが、冒頭の御言葉を思い出した時に、「そうだ、チャレンジしてみよう」と思い、何にするか迷ったのですがエアロホンミニを購入し、練習しています。オクターブ上や下の音を出すのが少し難しいのですが、練習をしているうちに、少しずつ手の指がついてくるようになりました。今年のクリスマスは披露できるのを楽しみにしています。「やればできる」

真の神が 忘れないことと 忘れてくださること

 
私はあなたを忘れない。(イザヤ49:15)
 
 先日、孫が生まれ私もおじいちゃんになりました。その私は、物忘れが増え困っています。忘れてよいこともあります。忘れてよいことは忘れ、忘れて困ることは覚えていたいです。皆さんはいかがでしょうか?
 
 新米ママの娘が、おむつを替え、抱き、日中はもちろん夜中も三時間おきにミルクをあげる姿を見ています。彼女は自分のことを二の次にし、我を忘れるかのように、我が娘に全存在をかけて愛を注いでいます。聖書の中に、次のような言葉があります。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れない。見よ。私はあなたを手のひらに刻みつけた」(イザヤ49:15~16)。真の神さまというお方は、神の民を決して忘れません。なぜなら、自らの手にその民の名を刻んでいるからです。
 
 聖書に自らを現わしているこの真の神は、あなたのことも忘れることはありません。「二羽の雀は1アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とあります。あなたは知られ、あなたの名も神の手のひらに刻まれているから忘れられないのです。
 
 いつどこであなたの名を神は刻んだのでしょうか。それは、神のひとり子救い主イエスがかかられた十字架上であります。復活した主イエスの手のひらには未だに傷跡が残っています。真の神が忘れないことは、まさしくあなたのことです。
 
 では、忘れることはなんでしょう。「主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない」(エレミヤ31:34)。そうです。悔い改める人間の罪を忘れてくださるのが真の神であります。

神さまも絶望を経験しているの?

 
わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。 (マタイ27:46)
 
 人生に絶望したことはありますか? 日々平凡な生活を送っている中でも、雪原に現れるクレパスのように深い闇を見てゾッとすることがある。孤独と死への誘いに吸い込まれそうになる。
 
 神と格闘している若者がいる。3才まで乳児院で育ち、養子縁組で新しい家族の下で育った。5才の時に発達障害と診断され、生きづらさを抱えながら生きている。「神は僕に生まれる苦しみと生きる苦しみの二つを与えた」。死にたいという魂のうめきはラップミュージックと出会うことで感情を表現することにより喜びや希望を見出した。某新聞の取材に「芸術は弱点を武器にできる。他の人が見ていない世界を自分の言葉で伝えたい」と話していた。
 
 病棟で小児癌になった8才の少女の深い孤独な瞳に出会ったことがある。学校へ行く。友だちと遊ぶ。家族と共にいる。健康な体で過ごすという何気ない日常が突然奪われた。
 
 イエスさまは十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。深い絶望から魂の振り絞るような叫びが聞こえてくる。父なる神さまとしっかり繋がれていた手がほどけて闇の世界に落ちていくような孤独を経験されたイエスさま。
 
 私たちが苦しみと格闘している姿は、みじめな姿・敗者の姿だろうか?いや、神さまは「すごいね、勇者だね」と声をかけてくださると思う。なぜなら魂は最も神さまの近くにあり神さまと対話しているのだから。
 
 神さまは私たちの叫びをしっかり聞いておられる。必ずや私たちの手をしっかり握り、闇の世界から引き上げてくださる。私たちの重荷を負ってくださる。その懐で休ませてくださる。主は魂を奮い立たせ、目に光を与え、命の癒しと祝福をお与えになる。

この神の愛に触れて

 
愛は…自分の利益を求めず。(Iコリント13:4~5) 
 
 私がまだ牧師の見習いをしていた時のことである。教会の近くの商店街で靴屋を営む店主が日曜日礼拝に来られた。その週のうちにその方から「家に来てほしい」という電話があり、ちょうど主任牧師が不在だったので、私が代わりに訪ねることになった。
 
 床の間に通され、その方はおもむろに話された。「店は父の代から始められ、大変繁盛していた。しかし、終戦直後、靴など買う人は誰もおらず経営に行きづまり、父はもう店は閉めなければならないと覚悟を決めた。その時、銀座に店舗を持つ同業者のYさんという人から『うちの店で靴を売ってみないか』と声をかけられた。食べていくのがやっとという時代であっても、銀座では靴は飛ぶように売れた。Yさんは店先の一番いい所の棚を空け、靴を置かせてくれた。店はつぶれずに済んだ。その後、私が店を継いだのだが、父が生前言い遺した言葉があった。それは『Yさんの恩を忘れるな』だった。
 
 それから歳月が流れ、一冊の本と出会った。それは三浦綾子著『愛の鬼才』だった。人のために惜しみなく愛をささげ尽くした人の生涯を描いていた。その時、Yさんがクリスチャンであったことがふと思い出され、それと同時に、Yさんがどうしてあれほどの犠牲を負ってでも父を助けてくれたのか、それを一瞬にして悟った。それでいても立ってもいられず、私は教会を訪ねた」。
 
 その後その方は真摯に聖書を学び、これで父の遺言に応えることができると言って、洗礼を受けられた。
 
 神は愛であると言われるが、冒頭の聖書の言葉はその愛をよく表わしている。キリストは、人が罪のために滅びることなく、すべての人に永遠の命を授けるために、十字架の上で命を捨てられたのである。ただ惜しみなく与え尽くすこの神の愛に触れて、人は新たな人生を歩み出す。

さあ、あなたも

あの方は、ここにはおられない。
復活なさったのだ。(ルカ24:6)
 
 花の便りが聞かれる季節となりました。どんなに流行り病がはびこっても、季節が来れば必ず美しい花が咲きます。寒い冬は行き、暖かな春が来る。私たちの心にも美しい花が咲き、暖かな日差しが降り注ぐ日が来る。そんな希望をあなたはもっていますか。
 
 聖路加国際病院の医師でありクリスチャンであった日野原重明師がその著書(『病む心とからだ』)の中でこう言っています「信仰は人間のものの考え方、従って生き方を根本的に変えるものであり、人を新しく生まれ変わらせ、また人の心の支えともなる。どのような病気で悩む者にも、また死の床にある者にも、信仰者には希望と救いとが与えられる」。
 
 いま多くの人が病気に不安を覚え悩んでいます。その恐ろしい病気は世界を看い、私たちのすぐそばまで迫ってきています。しかし、信仰者には希望と救いがあるのです。いったい何を信じているのでしょうか。救い主であるイエスさまを信じているのです。
 
 十字架につけられて死なれたイエス・キリストは墓に葬られました。その墓を訪れた者たちは、墓の中、死の世界にあるはずの遺体を見つけることができませんでした。悲しみに暮れる者たち。しかしその時、御使が言うのです「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。
 
 イエスさまは死からよみがえられたのです。私たちは病気を、死を恐れます。しかしイエスさまは死に勝利されたお方。このイエスさまを信じるならあなたにも希望と救いが与えられるのです。イエスさまはあなたを新しく生まれ変わらせてくださる。
 
 教会では4月にイースター(復活祭)を祝います。イエス・キリストの復活を喜び祝うのです。そしてそれは、イエスさまを信じるすべての者が、新しく生まれ、永遠の命に生きる者とされたことを喜び祝う日なのです。
 
 あなたもイエスさまを信じて、希望と救いにあずかろうではありませんか。
 

叫びは祈りとなる

 神よ、私の叫びをお聞きください。私の祈りに心を向けてください。(詩編61:2) 
 
 普段は特別な宗教を信じていない人でも、目に見えない大きな存在に対して祈りたくなることがあります。それは「苦しい時の神頼み」ということわざにもあるように、自分ではどうすることもできない苦しみや災難にぶつかった時でしょう。人はどうしようもない困難に会うと、神を呼びたくなる。その叫びのことを、祈りと言い換えることもできます。苦しみの中で、叫ぶように「神さま!」と呼ぶことは、祈りの入り口としてとても真っ当なものだと思います。
 
 旧約聖書に登場するダビデは、イスラエルの国を40年間導いた偉大な王でしたが、その中で多くの困難を経験した人でした。彼の前王サウルからは強ぐ妬まれ、何度もその生命を狙われました。また王になってからも、自分の息子にクーデターを起こされ、その息子が家臣によって殺害されてしまったときには大きな悲しみを経験しました。そんなダビデは、苦しみや困難の中でいつも神さまを呼び、神さまに祈る大でした。彼の祈りの言葉は旧約聖書の詩編の中に多く残されています。それは王というより、神さまの前に立つひとりの弱い人間の、赤裸々な心の叫びのようです。ダビデは祈りの中で自分の思いを告白し、その祈りのことばを神さまがお聞きくださって、困難の中でもこの方が共にいてくださるということをいつも確かめ、力を得ていました。
 
 私たちもダビデのように自分の思いを神さまに告白し、願い求めて祈ることができます。そういう人の祈りを神さまは軽んじません。その祈りを通してご自身を示し、私たちを最も良いところへ導いてくださいます。そのように祈り求めることのできるお方を持つことは、自分だけを信じて生きる生き方よりもずっと確かで安心できる、豊かな生き方なのです。

私たちの主イエス・キリストにある永遠の命

罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。(ローマ6:23)
 
 ここ数年の間、日本の政治が壊れて行くような状況が止まりません。政治家が白分の身を守るためについた嘘に振り回されて、文書が書き換えられ、破棄され、答弁が簡単に変更されるような事態が続いています。この状況は当分変わりそうもありません。自分が法律よりも上にいるかのように振る舞う個
人に対して、この国の制度はこんなにもろかったのかと、頭を抱えます。
 
 しかしこうした権力の腐敗は、およそ人の集団においては、いつでもどこでも生じ得る人間の本質的な罪深さを示しています。
 
 聖書は「罪の支払う報酬は死」であると告げます(ローマ6:23)。一見すると、罪を犯した個人に対する永遠の罰を述べているようにも読めますが、実際にはそれ以Lに壮大なスケールで罪の本質を述べています。
 
 罪は私たちの想いや行動を支配し、神が創造された世界全体を滅びへと至らせる大きな力です。単に個人の問題では済まないのです。たとえば、一人の政治家の嘘が、その人を守るために複数の嘘を生み、その不正に巻き込まれた人たちを苦しめ、最悪の場合には死へと追い詰めることが起こります。そのように、罪は周囲に拡散し、社会全体を死へと追いやるのです。こうして、「罪」の結果として、世界全体が滅びていく、というわけです。
 
 この現実に対して、聖書は神が与えてくださった圧倒的な希望を宣言します。それが、「私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命」です(ローマ6
:23)。この「永遠の命」もまた、単に天国での永遠に生きるという個人の死後の運命を描いたものではありません。「罪」が世界全体にもたらした「死」に対して、神が最終的な勝利としてよみがえらせた、主イエスの「復活」によって現実となった新しい「命」です。この「命」は、「罪」以上に大きな力をもって世界に拡散するのです。
 

平和の計画 

あなたがたのために立てた計画は、
私がよく知っているI主の仰せ。
それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画。
             (エレミヤ29:11)
 2021年が始まりました。昨年を振り返ると、新型コロナウイルスの感染拡大によって、計画をしていたことがことごとく中止になったり、延期になったりしたのではないでしょうか。
 
 東京オリンピックの延期に象徴されるように、何年も時間をかけて準備をしたとしても、一つの感染症でそれが簡単にひっくり返されてしまうのです。人間の立てる計画の限界というものを見せつけられたような気もします。
 
 神さまの立てる計画はそうではありません。この計画が実行されるまでには、長い年月がかかっています。だから、何も進んでいないように見えた人もいるかもしれませんが、着実に進められていったのです。そして、イエス・キリストさまによってこの計画は実行され、じつは現在も進められているのです。聖書を読んでみますと、そのことがよくわかります。
 
 それは、わたしたち人間を罪と死から救うという壮大な計画です。アダムの犯した失敗によって、人間に罪と死が入り込んできました。そこから救うために、独り子であるイエスさまがこの世に遣わされました。そして、イエスさまはわたしたちの罪の身代わりとなって十字架にかかり死なれましたが、三日目によみがえられたのです。これらの出来事によって、イエスさまを自分の救い主として信じるならば、わたしたちの罪は赦され、永遠の命が与えられるのです。死はもはや終わりではないのです。
 
 2021年がどのような年になるかは誰もわかりません。しかし、イエスさまを救い主として信じる人にとっては、聖書の言葉に約束されているように、将来と希望と平和の計画が与えられるのですから、あまり心配する必要はないかもしれません。

2020年

力は弱さの中で完全に現れる

 
 人生には三つの坂があると言います。-上り坂、下り坂、まさか?-たとえどんなに人生がうまくいっていたとしても、まさかと思う時があるものです。このような時、人は驚き慌てふためいてしまい、自分の弱さを知ることでしょう。
 
 2020年、日本のみならず世界中が、正しく「まさか」と言える経験をしています。未知なるウイルスとの戦いで人々の心は恐れにより疲れ、経済的に困難を覚えている方も多いと思います。大きな試練を私たちは通っており、避けられない変化には不安を覚えるものです。そのような状況下では、私たちは無力さをどうしても痛感します。
 
 しかし、聖書は言います。「力は弱さの中で完全に現れるのだ」。つまり、私たちが弱さや無力さを覚える時にこそ、神であるイエスさまの力があらわれるということです。いったいこれはどういうことでしょうか?
 
 人は、物事がうまくいっている時は当然自分の力で進めようとします。その経験とプライドがあるので、下り坂の時でもなかなか自分以外の力に頼ろうとしません。でも、まさかという時にはどうしようもなく、わらにもすがる思いで何かに頼ろうとするのです。
 
 その時こそがイエスさまが働かれるチャンスです。なぜなら、イエスさまの力は、人が自分自身の弱さを覚え、頼った時こそ大いに発揮されるからです。それゆえ、弱い時こそ私たちは強いと言えるのです。さらにその力は、私たちに愛、喜び、平安といったものをもたらします。するとどうでしょう。自分の力で進む人生より、はるかに充実したものとなるのです。
 
 私たちは誰でも弱さを持っています。でもそのままで良いのです。弱いところにこそ、イエスさまの力が完全に働かれるからです。イエスさまはあなたが弱さを打ち明け、頼ってくるのを待っておられるのです。

起きて、床を担いで歩きなさい。(ヨハネ5:8)

 
 聖書を読んでいると、気になって心に留まる言葉があります。最近の経験を一つ書かせていただきます。
 
 38年も病で床に伏していた人の話です。おそらく生涯の半分以上を病に苦しみながら生きてきた人で、人生をほとんど諦めていたのではないかと思います。その人にイエス・キリストが、「起きて、床を担いで歩きなさい」と語られます。
 
 「起きて」と、力強い言葉を聞きつつも、気になったのは、「床を担いで」と、語られていることです。思うにその床は、彼の苦しみや恨み、悲しみで流した涙などが染み込んでいるものです。死の床と言ってよいでしょう。イエス・キリストは、その床を担いで歩きなさいと言われるのです。
 
 昨年、81歳で亡くなられた一人の牧師の葬儀を行いました。最後に訪ねたのは、亡くなられる一週間前です。ベッドに横たえている身体がとても小さくなっていて、死が近いと感じました。ご本人もそれを分かっていました。その厳しい中で、祈る時を持ちました。
 
その冒頭です。「主よ、K牧師を祝福してください」。私のために、そう、祈ってくださいました。私は、本当に驚きました。死が間近なのに、この期に及んでなお他者を祝福することに生きておられるのです。いえ、イエス・キリストの起こしてくださる力で、生かされていたと言った方が正しいかもしれません。深く慰められて祈っているのが、感じとれたからです。いま思うと、その牧師は、間もなく死ぬという床を担いで歩いていたのだと思います。
 
 床を担ぎながらも、希望をもって歩けるように、イエス・キリストが私たちをも起こしていてくださると言ってよいでしょう。
 
 どうぞ近くの教会を訪ねて、イエス・キリストのことをもっと聞いてみてください。

嵐を静めるイエス


イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(マルコ4:39)
 
 新型コロナウイルス感染によって、私たちは世界的な嵐に遭遇しています。どうしてこんな事になったのだろう。これから将来どうなるのだろうか。健康・財政・生活において大きな不安の中にいます。医療従事者は最前線で懸命に働いています。私たち国民も自粛生活、予防をもって闘っています。それでもその猛威の波風は、私たちに打ちつけます。最善の努力の中でも、今、自らの無力さ、小ささを覚えましょう。
 
 恐れないでください。知ってください。どのような嵐も静めることのできるお方が、私たちの人生という航海の舟に乗っておられます。イエスに求めましょう。イエスは私たちの救いのために起き上がってくださいます。嵐の前に立ってくださいます。「黙れ、静まれ」と言われるイエスの声に耳を傾けましょう。誰かがではなく、何かの方策ではなく、イエスが私の人生の嵐を静めてくださいます。
 
 娘の出産の時に、妻は妊娠中毒という症状で、ひどく危険な中にありました。私は茨城におり、妻は出産のために大阪にいました。刻々と容態が悪化する中、側にいられない状況で、「イエスさま、助けてください」と何度も祈りました。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさら(ない)」(Iコリント10:13)と寝床で神が語ってくださり、妻にはイエスが側にいてくれるという平安が私の心を包みました。極小未熟児でありましたが、無事この世に娘は生を受けることができました。
 
 イエスに望みをおく者は、決して失望に終わりません。

神の業が現れるために

 神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9:3)
 
 私の祖母は、戦争で夫を亡くし、幼い息子も病気で亡くし、「立て続けに起こる不幸には何か原因がある」と親戚や近所の人に連れられて祈祷師をたずね歩いたそうです。しかし、どこに行っても、この畑が悪いとか、ご先祖様の供養が足りないとか、問題をあれやこれやと言われるのだけれども、誰からも救いの言葉を聞くことができなかった。ますます不安と思い煩いが増えるばかりであったと言っていました。
 
 前世や過去の報いを必ず受けるという。因果応報・という考え方があります。今ある不幸や災難には原因がある。そう考えて、あれやこれやと詮索し、時代や社会、自分や家族のせいにする。そうしないと現状を受け止めることができない。しかし、そんなことをしても、何の解決も得られないし、そこに救いはありません。
 
 聖書の中に、生まれつき目の見えない男の話があります。この男は、道端に座って物乞いをしていました。その前を、主イエスとその弟子たち一行が通りかかりました。すると、その男の姿を見た弟子が、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と、主イエスに尋ねました。それに対して、主イエスは、きっぱりとこう言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
 
 主イエス・キリストただおひとり、私たちが経験するすべての不幸や災難を、神の業、すなわち「私たちの救いが起こるため」と断言してくださるお方です。その言葉が現実の出来事になるために、+字架の死に飛び込んでくださり、その死から甦えられたお方です。ここにこそ、すべての人の救いがあります。主イエス・キリストをあなたの救い主と信じる時、あなたにも神の救いの御業が起こるのです。

希望

夜から朝へ 夕べがあり、朝があった。(創世記1:5)
 
 私か小さい頃、母が西の夕焼け空を指さして「明日はよい天気だね」と言ったことがあります。今でも夕日を見るたびに母の声が聞こえてきます。
 実際には、西の空は太陽が沈み暗やみが覆ってきます。古代文明は夜となると闇の恐ろしさと不安に包まれたのではないでしょうか。
 
 ところが、聖書は一日を大変面白い書き方で記しています。「夕べがあり、朝があった。第一の日である」。朝からではなく、日が沈むと同時に一日が始まるのです。暗い夜を超えて明るい朝を迎える、と一日を理解したのです。
 
 わたしたちの歩みは21世紀を迎えて混迷を深めています。20世紀は文明の世紀と言われました。考えてもみなかった通信網の発達によって、電車の七つの椅子に座る人々は、誰もスマホに向かっています。それが家庭にも入り込みます。絆が切れていく小さな音が聞こえてきます。
 
 そして、暗やみが包み込みます。若者は酒に酔い、歩きながら、心の虚しさという暗やみの中にいます。女性たちは、コロナウイルスの恐れから家族を思い、必要以上の品物を買う列に並びます。お年を重ねられた方々は、弱ってきた身体のことを心配し、その心配を蓄えた富によって安心を得ようとします。これもまた、一つの暗やみではないでしょうか。
 
 キリスト教会は、十字架で死なれ、暗やみから蘇られたイエスの復活から始まりました。
 
 私たちは現代の暗やみに包まれながら、然し、夜から朝を造り出したイエス・キリストによって光のもとに置かされているのです。困難の中にある喜びという事ができます。

 

私たちの主イエス・キリストにある永遠の命

    (ローマ6:23)

 
 ここ数年の間、日本の政治が壊れて行くような状況が止まりません。政治家が自分の身を守るためについた嘘に振り回されて、文書が書き換えられ、破棄され、答弁が簡単に変更されるような事態が続いています。この状況は当分変わりそうもありません。自分が法律よりも上にいるかのように振る舞う個人に対して、この国の制度はこんなにもろかったのかと、頭を抱えます。
 
 しかしこうした権力の腐敗は、およそ人の集団においては、いつでもどこでも生じ得る人間の本質的な罪深さを示しています。
 
 聖書は「罪の支払う報酬は死」であると告げます(ローフ(23)。一見す
ると、罪を犯した佃人に対する永遠の罰を述べているようにも読めますが、実際にはそれ以Lに壮大なスケールで罪の本質を述べています。
 
 罪は私たちの想いや行動を支配し、神が創造された世界令体を滅びへと至らせる大きな力です。単に個人の問題では済まないのです。たとえば、一人の政治家の嘘が、その人を守るために複数の嘘を生み、その不正に巻き込まれた人たちを苦しめ、最悪の場合には死へと追い詰めることが起こります。そのように、罪は周囲に拡散し、社会全体を死へと追いやるのです。こうして、「罪」の結果として、世界全体が滅びていく、というわけです。
 
 この現実に対して、聖書は神が与えてくださった圧倒的な希望を宣言します。それが、「私たちの主キリスト・イェスにある永遠の命」です(ローマ6:23)。この「永遠の命」もまた、単に天国での永遠に生きるという個人の死後の運命を描いたものではありません。「罪」が世界全体にもたらした「死」に対して、神が最終的な勝利としてよみがえらせた、主イエスの「復活」によって現実となった新しい「命」です。この「命」は、「罪」以上に大きな力をもって世界に拡散するのです。

右の頬を打たれたら?

 しかし。わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。(マタイ5:39)
 
 有名な聖書の言葉に「目には目を、歯には歯を」があります。これは現代では「やられたらやり返す」、危害を与えてきた者に対しては復讐して当然なのだという意味に使われています。しかし旧約聖書でのこの言葉は、「目をやられたら目を仕返しするだけ、歯をやられたら歯を仕返しするだけにしておきなさい。倍返しや、まして殺したりするような過剰な報復を避けなさい」という戒めでした。
 
 しかしイエス・キリストは、[復讐せず、がまんせよ]とおっしやったのではなく、「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」と教えられました。「そんなバカな。カッコつけてなんかいられない」と私たちは思います。もし私たちが自分の頬を打たれたら、一発殴り返すだけでは収まらず、相手をボコボコにしたくなります。「私は悪くないのになんてひどいことを…許せないよ。私たちは実際に殴られることはなくても[売り言葉に買い言葉]など、日常的にさまざまな状況の中で、何度も小さな復讐を企て実行しているのではないでしょうか。職場の人間関係、夫婦、子育て、介護の生活の中で…。
 
 そして私たちはこの言葉を読むと、たいてい相手がこちらを攻撃している状況を思い起こします。でも私たちは常に「やられる側、被害者」なのでしょうか?私が誰かを攻撃したり、ひどい言葉を投げつけたり、自分勝手な要求を押し付ける加害者になっていることはないのでしょうか?
 
 もしあなたが自分を「正しい人また被害者」として聖書を読もうとするならば、イエス・キリストの教えはいつまでもあなたのものになりません。「右の頬を打つ悪人が実は私なのだ」という事実を受け止めたとき、聖書は無限に開かれていきます。
 
 私が拳を上げて打ったその顔を、左に向けてくださったのは、十字架にかけられた真の神、救い主イエス・
キリストなのです。

春を待つ

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
 (詩篇23:1~2)
 
 日本の季節の中で、一番寒い月を迎えています。日照時間は弱く短く、外出時には防寒服が必要です。みぞれや雪の降る日が続くと、「早く春が来ないかなあ」とついつぶやいてしまいます。人間は皆、苦しかったり、辛かったり、寒かったりする現実から、少しでも早く解放されたいと願うものです。

 しかし私たちの人生は、自分が願うようになるとは限りません。そんな時どんな方法でそれを超えることができるでしょうか?

 このような寒さの中にあっても、徐々に春のきざしが見えてきます。
「最も崇高な一瞬は、最もつらい状況のすぐ近くに在る」という言葉を知りました。現実を嘆かず、希望を持って待ち望むことが大切です。

 詩篇の中でダビデ王は詩っています。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。

 ダビデ王は少年の頃、牧者(羊飼い)でしたが、選ばれて、王になりました。しかし、自分の息子に命を狙われる試練に遭いました。そんな中で、主(神)はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない、と告白しています。羊飼いは、羊が危険な目に遭わないように常に共にいて、守ってくれる存在です。父なる神が困難な環境から必ず救い出してくださるゆえ、わたしには乏しいことがないとの信頼です。

 一番寒い季節の向こうには温かな春が待っています。桜のつぼみも寒さの中でじっと待っているのです。今のこの時をしっかり受け取り、耐えていくならば、やがて花咲く時がやっ
てきます。いこいのみぎわに伴ってくださる主を信じて、歩を進める私たちでありたいものです。

聞くに早く

人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。(ヤコブ1:19)
 
 昨年の10月25日、台風21号の余波による大雨の日に私は東京から電車で帰宅の途についていました。いつもの通りに電車内から、家内にメールで最寄り駅への車の迎えを頼んだところ、大雨なので東京にある家内の実家に泊まるようにとの返信でした。
 
 私はただの雨ではないかと思い、家に帰ると連絡しましたが、電車は途中駅で止まり、運転再開の見通しはありませんでした。家内から今度は駅周辺のホテルに泊まるようにとの連絡でしたが、私は駅でリゾート施設行きの送迎バスを見つけて、先に進むために乗り込みました。途中、家内に迎えを頼むたびに、雨で外出ができないと断られ続けていましたが、もうこれ以上は進むことができないので何とか頼むとお願いしました。しかしその施設から自宅へ向かう3本全ての道路が崖崩れで通行止めとなっていることが分かり、車は諦めました。
 
 そこで歩いて帰ることにして、崖崩れの土砂の中を踝(くるぶし)の上まで浸かって歩き、冠水した道路では、憐れんだドライバーに乗せてもらって進んで行きました。崖崩れを越えた所で、家内に迎えを頼む電話をしましたが、後から聞いた話では、友人から「危ないので迎えには行かないように」と止められていたのです。

 3時間ぐらいは歩き、自宅まで数キロの所までは来ましたが、そこから先の道路は胸の高さ位まで冠水していると聞いて、その近くの、避難所である小学校の体育館で泊まることにしました。
 
 あとから考えて、もしも家内が私の頼み通りに車で迎えに出ていたらどうなっていたのだろう、私が歩いた崖崩れの道がもう一度崩れたらどうなっていたのだろう、と考えるとぞっとします。
 
 人は自分の考えにとらわれやすく、人の話は聞いても正確には聞き難いものです。しかし正しい判断を行うためには、まず正しく聞く必要があります。正しく聞くことは、自分も自分の愛する人をも守ることになります。

2019年

人生のテーマを考える

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17 新改訳2017)
 
 1950年代後半に、精神科医エリックバーン(Eric Berne)は、「人間には人生の脚本がある」と言いました。脚本とは、子ども時代に、親を中心とする周囲の影響の下で発達し、現在も進行中のプログラムのことです。これは、個人の人生の最も重要な局面、例えば、職業の選択、結婚、育児、人間関係、決断、行動、意識などで、どう行動すべきか指図するものであり、私たちの人生はこれによって左右されるのです。つまり、人生のテーマ(脚本)は、親によって与えられると言うことができます。それは、いつも無意識に繰り返される人生のパターンです。

 人生のテーマ(脚本)は、禁止令(育ってきた環境で身に付いた否定的な価値観)が原因となって、自分でも気付かないうちに、不都合な人生のパターンを繰り返してしまいます。多くの人々は、この人生のテーマ(脚本)を自分の性格の一部だと思い込み、苦しみながら支配されて暮らしているようです。

 自分自身の辛い人生のテーマ(脚本)を変えたいと思いますか?

 聖書はこのように言います。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(Ⅱコリント5:17)

 イエス・キリストは、私たちの間違った人生のテーマ(脚本)を書き換えるために、この世に来てくださいました。そして、私たちに新しい人生の脚本を与えてくださいました。イエス・キリストは、私たちの古い人生のテーマを自ら背負い、十字架の上で死んで解決してくださいました。イエス・キリストを受け入れる人は、古いものが過ぎ去り、全てが新しくなります。

神さまか造ってくださった
秋を楽しむ

神は、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。(使徒行伝14:17)
 
 秋の雨の季節が終わって、季節が移り変わると、空気がひんやりするようになります。そして、木々の葉も色づいて、町の中でも、里でも山でも、秋が深まっていきます。赤や黄色、茶色…いろいろな色に染まって、特に秋晴れの日には、真っ青な抜けるような青い空と色とりどりの紅葉のコントラストが実に見事です。
 
 ただ同時に、色づいた葉は、短い期間のうちに落ちていき、やがて枝と幹だけを残してすっかりなくなってしまいます。ですから秋にはどことなく寂しさが伴います。「失恋」「悲しみ」「別れ」「涙」をテーマにしたような音楽が流れ、気持ちも沈んで、もの悲しくなります。まるで自分が悲劇の主役であるかのように感じたりします。
 
 けれども、葉が色づいて、やがて落ちていくというのは実はとても大切なことです。一年大切な役割を果たした葉が落ちていくときに、次の年のための葉の準備が始まっています。また私たちの心を楽しませ、地面に落ちていった枯れ葉は、多くの生物たちのえさとなり、また続く年月にきれいな花を咲かせ、豊かな実を結ぶために必要な養分になっていきます。
 
 そこには神さまの深い知恵があります。秋は神さまが私たちにくださったすばらしい季節です。この季節に、私たちは美しい自然を楽しみ、神さまが与えてくださった豊かな収穫を共に喜びます。そして、私たちは仕事を一区切りし、一旦手を休めて、大きな恵みを与えてくださる神さまを仰ぎます。高く青く澄んだ空を見上げ、澄んだ空気を思いっきり吸い込んで、感謝を献げるのです。

わたしの祈り

わが魂はもだしてただ神を待つ。わが救いは神から来る。神こそわが岩、わが救い、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
             (詩篇62:1~2)
 
 「祈る」という言葉があります。誰に祈るのでしょうか。ある宗教では、「先祖に」、「亡くなった人に」と言います。私たちは、誰に祈っているのでしょうか。私たちは失敗した時や感動した時に心の中に「神さま」と感じたことはないでしょうか。オリンピックで、ある選手が「Oh my God」と叫んでいるシーンを見たことがあります。
 

 聖書には、私たちは神によって造られた、と書かれています。私たちが時に「神さま!」と叫ぶのは、その造りまである神が、私たちの声を聴いてくださっている、とどこかで知っているからなのかもしれません。
 
 旧約聖書の出エジプト記の中で、神に愛された人たちがいました。その人たちは、エジプトの圧政の下で苦しんでいました。そして、彼らは神に叫んだのです。神は聴いてくださいました。神は彼らを愛し、その人々を救いの道へと導いたのです。
 
 神は私たちのことも同様に愛してくださっています。そして、私たちの声を聴こうとしておられます。
 
 私は以前、神を信じない者でした。しかし、ある時、叫びをもって神を求めたことを思い出すのです。その時のわたしは八方ふさがりの状態でした。どうしたらよいのか分からず、真っ暗闇のような中にいました。その私に突如として平安が訪れたのです。それは、まさに、私が「神さま」と叫んだ時から始まったのです。闇の中にいた者が、神さまを信じたことによって忽然(こつぜん)と輝く光を見つけたのです。私に導きが訪れ、不安から安心へと心が急変したのです。叫ぶという祈りから、揺らぐことのない平安な心が与えられたの
です。

 

渇くことのない命の水

 
わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。(ヨハネ4:14)
 
 暑い夏にはコップ一杯の水が何よりもおいしく、「あゝ、生き返った!」と思うことがあります。「命の水」という言葉がありますが、水がなければ人は生きて行くことができません。水分補給をおこたると熱中症になり倒れてしまいます。水は人間だけでなく命あるものすべて、動物も植物も生きて行くのになくてならない大切なものです。
 
 ある時、イエス・キリストはひとり井戸のそばにすわって休んでおられました。すると、女の人が水を汲みにやって来たので、「わたしに水を飲ませてください」と頼みました。彼女は、思いがけず、見ず知らずの男性から声をかけられてびっくりしたのでしょう、「どうして私に水を飲ませてくださいと言うのですか」と言いました。イエス・キリストは、「もしあなたが、わたしが誰であるか知っていたなら、あなたの方でわたしが与える生ける水を求めるでしょう」と言われました。
 
 彼女には人に知られたくない悲しく暗い過去がありました。けれども、イエス・キリストは彼女の歩んで来た人生の苦しみ、悲しみ嘆き、すべてを知っておられました。そして、生きる希望をもって喜んで生きて欲しいと願って、彼女に声をかけられたのです。イエス・キリストの与える水を飲んだ人は渇くことがなく、その人のうちで泉となり、澄んだきれいな水が絶えず心のうちから湧きあがるようになるのです。
 
 彼女はイエス・キリストの話を聞くとすぐに、「その水をわたしにください」と求めました。そして急いで町に行き、大喜びで町中の人々に救い主・キリストに出会ったことを話したのです。キリストと出会った彼女の心に、二度と乾くことのない、命に至る水が泉となって湧きあがってきたのです。イエス・キリストはあなたにも、生きる希望と喜びを与える生ける命の水を与えてくださいます。 

人知を超えた神の愛

 
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。(イザヤ40:26)
 
 今日、地球上には世界自然遺産と認定された数多くの場所が存在しています。こうした場所を尋ねる時に、大自然の見事さに驚き、感動と畏敬の思いさえ覚えます。自然界は現代人の心の疲れを取り、癒しを与えてくれるのに効果があるのです。
 
 けれども残念なことに、あまりにも多忙な日々を送っている私たちは、この与えられた素晴らしい自然とじっくり触れることもなく、地上の蟻のようにただただ忙しく働いた結果、何を得たのでしょうか。本来のやすらぎ、幸せを共有する家庭に大きな、時に取りかえしのつかない出来事が生じて、その犠牲者の多くは子どもだけでなく、大人の心にも癒やし難い傷をもたらしている。これが悲しい現実の姿です。そんな時こそ、この見事な大自然を通して神は人々に慰めと励ましを与えてくださるのです。
 
 しかし、人間がこの神に造られ、愛されているにもかかわらず、この神から離れて自分勝手な罪の生活を始めた時にこの悲しみ、苦しみが始まったのです。
 
 したがって、今はさまざまなヒーリングやカウンセリングを試みていますが、一時的な慰めで終わり、さらに別の手段を求めますが完全な癒やしは得られないまま、ストレス社会の中に埋もれているのではないでしょうか。
 
 では、その解決法はどこにあるのでしょう。申しあげるまでもなく、この大自然を創造されたお方の下に立ち返る以外に他に道はないのです。自然界を創造された神は、私たちの疲れきった心を慰め癒やしてくださるお方であって、そのお方を知るために御子イェス・キリストをお遣わしになられたと聖書は記しています。
 

人間の価値


神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1:27)
 「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)

 これは、聖書の書き出しに記されている言葉である。神は天地万物を造られたお方であると聖書は語り、その中には人間が含まれている。人間は偶然この世に存在しているのではなく、神が計画と目的をもって造られた尊い存在なのである。そのため、被造物である人間が神の存在を認めないとするならば、人は自分の存在理由と、その価値を大きく見失うことになる。

 この世の中にあっては、自分の本当の価値を見出すことは難しいだろうと思う。自己の価値を見出す基礎といわれる愛のある家庭は、意外に少ないように思われる。険悪な夫婦関係や悲惨な別離も多く見受けられ、夫婦両者の人格と尊厳はひどく傷つけられている。そして、その子どもたちもまた傷ついている。他者の評価と自己評価が過度に結びついている者も多く、そのような生き方は危険にすら思える。人並みに勉学や仕事ができなければ、ひどい劣等感を持ち、他者の評価で二言憂してしまう。また、テレビやインターネットの影響も非常に強力である。人々は世の中のアイドルやモデルの容姿こそ最も美しいと思い込み、自分の容姿にコンプレックスをもっている者も多い。そして、自分の生まれながらの顔立ちを愛せないでいる。

 神に出会わなければ、人間は自分の本当の価値を見出すことは出来ない。なぜならば、神が人間を造られたからである。主イエス様に従って行くなかで、人は自分の本当の美しさを学んでいく。聖書の言葉をただしく受け取っていくことで、人間は神に造られた本来の自分を生き始める。そして、神を礼拝していくなかで、人間はその生きる目的と喜びを教わる。

 聖書は言う、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1:27)。神は全知全能なるお方であり、美そのものである。神は純粋なお方であり、全く真実である。神には汚れがなく、聖そのものである。恐れ多くも、その神に似せて人間は造られたのである。だからあなたは尊く価値ある存在。神はあなたと共に生きることを喜ばれる。
 

イースターは空っぽのお墓の祭り

ここにはおられない。よみがえられたのだ(ルカ24:6)

 
 近所のスーパーでのことです。イースターの関連商品を販売している宣伝の放送が店内に流れていましたが、「イースターとはキリストの復活をお祝いする日で…」と説明されていました。サラッと一言だけですが「キリストの復活」という言葉が語られたのにびっくりしましが、日本でもこれだけイースターが一般的になってきたのだと知って、とても嬉しい気持ちになりました。
 
 イエス・キリストは十字架で死なれその遺体が墓に葬られましたが、復活され、弟子たちや多くの人々の前に現れ、復活されたことを明らかにされました。イースターは、このことを祝うキリスト教会のお祭りです。日本ではクリスマスはよく知られていますが、イースターこそ教会最大のお祭りなのです。

 キリストが復活されたとなると、遺体を葬っていたお墓は空っぽになったわけです。お墓は遺体や遺骨を納めるためのものですから、空っぽのお墓はその存在理由はありません。もちろん、これから納めるけれどまだ空っぽだというお墓はあるでしょう。しかし、これからもずっと空っぽだということなのに、そのことにこそ意味があると、世界中の人々が、かってキリストの遺体を葬ったお墓を見に来るというのです。

 エルサレムには、キリストの遺体を納めたお墓だとされている所が二箇所あるそうですが、そのうちの一つはヨードンのカルバリ(ゴードンという方が発見したので、この名が付いています)」と呼ばれています。そしてそのお墓の扉には、英語でこのように記されています。「He is not here, for He  is risen.
そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」(ルカ24:6)。このお墓が、実際にキリストを葬った所であるかは定かではありませんが、空っぽだということは同じです。ここを訪れた人々は、この空っぽのお墓を見て「なるほど、空っぽだ!」と言って、喜んで帰っていきます。
 
 イースターは、言ってみれば「空っぽのお墓祭り」です。でもそれはキリストのお墓だけのことではなく、「キリストを信じる者のお墓も、いつの日か空っぽになる」ということにつながっているのです。このことについては、ぜひ近くの教会でお話を聞いてください。

希望は失望に終わらない


「希望は失望に終ることはない」
    (新約聖書 ローマ人への手紙第5章5節)
 
 私は、春の祝日に誕生したこともあってか、四季の中で一番春が好きです。自然界の芽吹きと共に、進学や就職、結婚など、新しい人生の出発を祝福する機会も多く、そういった喜びや希望にあふれた人々に出会うことができるのも幸いです。
 
 しかし、人生がいつも希望にあふれているかというとそうではありません。実際には失望することが多いのです。受験や就職に失敗し、望んだ道に進めなかったり、たとえ進めても、途中で挫折することもあります。そのような時、「どうしてこうなったのか」と心を痛め、自分を責め、苦悩する人が多いはずです。
 
 聖書に「希望は失望に終ることはない」(ローマ5:5)との言葉があります。「そう言われても現実は厳しく、失望落胆ばかりでどうすればいいのよ!」と言われるでしょうか。確かに、人の努力、気の持ちようでは解決しません。
 
 「希望は失望に終ることはない」と書いたのはパウロという伝道者です。彼は外国に出て行ってキリストの救いを伝えた人ですが、その使命を貫いただめに、私たちの想像を絶するような困難や苦悩を味わいました。しかし、その中にあっても、希望を持ち続けることができたのです。なぜでしょう。パウロは、自分を振り返り、もし神を信じ、神の恵みと祝福にあずかり続けていなければ、とうの昔に失望していたと述懐し、続けて、失望で終らないのは「神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(ローマ5:5)だと語っています。
 
 私の人生も、多くの困難、試練があり、思い悩み、涙することもありました。
 
 肉体的ハンディキャップだけではなく、精神的に滅入ってしまったことや、さらに手術経験が8回、自然災害にもたびたび遭ってすべてを失い、しまいには交通事故で生死をさまようことにもなりました。しかし、本当に幸いであったのは、すべて失望落胆で終らなかったことです。いつも神の愛の中で支えられ、信仰によって、希望に満たされていたのです。
 
 この春、新しい出発や、目標に向かって夢や希望を持って始められた方々の歩みの上に、主イエスと共にある希望と祝福がありますように。

 

 

2018年

豊かに生きる

 
「人はパンだけで生きるものではなく、神の目から出る一つ一つの言で生きるものである」(新約聖書 マタイによる福音書4章4節)

 マザー・テレサが、お忍びで来日した時、「日本は物質的には世界で最も豊かな国でしょうが、世界で最も愛に飢えている国だと思います」と語りましたその通りで、何不白由ない生活をしていても、心が豊かであるとは限りません。
 
 評論家の加藤周一は、20世紀は「大量生産、大量消費そして人欲虐殺の世紀だった」と言っていますが、これだけ吸かなのに、欲望にとりつかれた人間は、命や物を粗末にしながら暴走し続けました。今や、環境破壊によって引き起こされた異常気象や食糧危機、エネルギー資源の枯渇を突きつけられて、誰もが「この世の終わり」を意識するほどの混迷の時代となっています。
 反面、司馬遼太郎が『街道をゆく』の『モンゴル紀行』で、遊牧民を「奇跡的なほど物欲が少ない」と紹介しましたが、今でも彼らは余計な物は一切持たずに生活しています。同じことが「世界一幸福な国」ブータンにも言えるでしょう。
 
 いずれにせよ、物があふれた国よりも、物をもたない国の人たちのほうがはるかに幸福度が高いのです。同時に、人問が物に執着すればするほど、それと引き替えに、本来あるべき人間性を失っていくのがわかります。
 
 その子は小学6年生でした少し発達が遅れていたせいか、家族の中で「いらない」存在として育ち、虐待が明るみに出て保護されました。両親、きょうだいがいて比較的裕福な家庭だったのですが、5匹の犬はかわいがっても、彼には家族の誰1人、優しい言葉をかける人がいなかったそうです。彼は、自分の家のことをたずねられ、「悪魔の家」と一言、言いました。
 
 周りには、あなたに興味を抱かせる様々な物があり、所有欲をかきべてます。しかし、自分のものにして満足し、持てないほど抱え込みながら生きていても、きっと心にあるのは虚しさだけでしょう。
 主イエスは悪魔から物欲を伴う誘惑を受けた時、「人はパンだけで生きるものではなく、神の目から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書四4)と言われました。
 
 私たちが幸福に生きるために優先するものは何でしょうかそれは、人間性を目覚めさせ、心眼かな1日をもたらす、神の言葉、聖書以外にはありません。

重荷をゆだねよ

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる」
           (旧約聖書 詩篇第55篇22節)
 
 「気が重い」、「体が重い」ということはありませんか。疲れている証拠です。日常のストレスがたまりにたまって、重くなっているのではないでしょうか。

 先日、自動車を発進させたところ、いつもより進み具合が重く、違和感を持ちました。数秒走ってハンドブレーキをきかせたままであるとの警告が出て、事無きを得ましたが、時としてこのようにブレーキをきかせたまま、無理をして生活をしていると、心や体に警告のように重さを感じることがあります。重いと感じたら要注意です。

 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」という言葉は徳川家康の遺訓と言われていますが、人生は長くて苦しいことが多いので、辛抱強く努力を重ねて進むべきであるという意味です。しかし、重い荷物を負いながら、遠い道のりを行くのも大変なことです。重荷を自分のガンバリだけで負い続けることは心や身体を壊してしまう事にもなります。

 聖書はそのような私たちに対して、「あなたの重荷を主(神さま)にゆだねよ。主はあなたを心配してくださるのだ」(詩篇55:22)と教えます。
 
 その言葉の通り、イエス・キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われました。ゆだねるということは、主のもとに重荷を持って行くことです。ただ間違えてはならないことは、重荷を全部お任せ、というのではありません。その言葉このように続きます。「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:29〜30)。
 
 「くびき」とは、荷車を引く牛馬の頸(くび)の後ろにかける横木のことで、重さはこれで分散されるのです。主イエスは、あなたと一緒にあなたの重荷を負ってくださるというのです。1人のガンバリではどうにもならない時に、イエスさまが一緒に負ってくださるので、その荷が軽くなり、真の魂の安らぎが与えられるのです。もしも、重いと感じているならば、あなたの重荷を主イエスにゆだねましょう

自由と幸い

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」

            (新約聖書 ガラテヤ人への手紙第5章1節)

 
 「あなたは今、何か欲しいですか」。
 そう問われたら何とお答えになるでしょうか。ある人に聞くと「やっぱりお金かな」と答えられました。「そのお金で何を買うのですか」と問うと、じっと考えながら「『自由と幸い』かな」と言われました。
 
 「自由」という言葉はいつも私たちの心にあります。あらゆる束縛から逃れ、自由に生きたいという願いがあるのは理解できます。親から逃れたい、学校の勉強からも逃れたい、きつい仕事からも逃れたい。そう思うのはごく自然です。
 
 さて、その「自由」という言葉が、聖書にはたくさん出て来ます。その中のひとつを紹介しましょう。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」(ガラテヤ人への手紙5:1)です。
 
 キリストが「自由を得させる」とありますが、ここで言われる「自由」とは、先ほど述べたような、私たちもが考える自由とはかなり違っており、そのことを「解放して下さった」との言葉が教えてくれます。
 
 それでは、いったいキリストは私たちを何から解放してくださったのでしょうか。
 本来、私たちは自分勝手な存在です。自分のことばかり考え、こうしたい、ああしたいとの思いがいつもあり、そこから脱することができないだけでなく、思うようにならないために、悩み苦しんでいます。つまり自由に生きたいと願いつつ、不自由の中に自分自身を追い込んでいます。これが聖書で言う「罪」です。
 
 この罪は、私たちを創造してくださった神さまから離れ、自分勝手にしたいという思いによって生じます。そして自由を得ようとしてかえって、深い束縛感を味わうようになります。
 
 主イエスはこの私の罪をご自身の身に負って十字架の上で死んでくださり、復活されました。この主イエスの死と復活を信じるならば、それによって私たちの罪は消し去られ、束縛から解放され、自由を得るのです。
 
 私たちは自分勝手に生きることはなくなりますが、それを不自由とは感じなくなります。キリストに従って歩み続けることによってまことの「自由」を味わい、「幸い」もまた与えられていくからです。

最高のカウンセラー


「そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる」
   (新約聖書 テモテヘの第一の手紙第4章16節)
 
 新約聖書にあるテモテヘの手紙は、伝道者パウロから愛弟子テモテ牧師へ書き送られた「指南書」であり、またテモテヘのカウンセリングの役目をも含んでいました。
 
 手紙というものは一方通行でなく、交わされるものですので、テモテが敬愛するパウロにアドバイスを求めたと想像できます。それに対してパウロは自分の体験から得たものを惜しげもなく注ぎ出し、テモテの助けになろうとしました。
 
 テモテはパウロが生み出したエペソ教会に任命されました。パウロは聖書に精通し、高い教養を身に付けていた人物で、このような偉大な初代の後を継ぐことは、一般社会にあっても難しく、テモテは相当のプレッシャーを受けていたでしょうし、同時に、周囲の期待に応えきれない自分を痛いほど感じていました。だから悩んでいたのです。
 
 そのようなテモテにパウロが 勧めたのは次の3点でした。①自分のスキルを高める努力を続けなさい。そのために心を傾けて聖書の言葉を読むべきです。②今あなたが置かれている立場は、神さまが与えてくださったゆえに、神さまがその使命(務め)を全うさせてくださいます。③与えられた務めに励むならば、その結果は必ず現れ、あなたも、そして他の人も神さまの恵みを味わえるでしょう。(テモテヘの第一の手紙四1111一~16)
 
 テモテはパウロの適切な指導により、与えられた務めを全うすることができましたが、私たちも人生において、このような悩みを解消してくれるカウンセラーの存在が必要です。
 
 旧約聖書イザヤ書9章6節に、私たちに「すぐれたカウンセラー」が与えられるとの預言が書かれています。そして、預言の成就者として現れてくださったのが、キリストです。
 
 このお方は、私たちを造られたので、すべてを知っていてくださいます。また、私たちの罪をあがなうため、十字架で命を捨ててくださったほどに私たちを愛してくださっています。ですから最善のカウンセリングがおできになるのです。
 
 あなたは迷っていますか。あなたは悩んでいますか。ならばぜひ求めてください。イェス・キリストは、あなたに惜しげもなく助けの手を差し伸べ、解決を与えてくださいます。

 

確かな神を信じて


「神は…万事を益となるようにして下さる」

         (新約聖書 ローマ人への手紙第8章28節)


 「涙(なだ)そうそう」という歌がかつて大ヒットし、今でも多くの人に愛唱されています。沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味で、歌手の森山良子さんが、若くして亡くなったお兄さんを想って作詞したのだそうです。ふとした時、その人の笑顔を思い出すと涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。そのような、切なくて、また、温かい、心に浸みる名曲です。
 
 誰でも大切な思い出があります。喜びとともによみがえる思い出もあれば、「涙そうそう」のように、涙があふれてくるような悲しい思い出もあるでしょう。いずれにせよ、私たちの人生は様々な出来事が織りなされて作られていきます。もしあの時に戻ることができたらと思ってもそれはできません。戻りたくても戻れない人生であることを思う時、私たちは人生の厳しさを感じざるを得ません。そのような時、人生というのはなんだろう…と考えさせられるのです。
 
 すべてのものが移り変わり、それによって不確かにさえ見える時、果たして、私たちはどう生きればいいのでしょうか。
 
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(新約聖書・ローマ人への手紙第八章28節)との言葉があります。
 
 もちろん、私たち人間には理解できない。何故々があります。しかし、聖書が告げる神は天地万物の造り主であり、私たちをも造ってくださった神です。その神を愛する者には「万事を益となるようにして下さる」という、そういうお方が神なのです。こんなに確かなことはありません。私たちの涙を、私たちの熱い思いを、受けとめてくださるお方なのです。この神がすべてのことをご存じで、最善をなしてくださるのです。このことを信じるならば、生きる勇気と希望がわき上がってくるはずです。
 
 神によって生かされ、神を愛し、神を見上げていくことの幸いをぜひ知っていただきたいと思います。私たちの人生は決して不確かではなく、また、むなしいものでないことをそこでこそ知り得ます。晴れ渡る日も、雨の日も、万事を益としてくださる神にあって、私たちの大切な人生を生きていきましょう。

呼び覚ます声

「イエスは…その人に『なおりたいのか』と言われた」(新約聖書 ヨハネ福音書第5章6節)
 
 イエスさまが、ユダヤ人ヘの祭りが行われているエルサレムに行った時のことが聖書に書かれています。
 
 祭りの最中に人々の前で演説したりすれば、たちまち評判になり注目を集めたことだと思いますが、イエスさまはそうせず、病で苦しむ大勢の人が伏せりて
いるベテスダの池のほとりに行かれました。

 この池には不思議な言い伝えがありました 池の水が動いた時に最初に水に入った人は病が治るといわれていたのです。このため多くの病の人が池の回り
に集まり、水が動くのを今か今かと待っていたのです。
 
 その多くの人の中に38年間も病にかかっている男がいました。人々から見拾てられ忘れられていた彼には、助けて水に入れてくれる人が1人もいませんでし
た。見捨てられ忘れられ、ただの1度も水に入ることができずに38年間が過ぎました。
 
 この時間の長さを想像してみてください。初めは治りたい一心で池のほとりにいたはずの彼ですが、長い時間が経?つちに彼の心は治りたいという意識すら消えていったに違いありません。一日中横になり、わずかな食べ物を目に入れる毎日。それが彼のすべてでした。治って立ち上がり、自分で働き、自分の人生を切り開き、他の人々を幸福にしていく、こうした希望もビジョンもすべて消え失せていたことでしょう。
 
 そんな彼の前に立ち。「なおりたいのか」と優しく問いかけたのがイエスさまです。この言葉を聞いて、男は驚いてイエス・キリストを見上げたことでしょう。
 
 私はこの話に深く心を打たれました。私たちはともすると人間を「一人ひとり」ではなく、束にして、一緒くたに見る傾向があります。人を自分の儲けの対象として、自分の利益のために利用する材料としてしか見ないことさえありますが、イエスさまは違います。
 
 イエスさまは、人々に忘れられ、人々から見捨てられたあなたや私をじっと見つめられます。近寄って手を触れ、優しく今もあなたに「なおりたいのか」と同じ声をかけておられます。その救い主の呼びかけを聞き、愛の手当てを受ける時、一人ひとりが新しいいのちによみがえっていくのです。

挫折から将来の希望へ

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる.…わたしはあなたの神である」(旧約聖書 イザヤ書第41章10節)
 
 もうすぐ還暦を迎える年齢になって、自分の人生を振り返ることが多くなりました。何度か挫折を経験しましたが、いよいよ自分の将来が決まる時に病に倒れことは、私にとって大きな転機になりました。
 
 私は高校を卒業してすぐに神学校に入学しました(大学受験失敗という挫折を経て)。そこは全寮制で必ず2人1部屋。つまり同室者との日々の生活が用意され、それが訓練の一環でもあったのです。
 
 3年生になった時、私は人と自分を比べて優越感と劣等感の間を行ったり来たりして心身のバランスを崩し、とうとう十二指腸潰瘍になってしまったのです。夏の実習の間、休養のために実家に帰りましたが、家は教会です。牧師である両親に合わせる顔がありません。自分のダメさ加減に落ち込んで、ついにうつ状態になってしまいました。誰とも会わずに、自分で這い上がることもできない蟻地獄のような精神状態です。友人たちの「祈っているからね」という励ましの言葉にも、「祈っているわけないだろう」と腹を立てる始末。将来、牧師になることをあきらめざるを得ない、と考えるまで追い込まれてしまいました。
 
 そんな時、子どもの頃からお世話になっていた牧師先生から電話をもらいました「病気になったんだって?」「はい、十二指腸潰瘍です」「そうか。俺も前に胃潰瘍になってな。牧師というのは繊細な心がないとできない仕事だ。十二指腸潰瘍、胃潰瘍になるのは当り前さ」「はい…」「君も牧師に向いているってことだよ。だけど十二指腸潰瘍になるのがちょっと早すぎたな。まだ牧師になってないじゃないか」。
 何力月ぶりに声を出して笑いました。そして落ち込んでいる私を、牧師に向いていると励ましてくださった先生の言葉に、こみ上げる涙を抑えられませんでした。こんな弱い私を牧師として召してくださった神に感謝しつつ、どうしようもない自分を助けてくださいと祈りました。
 
 あれから35年…。あの牧師先生の言葉は正に神の使いのメッセージでした。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」(イザヤ41:10・新改訳)。弱い者に寄り添う神は、挫折で打ちひしがれている者に必ず助けを送り、マイナスの経験もプラスに変え、将来への希望を与えてくださるのです。

イースターおめでとう

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」

 (新約聖書 ヨハネによる福音書第11章25節)

 
 年賀状のお年玉懸賞3等・切手が当たり、郵便局に持って行きました。ある程度の枚数のやりとりがあるので、毎年「切手は当っています。その4枚を窓口で差し出すと、受付の女性が、「おめでとうございます」と言ってくださいました。
 3等でも当だったのだから、喜ばなければならないのですが、ピンとこない。1等なら喜ぶのでしょうが…。

 さて、ここでこれを読んでくださっているあなたに質問をさせていただきたいのですが、「イースターおめでとう」と言われてどのように思われるでしょうか。
 「おめでとう」とは、結婚、進学、就職、出産などの時に使われる、つまり、何かうれしい「出来事」があった時の言葉です。

 イースターとは、イエス・キリストの復活を記念したお祭りです。もし、このイエス・キリストが復活されていないとすれば、「イースターおめでとう」の挨拶は、ピンと来ないばかりか、人を惑わす言葉となってしまいます。

 学校の教科書で、イエス・キリストが十字架にかかった出来事は書いてあります。しかし、復活についは、「弟子たちは復活を信じて布教に当たった…」というようにしか書かれていません。

 イエス・キリストが復活されたことをどうしたら信じることができるのでしょうか。まず、多くの人にいのちを与えて来た、聖書の約束を聞くことから始まります。
 イエス・キリストは約束されました。「わたしはよみがえりです。命です。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きるのです」。

 この復活への信仰は、自分で獲得するというよりも、与えられるものなのです。自分ではどうしょうもない罪の暗やみの中で「イエスさま、助けてください」と祈る時に、実際にキリストの復活の力が与えられるのです。あなたも祈ってみてください。

 今年のイースターは4月1日ですが、毎週の礼拝も、キリストの復活を記念したものです。復活の主イエスを信じ、「おめでとう」と心から信じて喜ぶところなのです。しかも、くじではなくて、信じるすべての人に与えられるものなのです。

油断せず、心を守れ

「油断することなく、あなたの心を守れ」(旧約聖書 箴言第4章23節)
 
 かつて植木等が「スーダラ節」で、「わかっちゃいるけどやめられねえ」と歌い、一世を風扉しましたが、このフレーズは今も多くの人に通じるように思います。
 
 ある講演で、「心は、コロコロするから『心』と言う」と聞いて、感心させられました。学問的なことは差し置いて、見事に言い得ています。テレビや新聞などで様々な事件が報道されていますが、その多くが、この定まらない心が起因となっていると言えます。
 
 もちろん、「心」は相手を大切にし、勇気づけたり、慰めたり、自分を生かしもします。しかし、制御することが難しく、人を破滅へと導いてしまう場合も多いのです。「悪いことをすれば、いつかは必ず罰せられる」とわかっていながら、犯罪に手を染める人がいかに多いことでしょうか。時には、「え、あの人が」と思われるような人が逮捕されたりしています。そうした時によく使われるのが。「魔が差した」です。「悪魔が心を乱して、してはいけないことをさせてしまった」というわけですが、苦しい釈明です。
 
 「出来心」による事件も多く生じています。いたずらであったり、いじめや万引きであったり、不倫なども、ちょっとした気の緩みから生じた悪い心やスリルを求める思い、浮ついた心から行動を起こしてしまい、取り返しのつかない事態に至ってしまうのです。
 
 使徒パウロは、自分の中に相反する2つの心があって悩まされていると言っていますが、多くの人に共通する悩みではないでしょうか。「すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている…。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙8:19~24)。
 
 誰しもが、自分で自分を制御することができず、ちょっとした油断や気の緩みで、人生を破滅に至らしめてしまう心。だからこそ箴言の著者は、「油断することなく、あなたの心を守れ」(箴言4:23)と命じています。
 
 創造主として私たちに命を与え、生かしてくださっている神さまを仰ぎ、寄り頼んで行く時に、神さまはあなたの心を揺るがぬように守り、あなたの生き方を定めてくださるのです。

生きなさい

「あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ」(旧約聖書 アモス書第5章4節)
 
 2年ほど前に岡山県に引っ越してきました。岡山弁は楽しいです。
「ぼっけー美しい」とは、「とても美しい」という意味です。
「阿部、強いぞー」はドイツ語のABCDになるそうです。
「あーベー、つぇーでー!」
 
 ところが非常に驚いたのが、「はやくしなさい」を「はよーしねー」と言うそうです。県外から引っ越してきた子どもはびっくり!「はやく、死になさい」と聞こえてしまうのです。
 
 先日、教会の礼拝で「殺してはならない」という十戒の1つをお話しました。「何人殺したら、死刑になれるのか」ということがネットに書き込まれるような時です、今の日本でもっとも大切な戒めではないでしょうか。
 
 一時期「なぜ人を殺してはならないか」ということが論議されて、いろいろな本も出版されました。でもだれもが「そうだ」という言葉がなかなか見つかりません。
 
 ある少年少女向きの小説の中に次のような言葉がありました。「死ぬ理由がないかわりに、生きる理由もない…」
 
 「なぜ人を殺してはならないのか」。それは、神が私たちをどのように愛していてくださるかということを知らなければ、答えられない問いなのではないでしょうか。「あなたは生きなさい」という神の言葉を聞くことが必要だと思います。
 
 私はキリスト教会の牧師です。私か「生きよ」という神さまからの語りかけを身近に感じるのは、死を前にした方に接する時です。「若い方」「年を召した方」、いろいろな方に接します。先日は私の同年配の方を見送りました。
 
 死を前にした方の前に立つと、自分が生かされていることを実感するのです。不思議ですね。
 
 「わたしは生きている」「わたしは生かされている」ということが実感されるときに真に「人を殺してはならない」ということが理屈だけなくて、神からの「戒め」「語りかけ」として聞こえてくるのです。そして何よりも、キリスト教会の礼拝は「生きなさい」という神からの語りかけを聞く所であるのです。
 
「あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ」(旧約聖書アモス書5章4節)

「神を賛美する」

 
「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます」(詩篇145 : 14)
 
 日本の多くの教会は、日曜の朝十時半頃から、礼拝が始まります。私の教会では、最近、礼拝の始まる十五分ほど前に、ギターを伴奏に「プレイズタイム」という時間を持つようになりました。
 
 プレイズ(Praise)とは、称賛する、ほめたたえるという意味です。誰をほめたたえるのかというと、神です。礼拝が始まる前に、まず神をほめたたえ、賛美する。日常から解き放たれて、ただ神だけを礼拝する、そのための心の準備体操の時といったら良いでしょうか。私にとって、礼拝はもちろんなのですが、このプレイズタイムが、とても心地よい時間となっています。
 
 聖書には、神を信じて生きてきた人たちの言葉が数多く残されていますが、彼らはいつも神を賛美し、神の御名をほめたたえています。
 
 とは言っても、彼らがいつも順風満帆の人生だったかというと、そうでもありません。むしろ苦境に立たされたり、その困難のために打ちひしがれたりすることもしばしばです。けれども、彼らは神を忘れません。困難の中にあっても神を信頼し、神と共に歩もうとしていくのです。そして、神もまた、彼ら一人一人を忘れず、見捨てず、倒れそうになる時には支え、うずくまるような思いになる時には、立ち上がれるような助けを用意してくださるのです。そして、この助けに気づく時、賛美が生まれ、神の御名をほめたたえる歌声が響いてくるのです。
 
 真実に神を信じる者は、自分が弱い存在であることを知っています。だからこそ、神を信頼し、確かに導く神をほめたたえるのです。
 
 新しい年が始まりました。新しい年に皆さんはどんなことを期待していますか。また、何か新しいことを始めてみようと心に決めたことはありますか。
 
 教会は敷居が高いといわれることがあります。でも、どの教会も皆さんがいらっしゃることを心待ちにしています。新しい年が始まったこの時だからこそ、心機一転、お近くの教会に行ってみてはいかがでしょうか。共に神さまを賛美いたしましょう。

「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます」(詩篇145:14)

 

2017年

救いを引き出す暗証番号

「信仰による義人は生きる」(新約聖書 ローマ人への手紙第1章17節)
 
 今年はルターの宗教改革から500年となる記念の年でした。
 少年時代、彼は1枚の絵を目にしました。キリストが描かれ、その右の耳からは百合の花が出、天使によって天国に導かれる人かおり、左の耳からは剣が出ていて、悪魔の手下によって地獄に引きずり込まれる人々がいるというものでした。ルターはこの絵を見て、天国に行くことを渇望したと言われています。
 その後、大学の法学部に進学したルターは、ある日、講義を受けに行く途中で落雷に遭い、その稲光の中に地獄に引きずり込む悪鬼たちの姿を見たように感じ、同時に、自分の進むべきは修道院なのだと受けとめ、即実行してしまいます。ただ、将来を捨ててまで修道士になったものの、そこで過ごすうちに、彼は、他人に迷惑をかけたとか、何か過ちを犯したというのではなく、自分自身の存在そのものが罪悪であるとの思いを持つようになり、苦しみ続けたのでした。
 このように、彼は少年時代からずっと、神のさばきを恐れながら日を過ごしていたのです。
 その彼を救ったのは聖書の言葉でした。自分の罪深さに震えおののいていた彼は、ある日、「信仰による義人は生きる」(ローマ1:17)との御言葉に遭遇し、キリストが自分の罪をあがなってくださったという発見に驚愕します。つまり、罪のないキリストが、罪ある私たちの身代わりとして有罪判決を受けてくださったがゆえに、私たちが無罪とみなされるのだ、と悟ったのです。これが宗教改革の発端となりました。
 クリスマスとは、神であるお方が人間の姿を取って来てくださったことを祝う時です。神は私たちを愛するがゆえに、独り子をこの世に送られました。イエス・キリストは死ぬために来てくださいました。それは私たちが生きるためです。
 私は若くして死の恐怖に震え、人生の目的がわからず苦しみました。福音を聞きつつも、自分はだめだという確信? がありました。しかし福音は「すべて」の人のものであり「すべて」の中には自分のような者でも含まれると知った時は驚きでした。
 キリストの救いは「すべて」の人のもの、あなたのものです。信仰という暗証番号により、神の救いの恵みを引き出すことができます。そして、あなたの人生にも改革が起こるのです。
 

ゆるされる幸い

「われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(新約聖書 イザヤ書第55章7節)
 
 「お母さんは、うそついたことないの?」。3人の子どもたちは、ある年齢になると、同じように聞いてきました。そのたびに、お母さんのうそつき物語が始まります。
 
 「お母さんが幼稚園に行ってた時だよ。今みたいに、送り迎えがなくて、ひとりで歩いて幼稚園に行ってたの。ある日、お友達のB君がね、『帰りにA子ちゃんのお家を見に行こう』って言うの。だからお母さんね、『寄り道はだめよ』って言ったの。そしたらねB君こう言ったの。『お家の人に怒られたら「帰る途中で風が吹いて帽子が飛んで行ったの。追いかけたら遅くなった」って言えばいい』って。こんなうそ、ばれないのかな。
お母さんはね、A子ちゃんのお家を見に行きたかったの。だから見に行っちゃった。そして急いで帰った。そしてね、その通り話したの。『途中で風が吹いて帽子が飛んで行ったの。追いかけたら、遅くなったの』って。そうしたら、お父さんが、大きな目で私のことを見て、ゆっくりこう言ったの。『本当はどうして遅くなったの?』って。やっぱり、うそだってわかるんだよね。それで、『A子ちゃんのお家を見に行きました。うそついてごめんなさい』とあやまったのね。ゆるしてもらってよかった」。
 
 子どもに、「うそをつくとわかる?」と聞いたら、3人とも、「すぐわかるよ。おかあさんもうそついちゃだめだよ。ゆるしてもらってよかったね」と言われました。
 
 自分の言動で相手を深く傷つけたり、また関係を悪くしてしまうことがあります。いつかあやまろうと思っているうちに機会を失い、うやむやにしてしまったり、あやまってもゆるしてくれないことさえあります。ゆるされないことほど苦しいことはありませんが、多くの人たちは、ゆるされない自分を引きずって生きているのです。
 
 しかし、聖書を開くと、そこにあなたの心を安らかにするゆるしが書かれてあります。
 
 神の御子イエス・キリストは十字架の上で私、そしてあなたのために祈ってくださいました。「父よ、彼らをおゆるしください」。この言葉こそが、私たちに与えられるゆるしの鍵の言葉です。教会に来られるならば、どんな罪もゆるしてくださるお方と出会えます。

幼な子のように

 
「幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉い」(新約聖書 マタイによる福音書第18章4節)
 
 「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』」(マタイによる福音書18:1)
 
 「そのとき」とは、主イエスご自身が、「これから私は、苦難を受け、十字架にかけられて殺される。だが、3日目によみがえる」と伝えられた直後のことです。その話を聞いて、弟子たちは「非常に心をいためた」とあるものの、ここでは、それを忘れてしまったかのように、「だれがいちばんえらいのですか」と質問しているのです。
 
 師が直面する重大問題には「我関せず」で、自分の立場を少しでも有利にしたいとする思惑をあからさまに示す姿勢に、人間の本質を見ることができます。
 
 昔も今も、変わりません。私たちは、意識する、しないに関わらず、絶えず他者と自分の立場を比較しながら、自己利益を画策して生きています。その点で、この世は競争社会ということができるでしょう。
 
 しかし、それだけでは社会は成り立ちません。イエスは弟子たちの質問に対し、どう答えたのでしょう。
 
 「すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのであるビ(マタイ18:2~4)と諭しています。
 
 主イエスが幼な子を引き合いに出したのは、清純であるとか、かわいさをたとえるためではなく、自分を低くすることができるからです。
 
 競争社会では、確かに切磋琢磨して能力を伸ばすことができるでしょう。しかし反面、幼児はもちろん、老人、病人、障がい者、経済的困窮者など、社会的弱者は片隅に追いやられ、じゃまもののように扱われてしまうことが起こってくるのです。
 
 そのような人たちもまた、社会の一員として活躍することができることを認め、お互いに助け合って生きなければ、共存できる理想的な社会を築いていくことはできません。
 
 主イエスは、けん制し合い、自己主張するのではなく、互いに愛し合って生きる、天国の生き方を示されたのです。

救い主の意味


「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(新約聖書 マルコによる福音書第16章16節)
 
 「神がいるなら、どうしてこんなひどいことがあるのか」。特に東日本大震災や九州の地震などで、そう思った方も多いのではないでしょうか。牧師である私も、この質問に答えるのは長年苦手でした。本当に苦しんでいる人からそう言われると、なかなか返せる言葉を見つけられなかったのです。
 
 それがある時、はたと気づいたのです。「イエスさまは救い主」と言う、何度も口にしてきた言葉の中に、すでにその答えがあったのです。
 
 イエスさまが救い主であるならば、イエスさまは救うのです。それでは救いが必要なのはどういう時でしょう。いわゆる大丈夫な時には救いは必要ありません。危ない時、窮地です。ですからイエスさまは救い主だというフレーズには、世界には窮地があり悲惨があることが既に織り込まれているのです。
 
 ではなぜこの世には悲惨があるのか。その理由は聖書の最初のところで、神のせいではなく人の罪のせいと速やかに記されます。一方聖書の膨大な残りの文章ほぼすべては、救いについての言葉なのです。「人の罪が、この世界を混乱、窮地に追いやった。だからひどいことは、ある。だけど大丈夫!救い主を用意したから。このイエスを信じる人を、彼は救うよ」。
 
 先日105歳で召された聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生は、常に新しい世界に足を進める人でしたが、またそういう生き方を人にも勧めて活動された人でした。彼のように生き彼のように死にたい、と感じたのは私だけではないでしょう。
 
 聖書が示す救い主とは、日野原先生の生き方と相通じると思うのです。つまり、過去や起きたことに縛られる生き方ではなく、新しい明日を期待し前進を志す生き方です。日野原先生はそういう生涯を全うされました。
 
 「私には救い主がいます」とは、たとえ今までがどうであったとしても、これからに救いがあるということです。救い主は救うから、救い主なのです。
 
 イエスさまご自身が「信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる」(マルコ16:16)と言われます。彼のこの言葉に賭けてみませんか。その人は必ず、必ず、救われます。私も、「主イエスが救い主である」と明言できる証人の一人です。

無駄はない

 
「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(新約聖書 ローマ人への手紙第8章28節・新改訳)
 
 ある時、ひとり娘が病気で死にかかっていたヤイロという人が、イエスさまのところにやってきました。彼は人目もはばからず、イエスさまの前にひざまずいて、自分の家にきて娘の病気を治して欲しいと願いました。ところが、多くの群衆のためになかなか前に進むことができなかった上に、突然、イエスさまが「誰かが私に触り、私から力が出ていった」と、触った人を探し始めたのです。娘の病状を考えれば一刻も早く家に向かいたいヤイロとすれば、無駄にも思える時間が過ぎていきました。
 
 やがて一人の女性が進み出て、どのような事情でコッソリとイエスさまに触って病気が治ったかを人々の前で告白しました。するとイエスさまは「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と告げます。ところがそのイエスさまの言葉をかき消すように、ヤイロの家から「お嬢さんは亡くなられた」との悲報が届きました。ヤイロにしてみれば、「だから言ったじゃないですか。私の方が先でしょ。この女性の病気は治ったのだから、それで良かったでしょ。何をグズグズしていたのですか」とでも言いたいところです。しかし、イエスさまは彼に「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」言われました。
 
 ヤイロが「無駄」と感じていた時間の中で、イエスさまは彼のために時間を用いていました。イエスさまに最後の望みをかけて病気を治してもらった女性の証言も、恐れと不安に飲み込まれそうになる中で娘の悲報が飛び込んで来るまさにその時に女性に告げられた「安心して行きなさい」との言葉も、実は、ヤイロのための言葉でもあったのです。イエスさまに期待して訪ねてきたヤイロの信仰を、一回りも二回りも強く、確かなものとするために、その女性の信仰と、彼女を救った神の子救い主なるイエスさまの御業を見ることが必要でした。
 
 神さまにあって無駄なことはありません。私たちが経験するすべてのことも、いえ、私たちが経験していないということすら、やがて私たちが神さまの恵みと祝福を受けるための大切な土台となるのです。
 
「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28・新改訳)

 

新しく造られた者

 
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(コリント人への第二の手紙5:17)
 
 私は、中学、高校とラジオ少年でした。今でいうとパソコンオタク?ゲームオタクでしょうか。

 いつも古いラジオやテレビを集めて、使える部品を取り出すところから始めます。新しいラジオを作るのが目標です。雑誌を脇に置いて、はんだごてを握り、徹夜しての作業。スピーカーから音が出たら、飛び上がって喜びました。本当は新しい部品を買ってきて作りたかったのですが、学生の身。お小遣いも、肝心な技術もなかったというわけです。
 
 ところで現代の最先端技術では、遺伝子にまでメスを入れ、人の性格まで作りかえるとか。ゲノム編集というそうですね。分子の配列をコピーし、クローン人間も作ることができるそうですが、こんな技術で、私たち人間を、清らかで優しい、しかも強くて優秀な人に作りかえることができたら、ずいぶん世の中は良くなるかもしれませんね。
 
 でも、誰が人の良し悪しを決めて、メスを握るのでしょう。ともすると、自分の心と気持ちを正せなくなる人類なのに。しかも多様な人々を受け入れながら、多様な価値観を柔軟に受けとめることができる人を作り上げる。その設計図?コピー元?どうするのでしょうか。
 
 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント五17)
 
 私か大好きな聖書の言葉です。天と地とをお造りになった神さまが、私たちの人柄さえも、造りかえてくださると宣言します。「新しく造られた者」とあります。材料も部品も、元になるものが何もない、そこに造り出すという意味です。古いものの再利用ではありません。私たちのことを、新しい材料で新しく、です。しかも、人類の歴史の最初から、全部をご存知のお方が、そして世界の完成を目指しておられるお方が、優しい御手を動かしてくださるのです。
 
 「ラジオ少年だった君が、どうして牧師さんになったんだ?」と、当時の仲間がいぶかしがります。自分でも、そう思います。しかし、みなさんも、是非教会に行ってみてください。実は、教会に集まっている人たちは、みんなそうです。そしてあなたも。
 

 

神に向かって

 
「わたしが神にむかって声をあげれば、神はわたしに聞かれる」(詩篇77:1)
 
 今年の大型連休も行楽地への人出は多かったようです。都心に帰る人たちのピークだった4日には、関越自動車道上りは高坂SA付近から約40㎞もの渋滞が発生したとのことでした。
 
 お気づきだと思いますが、電車、道路などでは、行き先を案内するために、便宜上の起点を設けて「上り」「下り」を用います。関越道の場合は東京の練馬で、そこに向かう時が上りとなります。
 
 聖書にも時々、「上り」「下り」が出てきます。「さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである」(創世記12:10)もその一つです。信仰の父と呼ばれているアブラムですが、この場面では非常に軽率な行動を取っています。「ききんがあったので、エジプトに下った」のです。
 
 今まで神さまに頼って生活していたのに、ききんになったら、「神さまは信用しません。食料が豊富にありそうなエジプトに行きます」というわけです。聖書は、この、神さまを捨てるようにしてエジプトに行くことを「下る」と表現しました。
 
 こうもりの話を知っていると思います。鳥には「私は翼があるからあなたたちの仲間ですよ」といい、けものたちには「私は毛が生えているからあなたの仲間です」と都合良く振る舞うという寓話です。日本の政党にも、都合良く、あっちへいったり、こっちへ来たりして、いつも有利な方につく人たちを見受けます。しかし、そのような人たちは、このこうもりの話の結末のように、結局、信用を失い、本質を暴露され、みじめな姿になってしまうのです。
 
 考えてみると、目の前だけの利益に動かされて、都合良く生きようというご都合主義が、大半の生き方であるかも知れません。「今日はこっち、今度はあっち」。自分がどのように生きるのかをしっかり考えていなければ、そんなことをし続けていくうちに、自分を見失って、いつしか、世の中に流されしまうのです。
 
 アブラムはエジプトに下ったことで、自分の愚かさをさとり、神に信頼する、本来の生き方に戻すべく、エジプトを離れ、神のもとに「上って」いきました。あなたも、ご都合主義と決別し、神に向かって「上って」ください。

 

さあ、思い切って教会へ

 
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)
 
 キリスト教の聖者の一人、アウグスティヌスという偉大な神学者、思想家は、その著書「告白録」の中で「人間は神の中に安らうまでは安らぐことはない」という言葉を残しています。
 
 考えてみてください。実際、私たち人間は何をしても満たされない空虚な心を内に持っていはしないかと言うことです。外見では笑顔で素敵な人の心の中も、そうでない人の心の中も実は…そうなのではないでしょうか。ある人は真理を求めて学問を究めようと努力します。ある人は、富や名誉が人の幸福と思い、飽くなき追及をする人もいるでしょう。
 
 いやいや、そんなつまらないことより一回きりの人生楽しまなきゃと酒とギャンブル、性欲の欲望に捕らわれる人もいます。誘惑に溺れる場合は本人のみならず、周囲の家族や友人をも巻きこんで混乱を来し、見過ごしできない問題ともなり得ますでしょう。
 
 聖人といわれたアウグスティヌスも、実は若い時期、肉欲に溺れ、名誉欲に駆り立てられた生活をし、また、他宗教にも心動かされていた時期がありました。ところが、30歳代の時に、それまで追い求めてきたものが空しく、何と移り気で、はかないものであるかということに気づかされたのでした。
 
 そのような時に、神を求める人は幸いです。彼は幸いなことに彼の母モニカの忍耐深い祈りと信仰に助けられて、神だけが満たすことのできる平安な心が与えられ、その後の彼は大いに変えられていったのでした。
 
 聖書の中でイエス・キリストは言います。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と。イエス・キリストは「神のもとに行く道はこれだよ」と教えたのです。
 
 「私の十字架の死によって、誰でも神の豊かさの中に憩うことができるのだよと」と紹介したばかりか、その上、神の御子としてのご自身の命を惜しげもなく投げだしたのです。教会に掲げられている十字架はその意味があるのです。
 
 あなたも思い切って教会に行ってみませんか。あなたの心の隙間にこの世の何をもってしても満たされない平安と豊かさが宿るでしょう。

「畏れる」を知らない時代でよいのか

 
「主を畏れることは命の源 死の罠を避けさせる」(箴言4:27・新共同訳)
 
 朝日新聞(2017.2.3)で鷲田清一氏が書いた「折々のことば」を読み、私は久し振りに新聞の切り抜きをしました。その記事の冒頭には、小説『沈黙』の著者である遠藤周作の言葉が引用されています。それは、次のような一文です。「畏(おそ)れると恐れるとのちがいを若い人は知っていない」。
 
 私か注目したのは、この遠藤周作の言葉を踏まえて、鷲田氏が「若い人というより時代の問題なのだと思う」と書いている点でした。
 
 まわりの人を無視するように自己中心にふるまい、自分を正当化する、その傍若無人ぶりを指摘しているのでしょう。あたかも自分が神であるかのような態度に、「『畏れる』を知らない時代」を見たのだと思います。
 
 確かに、毎日のように報道される殺傷事件の多くは、身勝手で、自分の都合しか考えないことで起きています。「畏れる」を知らないことが原因なのです。世界で繰り返される戦争やテロも同様です。そして、畏れを知らない人たちの行為が、至る所で「恐れ」を生じさせ、私たちの心に、究極の恐れである「死」を予感させています。
 
 私は子どもの頃、学校の帰り道で犬にかまれたことがあります。そのせいか、いまだに心のどこかに犬をこわがるところがありますが、このように、それらは、突然襲われた時に沸き起ってきた恐怖、あるいは、想像を絶するような自然災害に遭遇した時の恐怖心も含め、だれもが経験している「恐れ」を呼び起こし、「死」と直結させ、私たちを支配してしまうのです。
 
 それでは、その「恐れ」から逃れるためには、どうしたらよいのでしょう。
 
 それは「畏れる」ことです。「畏れる」とは、自分を圧倒する存在と出会うことであり、その聖なる存在に接して、自分の罪深さを知り、その前におののくことです。
 
 人が畏れるべきは神です。人が神を畏れ、神を礼拝する時、悪夢から覚めるように、傲慢さから解放されるでしょう。
 
 それだけではありません。その罪が、主イエスの十字架のあがないによってゆるされ、復活の力によって、死に勝つ信仰が与えられ、何の恐れもない生き方ができるようになるのです。
 

「人生の休息」

 
「わかしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイによる福音書11:29)
 
 3月は年度替わりのあわただしい季節です。卒業式や入学、そして新社会人の準備は大変でしょう。それでなくても、忙しい毎日を過ごしておられるのですから、「いつになったら、ゆっくり休めるのだろう」と思うのも当然です。
 
 かつて、湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞した時、あるアナウンサーが、夫人にマイクを向け、「奥様が一番ご苦労された事はなんでしたか」と質問すると、「主人を寝かせることがとても大変でした」との答えが返ってきたとのことでした。帰宅しても机に向かい続け、周囲が白み始めても、朝になったことに気がつかなかった、それほど没頭し、休みなく研究していたのだそうです。
 
 ちょうど戦後の復興期にあたり、このような逸話が利用され、昼夜休みなく働くことが当然のように奨励されていきました。自分のみならず、家庭も顧みず、休みなく働き続けた結果、確かに経済発展は果たしたでしょうが、その代償はそれ以上に大きかったと言わざるを得ません。
 
 過労死なども問題にされながら、他人事のように、これ以上、忙しいことが生きている証拠のように毎日を送るなら、あなた自身にも、ゆとりや心の豊かさを求める気持ちが失せてしまう時がくるでしょう。
 
 もし、自分には休みが必要なのだと思われたならば、何をさしおいても、ぜひ礼拝にご出席ください。そこはあなたの心の休み場所となります。
 
 神の前に出て、すべてから解き放たれる時間、何よりも聖書の言葉によって魂の活力を受ける時、あなたは新しい命に満たされるでしょう。仕事にも意欲やビジョンが芽生えてきます。家事や育児にも、そして人間関係にも心の平安が反映され、良好な関係が築けるはずです。神の力と知恵に満たされて、今まで求めても得られなかった、解決の道が開かれるに違いありません。
 
 「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29)と主イエスは言われました。肩の力を抜いて、神の前に休まれてはいかがでしょうか。
 
 体ではなく、心の休息こそが、今のあなたには、そしてあなたの人生には必要なのです。

「光が描く鮮やかな世界」

 
「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつ」(ヨハネ8:12)
 
 山形県在住で、知人でもあるステンドグラス作家の遠藤昭雄さんが、88歳にして初の個展を昨年末に地元で開催しました。
 
 若い頃より聖書を題材にした絵画やガラス絵など、長年創作活動に没頭してきた遠藤さんが、最終的にたどり着いたのがステンドグラスでした。ヨーロッパ製の色ガラスを仕入れ、図案に基づいて大小様々な形にカットし、200~300個ものパーツを、鉛で丹念につなぎ合わせて一枚の作品を完成させていくのだそうです。
 
 吸い込まれるような深い青を基調とし、絵画のような鮮やかな色づかいで描かれる遠藤さんの聖書物語の世界は、時に荘厳であり、時にユーモラスであり、限りない優しさをたたえています。
 
 ステンドグラスは光があってこそ美しく輝きます。日差しを浴びる角度によって、登場人物は、刻一刻とその表情を変えます。そっと手で触れてみると燃えるような光の熱さが伝わってきます。夜間は、外からの光を当てることで、日中とは異なった趣きを楽しむことができます。灯りのついた室内からステンドグラスの窓を眺めたところで、感動のないモノクロの世界でしかありません。しかしそこに背後から照明を当てるやいなや、作品に命が注ぎこまれ、画中の人物がにわかに躍動し、多様な色彩が輝きを放つフルカラーの世界へと一気に変貌します。
 
 東日本大震災の際、各地で計画停電が行われましたが、電力の供給がわずか数時間ストップするだけでも、どれほど困難なことであるかを痛感させられました。夜間の停電は、普段は当たり前と思っていた灯りの絶えない生活空間を、順番に漆黒に染めていきました。
 
 今日、人も世界も多様性に輝いています。それぞれが独自のカラーを持ちながら、一つに調和して輝くためには外からの光に照らされる必要があります。イェスーキリストという光で互いの存在の中心が貫かれ、燃えるような熱い神の命が注ぎこまれるなら、冷たく感動のないモノトーンの世界は、喜びに満ちた彩り豊かな世界へと変えられていくのです。
 
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもっであろう」(ヨハネ8:12)
 

「神を賛美する」

 
「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます」(詩篇145 : 14)
 
 日本の多くの教会は、日曜の朝十時半頃から、礼拝が始まります。私の教会では、最近、礼拝の始まる十五分ほど前に、ギターを伴奏に「プレイズタイム」という時間を持つようになりました。
 
 プレイズ(Praise)とは、称賛する、ほめたたえるという意味です。誰をほめたたえるのかというと、神です。礼拝が始まる前に、まず神をほめたたえ、賛美する。日常から解き放たれて、ただ神だけを礼拝する、そのための心の準備体操の時といったら良いでしょうか。私にとって、礼拝はもちろんなのですが、このプレイズタイムが、とても心地よい時間となっています。
 
 聖書には、神を信じて生きてきた人たちの言葉が数多く残されていますが、彼らはいつも神を賛美し、神の御名をほめたたえています。
 
 とは言っても、彼らがいつも順風満帆の人生だったかというと、そうでもありません。むしろ苦境に立たされたり、その困難のために打ちひしがれたりすることもしばしばです。けれども、彼らは神を忘れません。困難の中にあっても神を信頼し、神と共に歩もうとしていくのです。そして、神もまた、彼ら一人一人を忘れず、見捨てず、倒れそうになる時には支え、うずくまるような思いになる時には、立ち上がれるような助けを用意してくださるのです。そして、この助けに気づく時、賛美が生まれ、神の御名をほめたたえる歌声が響いてくるのです。
 
 真実に神を信じる者は、自分が弱い存在であることを知っています。だからこそ、神を信頼し、確かに導く神をほめたたえるのです。
 
 新しい年が始まりました。新しい年に皆さんはどんなことを期待していますか。また、何か新しいことを始めてみようと心に決めたことはありますか。
 
 教会は敷居が高いといわれることがあります。でも、どの教会も皆さんがいらっしゃることを心待ちにしています。新しい年が始まったこの時だからこそ、心機一転、お近くの教会に行ってみてはいかがでしょうか。共に神さまを賛美いたしましょう。

「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます」(詩篇145:14)

 

2016年

「神の非常手段」

 
「御子(イエス)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ3:16)
 
 あの3・11の震災以降、どこで大地震が発生しても不思議ではないのだと感じるようになりまし瓷。特に、約三百年に一度、断層がずれて大震災をもたらしてきた南海トラフが、その時期にさしかかっているといいますから、まさに非常事態です。ただ、当然、手をこまねいているだけではありません。様々な場面を想定しての対処、救済方法が考えられ、備えられています。
 
 さて、今年もクリスマスシーズンが到来しました。キリストの誕生を祝う日であることは知られていますが、イエス・キリストがどういうお方で、その誕生がどのような意味を持つかについては、あまりご存じないのではないでしょうか。にぎやかにイルミネーションをともし、ケーキを囲んで楽しもうとする前に、ぜひ、クリスマスが「神の非常手段」であったことを知っていただきたいと思います。
 
 神は人間を特別な愛の対象としてお造りになったのですが、初めの人アダムは神に背き、そこから人間の罪の歴史が始まります。神から離れた人間は、その後も罪の度合いを深めながら、現在に至りました。このままでは、人間は滅びるのみです。
 
 造り主である神は、正しいお方ですから、罪を必ずさばかれるのですが、ご自身の造られた人間がさばかれ、滅ぶことを望まれず、救う道を備えられます。そこで、神が私たち人間を愛し、慈しみ、その罪と死から救うために非常手段をとられたのです。 非常手段とは、どうしても達成したい時に取る行動、奥の手のことをいいますが、神がなされた人間への救いは、まさに意表をつくような方法でした。
 
 それはご自分の独り子であるイエス・キリストを地上に送り、私たち人間の罪を負わせて身代わりの死をとげさせた上で、それを信じる者は、罪がないものとみなす、というものでした。 このことにより、日々の生活の中でも共に寄り添い、守り、助け、導いてくださりながら、この地上の生涯を終えた後は、必ず訪れる死とさばきの時に、信じる者は罪をゆるされた者として、神のもと(天国)に受け入れられる道を開いてくださったのです。
 
 クリスマスは、神があなたを救うため、イエス・キリストを降誕させてくださるという、非常手段を決行してくださった記念日なのです。

「神と共に歩む」

 
「わたしはあなたと共にいて、…あなたを捨てず」(創世記28:15)
 
「その男は不安と絶望の中、とぼとぼと旅を続けていた。頭上にはジリジリと容赦なく輝つける太陽、周りは果てしなく広がる荒野。なにより、孤独であるのがつらかった。
 
 男の名はヤコブ。信仰の父といわれるアブラハムの孫である。彼は、父の跡継ぎを巡って兄と争い、策略を尽くしてきたが、ついに兄の激怒をかってしまい家にいられなくなってしまったのだ。そして、母の実家の地へと逃れることになった。目的地支で七〇〇㎞。そこまでの一人旅を始めたところである。
 
 その日も一日歩き続け、日が暮れようとしていた。彼は一つの大きな石を取って、枕元に置き、そこで野宿をすることにした。悶々としつつも、なんとか眠りにつき夢をみた。
 
 大きなはしごが天と地とをつないでおり、そこを天使たちが上り下りしていた。ふと気づくと祖父と父から聞いていた、主なる神がヤコブのそばからこう語りかけた。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこに行くにもあなたを守る。そして必ずこの地に連れ帰る。わたしは決してあなたを捨てず、このことを行うであろう」。
 
 ビックリして目覚めたヤコブは、しかし、もう孤独感にさいなまれることはなかった。自分には神が共にいてくださる。この旅も神が守ってくださり、そして、またこの地に帰って来ることができるのだ。彼は枕元に置いた石を立てて、そこを神と出会った記念とし、力強く旅を再開した」(創世記28:10~22)。
 
 あなたはこの話をどのように受け取られるでしょうか。
 
 私たちも日々の生活の中で様々な困難に出会います。不安に駆られる時、絶望を感じる時があります。誰かに相談したくても、中々その思いに共感してもらえるような人に出会うことができません。家族や友人に話せない場合もあるでしょう。そんな時、なにより孤独であることが身にしみます。
 
 しかし、神さまは、私たちに、「わたしはいつもあなたと共にいるよ。わたしは決してあなたを捨てることはないよ」と言ってくださるお方なのです。誰よりも力強い味方なのです。
 
 あなたがいつも共にいてくださるこのお方を心にお迎えする時、あなたはもう孤独ではないのです。

「宝物が隠されている」

 
「錬達は希望を生み出す」(ローマ人への手紙5:3~4)
 
 思わず、「なぜ?」、「どうして?」と思ってしまうこと、ありますね。そんなとき、それをどう受け止めたらよいのでしょうか。

 もちろん、算数の問題ではありませんから、1十1=2というように、いつでも同じ答えが出せるというわけにはいきません。
 
 そんなときに、私がしている一つのことは、賛美歌を歌うことです。
 
 私のお気に入りは、「こどもさんびか」の「主イエスとともに」という曲です。この歌の中に「うれしいときも、悲しいときも、歩きましょう、どこまでも」という歌詞があります。うれしいときだけでなく、悲しいときこそ、イエスさまはそばにいてくださり、一緒に歩いてくださっているのですね。
 
 ところが、うれしいときはイエスさまがそば近くにいてくださると思うのですが、悲しいときは、ひとりぽっちで、何だかイエスさまが遠くに行ってしまったように感じてしまうことがあります。でも、この賛美歌を歌っていると、「そうだIイエスさまが一緒に歩いてくださっているのだ」という思いが強くわいてきて、勇気が与えられるのです。「なぜ?」、「どうして?」と思うようなことに直面するときほど、「それでも、イエスさまは私のことを愛してくださっている。一緒にいてくださっている」と信じることが大切だと感じています。
 
 それから、もう一つのことは、「そこに宝物が隠されている」と受け止めると良いと、ある方から教わりました。悲しいことは悲しいし、苦しいことは苦しいです。ですから、悲しいときは泣けばいいし、苦しいときは、「苦しいよ~!」と叫んでよいと思います。でも、「きっと、これは、悲しいだけでは終わらない。苦しいだけでは終らない。そこに、宝物が隠されている。すぐにはわからないかもしれない。見つかるのは、一年後、二年後、いや、ずっと後になってからかもしれない。でも、きっと宝物が隠されている」。そんなふうに思ってみたらどうでしょう。きっと、希望がわいて来ます。だって、聖書はこう約束しているのですから。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」(ローマ5:3~4)と。

「白髪になるまで背負われて」

 
「白髪になるまで、背負って行こう」(イザヤ46:3~4・新共同訳)
 
 「朝には四本足、昼には二本足、夕方には三本足の生き物はな~んだ?」。これは、ギリシャ神話に出てくる有名なスフィンクスのなぞなぞです。答えは…「人間」です。赤ちゃんの時は、はいはい、その後は立って歩き、老人になると杖を突いて歩くようになるからです。人間は、体の機能が衰えても、人生で培われてきた知恵を使って歩くことができます。
 
 しかし、私たちは、杖を使うことができなくなる時が来ることを知っています。年齢を重ねると、ついには自分の力で歩けなくなります。病気や事故のために歩けなくなることもあるでしょう。
 
 聖書は興味深いことを伝えています。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」(イザヤ46:3~4・新共同訳)。
 
 誰もが、生まれた時には、誰かに負われなければなりませんでした。人生の最期もそれと同じように、誰かの助けがなければ生きられません。
 
 人の記憶は、3、4歳の頃からのものです。ですから、私たちは、自力で歩けず、トイレも食事もすべて世話されていたことは覚えていません。私たちは、お世話してくれていた人たちのことを忘れているように、神さまのことも忘れてしまっています。しかし、親が子を忘れることがないように、神は私たちを忘れることがありません。赤ちゃんだった時に負われていたように「あなたが、白髪になるまで、背負って行こう」と最後まで私たちを背負って、共にいてくださるというのです。
 
 神が遣わされたイエス・キリストは、神を忘れ、自分勝手に生きていた私たちの罪をも背負い、私たちの身代わりに十字架についてくださいました。私たちの悩み、病気、心の痛みを理解し、共に担ってくださる方です。
 
 神は、歩けなくなってから背負うだけではなく、白髪になるまでの途中の日々も、つまり全生涯を担ってくださっています。私たちが、誰の力も借りずに自分の力で歩いていると思っている時も、実は、神に負われ、生かされているのです。

「私たちを導く牧者」

 
「主はわたしの牧者」(詩篇23:1)
 
 「永遠のベストセラー」と呼ばれる聖書の中に、古今東西の人々を慰めてきた有名な詩があります。ダビデ王によって書かれたものです。
 
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23:1~4)
 
 聖書では、主(神、キリスト)と私たち人間との関係を、牧者(羊飼い)と羊の関係にたとえています。というのは、羊と人間はどこか似ているところがあるからです。
 
 たとえば、羊は迷いやすい動物です。目の前の仲間について行こうとする習性があるそうです。仲間が右に行けば自分も右に行く、仲間が左に行けば自分
も左に…。そんな調子ですから、容易に道に迷います。また、羊はたいへん弱い動物です。猛獣に襲われたら、なすすべもなく餌食となります。そのため羊には牧者が必要です。正しく導いてくれる牧者、強敵から守ってくれる牧者。そういう存在がどうしても必要なのです。
 
 私たちも近視眼的で遠くの方がなかなか見えません。他の人と同じことをしていれば何となく安心ですが、違うことをしていると不安です。そこで周りを見て、なるべく同じことをしようとします。でも、大勢の人について行けば、果たしてそれで良いのでしょうか?間違いのない道を歩めるのでしょうか?
 
 また、人間は強いようでいて案外弱い一面を持っています。この世には多くの危険や罠があります。地位も財産も家族も持っている人が、一瞬の災害や事故ですべてを失うことだって、あるいは一瞬の誘惑ですべてを損じることもありうるのです。
 
 羊のように弱くて迷いやすい私たちには牧者が必要です。「わたしはよい羊飼である」とイエス・キリストは言いました(ヨハネ10:11)。
 
 この私たちの牧者は、私たちを造り、愛し、いのちを与えてくださるお方です。どんな時でも私たちを見捨てないお方です。このお方に守られ、導かれながら、この世の生涯を歩みませんか。
 

「愛される人生」

 
「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ43:4・新改訳聖書)
 
 ある生命保険会社のCMが、一時期TVで放映されていました。「人生は○○のようだ」という切り口です。人生は…延長戦、オーケストラ、山登り、フルコースなど、人それぞれで違い、とても面白いコマーシャルでした。これは、「あなたは自分の人生をどのように見ていますか?」という問いかけです。
 
 有名なアルピニストは「人生は山登りのようだ」、あるシェフは「フルコースのようだ」、世界的指揮者は「オーケストラのようだ」。他にも、ガンジー、エジソンなど、有名な人々の言葉を紹介していました。
 
 さて、あなたはどのような人生のイメージをお持ちですか?自分が強く意識したものであろうが、無意識であろうが、そのイメージが、あなたの人生を導く可能性が強いのです。
 
 もし「人生はパーティだ」と考えるなら、その人の人生の価値観は楽しむ事です。「人生はレース(競争)だ」と考えるなら、その人の価値は早い事にあり、何でも急いでしてしまうでしょう。マラソンなら、忍耐が重要な価値観となります。戦いなら、勝利する事が最も重要な人生の価値になります。
 
 フロイトという心理学者は、「人生とは愛することと働くこと」と言いました。私はまさにそうだと実感しましたが、ある大学教授か、フロイトの言葉を批判しました。「働く事ができなくなれば、それで人生は終わりなのか。また愛する対象を失うことも人生にはあるのです」
 
 私たちはみんな年を取ると慟けなくなります。若くても、病気になることがあります。他の問題で働くことができなくなる事も起こります。働いているかどうかで、私たちが測られるとしたらそれは厳しいことです。どれだけ役立ち、できるかで、人の価値が計られるのですから。愛する人を突然亡くすこともあります。
 
 聖書は、人の価値をその人の能力や何かをすることに置きません。その人が、その人であるがゆえに尊い。聖書の神は、私たちを大切な存在だと言って、愛してくださるのです。私たちが誰かを愛する前に、私たちは神に愛されているのです。
 
 「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ43:4・新改訳)

「魂の渇きをいやす」

 
「わたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ福音書7:37~38)
 
 地球以外の他の星に生物が存在するかどうかを調べる時に、水がその星にあるか、ないかが問題になります。中でも火星には氷の存在や地表に水が流れた痕跡などから、地球外生物が存在した可能性があると言われています。水はすべての生き物の命を生かすために必要です。
 
 それだけではありません。聖書はさらに深ぐ、人間の「魂」に必要な水について教えています。
 
 「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」(詩篇42)とあります。干ばつが続く中東の山岳地帯にあって、動物の本能に従い、生きるために水を求めて深い谷間をおりて行く鹿を見た人が、その鹿の姿と人間の魂の渇きとをだぶらせて詩をよんだものです。
 
 「わが魂もあなたを慕いあえぐ」の「あなた」とは神です。人間の魂は、自分を創造された方が神であることを知っていて、神だけが渇いた魂を満たすことができるとの本能から、神を慕い求めるのです。
 
 イエス・キリストは、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と叫ばれています(ヨハネ福音書7:37、38)。
 
 人は、内にある強い思いをどうしても届かせたい時に、叫ぶのではないかと思います。
 
 セカチューと称され、映画化もされた「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説がありましたが、イエス・キリストは二千年前に、すべての人類に向かって、魂を満たす生ける水を与えたいために、叫ばれたのです。
 
 ある日、久しぶりに教会の礼拝に来られた方がおられました。どことなく、疲れているような暗い表情で席につかれました。しかし、その方は、礼拝が終わると、見違えるほどの明るい表情で、「礼拝に来て本当によかった」と言われたのです。後で話を聞いてみると、「何か目先の問題が解決したというのではなく、礼拝に来たことで、自分の渇きがいやされたのです」と言われました。
 
 教会の礼拝は、キリストによって、生ける水を飲むことができます。神を慕い求める魂は、真の神への礼拝によって、その渇きがいやされるのです。
 

「支え合う群れ」


「愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう」(Ⅱコリント13: 11)

 ある時、ビデオ映像投稿サイトで、興味深い映像を見ました。
 
 子どもの牛がトラの群れに襲われ、水辺まで逃げましたが捕らえられます。その上、そこに川からワニが襲いかかり、絶体絶命。その瞬間、画面の左から牛の大群がその子どもの牛を助けるために押し寄せて来、トラを蹴散らして仲間の命を敵から救い出すのです。
 
 おとなしい弱いものでも大軍になれば、強いものに立ち向かっていける。この光景はイエ
ス・キリストを中心とするキリスト者の群れである教会と重なり合います。
 
 「最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう」(Ⅱコリント13:11)。
 
 教会に集う一人ひとりは、持っている性格や能力も異なっています。そればかりではなく、生い立ちや人生経験、家庭環境も違います。当たり前のことですが、信仰という唯一の共通点がキリスト者を一つの群れとしてまとめている、それが重要です。
 
 そして、何よりも、信仰を持った時、私たちには神の霊(聖霊)が分け隔てなく、そして等しく心に与えられることがわかります。この聖霊の働きは、どんなに異なる個性を互いに持ち合わせていたとしても一つにさせることができ、またその聖霊は、私たちが弱さともろさを持った土の器のようなものであることを教え、助け合うことの必要性を促すのです。
 
 信仰は一人で守り抜くことはできません。だからこそ、支え合う信仰の仲間が不可欠です。
 
 神は、血のつながった家族と同様に、お互いに支え合い、励まし合い、そして受け入れ合う場として教会を与えられました。その教会では、人の力ではできなくても、聖霊の力と助けによって可能となる世界が造り出されていくのです。それが、イエス・キリストをかしらとする教会の姿です。
 
 もしあなたが教会に足を運ばれたならば、神がここにおられるという思いと、その神を信じる者たちが互いのために祈り合う、うるわしい関係にふれることができるでしょう。
 

「希望のあいさつ」

 
「イエスは死人の中からよみがえられた」(マタイ28:7)
 
 生まれて数十日で天に帰った娘の葬儀で、その父である牧師が司式をなさり、「やがてこの子と、天で『おはよう!』と挨拶を交わす時が来るでしょう」と語られました。愛する者を失う大きな痛みの中でも、神を信じる者にとって、肉体の死は最後ではない、復活への希望があるのだというメッセージでした。
 
 地上での家族や友人との関係、また自分との関係さえいつか終わりを迎えます。どんなに願っても別れなければならないのが現実です。ただあきらめるしかないならば、なぜ生まれ、なぜ生きてきたのか、生きる意味がわからなくなってしまいます。
 
 しかし、すべての意味を失わせる死への恐ればかりでなく、あきらめるだけでは納得できない感覚、もっと現実を超えたその先の世界があるのではないか、そのように考える力が人には与えられています。
 
 このようなことは、いつもいつも考えているわけではないでしょう。それでも、永遠を思い、真実な愛を求め、人生の節目には何かきよらかな存在に触れたいと願う感覚は、誰もが抱くものではないでしょうか。人と人との関係だけではなく、自分の存在に意味を与えている大いなる絶対的な存在との関係が、人には必要なのです。
 
 聖書には、神から人への呼びかけの言葉が記されています。そして、主イエス御自身が、人に命を与える命そのものであると宣言されています。復活された主イエスは、墓の様子を見にきた女性たちに「おはよう」と言われました(マタイ28:9・新共同訳)。これは喜びを促し希望をもたらすあいさつでした。
 
 人は自分に命を与え、生かしておられる神と出会う時、自分の深いところにある渇望が満たされる経験をします。限りない世界をもつ神との関係によって、限りあるものがなくなっても失われない世界をもつのです。私たちの命は限りあるものですが、主イエスによって与えられる命によって、死の恐れは復活への希望へと変えられるのです。
 
 「おはよう!」というあいさつは、新しい一日の始まりを告げます。復活の希望も、生きる意欲を呼び起こします。私たちは日々新しく与えられる神の恵みをうちを、喜びをもって歩むことができるのです。
 
 

「あなたは高価で尊い」

 
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
 
 年頭、人気グループの問題が国会やNHKニュースでも取り上げられ、話題になりました。彼らの代表曲が、教科書にも載っている「世界で一つだけの花」だったからかも知れません。 花だって一つとして同じものはない。それは人間も同じ。だから、「ナンバーワン」にこだわる必要はないじゃないか。あなたはもともと、あなただけしかいない特別な「オンリーワン」なんだよと歌いかける内容は、学校や会社で競い合い、いつも勝つことを強いられてきた日本人の心をとらえました。
 
 私も感動したものの一人ですが、実は、この生き方は、まさに、聖書があなたに語っているメッセージなのです。
 
 たとえあなたが神さまに背を向けて歩いていたとしても、神さまは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」、つまり、「あなたは世界に一つだけの花」だと言ってくださっているのです。
 
 神が私たちを尊い存在だとする二つの理由があります。
 
 まず、神さまが人間を造られたのは、神さまと交わりをもつためだったからです(創世記1:27)。神さまは、何よりも、あなたとも交わりをもちたいと願っておられる、だから尊いのです。次に、人間が「命の息を吹き込まれた」存在だからです(創世記2:7)。神さまは、私たちを特別優れているからとか、道徳的に立派だからと言う理由で愛するのではありません。「生かした」からこそ、分け隔てなく愛し、尊い者としてくださっているのです。
 
 この神さまの愛は、イエス・キリストによって、明らかにされました。キリストは、私たちの滅びと死の原因である罪を消し、救うために、身代わりとして十字架にかかられました。私たちに代わって死んでくださった、これ以上の愛はありません。それは、私たちひとり一人の存在が、神の前に尊い者とされていることの証明でもあるのです。
 
 この神の愛のゆえに、私たちは背伸びすることも、一番になる必要もありません。神が「そのままのあなたが尊い、わたしはあなたを愛している」と語ってくださっているからです。

 「よそ見をしない」

「全き者となりなさい」(創世記17:1)

 わが家では、年頭に「今年の目標」を発表し合っていますが、ある子どものそれは、「よそ見をしない」でした。いつも小学校の先生に言われているのでしょう。
 さて、神さまはある時、99歳の老人に向かって、「全き者となりなさい」(創世記17:1)と言われました。非の打ち所のない、完璧な者になれとの命令のように受け取れます。そう言われたアブラムはどう答えたでしょうか。「もう、ここまで生きたのですから、私のやりたいことをやらせてください」、そう考えてもおかしくありません。
 しかし、果たして、神さまは本当に、私たちにどこまでも清廉潔白で罪も汚れもない完璧な人間になるようにと、ご命令されているのでしょうか。
 人が完璧を目指しても、そうはなり得ません。逆に、ストレスがたまっていき、そのうち、目標に届かない自分の情けなさに嫌気がさしてしまいます。
 多くの人たちは、前記のようにして、聖書を倫理、道徳の教科書のように読んでいます。「敵を愛せよ」との言葉を耳にすれば、その瞬間、「愛せるわけがない」と思ってしまう、そのため、聖書からの本当のメッセージをつかめないのです。
 神さまは、アブラムにこう言われたのです。「あなたはわたしに従って歩み、私の顔を見続けて、よそ見をしないようにしなさい」。「全き」とは、倫理的完璧さではなく、心の方向が神さまにのみ向かっている、その姿勢を示しているのです。
 誰かを好きになった時、「その人しか見えない」と表現することがあります。そうなると、いつもその人のことを考えるようになります。その人がいやだと思うことはしなくなるでしょう。相思相愛であることがわかると、一日は充実し、不思議に自分の生活が変わっていくはずです。
 信仰とは、倫理の実践ではなく、神さまに向くことなのです。
 周りには、あなたに興味を抱かせる様々なものがあり、現に、きょろきょろといろいろな所を向いているかもしれません。しかし、それは不安定きわまりない生き方なのです。
 神さまは、あなたを祝福しようと、今も語られています。「あなたの心を私に向けて、よそ見をしないようにしなさい」。

笑顔は祝福のもと

「心の楽しみは良い薬である。たましいの憂いは骨を枯らす」(箴言17:22)

 あなたは昨年、どのくらい笑ったでしょうか。
 あなたは、ご自分の生活の中に笑いを取り入れていますか。
 笑いを誘うテレビ番組の一つに、「笑点」があります。不思議と笑っているうちに、一日のいやな事が忘れられ、元気をもらったような気持ちになります。
 「笑う門には福来たる」ということわざがありますが、いつも笑いがあふれる家には自然に幸運が訪れ、明るく朗らかであれば幸せがやってくるという意味だそうです。確かに笑いは「笑いに勝る良薬はなし」などと昔から知られています。
 また、3回薬を飲むより1回笑う方が身体に良い。よく笑い、よく寝れば医者はいらないなど、笑いと健康に関する言葉が世界中に存在します。笑いには、痛みの緩和、内分泌に関する影響があるほか免疫系で働くNK細胞の活性化が上昇するなどの効果も認められています。精神面においても、不安や緊張の緩和などの効果があるようです。
 このように考えてみると、笑いは私たちに健康を与えると共に周囲の人々の心を明るくする「希望の光」と言えるのではないでしょうか。
 さて、同じ「希望の光」であっても聖書が示す「希望の光」はイエス・キリストご自身です。このお方はあなたに笑いならぬ「生きる喜び」を与えてくださるのです。現実に多くの人々がイエス・キリストを心に迎え入れることによって、あきらめと絶望の中に、生きる喜びと、新しい人生の道を見い出すことができています。
 リンゴも食べてみないとその味がわからないように、信仰の世界も同じです。昧わってみないとわかりません。
 あなたが聖書の言葉に聞き、守る時、たましいに幸いを得、そして心身共に健康で活気に満ち、何事にも感謝する肯定的な生活を送ることができるのです。
 迎えた新しい年、あなたの人生に神さまの豊かな祝福が注がれますようにお祈りいたします。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5:16)

2015年

「キリストを心に迎えて」


「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった」(ルカ2:11)

「御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである』」(ルカ2:10~11)

 私は30年程前、ある精神病院の検査科に勤務していました。自分の仕事が終わると患者さん方とおしゃべりをし、一緒に歌うことを日課としていました。

 ある時、病院内のクリスマス会で病棟の出し物について相談を受けたので、「クリスマスにぴったりの劇があるので任せてください」と申し出ました。

 私は、アルコール依存症の30代~70代の20数名の男子病棟の担当となりました。早速、降誕劇の台本を書き各自にお渡ししたところ、「こりゃ外国の劇かい?」「男だけで大丈夫?」「へえー。イエスキリストは馬小屋で生まれたんだ!」など、さまざまな反応があり、いずれにしても、この劇に患者さんたちが興味を持ってくれたことを、神さまに感謝しました。

 マリヤの配役には筋骨隆々の30代の男性、天使は全身入れ墨だらけの60代の男性が名乗りをあげ、その他、ヨセフ、羊飼い、博士、天の軍勢、星、羊、宿屋の主人、ナレーターなどもスムーズに決まりました。約一ヶ月間、病棟では朝から患者さん方の台本の読み合わせや笑い声が聞こえてきました。そして、クリスマス当日、全員が緊張しながらも劇を無事やり遂げ、最後に冒頭の御言葉を一同で言えたことは本当に神さまの恵みでした。

 この劇の内容は歴史上本当にあった事実です。今から約二千年前にユダヤのベツレヘムに神のひとり子、イエス・キリストが人類の罪を救うためにお生まれになりました。イエスさまは私たち人間の罪を背負って十字架にかかり、死なれました。しかし3日目に死人の中からよみがえられ、今も生きて信じる人の中に住んでおられます。イエス・キリストを信じるだけで天国への切符が手に入るのです。

 クリスマスは神のすばらしい愛の現れの出来事です。あなたもどうぞイエス・キリストをご自分の救い主としてお迎えし、本当のクリスマスの意味を知ってください。神に栄光あれ!。
 ハレルヤ!
「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ1:37)

 

「『神の福音』が私たちを支える」

 
「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えてぷ言われた」(マルコ1:14)
 
 皆さんのご記憶にも新しい事と思います。二ヶ月ほど前、鬼怒川の堤防が決壊しました。大量の泥水が、茨城県常総市の町々に被害をもたらしました。私も、下流にある水海道の町々が、一面、湖のような状態になったのを目の当りにして驚きました。その水海道には、私たち夫婦が交わりをもたせていただいている牧師家族が住んでいます。教会堂の被害は床下浸水とのことでしたが、道路が通れるようになり、先生方を訪ねることができたのは、堤防決壊から一週間後でした。
 
 その時、被災した水海道の町中を通りましたが、改めて被害の大きさに心が痛みました。被災された方々が、水に濡れて使用できなくなった家具や畳などを外に積み上げていました。その動作は、一つ運んではしばらくたたずむというものでした。体に力が入らないといった様子です。泥を被って白黒になった町の風景が、被災された方々の落胆した心中を表しているようにも思いました。
 
 そうした中で、私は、次の日曜日の礼拝で開く聖書の御言葉を思い巡らしていました。イエス・キリストが、福音を「神の福音」と語られたことについてです。
 
 福音は、私に復活の命の喜びを与え生活に色彩を与えるものです。このたびの、色が失われてしまうような出来事は、人ごとではありません。私にも、力が本当に出なくなり、落胆する事が起こり得るのです。祈っても起き上がる勇気と力が与えられないまま、失意のうちに亡くなる事もあり得るのです。それは、私には、福音を作ることも、祈りで福音を操作することもできないということでしょう。
 
 イエス・キリストが語られました。福音は、十字架の死と復活によってもたらす「神の」福音ですと。私は、ここに福音の確かさがあると思いました。
 
 「私」ではなく、「神」によるゆえの確かさです。私たちが失意のうちにうなだれても、大きな喜びにあふれても、神は、私たちを神の福音でいつも支えぬいておられる。だから私たちは、なお望みある者として、喜び、悲しみ、励み、落胆することができるのだと。そう私は心を巡らしました。
 
 このたびの豪雨で被災された方々や町々の早期の回復を祈ります。

「バトンをつなぐ」

 
「私の助けは天地を造られた主からくる」(詩篇112:1~2)
 
 柿が色づく季節となりました。秋は芸術の秋、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋などさまざまな「○○の秋」がありますが、秋というと、私はスポーツの秋が最初に浮かんできます。
 
 小学生時代、夏休みが終わると運動会の準備に取りかかったものです。あの当時は裸足で競技をしましたから、校庭の石拾いから始めました。秋風が心地よく、空にはうろこ雲が出ていて何とも言えない清々しさを感じたものです。
 
 運動会当日、早朝に、「パン、パン、パン」という花火の音を合図に気合が入り、朝飯をそこそこに、運動会に参加しました。今のようにテレビゲームのない時代でしたので、身体を動かす事が唯一の楽しみでした。綱引き、棒倒しでは真剣に汗を流し親子競技ではそれぞれの家族が大声を出して応援している姿が懐かしく思い出されます。競技中につまずいたり、転んだりする生徒が出ると、「がんばれ!」と声援がとび、運動会が盛り上がります。しかし、人生の歩みで予期せぬ出来事に遭遇した時には、多くの人は、盛り上がるどころか逆にヘコミます。
 
 私は二十二歳の時、ある国家試験に落ちるという経験をしました。その時は就職も決まっており、大学生の弟の面倒をみながら、働きながらの勉強となりました。十数冊ある教科書を、もう一度最初から勉強をするのは大変骨の折れる作業でした。上司に「今年落ちたら辞めてもらう」と言われ、がんばったつもりがダメでした。その時は、何と報告したら良いかわからず、トイレで祈りました。心に詩篇112篇1、2節「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこからくるのだろうか。私の助けは天地を造られた主からくる」の御言葉が響いてきました。私は祈りつつ上司に報告しました。「もう一度だけチャンスをあげるから」と言われ首が繋がりました。翌年、合格することができました。
 
 聖書の神さまはあなたがどんな状況の時も見捨てず、必要な助けを必ず与えてくださいます。たとえ、つまずき、転んだとしても、大丈夫!神さまは御言葉を通して、起き上がる勇気と力を与え、最善へと導いてくださいます。この神の恵みのバトンをあなたにも手渡したいのです。是非、教会の門を叩いてみてください。

「前向きに」

 
「信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」(Iヘテロ1: 8~9)
 
 私はサッカーが大好きです。Jリーガーの三浦知良さんと同い歳で、その尊敬するカズが引退するまでは私も頑張り続けるつもりです。とは言っても年々体の衰えは進み、近年、通算12回目の骨折を始め怪我との戦いが絶えません。さらに、足を引きづっているところを家内に見られると「もうやめなさ!」の一撃が飛ぶので、痛みに耐えて振る舞う、今日この頃です。
 
 他にもいろいろな事にチャレンジし、何事も前向きに受け止めて歩んでいますが、以前の私はそうではありませんでした。両親も兄弟も友達も、そして自分自身も好きになれず、下ばかり向いて、空しい毎日を過し、「自分は生きていなくてもいいんじゃないか」「自分という存在がなくなってしまえばいいのに」、そう思っていました。
 
 18歳の春、親元を離れて、東京で一人で生活するようになりました。色々な行き詰まりの中、「死にたい」「死にたい」と思うようになっていたそんな時、高校の時のお世話になっていた先生の言葉が頭をよぎりました。
 
 「困った時や苦しい時は、教会へ行ってごらんよ」。その言葉になぜか素直になれて、近くの教会を搜して、集会に集うようになりました。毎週の礼拝の中で、疑問に思っていたこと、わからなかった事の答えが語られてとても驚きました。神さまは生きて働き私に語りかけておられることを感じました。そしてある日、イェスーキリストは、人を憎み、神を神としない自分勝手なこの私の醜い罪のために私に代って十字架にかかってくださったことがわかりました。
 
 イエスさまを心に迎えると、私には大きな変化が起こりました。目に見えるすべてものが輝いて見えるようになったのです。そして、神さまに愛されている自分を大切にし、周りの人々のために祈る者とされました。
 
 今私は、子どもがサッカーボールを夢中で追いかけるように、前向きに喜びを持って歩んでいます。
 
 「あなたがたは、イェスーキリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」(Iペテロ1章8~9節)

ひと休みしませんか

 
「わたしのもとにきなさい。あなたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)
 
 学校の夏休みや企業の休みが集中する8月は、たくさんの方が旅行に出かけます。皆さんの中にも、実家に遊びに行く計画を立てている方、あるいは、海や山に休養を兼ねて旅行を予定している方もいらっしやることと思います。
 
 私の住む所から車で20分程のところに、伊勢湾岸高速道のパーキングエリア(PA)、刈谷ハィウェィオアシスがあります。なんでも、日本のテーマパークの中で、昨年の来場者数が第三位だったそうです。もちろん、第一位は東京ディズニーリゾート、第二位は大阪のユニバーサルースタジオージャパンです。 刈谷PAは、一般道路からも乗り入れがでます。単なる休憩場所ではなくて、温泉施設あり、併設の児童遊園地あり、スーパーありと、魅力あふれる場所になっています。買い物客の多くは近隣の住民で、何回もやって来るそうです。
 
 古くから、多くの先人たちは、「人生とは旅だ」と表現してきました。サッカーの元日本代表選手、中田英寿さんも、引退メッセージのタイトルにその言葉を使いました。
 
 皆さんも、いろいろな意味において、「人生は旅だ」とお思いになりませんか。子どもから大人に成長するまでの日々を思い起こしてください。中年から老人と呼ばれるまではどうだったでしょう。勉強や子育てに悩んだ日々もあれば、失業やリストラの恐怖におびえた時、自分の健康や家族の介護のことで忙しかったりと、ホッとする暇もない、忙しい毎日が続いたり…。本当に、苦労が多く、大変ですよね。
 
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と、イエスさまは私たちに呼びかけます。しかも、あなたと一緒に、あなたの肩の重荷を担ぎ、あなたを決して孤独にさせないと言うのです。呼べば、必ず来てくださる神さまです。
 
 聖書に登場する人物や信仰者の多くも旅人として描かれています。彼らでさえ、苦しみや悲しみに直面すると、失望し途方に暮れます。しかし、イエスさまは彼らと一緒に旅を続けて、支え続けます。皆さんもホッとひと休みしてみませんか。イエスさまを呼んでみませんか。

忙しいですね

「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」(ルカ10:42)
 最近、あなたは忙しいですか。そうですよね。本当に毎日、追いまくられて生活しているような気がします。
 さて、聖書の中にも、忙しさが話題になっている箇所があります。ルカによる福音書第10章38~42節にある、マルタとマリヤという姉妹が登場する記事です。
 
 その日、姉のマルタは、イエスさまと弟子たちの一行を自宅に迎えて、接待に忙しく動き回っていました。一方、妹のマリヤは座って、教えを語り始めたイエスさまの話をじっと聞いていました。それを見たマルタは、たまりかねて、「わたしの手伝いをするように妹におっしやってください」とイエスさまに訴えました。ところが、イエスさまの反応は意外なものでした。一生懸命世話をしていたマルタよりも、じっとしていたマリヤの方をほめたのです。イエスさまの話を聞くことこそが、最も重要であるとの理由からでした。
 
 私たちの人生に当てはめてみましょう。
 学生の頃から部活や受験勉強、そしてアルバイトや就活。社会人になれば様々な責任が課せられ、家庭を持てば自分だけではすまなくなります。その折々に成し遂げたい目標があり、それが忙しさに拍車をかけているわけです。
 
 しかし、この、一見充実しているかのような時期を過ぎた時、あなたには何か残っているでしょうか。また最晩年に当たって、どんな目標を持っていると思われますか。
 
 やがて人は誰でも老いを迎え、最後にはこの世での人生を終えねばならない時が訪れます。その時、自分の人生は忙しいだけで何もなかったのかと肩を落とすことのないように、聖書は「忘れてはならないこと」を教えています。
 
 それは何でしょうか。マリヤのように神さまの言葉をじっと聞くことです。そのことで、私たちは永遠のいのち、すなわち、神とつながって生きるという、人間の究極の目標を知ることができるからです。
 
 もしこの目標をつかんでいるなら、忙しさの中にも、自分を見失うことなく、最後まで、人として豊かな生き方ができるのです。ぜひ、聖書に触れ、また教会の集会にご出席ください。

自分の日を正しく数える

「おのが口を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩篇90:12)
 
 今年二月に運転免許証を更新しました。ただ、その際、私に「高齢者講習」の通知が届いたのです。「お~、私は高齢者だったのかあ(心の中でつぶやく)」。今までほとんど気にもしてなかった自分の齢を急に感じた瞬間でした。
 
 先日も同様なことがありました。バスカードで駅の改札口を出る時、「料金不足」が示されたのですが、精算に手間取っていると、後ろの若い女性がまことに丁寧に教えてくれたのです。
 
 「そんなにもたついてた~?(心の声)…そういえば郵便局でもあったなあ、送金の方法を聞いたら、小学生に説明するかのように、記入欄すべての書き方を教えられたっけ。(あの~、書き方は知ってるつもりだけど、年寄り扱いなの?)」。
 
 しかし、思い返すと、家の中で、一日に何回かモノを捜しています。「老い」を認めざるを得ないのでしょうか。
 
 誰にも「老い」が来ます。自分に残された年月は、今までの年月よりずっと短いのです。「自分には死など来ない」と思っているかのように行動する若い人たちにも「老い」は必ず訪れます。そして死は確実に、そう、100%の確率で誰にもやって来るのです。
 
 ですから、自分に訪れる死と、そして死後、どうなるかを知っている人は幸いだと思います。なぜなら、それに備えた生き方を、今のこの時に、することができるからです。
 
 このことについて、聖書はどう言っているでしょう。
 
 「われらのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、はねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。…われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩篇90:10、12)
 
 あなたが30歳なら過ぎた日は1万1千日、80歳まであと1万8千日です。その人生の日々を生きる知恵を得させていただこうではありませんか。
 
 この知恵とはキリストの救いを示しています。キリストの救いは、あなたに永遠のいのちを与えます。この「永遠のいのち」を得ていれば、死も、そして死後の心配もなくなり、今のこの時を、充実させて生きていくことができるのです。

わたしが道である

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6)
 
 私は愛知県の三河地方に住んでいます。
 ある日の午後、教会の案内を配って歩いていると、ある所で石碑を見つけたのです。
 
 それは、日本地図を作成した伊能忠敬が「この所で宿泊した」という記念碑でした。そこには次のような刻印があったのです。
 
「伊能忠敬
享和3年1803年4月14日
本田定石衛門宅」
 
 学生時代から知っていた人物でしたが、調べてみました。
 伊能忠敬は、50歳の時に隠居し、家督を長男に譲ったのち、江戸に出て、江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などをおさめて、1800年56歳の時に、第一次測量を開始したということでした。全国を歩きまわり、日本地図をつくったのです。
 伊能忠敬は日本中を歩いて、その歩数で測量したのですが、その歩幅は正確でした。前に汚いものがあっても「ふんづけて」歩いたというようなエピソードもあります。歩いた距離は、実に四万キロ、つまり地球を一周したことになるそうです。
 明治時代になっても使われたという正確な地図を作るために彼は歩いたのです。それと同時に実は北極星を観察して自分の位置(緯度)を測量、確認しつつ歩きました。
 
 北海道を車で旅行した時です。真っ暗になり、方向が全くわからない中、カーナビがあったことによって目的地にたどりつけたということがありました。また、そのカーナビも目的地があったからこそ、機能したのです。
 
 私たちは、この地上を歩いて生活しなければなりません。 私たちは「どこから来て、どこに行けばいいのでしょうか」。この質問の答えが出てこないとしたら、この地上の放浪者となってしまうでしょう。
 イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14:6)と約束されました。私たちはこの変わらない約束を見て歩むことができるのです。なんとすばらしいことでしょう。どこに行ったらよいのかを知ることができるようにされているのです。
 
 キリストは、その道を備えてくださり、その道を歩む力「命」を与えてくださるのです。

本当の自由

「自由を得させるためにキリストはわたしたちを解放して下さった」(ガラテヤ人への手紙5:1)
 
 「自由」と「自分勝手」の違いは何でしょう。
 
 スポーツ中継などで、「本当にあの選手は自由にプレーしていますねー」という解説を耳にし
ます。伸び伸びプレーをしているのならいいのですが、もし、ルールを無視して自分のやりたい放題のプレーをしたら、試合は壊れ、本人は退場です。本来あるルールにのっとっているのか、自分で作ったルールで行動しているのかが、「自由」と「自分勝手」の違いなのです。皆さんは、自由に生きていますか?それとも自分勝手に生きていますか?。
 
 人を創造された神は、聖書の中に、人が自由に生き生きと生きるために、人間本来のルールを示しています。それに従って生きていく時、人は自分勝手ではなく、本当の自由を得るのです。
 
 そのルールとは、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本文である」(伝道の書12:13)です。後半を別の訳では、「これが人間にとってすべてである」としています。「神を恐れ、その命令を守れ」とは、天地創造の真の神を神として信じ、認め、造ってくださった神を愛し、従うこと、また、神の命令である「自分を愛するように隣人を愛すること」です。
 
 ではどうしたらこのルールに従って人間本来の歩みができるのでしょうか。
 
 聖書にザアカイという人物が出てきます。権力とお金が彼のルールでした。神を恐れず、隣人を愛することもしない、権力とお金というルールの中で自分勝手に生きてきた彼の心には、本当の自由はなく平安も喜びもなく、隣人との関係も悪いものでした。しかし、本来の人間の姿を失ったそんな彼に主イエスは近づき、神の愛による救いを与えたのです。彼は、自らの過ちに気づき、悔い改め、神を愛し、隣人を愛する者に変えられ、本当の自由を得たのです。
 
 誰でも、イエスーキリストのなしてくださった十字架のみわざと復活の力によって、恐れていた罪や死の力からも解放されます。神が人間に与えられている本来のルールに従って生かされ、初めて本当の自由を得て、伸び伸びと人生を歩めるのです。
 
 「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」(ガラテヤ5:1)。

決して沈まない人生

 
「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(マタイによる福音書14:27)
 
 寒い冬には硬く小さかった蕾(つぼみ)も徐々にふくらみ、春の訪れを待っているかのように咲きはころびます。私は梅花の香りが好きで、春がやって来るのが毎年楽しみです。
 私たちの人生にも、同様に、忍耐を必要とする時があります。突然の病気や、仕事や試験の失敗、人間関係のトラブルなど、まるで寒い冬のように思える出来事が起こることがあります。しかし、私たちがこの天地宇宙を創造し、私たち人間一人ひとりをこよなく愛し造られ、私たちの人生をも導いてくださるイエスさまに目をとめて信じ受け入れるならば、硬く小さかった蕾が春になれば必ず開花するように、冬のように思えた辛く苦しい時期さえも、やがて必ず解決される時が来ると期待する生き方へとあなたは変えられるのです。
 聖書には「水の上を歩いた弟子ペテロ」の話があります(マタイ14:29)。舟で湖を渡ろうとしましたが、沖に行くに従って波風が強まり、舟は思うように前に進みません。このことは、私たちの人生を表しているかのようです。そこに、嵐の中を湖上を歩いて舟の近くまでやって来たイエスさまが登場します。
 イエスさまを幽霊と間違えて震え上がる弟子たちに、イエスさまは「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と語りかけます。この励ましに、ペテロは湖上におられるイエスさまに言うのです。「わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
 この直後、イエスさまの招きに従ったペテロは、なんと水の上を歩いたのです。イエスさまから目を離さずにじっと見つめながら、彼は確かに歩いたのです。
 みなさん、私たちの人生もそうです。イエスさまを見て信じて歩む時、私たちも決して沈みません。イエスさまから目が離れそうになる時にも、イエスさまを、あなたの人生の導き手、救い主として受け入れる時、決して沈まないのです。
 なぜなら、これまで神に背いてきたあなたの罪を、イエスさまが十字架の死によりすべて処分してくださったからです。そのイエスさまが信じるあなたの腕をつかんで決して離さないのです。どうぞ、あなたも救い主イェス・キリストを信じ、決して沈まない人生を歩んでください。

人を生かす言葉

 
「この言に命があった」(ヨハネによる福音書1:4)
 
 以前、ある人がこのような話しをしてくれました。
 二人の女の人が、『もうじき一歳になる息子が大きくならない』と言って病院にやって来ました。確かに標準より小さかったのですが、医者はその子の成長しない原因が全くわかりませんでした。そこで、とりあえず、入院させたところ、何も特別なことはしなかったのに、元気に成長していったので、医者は、その子を退院させました。
 それからしばらく経ってから、またその母親が赤ちゃんを連れてやって来ました。医者はその子を見てびっくりしました。それは、その子が退院した時から成長していなかったからです。医者は成長しない原因を知るために母親といろんな話しをしました。するとあることがわかりました。この母親は過去につらい経験をしたことで、わが子を愛することができず、ほとんど話しかけることをしなかったのです。そのことによって赤ちゃんは力を失い成長することができなくなっていたのです。でも、入院をしていた時は、毎日看護師に優しく声をかけられていたので、赤ちゃんは成長することができたのです」。
 この話のように、言葉には大きな力があるのです。
 聖書には「この言(ことば)に命があった」(ヨハネ1:4)と書かれています。「この言」とは神の言葉のことです。
 神の言葉には人の体と心を生かす大きな力があります。私たち人間はそのような神に似せて造られた者なので、私たち人間の言葉にも大を育て、生かし、成長させる力があるのです。
 ところが、私たちはその言葉を正しく使えず、言葉によって大を攻撃し、あるいはその母親のように語るべき言葉を語らず、人の体と心を壊してしまうことがあります。なぜでしょうか。それは、私たちの心も悲しみや苦しみ、そして、憎しみや妬み、傲慢さなどあらゆる罪によって壊れているからです。
 しかし、神はそんな私たちを憐れんでくださり、言葉によって愛と力を与え、そして、赦し、慰め、いやし、正義、希望を与えて壊れてしまった心を治してくださるのです。
 もし、心に痛みや問題を抱え、苦しんでいる方がいたら、神の言葉が書かれている聖書をぜひ読んでみてください。

あなたも変えられる

「キリストにあるならば、その人は新しく造られた者」 (Ⅱコリント5:17)
 
 暦にはいろいろな節目がありますが、生き方を変えようと思うならば、やはり新年が一番良い時でしょう。昔から「一年の計は元旦にあり」と言われている通りです。
 そこで、今年の計画を立てられた方にお聞きしたいのですが、今年のそれは、昨年と同じような内容になっていないでしょうか。そうなのです。「今年こそ今年こそはと暮れにけり」。誰が詠んだのかわかりませんが、暦が変わり、年が改まっても、自分の心が変わらない限り、自分の生き方を変えることはできません。
 では、自分の心を変えることはできるのでしょうか。自分の性格、生き方を変えて、人生をやり直すことは可能でしょうか。
 聖書には、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)との言葉があります。例外なく、すべての人に与えられた約束として記されています。私もその体験者の一人として、この言葉が真実であると明言させていただきます。
 私は若い頃から自分の無能と意志の弱さに苦しみ、強い劣等感に支配され、過去におかした罪の呵責にうめくような、希望とか喜びなどとは無関係と思えるような生活をしていました。それがキリストと出会って一変したのです。劣等感からも解放され、生きる喜びにあふれ、希望をいだける者に変えられたのです。私が特別な努力や修養をつんだのではありません。キリストにつながった(信じた)だけで、新しく造り変えられたのでした。
 「キリストにある」とは、簡単に言えば「キリストとつながる」ことです。
 柿には渋柿と甘柿があります。不思議なことに、甘柿の種を育てても、その実はすべて渋いそうです。一生懸命に育てても渋柿しかならないのなら、まさに徒労です。これが「『今年こそ』と期待して暮れていく」生き方だと言えます。
 しかし、その木に甘柿を実らせる方法があります。甘柿の木を「接ぎ木」すると、渋柿しかならなかった木は、甘い実をならすことができるのだそうです。
 同様に、どんな人でも、キリストとつながった時、今までとはまったく違った、新しい人生を歩むことができるようになるのです。

2014年

クリスマスの喜び

「あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカによる福音書2:11)
 
 クリスマスと聞いて、まっさきに思い浮かぶのものは何でしょうか。私は「クリスマスプレゼント」です。最初にもらったのは、祖母が枕元に置いてくれた絵本とおもちゃでしたが、躍り上がるほどうれしかったことを覚えています。
 
 クリスマスプレゼントにまつわる実話を紹介しましょう。
 アメリカに五人の幼い子どもを一人で育てていたお母さんがいました。生活は貧しく、やっと見つけた仕事はドライブインの深夜勤務。彼女は子どもたちのために一生懸命働きましたが、クリスマスプレゼントを買うお金さえたまらないまま、とうとうクリスマスがやってきてしまいました。結局何も用意できず、肩を落として帰宅しようと車のドアを開けると、何と、車内に箱がいくつもあります。子ども服やおもちゃ、たくさんのごちそうも。恐らく小さい子を抱えて夜通し働くお母さんの姿を見ていた人がそっと車に人一れておいたのでしょう。お母さんは、車の中で涙を流しながら神さまに感謝しました。」(『百万人の福音』02年12月号付録リトルブレッドより抜粋)
 
 おそらく、このような心が温かくなるようなお話は数多くあるでしょう。なぜなら、クリスマスは、自分を犠牲にしても、他の人たちが幸せになるようにと願う気持ちがあふれてくる、不思議な日だからなのです。
 
 では、なぜそのような気持ちになるのでしょうか。クリスマスはイェスーキリストの誕生を祝う日ですが、実はこのことと大いに関係があるのです。
 神は、あなたの心の中にある様々な悲しみや苦しみ、つらい思いをご存じで、その原因である罪を負うために、キリストをこの世に送られました。キリストが十字架にかかって犠牲の死をとげてくださったことにより、私たちに幸せの日々がもたらされる道が開かれたのです。
 
 そうです。キリストは、あなたが幸せになるように用意された、神からのプレゼントだったのです。だからクリスマスは温かい気持ちになるのです。
 神の深い愛を知ったなら、あなたも変えられます。ぜひ教会においでになりませんか。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)

見にきてごらんなさい

 
「さあ、見にきてごらんなさい」(ヨハネ福音書4:29)
 
 「見にきてごらんなさい」。これは罪ゆるされたひとりの女性の心からの呼びかけです。実にシンプルですが、これを聞いた大ぜいの人たちが、イエスのところにやって来て、イエスを信じるようになったのです。これは現代人にとっても、とても重要な呼びかけです。
 
 サマリヤという町にひとりの女性が住んでいました。彼女は道徳的に非常に乱れた生活を送っていました。周りの人からは「ふしだらな女」というレッテルを貼られていたのです。いつもうしろめたい生き方をしていたので、人が集まる涼しい夕方ではなく、わざわざ暑い日中の時間帯を選んで、水を汲みに来ていました。
 
 ある日のこと、いつものように水がめを持って井戸に来ると、そこに旅の疲れを覚えて、腰をおろしている人がいるのに気づきました。まさか、この旅人が救い主であるとは夢にも思いませんでした。おそらく初めのうちは、彼女の目にはただのユダヤ人としか映らなかったに違いありません。しかし、会話を交わしていくうちに、この人の中にただならぬものを感じ取っていったのです。
 
 そのやりとりを通して彼女は、イエスが自分のすべてを言いあてたことに驚かされました。また、「わたしはキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています」と言うと、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」と断言したイエスの言葉に大きな衝撃を受けたのです。
 
 彼女は水を汲むのも忘れ、自分の町に急いで帰って行きました。到着するなり、人々に向かって「見にきてごらんなさい」と語ったのです。人目を避ける彼女が「見にきてごらんなさい」と大胆に人々に呼びかけているのです。実に驚くべき魂の変革です。イエスを救い主と信じて、罪がゆるされ、魂に真の満足を与えられた人は、そう叫ばずにはいられないのです。
 
 初めて教会に行くことは、とても勇気のいることです。誰かといっしょならまだしも、ひとりでとなると、誰もがためらいを覚えるものです。キリスト教はいい宗教だと思っていても、なかなか思い切って教会に行けない人にも「見にきてごらんなさい」とやさしく呼びかけられているのです。

見にきてごらんなさい

「さあ、見にきてごらんなさい」(ヨハネ福音書4:29)
 
 「見にきてごらんなさい」。これは罪ゆるされたひとりの女性の心からの呼びかけです。実にシンプルですが、これを聞いた大ぜいの人たちが、イエスのところにやって来て、イエスを信じるようになったのです。これは現代人にとっても、とても重要な呼びかけです。
 サマリヤという町にひとりの女性が住んでいました。彼女は道徳的に非常に乱れた生活を送っていました。周りの人からは「ふしだらな女」というレッテルを貼られていたのです。いつもうしろめたい生き方をしていたので、人が集まる涼しい夕方ではなく、わざわざ暑い日中の時間帯を選んで、水を汲みに来ていました。
 ある日のこと、いつものように水がめを持って井戸に来ると、そこに旅の疲れを覚えて、腰をおろしている人がいるのに気づきました。まさか、この旅人が救い主であるとは夢にも思いませんでした。おそらく初めのうちは、彼女の目にはただのユダヤ人としか映らなかったに違いありません。しかし、会話を交わしていくうちに、この人の中にただならぬものを感じ取っていったのです。
 そのやりとりを通して彼女は、イエスが自分のすべてを言いあてたことに驚かされました。また、「わたしはキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています」と言うと、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」と断言したイエスの言葉に大きな衝撃を受けたのです。
 彼女は水を汲むのも忘れ、自分の町に急いで帰って行きました。到着するなり、人々に向かって「見にきてごらんなさい」と語ったのです。人目を避ける彼女が「見にきてごらんなさい」と大胆に人々に呼びかけているのです。実に驚くべき魂の変革です。イエスを救い主と信じて、罪がゆるされ、魂に真の満足を与えられた人は、そう叫ばずにはいられないのです。
 初めて教会に行くことは、とても勇気のいることです。誰かといっしょならまだしも、ひとりでとなると、誰もがためらいを覚えるものです。キリスト教はいい宗教だと思っていても、なかなか思い切って教会に行けない人にも「見にきてごらんなさい」とやさしく呼びかけられているのです。

優しい人になりたい

「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ福音書19:26)
 
 「あなたはどんな人になりたいですか?」。
 そう聞かれたら、あなたは何と答えるでしょうか。まさか「意地悪な人になりたい」などと言う人はいないと思います。
 「優しい人になりたい」。先日、幼稚園に行った時、4歳の女の子がそう言いました。生まれてまだ4年しかたっていない幼子が「優しい人になりたい」とは…。小さな子どもさえ、自分の心の状態を知っているのです。
 実は、その言葉を聞いて、以前、5歳の女の子が、3歳の弟に、「『おもちゃを貸したくない』つて思ってしまう自分の心が嫌なの」と泣き出したことを思い出しました。その女の子は、弟に優しく、いつも弟を優先にしていました。でも、自分の本当の心は、いつも「嫌だ」と思っていたというのです。大人だけではなく、幼い子どもも「心」がわかるのです。
 「今日こそ、心から優しく接してあげよう」。そう決意しても、気づかないうちに、悪い思いが頭をもたげ、それだけではすまず、実際に人を傷つけるようなことを言ってしまう。子どもの頃から、それがわかっていたとしたら、私たちは今までどれだけこのような「自己嫌悪」を味わってきたのでしょうか。
 そんな私たちに、神は、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ19:26)と語って、望みを与えておられます。
 人間が、自分の努力で心を造りかえることは不可能です。しかし、神は私たちをお造りくださった方です。つまり、私たちがどのように造られていて、今がどのような状態であるのかも、すべてご存知なのですから、あたかも、不具合が生じた製品を修理し、元通りにするように、私たちを造りかえることがおできになるのです。
 それでは、造りかえていただくためにはどうすればよいのでしょうか。私たちを造られたのが神であり、その神が、私たちを造りかえることができると信じるなら、神は私たちの祈り、願いを聞いてくださいます。たとえ、「あの人は、絶対変わることがない」という人でも、神を信じることによって変えられるのです。
 「あなたはどんな人になりたいですか?」。神はあなたを造りかえることができるお方です。

私たちは何につながる

「わたしがその人とつながっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ福音書15:5)
 
 先日、知人から「ラインとかしているの?」と聞かれた。今、様々なコミュニケーション手段があるようだ。特に現代の若者たちは、主にそれらを使って、お互いに情報交換をし、人間関係を構築している。
 しかし、つながりを求めるあまり、多くの人と「友達」になってしまうと大変だ。昼夜を問わず着信がくるようになり、返信しなければ「無視された」「嫌われた」と受け取られるため、絶えず返信しなければならなくなる。お互いのコミュニケーションがうまくいっている時はいいが、返事をすぐにくれなかったなど、関係が崩れ始めると、他の仲間を巻き込んで、相手を中傷するようなことになりかねず、いじめなどを誘発するため、社会問題にもなっているのは周知の通りである。
 このように、私たちは人間関係をよくしようと思いながら、その人間関係で悩むことが多くある。人とのつながりは大切ではあるものの、良好だった状況が一変するもろさをはらんでいる。
 では、私たちは何につながれば真の安心を得るのだろうか。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人かわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ福音書一五5)と聖書に記されている。
 ここで「ぶどうの木」とは主イエスのこと、「枝」とは私たちのことで、私たちが主イエスにつながることで、その人は豊かに実を結ぶようになると言っている。
 私たちは、だれかとつなかっていなければ安心できない。だから、安易に「つながる」ことだけを求めるのだが、しかし、結局その「つながり」に悩んでいる。
 聖書の言葉に注目してほしい。主イエスと「つながる」ならば、苦しみではなく、豊かに実を結ぶようになると約束してくださっているではないか。
 もしあなたがこの「つながり」に生きるなら、主イエスの愛が枝である私たちに注がれ続け、その愛によって私たちの心に喜びや平安が与えられていくのである。それこそが、あなたを生かす、最も大切な「つながり」なのである。

「いのちの水のあるところ」 

 
「かわいている者はここに来るがよい」(ヨハネの黙示録22:17)
 
 最近コンビニエンスストアに行き、ドリンクを買おうとするとよく目につくのは特定保健用食品。といわれるもの。いわゆるトクホの炭酸飲料やお茶、コーヒーなどです。日本人が好む健康志向に合わせた飲み物で、これらを飲めば高血圧予防になり、脂肪吸収を抑えることができる。また脂肪燃焼を効率よく行うなど、メタボリックな私もそのうたい文句に誘われて、よく買ってしまいます。
それと共に、目立つのが"エナジードリンク"です。ひと昔前は茶色い小瓶に白地のラベルが貼ってあるおなじみのドリンク剤だけでしたが、最近は、今風のデザインが施され、それを飲めばパワーがみなぎり、エネルギッシユに仕事に取り姐めそうなものが数種類あり、トクホと共に、ドリンクコーナーの一角を占めるようになりました。
 今年に入り、日本の経済も少しずつ上向きになってきたと言われますが、そのような実感もあまりなく、相変わらず自分の人生の目標達成のために、家族の幸せのために老若男女間わず、私たちは一生懸命に働いています。そのような世の中に、トクホ飲料やエナジードリンクは一役買っているのでしょう。しかし、当たり前ですが、それらのものは、一時な効果しかありませんし、自分の人生がそれらによって成り立っているわけでもありません。それでも、それらの飲み物を欲してしまうのには、一時だけでも、健康に健全に、そしてエネルギッシュに生きたいと願い「渇いている」からなのではないでしょうか。
「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ四14)
「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙示録二二17)
 共に聖書の言葉です。
 イエス・キリストは、この現代社会に生きる私たちの”渇き”を十字架の贖いといういのちの水で満たしてくださいます。そして、その渇きがいやされた私たちは、本当の意味での平安と活力に満ちた生活を送ることができるのです。そのいのちの水は聖書の中に、そして教会にあります。ぜひ足を運んでみてください。

岩を土台とした人生

 
「倒れることはない。岩を土台としているからである」(マタイ7:25)
 
「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである」(イエス・キリストの言葉)
 東日本大震災と原発事故から、三年以上がたちます。避難者数は二六万三千人(復興庁発表、2014年4月25日)ということです。ふるさとに帰りたいと思いながらも、耐えている方々が、こんなにいるかと思うと胸が痛みます。一日も早い帰還を祈ります。
 さて、人災は別にして、自然の災害は避けることができないのが現実です。また、人生においても、失敗や挫折まない方が良いのですが、必ずあると考えた方が現実的です。それでは、どう対処したらよいのでしょうか。それは「備える」ことです。
 先日「災害緊急対策セミナー」に出ました。そこで教えられたことの一つは「三日間の食料と飲料を準備しなさい」でしたが、人生での「備え」は何でしょうか?それは「ゆるがない土台」です。しっかりと人生を立ち上げることができる土台です。
 聖書は「(人生の)土台はキリストである」と言っています。しかも、「キリストはきのうもきょうも、いつまでも変ることがない」、「天地は滅びるであろう。しかしわたし(キリスト)の言葉は滅びることがない」と聖書にあるように、「岩」でもあるイエス・キリストを信じて、その言葉に従うならば、人生はゆるがず、どんなことがあってもそれを乗り越えられるのです。
 ある方の体験です。18歳で疲れた彼は、生きていても楽しくなく、人生がつまらないものに思われました。そんな時、このイエスと出会い、信じました。すると、本当の心の「土台」を得たことで、何とも言えない安心感と安定感のようなものを得、さらに、心から喜びがあふれてきたのです。それは泉がわき出てくるようなものでした。それからの人生は、積極的になり、喜びに変わっていったそうです。
 このようにイエスを人生の土台としたならば、喜びにあふれた豊かな人生になります。あなたも、イエス・キリストを人生の土台とするならば、もっとすばらしい人生を送れるのです。

不安を解消するために

 
「キリストはわたしたちの平和」(エペソ2:14~16)
 
 人には決して解決することができないものがあります。それは「不安」です。
 多くの人たちは心の安心を得ようとして自分の地位を高めようとしたり、様々なものを所有しようとします。しかし、たとえ、すべてのものを得、目標を達成できたとしても、不安は解消できず、平安な気持ちは訪れません。なぜでしょうか。それは、「平安」が神さまから与えられるものだからなのです。
 ほんのひとときなら、平安を味わうことができるかも知れません。しかし、それは状況が変わってまた暗転したり、別の不安が襲ってきて、かき消されてしまうのではないでしょうか。もし、神さまに背を向けて続けているなら、私たちはいつまでも不安から抜け出せず、さ迷い続けていくしかありません。
 神さまが与える平安は、どんな人生の嵐に見舞われようとも、失われることのない真の平安です。神さまだけが、与えることがおできになるものです。 真の平安を得るためには何をしたらよいのでしょう。
 神さまとの平和を取り戻すことです。
 私たちは、神さまに背を向け、また必要とせず、無視したような生き方をしてきました。それこそが、神さまとの断絶をもたらす、人間最大の罪です。しかし、その罪は人間の努力では消えません。その罪をきよめる方法はただ一つ、聖書にこのように記されています。
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまっ
たのである」(エペソニ14~16)
 キリストが、私たちの持っていた罪を十字架によって滅ぼしてくださったので、それにより、神との平和がもたらされると書かれてあります。このキリストの十字架のわざを信じることによって、神さまと和解でき、私たちの心に揺るぎない真の平安がもたらされるのです。
 平安を得るために、神さまとの平和を求めてください。

飢えを知る

「人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)
 
 学生時代、私は、牧師夫妻宅で夕食をいただいていました。ある日の夕方、改札を抜けようとすると非常によい匂いがしてきました。「大判焼き」のお店からでした。いつも以上に空腹であった私は、たまらず5つほど買い、道々、「どうせ今日も同じような夕食だろう」と考えながら、着いた時には、すべてを平らげていました。ところが、ドアを開けると、こう言われたのです。「今日はすきやきよ!」。
 明らかに、私の喜ぶ顔を期待しての告知でしたが、私のお腹は、もう、何か出てもおいしく食べられる状態ではありませんでした。が、私は顔を引きつらせながら喜びを表現し、苦しみながらおかわりをせざるを得なかったのです。人生最悪の食事でした。
 今、この国に住む私たちは、飢えることを知りません。同時に、絶えず満たされている生活は、私たちに本来もつべき、生きる喜びを損なわせています。
 神は、神の民たちを四十年も、何もない荒野をさまよわせました。なぜでしょう。聖書には、民たちが物の豊かさで満足し、それを幸せだと誤解していることに気づかせるためだったと記されてあります(申命記8:1~5)。
 やり手のビジネスマンが末期がんを宣告されました。その時、その方は初めて死を実感し、同時に、自分は今までどんな生き方をしてきたかを振り返ったのだそうです。仕事や家庭に生きがいを感じていたようにも思いました。しかし、あらためて、「自分の生き方」を問い直してみると、「何もなかった」ことに気づき、情けなくなったそうです。
 そうなのです。人間は、荒野のような状態、つまり、それまで、依存していたものが取り去られた時、何のために生き、またどう生きればいいか、わからなくなってしまうのです。
 先の方は、絶望の中、以前もらった聖書を開き、初めて神と向き合いました。この方が「飢え」を知った時、神の言葉が心に響き、神を認めないことこそが、最大の罪であることをわからされたのです。その後、信仰を告白した彼の心には、今まで味わったことのないような、平安が訪れました。
 「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)。ぜひ、「飢え」の中で真の生き方を見いだしてください。

のがれる道

 
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(コリント人への第一の手紙10:13)
 
 私たちには、思いも及ばない色々なものが降りかかって来る場合があります。突然交通事故にあったり、思いがけない大きな負債を負わされたり、入試がうまく行かなかったり、仕事がなくなったりなどです。それこそ、途方に暮れるようなことがあります。
 しかし、ある方がこう言われました。「神の許しがなければ、私たちのところに、何一つ来ないのだから、必ず、解決の道、のがれる道があるはずだ」。その通りだと思います。
 途方に暮れるようなことが起こったりすると、誠に残念なことですが、自殺してしまう人もおります。しかし、その時こそ、神さまを見上げましょう。
 エジプトの奴隷になっていたイスラエルの民は、モーセに率いられて、脱出に成功します。ところが、歩を進めていくと、その先には海がありました。渡ることができないばかりか、後方からは心変わりしたエジプトの軍隊が、おい迫ってきました。絶体絶命です。すると、神さまは「あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい」(出エジプト一四16)と言われ、モーセがその言葉のようにすると、なんと目の前の海が二つに分かれたではありませんか。これこそが、神の用意された「のがれの道」です。
 聖書には、主イエスが「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」(ヨハネによる福音書一六の二三)と言われた言葉が紹介されています。
 もし、あなたが四方八方ふさがれて、万事休すと思った時でも、あきらめないでください。イエス・キリストの名を信じてとなえ、真剣に祈るならば、神は、あなたが考えつかなかったような方法をもって、あなたに「のがれの道」を明らかにし、救いを実現してくださるでしょう。
 あなたに良き道が聞かれるよう、祝福を祈ります。

あなたも変えられる

「キリストにあるならば、その人は新しく造られた者」 (Ⅱコリント5:17)
 
 暦にはいろいろな節目がありますが、生き方を変えようと思うならば、やはり新年が一番良い時でしょう。昔から「一年の計は元旦にあり」と言われている通りです。
 そこで、今年の計画を立てられた方にお聞きしたいのですが、今年のそれは、昨年と同じような内容になっていないでしょうか。そうなのです。「今年こそ今年こそはと暮れにけり」。誰が詠んだのかわかりませんが、暦が変わり、年が改まっても、自分の心が変わらない限り、自分の生き方を変えることはできません。
 では、自分の心を変えることはできるのでしょうか。自分の性格、生き方を変えて、人生をやり直すことは可能でしょうか。
 聖書には、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)との言葉があります。例外なく、すべての人に与えられた約束として記されています。私もその体験者の一人として、この言葉が真実であると明言させていただきます。
 私は若い頃から自分の無能と意志の弱さに苦しみ、強い劣等感に支配され、過去におかした罪の呵責にうめくような、希望とか喜びなどとは無関係と思えるような生活をしていました。それがキリストと出会って一変したのです。劣等感からも解放され、生きる喜びにあふれ、希望をいだける者に変えられたのです。私が特別な努力や修養をつんだのではありません。キリストにつながった(信じた)だけで、新しく造り変えられたのでした。
 「キリストにある」とは、簡単に言えば「キリストとつながる」ことです。
 柿には渋柿と甘柿があります。不思議なことに、甘柿の種を育てても、その実はすべて渋いそうです。一生懸命に育てても渋柿しかならないのなら、まさに徒労です。これが「『今年こそ』と期待して暮れていく」生き方だと言えます。
 しかし、その木に甘柿を実らせる方法があります。甘柿の木を「接ぎ木」すると、渋柿しかならなかった木は、甘い実をならすことができるのだそうです。
 同様に、どんな人でも、キリストとつながった時、今までとはまったく違った、新しい人生を歩むことができるようになるのです。

2013年

クリスマスの喜び

 
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカによる福音書2:11)
 
 クリスマスと聞いて、まっさきに思い浮かぶのものは何でしょうか。私は「クリスマスプレゼント」です。最初にもらったのは、祖母が枕元に置いてくれた絵本とおもちゃでしたが、躍り上がるほどうれしかったことを覚えています。
 クリスマスプレゼントにまつわる実話を紹介しましょう。
 アメリカに五人の幼い子どもを一人で育てていたお母さんがいました。生活は貧しく、やっと見つけた仕事はドライブインの深夜勤務。彼女は子どもたちのために一生懸命働きましたが、クリスマスプレゼントを買うお金さえたまらないまま、とうとうクリスマスがやってきてしまいました。結局何も用意できず、肩を落として帰宅しようと車のドアを開けると、何と、車内に箱がいくつもあります。子ども服やおもちゃ、たくさんのごちそうも。おそらく小さい子を抱えて夜通し働くお母さんの姿を見ていた人がそっと車に入れておいたのでしょう。お母さんは、車の中で涙を流しながら神さまに感謝しました。」(『百万人の福音』○二年一二月号付録リトルブレッドより抜粋)
 このような心が温かくなるようなお話は数多くあるでしょう。なぜなら、クリスマスは、自分を犠牲にしても、他の人たちが幸せになるようにと願う気持ちがあふれてくる、不思議な日だからなのです。
 では、なぜそのような気持ちになるのでしょうか。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日ですが、実はこのことと大いに関係があるのです。
 神は、あなたの心の中にある様々な悲しみや苦しみ、つらい思いをご存じで、その原因である罪を負うために、キリストをこの世に送られました。キリストが十字架にかかって犠牲の死をとげてくださったことにより、私たちに幸せの日々がもたらされる道が開かれたのです。
 そうです。キリストは、あなたが幸せになるように用意された、神からのプレゼントだったのです。だからクリスマスは温かい気持ちになるのです。
 神の深い愛を知ったなら、あなたも変えられます。ぜひ教会においでになりませんか。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)

すぐ近くにある助け

 
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)。
 
 結婚式っていいなァ。
 花婿、花嫁が今までの人生の中で最高に輝いていて、幸せそのものです。その幸せが、お祝に集まった人たちにも伝染してみんなが幸せ気分に満ちます。
 結婚式はけっして一瞬のできごとではなく、その後の二人の人生の幸せな時間の始まりでしょう。神の前に誓約した二人は、その幸せを人生の幸せへと育てていくことでしょう。そういう歩みの中で、だれも予想しないことが起って、悩まされたり苦しめられることだってあります。それが人生ではないでしょうか。
 さて、婚宴の最中に、その家の人たちを困惑させる事態になってしまった話が聖書に記されています。
 イエスの育ったナザレという町から北へ十四㎞にある小さな町、カナでのことです。結婚の祝宴は親類、友人知人が招かれ、一週間以上にも及ぶといわれます。イエスとその弟子たちも招待されました。その婚宴の最中に、用意していたぶどう酒が足りなくなってしまいました。婚宴でぶどう酒が切れてしまうことは、非常に不名誉なことでした。
 その時、この席に居合わせ、宴の手伝いをしていたに違いないイエスの母マリヤが、「何とかしてほしい、助けてほしい」とイエスに懇願します。イエスは、その家に置いてあった四、五斗も入る石の水がめに水を満たすよう料理人に指示します。彼らはその言葉に従い水を満たし、それを汲んで料理がしらのところへ持って行くと、驚いたことにその水がぶどう酒に変わっていたのです。単に変わっていたというだけでなく、料理がしらは花婿に驚嘆の言葉を口にします、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」(ヨハネ2:10)と。
 窮地から救われたのは、そこにイエスがおられたからです。
 悩まされ、苦しめられることがあっても、このお方を私たちの生活の中にお迎えし、このお方が生活の中におられるなら、これほど心強いことはないでしょう。そのような歩みをした人が言いました、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。あなたにとってもそういうお方です。

良い実を結ぶには?

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)
 
 実りの秋がやってまいりました。米を始め、ぶどう、柿、梨、栗、そしてみかんなどが収穫の時を迎えつつあります。最近では、米においても、また、色々な果実においても品種改良が進んできています。ぶどう一つをとってもたくさんの種類の、また、色々と味の違うおいしいものができてきています。
 さて、聖書の中で、イエス・キリストは「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)と言われました。
 渋柿の木はどんなに肥料をやり、日あたりを良くし、良く水をやって、多くの柿の実がなったとしても、渋柿には変わりがありません。それは渋柿の木だからです。甘柿の木にしか甘柿はならないのです。
人間も、性質が根本的に良くならなければ、良いものは出てこないのです。愛の心から愛の行動が出てき、きよい心からきよい行動が出てくるのです。
 それではどうしたら、憎しみと欲に満ちた自己中心的な心が、きよい、愛の心に変わるのでしょうか。
 難行苦行をしてもあまり変わりません。しかし、聖書にはその方法が記されています。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)です。
 ここに「キリストにある」とありますが、これは「キリストを信じる」という意味です。キリストを信じることによって、古い罪や醜い悪い性質が造り変えられて、きよい、愛の心になるというのです。それは悪がキリストの十字架によって解決したからです。
 万引きをどうしてもやめられない方がおりました。やめようと決心してもどうしてもやめられなかったのです。しかし、キリストを信じて本当に変えられた時に、それをやめることができたのです。それはその人の心がキリストを信じることによって新しく造りかえられたからです。きよい、愛の心が与えられたからです。それによって、きよい、愛の行動を行うものとされ、良き実を結ぶ者とされたのです。
 ぜひ、あなたも、イエス・キリストを信じて、良い実を結ぶものとなってください。

神の消しゴム

「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である」(イザヤ43:25)。
 
 三島由紀夫やトルストイは自分が生まれた時の光景を克明に覚えていると述べています。幼稚園の年少組に聞くと胎児の時や産道を出てくる時の感覚を話す子どもがいますが、小学生になるとほとんど忘れてしまうと言います。それはそのような記憶を消してしまう脳の機能があるようです。前に進んで生きていくために、神がその記憶を消されるのではないかと思います。
 百歳の詩人といわれた柴田トヨさんの詩集「くじけないで」に“ことば”という詩があります。
「何気なく/言ったことばが/人をどれほど/傷つけていたか/後になって/気がつくことがある/そんな時/私はいそいで/その人の/心のなかを尋ね/ごめんなさい/と言いながら/消しゴムと/エンピツで/ことばを修正してゆく」
 あの時、ああすれば良かった、こうすれば良かった、選択を間違えた、失敗だった…など、後悔するような過去の記憶。人からあんな辛い思いをさせられた、状況から苦しい思いをさせられたなど…、悔しい思いが残る過去の記憶。それは消したくてもなかなか消すことのできないものです。
 意を決して、その過去の記憶を解釈し直して、人のせいにも、自分のせいにもせず、私の人生、これでしかなかったし、これで良かったと、人生ノートを消しゴムとエンピツで修正することは可能でしょう。
 しかし、どうしても消すことのできない記憶があります。それは何かいけないことを言ってしまった、やってしまった、思ってしまったという良心の呵責、罪責感のともなう罪跡です。
 それはきっと神が消さないからでしょう。それでは人は救われないので、イエスが遣されて、十字架において私たちに代わって、罪の責め、神のさばきをすべて受けてくださり、あがないをなしとげてくださいました。そのことを信じて、悔い改めるなら、その罪跡は消しゴムで消すように神が消してくださるのです。
 神ご自身が「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」(イザヤ43:25)。それが神の国に入れる「記録」となるのです。

世に勝つ者はだれ?

「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(Iヨハネ5:5)
 
 今年も、暑い夏がやって来ました。
 涼を求めて、海に、山に、川にと繰り出す人がいる一方で、「こんなに暑いのに出かけるなんて」と、もっぱらクーラーの効いた部屋に立てこもったり、街中の冷房のよく効いた施設で楽しむ人もいたりと、様々です。
 そうした中で、毎年恒例の「夏の甲子園」には、ただただ脱帽です。「熱闘、甲子園」とはよく言ったもので、灼熱の日差しを浴びながらグランドでプレーする選手や審判たちはもちろん、アルプススタンドで応援する観客、テレビの前で観戦する者まで巻き込み、優勝を目指して「勝つか、負けるか」の熱い戦いが繰り広げられます。
 考えてみれば私たちは、「生まれた時から『勝つか負けるか』の競争社会」の中に置かれています。「体重や身長」「髪の毛の多さ」「色の白さ」等の比較に始まって、本人の知らぬところでも、いつから歩き出し、話し出したなどと話題にされながら成育して行きます。
 長じると、本人白身にも、「勉強ができる、できない」「スポーツが得意、苦手」「モテる、モテない」などの競争心が芽生え、やがては、「どこの学校に入った」「どこの会社に入った」「どんな職業を得た」、などと競争が激烈になっていき、やがては、「勝ち組」「負け組」などとレッテルを貼られてしまいます。
 この世の評価は、どんな肩書きを得たのか、どれだけの財産を築いたのか、どんな家を建てたのかなど、もっぱら目に見える事に焦点を当てます。
 ただ、「人生」はいつまでも続きません。必ず、すべての人に死がおとずれます。人生の長さや死に様は異なったとしても、死は平等にすべての人におとずれ、死の彼方には、何一つ持っては行けないのです。
 しかし、その限りある人間に、永遠に続くものとして与えられるのが、イエスーキリストを信じることによってもたらされる「永遠の命」です。
 聖書ははっきりと、「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネの第一の手紙5:5)と断言しています。
 限りある人生において「永遠の命」を獲得する、これこそが最大の勝利ではないでしょうか。どうかあなたも、獲得なさってください。

潤った園のように

「あなたは潤った園のように水の絶えない泉のようになる」(イザヤ58:11)
 
 梅雨が明け、毎日暑い日が続きます。最近では熱中症が心配され、給水に心がけるようにと盛んに言われています。しかし、それと同様、人の心が渇いては大変なことになってしまいます。
 聖書に、「あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる」(イザヤ58:11)とあり、イエスさまが、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」(ヨハネ7:38)と言われているように、イエスさまを信じる人の心の奥底からは、生ける水の川が流れ出るように、いつも、命に輝く人になることができると書かれています。
 あなたの心は渇いていないでしょうか。
 心が潤うためには、まず、自分が飢え渇いている状態であることを認め、満たされることを求めなければなりません。
 あなたが心の渇きをいやされたいと求め、命の水があふれ続けることを慕い求めておられるならば、幸いです。その渇いている心を持つ人が幸いな人なのです。イエスさまが、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになる」(マタイ5:6)と言われたのは、そのことを指しています。
 それではどのように求めたら、満たされるのでしょうか。 私たちが水を飲む時、蛇口をひねります。水道には水があふれていると信じているからです。
 イエスさまは「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ7:37)と叫んで言われましたが、イエスさまこそが、私たちの渇いている心を満たす、唯一のお方です。イエスさまが成し遂げられた十字架と復活の奇跡が証拠です。それは神と人とを結びつけ、神の無尽蔵の豊かさを人に与えるためのものでした。それを信じるのです。信じる時に、あなたは必ず満たされ、そして、祝福されるのです。
 自分の渇きを認め、そして、その心を潤すことができるのはイエスさまであると、信じるならば、必ずあなたの心はいやされ、潤った園のように、水の絶えない泉のようになるのです。
 あなたが豊かな命の水にあふれ、生き生きと輝く毎日を過ごすことができますように。

飢えを知る

「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)
 
 ある日、駅の改札を抜けようとすると「大判焼」のよい匂いが…。私は、たまらず5つ買って、歩きながら食べ始め、着く頃にはすべてを平らげていました。ところが、ドアを開けると、妻がこう言ったのです。「今日はすきやきよ!」。明らかに、私の喜ぶ顔を期待しての告知でしたが、私のお腹は、もう、どんなごちそうが出ても、おいしく食べられる状態ではありませんでした。私は、顔を引きつらせながら喜びを表現し、苦しみながら、おかわりをした、人生最悪の食事でした。
 不況と言っても豊かな生活をしている私たちは「飢え」を知りません。それは生き方にも影響を与え、多くの人は、心も満たされているかのように感じて生きているように思います。
 旧約聖書申命記八章には、神があえて、神の民を何もない荒野に導き、「あなたを苦しめて試し、あなたの心にあること」を知ろうとされた、とあります。イスラエルの人たちは、エジプトでは奴隷であったものの、食べるものは十分あったと思われ、満たされていたからこそ、真剣に神と向き合わず、奴隷である環境に甘んじていたと考えられます。
 先日、ある方にお会いしました。これからという時、末期の胃ガンを宣告されたのです。その時、初めて「人間、死ぬのだ」と実感し、同時に、今までどんな生き方をしてきたのか振り返ったのだそうです。仕事や家族のためとは思ってやってきたが、「自分の生き方」については何も考えていなかったことに気づき、動揺したと言っていました。
 そうです。人間は、荒野のような状態、つまり、丸裸にされなければ、自分が何者であるかを考えないのです。そして、それまで依存していたものが取り去られた時、どう生きればいいか、わからなくなってしまうのです。
 その方は、その後、自分の生き方を探して神と出会い、聖書を読み続けていくうちに、神を認めないことこそが、最大の罪であることがわからされ、悔い改めて神を信じましたが、自分が依存しているものがすべて取られたらどうなるのか。心の飢えの状態をイメージし、自分の生き方を問い直すべきだと思います。その時、神は、「人はパンだけで生きているのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と語られるのです。

人生には希望がある

「まず神の国と神の義とを求めなさい」(ヨハネ14:6)
 
 最近、私は、ある方から、「人生四毛作」という考え方を提案されました。
 第一に、私たちが誕生から25歳まで「人生の方向付けの期間」、第二が26歳から50歳まで「人生の基礎作りの期間」、第三は51歳から75歳まで「人生の収穫の期間」、そして第四が76歳から死ぬまで「自分の好き勝手に生きて良い期間」というものです。
 非常に巧みにまとめた面白い考え方だと感心してしまいました。しかし、このように人生を区分し、「76歳になったら、自分の好きなように生きても良いですよ」と言われても、計画通りうまく進むでしょうか?将来は不確かですから、まず不可能だと言えるでしょう。
 人生には大きな喜びや楽しみがありますが、正直なところ、私の体験でも「生きる」ことは大変疲れることです。ある人が「生身の人間である私たちは『忍耐』という細い糸に『苦悩』という大きな重荷をぶら下げて生きている。忍耐の糸は細く容易に切れやすいので、いつも修繕をしなければならない」と言いましたが、その通りだと思います。
 私たちには日毎に追いかけて来る極度のストレスがあります。気力は失せ、悲しみは増し、心の病になって健康な社会生活を送れなくなることもあります。それでも、辛さに耐えながら、生きる努力をしなければならないのが人生。誰がこのような日々を?…と深く悩みます。
 しかし聖書には、私たち以上の苦難にであった人物パウロが次のように語っています。
「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」(Ⅱコリント4:8~9)。彼はどんな人生にも生きる希望と秘訣があると語ります。悲しみ、苦悩、絶望の中でも喜んで生きる道があり、それはすでに、救い主イェスーキリストによって準備されていると教えています。
 私たちの人生はすべて神の御手の中にあります。神を離れて物事を考え、思い悩むべきではありません。全能の神を信じる時、神は私たちに必要なすべてを備えてくださいます。もし今、悩みの中に在っても必ず、そこに解決の道を備えてくださいます。
〈イエス・キリストの言葉〉「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)

人生の道案内

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)
 
 今は、多くの車にナビゲーションが搭載されています。日本全国の地図を見ることができるので、どこへ行くにも楽に行くことができます。知らないところへ車で行く時には大変便利です。自分の行きたい場所の住所や電話番号、ルートを選んで人力すれば、画面上で行き先を案内し、到着時刻や距離を表示してくれます。また、間違った道を走った時でも、すぐ新たに表示し直し、渋滞情報やその他にも有料道路を利用すると料金も知らせるのです。様々な情報を教えてくれるので、至れり尽くせりです。ですから、一度経験するともう手放せなくなるかもしれません。
 しかし、困ったことがない訳ではありません。古い地図が搭載されているカーナビで運転した時のことです。そのナビは正確に目的地を示すことができず、近くまで来ているものの、迷ってしまいました。また時々、違ったルートを教えることもあるので、安心して走っているとかえって遠回りすることもあり、気をつけなければなりません。それを避けるためには新しい情報を得る必要があります。また、目的地の近くまで来ると、案内を終了することがありますので、注意して運転しなければなりません。
 昔、イスラエルの民たちは、エジプトで奴隷生活をしていましたが、神は、イスラエルの民の中からモーセという指導者を立てて、エジプトから脱出させました。その時、神は、「彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らし、昼も夜も彼らを進み行かせられた」とあります。彼らは、神ご自身に道案内され、昼は暑さから守られ、夜は獣や寒さから守られ、ついに約束の地へと導かれた、という経験をしました。
 イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。イエスは、私たちが歩むべき道を示し、常に誠実に命へと続く道を案内してくださるのです。たとえ、私たちが道からそれたとしても、正しい道へと修正してくださいます。安心して人生の道案内をお任せできる人はなんと幸いなことでしょう。
 あなたもイエス・キリストに道案内していただいてはいかがでしょうか。

満員はありません

「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)
 
 今年の1月2日、私たちの教会のYさんが、大変安らかに、96歳で亡くなられました。京都出身で、京言葉と笑顔がすてきなおばあちゃんでした。私は6年足らずのお交わりでしたが、印象的な思い出があります。
 ある日の礼拝が終わって、Yさんとお話ししていた時のこと。おかげ様で元気だけれども、みんなの世話になっているなど、いろいろお話しくださる中で、「早よ天国に行きたいんやけど、なかなかお迎えに来てくれはらしまへん」と言われました。と、そこで言葉が止まって、真剣に考えるような表情をして少し間が空いてからひとこと、「天国…満員なんやろか?」と言われたのです。その表情が本気とも冗談ともとれるようなご様子で、言った後に本人も声を上げて笑っておられましたが、私も何とも言えずおかしくなって一緒に笑ってしまいました。でも「そんなことないですよ、イエスさまがちゃんと立派な住まいを用意してくださっていますからね」とお話し七ましたら、ニコニコと聞いてくださっていました。その笑顔は忘れることができません。
 私はYさんとの交流の中で、ああこの方は、人は死んで終わりじゃないと心から信じている、本当に天国に希望を持っているんだ、と思わされました。
 人は死んだら終わり、だから今の人生を一生懸命に生きる。それも一つの考え方でしょう。しかし、自分の存在が肉体と共に消滅するというなら、死は私たちにとって恐怖以外の何ものでもありません。そしてその恐怖の出来事に向かって進んでいく人生というのは、何ともむなしく、希望がないように思うのです。でもYさんのように、死の先を信じて歩むことができるならば、人生そのものも希望ある人生になるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)、また、「あなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネ14:2)と言われました。主イエスが十字架と復活によって、死に勝利する道を示されただけでなく、信じる者に、天の住まいを用意してくださっている。それが聖書の語るメッセージです。
 天国に満員はありませんので、どうぞご心配なく。あなたの住まいも用意されています。

救いの道

「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」(ヨハネによる福音書14:6)
 
 私はある城下町で生まれ育ちました。城下町は敵を防ぐために複雑な道の作りになっています。ですから少年時代、慣れない場所に行くと、道に迷ったものでした。少し路地を入ると目印もなにもなく、複雑な入り組んだ道の連続で、行きたい方向と全く違う所に出てしまうのです。
 そんな町で育った私にとって、今住んでいる京都はとても道がわかりやすいと感じています。道が碁盤目状になっているからです。交差点名は南北の通りと東西の通りの名を合わせたもので、通りの名と順番を覚えれば、それが目印となって、大体自分がどこにいるのかがすぐにわかり、とても便利です。
 私たちは初めての場所に行く時、目的地までわかりやすい道、はっきりした目印があれば、安心してそこに行けます。しかし、道がわかりにくく、目印もないとしたらどうでしょう。不安でしかたがないと思います。
 あなたの人生行路はいかがでしょう。現代は「標(しるべ)無き時代」と言われています。頼みとしていたものが崩れ、人々は右往左往し、先行き不透明な現状に嘆いています。まるで目印のない、入り組んだ道で迷っているかのように。私たちはどこへ進めばいいのでしょうか。
 イエス・キリストは「わたしは道である」と言われました。イエスご自身が道なのです。どこに進んだら良いのか、共に歩んでくださいます。
 イエスを知り、イエスを求めることによって、イエスは真理であられるゆえ、正しい生き方の極みを具体的に示されました。イエスに従う人を真理、正しい所に導いてくださるのです。また、いのちであられるゆえ、生きる道、本来人の行くべき道を知っておられるのです。
 イエス・キリストは人類を救うために、救いの一本道となられました。このお方ご自身が道なのです。このお方に信頼して歩む時、あなたの人生は平安に満ちた、目的のあるいきいきとしたものになるのです。

私は変わりたい!

「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」(ルカ19:5)
 
 新年を迎えると新しい気持ちになります。そして、今年は今までと違って新しい年であるようにと願います。できれば、自分も新しくなりたいと願うでしょう。はたして、私たちは変わるのでしょうか。教会が新しく開設された時、教会の前の看板にこう書きました。「人は道徳や宗教で変わるでしょうか?」教会の前を通ってこれを見た方はどう感じたでしょうか。「人は道徳や宗教では変わらない、と言いたいのだろうか?」、「道徳では変わらないのか、そうかもしれない。宗教でも変わらないと言いたいのだろうか?宗教でも変わらないのなら、何で変わるのだろうか?キリスト教も宗教ではないか、キリスト教でも人は変わらないと言いたいのだろうか、キリスト教会の看板に、キリスト教でも変わらないと書いてあるのはどういう意味だろうか?」この看板を見て、見た人に考えてもらいたかったのです。自分は変わりたいのか、自分は変わることができるのか、ならば何によって変わることができるのか?と。この看板の意図は、人には道徳や宗教はためにはなるが、人を変えることは無理であることに気づいてほしかったのです。
 キリスト教でも変わりません。しかし、キリストによって人は変わるのです。
 聖書には、キリストによって人が変わった歴史が書いてあると言っても過言ではありません。キリストの教えを守って変わったのではありません。キリストに対面し、キリストの言葉を聞き、キリストに出会った時、その人は変わりました。ザアカイもそうでした。彼はキリストを一目見ようと、人混みを避けて木にのぼります。そこに通りかかったキリストが、彼に向かって「下りてきなさい、今日、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけられるのです。それを聞いたザアカイは、急いで降りてきて、喜んでイエスを受け入れます。彼はその時、変わりました。その後、どのように変わったのかは、新約聖書ルカによる福音書一九章を読んでみてください。
 あなたも彼のようにキリストによって変わることができますように。 

2012年

好奇心と再生

「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」(伝道の書2:11)
 
 今年8月5日、米国航空宇宙局(NASA)は火星探査機「キュリオシテイ(好奇心)」を赤道付近にあるゲイルクレーターヘ着陸させ、本格的な探査活動を始めました。キュリオシティーからは火星の様子を伝える画像が次々に送られ、約二年をかけて火星に生物が存在していたかを調査するそうです。また10月8日には、再生医療の実現に道を開くIPS細胞(人工多能性幹細胞)を作りだすことに成功した山中伸弥・京都大教授か、2012年のノーベル医学生理学賞に輝きました。
 このように科学や医学の発展は目覚ましく、人に限りない希望を与えているかに見えます。確かにかつては謎であった領域に光が投じられ、不可能と思えたことが可能になっていきます。しかし他方、自然破壊が急速に進んで地球の破滅が迫っていることや、おぞましい殺害が毎日のように報じられている現実も忘れてはなりません。それは輝かしい技術の進歩とは裏腹に人類を覆う闇が日増しにその暗さを増しているかのようです。
 聖書は「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」と告げています。すなわち、人は誰にでも「永遠を思う」好奇心が与えられていますが、神のなされるわざの全貌を見極めることはできないのです。では「永遠」とは何でしょうか、それは「永遠の命」または「永遠の神」と置き換えられます。実は人は潜在的にこのことへの好奇心を与えられているのです。
 主イエスの弟子ヨハネは「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と書き残しました。
 クリスマスはこのことが現実となった日です。神のひとり子イエスが人の罪を身に負って十字架で死なれるために来られたのです。そしてこのイエスを救い主と信じる人に「永遠の命」が与えられるのです。それは人の心を再生させる命です。体の一部を再生させるIPS細胞ではありません。人の心を生まれ変わらせる神の命です。

豊かさは衰亡の原因

「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:3)
 
 政治のトップはたやすく変わっても、混迷は続いています。国の内外に深刻な課題が山積しているにもかかわらず、何も解決されていないように感じているのは私だけでしょうか。ついに、「国の存亡の危機」とまでおおっぴらに言われるようになりました。
 「なぜ国家は衰亡するのか」(中西輝政著・PHP新書)には、大英帝国、ローマ帝国、また江戸時代などを取りあげながら、なぜ隆盛を誇った国が衰退していったのかが検証されています。詳しくはご一読いただきたいと思うのですが、興味深いのは、ここで指摘されている衰退の予兆となる社会現象が、現代の日本にぴったりと当てはまることなのです。
 海外旅行、温泉ブーム、グルメツアー、各地で連日催されるイベントの数々、文字離れと同時に起こるマンガ文化、そして次々に組織される新興宗教。重ねて申し上げますが、これは、現代の日本で起こっていることを列記しているのではなく、前述した国家においてみられた現象です。
 確かに、言われてみれば、その通り、歴史で学んできた出来事ですが、それが国家滅亡の兆しだったとは。豊かさこそが、国家衰退の原因を作っているのだなあとあらためて考えさせられました。
 さて、そこで私たちは、何のために生きているのか、何をもって幸福というのかを自分自身に問わなければならないと思います。
 物があふれ、何の不自由もなく生活ができる豊かさは、人間に何をもたらすのでしょうか。滅びです。「盛者必衰」を歴史が証明しているのに、私たちはなおもさらに、その愚かさを繰り返し続けるのでしょうか。
 主イエスは、有名な山の上の教えで「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ5:3)と言われています。
 物質的な富、またはすべての組織を思い通りに動かすような権力、名誉が無意味であり、幸福にはなり得ないということを知って、そのようなものを求めず、神こそが、自分の心を満たす方であると信じるならば、あなたの心に喜び、平安、愛、様々な祝福がもたらされると言われたのです。

あきらめない

「わたしを強くしで下さる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ人への手紙4:12~13)
 
「わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ4:12~13)
 東日本大震災から一年半が過ぎました。いまだに復興が進まない中にあって、先日、岩手県釜石市にある一つの仮設住宅を訪問いたしました。
 この場所にある談話室では月二回、手芸教室が開かれており、それを楽しみにしている方がおられます。ほとんどが女性ですが、その中に一人、男性が通っておられます。今回は、その方とお話しをする時が与えられました。「毎回来ておられるのですか?」とお聞きすると、「そうだ。ボケないためにやっているんだ」と、元気な声でこたえてくださいました。毎日、朝から昼の三時まで、休まず手芸をしているのだそうです。地震と津波ですべてを失い、八十歳を過ぎていてもなお、前向きに生きている姿を見て、とても励まされました。
 確かに、困難を乗り越えようとすることや、そのような人を助けてあげようとすることは大切です。しかし、限界があることも事実です。「もうだめだ」、「無理だ」、「やめよう」という気持ちと戦って、絶えず自分を奮い立たせていかなければなりません。さらに、先の見えない中で、どのような将来を考えることができるでしょうか。誰も確かな保証をしてくれないのです。
 しかし、そのようなあきらめと絶望の中で、私たちに希望と前向きに生きる力を与えてくださるお方がおられます。そのお方こそ、今もあなたに語りかけ、招いておられるイエス・キリストです。
 主イエスは、信じる者を「強くし」、「何事でもすることができる」ようにし、「ありとあらゆる状況に処する秘訣を」与えてくださるのです。
 あなたのすべての悩みや問題を、このお方にお任せしていくならば、挫折してしまいそうなあなたの心を強くし、様々な方法によって驚くべき道を示し、心を平安にし、希望に満ちあふれさせ、真の「あきらめない」人生を歩ませてくださるでしょう。お祈りしています。

教会の敷居は高い?

「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」(ヨハネによる福音書1:39)
 
 ある放送局の宗教調査によると、日本人の三分の一以上が、「宗教を信じるならキリスト教」と答えられたそうです。
 ところが、教会の礼拝に出席する人は少ないようです。どうしてでしょうか。教会はバリアフリーの教会も多いですが、建物の構造だけではなく、イメージの問題でしょう。
 そんな方々のことを考え、地域の教会と一緒になって、教会の様子を知らせる「教会ってどんなとこ」というパンフレットを作りました。
 開くと、中には大きく「教会って身近なところ?」なのですよと書かれています。カラー漫画で教会が紹介されています。
①教会は「楽しい」ところなのです。餅つき大会、キャンプ、等々、様々な「楽しい」体験ができます。小さい子どもと接し、大人も、お年寄りも元気をもらえます。
②教会は「ためになる」ところです。色々な奉仕をすることでスキルを養い、高めることができます。お年寄りから、人生の知恵や体験を伺えます。「おばあちゃん、すごい!」など、感動することも多いのです。また、色々な職業の人に会うことができ、交流することで、情報交換ができたり、違った世界を体験できます。子育てなどの経験に基づく情報も得られます。聖書や礼拝を通して、悩むことも祝福につながる体験ができます。ピンチはチャンスになるのです。病気など困難等に出会っても、祈ってもらえます。また、転ばぬ先の杖、それが教会でもあります。さらには、感動して生きる希望や目標や方向性を手にすることでき、学びや働きに確信が持てます。退職する前に、教会で人間関係を築いているので、退職後もスムースに生活できます。
 このように、教会は困った時だけの教会ではなく、私たちの「生活」に深くかかわっており、赤ちゃんからお年寄りまでいて、大きなファミリーのようです。
 また、教会は、世界の人々が本当に幸せな生活ができるため、平和な世界、差別のない世界、一人の人が大事にされる世界を、罪を犯す社会から真の生き方へ、神さまが願っている環境、世界になることを願って日々仕えています。
 これが教会です。

死の恐れからの解放

「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(ヘブル人への手紙2:15)
 
 最近、有名人で亡くなられた方の報道を聞くたびに、以前より死を身近に感じるようになりました。同世代を生きてきた仲間の死に感じるのです。地井武男、小野ヤスシ、ザーピーナツの伊藤エミ。親を看取る立場から、自分の死を受け止める立場に移ってきたのでしょう。逃げられない死の現実が、しだいに迫ってきているのだと実感しています。
 ですから「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」という聖書の言葉を発見すると、ハツとします。心の底まで光に照らされるようです。
 高校三年のときに、私は親友の死に直面しました。四十年以上も前ですが、遺体の前で体が震えるのを押さえることができなかったことを覚えています。
 「死の恐れの奴隷」とは、かつての自分そのものでした。変わり果てたこの友のようにいつか自分も死ぬ。そうして棺に納められ、焼かれて行く。時がたてば、みんな忘れ去ってしまう。存在のはかなさ。死んだらすべておしまいなのだ。何をやっても死んだら何もないのだろうか。
 友人の死をきっかけに教会に通い出し、どこから死の恐れが来るのかを教えてもらいました。「罪の支払う報酬」それが「死」であり、裁かれる恐れである。しかし神は、イエス・キリストをわたしたちの罪の身代わりとして十字架で裁かれ。信じ者の罪をゆるし、永遠の命を与えてくださる。もう罪の結果としての死を私たちが味わうことはない。この聖書が語る救いのメッセージが、高校生の私をとらえました。自分の存在が死んで無に帰することを思い、不安で恐れていました。でもその死の恐れから私を解放し、永遠の命に生きる者と変えてくださったのです。
 よく人は、神には人間の死の苦しみはわからないだろう、と思いやすいのです。事実は逆です。罪の裁きとしての死の本当の恐れは、神の子であるイエス・キリスト以外にはわからないのです。この方だけが誰よりも深く死を恐れ、完全に受け止め、死んでくださったのです。この十字架を感謝し、罪を悔い改める時、私たちは死の恐れから解放されている自分を知るのです。

幼な子のように

「幼な子のように神の国を受けいれる者」(マルコによる福音書10:15)
 
「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(マルコによる福音書10:15)
 幼児の心は素直です。大人(親)の言葉をそのまま信じ、絶対の信頼を持つものです。
 幼児教育の働きをしていた頃、ユミちゃんという五歳の女の子がいました。ユミちゃんは図鑑を見たりして、いろいろなことを覚える知識欲旺盛な女児でした。ある日、ユミちゃんと一緒に幼稚園バスに乗っていると、バスの脇をコンクリートミキサー車が通過しました。するとユミちゃんは、「先生、あの車はね『コンクリーター』 って言うんだよ。お父さんが教えてくれたの」。それを聞いた時、私は(えっ?「コンクリーター」こと思いました。お父さんが「コンクリートミキサー車」を「コンクリークー」と教えるわけがないし、ユミちゃんの勘違いだろうと思って言いました。「ユミちゃん、あれはね、『コンクリートミキサー車』っていうんだよ」。
 するとユミちゃんはムキになって反論しました。「先生、違うよ、お父さんが『コンクリークよって教えてくれたんだから『コンクリークー』だよ。先生が間違ってるよ!」「でもね、この間図鑑で見たでしょ?あれはコンクリートミキサー車、っていうんだよ」。再度私に言われてしまったユミちゃんは顔を真っ赤にして「お父さんが教えてくれたんだもん!・コンクリーター!・コンクリーター!・コンクリーター!」と叫んで怒って向こうを向いてしまいました。ユミちゃんはきっと、お父さんの言葉まで否定されたと思いこんだのでしょう。私の言う言葉になど聞く耳を持ちません。そっとしておくことにしました。
 翌日、ユミちゃんは幼稚園に来て私に、「先生、昨日の車ね、お父さんにきいたら『コンクリートミキサー』って言ってたよ」と話してくれました。私はそのようなユミちゃんの姿を見ながら、お父さんの言葉への信頼感はすごいと思いました。
 イエスさまの「幼な子のようにならなければ」という御言葉は、そのような父なる神への絶対的な信頼ではないでしょうか。あなたも幼な子のような信頼をもって御言葉を受け入れるならば、神の国に入ることができるのです。

愛の光

「最も大いなるものは、愛」(コリント人への第一の手紙13: 13)
 
 「神さま、たとえ今日、何ができなかったとしても、神を愛し、人を愛する時をしっかりと持つことができるようにしてください。それが人生のすべてなのですから」(R・ウォレン)。
 この祈りの言葉は、私と親しくしてくださっていたKさんが、枕もとにおいて毎朝、目覚めたら口にしていた言葉です。
 あなたは、どんな気持ちで今朝、目覚めましたか。心を表現することが難しい方は、たとえば色におきかえて、今朝の気持ちを表現してみてください。
 やさしい緑、澄んだ青、情熱の赤などと表現する時には、きっと毎日が充実していたり、自分の思うように事が運んでいるような時だと思います。けれども、ある時にはよどんだ色や、暗い色しかイメージできない日もあるかもしれません。
 しかし、そのような時にこそ神さまに祈ってみませんか。暗い心を引きずって一日を歩むのではなく、イエスさまに心を向けて、どのような心を持ちたいか祈ってみるのです。
 先ほどご紹介したKさんは、「神を愛し、人を愛する時をしっかり持つことができるように」と、朝ごとに心を染め直しておられました。
 ここで戸惑う方がおられるかも知れません。
 多くの人は「愛する」との言葉に、「愛とは人類の永遠のテーマである」などととらえて難しく考え過ぎてしまい、自分には関わりのないことにように感じてしまうようです。しかし、あえて申し上げたいのですが、むしろ素直に「愛に生きたい」と思うことが大切です。
 マザー・テレサは、「多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです」との言葉で、現代社会が抱える悲しみを表現したことがあります。だからこそ彼女は、世界中の人々に向かって、「愛はほほえむことだけで始まります」と提唱したのです。
 「愛」は自分を、そして人を生かします。だから祈るのです。神さまに心を向けて祈る時、神さまの愛があなたに注がれるでしょう。「祈る時、私たちは神さまの愛の光になります」と彼女は言いましたが、神さまの愛はあなたの人生をすばらしい色に染めあげてくださるでしょう。
 まずはぜひ、あなたの心を神さまに向けてください。

偽りのない

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)
 
 石の彫刻にまつわる面白い話を聞いたことがあります。英語で「偽りのない」とか「真実の」を表すシンシア(sincere)という言葉がありますが、語源をたどるとラテン語の「シネセラ」という言葉からきていて、それは「蝋(ろう)無し」という意味だそうです。芸術作品としての石の彫刻が完成した時、制作者は「これは百%石の彫刻です。決して蝋でごまかしてはいません。つまり、シネセラ(蝋無し)です」と言ってその作品を差し出したと言われています。食品で言えば「添加物無し」と言ったところでしょうか。
 彫刻師の中には、欠損してしまった部分や細工の難しい部分を柔らかな蝋でごまかす者がいたのでそういう言葉が生まれたのでしょう。
 しかし、何事につけ、人間はパーフェクトな自分を誇示します。時には見栄を張ったり、背伸びしてまで実際以上に見せようとします。
 聖書には「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」という句があります。もし、私たちが人の目より神の目に心を用いるなら私たちの人生は大きく変わるかも知れません。
 同じ指紋の人が世界に二人といないように、神さまは人それぞれに唯一無二の個性を備えて造られました。誰かと比べた自分ではなく、ありのままの自分を神さまの賜物として受け入れられたら、どんなに自然体で生きられるでしょう。
 イエスさまの弟子の一人、パウロという人は自分の才能や境遇を自慢する人でした。それが、イエスさまと出会って以来、自分の弱さをすら誇る人間に変わりました。
 私も人の子、流行を追う心理もわかります。昔は日本人女性の美しい髪の色を「髪はガラスの濡れ羽色」と言ったものです。それがいつの間にか「髪は醤油(しょうゆ)の煮染め色」になりました。それが今、そんな人たちの髪を何の違和感もなく見ています。要するにそれが流行というものなのですね。流行も多様化した価値観の一つというわけでしょうか。
 しかし、そういう時代であればこそ、「心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」(Ⅰペテロ3:4・新改訳聖書)との聖書のお勧めを忘れてはならないと思います。
   Yours sincerely 《敬具》

老いも死もまた善し

「わたしは…走るべき行程を走りつくした」(テモテヘの第二の手紙4:7~8)
 
 寒い朝、私は手のひらにある小さな錠剤を見つめていました。やがて意を決し、私はそれを口に放り込み、用意した水で喉の奥に流し込んだのです。それは、初めて血圧降下剤を飲んだ朝のできごとでした。
 血圧降下剤。妻から「飲み始めたら止められない」と聞いていた薬。「もう止められない」と思ろと、それを飲むにはそれなりの決意が必要でした。それに、「私も血圧降下剤のお世話になる年になったのか」と思うと感慨深く、それでしばらく手のひらの薬に見入ってしまったのです。
 老いとか死と言ったものは、私たちにとって忌まわしいものに感じられます。しかし、最近、私はそれもまた悪くはないかなと感じています。それほど、私たちの生きている「この世」には苦しみや悲しみ、悩みやが満ちあふれているのです。
 もちろん、だからといって私は「みなさん早く死にましょう」などと死の勧めをしているわけではありません。どんなに苦難が多く、つらい人生であっても、私たちは生かされているこの時を精一杯生きなければなりません。それは、私たちを愛し、大切に思ってくれている家族や友人、そして、神がいるからです。
 聖書にはこのような言葉あります。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るぺき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(新約聖書テモテヘの第二の手紙4章7~8節)。
 これはパウロという人が、自分の死を意識して語った言葉です。彼は、「この世」では本当に苦労をした人です。けれども、そのような苦難の多い人生であっても、神を信じて精一杯生きてきた私の人生は幸いであると言うのです。それは、たとえ苦難の多い人生を生き、老いて死を迎えることになっても、神は私を神の国に温かく迎えてくださり、そこで慰めといつくしみ、喜びと幸いという義の冠を与えてくださるからなのです。
 今は苦難の多い時代。苦しいことや悲しいことがいっぱい起こってくるでしょう。しかし、たとえ苦難が多くても、神を信じて人生を精一杯生き抜くなら、必ず神からの慰めと憩いを得ることができます。神を信じて精一杯生きてこそ、「老いも死もまた善し」となるのです。

時にかなって美しい

「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)
 
 ニューヨークのハドソン川に、ジョージ・ワシントン・ブリッジ」という大吊橋があります。その壮麗な建造物を題材に、W・シューマンが、1950年に吹奏楽のオリジナル曲を作りました。高校時代、所属していた吹奏楽部の定期演奏会でこの曲を演奏したのですが、初めて楽譜が渡され各パートで練習を始めた時には、耳障りな不協和音と馴染めない奇怪なリズムに「なぜ、こんな曲を選んだのか」とぼやいたものでした。それでも、少しは曲を理解したいと思い、指揮者用のフルスコアに付記された解説を読んでみると、そこには、飛行機の上から見下ろした橋の印象を写実的に描くとありました。
 パート練習から合同練習に移る最初の日、用事で遅れ、練習場に急いでいた私の耳に「ジョジ・ワシントン・ブリッジ」が聞こえてきたのです。私は感動のあまり鳥肌が立ちました。橋の偉容が目前に鮮やかに描かれたからです。橋上をにぎやかに往来する数多の車。幾何学的で繊細な橋の優麗な構造。上空から橋を見下ろし、次第に高度を下げ、橋に接近するや否や、橋が加速して背後に遠のいてゆくさま。そして最後に、あの「展覧会の絵」のキエフの大門を思わせるような壮大な橋の情景を描いて終わるのです。心の中で拍手喝采し、目には涙があふれてきました。
 私たちの人生には、幸福に満たされる日もあれば、災いとしか思えないような時もあります。しかし、神はいずれも最善最良の日として私たちに与えてくださっているのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」からです。
 単に偶然とか、積極思考ということではなく、「美しい」との言葉通り、その絶妙さ、精緻(せいち)さは芸術的でさえあるのですが、もし神を認めず、神のなされる「最善」を受けとめられないなら、それを知ることができないばかりか、目の前に起こってくる出来事に振り回されることになってしまいます。
 しかし、パート練習では無味乾燥のように思えた曲が、実はすばらしい曲であったように、ある時はつらく、悲しいことがあったとしても、神の「美しい」ご計画を信じることにより、平安を保ち、またある時はその一端を垣間見て感動し、これからも導いてくださるとの希望をもって歩ませていただけるのです。

主の言葉を思い出した

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる」(マタイ4:4)
 
 朝の通勤時間に三歳くらいの女の子が広い学校の敷地で遊んでいました。そこへ男性が通りかかりました。するとその女の子が、「おはよう」と声をかけたのです。恐らく二人は面識がなかったと思います。なぜなら、その男性はそのまま行き過ぎようとしたからです。ところが、女の子は、もう一度「おはよう」、さらに「おはよう」と声をかけたのです。さすがに男性は小さな声で「おはよう」と返事をしました。
 女の子は満足げでレたが、男性も電車に間に合うように急いでいたでしょうし、仕事のことを考えていたかも知れません。普段ならまだしも、こんな時、見知らぬ女の子にあいさつされるなどと思いませんから、黙って行き過ぎようとしたと思います。しかし、いずれにせよ、この挨拶が彼を「本来の姿」に引き戻したことは確かです。
 聖書にもイエスの言葉で我に返った人の記事があけます。
 イエスが捕えられ大祭司の邸宅へひっぱって行かれた時、一番弟子のペテロは遠くからついて行き、中庭にいた人々の中にまぎれ混みました。ところがしばらくして、そこにいた人が気づき、「この人もイエスと一緒にいました」と告発に羊子。ペテロは思わず「わたしはその人を知らない」と打消すのですが、同じようにして、結局三度も裏切りの言葉を言つてしまうのです。その直後、鶏が鳴き、主イエスが振りむいてペテロを見つめられた時、彼は「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」との主のお言葉を思い出し、外へ出て、激しく泣いのでした(マタイ26章他)。
 実は、ペテロはイエスが捕えられるほんの少し前、「わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と言ったばかりでした。ところが、主が逮捕された時、彼は恐れにつつまれました。その恐れが、命がけで従っていこうとした彼の人生を根底から覆したのです。しかし、それに気づかせ、人生の方向を取り戻させたのがイエスの言葉でした。
 私たちの周りにも我を忘れてしまうような出来事が起こります。信頼を裏切られたり、怒り、病に打ち負かされる時、誰かがいやしてくれるのを待つこともできるでしょう。しかし聖書に耳を傾けてみてはどうでしょう。心の深層に届くイエスの言葉は、あなたを人間本来の姿に引き戻してくれるでしょう。

しののめを呼び覚ます

「わたしはしののめを呼びさまします」(詩篇108:2)
 
 新年に神の祝福があびますように。 「初日の出」。元旦に厳粛な思いで朝日を待つものですが、困難な時代だからこそ、深い思いをもって新しい年をお迎えになったことでしょう。
 聖書でも日の出がいくつか描かれていますが、その中で、ある詩人が描く、少し変わった日の出の表現を紹介いたします。「わたしはしののめを呼びさまします」(詩篇108:2)です。「しののめ(東雲)」とは、やってくる朝日に照らされる東の空の雲のことです。どこが変わっているかというと、「わたし」すなわち詩人がしののめを呼び覚ますというところです。おもしろいと思いませんか。普通はやってくる朝を待つのですが、この詩人は、自分が朝を来たらせると言うのですから。
 詩人のこの言葉は、その前節のこんな言葉から続いて語られます。「神よ、わが心は定まりました。/わが心は定まりました。/わたしは歌い、かつはめたたえます。/わが魂よ、さめよ。/立琴よ、琴よ、さめよ。/わたしはしののめを呼びさまします」。つまり、心を定めることが朝を来たらせるのです。どういうふうに心を定めたのでしょうか。「神を歌い、ほめたたえる」ことによってです。
 詩人には、人生の暗闇にいるような思いがあったのでしょう。自分が不幸だと嘆いていたのです。そういう思いで生きていると、明るい朝の光も心の中までは届かず、重苦しい心のまま過ごす一日の始まりを告げるだけになります。しかし、詩人はそういう心を後ろに投げ捨てて、不幸と思われる事々の中にも神は最善を貫いてくださっていると信じると「心を定めた」のです。そうすると、周りはそれまでと変わらない闇であっても、自分の心の中から朝日が照り始めたのです。最善をなし続けてくださっている神をたたえ、暗さに逆らって光を作る生き方を習い覚えたのです。
 やってくる朝日があなたの心の中まで照らしますように。神の光にかげりはなく、最善以下はなさいません。そう信じて朝日を迎えられますように。そう信じることにくじけないために、どうぞ教会を訪ねてください。神を信じ歌いたたえて朝の光を作り続けている私たちにあなたも声を合わせてくださいますように。

2011年

上から来られた方

「わたしは上からきた者である」(ヨハネによる福音書6:23~24)
 
 人が全く助けのない孤立した状況に追い込まれた時、それを「四面楚歌」と言います。この言葉は、楚の項羽が咳下という場所で漢の劉邦の軍に囲まれた時、夜更けて四面の漢軍中から盛んに楚国の歌がうたわれるのを聞いて、楚の民がすぺて漢に降伏したのかと、驚き嘆いたという『史記』の故事に基づくものです。
 私たちの人生も、このままでは孤立し、助けのない絶望の中に追い込まれていくのではないでしょうか。それを一変してくれるのは、四面が囲まれても決して包囲されない上からの援軍なのではないでしょうか。
 主イエスは、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」と宣言されています(ヨハネ6:23~24)。
 ここで主イエスは、私たち人間は「下から出た者」すなわち「この世」に属する者として、「自分の罪のうちに死ぬ」と言われています。この言葉のように私たちは、生まれながらの状態では、罪のうちに永遠の死を刈り取らなければならない存在なのです。この「罪のうちに死ぬ」とは、周囲を罪に囲まれ四面楚歌の状態で地上の生涯を歩むことであり、最後はその罪の中で死ぬこと、すなわち永遠に罪からの救い主と離別することを意味しています。
 しかし、このような状況にある私たちを救うため「上から来た」方、すなわち、天の父なる神のもとから降りてこられた方がイエス・キリストなのです。彼は神の御子であられたのに、この地上に肉体を備えて生まれてくださったのです。しかもこの方は、人が刈り取らなければならない罪をご自分の身に引き受けて、十字架におかかりくださり、死の恐ろしさを味わい、死に打ち勝って復活してくださったのです。実にこの「上から来られた方」、すなわち救い主を信じる者は罪の中で死ぬことはないのです。クリスマスとは、この救い主がこの地上に来てくださったことをお祝いする日なのです。メリークリスマス!

天にある国籍

「彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある」ピリピ人への手紙3:19~20)
 
 今年三月、かつて経験したことのない巨大地震、津波が東日本を襲い、かけがえのない尊い命が失われました。行方不明者を合わせ、その数は二万人とも言われています。被災された方々に謹んでお見舞いを申し上げます。
 そのような深い悲しみの中にも日本は今、希望をもって立ち上がろうとしていますが、時として、私たちもかけがえのない大切な命を失い、深い悲しみの中にも一縷(いちる)の望みを抱いて歩み出そうとすることがあるものです。そのような時、「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)との御言葉は、私たちの目を天に向けさせ、不思議に生きる力を与えます。
 国籍と言われても、ピンと来ないでしょう。日本は比較的恵まれている国だからです。しかし、内戦や貧困にあえぎ、劣悪な環境の中に生きている人たちにとって国籍の違いは生死を分けることさえあり、そのため、密入国、あるいは偽装結婚や賄賂を使って不法に他国籍を取得しようとする人たちが後を絶ちません。
 この言葉が書かれた二千年前も同様でした。当時の世界を支配していたローマ帝国の国籍を持つことは、多くの恩恵にあずかることを意味していたのです。だからこそ使徒パウロは、天の国籍を持つ者こそが幸いなのだと語ったのでした。
 確かに、イエス・キリストを信じ、救われた者に与えられる天国籍を得たとしても、この世に生を受けている以上、災いや悩みはあります。けれども、あえて申し上げますが、そのような時こそ、そして、死に臨む時においてこそ、天国籍にあずかっていることがどんなに大きな祝福であり、光栄であるのかがわかります。
 災いや悩みの時に、そして、生涯を終えようとしている時、この世で得た権利は何の効力も発揮できません。しかし、天国籍を持つ者には希望があります。力があります。喜びがあります。救いがあります。だから毎日を感謝し、賛美をもって喜々として生きられるのです。
 「どんな手を使っても獲得すぺきは天の国籍である」と聖書は言います。そして、それだけ価値のある国籍は、主イエスーキリストを信じることだけで得られと約束されています。

勝ちにこだわる

「すべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ人への手紙8:26)
 
 プロ野球のペナントレースも最終盤。サッカーW杯の予選や五輪の出場権をかけた戦いもあり、毎日一喜一憂しています。ただ、読者の中には「勝負事には興味がありません」、「なぜ勝敗にこだわるんですか」などと言われる方もおいででしょう。しかし、そのようなあなたも、実は、「勝負の世界に生きている」のです。しかもそれは、絶対に負けてはならない、勝ちにこだわらなければならない戦いです。
 と言われても戦っている感覚はないでしよう。でも、自分の無力さを感じたことはありませんか。屈辱感を味わったことがないでしょうか。また、思い煩いや苦悩に満ち、焦りや見えないプレッシャーに押しつぶされそうになって生活をしているとしたら、それはあなたがその「戦い」に敗北している証拠です。
 そうです。誰もが、否が応でも、日常の生活に起こってくる様々な問題と戦わざるを得ず、勝っていかなければなりません。ところが、いくら背伸びをしたところでそれに勝ち続ける力などなく、簡単な相手を破っても、すぐに強敵が現れ、打ち負かされてしまう。それが現実です。
 それではどうしたらよいのでしょうか。
 聖書には、「すべての事において勝ち得て余りがある」、つまり、「どんな相手でも圧倒的な勝利を得られる」秘訣が書かれています(ローマ8:31~39)。
 「患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣」といった、私たちの生活に関わる重要事が列記されています。それらは回避できない、戦っていかなければならない課題として、いつも私たちの前に立ちはだかります。
 これらの難敵を向こうに回し、「これらすべてにおいて勝ち得て余りある」と聖書が言い切っているのは、「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)、神を味方につけて戦えるからなのです。
 私たちは常に敗北を味あわされています。もし、勝ち続けられるなら、どんなにすばらしいでしょう。そのために、今こそ、神と敵対する立場を取るのではなく、自分の無力さを認め、神を受け入れ、神に頼り、神を味方にして、勝ち続けていく生き方をすべきなのです。

主にゆだねよ

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ」(箴言16:3)
 
 七月に海外の二つのニュースが新聞の一面を占める事態が起こりました。一つはノルウェーの連続テロ事件、もう一つは中国の新幹線事故です。ニュースを聞いた人々は、「まさか!」と同時に、「やはり!」という反応だったように思います。
 敬意とあこがれを持つ文化国家での驚くような残虐な事件、世界中の知恵と技術を集めた鉄道の事故、これらのニュースは大きなショックを世界中に与えました。両者とも人間の知恵をあざ笑うかのように起こった事件でした。
 人の知恵は、それがどんなに優れていても必ず欠けている部分があります。また、人間が立てる計画は、それがどんなに完璧に見えてもどこかで行き詰まる部分を秘めているものです。行き詰まりを感じている日本の国に、すばらしい指導者が現れて、すばらしい政策を実行したとしても、どこかで何かの弊害を生み出す事は避けられないでしょう。
 では、どうせ何をしても行き詰まるのならば、最初からあきめて無気力に生きていくべきでしようか。そうすれば何が起きようと驚かないかもしれません。それとも、さらに完璧を求めてばく進して行くべきなのでしょうか。
 無気力に生きることは虚無的に生きることです。そこには人生の喜びはありません。一方、完璧を求めて強行に前進することは勇ましい事ですが、挫折した時の苦痛は痛ましいものがあります。また心のゆとりがなくなり、周りを蹴散らし傷つける危険性があります。
 聖書は両者の中間とも思えるような道を私たちにボします。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3新改訳)。
 私たちのする事の結果を神にお任せするのです。そこから生まれるものは無気力ではありません。心の穏やかさです。結果はどのように出たとしても、私たちを愛してくださる神はベストの方向へと導いてくださると信じるのです。私たちは自分のできる範囲内でベストを尽くせば良いのです。私たちは結果を完全にコントロールする事はできません。それは神がなさる領域です。それを信じて歩む私たちは揺らがないのです。

真の神がおられる

「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(使徒行伝17:23)
 
 日本に来てから不思議だと思つているのは(ちなみに私は韓国人です)、日本人の宗教への熱心さです。至る所に神社があり、寺院があり、熱心に手を合わせている姿をよく見かけます。しかし、私の驚きはそこではなく、それぞれに願い事はあるのでしようが、だからといって、どんなものにも、時には何がまつってあるのかわからなくても祈つている、そのような行為に対して疑問を抱いてやまないのです。
 聖書に、同じ疑問を持つた人が出てきます。使徒パウロです。彼が伝道のために訪れたギリシャのアテネに来た時、驚くような光景を目にします。日本と同じく、神々が至る所に存在し、まつられている神の名も知らないのに、人々が熱心に拝んでいたからです(使徒行伝17章)。
 パウロは、そのようなアテネの人たちの熱心な宗教心に触れながらも、それが本当の信仰ではないことを指摘しました。すなわち、「どんな神かもわからないのに、拝んでいるのはおかしい」というわけです。そして、彼は、「あなたがたが拝むべき神はただ一人、真の神はただ一人しかいない。あなたが知らずに拝んでいる真の神を教えよう」と語り始めます。
 仮に、神社や寺院で祀られている神々の中に、本物の神が一つあったとしたら、それ以外のものは本物ではないことになります。もし、「そのようなことを考えなくてもいい。そこに寺社があるから手を合わせるのだ」と言うのであれば、それはもはや信仰の行為ではなく、ただの習慣的な、気休めに過ぎない行為、あるいは文化的な行為と言わざるを得ません。そこに救いはありません。
 聖書は、真の神がおられることを教えています。しかし、すぺての人間は罪があるために、真の神の存在がわからなぐなっているとも証言しています。ですから、神が、自然などの被造物を通してご自身を表されていても、また、神の御言葉である聖書を通してご自身をはっきりと示してくださっていても、真の神がわからず、それゆえに、知らず知らず、身近な神仏を拝んで、安心を得ようとしているのです。
 パウロは言います。「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」。
 あなたを救う、真の神を求めてください。