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2021年

偉大な自然に神を思う


 高齢の教会員が教えてくれました。「福島じゃあ吾妻山に雪うさぎが見えると種を蒔くんだよぉ。」

 福島市の西側に吾妻連峰がそびえていますが、春になるとその雪がとけ始めます。そして、吾妻小富士の山肌に残る雪形がうさぎのように見えてくる。だから雪うさぎなのです。かつてこれが見えると苗代に種を蒔いていたことから、「種蒔きうさぎ」とも呼んだそう。雪うさぎ、何とも微笑ましい名前です。
 
 自然は美しく、恵み深いものです。福島市の気候は盆地特有の気温の大きな変化が特徴的で、日本有数の果物の生産地にしました。多くの花が生活を彩ります。自然は人に喜び、豊かさを与えてくれるのです。でも自然は人の思い通りになりません。その厳しさは人を打ちのめすこともあります。一昨年の台風では、教会近くの川の堤防も一部崩れました。ようやく改修が終わったばかり堤防を歩きながら、この自然の大きさと不思議を詩編の言葉とともに思いました。

 「あなたの指の業である天を、あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。」(詩編8:4~5)
 
 この詩人は夜空を見上げています。そして、輝く幾多の星を見つめながら、神の創造の偉大さと巧みさに心捕らえられます。この偉大な自然への感動は、神への賛美となり、驚きとなりました。それは、この賛美のことばを幼子、乳飲み子に与えられたことでした。知恵や力のある人ではなく、いと小さく、弱き人に、神はその偉大な働きを知らせてくださいます。主イエスが「子どものようにならなければ」と言われた通りです。
 
 詩人にとって、この神はあまりに不思議なお方でした。指のわざと言うように、その創造のわざは非常に巧みなものです。しかし、創造の偉大さやその巧みさ以上に、神が小さな人に心を留め、顧みられることこそが不思議でした。人は神の目に貴いのです。だから、神は人をその価値にふさわしく扱われます。この不思議に、詩人はただ神を賛美するのでした。

 新型コロナウイルスにより、私たちは振り回されました。でも幸いコロナワクチン接種も始まりました。この混乱もきっと収束へと向かうでしょう。けれど毎年のように繰り返される自然災害はどうでしょうか。この先を誰も見通すことはできません。それでも「恐れるな」と語られる神は、何があってもあなたを心に留め、顧みておられます。だから「主よ、我らの主よ。御名は全地でいかに力強いことか」と歌うのです。

 

「イエスは主」を基として


 お雪をかぶった山を背景に色々な花が一気に咲く美しさ、東北の春は格別です。この美しさは、冬の厳しい時を通るからこその不思議と聞きました。昨年度は教会の働きにおいても厳しい時となりましたので、この自然の不思議を新しい年度の働きに期待しています。

 この春に任地を異動された牧師たち、これらの牧師を迎えられた教会はどのように働きを始められたでしょうか。私たち夫婦も2年間の猶予を経て、ここ福島教会の専任となりました。前任地では最初の任命と合わせて21年間の働きで、その働きを振り返る機会が与えられました。この振り返りの中で、自分たちがなしたことではなく、与えられた経験こそが大切な思い出になっていることを覚えました。そして、それらの経験は、私たちの中にある教会の姿をいのちあるものとしているのです。

 教会は、イエスを主とする人たちが集められ、礼拝を行う共同体です。イエスを主とすることは礼拝の心に留まらず、生き方において表されるものです。この教会という共同体は人の集まりですから、それぞれ様々な違いがあります。それでもイエスを主として仰ぐから、教会はキリストの教会であり続けるのです。
 
 1986年、前任地の教会の主任牧師が執務室で倒れられました。最後の様子を医師に説明するために、私も搬送される救急車に同乗しました。救急車の中で、「私の声が分かったら合図して」との奥さまの言葉に、先生は意識が失われていく中で、上を指さしOKサイン、Vサインをされました。死を前にし、自分の置かれた状況を認識し、あるがままで受け入れ、さらに天国を指さしVサインをすることができる。私には忘れられない姿、死に勝利した姿でした。でもそれは最後だから取られた姿なのではなく、いつも自分を従とし、イエスを主として生きることに心を向けているからこそ……だったのでしょう。

 残念ながら教会にも問題(そのほとんどが人間関係ですが……)が起こり、教会生活や人生が複雑なものになることがあります。意見の対立の中で、自分の考えこそが聖書に根差している、自分の判断は誰が考えても正しいとの思いから動けないことがあります。そんな時、目をイエスに向けて、「私ではなくあなたが主です」と言い表すことができれば幸いです。このように、教会が教会のあるべき姿である時、キリスト者がキリスト者本来の姿である時、ほとんどの問題は解決できるのではと思うのです。

 「イエスは主」と告白する人が集う教会でありたいと願っています。 

神が備えられたところへ

      

 「人間の心は自分の道のことに思いを巡らすが、主がその一歩を確かなものとする。」(箴言16:9)
 
 先の教団総会において教団委員長に選出されました。きっと驚かれた方も多いでしょうが、誰よりも私が驚き、恐れています。神の招きを拒むモーセのように、「私は何者なのでしょう。この私が本当に……」との思いでいっぱいで
す。ご存じだと思いますが、この総会からの招きに、祈ってお返事させていただきますとは答えられません。選出後、総会のすぐ後のセッションで就任式、誓約があるからです。そして、挨拶、祝辞、原稿……次々と求められ、すべてに答えようと必死(のパッチ)です。
 
 こんな私の心に浮かぶのは、遣わされた教会での新年礼拝で開きましたこの箴言の言葉です。その後半が、口語訳聖書では「しかし、その歩みを導く者は主である」、新共同訳聖書では「主が一歩一歩を備えてくださる」、新改訳2017では「しかし、主が人の歩みを確かにされる」となっています。それぞれとても味わい深いものがあります。そして、この言葉から、新型コロナウイルス感染の収束が見通せない状況であっても、それでも私たちの人生を導かれるのは神であり、この神の備えられたところへ一歩を踏み出しましょうと勧めたのです。
 
 自分の人生、教会の働き、教団の歩み、私たちは考え、計画し、夢を描きます。そして、思い通りにならないと嘆き、失望するのです。でも、そもそも私たちは将来を見通すことなどできません。私たちに確かなことは、私たちを導く神がおられることだけです。この方が私たちの歩みを確かなものにされます。だから、神が備えられたところへと一歩踏み出すのです。
 
 ある日、電車に乗ろうと駅に急いでいました。ホームへと駆け上がりましたが一歩及ばず、目の前でドアが閉まりました。悔しさと失望で行く電車を見つめていました(大袈裟ですね……)。ああもっと速く走れば、あんなことをしなければ……と思いながら、時刻表で自分が逃した電車を確認しました。そして、一本後の電車の時間を見ていました。そのとき、気づきました。乗るべき電車を逃したのではなく、私の電車は今私に向かって懸命に走っていると。
 
 目に見えるものしか見えていない私、思い通りにならないことに捕らわれ続ける私。そんな私を神はどのように見ておられるのでしょう。でも、神は確かに見えないところで働かれ、将来を備えてくださっているのです。新年度、ご一緒に神の備えられたところへ一歩踏み出しませんか。

新しい出発

前教団委員長 島津吉成
 
 4月は、新しい出発の季節ですね。この4月号が皆さんのお手元に届く頃には、3月に行われた教団総会で新しい教団委員長と教団委員が選出され、新たな歩みがスタートしていることでしょう。さらに聖別派遣式において新年度の任命が告げられ、引き続き同じ教会に遣わされる者も、新たな教会に任命される者も、また初めて任命を受ける者も、そして、その牧師たちを受け入れる教会の兄姉も、みな等しく、献身の思いを新しくして、この4月を迎えていることと思います。

 私が教団委員長を務めさせていただいた4年間、何と多くの方々に祈られ、支えられてきたかということを思います。本当に、ありがとうござました。心より感謝いたします。新しい執行部のためにも、引き続き、お祈りとご支援をよろしくお願いいたします。
 
 今年のイースターは、4月4日ですね。新年度の最初の主日礼拝が、イースターになります。

 ヨハネ20章19節以下に、復活された主イエスが弟子たちに現れたときのことが記されています。日曜日の朝、主イエスは復活され、マグダラのマリアたちにそのお姿を現してくださいました。ところが、弟子たちはそのことが信じられず、ユダヤ人の迫害を恐れて、家に閉じこもっていました。

 
 その弟子たちの真ん中に主イエスが現れ、「あなたがたに平和(新改訳聖書は「平安」)があるように」と言われたのです。そして、主イエスは弟子たちにご自分の手と脇腹とを見せられ、確かに十字架に付けられた主イエスが復活したのだということを示されました。聖書は、「弟子たちは、主を見て喜んだ」と記しています。弟子たちの喜びは、どんなに大きかったことでしょう。
 
 私たちは今、地域によって差があると思いますが、コロナの影響で、みんなで教会に集って礼拝をささげることが難しい状況の中にあります。外出自粛が呼びかけられています。弟子たちが家の中に閉じこもっていた状況と、何だか似ているなあ、と感じます。しかし、あの弟子たちの真ん中にお立ちくださった主イエスは、私たちの真ん中にもお立ちくださっています。そして、「あなたがたのために十字架に付いた私が、復活して、今、あなたがたと共にいるのだ。恐れることはない。あなたがたに平和(平安)があるように」と語りかけてくださっているのです。私たちも、この主を見て喜ぶ、そのような礼拝をおささげいたしましょう。

 主イエスは弟子たちに「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言われ、息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。主イエスは、私たちにも聖霊を注ぎ、この世へと遣わしてくださいます。主の息吹を受けて、ここから新しい出発をいたしましょう。

キリスト・イエスの僕

教団委員長 島津吉成
 
 2020年度も、いよいよ年度末を迎えようとしています。今年度は、新型コロナウイルスのことで、本当に大変な一年になりましたね。今年度の初め、私たちは「サーバント・リーダーシップ」を土台として教団の歩みを進めて行きたいと願ってスタートしました。一年を振り返って、それがどれだけ実践できたかということを思いますときに、まだまだ途上にあるということを痛感します。
 
 そもそも「サーバント・リーダーシップ」は、方法論ではありません。私たちキリスト者の存在のあり方、そして生き方の土台のようなものです。主イエスは弟子たちの足を洗って僕としての生き方を示し、そして「私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」(ヨハネ十三15)と言われました。ですから、僕として生きるということに卒業はありません。ますます僕としての生き方が深まっていくというところに、キリスト者としての成熟があるのだと思います。
 
 パウロは、獄中からフィリピの教会の人々に宛てた手紙の冒頭、自分のことをただ一言、「キリスト・イエスの僕パウロ」と記しました。ここには、他の手紙でよく使われている「使徒」という肩書は出てきません。皆さんは、例えば会社を定年退職して、名刺に書かれていた肩書が使えなくなったとき、自分を何と自己紹介するでしょうか。パウロは、「キリスト・イエスの僕」と言ったのです。
 
 パウロが自分のことを「キリスト・イエスの僕」と言うとき、彼は喜びと感謝をもって言っていたのではないかと思います。「キリスト・イエスの僕」とは、自己卑下して、縮こまるようにしていう言葉ではありません。
 
 彼は当初、教会を迫害する者でした。ステファノを殉教の死にさえ追いやったのです。その彼がキリスト者を捕らえるためにダマスコに向かう途中、復活された主イエスが彼に出会ってくださり、そのことによって彼の人生が180度、転換したのです。ステファノが殉教するとき、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と大声で叫んだ祈りの言葉は、その場にいたパウロの心に深く刺さっていたにちがいありません。教会をこれほど迫害した自分を、主イエスが「私が選んだ器」(使徒9:15)と言ってくださったのです。こんな自分に目を留め、あえて選んでくださる主イエスのご愛に、パウロがどんなに感動したことかと思います。ですから、このお方の僕として生きることは、彼にとって感謝と喜び以外の何ものでもなかったのです。
 
 私たちも同じです。パウロと同じ恵みにあずかっているのです。さあ、あなたは自分のことを何と紹介しますか。

執り成しの祈り

 「主は人のいないのを見、執り成す人がいないことに驚かれた。」(イザヤ59:16)「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。」(Ⅰテモテ2:1、2)

 私はこの原稿を、皆さんのところに届けられる約一か月前に書いています。新型コロナウイルスの感染が再び拡大し、自粛生活が強く呼びかけられています。政府の対応が遅いという批判が高まっています。そのような中で、私は右記の御言葉に出会いました。

 政府の対応が正しく的確になされるために検証され、批判がなされることは大事なことだと思います。そのことを踏まえた上で、聖書が「まず第一に」教会がなすべきことは祈りであり、特に王たちやすべての位の高い人たちのために、執り成しの祈りを献げるようにと言っていることは大事なことだと思いました。私たちは今、世界的な危機の中にいます。この状況の中で、日本は勿論ですが、世界の指導的な立場にある方々が、正しい判断をし、適切な対処をしていくことができるように祈ることが、教会に託された使命なのだと思います。このような時だからこそ、教会の祈祷会が盛んになっていくことを願います。
 
 それにしても、迫害の厳しい時代の中で、パウロが教会に対してこのような指導をしていることは、ちょっと驚きですね。その鍵が、続く5節に書かれています。「神は唯一であり」ということです。唯一の神がすべてを治めておられる、歴史を動かしておられるのは神である、これがパウロの確信でした。ですから、たとえ神を知らない指導者であっても、その指導者が神に喜ばれるような政治を行っていくことができるように祈ろう、すべてを治めておられる唯一の神が働いておられるのだから、と勧めているのです。

 唯一の神を信じる信仰は、「常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活」となって実を結びます。それは、不安や恐れの中で混乱し、慌てふためくのではなく、「静まれ、私こそが神であることを知れ」(詩四六11)と言われる主を信頼した生活です。主が共にいてくださり、主が働いていてくださるのですから、私たちは、祈りつつ、平静な心で、あきらめないで、忍耐強く、一つひとつのことに取り組んでいくことができるのです。そのとき、主の素晴らしさが私たちを通して証しされていきます。主の平安が広がっていくのです。

平和の計画 

 あなたがたのために立てた計画は、
私がよく知っているI主の仰せ。
それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画。
             (エレミヤ29:11)

 2021年が始まりました。昨年を振り返ると、新型コロナウイルスの感染拡大によって、計画をしていたことがことごとく中止になったり、延期になったりしたのではないでしょうか。
 
 東京オリンピックの延期に象徴されるように、何年も時間をかけて準備をしたとしても、一つの感染症でそれが簡単にひっくり返されてしまうのです。人間の立てる計画の限界というものを見せつけられたような気もします。
 
 神さまの立てる計画はそうではありません。この計画が実行されるまでには、長い年月がかかっています。だから、何も進んでいないように見えた人もいるかもしれませんが、着実に進められていったのです。そして、イエス・キリストさまによってこの計画は実行され、じつは現在も進められているのです。聖書を読んでみますと、そのことがよくわかります。
 
 それは、わたしたち人間を罪と死から救うという壮大な計画です。アダムの犯した失敗によって、人間に罪と死が入り込んできました。そこから救うために、独り子であるイエスさまがこの世に遣わされました。そして、イエスさまはわたしたちの罪の身代わりとなって十字架にかかり死なれましたが、三日目によみがえられたのです。これらの出来事によって、イエスさまを自分の救い主として信じるならば、わたしたちの罪は赦され、永遠の命が与えられるのです。死はもはや終わりではないのです。
 
 2021年がどのような年になるかは誰もわかりません。しかし、イエスさまを救い主として信じる人にとっては、聖書の言葉に約束されているように、将来と希望と平和の計画が与えられるのですから、あまり心配する必要はないかもしれません。

2020年

コロナに打ち勝つ教会

教団委員長 島津吉成   

 今年は新型コロナウイルスのために、世界が一変してしまいました。主イエスは、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た」(ルカ22:31)と言われましたが、今まさに私たちは、「ふるいにかけられている」ように感じます。
 
 私たちの礼拝がふるわれています。「心から主を愛する」という信仰をもって礼拝をささげていたでしょうか。それともうわべだけの、風が吹くと飛ばされてしまう殻のような、礼拝への姿勢だったでしょうか。礼拝を生活の中心に据えましょう。様々な制約のある中で、それを乗り越えて、主を慕い、御言葉を慕って、心からの礼拝をささげていきましょう。
 
 特に、オンラインで礼拝を守っておられる方々は大変だと思います。ぜひ自分が礼拝をささげているその場にも、主がおられるという信仰を持って礼拝をささげてください。そして、説教だけを聞くということではなく、礼拝全体を共にするようにしていただきたいと思います。心から礼拝をささげる者を、主は祝福してくださいます。

 私たちの伝道もふるわれています。イベントで人を集めるという伝道は、難しい状況です。そのとき、大事になってくるのが、一人ひとりの信仰生活のあり方です。主から遣わされた生活の場で、主の恵みに感謝して生きるとき、その人からキリストの香りが放たれ、それがキリストを証しすることへとつながっていきます。ここに、これからの伝道の基本的な姿があると思います。まさに、一人ひとりが喜びをもって主に仕える、主の僕、主の弟子となっていくということです。

 私たちの交わりもふるわれています。教会で共に集っての交わりができない状況が続いています。孤独になっている人はいないでしょうか。電話や手紙やオンラインなどを用いて、様々な工夫がなされていると思いますが、「共に喜び、共に泣く」という主にある交わりを、今こそ深めて行きましょう。その際、牧師にだけゆだねるのではなく、信徒同士が助け合い、励まし合うという交わりを、ぜひ築いていっていただけたらと思います。

 主イエスは、「私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った」とシモン・ペトロに言ってくださいました。主は、試練の中にある私たちのためにも祈ってくださっています。信仰生活、教会生活の基本を深めて行くこと、そこにコロナに打ち勝つ道があると思います。

弟子として聞く

教団委員長 島津 吉成

 「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた。疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。主は朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まし、弟子として聞くようにしてくださる。」(イザヤ50:4)

 今年度、教団は「使命に生きる主のしもべ」というテーマを掲げました。主のしもべは、主の弟子です。では、主の弟子はどのようにつくられていくのでしょうか。
 
1.弟子として聞く
 
 弟子の歩みは、師に聞くことから始まります。祭司エリは、少年サムエルに主の語りかけを聞く態度をこう教えました。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上3:9)。私が主ではないのです。神さまこそが主です。主の語りかけを僕として聞く。ここに、主の弟子としての大事な姿があります。

2.朝ごとに

 朝は新鮮な時です。その朝に、まず聖書を通して主の語りかけを聞きましょう。「ごとに」と言われているように、続けることが大切ですね。できないときもあるでしょう。それでも続けましょう。その毎日の積み重ねが、主の弟子をつくっていきます。

3.耳を呼び覚ましてくださる

 私たちには、自分が聞きたいことだけを聞くという傾向があります。しかし、主の語りかけは、私たちの考えを超えています。良い意味での「想定外」の言葉です。アブラムが故郷を離れて、主の示される地に行けと言われたのは、75歳の時でした。アブラムの人生設計の中には、全くなかったことでしょう。パウロが棘を取り除いてくださるようにと祈ったときの主の答えは、「私
の恵みはあなたに十分である」(Ⅱコリント十二9)でした。これも、パウロにとっては想定外の言葉だったと思います。でも、彼らはその主の語りかけを受け留めることができました。主が彼らの耳を呼び覚まし、耳を開いてくださったのです。このように、自分の考え、計画を超えて語りかけられる主の言葉を聞いていくとき、自分の中にある固いものが砕かれ、また自分の考えにまさる主の恵みを体験していくのです。主の弟子は、こうしてつくられていくのです。

4.疲れた者を励ます者へ

 こうして主の弟子は、疲れた者を言葉で励ますすべを学びます。「すべを学ぶ」とは、テクニックではありません。自らの体験に基づいて、「確かに、主は慰め主でいてくださいます」と言って主を紹介する、ということです。

 コロナ禍の中で、心も体も疲れ切っている方々がおられます。その方々に主の恵みを伝えるために、主は私たちを主の弟子として召してくださっているのです。

私は新しいことを行う

教団委員長 島津吉成   

「先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を、荒れ地に川を置く。」(イザヤ四三18~19)
 
 この御言葉は、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民に語られた、主からの御言葉だと言われています。

1.先にあったことを思い起こすな

「先にあったこと」とは、出エジプトのことです。主が紅海を2つに裂いて、そこに道を造り、彼らをエジプトから脱出させてくださったのです。その素晴らしい御業を思い起こすな、と言われるのです。どうも、このときの彼らは、「昔は良かったよね。神さまが素晴らしいことをしてくださった。でも、今は状況が違う。神さまは少しも働いてくださらない。私たちは見捨てられている」と言って、無力感と虚無感にとらわれていたようなのです。
 
 そのような民に対して、主は語られたのです。「ただ昔を懐かしむような思いで、先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな」と。私たちも、「コロナの前はあれもできた、これもできた。でも今は駄目だ」と言って、先のことを思い起こしているとするならば、主は「思い起こすな。考えるな」と言われるのです。

2.私は新しいことを行う
 
 主は、「新しいことを行う」と言われます。「今や、それは起ころうとしている」とありますが、新改訳聖書はここを、「今、それが芽生えている」と訳しています。冬の間、枯れ木のようになった木の枝に、よく見るとすでに新芽が出ているのを見ることができます。コロナの後に、新しいことが始まるのではないのです。コロナの渦中にある今、主はすでに新しいことを始めてくださっているのです。すでに、新芽が芽生えているのです。「それを見なさい。見つけなさい。そして、それを育てなさい」と主は言われます。
 
 みんなで、主の新芽の発見ごっこをしてみませんか。コロナの状況の中で、こんな新しい働きが始まった、今まであの人の中に隠されていた賜物が発揮されるようになった、というようなことがありませんか。新芽ですから小さなことでよいのです。楽しく、柔軟な心で、見つけてみませんか。
 
 ちなみに、私の牧する教会では、教会会計のシステムと奉仕のあり方を、会計の専門的な知識がなくてもできるように、そして、もっとスピーディーにスムーズに行えるように改良中です。コロナが背中を押してくれたのです。

「確かに、私は荒れ野に道を、荒れ地に川を置く」と言われています。主が道を開いてくださいます。その信仰を持って進んで行きましょう。
 

下に根を張り、上に実を結ぶ

教団委員長 島津吉成

 「ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。」(イザヤ三七31/口語訳)

 私はこの原稿を、毎日、感染者がどんどん増えている状況の中で書いています。これからどうなるのか、全く予測がつきません。かなり長期にわたって忍耐の生活を続けることを、覚悟しなければならないのでしょう。それはつまり、今は「下に根を張る」時だということです。

1.祈りの根を張りましょう

 感染者が増えて来ると、どうしても私たちは不安になります。それは当然のことです。しかし、不安や恐れに圧倒されることは防ぎたいものです。

 そのためにも、祈りの時を大切にしましょう。祈りは、主との交わりの時です。聖書の御言葉を通して主からの語りかけを聞き、主がどんなに愛に富み、恵み深いお方であるかを味わいましょう。

 サタンが私たちを悪い思いの方に引っ張って行こうとするときには、「愛、喜び、平和」という御霊の声の方を選びましょう。パウロは「私のために祈ってください」(エフェソ六19)と言っています。どうぞ、牧師のために祈ってください。また、病んでいる人、助けを必要としてる人のためにも祈りましょう。主がそこに御業を行ってくださいます。

2.聖書の中に根を張りましょう
 
 聖書は、命の糧です。ウイルスのことで不安が広がる中でも、聖書の御言葉は、私たちにイキイキと生きる命を与えてくれます。
 
 今年3月の教団総会で、教団の公用聖書として「聖書協会共同訳聖書」が決まりました。この聖書に馴染む意味でも(もちろん、どの翻訳聖書でも構いませんが)、聖書の通読にチャレンジしてみませんか。新約聖書を毎日3章読むと、3か月で通読できます。今から始めても、今年中には終わりそうですよ。

3.「人とのつながり」に根を張りましょう
 
 感染を避けるため、外出を自粛する生活が続いています。一人暮らしの方は、一日中誰とも話をしなかった、という方もおられるでしょう。教会員同士、電話などを用いて声を掛け合いましょう。信仰の仲間づくり、祈りの仲間づくりに努めてみませんか。
 
 また、あなたの周りに、神さまからの平安を必要としている方はいませんか。今はたくさんの人を集めての伝道は難しい状況です。でも、救いを求めている人はいるのです。そのような人を牧師に紹介してください。牧師は感染防止に細心の注意を払いつつ、工夫して、その人をお導きさせていただきます。「時が良くても悪くても」、御言葉を宣べ伝えましょう。

新しい生活に向かって

教団委員長 島津吉成

 列王記19章には、バアルの預言者との戦いに勝利した後、まるで燃え尽き症候群のようになってしまったエリヤの姿が書かれています。

1.休息
 
 エリヤは、「主よ、もうたくさんです」と主に訴えました。主はその彼に、睡眠と食べ物を与えてくださいました。「石焼きのパン菓子」と書かれていますが、きっと焼き立てで、いい香りもしたのでしょうね。こんなところにも、神さまの優しさを感じます。
 
 教会に集っての礼拝を再開している教会も多くなってきていると思います。でも、教会が感染の源にならないようにと、神経を使いながらの日々だと思います。それだからでしょうか、妙に疲れますね。「エリヤは起きて食べ、そして飲んだ。その食べ物で力をつけた」とあるように、私たちも適度な運動とバランスの良い食事と良き眠りに心がけ、長期戦になるかもわからない「コロナと共に生きる」歩みを続けていきましょう。

2.成功体験にとらわれない
 
 エリヤは神の山ホレブで主とお会いします。激しい風、地震、火の中に、主はおられませんでした。その後、「かすかにささやく声」があり、そこに主がおられたのです。バアルの預言者との戦いでは、主は天から火を降して、ご自身を現してくださいました。エリヤは今回も、そのような神さまを期待していたのかもしれません。しかし、バアルの預言者と戦ったときと、このときとでは状況が違っていたのです。
 
 私たちは今、新しい生活を作って行かなければなりません。そのとき、かつては良かったやり方であっても、今は変えた方が良いということも出てくると思います。そのとき、かつての成功体験にとらわれていると、柔軟に変えて行くことが難しくなってしまいます。主は「かすかにささやく声」で語りかけてくださいます。耳を澄まして、柔らかな心で、主の語りかけを聴きましょう。

3.新しい使命

 主はエリヤに、「エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者としなさい」と言われました。エリヤはこれまで、先頭に立って戦ってきました。でもこれからは、後継者の育成に努めるようにと主は言われたのです。
 
 エリヤはこのとき、人生の大きな危機に直面していました。「危機」は、これまでの生き方は今後は通用しない、新しい生き方に転換する必要があるというサインです。私たちは今、新型コロナウイルスのことで、大きな危機に直面しています。しかしそれは、新しい使命、新しい教会のあり方、新しい信仰生活のあり方へと転換していくチャンスのときでもあると思います。
 
 主は私たちに何を願っておられるのでしょうか。

集まることと、散らされること

教団委員長 島津吉成

 
 緊急事態宣言が解除され、礼拝の再開に踏み出している教会もあると思います。共に集うことができなかった間、それぞれの教会で様々な工夫がなされ、つながりの絆を保つために悪戦苦闘の日々が続いたと思います。とりあえず、緊急事態宣言は解除されましたが、ワクチンや新薬ができるまでは、再び感染が広がることもあるでしょうから、しばらくの間、教会としても、その地域の状況を見ながら試行錯誤していくことになるのだと思います。

1.集まること
 
 今回、共に集うことができなかったことを通して、改めて、教会にとって共に集うことがどんなに恵みであり、大事なことだったのかということを痛感しました。ペンテコステのときも、「皆が同じ場所に集まっていると」(使徒二1)、そこに聖霊が降りました。
 
 共に集まることができなかったとき、インターネットを用いて礼拝を配信した教会も多かったと思います。今回のことを通して、ネットの活用がどんどん進み、伝道や交わり、教会教育など様々な面で新しい試みが進んで行くことと思います。ここには大きな可能性が秘められていると思います。

 その上でなのですが、人間は安易な方向に流れやすい存在です。具体的に共に集まるということは、体を動かすということです。巣ごもり生活が続いて、体がなまってしまったという方がおられるかもしれません。体を動かすことがおっくうになる、という心理が働くこともあるのではないかと思います。そのおっくうさを振り払って、体をそこに持って行き、顔と顔を合わせる。やはり、教会はこれを大事にしなければいけないと思うのです。「兄弟が共に住むことは、何という幸せ、何という麗しさ」(詩一三三1)。ここに、教会の姿があります。今は感染予防に細心の注意を払いながらですが、「共に集う」教会を再建して行きましょう。

2.散らされること

 使徒八章には、迫害のために使徒たち以外の人々(つまり信徒の人たち)がエルサレムにいることができなくなり、地方に散らされて行ったことが記されています。でも、彼らは散らされて行った場所で御言葉を伝え、こうして福音が広がって行ったのです。すごいですね。彼らは信仰的に自立しているのです。牧師がいなくても、信仰生活を守り、伝道にも励んでいるのです。

 今回、私たちは共に集うことが難しい状況の中を通りましたが、その中でも、初代教会の信徒たちのように、それぞれの場で、しっかりと信仰生活を守り、主を証ししていく者として、成熟していくことが大事だということを知ったのではないでしょうか。共に集うことと、散らされる(遣わされる)こと、この2つに強くなることが大事だと思いました。
 

つなぎ合わされ、結び合わされ

教団委員長 島津吉成
 

 今年度、教団ではエフェソ4章16節のみ言葉を年間聖句として掲げました。ここに「キリストによって、体全体は、支えとなるすべての節々でつなぎ合わされ、一つに結び合わされて」と書かれています。教会が体に譬えられていて、体がスムーズに動き成長していくためには、体の各部分がバラバラではなく、つなぎ合わす働き、結び合わす働きが大切なのだと言われています。人間の体で言えば、関節や靭帯、そして神経や栄養を運ぶ血管の働きなどということができるでしょうか。

 私たちは今、新型コロナウイルスの感染拡大により、人と接触しないようにという状況の中に置かれています。これは、教会の交わりということを考えるとき、危機的な状況だと思います。私の牧する教会でも、共に集って礼拝をすることは控えることにして、インターネットを通じて礼拝を届けるようにしました。やってみると、これは大変ですね。教会員の皆さんがいないところで、一方的に話すわけです。いつもなら、うなずいてくださる方、首をかしげる方、いろいろな反応を見ながら話します。つくづく説教は一人でするものではなく、会衆の皆さんとの共同作業なのだということを感じています。反応が見えない中で語るというのは、普段の2倍は疲れますね。

 そんな中で有難いことに、電話やメールで、何人もの方々が応答してくださいます。思いがけない方からのメールが届いて、びっくりすることもあります。普段は一緒に礼拝に来られない家族の方と一緒に見ました、という声も届いたりします。信徒の方々が、結ぶ働きをしてくださっているのです。追い詰められて行っている礼拝の配信ですが、私の思いを超えて、神さまはそこにも働いていてくださるのだ、と教えられています。

 祈祷会や交わり会を、インターネットの会議システムを使ってやってみることにしました。「私は、環境の激変について行けずに絶滅した恐竜のように、この変化について行けない」とつぶやいたところ、ある方から、「そんなことを言ってはいけない。この変化を前向きに捉えるべきだ」と言われて、背中を押されて始めてみました。パソコンの画面に、何人もの、教会の兄弟姉妹の顔が映りました。「やあやあ、久しぶり。元気?」と声が飛び交います。「ああ、ここにも聖徒の交わりがある」と思いました。
 
 ネットでつながることができない方々もおられます。電話や手紙などで、み言葉を届け、安否を確認します。しばらくはつなぎ合う働き、結び合う働きを、悪戦苦闘しながら、主から知恵をいただきながら進めていくことになるのでしょう。でもそこから、新しい教会の姿が浮かび上がってくるのかもしれません。

 

 

 

偶像を捨てて

「わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり」(Ⅰテサロニケ1:9)

 パウロがアテネに行ったとき、「市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた」(使徒17:16)と書かれています。テサロニケでも、偶像礼拝が盛んに行われていたのだと思います。その中で、テサロニケ教会の人たちは、偶像を捨てて、生けるまことの神に仕えるようになったというのです。彼らの信仰は、この点でとてもはっきりとした信仰でした。

 日本も「八百万の神」と言われるように、様々なものを神としてしまう風土があります。しかし、「もろもろの国民の偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。またその口には息がない。これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者となる」(詩篇135:15 ~18)と言われています。つまり、偶像には罪の問題、愛と赦しの問題、死の問題、平和の問題に対する真の救いはないのです。この問題に対して真の救いを与えてくださるのは、「生けるまことの神」だけです。それが、パウロが伝えた福音でした。テサロニケ教会の人々はそのことを知って、偶像を捨てて、生けるまことの神に仕えるようになったのです。
 
 ですから、私たちにとって大事なことは、この明確な転換です。そして、生けるまことの神に仕えるということが、いかに素晴らしいものであるかを証ししていくのです。そのとき、かつてのローマ帝国が変えられていったように、私たちの家庭が変えられ、私たちの国が変えられていくのです。

 さて、エペソ人への手紙にこういう言葉があります。「すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない」(5:5)。ここには、貪欲が偶像礼拝だと言われています。貪欲とは欲望をどこまでも追求し、満足することを知らない姿です。「もっと、もっと」と要求し、際限がないのです。このように自分の欲を神とするところに、偶像礼拝の本質があります。気をつけないと、キリスト者の中にもこのような偶像礼拝が入ってきます。聖書の神さまを礼拝すると言いつつも、その神さまを自分の欲をかなえてくれる神として礼拝しているとしたら、それは偶像礼拝になってしまいます。偶像を捨てるとは、貪欲を捨てるということです。そして、生けるまことの神に仕えるところに、私たちの信仰生活があるのです。
 

主の言葉を響きわたらせる教会

 
 「すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。」(Ⅰテサロニケ一8)

 マケドニヤは、ピリピやテサロニケがある地方、アカヤはコリントやアテネがある地方です。今のギリシャに当たります。テサロニケ教会の信仰の証しが、この地方いったに響きわたっているというのです。
素晴らしいことですね。
 
 マタイ一八章19~20節には、このようなみ言葉があります。「もしあなたがたのうちふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
 
 ここで「心を合わせる」の「合わせる」と訳されている言葉は、「シンフォニー」(交響曲)の元になった言葉が使われているそうです。オーケストラには、様々な楽器がありますね。ヴァイオリンもあれば、チェロもあります。フルートもあれば、トランペットもあります。いろいろな楽器があるからこそ、深みのある豊かなハーモニーを響かせることができるのですね。
 
 ですから、ここで「心を合わせる」とは、みんなが同じようになるということではないと思います。それぞれの個性が生かされるということが、まずあるのだと思います。ヴァイオリンがどんなに素敵な音を響かせても、ヴァイオリンだけでオーケストラの豊かで厚みのある音色を響かせることはできません。そういえば、それぞれの楽器の奏者には、共通した性格があるということを聞いたことがあります。○○の楽器の奏者は単純明快、○○の楽器の奏者は忍耐強いとか、面白いですね。神さまは、それぞれに個性を与えてくださいました。ですから、証しの仕方も、それぞれの個性に合わせたもので良いのだと思います。
 
 では、違った個性を持ったそれぞれが、どうして調和のとれたハーモニーを響かせることができるのでしょうか。それは、指揮者のタクトに合わせて演奏するからです。私たちにとって、指揮者とはイエスさまのことです。イエスさまのタクトに合わせて、それぞれが主の素晴らしさを歌うのです。そのとき、その教会でしか響かすことができない調べを響わたらせることができるのです。
 
 ある人が初めて教会に行って、帰って来てから言いました。「教会って、いいところだね」「どういうところが?」「音が違っている人も、喜んで歌っているところ」。主はどんな人も、主の素晴らしさを証しする器として用いてくださいます。

2019年

主にならう者


「そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり」(Ⅰテサロニケ1:6)
 
1.わたしにならう者となり
 
 「私を見ないでください。私を見ると躓きますから。私を見ないで、イエスさまを見てください」と言いたくなりますね。でも、「では、イエスさまを、どうやったら見ることができるのですか」と言われたら、どう答えたらいいのでしょうか。ですからパウロは、大胆にも、「どうぞ、私を見てください。私がイエスさまにならって生きているように、私にならって生きてみてください。そうしたら、イエスさまってどういうお方か、イエスさまにならって生きるとはどういうことかがわかりますから」と言うのです。
 
 教会に来られる求道者の方が、教会員の方々の姿を見て、「ああ、ここにイエスさまにならって生きる人たちがいる。この人たちを見ていると、イエスさまがどういうお方なのかがわかる」と思ってくださったら、なんて幸いなことでしょう。

2.イエスさまにならうとは

 「いやぁ、これはハードルが高いなあ」と思ってしまいますね。
 
 ヘンリ・ナウエンという人が、「傷ついた癒し人」という本の中でこんなことを言っています。「キリストにまねぶということが、キリストのように生きることではなく、キリストが自らの生を真実に生きられたように、あなたがたもあなたの生を真実に生きることを意味するとすれば、人がキリスト者として生きることのできる道や型は多くある」(「まねぶ」は「まねる」の意)。
 
 イエスさまは、父なる神のみ旨に、最後まで忠実に歩み抜かれました。パウロは、主の「異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である」(使徒9:15)との召しに応えて、真実に歩み抜きました。ペテロはヨハネのことが気になったとき、イエスさまはペテロに言われました。「あなたはわたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:22)。ペテロにはペテロの、ヨハネにはヨハネの使命があったのです。一人ひとりはユニークな存在です。イエスさまは、それぞれがそれぞれの使命に、真実に、創造的に生きることを願っておられるのです。

3.聖霊による喜びをもって

 私事で恐縮ですが、私は高校生のとき、hi-b.aという高校生に伝道している団体の集会に導かれました。そこで出会ったクリスチャンの高校生たちが、自分にはない、一本筋の通った生き方をしていることに魅力を感じ、信仰を求め始めました。今から思うと、私は彼らの中に「主にならう者」の姿を見たのだと思います。聖霊は、どんな人をも、喜びをもって主にならう者へと育ててくださいます。
 

喜びをもって御言を受けいれ


「そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ……」(Ⅰテサロニケ1:6)
 
 パウロがテサロニケに行って福音を伝えたときのことが、このように記されています。

1.多くの患難の中で

 当時、主イエスを救い主と信じることは、覚悟のいることでした。そこには、迫害が待っていたからです。日本でも、キリシタンの時代、大変な迫害がありました。いまでも世界には、キリスト者が厳しい迫害に遭っている国があります。

 今の日本では、一応、信教の自由が認められていますので、かつてのような迫害はないかもしれません。しかし、日本の社会には、まだまだ同調圧力の強い体質があるので、信仰を貫こうとすると、みんなと違うということでいろいろ言われたり、変な目で見られたりということがあるかもしれません。そこで、学校や職場ではなるべくキリスト者であることを隠して生活をしている、ということも起きかねません。

 しかし、テサロニケ教会の人たちは、迫害に負けませんでした。主イエスを信じたら多くの患難が待っていると承知の上で、大胆に信仰の一歩を踏み出していったのです。

2.喜びをもって御言を受けいれ
 
 なぜ、彼らはそうすることができたのでしょうか。使徒行伝17:3には、パウロがテサロニケで伝道したときのことが、このように記されています。「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを、説明もし論証もした」。パウロが伝えたのは、十字架と復活の福音です。主イエスを信じるときに、罪が赦され、永遠のいのちが与えられるという福音です。自分の罪が赦される、それはどんなに大きな喜びでしょうか。復活の恵みに私もあずかることができる、それもまた、どんなに大きな喜びでしょうか。この大きな喜びに圧倒されるようにして、テサロニケの教会の人々は、喜びをもって御言を受けいれたのです。この大きな喜びを前にして、患難は吹き飛んでしまったのです。
 
3.喜び広げよう
 
 今私たちに必要なのは、この喜びではないでしょうか。私事で恐縮ですが、私は高校2年生のとき、バイブルキャンプで救いの恵みにあずかりました。帰りの電車の一番前の車両をキャンプの参加者で占領してしまって、賛美を歌い続けて帰って来た、わが青春の日のことを忘れることができません(若い皆さんはまねをしないでくださいね)。喜びです! この喜びを広げましょう。

望みの忍耐

 
「わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している」(Ⅰテサロニケ1:2~3)。 
 
 テサロニケ教会が立っていた3つの柱のうち、これまで「信仰の働き」、「愛の労苦」と見てきましたので、今回は3番目の「望みの忍耐」です。

1.望み

 まず、「望み」ということですが、10節にこう記されています。「死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになった」。主イエスは天に帰られましたが、再び来てくださるのです。そのとき、死者はよみがえり、正しいさばきが行われ、愛と平和に満ち溢れた神の国が完成します。ここに、私たちの希望があるのです。

2.忍耐 
 
 この希望を持つとき、私たちは忍耐して、今ゆだねられている務め
に励むことができます。聖書が「忍耐」というとき、それはただじっと我慢しているということではありません。聖書がいう忍耐は、「木の根の力」にたとえられます。硬い岩に、木の根はジリジリと食い込んでいき、やがてその岩にしっかりと根を張っていきます。そのように、神さまは必ず完成してくださるという希望を持って、今の務めに励むのです。
 
3.あせらず、あわてず、あきらめず

 私は最近、自分の机の前の壁にこの言葉を張って、時々ながめています。この言葉は世の中でもよく言われる言葉で、聖書の言葉ではありません。でも、この言葉を本当に生きることができるのは、キリスト者ではないかと思うのです。聖書にも、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10)と言われていますから、「あせらない、あわてない」。また、「神のみ旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」(ヘブル10:36)と言われていますから、「あきらめない」。  最近、300年くらいの長さで物事を見ることが必要だということを教えられています。ローマ帝国がキリスト教を受容するまで約300年、日本では、江戸幕府によるキリシタン禁制から明治になってその高札が廃止されるまで約260年です。目先のことに一喜一憂するのではなく、300年後くらいを見据えて、「あせらず、あわてず、あきらめず」、やっていきたいと思います。

 愛の労苦

教団委員長 島津 吉成


 「わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イェス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している」(Iテサロニケ1:2~3)。
 
 テサロニケ教会は、「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」という3つの柱がしっかりと立っている教会でした。前回は「信仰の働き」について書きましたので、今回は「愛の労苦」ということを考えたいと思います。愛の賛歌として有名なコリント人への第一の手紙第13章4節に、愛の姿として真っ先に、「愛は寛容であり、愛は情け深い」と言われています。
 
 「寛容」と訳されている「マクロスメオー」という言葉は、「マクロ」(大きい、時間や距離が長い)と「スメオー」(怒り)という2つの言葉からできているそうです。そこから、「広い心、寛容、忍耐強い」という意味になりました(聖書協会共同訳は、ここを「忍耐強い」と訳しています)。怒りをすぐに爆発させる瞬間湯沸かし器のような人は、「マクロスメオー」ではないのですね。愛は広い心を持って人を受け入れ、またすぐに結果が出なくても、信じて支え続け、待ち続けるのです。そして、「愛は情け深い」(新改訳聖書は「親切」と訳しています)。誰かが助けを必要としてるときに、進んで助けてあげる人です。
 
 テサロニケ教会には、ユダヤ人もいればギリシヤ人もいました。また貴婦人もいれば、それこそ普通の人、一般庶民と言われる人たちもいたと思います(使徒17:4)。人種も違い、社会的な階層も違う人たちが、一つの教会をつくっていたのです。そこには、思わぬ行き違いや、ぎくしゃくすることなどもあったことでしょう。しかし、彼らは「愛(寛容・忍耐強い・情け深い・親切)の労苦」に生きたのです。
 
 さらに彼らは、内側への愛だけではなく、外への愛も示しました。彼らは極度の貧しさにもかかわらず、喜びをもって、惜しみなく、他の教会のために献金をし、パウロの伝道を助けました(Ⅱコリント8:1~2)。こうして、その地方で模範的な教会といわれる教会を形成していったのです。
 
 「愛の労苦」というと、ちょっと身構えたり躊躇したくなりますが、ジヤン・バニエという人がこんなことを書いていました。「愛とは特別な、英雄的なことをすることではなく、あたり前のことを、やさしさをもってすることである」(共同体-ゆるしと祭りの場)。日曜日の朝、教会で人に会ったら「おはよう」と挨拶をする。初めて教会に見えた方がいたら、「よくおいでくださいました」と声をかける。そんなことが案外大事なのだと思います。

信仰の働き

教団委員長 島津 吉成

 
 テサロニケ教会は、「マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範となった」(一7)といわれる素晴らしい教会でした。そのテサロニケ教会がどのような教会だったかということについて、パウロはこう記しています。「わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している」(一2~3)。ここに信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐という3本の柱が出てきます。柱が傾いていたり、ぐらぐらしていたら、地震などが起きたとき、その家は倒れてしまいますね。でも、テサロニケ教会は、この3本の柱がしっかりと立っている教会でした。

 まず、「信仰の働き」です。私たちは、主イエス・キリストの十字架の恵みを信じるときに救われます。私たちが立派な行いをしたから救われるのではありません。行いにはよらないのです。これは私たちの信仰の大原則です。ですから、信仰の働きとは、私たちが自分の力で頑張って働くということではありません。そうではなくて、無限の力をお持ちの神さまを信じるとき、その力が私たちにも注がれて、私たちも主に喜ばれる実を結ぶようになっていくのです。信仰は、良い働きとなって表れてくるのです。そのことを信じて生きること、それが信仰の働きです。

 使徒行伝に、タビタ(これを訳すと、ドルカス、すなわち、かもしか)という女性のことが記されています。病気になって死んでしまった彼女を、ペテロが生き返らせてくださったということが書かれているのですが、その彼女がどんな人であったかということが、このように紹介されています。「数々のよい働きや施しをしていた婦人であった」(九36)。また、こうも言われています。「やもめたちがみんな彼(ペテロ)のそばに寄ってきて、ドルカスが生前つくった下着や上着の数々を、泣きながら見せるのであった」(九39)。ここにも信仰を働かせて、愛に生きた一人の女性の姿を見ることができます。

 私は立場上、いろいろな教会を訪問させていただく機会がありますが、どこの教会に行っても、このドルカスのような方がおられることを思います。目立たないところで、黙々と愛に生きている。教会はそのような人たちによって支えられているのだと思います。

 思い煩うとき、恐れを覚えるとき、そうです。生活のあらゆる場面で、無限の力をお持ちのお方を信じて生きる、その信仰を働かせましょう。そのとき、私たちが信じているお方が、どんなに素晴らしいお方であるかを体験することができるでしょう。
 

パウロとシルワノとテモテ

  教団委員長 島津 吉成

 
 テサロニケ教会は、「多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ」(1:6)た教会でした。テサロニケ教会はまさに、今年度の教団の標語である「聖霊による喜びに生きる」教会でした。私たちは、このテサロニケ教会に学びたいし、倣いたいと思うのです。
 
 テサロニケ人への第一の手紙の冒頭には、この手紙の発信者として、「パウロとシルワノとテモテ」という3人の名前が記されています。パウロがリーダーであることに間違いはないでしょう。彼はブルドーザーのように、道なきところに道を造っていく人でした。しかし、パウロによる異邦人伝道は、彼一人によってなされたのではありません。彼を支え、助ける人たちがいたのです。
 
 パウロの次に名前が記されている「シルワノ」は、使徒行伝では「シラス」という名前で登場しています。シラスはユダヤ名、シルワノはローマ名ではないかと言われています。彼はエルサレム会議で決まったことを、異邦人教会に伝えるための使者として選ばれた人です。彼については、「兄弟たちの間で重んじられていた人(「指導的な立場にいた人」新共同訳)」(使徒15:22)と言われています。エルサレム教会の指導者のひとりであったシルワノが、異邦人教会との橋渡しをしてくれるということは、パウロにとってどんなに心強いことであっただろうかと思います。彼はピリピで迫害に遭い、捕らえられた時も、パウロと共に、真夜中「神に祈り、さんびを歌いつづけた」信仰の勇士でした。
 
 テモテは、パウロから「愛する子テモテ」(Ⅱテモテ一2)と呼ばれているように、パウロに深く信頼され、愛された人でした。少々気の弱いところがあったようですが、「テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない」(ピリピ2:20)と言われているように、彼は細やかな心遣いをする人でした。ある本に、これからのリーダーは権
力志向ではなく、分裂した世界を愛をもって包み、癒す人、そのようなリーダーが求められている、という趣旨のことが書かれていました。テモテのようなリーダーが求められている時代になってきたのだと言えるでしょうか。

 パウロとシルワノとテモテ、神さまはそれぞれに素晴らしい賜物を与えてくださいました。そして、それぞれに与えられている長所を生かすことによって、お互いの欠けているところをカバーするという、なんとも見事なチームワークがそこにありました。私たちは、ここに教会の姿を見ることができると思います。主が召してくださったお互いの強みを生かし、助け合う、そこに主の御業が前進していくのです。
 

使命

教団委員長 島津 吉成

 
 今年度の教団のテーマは、「聖霊による喜びに生きる―苦難に打ち勝つ信仰」です。苦しいことがあっても、それに打ち勝って喜びに生きることができたら、そんな生き方って凄いですね。そんな喜びは、どこから湧いてくるのでしょうか。
 
 使徒パウロは、初めは教会を迫害する急先鋒の人でした。その彼がダマスコ途上で復活の主イエスと出会い、彼の人生は180度転換することになります。その彼にアナニヤを通して主イエスが語られたのが、この言葉です。「あの人(サウロ、後のパウロ)は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」(使徒9:15〜16)。
 
 洗礼を受けるとき、「これからは、イエスさまのために苦しまなければなりませんよ」と言われて、洗礼を受けた方がどれだけいるでしょうか。でも、パウロはそのことをはっきりと告げられて、主イエスを信じる信仰の歩みをスタートしたのでした。なぜ、彼は苦しまなければならないことを承知の上で、主イエスを信じ、主イエスに仕える歩みを始めたのでしょうか。それは、アナニヤを通して告げられた、「(あなたは)わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である」という主イエスの言葉に、鍵があると思います。教会を迫害し、ステパノを殉教にまで追い込んだパウロです。そのような自分を、主イエスがこの尊い務めのために選んでくださったということを知ったとき、どんなに大きな感謝に包まれたことでしょう。「やらされる」という思いの中でする働きからは、喜びは生まれてきません。パウロの場合、主イエスが与えてくださった使命が彼の心の奥底にストンと落ちて、それが彼自身の内側から湧いてくる志となった。まさに、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ2:13新改訳)。

 「やらされる」ではなく、それが彼自身の志となったからこそ、彼は苦難の中でも、主イエスが与えてくださる使命に喜びをもって仕える人となったのだと思うのです。
 
 主イエスがあなたに託しておられる、あなたの使命は何ですか。まだよくわからないという方は、あなたが救われたときのみ言葉、そして、今日までの歩みの中であなたの支えとなったみ言葉を思い出してみてください。それを書き出して、眺めてみてください。きっと、そこからあなたを導いてくださっている神さまの御手を読み取ることができると思います。そして、神さまのあなたへの期待も、きっと見えてくることでしょう。

「聖霊による喜びに生きる」

―苦難に打ち勝つ信仰-
教団委員長 島津 吉成
 
 
 新しい年度がスタートしました。教団はこのページに記されていますように、年間標語として「聖霊による喜びに生きる―苦難に打ち勝つ信仰―」、年間聖句としてⅠテサロニケ1:6〜7の御言を掲げて新年度の歩みを始めました。
 パウロがテサロニケで伝道したとき、激しい迫害が起こりました。「多くの患難の中で」とは、そのことを指しています。しかし、その患難に負けてしまうのではなく、その患難の中で、「聖霊による喜びをもって御言を受けいれ」る人々が起こされたのです。主イエスを信じたら患難に遭うのです。そのことを承知の上で、主イエスを信じる人たちが起こされました。これは、すごいことですね。どうして、このようなことが起きたのでしょうか。  第一に、それは「御言の力」です。「福音の力」と言ってもよいでしょう。パウロがテサロニケで伝道したときのことが、使徒行伝17章に記されています。3節にはこう書かれています。「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを、説明もし論証もした」。ここに、パウロがテサロニケで伝えた御言のエッセンスが記されています。主イエスの十字架と復活、そして、このイエスこそキリスト、これがパウロの伝えた御言の中心的な内容でした。この福音(グッドニュース)を聞いたとき、テサロニケの人々は喜びをもって御言を受け入れたのです。御言(福音)は、患難の中で、患難に打ち勝ち、喜びに生きる力を与えるのです。


 もう一つのことは、聖霊の働きです。Ⅰテサロニケ2:13に、テサロニケの人々が、パウロが伝えた御言をどのように受け入れたかということが記されています。「わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として―事実そのとおりであるが―受けいれてくれたことである」。パウロが伝えた福音の言葉を、人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れるということは、普通に起きることではありません。真理を明らかにしてくださる聖霊が働いてくださったのです。

 聖霊は、患難の中でも、喜びをもって御言を受け入れる人々を起こしてくださったのです。私たちにも福音が託されています。聖霊は今も働いてくださっています。私たちも聖霊による喜びに生き、苦難に打ち勝つ信仰を証ししていきましょう。

 

 

2018年

十字架の死に至るまで

教団委員長 島津 吉成

 ピリピ2:8には、主イエスのご生涯がこう記されています。「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。
①主イエスのご生涯は、低いところに降りていくご生涯でした。一番低いところで苦しんでいる人に、ご自身が降りて行って福音を届けられたのです。
②最後の最後まで、父なる神への従順を貫き通されたご生涯でした。聖書は、「死に至るまで」というだけではなく、あえて「しかも十字架の死に至るまで」と記します。そこまで徹底して、主イエスは父なる神のみ旨が実現するために従い通されたのです。
③愛に生きるご生涯でした。主イエスが「十字架の死に至るまで」従順であられたのは、滅び行く人々を愛し、救うためでした。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知っ
た」(Ⅰヨハネ3:16)のです。主イエスは私たちを愛し抜いてくださったのです。
④そして、そのご生涯は、喜びのご生涯でした。ヘブル12:2にはこう記されています。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」。主イエスには十字架の先に、この十字架によって滅びから救われて、喜びに溢れる人々の顔、顔、顔が見えていたのではないでしょうか。ですから、主イエスご自身も喜びをもって、十字架の道を歩み抜かれたのだと思います。
 
 パウロは、ピリピ教会の人たちにこう言いたいのだと思います。「主イエスは、私たちを愛してくださって、私たちを救うためにこのようなご生涯を歩んでくださった。それなのに、あなた方は党派心や虚栄にとらわれて足を引っ張り合い、くだらないことに労力を使っていていいのか。今はそんな時ではないだろう。目を教会の外に向けようではないか。私たちの周りには、主イエスの愛と救いが届けられるのを待っている人々がたくさんいるではないか。主イエスが私たちのところにまで降りてきてくださったように、私たちもその人々のところに出て行って、福音を届けようではないか。主イエスの愛をいただいて、私たちも人々を愛し、喜びをもって福音を伝えようではないか」。

 これは、私たちへのメッセージであると思います。ここに、「神の宣教に仕える教会」の姿があります。

僕のかたちをとり

教団委員長 島津 吉成

 
 主イエスが私たちを救うためにしてくださったことが、ピリピ2:7にはこう記されています。「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず」。主イエスは、神のひとり子としての特権をすべて手放して、空っぽになってくださり、私たちを救うために、私たちと同じ人間の姿になってくださいました。しかも、ここではただ「人間の姿」というだけでなく、「僕のかたち」と言われています。「僕」とは、本来の人間の姿なのだというのです。主イエスは最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗ってくださり、仕える者となってくださいました。こうして主イエスは、人間の本来の姿を示してくださったのです。パウロはこのことを記すことによって、ピリピ教会の人々に、「党派心や虚栄、高慢やねたみに生きるのではなく、主イエスが示してくださった、互いに仕え合うという、人間の本来の姿を取り戻し、そのような生き方をしていこうではないか」と呼び掛けているのです。皆さんは、「僕」と聞くと、どんなイメージが湧いてくるでしょうか。窮屈で、暗くて、重たい、というようなイメージが湧いてくるかもしれません。でも、パウロにとって「僕」は、自分を紹介するときに、最も大事にしていた言葉だったように思います。ですから、ピリピ人への手紙では、自分のことを「キリスト・イエスの僕」(1:1)とのみ記しています。罪の奴隷であった者が救われ、主イエスの僕としていただいたということは、彼にとって大きな喜びであり、誇りでもあったのだと思います。
 
 青山学院の院長をされた深町正信先生が、ウェスレーが作った「伝道者心得十二則」を紹介した後で、こう書いておられます。「とにかく日本メソジスト教会の教職は、私の祖父や父のことを考えてみても、質素で、献身的で、生活態度は厳しく、絶対に禁酒禁煙で、どんな苦労も嫌わず、主の命とあらば、どこへでも出掛ける、まことに伝道熱心であった。メソジストの教職は、或る神学校教師の言葉でいえば、学者でも、また雄弁な説教家でもなく、ただ人々の魂の救済のために熱心に働く伝道者であった。彼らは一にも伝道、二にも伝道と言う具合に、福音宣教につかえる足の伝道者であったと言えよう」(ウェスレーの信仰とメソジスト教会)。同じ信仰の流れに属する者として、私たちの先輩たちもそのような伝道者であったことを思います。それぞれの場で、私たちもまた、主の僕として、喜びをもって主に仕える者でありたいと切に願います。

固守すべき事とは思わず

教団委員長 島津 吉成

 
 神の宣教に仕える教会は、どのようにしてつくられていくのでしょうか。ピリピ一6には、主イエスがしてくださったことがこのように記されています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」。キリストは「神のかたち」であり、「神と等しい」お方でした。このことを、コロサイ1:15〜16ではこう記しています。「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれた方である。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである」。まさに主イエスは、私たちが思い描くことのできる範囲をはるかに超えた栄光をお持ちのお方でした。しかし、主イエスはそれを「固守すべき事とは思わず」、それを捨ててくださったのです。なぜ?私たちを救ってくださるためです!
 
 ピリピ教会の中に、「党派心」や「虚栄」を握りしめて、高慢になっている人たちがいました。その根っこには、「ねたみ」がありました。その人たちが教会の中に分裂を引き起こしていたのです。使徒パウロは言うのです。「キリストは、神と等しくあることさえも握りしめることなく、私たちを救うために手放してくださったではないか。それなのに、あなたがたは党派心や虚栄などというつまらないものを、いつまで固く握りしめているのか」。
 
 それにしても、主イエスはどうして神と等しくあることさえも、手放すことがおできになったのでしょうか。それは手放しても、父なる神さまとの愛の関係は変わることはないと確信しておられたからではないでしょうか。主イエスは弟子たちに言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ一五9)。父なる神と主イエスとのこの愛の関係は、あの十字架においても変わることはありませんでした。ですから、主イエスは、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って息を引き取られたのです。
 
 なぜ、党派心や虚栄に固執するのでしょうか。なぜ、ねたみが起きるのでしょうか。自分に対する神の愛がわかっていないからではないでしょうか。父なる神、そして主イエスの自分に対する愛に気づくとき、人と比較して生きる思いから解き放たれます。自分がどんなにつまらないものを握りしめていたのかがわかります。そして、それを捨てることができるのです。こうして、神の宣教に仕える教会がつくられていくのです。

キリストの心

教団委員長 島津 吉成

 
 使徒パウロはピリピ教会の人々に、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」(ピリピ二5)と勧めています。このみ言葉を文語訳聖書は、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳しています。皆さんの中には、この文語訳聖書の言葉で覚えているという方もきっと多いことでしょう。
 
 このみ言葉を直訳すると、「キリスト・イエスにあること、それをあなた方の間で思いなさい」となります。「キリスト・イエスにある」とは、どういうことでしょうか。ややもすると、このみ言葉は、「キリスト・イエスを模範として、キリストに倣って歩もう」というように受け取られがちです。もちろんそれは間違いではないのですが、自分の力でキリストの生き方を真似しようと思っても、それはできないのです。また、ピリピ教会の中で問題となっていた「党派心」「虚栄」「高慢」といった問題、それはピリピ教会の中の問題だけではなく、私たち一人ひとりの中に巣食っている問題ですが、これらも自分の力ではどうにもならない問題です。それほどに根深いのです。
 
 その私たちが「キリスト・イエスにある」ということのために、キリストは何をしてくださったのでしょうか。それが6節以降に記されています。一言でいえば、「十字架」です。キリストの十字架によって私たちは罪から救われ、「キリスト・イエスにある」者としていただいたのです。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(イザヤ四三1)という恵みの中に入れていただいたのです。
 
 この恵みに対する感謝、喜び、それが私たちを動かします。それが「キリスト・イエスの心を心とする」生き方となっていくのです。そして、そのときも「キリスト・イエスにある」、つまり「キリストと結び合わされている」ということが大切です。枝が幹につながっているとき、幹からの栄養が枝に送られ、そしてやがてその枝に多くの実が実っていくように、キリストのいのちが私たちに注がれ、その恵みの中で、私たちはキリストの心を心として生きるという実を結んでいくことができるのです。
 
 日ごとに、聖書を読んで祈るときを大事にしましょう。週の初めの日の礼拝を大切にしましょう。聖会やキャンプに積極的に参加しましょう。キリストのいのちに日々生かされ、そして、キリストの心を心として生きることができるという喜びの実を結ばせていただきましょう。

他人のことも考えなさい

 教団委員長 島津 吉成

 
 ピリピ2章4節には、「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」と書かれています。「イエス・キリストは主である」の信仰に生きる教会は、自分のことばかり考える教会ではなく、他人のことも考える(「顧みる」新改訳・「注意を払う」新共同訳)教会です。5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人々が養われた奇跡が福音書に記されていますが、ヨハネ6章9節には、それをささげたのは、子どもだったと書かれています。それはきっと、その子のお弁当だったのではないでしょうか。このささげものが用いられて、多くの人々が食事にあずかることができました。それを見たその子も、きっと喜びにあふれたことでしょう。与えるとき、与えられた人が喜ぶだけではなく、与えた人にも喜びが返ってくるのです。
 
 自分のことしか顧みなかった人のことが、ルカ12章に書かれています。彼は、畑が豊作だったとき、大きな倉を建てて、食料を全部しまい込もうとしました。彼は自分に語りかけます。「おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」。しかし主は言われるのです。「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」(ルカ十二19〜20)。
 
 これに対して、ルカ6章38節にはこう記されています。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろう」。神さまのしてくださることって、スゴイですね。

 こんな話を聞いたことがあります。ある人が地獄に行ったところ、食事の真っ最中でした。テーブルには美味しそうなご馳走が並んでいます。ところがナイフやフォークの柄がとても長いのです。ですから、自分の口に食べ物を持ってくることができません。イライラして、ついには周りの人と喧嘩が始まってしまいました。次にその人が天国に行ったそうです。すると同じように美味しそうなご馳走が並んでいます。そして、やはりナイフやフォークの柄が長いのです。しかし、ここではみんながにこやかに食事をしています。よく見ると柄の長いフォークやスプーンを使って、向き合った前の人に食べさせているので、みんなが仲良く食事ができていたのです。願わくは私たちの教会・教団も、こんな姿でありたいですね。

へりくだった心をもって

教団委員長 島津 吉成

 
 パウロは、ピリピ教会の中に分裂があることに心を痛めていました。そこで、彼はピリピ教会の人々にこう書き送るのです。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」(ピリピ2:3)。

 教会の中に問題が生じるとき、それぞれが自分の意見を主張します。そのとき、いかにももっともらしい主張をする、その根っこのところで、実際は「党派心」(「利己的な思い」新改訳)や虚栄が動機となっているということがあります。そして、これは「ねたみ」とも深く結びついていることが多いのです(ピリピ1:15)。そのような場合、論理的な対話がなかなか成立しません。話が積み上がっていかないのです。感情的なもつれが尾を引きます。自分の意見が通らないとスネル、ゴネル、ひどいときは、交わりから出ていくということさえ起こってしまいます。自分が主張している動機がどこから来て
いるのか、ちょっと立ち止まって考えてみるということは有益です。
 
 そこでパウロは、「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」と勧めます。この「へりくだり」とは、単なる謙遜とは違うように思います。「私は罪人のかしらだ」という自覚です。「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)とは、「罪人の親分」という意味ではありません。「罪人の中でも一番の罪人」という意味です。この自覚があるとき、すべての人は「自分よりすぐれた者」なのです。
 
 こんな話を聞いたことがあります。正しい者同士の夫婦と罪人同士の夫婦の話です。夫が畳の上にあったコップを蹴飛ばしてしまいました。夫は「誰がこんなところにコップを置いたのか」と怒鳴ります。すると妻は言い返します。「あなたがちゃんと足元を見ていなかったからでしょう!」。これが正しい者同士の夫婦です。これに対して、罪人同士の夫婦はどうなるでしょうか。夫は言います。「ごめん。ぼーっとしていて、コップを蹴っ飛ばしちゃった」。妻は答えます。「ごめんなさい。私がそんなところに置きっぱなしにしていたのが悪かったの」。
 
 もちろん、「どんな過ちも見過ごせ」ということではありません。正すべきことは正していかなければいけないでしょう。でも、そのときにも、自分は罪人のかしらだという自覚と、その私を主は赦してくださったという感謝。そして、相手の上にもこの主の憐れみが注がれている。だから、その人のことも尊重しようとする思いを持つことができたら、きっと新たな展開が始まるのではないでしょうか。

心を合わせ

教団委員長 島津 吉成
 
 ピリピ教会の中に、不一致が生じていました。ユウオデヤさんとスントケさんの間に、思いを一つにできない問題が起き、両者の関係がトゲトゲした感じになってしまったようなのです(ピリピ4:2)。このようなことが起きると、教会全体の雰囲気が悪くなり、暗くなります。教会はこのような内側の問題の対処のためにエネルギーを消費し、伝道への力を失っていくのです。

 ですから、パウロはピリピ教会の人々に、こう書き送りました。「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい」(ピリピ2:2)。ここでパウロは、「同じ」「合わせ」「一つ」と言葉を重ねて、一致への願いを記しています。そして、「わたしの喜びを満たしてほしい」とさえ書くのです。ここに、牧師であるパウロの心が表されていると思います。牧師にとって不一致があるということは心の痛みであり、一致があるということは、何よりの喜びだからです。
 
 もちろん、意見の違いがあること自体は、悪いことではありません。イエスマンばかりだと、そこには発展も進歩もないでしょう。また、そのような組織は危険でもあります。多様な意見を自由に話すことができるということは、大切なことです。
 
 その上で、どうしたら私たちは「心を合わせ」ていくことができるのでしょうか。思いつくままに、幾つかのことをあげてみます。
① 相手の意見をよく聞く。相手には、自分が見えていないものが見えているのかもしれません。
② 謙虚な心。自分の考えが絶対に正しいと思って正義の刀を振り回している時ほど、危ない時はないのです。もしかすると、私が間違っているかもしれない、という謙虚な心が必要です。
③ 「主にあって」。パウロはユウオデヤとスントケに「主にあって一つ思いになってほしい」と書いています。主の前にお互いがひざまずくとき、そこに一致が生まれます。
④ 神の御業の前進という視点で物事を見てみる。ヨセフは、この視点で自分がエジプトに奴隷として売られたことを見直したとき、兄たちを赦すことができました。
⑤ 祈り。パウロはユウオデヤとスントケに一つ思いになってほしいと書いた後、祈ることを勧めています。祈りの中で主は私たちに気づきを与え、主の御心を示してくださいます。
⑥ ユーモア。ユーモアは、心にゆとりを与え、人間関係を滑らかにする潤滑油です。
 

いくらかでもあるなら

 

教団委員長 島津吉成

    
 ピリピの教会は、迫害の中でもイキイキとした信仰に生き、使徒パウロの伝道を親身になって助けた素晴らしい教会でした。しかし、その教会の中にも問題がありました。二人の女性の信徒の間に、いさかいがあったのです。ですから、パウロはこう記しています。「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい」(ピリピ四2)。彼女たちは、「福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たち」(四3)と言われていますので、信仰的にはとても熱心な人たちだったようです。ところが、原因はわかりませんが、二人の人間関係がどうもぎくしゃくしてしまったようです。それが二人の間だけで終わらず、教会の中に悪い雰囲気を醸し出してしまっていたようです。 
  
 パウロは、そのことに心を痛めていました。そこでいきなりこの二人の名前を出すのではなく、第二章でまずこう記すのです。「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら」(二1)。「キリストによる勧め」とは、「キリストによる慰め」と訳してもよい言葉です。また、「愛の励まし」「熱愛とあわれみ」も、父なる神とキリストから与えられる愛に基づく相互の愛ということが言われているのでしょう。「私たち人間の中には、愛の持ち合わせはない。しかし、父なる神から、またキリストから、愛が注がれているよね」とパウロは言うのです。 
  
 そして、そこに「いくらかでもあるなら」と言葉を添えるのです。父なる神から、またキリストから、愛は豊かに注がれているはずです。しかし、ここではそう言わないで、「いくらかでもあるなら」と言うのです。問題に直面するとき、問題ばかりが大きく見えてしまって、そこに神の働きが見えなくなってしまうことがあります。ちょうどユウオデヤとスントケは、そんな状態だったのではないでしょうか。そんな二人に、お腹をすかせた五千人以上の人々を前にして、「食べる物が何にもない」と嘆く弟子たちに、主イエスが「5つのパンと2匹の魚がある」ということに気づかせてくださったように、パウロは「ほら、よく見てごらん。あなた方の中に、小さいように見えても、愛が与えられているではないか」と言って、愛がすでに与えられていることに気づかせようとしているのです。そして、「その愛を、ちょっとした、小さなことでいいから、働かせてごらん」と勧めているのです。互いに愛し合う歩みは、足元の小さな愛に気づくところから始まるのです。

その所で祭壇を築く

教団委員長 島津吉成

 3月は卒業式の季節ですね。進学、就職等、新たな歩みへと踏み出そうとしておられる方もいらっしゃることでしょう。

 教団では、3月に聖別派遣式が行われ、牧師たちが各教会へと遣わされていきます。教団に加入して初めて任命を受ける者、任地が変わって新たな教会へと遣わされる者、そして、今までと同じ教会に遣わされる者などさまざまですが、それでも、みな等しく新たな思いをもって任命を受け、それぞれの任地へと遣わされていきます。

 神から遣わされるということにおいては、牧師も信徒も同じだと思います。家庭へ、職場へ、学校へ、地域社会へ、それぞれの場所へと、私たちは神から遣わされていくのです。そのときに、どうしても生じる思いは、「隣の芝生は青く見える」ということではないでしょうか。「何で私がこの地なのだろう。あの人はいいなあ」という思いです。この思いに打ち勝つ鍵は、神によって私はここに遣わされている、という信仰です。人間的にはいろいろな事情があって、私は今ここにいる、ということがあるでしょう。そこには、不本意と感じることがあるかもしれません。しかし、その中で、それらを超えて、神が私をここに遣わされたのだ、という信仰に立てるかどうか、そこが鍵だと思います。

 私事で恐縮ですが、父が小さな事業をしていて、いざ就職というとき、私は自分のやりたかったことを断念して、それを手伝わなければならないことになりました。友人たちは、それぞれの道へと進んでいきます。私は何だか取り残されたような、小さなところに閉じ込められていくような思いに駆られたことでした。そのようなとき、創世記13章を読んだのです。アブラハムと甥のロトの羊が多くなり、一緒に羊を飼うには牧草が足りなくなります。そこで別れて住むことになるのですが、アブラハムはどこに住むかの選択権をロトに譲るのです。ロトは肥沃な低地を選びます。そこでアブラハムは、羊を飼うには適さないと思われる山地に行くことになるのです。しかし、アブラハムは、そこで神の声を聞きます。「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい」と。そして神は、「この地をあなたに与える」と約束してくださいます。アブラハムはそれを聞いて、「その所で主に祭壇を築いた」のです。彼は、そこを神からの地と受け取ったのです。

 私にとって父と一緒に仕事をした数年間は、貴重な訓練の時となりました。そここそ、そのときの私にとって、神が遣わしてくださった地だったのです。

チームで1人を

 

教団委員長 島津吉成

 1人の中風を患う人が、床に寝たままで4人の人々に運ばれて主イエスのもとに連れてこられました。ところが、主イエスがおられた家には、すでに多くの人々が詰めかけていて、主イエスに近寄ることができません。普通でしたらここであきらめてしまうところですが、彼らはあきらめませんでした。なんと、主イエスのおられるあたりの屋根をはがして穴をあけ、そこから中風の人を床に寝かせたままつりおろしたのです。4人の人たちは、中風の人の友人たちだったのでしょうか。それとも子どもたちだったのでしょうか。ともかく、主イエスは「彼らの信仰を見て」、中風の人に「あなたの罪はゆるされた」と言ってくださり、さらに病をも癒してくださったのです。「1人が1人を」ということはしばしば言われてきましたが、ここでは、4人の人たちが1人の人を主イエスのところに導いてきたのです。チームによる伝道です。私は、このチームによる伝道ということが大事ではないかと思っています。

 私事で恐縮ですが、私は高校生のとき、hi-b.a.という高校生を対象にした伝道団体の働きを通して信仰に導かれました。夏のキャンプで信仰の決心をし、そこで紹介されたのが上野ホーリネス教会でした。日曜日の朝、教えられた教会に行きました。でも、いざ教会に足を踏み入れようとすると、なかなか教会の敷居は高く、私は教会の前を行ったり来たりしていました。「入るべきか、入らざるべきか」、まるでハムレットの心境です。すると玄関に立っていた方が、「島津さんではありませんか」と私に声をかけてきたのです。びっくりしました。どうして私の名前を知っているの?!

 あとでわかったことですが、キャンプで同じグループだった高校生が、教会に「島津という高校生が行くと思うのでよろしく」と電話をしてくれていたのです。それで牧師夫人が玄関で待っていて、どうもあの青年が怪しい、ということで声をかけてくださったのでした。もしあの高校生が電話をしてくれていなかったら、そして牧師夫人が玄関で待っていてくださらなかったら、優柔不断で引っ込み思案の私は、この日、教会に足を踏み入れることなく、帰っていたかもしれません。こうして教会に通うようになると、おばあちゃんたちが「島ちゃん、よく来た」と言って歓迎してくれました。牧師があの独特のポーズで、身体を前後に揺らしながら、私のために祈ってくれたことは言うまでもありません。こうして、私はチームによる伝道で救われたのです。神の宣教に仕える教会は、チームで伝道する教会です。

幻に導かれて

 

教団委員長 島津吉成

 
 使徒行伝十六章には、福音が海を渡ってヨーロッパに伝えられるようになった経緯が記されています。

 当初、パウロはアジヤに行って伝道したいと思っていたようです。しかし、理由はわかりませんが、聖霊によって禁じられてしまいました。そこで、次にビテニヤに行こうとしましたが、これもイエスの御霊が許さなかったというのです。そして、ついにトロアスにたどり着きました。ここは今のトルコの西の果て、その先はエーゲ海です。つまり、これ以上は進めないという行き止まりの地でした。

 彼はそこで、ひとりのマケドニヤ人が、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と懇願する幻を見るのです。マケドニヤ、それは海を渡った向こう側の地です。パウロは、これは彼らに福音を伝えるために、神が自分たちをマケドニヤへと招いておられるのだと確信して、海を渡ってマケドニヤに行くのです。ヨーロッパへの伝道は、こうして始められていったのです。

 このトロアスから使徒行伝は、パウロたち一行のことを「わたしたち」という言い方で記すようになります。つまり、使徒行伝の著者であるルカが、ここからパウロの伝道旅行に同行することになったということです。ルカは医者です。どうして、トロアスでパウロはルカと出会うことになったのか。想像をたくましくして考えると、パウロが当初計画していた伝道計画通りに旅を続けることができなかったのは、彼が病気をしたためということができるのではないかと思います。だから、トロアスに来て、医者のルカと出会うことになった。そして、パウロのことですから、ルカに福音を伝えたのではないでしょうか。ルカはパウロの語る福音を信じ、そして自分の同胞にも福音を伝えてほしいと願ったのではないでしょうか。「マケドニヤに渡ってきて」と懇願するマケドニヤ人こそ、ルカ、その人だったのではないでしょうか。

 自分の計画通りに行かないこと、健康が損なわれること、行き止まりの地に追い詰められること、そのすべてにマケドニヤへと導こうとする神の見えざる手があった、ということが言えるのではないでしょうか。パウロは万策尽きるそのところで、神の幻を見、思っても見なかったであろう、ヨーロッパへと導かれるのです。お手上げの地が、新たな出発の地となったのです。

 神は私たちにも幻を見せてくださり、私たちを導いてくださいます。神の宣教に仕える教会は、神の幻に生きる教会です。

2017年

教会が病むとき(2)―律法主義

 
教団委員長 島津 吉成

 
 教会をむしばむ病に、律法主義があります。律法と律法主義は違います。モーセの十戒に代表される律法自体は大事なものです。私たちに罪とは何であるかを教え、罪を自覚させ、キリストへと導きます(ガラテヤ3:24)。また、キリスト者がどのように生きることができるのか、本当の意味で神に祝福された幸いな人生はどのようなものなのかを示します。
 
 私たちは、主イエスの十字架と復活の恵みをただ信じることによって救われます。そして、それが感謝となって、律法に示された生き方をすることができるように変えられるのです。この救いは、神さまからの一方的なプレゼントです。これに対して律法主義は、自分の力で律法の要求を満たし、神に受け入れられようとします。自分の力によって救いを獲得しようとするのです。気をつけないと、恵みと信仰によって始まった信仰生活が、いつの間にか、律法主義的な信仰生活へと変質してしまうことがあります。
 
 律法主義が入ってくると、人は高慢になり、他者を裁くようになります。自分がこんなに頑張っているということが誇りとなり、自分と同じようにしていない人を見るとその人を裁いたり、見下げたりするようになるのです。そうすると、教会の中の人間関係がとげとげしいものになっていきます。
 
 また、律法主義的な生き方は、高いノルマを課せられたセールスマンのようなもので、どんなに頑張っても達成できない目標を前にして、達成できない自分を責めるようになります。信仰生活が苦しくなってきます。これが律法主義という病です。
 
 自分のことで恐縮ですが、ある時期、私も律法主義的な生き方に陥ってしまったことがありました。自分で一定の基準を設けて、それに到達できない自分に失望し、信仰生活が苦しくて仕方がありませんでした。そのような時に、ある集会に出席しました。そこで語られたみことばが私の心に沁み込んできました。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く」(Ⅰヨハネ4:18)。神さまは、私が何かできるとかできないとかということではなく、丸ごとの私を愛してくださっている、この愛に包まれて主と共に歩むところに信仰生活があるのだと気づかされたのです。その集会の最後に歌われた新聖歌202番「時の間をも惜しみて 君はわれと語ろう」は、私の大好きな賛美の一つとなりました。
 
 今でも、気をつけないと律法主義に陥ってしまう自分がいることを認めざるを得ません。だからこそ、主の愛の語りかけを聞き続けることが大切! と思っています。
 

教会が病むとき

 

教団委員長 島津吉成

 
 教会は、生きたキリストのからだです。生きているということは、動きがあるということです。イキイキとしているときもあれば、残念ながら病んでしまうときもあります。では教会は、どんなときに病んでしまうのでしょうか。
 
①利益追求型の企業のような教会
 
 ピーターソンという方が、こんなことを書いています。「アメリカの牧師たちは『企業経営者』の一群に変容してしまった。彼らが経営するのは『教会』という名の店である。牧師は経営者感覚、すなわち、どうしたら顧客を喜ばすことができるか、どうしたら顧客を道路沿いにある競争相手の店から自分の店へ引き寄せることができるか、……そうした経営者的な感覚に満ちている」(E.H.ピーターソン著『牧会者の神学』)。私は、企業経営者的感覚のすべてが間違っているとは思いません。ここで問題となるのは、利益追求のみに傾いてしまった経営者的感覚ということだと思います。そのような企業は長続きせず、やがて破綻すると言われています。
 
 この感覚が教会の中に入ってくると、成功、名声、数などという成果を求めることに重きを置く教会となってしまいます。一人ひとりの存在を大事にし、尊重するというよりも、どんなことができるかという、その人の能力で人を評価し、being(共にいる)よりもdoing(何かをする)に傾いた教会、イベントからイベントへと追い立てられていく教会となり、やがて教会員は教会生活に疲れてしまうのです。
 
②ゆがんだ家族のような教会
 
 これは先ほどとは逆の形ですが、ここにも病んでしまった教会の姿があります。教会は「神の家族」と言われていますので、家族的であるということは大事なことです。ところが、「私たちの教会は家族的な教会です」というとき、注意しなければならないことがあると思います。それは、「神の家族」というよりも、「ゆがんだ、人間的な家族」という姿に陥っていないかということです。
 
 教会が仲良しグループになってしまっていて、閉鎖的で外から入りづらい。教会の中に親分と子分のような関係ができてしまっている。できないこと、無理なことに対して、「No」と言えない。息が詰まる。こんな症状が出ていたら、要注意です。
 
 私たちを丸ごと愛してくださっている主に感謝し、喜びをもって主に仕えていく、ここに健やかな教会の姿があります。 

 

心からの礼拝こそが、伝道

教団委員長 島津 吉成

 
 「しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、『まことに、神があなたがたのうちにいます』と告白するに至るであろう」(Ⅰコリ14:24~25)

 ここで言われている「預言」は、「説教」と言い換えても良いと思います。神のことばが語られているところに、まだ神を信じていない人が入ってきたら、その人は自分の罪に気づき、その結果、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と言って、神を礼拝するようになるというのです。

 ここで大事なことは、神のことばをまっすぐに解き明かす説教者と、語られる神のことばを真摯に受け止める聴衆の存在です。説教者がまずみことばの前にひれ伏して、そのみことばに取り扱われて、そしてそのみことばを語ります。聴衆はそのようにして語られたみことばを、自分に語られた神のことばとして聴きます。そして、みことばの前にひれ伏します。このような礼拝の場に求道者が身を置くとき、「神がここにおられる」という気
づきが起こるのです。ですから、礼拝の場こそが、伝道の場なのです。毎週、毎週の礼拝を真摯にささげて行くことこそが、伝道なのです。心からの礼拝をささげる教会こそ、神の宣教に仕える教会です。
 
 さて、ウィリモンという方が、こんなことを書いていました。「牧師は礼拝に向けて自分自身の調子を整えなければならない。もし牧師が気乗りのしない状態で主日礼拝にのぞむなら、その結果はいいかげんな礼拝というかたちになって現われるだけである。『熱意』は『伝染』しやすい。そして、『神経過敏』『退屈感』『疲労感』もまたしかりである」(ウィリアム・ウィリモン著『礼拝論入門』)。
 
 耳の痛い話です。まず、牧師が襟を正さなければなりません。その上で、これは牧師だけに当てはまる言葉ではないと思います。牧師も信徒も、すべての人が礼拝に臨む姿勢を点検し、そして熱意をもって、イキイキとした礼拝を心からささげて行きたいと思います。そこに、主の臨在が輝き、主の栄光が表されていくのですから。

 ある古くからの信徒の方が亡くなったとき、私はかけがえのない説教の聞き手を失った、という思いを強くしたことがありました。うなずきながら、身を乗り出すようにして説教を聴いてくださる方でした。良き説教の聞き手に恵まれた牧師は幸せです。
 

 

初めの愛に帰ろう

教団委員長 島津 吉成

 
 神さまはご自身の愛を伝えるために、人間を神さまの代理人として用いてくださいます。なぜ、神さまは天使ではなく人間を用いてくださるのかということについて、宗教改革者であり、何よりもひとりの牧師であるカルヴァンは、次のように言います。
① 神はこの方法を用いることによって、われわれ人間をどんなに重んじているかを明らかにしたもう。
② われわれはこれによって最善の、また最も有効な謙遜の訓練をほどこされるのである。
③ われわれのうちに兄弟相互の愛をはぐくむため。(『キリスト教綱要』第四篇第三章)
 
 若い牧師が教会に遣わされたとします。その教会には、その牧師よりも社会経験も豊富で、信仰生活の年月も長い人々がいることでしょう。若い牧師はそのような人々に向かってみことばを語らなければなりません。そのとき、みことばを聞く側は、どのように聞くのでしょうか。どんなに若くあろうが、神が立てた器であるという一点を信仰をもって受け止め、その牧師が語ることばを神のことばとして聞くのです。カルヴァンは、ここに「最も有効な謙遜の訓練」があると言うのです。そして、そのように謙虚にみことばを聞く信徒を前にして、牧師は自分の能力を誇ることなどできるはずがありません。謙虚にみことばを聞く信徒によって、牧師もまた謙遜とはどういうことかを学ぶのです。そして、牧師はいっそう、神さまの前に謙虚に出て、説教の準備に励むことでしょう。自分が語ることばを神のことばとして聞こうと待っている方々がいるのですから。このようにしてお互いを尊重し合い、互いに愛し合う教会が造られていくのです。
 
 私は聖書学院のインターン生の途中から、ある教会に遣わされました。その教会を創立された牧師と、交代で礼拝の説教をさせていただくことになりました。その教会で最初に説教をさせていただいたとき、私はヨハネ黙示録第二章、エペソの教会に宛てて書かれたところから、「初めの愛に帰ろう」と題して語らせていただきました。今から考えると、何と無謀な説教をしたことかと思います。「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」というのですから。「教会の事情を何も知らない若造が、生意気なことを言うな」と言われても、仕方がありません。しかし、礼拝を終えたとき、まっ先にその教会の牧師夫人が私のところに来て言われました。「島津さん、今朝のメッセージはこの教会に対する神さまからのメッセージでした。ありがとう」。謙虚にみことばを聞く姿勢を教えていただいた一言でした。
 

 

見よ、あなたは美しい

教団委員長 島津 吉成

 
 神の宣教に仕える教会は、互いに愛し合う教会です。そして、互いに愛し合う教会は、まず一人ひとりが神さまから愛されている、ということを心から受け止めていくところから造られていきます。そして、神さまの愛は、神さまが造られた自然界を通して知ることができます。また、私たちが自分の人生を神さまの光の中で振り返るときに、気づくことができます。そんなことを、これまで書かせていただきました。
 
 今月は、何と言っても一番大切なこと、神のことばである聖書のみことばについてです。私たちは聖書のみことばを通してこそ、はっきりと神さまの愛を知ることができるのです。
 
 「わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい、あなたの目ははとのようだ」(雅歌1:15)。これは、花婿が花嫁に語りかける言葉です。「こんな言葉、私の夫は一度も言ってくれたことはない」とおっしゃる方がおられるかもしれませんね。まあ、世の夫たちは、面と向かっては、あまり言わないものです。でもこれは、真の花婿でいてくださる主イエスが、私たち一人ひとりに語っていてくださるみことばです。 「この私が美しいですって」と思ってしまいますよね。でも、主イエスは心を込めて、私たちにそう語りかけてくださっているのです。
 
 私事で恐縮ですが、私は小学校1~2年生のとき、学校の授業がさっぱりわからない落ちこぼれでした。3年生になったとき、担任の先生が代わりました。「お前もそろそろこういう本を読んでみたらどうか」と親から言われて読んだのが勝海舟の伝記でした。ちょうど読み終わった頃、学校の授業で、何と勝海舟が出てきたのです。私は嬉しくなって、読んだばかりの勝海舟にまつわるエピソードを、思わず得意になって先生に話していました。自分から発言するなんて、それまでなかったように思います。先生は「うんうん」とうなずきながら聞いてくださり、最後に「島津、良く知っているなあ」と言ってくださったのです。それからです。学校が楽しくなってきたのは。今になって思います。私はそのとき、認められている、大事にされている、つまり愛を感じたのだと思います。一人の教師の愛の一言が、大げさな表現のようですが、私を変えてくれました。

 聖書のみことばは、私たち自身の中から出てくる言葉ではありません。自分で「私は美しい」なんて、とても言えないということはよくわかっています。百も承知です。でも主イエスは、「(わたしの目には、誰が何と言おうと)、見よ、あなたは美しい」と言ってくださるのです。この愛の語りかけを聞き続けるとき、私たちは変えられていくのです。
 

生まれてからきょうまで

 

教団委員長 島津 吉成

 
 主イエスは言われました。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34~35)。主イエスは、「びっくりするような奇跡を行ったら、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるであろう」とは言われませんでした。そうではなく、「互いに愛し合うならば」と言われたのです。互いに愛し合う教会こそ、神の宣教に仕える教会です。
 
 では、互いに愛し合う教会は、どのように造られて行くのでしょうか。神さまから無条件の愛で愛されている、ここにこそ、その鍵があります。神さまは、こんな私のことを愛してくださっているということを知るとき、その神さまの愛に包まれて、私たちも隣人を愛する者へと変えられていくのです。ここから、互いに愛し合う、神の宣教に仕える教会は造られていきます。
 
 そんなことはわかっている、と思われる方が多いことでしょう。しかし、残念ながら、そうなっていない現実が私たちの前にあることを認めざるを得ません。だからこそ、私たちは、いつも、いつも、神さまの無条件の愛というシャワーを浴び続けていくことが必要なのです。そこで前号では、神さまが造られた自然界を通して、私たちは神さまの愛を知ることができるということを書かせていただきました。今月は、自分の人生を振り返ることを通して神の愛を知る、ということを考えてみたいと思います。
 
 自分の人生を振り返ってみるとき、誰もが、悲しかったこと、辛かったこと、傷ついた経験などがあるに違いありません。思い出したくもない、ということもあるでしょう。でも、勇気を出して、神さまの愛の光の中でこれまでの歩みを振り返ってみてください。そのとき、エマオに向かう弟子たちのように、悲しかったとき、気がつかなかったけれどもイエスさまが一緒にいてくださったのだ、ということに気づいたり、エジプトに奴隷として売られ、「何でこんな目にあわなければならないのか」と思っていたであろうヨセフが、やがて家族を救うために、神が私をエジプトに遣わしたのだと悟ったように、辛かった経験にもこんな意味があったのだということを見出すことができるかもしれません。こうしてヤコブのように、自分の人生を振り返って、「生まれてからきょうまでわたしを養われた神」(創世記48:15)と言うことができたら、どんなに幸いなことでしょう。
 

神さまの造られるものって、すごいね

 
教団委員長 島津 吉成
 
 今年度の教団のテーマは、「神の宣教に仕える教会」です。そこで「仕える」ということですが、ここでは当然、「何かをする」ということが期待されているわけです。しかし、何かをするということの前に、「私たちがどのようなものとされているのか」ということが大事なことだと思います。doing(行為)の前にbeing(存在)が大事だ、ということです。そこで前号では、私たちは、「神に愛されている者だ」ということを書かせていただきました。
 
 今月もその続きになります。では、神の愛を私たちはどのようにして知ることができるでしょうか。神さまはいろいろな形でご自身を表してくださっていますが、そのひとつとして、神さまはご自身が造られた自然界を通して、ご自身がどのようなお方であるかということを表してくださっています。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩一九1)と言われているように、私たちは大空を見上げるとき、これを造られた神さまの偉大さを思わずにいられません。
 
 主イエスも、思いわずらいで心がいっぱいになってしまっている人々に向かって、「野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい」(マタイ6:28)と言われました
ね。私たちは心配事があると、そのことしか見えなくなってしまいがちです。でも主イエスは、「内側ばかり見て、くよくよしているのではなく、その目を外に向けてごらん」と言われるのです。「ほら、野原に咲いている小さな花を見てごらん。あんなにもきれいに咲いている。神さまが装ってくださっているのだ。その神さまがあなた方に、もっとよくしてくださらないわけがないではないか」と教えてくださいました。
 
 ずいぶん前のことですが、心配事を抱えて、あれこれ考えながら歩いていたときのこと。ふと脇を見ると、あるお宅の庭の梅の木が満開の花を咲かせていました。毎日のように歩いていた道なのに、まったく気がつきませんでした。「ああ、もう春だ」と思ったとき、何だか心が明るくなってきたことを思い出します。「神さまは、私の知らないところで、着々と働きを進めてくださっている。そして冬は終わり、確実に春は来る」、梅の花をとおして、神さまが私に、そんなふうに語りかけてくださったように思ったのです。
 
 お母さんが子どもに「きれいな花だね」と言ったら、その子が「神さまの造られるものって、すごいね」と答えたという話を聞きました。この一か月、「神さまの造られるものって、すごいね」見つけをしてみませんか。きっとそこから、神さまのすごい愛を発見することができますよ。きっと!

あなたは愛されています

 
教団委員長 島津 吉成

 
 巻頭言でも書かせていただきましたように、今年度は、「『神の宣教に仕える教会』逆転の神を見上げて ―たくましく、しなやかに―」を標語に掲げて進んでいきたいと願っています。神は御国の完成を目指して、今も力強く宣教の働きを進めてくださっています。私たちはその神を見上げて、「主よ、あなたの宣教の御業のために私たちを用いてください」と祈りつつ、今、この時代の中で、それぞれの場にあって、神の宣教に仕える教会を形成していきたいと思います。

 そのための第一歩として、まず私たちが神をどのように理解し、受け止めているか、ということから始めたいと思います。「あなたにとって、神さまはどのようなお方ですか」ということです。神さまは大きなお方ですから、いろいろな受け止め方、表現の仕方があると思いますが、やはり一番大切なことは、「神は愛なり」ということでしょう。
 
 テーオドール・ボヴーという人が牧会ということについて、こう書いています。「一人一人に向かって、神の国の一員として語りかけ、キリストが彼を愛していることを知らせる、これが牧会である」(「魂への愛と慰め」)。これは、私が大切にしたいと思っている牧会についての言葉です。「キリストが私のことを愛してくださっている」、そのことを受け取ることができたら、神の子たちは健やかに育ち、教会は健全に成長・成熟していくことができるというのです。
 
 キリストが私のことを愛してくださっている、これはよくわかっていることのように思いますが、実はそうではない、とヘンリ・ナウエンは言います。「自分が、一切の条件なしに、限りなく愛されているということを知っている人は、本当に少ないのです」(「イエスの御名で」)。私たちは、自分でいろいろな条件を作ってしまいがちです。そして、その条件に届かない自分に失望し、そんな私は神さまの愛から外れてしまっている、と思ってしまうのです。また、自分の心の中にある醜いものを、こんなものがあると神さまは愛してくださらないと思って、自分の心にふたをして隠そうとします。そうすると、神さまとは表面的な交わりしか持てなくなってしまいます。
 
 「あなたは愛されています。何も恐れることはありません。神は愛をもって、あなたの心のもっとも深いところをかたち造られ、あなたを母の胎の中で組み立てられたのです」(詩篇139:13参照)(ヘンリ・ナウエン「イエスの御名で」)。この言葉を、この一か月、味わってみていただけますか。きっと素晴らしいことが起きると確信しています。

信仰による義人は生きる

 

「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」 (ローマ1:17)
 
 3月にもたれた第54回教団総会において、新しい教団委員長が立てられ、新年度の歩みを始めました。ルターによる宗教改革から500年となる今年、前身の東洋宣教会から、東洋宣教会ホーリネス教会として歩みを始め、ちょうど100年となります。新しい力を得て、歩み出す私たちでありたいと願います。前教団委員長としてのこの4年間の歩みを、祈りとともにお支えくださり、心から感謝いたします。1年目は「共に」、2年目は「喜んで」、3年目は「主なる神は私の力」を掲げ、主に信頼し、信仰によって主の御心に「生きる」(4年目)、を御言葉を通して与えられた主からの光(キーワード)として、教団委員をはじめ、同労者の先生方とともに進んできました。主よ、何故でしょうか……と問わざるを得ない、出来事や進展を前に、いつも立ち帰らされるのは、ハバクク書の御言葉でした。「義人は信仰によって生きる」。教団委員長の任を受けるに当たって、主から与えられた御言葉です。この主への信頼なくては、歩み得なかった日々でもあります。その中で、主は希望を見せてくださいました。(ユースジャム等における)青年
たちの霊的成長、(牧師先生方のメッセージの研鑽により)御言葉に整えられていく
各個教会、主からの知恵をいただき展開されるさまざまな伝道、国内外における協力
関係(宣教協力)……主の御前に生きる、主の聖徒がいるかぎり、主のみわざは前進
します。日本ホーリネス教団を日本の地に置いていてくださる主は、大いなる期待
を持って私たちの教団を用いようとしておられるのだと肌身に感じた4年間でした。これからも、主のみわざは進むでしょう。「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる」(ハバクク3:18~19a)。新教団委員長、新しく立てられた教団委員と「これを琴に合わせ、聖歌隊の指揮者によって歌わせる」とあるように、ともに心を一つにして賛美し、告白する者でありたいと思います。教団とは、ともにそれができる共同体なのです。これからも、ともに喜んで主なる神は私の力であると主に信頼をし、信仰によって主の御心に生きる教団の一員でありたいと願っています。ありがとうございました。
 

神のみ顔を仰ぎつつ生きる

 

「昼には、主はそのいつくしみをほどこし、 夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる祈がわたしと共にある」(詩篇42:8)。
 
 新年度を前に、卒業・異動の季節が近づいてきました。開かれた次のステップに移る希望とともに、何が待ち受けているのだろうとの不安も心に去来します。主によって導かれた感謝をもって今まで過ごしてきた、慣れ親しんだ場所を離れる寂しさもあります。この時期、毎年心に浮かぶ賛美歌があります。私が以前お世話になった、北米ホーリネス教団の教会のシニア会の方々が、好んで賛美されていた曲でした。「村の小さき教会」(新聖歌423番)です。その歌詞には、自分を育て導いてくれた場所への愛が溢れます。私を主に導き、心を燃え立たせ、献身の思いで立ち上がったこの場所。「主よ、私をこの教会に導いてくださり、礼拝を守らせてくださりありがとうございます。ここに、この教会がなかったら、今の私はいません」どんなに感謝しても感謝しきれない思いになる。 「日本で信仰を持ちました。もう帰ることもない故郷です。しかし、そこで礼拝をともに守った同胞(はら)からを忘れたことはありません。あそこにあの教会があったから、私は主に出会えたのです。今はみんな世界各地に散り散りになりました。しかし、どこにいても、ともに同じ主を慕い求めています。互いに頑張ろう、主が見ていてくださる」。その主への愛がこの曲を賛美する度に心に湧いてくるのです。

 今月、私はそれぞれ62年と65年の歴史を閉じることになる二つの教会で、この教会を愛して止まない方々とともに感謝の礼拝を守らせていただきます。時は流れます。その中で、主が私たちに求められる働きは違ってくるのでしょう。日の照る昼も、月星またたく夜も、あなたは「私の『時』」とともにおられます。状況が違ってくる中で、あなたが私に求められる働きは違います。しかし、変わることのないあなたがそこにいてくださいます。我が魂はあなたを慕い求めます。わがいのちの神よ。私たちにあなたのいつくしみを見させてください。詩篇42篇の詩人の思いと重なって、主を慕い求めます」。詩篇42篇の、この涙の祈りは、歴史の中でも後に詩篇126篇にあるような、大いなる主への賛美に変えられていきました。歴史の中においても主は、多くの信仰者の涙の祈りが積まれ、主を慕い求め続ける者たちに証詞を立てさせてくださることを、私たちも信じます。
 

幻は生きつづける

 
「これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう』」(創世記15:1) 
「この時、神は夜の幻のうちにイスラエルに語って言われた、『ヤコブよ、ヤコブよ』。彼は言った、『ここにいます』」(創世記46:2)
 
 学院デーに参加したある方が、「1901年と2016年の今と、どちらの宣教が難しいと思いますか?」との質問を持って帰ってきました。日本ホーリネス教団の創立者の一人であるミセス・カウマンの生涯を学ぶクラスで、東京聖書学院長の錦織寛先生から受講生に投げかけられた問いだそうです。カウマン夫妻の生涯を書いたB・H・ピアソン著『幻は生きつづける』(日本ホーリネス教団出版部)を見ると、日本へのビジョンが与えられた後、夫妻に「神は再び語りかけられた。『どの団体にも所属せず、わたしだけに頼って進め』と。『なんじらもぶどうぞのに行け、相当のものを与えん』……。初めに記したように、最初の献金がわずか25セントでは、普通の人なら絶望して投げ出してしまったであろう。しかし神は『……行け、……与えん』とお約束くださっている。夫妻にとって神の約束は現金と同じである」。こうして夫妻は船で長旅をし、1901年2月22 日、横浜の地に着くのです。「見なれない顔・顔・顔。忙しげに駆けまわる人力車。耳をおおいたいような激しい言葉。靴をぬぎ、床にすわり、畳の上に寝る珍しい習慣。低いテーブルで箸をつかう食事」。戸惑うことの多い、全くの異文化の中で始められた宣教活動でした。未知の地での伝道の開始という、その困難さを改めて読むときに、「備えられ、与えられている中で伝道ができる今の私」に気づかされました。昔のようにキリスト教に心を開かなくなった現代の人々……も一面でしょう。しかし、そのことを言い訳にするのなら、それは間違いだと示されました。いつの時代にも困難や障害はあります。しかし、変わることのない御方の御言葉の約束に従って生きる人生に間違いはないのです。このカウマン夫妻の主への信頼、御言葉信仰、宣教へのスピリットが、今の日本ホーリネス教団・東京聖書学院のルーツです。御言葉に従って生きた、一組の夫妻が蒔いてくれた種があっての、今の私たちです。今から116年前、そしてこれから116年後……時代を超えて、主は「わたしにだけ頼って進め」と招いておられます。どの時代にも、主に御声をかけていただいて、その導きに生きた者たちがいます。あなたもこの御方に生涯をかけていきませんか。
 

 主の励ましの中に生きる

       教団委員長 中西雅裕

 「主の使は彼に現れて言った、『大勇士よ、主はあなたと共におられます』」。
(士師6:12)
 

 昨年のユースジャム2016の中で、教団委員全員が挨拶をする時間がありました。ある人が、「東日本大震災の後、同じ地に住む若手が応援団を結成して、地域の方々をさまざまな場面で応援して励ましているそうです。辛いときエールがあるってうれしいですね」と言っていました。青年たちへ祈りのエールを送る応援団として、「フレーフレー、若者!祈ってる、エールーと大声で、教団委員が揃って応援したらどうでしょうか?」と提案されました。結局は応援団の格好はしなかったのですが、それぞれの地に、家庭に、教会に、職場に学び舎に遣わされる彼らに、「ガンバレー祈ってるから」という気持ちを伝えたいと今も思っています。

 

 さて、この士師記に出てくるギデオンは、敵の目を恐れて、酒ぶねの中で麦を打つような者でした。しかし、その彼に主の使いは、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」と声をかけるのです。そうではない者を、そうだと言ってくださり、造り変えてくださる神がそこにおられます。この後のギデオンの歩みは恐る恐るです。しかし、その中で神さまはギデオンを励まし、導いてくださるのです。主の守りは確かです。偶像を打ち壊し、主の祭壇を築き直したときも、ミデアンびとを打ち破ったときも、不思議な守りと導きがそこにありました。主の言葉に素直に従う者を、神さまは支え続けてくださるのです。人の目にはなぜ?と思えることの中にも、主の御計画があるのです。また、その導きも、一人ひとりを良く知っていてくださる御方が、それぞれにふさわしい励ましをもってなされるのです。何と慈愛に富みたもう神さまでしょうか。

 

 「その夜、主はギデオンに言われた、『立てよ、下っていって敵陣に攻め入れ。わたしはそれをあなたの手にわたす。もしあなたが下って行くことを恐れるならば、あなたのしもベプラと共に敵陣に下っていって、彼らの言うところを聞け。そうすればあなたの手が強くなって、敵陣に攻め下ることができるであろう』」。(士師7:9~11b)

 

 この御方のもとで、主に従う私たちとしていただきましょう。この年、主は「大勇士よ、主はあなたと共におられます」とのエールを私たちに送ってくださっておられます。さあ勇気を出しましょう。主のために立ち上がりましょう。私たちは一人ではありません。天において何万の軍勢が私たちにはついているのです。主の兵士たちとして、この年も生きていきましょう。

2016年

神の契約のうちに生きる

 

教団委員長 中西 雅裕


       
「すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である。』ヨシュアはそのようにした」(ヨシュア5:15)

 ヨシュアをリーダーとしたイスラエルの民は、主の約束された地に向かいます。「あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう」「モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう」「見放すことも、見捨てることもしない」。主からの多くの励ましと約束とともに歩み行くヨシュアと民たちですが、その現状はそう簡単なことではありませんでした。しかし、その中で主はねんごろにヨシュアたちを導いてくださいます。主の導きに従うとはどういうことであるかを、その度ごとに教え、進ませてくださるのです。
1. 神の御言葉を通して、御心を確認すること。
2. 神の臨在の中で、主がともにいてくださる恵みを体験すること。
3. 妨げとなるものが示されたら取り除き、悔い改めの勇気を与えられること。
4. 一歩一歩従うことを通して、より深く主を知ること。
5. その主の恵みを噛みしめつつ、主の記念を心に刻むこと。
 教会に何人かの受験生がいます。彼らと祈り合う中で、彼らの押しつぶされそうになる不安との戦いをひしひしと感じます。「祈られているもんね。大丈夫だよね。でも、もし……」。彼らの正直な気持ちと向き合いながら、臨在の主を仰ぎ、将来を幸いへと導いてくださる主を信じて生きる者たちであることを、御言葉をともに再確認しています。献身の思いを持ちつつも、どのような形で進めばよいのかを迷いながら、新年度に向けて新たな歩みを祈っている者たちがいます。「ここまで主にお従いをしてきました。これからどうすればよいのでしょう。結婚とか……不安がないわけではないのです」。ヨシュア記5章では、ヨルダン川を渡ったヨシュアたちに主は語られます。そこはエリコまであと3km程の地です。城壁が見えたことで彼らに恐れも生まれたでしょう。敵前のこの地で主は語られます。「割礼を受けることをないがしろにしてはいないか?」「主との正しい関係が崩れていないか?」 そこをはっきりとするようにと言われるのです。そのことを通して、神の契約のうちに生きていることを再確認し、敵の前で主に感謝をささげる過越の祭を行うのです。その後、主の軍勢の将がともにいてくださることを見る目が与えられていくのです。主の契約のうちに生きる者たちのために、主がともに戦ってくださることを教えられていくのです。 
 この感謝をもって年の最後に、主からの整えをいただいて、新しい年へと歩み踏み出していきましょう。


 

神の憐れみと恵み深さに生きる

 

教団委員長 中西 雅裕

 
「そしてエリシャが祈って『主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください』と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった」(列王紀下6:17)
 
 ユースジャム2016で受けた恵みの証詞が止まりません。参加者数479通りの恵みがあります。 「1時間でも足りないっす。俺もっとしゃべれる。いや語りたい」。恵みの分かち合いが、聞いた者たちの心に更なる恵みを生み出していきます。「あの時決心したことを両親に話しました。来年、東京聖書学院に入学します」「迷っていた洗礼を、今度のクリスマスに受けます!」「よかった」「やったね!」。互いが互いを思いやり、愛する姿に、感動を覚えるのです。「ユースジャムに参加予定だったHちゃんがキャンセルに……。でも、期間中グループのみんなは彼女のためにも祈ったよ。だって、彼女も私たちの仲間だから! 神さまはきっとどこかで彼女に出会わせてくださるはず。その時、私たちは笑顔で彼女にこう言うんだ『Find You!』」。先輩たちのようになりたい。そういう願いが起こされた次世代がいます。すべてが御手の中にあることを感謝しつつ。

 また9月末には、神戸で第6回日本伝道会議が持たれました。日本と世界の宣教のために祈りの手を上げ、何か自分にできることはないだろうかと考える者約2100名が集い、熱気に溢れた4日間を過ごしました。日本ホーリネス教団からも77 名の牧師と約20
名の信徒、東京聖書学院の修養生が参加しました。それぞれのプロジェクトに分かれ、熱のこもったディスカッションがなされました。主に信頼し、立ち上がるきっかけを与えられ、教団・教派を超えた主にある協力関係を確認して帰ってきました。「テーマは、『再生へのRe -VISION 福音・世界・可能性』です。これは列王紀下6:17から取られたものです。強大な軍隊の前でたじろぐ若者の目が開かれ、信仰の目で同じ現実を見直すことができるようになり、そこから新たな展開が生み出されていきました。同じことが再生を求める私たちにも必要とされています。主の働き(福音)とそれが生み出したもの、置かれているところ(世界)、仕える姿(可能性)を見直す。福音とそのインパクトの素晴らしさを知るならば、喜びに押し出され、世界の現状を真正面から見据えることができる。可能性に目が開かれ、新旧のチャレンジに取り組むことができると信じてこのテーマとしました」(開催地委員会副委員長鎌野直人師)。そのとおり、次の目標に向かうため
の良き時となりました。私たちの生き方は福音の素晴らしい魅力を伝えているでしょうか。神の民として、神の憐れみと恵み深さを「生きる」のです。私たちの教団もこの日本と世界の宣教を真剣に考え、霊の目を開かれ、主のみわざに期待し、前進していきましょう。
 

 

喜びに満ちあふれ生きる

       教団委員長 中西雅裕 

 
 「わたしはあなたがたを大いに信頼し、大いに誇っている。また、あふれるばかり慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びに満ちあふれている」(Ⅱコリント7:4)
 
 ユースジャム2016が、祝福の内に終わりました。「嬉しいね」「よかったね」の多くの感謝に満ちた報告がなされています。それぞれが主から語られたメッセージを受け取り、新たな思いで立ちあがり、各々の家庭に職場に学び舎に遣わされて行きました。主に置かれた場での、クリスチャンとしての生活です。世の中で「生きる」のは、ある意味戦いです。祈りのエールを青年たちに贈ります。
 
 南西教区の喜界教会からもお手紙をいただきました。
 
 「遠い離島からも、6名が参加させていただきました。8月8日の昼過ぎに飛行機で飛び立ち、夜8時過ぎに会場に到着し、前泊させていただきました。『FindYou』のテーマソングを口ずさみながら、大きな期待をもって臨みました。(中略)帰りはい11時頃、みなさんよりも一足早く羽田へと向かい、鹿児島空港からはリムジンバスで鹿児島市内に移動し、離島航路の『北埠頭』に急ぎました。しかし、予想外のことに、予約がいっぱいでその船に乗ることができなくなってしまったのです。私たちは次の船が出るまでの3日間を鹿児島で留まることになりました。『みんな、ごめんね』とわびながら、泊まるところを検討し、鹿児島武キリスト教会の洪美英先生に事情をお話しして、受け入れていただくことができ、心からのおもてなしをいただきました。子どもたちが喜んで滞在期間を過ごしてくれたことは、私の大きな慰めでした。一番嬉しかったことは、一人ひとりがユースJAMで歌った讃美をいつも口ずさんでくれていること、われ先にとお祈りをしてくれるようになったこと、イエスさまに対する信仰の目が開かれている姿に感動しました。……こうして楽しい8泊9日の旅は、16日(火)早朝4時半、11時間の船旅を終えて、それぞれの家族のもとに帰ることができました。ハレルヤー」
 
 何と、大変な思いをして……しかしそれを「帰りのハプニングはあったものの、すばらしい恵みを倍加された感動の旅となりました」と報告してくださる先生がおられるのです。このように全国から、この「ユースジャム」に期待をもって集まって来た若者たちのため、送り出すことのために労を惜しまなかった先生方や教会が教団にはあるのです。それを支えた同じ教団の教会があったのです。感動でした。この教団で良かったと言える幸せ。続けて次世代のために祈っていきたいと思います。
 

 

互いに協力し合いつつ生きる

教団委員長 中西 雅裕

 
「わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。」(ローマ12:5)

 教団として次のような協力体制が必要とされています。外国の教団や他教団との協力が宣教のみならず、災害時などの危機管理が必要な時においても求められ始めています。互いの特色を尊重し合いながら、ともに主に仕える者としてネットワークを築き、協力し合っていきたいと思います。主なる神のもとに集まる者としての働きのゆえに。
 
 ①日本宣教に多大な寄与をしてくださったOMSとのさらなる協力関係を継続していきます。またOMSクリスチャン・ミッションチャーチの働きも応援していきたいと思います。OMSが期待しているように、日本からもOMSの宣教師が起こるように祈り始めます。
②世界ホーリネス教会連盟(WH連)関係の諸団体との関係を深めていきます。
③北米ホーリネス教団とブラジル福音ホーリネス教団との協力関係を深めていきます。
④基督兄弟団とは歴史検証や青少年伝道、修養生訓練などの具体的な協力を進めていきます。
⑤日本福音連盟(JEF)内では、不測の事態に備えて説教者要請のための隠退牧師リストの作成や各神学校ができる協力の可能性を模索しています。日本福音同盟(JEA)内では将来の宣教協力や教会の統廃合などを視野に入れた情報交換を進めていきます。
 
 このような時流の中で、今月、第6回日本伝道会議が神戸で持たれます。次の理念のもとに開かれます。「私たちは、聖書信仰と教会の公同性に基づいて、教会・教団・宣教団体の宣教協力のためにさらに優れた態勢と環境を整え、また私たちの互いの交わりとネットワークをより活きたものとすることによって、実り豊かな福音宣教の働きを行うことを目指します。3・11を通して、福音の確認と宣教のあり方の再検討、また地域における新たな教会
協力の取り組みが進められています。私たちはこの危機の時代の希望であるイエス・キリストの福音宣教の使命を確認し共有します。現在行われている宣教の働きを振り返りつつ、互いの状況と情報を交換し、対話を深めることにより、新たな協力分野を見いだし、さらなる協力態勢を築く機会とします。宣教に携わる人々が励まされ、キリストにある交わりが深められ、ネットワークを活性化することによって、受け継がれてきた宣教のビジョンと働き
を新たな世代に継承します。日本の教会の歴史に大きな貢献をし、また阪神淡路大震災からの復興の途を歩んでいる国際都市神戸に集い、世界と日本の各地域における宣教のために祝福を祈ります。」
 
 教団としての歩みに沿った学びと交わりのできるチャンスとして、参加を勧め、協力します。日本の福音宣教のために!

 

神と人に仕え、生きる

教団委員長 中西 雅裕

 
 「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ三8~9)

 私たちの教団が大切にする「聖化」の実は、主権者なる神に心から喜んで従い生きることです。とても単純で、クリスチャンとしては当然のことなのですが、これが「主権者なる神に、『すべてをささげ』心から喜んで従い生きること」となると、難しさを覚え始めるのです。神さまが主権者なのだから、その御方にすべてをおささげするのは当然だと、頭ではわかっていてもなかなかできないのです。そして、自我に死ななければ、全き献身を喜ぶことができないのです。そして、自我に死ぬには、イエス・キリストの十字架の死によるみ業を信じて生きるほかないのです。イエス・キリストを見上げつつ、主なる神に仕える思いを忘れないようにしていきたいと思います。置かれている場の働きの中で、キリスト者として、
神と人に仕えていくことを大切に「生きて」いきたいと思います。「心から喜んで、主権者なる神に従い生きる」私たちの教団でありたいと思います。そのために、
 
①教会や信徒一人ひとりがどのように地域に仕えていくか、遣わされているところで使命をもって生きていくかを考えていきます。このために必要な学びや情報交換を行っていきます。
②今ある緊急支援対策室の働きを活かしつつ、災害時に迅速に対応できるようにさらに備えを充実していきます。災害に備えて防災ネットワークを築くために、近隣の教会との交わりを育てていくように各教会を励ましていきます。
③教団本部の土地・建物と東京聖書学院が、一教団のみならず、キリスト教界、日本や世界に仕えていくものとなるようにネヘミヤ・プロジェクトを進めていきます。

 夏に、各地で「聖会」がもたれます。その中で、今一度、私たちの信仰生涯の歩みを点検させていただきましょう。喜びや感謝が、主への愛と従順が、この世の中の何かに押しつぶされてはいないでしょうか? 各々整えられ、主に遣わされたいと思います。この夏、修養生のチームは熊本の被災地支援と、各地の教会奉仕に遣わされています。お祈りください。また、5月に北米ホーリネス教団から、ネヘミヤ・プロジェクトに多額の献金をいただきました。多くの期待の中で、世界に仕えていく教団でありたいと願います。
 

成熟を目指して生きる

教団委員長 中西 雅裕

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:19〜20)。

 今年度に入り、「生きる」をキーワードに書かせていただいています。感謝を捧げ、御言葉を信じ、福音を伝えつつ、成熟を目指して、神と人とに仕え、互いに協力し合いつつ、「生きる」大切さを覚えたいと思います。これは教団としての実際的な歩みを考える中での課題であり祈りです。私の罪のために死んでくださった、イエス・キリストの十字架の御わざを信じていく身の幸いは、義認・聖化・栄化へと私たちを導いてくれます。キリストと共に十字架に死んだ我が身は、キリストと共に生きる生き方へと変えられたのです。キリストが我が内に生きておられると告白しながら、喜びをもって、御言葉を信じて歩む私たちでありたいと思います。かつて律法にがんじがらめにされていた身が、律法の拘束から解き放たれ「律法に死んだ」ように、自分の考えや理解にこだわることに死に、キリストに生きる者たちとさせていただきましょう。私を愛し十字架の御わざを与えてくださった御方に育てられていきましょう。私たちはキリスト者として、教会として成熟していくことが御心として求められています。主なる神の御前に出るとは、礼拝であり祈りでもあります。整えられつつ、主の御前に生きるという、ホーリネスの本質を大切にする者たちでありたいと思います。お互いの信仰によって、孤立せずにともに励まし合えるような関係を築きつつ生きる教団でありたいと願っています。

 
①信徒の方々に、ともに任を負ってもらい、賜物を用いていただく機会を積極的に増やしていきます。
②箱根での夏季聖会をはじめ、各地でもたれる聖会を充実させ参加への呼び掛けを行います。
③「祈りの栞」をさらに充実させて毎年出版し、継続的に教団に属する各教会の祈りの課題を共有し、祈りのネットワークを築いていきます。この栞は神の家族という意識を強め、教団への帰属意識を育むものとなると考えています。
④キャンプ伝道を次世代育成の働きの一つとして、さらに重要課題として力を入れていきます。
⑤ユースジャムとその後のフォローアップの働きを全面的に支援し、全国規模で次世代の育成を進めていきます。

 

福音を伝えつつ生きる

教団委員長 中西 雅裕 

 
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ二4 )
 
 私たちの教団は今までも、「伝道第一」を大切にしてきました。主を受け入れる場面に立ち会える喜びは最高の特権です。しかし、いつのまにか他の働きが優先され、福音を伝えることが後回しになっているのではないでしょうか。福音を伝えることこそ、私たちが最優先すべきものです。神の御心を考える時に、「神の情熱(パトス)」を抜きにはできません。その御心にお応えする各々でありたいと思います。この年、私たちには何ができるでしょうか。私自身、この「りばいばる」を通して、それぞれの教会が主から与えられた知恵を用いて、さまざまな方法を用いて伝道しておられるのを知り、励まされ教えられています。「あぁ、そういうこともできるかも知れない」とヒントが与えられると同時に、熱心に取りくんでおられる教会の方々の姿に、同じ主の弟子であるという兄弟愛を感じるのです。うれしい瞬間です。
 
 教団として「福音を伝えつつ生きる」ことを支えるために、次のことをお覚えくださり、お祈りにお加えください。
 
① 包括的福音理解のもとに、全人格的な関わりの中で宣教を進めていきます。
② 勧士候補者が増えるように、各教区で働きかけていただければと思います。いろいろなかたちの兼牧支援の方法を探ります。OMSが世界規模で展開しているCM(教会増殖)の学びを進めていきたいと思います。続けて新たな宣教師候補者が生み出されるように祈り、派遣していきます。
③ 孤立することなく、一緒に悩み、御心を求めて、教会に関わる共同牧会の道を探っていきます。
④ 証を携え、救いへの導きができる信徒の方々の育成を進めていきます。そのために「いのちへの道」の改訂も企画され、ECC(OMSの働きの一つ)のテキストが作成されつつあります。
⑤ 信徒の方々の教会間での応援と交わりを応援していきます。このことによって一人ひとりが成長し、神の家族としての意識も育まれていきます。
⑥ 基督兄弟団との協力関係をさらに密にし、神学校間の協力も含めともに協力して伝道者を育成していきます。
⑦ 韓国に加えて台湾からも宣教師を受け入れていきます。
 
 福音はすべての人に必要であり、どんな人をも造り変える力があるのです。このことを確認して「救い主」なる御方とともに生きるこの喜びを手渡すために生きていきましょう。
 
 ともに労させていただきましょう。神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられるのですから。
 

御言葉を信じて生きる

教団委員長 中西 雅裕
 

 「主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。」(詩篇33:4)
 
 聖書66巻は誤りのない神の言葉であり、信仰と生活との唯一の規範であるという「聖書信仰」は、私たちの教団の生命線です。そして、聖書に基づいた礼拝、ディボーション、祈りを通して御言葉に導かれて行く歩みは、クリスチャン生活の基本です。また御言葉によって取り扱われるという御言葉経験が、私たちの大きな力となります。「主なる神はわたしの力」であることを日々御言葉を通して経験することなしに、喜びは生まれてきません。御言葉は「主なる神の言葉である」ことを心に刻み、主の御前を歩ませていただきましょう。御言葉を通して、主の御心を聞きましょう。

 この3月にもたれた第68年会で、多くの先生方と話す機会が与えられました。隠退される先生方の証詞の言葉の重みに教えられ、励まされもしました。ある女性の先生が38年の献身者生涯を振り返り、「『今までの献身生涯を支えてきたものは何だったか?』と問われるならば、それはただ御言葉です。疑ったり、迷ったり、恐れたりの繰り返しの中にあっても、神さまは節目ごとにいつも御言葉をもって選びの確かさを表してくださいました。あのときあそこで語られたあの御言葉により、今の私があることを確認させられております。そしてこれからも、御言葉に対する信頼を失わないかぎり、神さまは私の献身生涯をお支えくださり、全うさせてくださると確信しております」と書かれた文章を読ませていただき、深く感動しました。アーメンです。御言葉信仰を貫く私たちでありたいと思います。

 教団として今年度は、とくに「御言葉を信じて生きる」ことの深まりのために、①9月に神戸でもたれる第6回日本伝道会議を、教職者のための集中した研修の場と考えています。各教会の役員会には研修の重要性を理解していただき、積極的に教職者を学びの場に送り出していただきたいと願います。②メッセージ・シーリズやディボーションの書籍の出版を通し、学びと恵みを受ける機会を提供していきます。現在、小林和夫師の「ローマ人への手紙講解説教」の再販本、松木祐三師の「静まりと黙想の朝に」シリーズが教団出版部から出されています。お用いください。③教団として、若手の先生方に神学論文の発表の場を提供することは大切なことであると考えています。お祈りください。
 

 

感謝をささげて生きる

教団委員長 中西 雅裕 

 
「われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう」(詩篇95:2)

 昨年度の感謝として、以下のことがあげられます。
 
①ネヘミヤ・プロジェクトの第一期工事が終わり、東京聖書学院の旧寮の改修工事が完成しました。続いてチャペルや本館・図書棟、外構・エントランス工事などの改修の工事も完成間近です。教団債も集まりつつありますが、なおも主の御心を求めてこの大きな働きを活かしていけるようにと願っています。続けてお祈りお支えください。

②次世代育成プロジェクトは、各地のキャンプも祝され、クリスチャンホーム形成を目指した出会いの場作りの働きなども活発です。ユースジャム実行委員会も次の世代を担う青年たちが中心となり、活発に準備が進められています。ユースジャムの働きを通して、教団に関わるすべての人々に祝福がもたらされることを願います。
 
③東京聖書学院は2015年度の入学者が14名与えられ、今まで以上に活気が出てきました。さらにきよめ派や福音派の諸教会においても信頼され、広く用いられる神学校となっていけるようにお祈りください。

④ロシアに新しく宣教師候補を送り出すことができました。

⑤「祈りの栞」が発行されたことによって、教団内の教会・教会員がさらに具体的に祈り合うことができるようになりました。

⑥聖会説教の学びによって、教職者同士による説教の研鑽が始まりました。

⑦長い間主の働きに仕えて来られた先生方を支えていくため、教会厚生費の増額によって謝恩金の改革が行われました。

⑧基督教大韓聖潔教会やイエス教大韓聖潔教会に加えて、台湾聖教会とも宣教協力を結ぶことができました。また、北米ホーリネス教団とも覚書を結ぶ予定です。このことによって国際的な協力の輪が拡大してきました。

 多くの感謝の中で、このように導いてくださった主の御心をなおも求めつつ、へりくだってこれからの歩みを一歩一歩進めさせていただく一年でありたいと願います。この混迷の時代に、私たちキリスト者が地の塩、世の光としてどう生きて行くかが問われています。その中で「信仰によって生きる」ホーリネスの生き方をさせていただきましょう。
 

 (「りばいばる」4月号)

 

 

主のみこころを知って


教団委員長 中西 雅裕

 
 「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ六40)。

 この地上で与えられている齢が幾つであるのかは、互いに知りません。しかし、必ずここを去るときが来ます。誰でも。必ず。それは、人間に与えられた厳粛な神の御計画でもあります。いえ、それは人間の罪のゆえに入ってきてしまった、支払うべき報酬と言ったほうがいいのかもしれません。その「死」を前にしたときに、私たちは多くのことを考えさせられます。

 今年の年始挨拶の手紙で、一人の青年が昨年の春に亡くなっていたことを知りました。ショックでした。前任地で出会った彼が中学生の時に、教会では中高生の集まりが盛んでした。夕食をみんなで食べ、夜遅くまで時間をともに過ごしました。開拓中の教会であったこともあり、そこに来ている子たちは、全員ノンクリスチャンホームでした。聖書を語る前の心の耕しが必要で、まずは教会に来ることを目標にしました。彼らに聞く耳が与えられるように、教会員の方々も熱心に祈ってくださいました。しかし、個々にしっかりと福音を手渡すことはできませんでした。大きな痛みです。数年前、その中の一人が、結婚して一ヶ月も経たない内に、森林伐採の仕事の途中に、一本の大きな木の下敷きになり命を落としました。不慮の事故でした。その時も、なぜ彼らにもっと熱心に福音を伝えなかったのかと悔やまれました。もちろん、私たちの努力や頑張りでどうにかなるものではありません。聖霊のお働きに委ね、主の御力に信頼すべきことです。しかし……今年に入り、バスの事故などで多くの若い命が失われたことなどを聞くと、心新たに祈り続けるべきことを教えられているのです。
 
 「年寄りから順番に天の御国に行かせていただけるわけではないのですね。なぜ、この歳までこんな弱い小さな者が生かされているのか正確にはわかりません。何か大きな御奉仕はもうできません。しかし、若い方々のために祈ることはできます。その子たちに『良くやってるね。頑張ってるね。』と声をかけることはできるのです」。今年の抱負をそう語ってくださった姉妹がいます。「そこで主が言われた、『主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。……主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう』」(ルカ12:42、47)。主の御心は、すべての人が救われることです。その愛に、若い人々が気がつきますように。今年はユースジャムの年でもあります。お祈りください。

(「りばいばる」2016年3月号)

戦ってくださる主に寄り頼んで


教団委員長 中西 雅裕


 新年になり、ヨシュア記を黙想しています。
14章では、エフンネの子カレブが、ヘブロンの地を嗣業として与えられたことが記されます。この地には、アナキびとが住んでいました。しかし、カレブは自らヨシュアに申し出るのです。「それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキびとがいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」と。その時、カレブは85歳でした。彼は45年前に神に遣わされた時の鮮明な約束の言葉をしっかりと心に持ち、その後のすべてのことと、「主は言われたように、
わたしを生きながらえさせてくださいました」という感謝に溢れます。そして、今もなお健やかで力に満たされ、「どんな働きにも、戦いにも」遣わされる覚悟も与えられていると語るのです。聖書の記者は、カレブを「全くイスラエルの神、主に従った」者と記します。この「主に従った」は、「従い通した」と理解した方がよいでしょう。私たちもそのような者たちでありたいと願います。昨年末に、この箇所からメッセージをした時、「主に従い通した生き方に必要な3つのK」として、「回想、感謝、期待と確信・献身」のローテーションを語らせていただきました。しかし、今年に入りさらに黙想する中で、この時のヨシュアにとってカレブのこの訪問は、主への信頼を再確認させる助け手としての役割があったのでは、と思うようになったのです。カレブは開口一番に、「主がカデシ・バルネアで、あなたとわたしについて」と言います。このカデシ・バルネアはヨシュア記10章にあるように、ヨシュアが戦いで勝利を得た地でもありました。そしてその勝利は、「イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので」与えられたものでした。我らの主は何と憐れみに富み、力強い御方でしょうか。カレブとて、肉体的には45年前と全く同じとは言えなかったと思います。しかし、この寄り頼む主によって、「わたしの今の力は、あの時の力に劣らず」と言えるのです。互いが互いのヨシュアであり、カレブでありたいと思うのです。「あの時のこと覚えているか? あれから今に至るまで主はなんと良くしてくださったことか。さぁ新しい働きに遣わされて行こうではないか」。そう言い合える仲間でありたいと願うのです。新年度の歩みのために祈りはじめている今、共に「主に従い通した」生き方をさせていただけるように励まし合いたいと思います。
 

(「りばいばる」2016年2月号)

主に信頼し、主を喜ぶ……

教団委員長 中西 雅裕


「この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」 (ネヘミヤ8:10)

 ネヘミヤ・プロジェクトの第一期工事が終わり、修養生の寮の部屋や食堂等が新しくなりました。改修工事ですので、水道・電気・ガス等の配管・配線を探りながらの大変な工事でした。壁や床を開けてみて、工事の必要な個所があることがわかり、当初の予測を超えるものになりました。工事の必要経費も膨らみ、1億円の予算に600万円を上乗せすることになりました。どうぞお祈りください。

 この秋、教団より出版されている「聖書の光」(教会学校教案誌)では、3回にわたってネヘミヤ書が取り上げられました。その中の「神殿再建の戦い」では、「城壁を建て直す作業は何度も邪魔が入りとても大変でした。心がくじけそうになることが何度も起こったのです。順調ではない中であきらめないでやっていくために、神さまに祈りました。また、神さまによる確かな支えがありました」と、「霊の武具をまといつつ、愛の奉仕に生きる」をテーマにしています。片手に工具、片手に武具の工事は民たちにとって大きな負担です。しかし、その中でネヘミヤは民とともにまず「われわれは神に祈り」と、主を信頼する祈りを盾にして進むのです。困難の中に、主権者なる主を見るのです。この器ものは、主の働きに用いられていくものです。そこに主の働き人が多く送られてきますように、東京聖書学院がこれからの日本宣教に大きく用いられていきますように、教団がそれを支え続けていけますように、続けてネヘミヤ・プロジェクトのためにお祈りください。

 「聖書の光」ではネヘミヤ8章に入り、「試練やさまざまな戦いを経て、城壁は再建されました。と同時に人々の信仰のあり方、神への姿勢、神の言葉に対する熱意ももう一度建て直され、回復されたようです」とあります。城壁完成後、民たちはエズラの語る御言葉に耳を傾け、「民はみなその手をあげて、『アァメン、アァメン』と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した」のです。城壁の完成は民たちを、自分たちの身になされた神のみわざに気づかせ、悔い改めと感謝に導くのです。私たちも同じように、この工事に祈りとささげものをもって加わり、ともに主を喜ぶものとさせていただきたいと思います。

(「りばいばる」2016年1月号)

2015年

 

「宣教師の帰国と派遣」

  宣教局長 中道 善次

 
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)。
 
 「フェリース・ナタール」(ブラジル、ポルトガル語でのメリー・クリスマス!)ロシアのプロテスタント教会では、12月25日だけでなく、1月7日(ロシア正教のクリスマス)にも御降誕を祝います。
 
 今月中旬、12年間のブラジル宣教の使命を果たし、新谷聡一郎、聖美宣教師ご夫妻が帰国される。新谷宣教師ご夫妻は、ブラジル福音ホーリネス教団リベルダージ教会(サンパウロ市)とクリチバ教会の日本語部の牧師として日系ブラジル人一世、二世への宣教と牧会に励んでこられた。日本とブラジルの架け橋となり働いてこられた新谷宣教師ご夫妻のミッションに感謝し、心から出迎えたい。
 
 「お帰りなさい! ブラジル日系人教会での尊い働きを感謝します。」
 新谷宣教師ご夫妻は、2016年1~3月の2ヶ月半であるが、巡回報告をされる。帰国される宣教師とバトンタッチするように新しい宣教師候補が、宣教地での働きを進めている。今年6月4日、河瀬愛子宣教師候補は、ロシア極東の都市ウラジオストクに出発された。働きの場所は、ウラジオストク長老インマヌエル教会である。ソビエト連邦が崩壊した直後、韓国人宣教師がロシアに入国し、開拓された教会である。教会学校の子どもたちに伝道し、彼らを育て、23年かけて一つの教会を形成してこられた。教会の規模は大人50名、子ども25名。会堂はスリッパ履きで、日本の教会のようで違和感がない。河瀬愛子宣教師候補は、韓国からの宣教師夫妻、韓国系ロシア人の副牧師、白系ロシア人の神学生、長老夫人で構成される牧会チームの一員として働いておられる。7月1日、ウラジオストクにて現地の教会と日本ホーリネス教団との間で宣教師派遣契約を結んだ。
 
 河瀬愛子宣教師候補は3ヶ月の宗教ビザで、すでに2度のウラジオストクでの働きを終え
られた。次の出発は、2016年1月3日である。この3ヶ月間で、長期(3年)の宗教ビザの申請を行う。ロシアで長く働く道が開かれるようにお祈りいただきたい。
 
 「私も宣教師になりたいビジョンを持っておりました」 そのような篤い願いを持ちつつも、日本での伝道と牧会に励んでこられた先生方を知っている。自分が宣教地に行く代わりに、宣教師を送り出し、宣教地を訪問し、帰国される先生方を迎える。日本でそのような立場を取る者も必要である。日本ホーリネス教団宣教局国外宣教の役割はそれである。
 

神の恵みのゆえに……

 

教団委員長 中西 雅裕
 

 「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」(Iコリント15:10)。
 
 ブラジル福音ホーリネス教団の宣教90周年記念式典に参加させていただきました。
 
 地理的に地球の対極にあると言われるブラジルと日本ですが、その関係は深く、日本から1908年に781人が「笠戸丸」に乗ってブラジルに渡ったのが日本からの移民の初めと言われ、今では160万人の日系人がこの国で生活しています。東京聖書学院で学んだ物部赳夫先生は、1925年に32歳でブラジルの地に『福音』を携え赴きます。交通の不便な時代、馬に乗るか徒歩で各地を回り伝道したと言います。あるときは、歩き疲れて空腹のあまり、道のわきにあった見ず知らずの家に「何か食べさせてください」と倒れ込んだと言います。そこで、先生は空腹をかかえて3時間待たされます。そして、出てきたのは白米のご飯でした。その家の主婦は、「日本人だからお米が良いでしょうと思って、畑に行き、稲を刈り、臼でついて炊きました」と言ったそうです。3時間!しかし、その時間はブラジルの人々の旅人をもてなそうとする心の優しさを表します。このようなブラジルの方々の間にあって命がけで伝道すること5年。先生は肝臓癌で召されます。日本からビジョンを与えられて、遠い国での5年は短いようにも感じます。しかし、その期間に日本から先生と同じようにブラジルの地に使命を持つ先生方が起こされ、ブラジルで救われた者が聖書学院に留学するのです。
 
 冒頭の御言葉は、先生の生涯の御言葉であったと言います。神の恵みによってなのです。先生の墓石には、「福音使 物部赳夫」と記されています。「福音使」!何と素晴らしい響きの言葉でしょう。この先生によって始められたブラジル福音ホーリネス教団は、現在国内10州に41の教会があり、伝道所、巡回地を持ちながら伝道のわざを進めています。この記念式典の会場には、ブラジルと日本の国旗の間を繋ぐように何百もの鳩の形をした折り紙が、虹のように飾られていました。今回、総会で日系ブラジル人秦野教会の上山マルシオ先生が按手礼を受けられ、12年間宣教師としてブラジルで奉仕された新谷聡一郎・聖美先生御夫妻が、日本へ帰国されるために「再派遣式」が持たれました。「日本からブラジルに福音が届けられた。今、ブラジルからも日本に福音が届けられている。」日本とブラジルの良き関係を目の当たりにさせていただきました。

霊なる主の働き

教団委員長 中西 雅裕

 
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(Ⅱコリント3:18)。
 
 「主から与えられた賜物は、主の働きのために用いることを、主が望んでおられることを聖会で教えられました。」
 
 ひとりの高校生が、証詞をしてくれました。「集会が始まる前、『急だけど来週キャンプに行かない? 奉仕者が足りなくて困っているんだけど』とさそわれました。スケジュール表を見ると、日程的には空いていました。『でも、この夏は他にも多くの予定が入っていて無理。その週は休みたいもん』と答えました。その後の集会で、『何が神さまに喜ばれるのか』と語られた御言葉に心がザワザワしました。主の語りかけにお応えすべきだと示されました。そして、祈って『行ってもいい』と返事をしました。翌日、そのキャンプの案内が来たときビックリしました。このキャンプを私は知っていたのです! 数日前に、キャンプのためにお祈りくださいと、メールでみんなに言っていた文章を、私は読んでいたのです。あぁ、私が神さまに導かれて行くことになったのは、このキャンプのことだったんだ! と。それを先生に伝えると『不思議な摂理に導かれて……がんばろうね。神さま、私たちに与えてくださった賜物を用いさせてください。土の器ですが、用いてください。と祈りつつ』 と返事が来ました。その集会で賛美した『土の器』という賛美の歌詞を思い出しました。
 
♪土の器――欠けだらけの私 その欠けからあなたの光がこぼれ輝く 土の器 ヒビだらけの私 そのヒビからあなたの愛があふれ流れる こんな私でさえも 主はそのままで愛してくださる だから今 主の愛に応えたい 私のすべてで 用いてください主よ 私にしかできないことが 必ずあるから
 
―あぁ、そうなんだなと思いました。」御言葉を聞いて、主に従っていく幸い。しかし、そこには犠牲も生まれます。それを喜んでさせていただけるのは、主の愛に応えたいからではないでしょうか。感謝だなぁと思いました。各地でもたれた聖会において、主を仰がせていただき、恵みの御座に導かれた方々のお証しが分かち合われています。御言葉をいただき、生き方を変えられていく「聖会」は、ホーリネス教団が大切にしていくべきものの一つです。老いも若きも、「聖会で主に取り扱われる」経験をおのおのがさせていただきましょう。

(「りばいばる」2015年10月号)

勝ち得て余りある

教団委員長 中西 雅裕

 
「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ八37〜39)。
 
 突然の病の宣告に動揺を覚え、「すべてを主におゆだねします、と毎日祈っていた祈りが急にできなくなってしまったのです。何と信仰のない者か、自分の弱さを痛いほど思い知らされました。こんな私のために祈ってください」。そんな祈祷課題が出されました。死を前にしたときに、私たちの心は震えます。あんなに愛していた主を疑い、従うことを平気でやめてしまうかもしれない自分に愕然とするのです。その姉妹の素直な告白に、その場にいた者たちは何と返答してよいかわからず、沈黙が続きました。そのときです。最長老の姉妹がこの御言葉を引き、祈り始められました。御言葉を聴きながら、みんなの心が主に向きました。「わたしたちを愛して下さった主」は、私の手を引いてくださる主です。祈れないとき、主の御前に連れ出してくださる主です。暗闇の中でも、しっかりと導びいてくださる主です。「わたしは確信する」。死ですらも、この御方の愛から私たちを引き離すことはできないと。それは、私たちサイドの力ではない、「わたしたちを愛して下さったかたによって」なのです。その愛の大きさに打たれ、今一度その愛の大きさを確認させていただき、みんなが心から「アーメン」と唱和しました。
 
 いたずらをした子どもが、謝るべきお父さんの前になかなかでられないときに、お母さんが手を引いて一緒にでてくれるように。真っ暗な夜道を、不安で不安でたまらないときに、暖かく力強いお父さんの手に安心を覚えるように。主は私たちの人生の中にあっても、どんな状況の中でも手を引いてくださるのです。ともにいてくださる以上の恵みを覚えます。主の手のぬくもりを我が身に感じるのです。祈った姉妹は帰り際に、祈祷課題を出した姉妹の肩に優しく手を置き、「私も祈るから。主に信頼しましょう。それ以上の幸いはないからね」と。敬老の日を前に、このような信仰の諸先輩が各教会にいてくださることを感謝します。

(「りばいばる」2015年9月号)

主なる神の福音を伝える

教団委員長 中西 雅裕

 
「願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン」(ローマ16:25〜27)。
 
 敬愛する一人の牧師先生から、「このところしきりに心にかかっていることがあります。教団の総会報告を隅々まで読むようにしていますが、とくに教勢報告を見ながら心が痛みます。少子高齢化の時代だから仕方がないのでしょうか? 今こそ福音を必要としている時はないのではないでしょうか? ……だからこそ、伝道しなければならないのではないでしょうか? やらなければならないことが多すぎて、手が回らないように思えて仕方がないのですが……」とのご意見をいただきました。隠退されたこの先生は、今もその置かれている地で、個人的な魂の重荷を求め労しておられます。伝道し続けておられるのです。一人の人が救われるという喜びに生きておられる先生の言葉には重みがあり、深く考えさせられました。
 
 わたしたちは今、真理のメッセージを躊躇することなく宣べ伝え、神への全き献身の道を歩んでいるでしょうか。どのような暗黒の時代であっても、徹底的な悔い改めをし、主に自らを明け渡し、神の愛に満たされ、罪の力が打ち破られる経験をした者たちには、生活に聖さと輝きが現れてくるのです。神の力と恵みと愛が溢れる、神の恩寵に生きられるのです。主に栄光を帰しつつ、喜んで主に従って生きる者たちとさせていただけるのです。その生き方は、この世にインパクトを与えます。そこに聖霊が働いてくださる時、主の救いあずかる人々が起こされていくのです。戦後70年を迎えるこの時も、私たちに与えられている「聖化」の恵みをしっかりと自分たちのものとしながら、祈りと御言葉に深く身をゆだねたいと思います。この夏、また秋、各地で聖会が開かれます。キャンプや修養会も持たれます。そこで主に取り扱っていただき、再献身をさせていただきましょう。福音はすべての人に必要であり、どんな人をも造り変える力があるのです。「救い主」なる御方とともに生きる、この喜びを手渡すために生きる者たちとさせていただきましょう。

(「りばいばる」2015年8月号)

主を待ち望む者は新たなる力を得……

教団委員長 中西 雅裕

 
「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:31)。
 
 ネヘミヤ・プロジェクトのためにお祈りとご協力をありがとうございます。時間をかけての歩みの中で、思いもかけない道に導かれたりする不思議さを味わっています。その中で、「このプロジェクトは神さまによって始められ、神さまによって導かれ、神さまの御心がなる働きなのだ」との更なる確信が与えられてきています。日本ホーリネス教団・OMS・東京聖書学院・東京学院後援会・東京聖書学院教会を中心とする実行委員会を、各部が支えます。またその働きを、全国の教会と信徒の方々が日々覚え、祈って支えてくださるのです。何と感謝なことでしょう。この日本の地において、多くの献身者を育成する学院の働きと、その献身者の働きを支える教団の働きが前進していくようにお祈りください。一つひとつの歩みの中で、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8〜9)ことを教えられ、「あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行く。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ。いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない」(イザヤ55:12〜13)との将来に目を向けさせられています。主のなさる最善を信じ、この御方に信頼しての一歩一歩の歩みです。目の前に見える課題に臆することなく、御言葉に従って主の喜ばれる正しい歩みをしていきたく願います。「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ五五11)と約束してくださっているのですから。この働きが、これからの日本の福音前進のために用いられ、主のご真実を証しする「主の証し(主の記念)」となっていけますように。

(「りばいばる」2015年7月号)

富ませる力のあるかたに守られて

教団委員長 中西 雅裕

 
「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」(Ⅱコリント9:8)
 
 4月17日からOMSの新総理になられたロバート・フィッツァレン師御夫妻が来日され、東京聖書学院チャペル、教会でのご奉仕などをしてくださいました。教団委員たちとも良き交わりをなし、これからの歩みのために祈り合うときがもてたことを感謝いたします。また、4月27日にはブラジル福音ホーリネス教団のアウグス梅木師との懇談のときをもちました。互いに託されている働きの場で、どのように助け合い、福音の前進のために労することができるのかを話し合うときでもありました。こうして折りあるごとに与えられる、主にある同労者たちとの交わりにより、心が燃やされます。それぞれの国の言葉を託され、そこで福音を語る主の証人とされている幸いを、心からありがたく思うのです。互いにイエス・キリストを仰ぎながら、その十字架の下に力を結集し、「協力」ができることもまた幸いです。6月15〜18日には、WH連女性教職・牧師夫人大会が韓国でもたれ、同じホーリネスの信仰を持つ韓国・台湾の方々との関係を深めます。また今年度は、教団から北米ホーリネス教団に一家族の牧師を派遣します。主なる神のもと、ともに協力していくのです。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1:8)。それぞれに、時代の中で困難さを覚えないわけではありません。しかし、その状況を打破してくださる力のある御方が私たちにはいてくださるのです。すべての必要を満たしてくださる、この力のある御方を信じて、ともに置かれている場で福音宣教に励む者たちでありましょう。
 今年、東京聖書学院に入学した一人の兄弟のお母さまが、新聖歌311番「いかに恐るべき」を賛美して彼を送り出しました。歌詞を味わってみてください。何があっても守ってくださり備えてくださる愛の神を信じて、さぁ出て行きましょう。「御翼の陰は安らかなり」。おのおの遣わされている地で。

(「りばいばる」2015年6月号)