胎児から成人までの一貫した教案誌 個人的な学び・家庭集会にも最適

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 このコーナーは聖書の光の子どもデボーション (子どもだけでなくてもいいのですけれど…)のページをそのまま載せてあります。自由にコピーしてフリガナをつけたり、文字の大きさを変えたり、言い方を変えたり、 みなさんのクラスの子どもたちに合わせてアレンジして使ってください。

 エリコには強く固い城壁が町の周りを囲んでいました。城壁の門は固く閉ざされ簡単に入れません。でも人が考えもしない神さまの方法と力で城壁は崩されていきました。

9月24日(日)ヨシュア五13〜15

 ヨシュアは天使に言われたとおり、履き物を脱ぎました。履き物を脱ぐということは、「神さまの言われることはなんでもその通りにします」という意味でした。神さま、私たちも心の履き物を脱ぎます。あなたの言われる言葉に従うことができますように。

9月25日(月)ヨシュア六1〜5

 「エリコの王と、強い兵士をあなたの手に渡す」。神さまの約束でした。それにしても城壁のあるエリコへの戦いの仕掛け方はとてもユニークです。祭司たちが角笛を吹き鳴らしながら、兵士たちと共にただ町の周りを1周するのです。そして7日目に7週し、角笛の音と人々の「うぉー」という声で城壁が崩れるというのです。え、それだけで?と思いますが、大切なことは神さまの方法を信じることです。

9月26日(火)ヨシュア六6〜11

 一日目、言われた通り、角笛を吹く祭司、契約の箱を担ぐ祭司、彼らをはさんで前と後ろに兵士たちが並び、ひたすら歩いて町を一周しました。何もしゃべらずに黙々と歩くのです。エリコの兵隊たちは、イスラエルが攻めてこないでただ周りを歩いているのを見て、なんだか怖く感じました。

9月27日(水)ヨシュア六12〜14

 イスラエルは、2日目、3日目、と毎日同じことを繰り返しました。歩いている兵士たちは、意味があるのだろうかと思ったかもしれません。けれども神さまを信じて歩き続けました。そして言われた通り6日間繰り返したのです。言われた通りにするということは、意外と難しいことです。神さま、あなたの約束の言葉を思い出して信じて進ませてください。

9月28日(木)ヨシュア六15〜21

 7日目、言われていた通り、町の周りを7周しました。そして祭司たちが角笛を吹きながらし、兵士たちが「うぉー」といっせいに大きな声をあげると、あの堅い城壁が崩れ落ちたのです。だれも触ったり、叩いたり、壊したりすることなく。これが神さまの方法でした。

9月29日(金)ヨシュア六22〜23

 ラハブのおかげでイスラエルは勇気を持ってエリコに攻め入ることができ、自分たちの地にすることができました。助けたラハブとその家族は救われ生かされました。

9月30日(土)ヨシュア六24〜27

 スパイをかくまうことは、ラハブにとってとても危険なことでした。けれども、彼女はイスラエルの神さまに信頼することを選びました。こうしてラハブとその家族たちはイスラエルの仲間に加えられました。

 1年前に花の種を蒔きました。説明書には、パラパラッと蒔くと書いてありました。春には花が咲く予定でしたが、残念ながら咲きませんでした。蒔き方かそれとも土がダメだったのか、何かがいけなかったのでしょうね。

10月1日(日)マタイ十三1〜9

 イスラエルでは、昔、種をまくとき、手に種をたくさんつかんで、それをぱあっといっぺんにまいていたそうです。そうすると、風に乗って種は畑以外のあっちこっちに飛んでいくことがありました。だから道端や石だらけのところ、茨の上などに落ちたのです。でもこのたとえ話は私たちとどう関係があるのでしょう。

10月2日(月)マタイ十三10〜15

 イエスさまの話を聞いた人たちは頭の中ですぐに種まきの様子を思い浮かべることができました。同じようにイエスさまは、みんながよく知っていることをたとえにしてお話し、聞いた人が自分はどうなんだろうと、考えるようにされました。そして聞いているうちにそれを話すイエスさまが救い主だとわかっていくのです。でもイエスさまのことをよく思っていないと、話を素直に聞くことができないので、聞いてもわからなかったのです。

10月3日(火)マタイ十三16〜17

 弟子たちはイエスさまが病気を治したり、悪霊を追い出したりするのを見ました。またイエスさまの話を聞いて、人も自分たちも変えられていくのを見ました。弟子たちは見たもの、聞いたものを素直に受け取って、イエスさまを救い主として信じました。

10月4日(水)マタイ十三18〜19

 イエスさまの言葉を聞いても、自分に関係ないと思っていたら、その言葉はなんの力にもならないで忘れてしまいます。道端に落ちた種が鳥に食べられてしまったように、悪魔がイエスさまを信じさせないように、わたしたちから御言葉の種を奪っていくのです。

10月5日(木)マタイ十三20〜21

 イエスさまの話は自分のためになると思って喜んで聞いても、イエスさまを信じることを反対されたり、バカにされたりしてやめてしまうことがあります。それが、石ころの地に蒔かれた種が、根がないので枯れてしまったということです。

10月6日(金)マタイ十三22

 イエスさまの話もいいけど、もっといいことや、ためになることは他にあると思っていると、それらが御言葉の邪魔をするのです。それで茨の中に蒔かれた種のように実を結ぶことができません。

10月7日(土)マタイ十三23

 イエスさまの言葉を聞いて歩むことは、うまく行っている時も、困った時も、神さまにどうしたらいいか聞いたり、感謝したり、悔い改めたりしながら生活することです。それがやがて豊かな実となるのです。

 私たちはすごく大事なものをなくしてしまったら、一生懸命探します。見つかったら、うれしいし、ホッとします。神さまにとって私たちはそういう大切な子どもたちです。

10月8日(日)ルカ十五1

 イエスさまは、話を聞きたいと思ってやってくる人は、どんな人のことも分け隔てなく、受け入れて話をし、親しくされました。その中には罪人と呼ばれる人、税金を多くとってズルをする嫌われ者もいました。でもイエスさまのところに来て、悔い改めて心を入れ替えたのです。

10月9日(月)ルカ十五2

 ファリサイ派の人や律法学者は、聖書の言葉を大切にして、神さまの掟を守って生きる人たちでした。それはとても良いことでしたが、そうできない人たちを見下すところがありました。そして自分たちが汚れないよう、見下した人たちと付き合わなかったのです。だからイエスさまのすることは、正しい人のすることではないと、受け入れられませんでした。

10月10日(火)ルカ十五3〜4

 迷子になっている羊は、探し出してもらわないと生きていけません。私たちも神さまから離れていたら、自分勝手に生きてしまいます。良く生きたくても自分の力ではできないで、傷つけあったり、だれかのせいにしたりして、心の中に喜びが無くなってしまいます。私たちには神さまの助けと救いが必要なのです。

10月11日(水)ルカ十五4〜7

 羊飼いはあきらめませんでした。そして見つけ出すと、近所の人、友だちにまで声をかけて見つかったことを喜びました。なんか大袈裟ですね。でも、私たちが悔い改めてイエスさまを信じたら、天国では神さまも天使たちもそれほどに喜んでくださっているのです。

10月12日(木)ルカ十五8〜10

 女の人にとって銀貨は一〇枚ないとだめなのです。今の結婚指輪のようなものでした。だから丁寧に見つけるまでさがしたのです。イエスさまにとって、いなくてもいい人はいません。立派な人はいてほしい、罪人だからいらない、そんなふうに思ってはおられません。

10月13日(金)ルカ十五8〜10

 イエスさまのもとに話を聞きに集まった人たちは、自分たち罪人は、イエスさまの救いが必要だと知っていました。でも自分は正しく生きていると思っていると、自分も罪人だとは分からずに、人のことばかり責めてしまいます。でもみんな悔い改めが必要なのです。

10月14日(土)ルカ十五8〜10

 イエスさまは、「自分は正しいから大丈夫。あの人は罪人だから救われなくて当たり前」と思う生き方ではなく、お互いに神さまに救っていただけてよかったねと、天の喜びを一緒に喜べる者になってほしいと思われたのです。

 隣人は、となりの人と書きますが私の近くにも遠くにもいるみんなのことです。

10月15日(日)ルカ十25〜28

 律法の専門家というのは、聖書の先生のことです。彼はイエスさまに永遠の命を受け継ぐ方法を聞きました。永遠の命は、生きている今も死んだ後も神さまとずっと一緒に生きる命のことです。でも彼は本当にそれを知りたかったのではなく、イエスさまをテストしたかったのです。

10月16日(月)ルカ十25〜29

 「神さまを心から愛し、隣人を自分のように愛すること」は、神さまが私たちに一番大切にしてほしいとことです。そのように生きるなら、永遠の命の中にもう生きているからです。律法の専門家は、聖書の言葉は知っていても、それに生きていないことに気づきました。でもそれを誤魔化そうとして、「では、私の隣人とはだれのことですか」と聞いたのです。

10月17日(火)ルカ十30〜32

 祭司もレビ人も倒れて死にそうになっている人を見ても、見ないふりをして行ってしまいました。どちらも神殿で神さまのために働く人です。急いでしなければいけないことがあったのかもしれません。まだ悪い人たちが隠れていて、自分も襲われるかもしれないと思ったのかもしれません。私たちも忙しくて、勇気もなくて、困っている人のことを見ないふりをして、通り過ぎていることがあるかもしれません。

10月18日(水)ルカ十33〜34

 サマリヤ人にとって倒れていた人は仲の悪いユダヤ人です。助けなくてもいい理由があったのです。でもサマリヤ人は、倒れている人を見て「かわいそうに」と思いました。そして優しく手当をしたのです。神さま、人のことを思いやる心と、その人のそばにいく勇気を私に与えてください。

10月19日(木)ルカ十35〜37

 サマリヤ人は見知らぬ関係のない人のために、手当をし、お金を出し、自分のできない分は宿屋の主人に任せて、良くなるまで面倒を見ました。どうしてそこまでしたのでしょうか。これはイエスさまです。私たちが救われて、永遠の命に生きるために、どこまでも面倒を見てくださるイエスさまの姿なのです。

10月20日(金)ルカ十35〜37

 「人に憐れみをかける」ことは、自分が上の人で、あの人は自分より下の人という気持ちで助けることとは違います。私たちはみんな愛や助けが必要なのです。それをイエスさまからたくさんいただいています。だから私たちもだれかのことを思いやり、支えることができるのです。

10月21日(土)ルカ十35〜37

 神さま、私があなたを心から信頼し、愛する人にしてください。私をイエスさまのように人を思いやり、支えることのできる人にしてください。

 忙しくてたまらないと、人の話をちゃんと話を聞けなかったり、忘れてしまったり、ミスが多くなったりすることがあります。忙しいという漢字は心を亡くすと書きますが、よくできていますね。

10月22日(日)ルカ十38〜42

 マルタはイエスさまを家にお迎えするためにいろいろ気を遣って考えたことでしょう。おいしいものを食べて喜んでもらいたい、寝心地の良いゆったりと眠れるベッドを用意してよく休んでいただきたい。そのためにできる限りの準備をし、お迎えしました。それはマルタのおもてなしの心です。

10月23日(月)ルカ十39

 おもしろい話や、好きな科目の授業は、長くても聞いていてワクワクして楽しいでしょう。この時代、先生の足元に座ってお話を聞くのは、男性がするものでした。女性がするのは、あまり良いことではありませんでした。でも妹のマリアは夢中になってイエスさまの話を聞きました。イエスさまもそれを喜ばれました。マルタがお世話でイエスさまをおもてなしするなら、マリアの話を聞くこともイエスさまへのおもてなしでした。

10月24日(火)ルカ十40

 忙しくて、マルタのおもてなしの心がだんだん乱れてきました。時間がなくて焦ってきたのかもしれません。夢中になってイエスさまの話を聞いているマリアの姿に、マルタは我慢ができなくなりました。でもマリアに言うのではなく、イエスさまがマリアを注意してくれたらいいのに!と思ってしまいました。こういうふうに思ったことはありますか?

10月25日(水)ルカ十38〜42

 やることがたくさんあって、忙しい時、どうして人を責めたくなるのでしょうね。私たちは自分だけではできないことがあるので、手伝ってもらうことは確かに必要です。神さま、忙しくて心に余裕がなくなって、人を責めてしまうことがないように助けてください。

10月26日(木)ルカ十41〜42

 マルタのようにお世話をする働きは大切です。でもやることがたくさんあると、私たちはイエスさまの言葉を聞くことも祈ることも後回しになってしまうことがあります。だから礼拝の時間をもつことは私たちの大切な時間なのです。

10月27日(金)ルカ十41〜42

 「必要なことは一つだけである。」とイエスさまは言われます。それは私たちが神さまを愛し、人を愛して生きることです。神さまを愛することは御言葉を聞いて従っていくことです。それは、人を愛していくことに必ずつながっていき、イエスさまに喜ばれる歩みとなるからです。

10月28日(土)ルカ十38〜42

 神さま、忙しくて心が穏やかでなくなったら、立ち止まってお祈りし、私の心を神さまに向けることができますように。

 世界には神さまにお祈りする人がたくさんいます。それなのに、神さまは一人一人のお祈りをちゃんと聞いてくださいます。すごいですね。

10月29日(日)ルカ十八1

 お祈りしてすぐに答えられたらうれしいですね。でも祈ったのに、変わっていないとか、どうしたらいいかわからないままとか、答えがないと思うことがあります。すぐに祈った通りにならないこともあります。そのうちに結局祈ってもだめだとガッカリして祈るのをやめてしまうこともあります。だからイエスさまは私たちに、お祈りはあきらめないで、ずっと祈り続けるようにと言われました。

10月30日(月)ルカ十八2〜6

 やもめは夫が先に死んでしまった人のことです。聖書の時代、イスラエルでは夫が死んでしまった後、女性が自分で生活することはとても大変なことでした。そんなやもめが、だれかから苦しめられていたのです。だから彼女は裁判で、自分を守ってほしいとお願いしました。彼女は裁判官が、自分のことを無視しても、あきらめませんでした。お願いし続けたら、いつかは助けてもらえると思ったのです。

10月31日(火)ルカ十八2〜6

 裁判官がやもめのために裁判をしてあげようと思ったのは、やもめのことを思いやったからではありませんでした。「裁判してください。私を守ってください」と毎日、毎日やってきてしつこいので、うるさくてたまらなかったのです。やもめに面倒かけられないようにするために、正しい裁判をしないではいられなくなったのです。

11月1日(水)ルカ十八7〜8

 正しい心で裁判官をしていない人でも、ついにはやもめのしつこさに負けて、正しい裁判をするとしたら、まして私たちを愛してくださる神さまはどうでしょう。神さまは祈り続ける私たちの祈りを聞かないはずはないとイエスさまは言われました。だからあきらめないで、信じて祈り続けることが大切なのです。

11月2日(木)ルカ十八9〜12

 ファリサイ派の人は、感謝のお祈りをしています。でも言葉は感謝しますといっても、自分のことを自慢しているし、人を見下しているので、いい感じはしません。私たちは自分が正しいと思っていると、人と比べて、人を見下して安心していることがあるのです。

11月3日(金)ルカ十八13

 徴税人は顔を上げることができません。自分の罪を知っていて、神さまに憐れみと、ゆるしをいただかなければならないことを知っていたからです。

11月4日(土)ルカ十八38〜42

 私たちは、神さまの愛と恵みによって多くをいただいています。でもそれを忘れてすぐに高慢になってしまう者たちです。神さま、私を憐れんでください。

 私たちには人のことをとやかく言えないことがいっぱいあります。

11月5日(日)ルカ六37

 人を裁くというのは、あなたは悪い、あなたは悪くない、と決めることです。私たちはみんな自分が正しいと思っているので、人のことをよく知らないのに、決めつけたり、裁いたりしてしまうことがあります。

11月6日(月)ルカ六37

 間違っていることや、悪いことをしている人に、「それはいけないことだよ」と伝えることは大切です。でも、ただ厳しく言ったり、罰を与えたりしてもなかなか変わらないし、変われないものです。私たちは人を傷つけたり、困らせたりしてきましたがゆるされてきました。まずはいつもそのことを思い出したいですね。神さま、私はあなたにも人にもたくさんゆるされてきました。そのことをいつも思い出せますように。

11月7日(火)ルカ六38

 与えなさいと言われても、何をだれにあげたらいいのでしょう。お金もそんなにないし、と思うかもしれません。私たちが人に差し出せるのは、神さまを信じてよかったよ、と神さまを紹介することや、イエスさまにならってだれかに親切にすることもそうでしょう。あふれるほどの神さまの愛が、私たちにそれをできるように助けくださいます。神さま、私に優しい心と、神さまを伝える勇気を与えてください。

11月8日(水)ルカ六39

 私たちは、自分のことがよくわかっていないのです。自分は優しい方だとか、怒らない方だとか思っていても、そうできない時に、自分の保とうの姿に気づきます。だから自分が正しいと思って、だれかを裁いたり、こっちが正しいんだよと教えたりしても、その人と迷子になったり、見えない穴に落ちたりしてしまうかもしれないような者なのです。

11月9日(木)ルカ六40

 イエスさまのすばらしさを超える人はいません。でもイエスさまにならって歩むなら、イエスさまのように、人を愛して、ゆるしていく人にされていきます。

11月10日(金)ルカ六41

 不思議なことに、私たちは人の悪いところが気になります。「あんなことして、いけないんだ」と。だからすぐにだれが悪いとかあなたが悪いとか言いたくなります。でも自分が同じようなことをしている時は、「まあ、いいか」と思うものです。本当はあなたも同じだよと言われるような私たちなのです。

11月11日(土)ルカ六38〜42

 自分では自分のことがなかなかわかりません。自分はこれでいい、自分は問題ないと思ってしまいます。悪いのはあの人だと思う時、この御言葉を思い出したいですね。イエスさま、私の目にある塵を取り除いてください。そして私に自分のことが見えますように。

 神の国ってどんなところでしょう。人が神さまを心から信頼しているところ、人と人が愛し合い、ゆるしあっているところなのです。

11月12日(日)ルカ十八15〜17

お母さんやお父さんが、赤ちゃんを連れてイエスさまのところに集まりました。「イエスさま、私の赤ちゃんに触って祝福してください。」イエスさまに触ってもらうと、祝福が受けられるのです。イエスさまは神の子だからです。イエスさまの祝福は、良いと思えることも良くないと思えることも、私たちを成長させる力にしてくださいます。

11月13日(月)ルカ十八15〜17

 「こらこら、イエスさまは忙しいんだ。赤ちゃんなんて連れてきて、ダメじゃなか。イエスさまのお仕事の邪魔だ。」弟子たちは赤ちゃんを連れてきた人たちを叱りました。イエスさまの時代の大人は、子どもよりも、大人の方が大事だと思っていました。だからあまり相手にしてもらえなかったのです。

11月14日(火)ルカ十八15〜17

 弟子たちはダメと言いましたが、イエスさまはみんなを「おいで」と呼ばれました。そして子どもたちが来ることを喜ばれたのです。実はイエスさまの邪魔をしていたのは、弟子たちでした。イエスさまは子どものことを、そしてイエスさまのところに来る人はだれでも大切にしてくださいました。

11月15日(水)ルカ十八15〜17

 神の国は天国のことです。天国は立派な人や良いことたくさんした人が入れるように思えます。でもイエスさまは、子どものような者たちのものだと言われました。どういうことでしょうね?

11月16日(木)ルカ十八15〜17

 赤ちゃんや小さな子どもたちは、大人に連れて行ってもらわないと、自分ではイエスさまのところにはいけません。そして子どもは大人が一緒に生きてくれないと一人で生きていけません。そのように、私たちもイエスさまが必要なのです。だから神の国は、「イエスさま、私はあなたが必要です。祝福してください」とイエスさまのもとにいく人の国なのです。

11月17日(金)ルカ十八15〜17

 私は悪い子だからだめだとか、イエスさまのところには行けないと思うかもしれません。でも「イエスさまあなたを信じます。あんなことをしてしまいました。ごめんなさい。私の罪をゆるしてください。」とイエスさまに悔い改めるなら、イエスさまはゆるしてくださいます。そしてそこから神の国が始まっていくのです。

11月18日(土)ルカ六38〜42

 イエスさまを信じると、神の国が見えてきます。あの人もこの人も神さまに愛されているんだなと知ったり、ケンカ中の人と仲直りできたりすると、神の国に生きていることがわかるからです。

 イエスさまを信じるなら、私たちは神の国へ導かれていきます。それはイエスさまの愛と恵みです。だから感謝の思いで、私たちのできる愛の行いを、いろいろな人たちとお互いにしていきたいですね。

11月19日(日)マタ二五31〜46

 今の世界はやがて終わりがやってきます。その時イエスさまがこの世界の本当の王として来られ、世界を新しくされます。イエスさまの前には死んだ人も生きている人もみんな集められます。そして「あなたはこんなふうに生きたんだね。」とイエスさまによって人生を振り返る時がやってくるのです。

11月20日(月)マタ二五34〜40

 右側にいる人たちは、どんなふうに生きたのでしょう。新しい世界の王さまに「あなたはあの時にもこの時にも私を無視しないでいてくれたね。親切にしてくれたね」と言われますが、思い出せませんでした。それはその人のことを王さまだとは思わないで、ただだれかのためにした小さな優しい行いだったからでしょう。だれかのことを思いやって、自分のできることをした生き方でした。

11月21日(火)マタ二五34〜40

 右側の人がだれかにした愛の行動を、王であるイエスさまは「この一番小さな者にしたことは、私にしてくれたことなんだよ。」と言って喜ばれました。私たちの小さな思いやりや親切を、イエスさまが「ありがとう」と受け取ってくださるのです。

11月22日(水)マタ二五41〜46

 私たちは右側の人たちのように言ってもらえるのか、不安になります。「あなたはあの時にもこの時にも、私にしてくれなかったね。」と言われた人たちは、自分がしていないことに気づいていないのです。私たちは、本当は自分勝手で人を思いやることのなかなかできないことを覚えておきたいと思います。

11月23日(木)マタ二五41〜46

 「最も小さい者」とはだれのことでしょうか。私たちは、自分より弱い人のことだと思います。でもイエスさまが言われる小さい人は、あなたも私もみんなそうなのです。私たちはイエスさまの助けなしには生きられない「小さい者」たちなのです。

11月24日(金)マタ二五31〜46

 イエスさまこそが、私たち「小さな者」たちに、飢えている時食べさせ、渇いている時に飲ませ、私たちを愛して命を与えてくださいました。私たちの罪のために十字架で死んで、死からよみがえって、私たちが神の国で生きる命を与えてくださったのです。

11月25日(土)マタ二五38〜42

 イエスさまを信じると、私たちの心にイエスさまの愛が与えられます。その愛によって、小さな者同士である私たちが、お互い愛し合い、ゆるし合い、助け合うようにされていくのです。

 今、何か不安だなあ、こわいなあと思うことはありますか。そういう時どうしたら心配がおさまって落ち着くのでしょうね。

11月26日(日)ルカ十二4

 イエスさまの言われる「体は殺せても」とはどういうことでしょう。イエスさまは、反対する人たちに殺されるのです。でもそこまでです。イエスさまが神さまによって死から復活することはだれにも止められません。そして復活されたイエスさまを信じる人が出るのも止められないのです。

11月27日(月)ルカ十二4

 弟子たちはイエスさまが十字架で死なれた後、自分たちも逮捕されるかもしれないと不安と恐れでいっぱいでした。でも彼らは恐れで終わりませんでした。復活されたイエスさまに会い、イエスさまが天に帰られた後は、聖霊が注がれて、勇気と力をいただいて変えられました。

11月28日(火)ルカ十二5

 私たちには不安や恐れがあります。殺されることになったら、とてもこわいです。苦しめられることもこわいです。でも本当におそろしいことは、救われないことです。天国に行けないことです。神さまは愛のお方です。でも罪を裁くお方です。裁かれて地獄に入れられることは恐ろしいことです。だからイエスさまが十字架で死んで神さまの裁きを受けてくださったのです。私たちがイエスさまを心から頼っていく時、恐れを平和な心にしていただけます。

11月29日(水)ルカ十二6〜7

 イスラエルでは、雀が食べられていました。雀は、神さまにささげられる動物ではないので、とても安く買うことができたそうです。そんな5羽セットで売られる雀ですが、その一羽さえも神さまは忘れておられないのです。なんとすごいことでしょうか。

11月30日(木)ルカ十二6〜7

 私たちは自分の髪の毛の数を知りません。でも神さまは、私たちの髪の毛の数まで知っていてくださいます。つまり私の全てを知っていて愛してくださっているのです。スズメの一羽も忘れない神さまは、スズメよりももっとずっと、私たちを心にかけてくださっているのです。

12月1日(金)ルカ十二6〜7

 私たちには、不安になること、恐れることはいつでも出てきます。でもイエスさまは「恐れることはない」と言われます。私たちを確かに支えて守っていてくださるからです。神さま、すぐに不安になる私たちの心に平安を与えてください。

12月2日(土)ルカ十二6〜7

 私たちは神さまに、自分の願い通りにかなえてくれる便利屋さんをであることを期待しているかもしれません。でもそうではないのです。偉大な神さまが、小さな私たちを忘れないでいてくださることを心からおそれ敬いたいですね。

 今週からアドベントです。クリスマスを楽しみに待つ時ですね。「イエスさま、生まれてくださってありがとうございます。もう一度イエスさまがきてくださることを信じて待っています」と思う時です。

12月3日(日)イザヤ七1〜2

 北イスラエルとアラムが協力し合う約束をし、手を組んで仲間になったことは、ユダの王アハズも、国の人々もみんな、とてもショックで心が揺れ動きました。今回は失敗したけれど、また次に二つの国が一緒になって攻めて来たら、負けてしまうかもしれません。だからみんなはとても不安になりました。

12月4日(月)イザヤ七3〜7

 不安と恐れでいっぱいのアハズ王に、預言者イザヤは言いました。「神さまは、静かにしていなさい。恐れてはならない。あなたが心配していることは起こらないと言われました。」なんとはっきりした希望の言葉でしょうか。私たちもああなったらどうしようと心配でたまらないときに、これはとても励まされる言葉です。神さま、あなたの「そのことは起こらない」と言われる言葉をどうぞ素直に信じることができますように助けてください。

12月5日(火)イザヤ七8〜9

 二つの国が協力すれば、力が強くなって、襲ってきたらあっという間にやられてしまいそうです。でも、神さまはどちらの国の王のことも、将来のことももうご存じなのです。北イスラエルは65年後にはなくなると言われました。大事なことはアハズが、「今」信じてしっかりと立つことでした。

12月6日(水)イザヤ七10〜12

 アハズは神さまを信じていなかったので、しるしを求めませんでした。自分が信じやすい偶像を信じていました。神さまの言葉がどんなにすばらしくても彼の心に響きませんでした。

12月7日(木)イザヤ七13〜17

 聞こうとしないアハズを神さまはあきらめませんでした。「聞きなさい、イスラエルよ。」と声をかけられるのです。私たちも、アハズのように、なかなか聞くことができません。聞けるようになりたいですね。神さま、どうぞ私があなたの言葉をちゃんと聞けますように。

12月8日(金)イザヤ七13〜17

 神さまの「信じなさい。大丈夫だから」というしるしは、インマヌエルという名前の赤ちゃんが生まれることでした。赤ちゃんがまだまだ小さい時に、二つの国は滅びると神さまは言われました。そして本当にアッシリアに滅ぼされてしまいます。ユダの国は守られたのです。

12月9日(土)イザヤ七13〜17

 インマヌエルはイエスさまのことです。「神さまが私たちと共にいてくださる」ことが私たちにわかるように、生まれてきてくださいました。それがクリスマスです。

 クリスマスはワクワクします。楽しい時を想像して待ち遠しくなりますね。でもそういう時を過ごせない人もいるかもしれません。みんながクリスマスの本当の意味を知って、心に喜びが与えられますように。

12月10日(日)マタイ一18〜19

 ヨセフは悩みました。婚約中のマリアのお腹に赤ちゃんがいることを知ったのですが、それが神さまの力によって与えられたことを知らなかったからです。まだ二人は結婚していなかったので、ヨセフの子どもではありませんでした。マリアとお腹の子どもを守るためにみんなに知られないようにして別れようと考えました。

12月11日(月)マタイ一20

 神さまはそんなヨセフに、天使を通して言われました。「マリアのお腹の子どもは聖霊によって与えられました。何も心配しなくても大丈夫だから、マリアと結婚しなさい。」ヨセフの悩みは吹き飛びました。神さまはなぜヨセフが悩む前に伝えなかったのでしょうか。きっとヨセフがマリアとお腹の子どものことをよく考えることが必要だったのでしょう。

12月12日(火)マタイ一21

 生まれてくる子どもは男の子でした。名前も決まっています。イエスです。「主は救い」という意味の名前です。神さまは私たちを救ってくださるお方だとわかるように、神の子イエスさまが人となって生きてくださるのです。私たちが自分の力ではどうすることもできない罪から救ってくださるのです。

12月13日(水)マタイ一22〜23

 先週のイザヤの言葉「インマヌエル」が、ここでもう一度出て来ています。イザヤが、救い主が来られると預言していたことが、イエスさまによって本当になりました。神さまが私たちと共にいてくだいます。そして約束したことはちゃんとその通りに果たしてくださるのです。

12月14日(木)マタイ一24

 ヨセフは夢から覚めると、もう迷いませんでした。すぐにマリアと結婚して、マリアとお腹の子どもを大切にしました。神さまの言葉を信じて従いました。神さま、私たちも神さまの言葉をいただいたら、信じて従うことができますように。

12月15日(金)マタイ一23〜25

 マリアはヨセフとの夫婦の関係ではなく、神さまによってイエスさまをみごもりました。イエスさまは罪のない神の子だからです。でもヨセフとマリアはイエスさまを自分の子どもとして受け入れて、二人で神さまに従いました。

12月16日(土)マタイ一25

 ヨセフは赤ちゃんにイエスと名前をつけました。「イエス」は、イスラエルでは、最初に生まれた男の子によくつけられた名前でもありました。長い間みんなが救い主を待っていたからです。そして本当に来てくださいました。 

 いよいよあと1週間でクリスマスです。世界で初めのクリスマスは動物の世話をする家畜小屋で起こりました。動物のにおいや鳴き声がしたでしょう。動物たちは赤ちゃんの誕生を見守っていたのですね。

12月17日(日)ルカ二1〜7

 イエスさまの時代のユダヤ人はローマという大きな国に支配されていました。イエスさまが生まれる頃、ローマの皇帝は、ローマに住む人々の数やどこにどれだけ住んでいるかなどの調査をしていました。そのためにナザレに住んでいたヨセフとマリアは、ベツレヘムへ登録にいかなければなりませんでした。このことに意味がありました。

12月18日(月)ルカ二1〜7

 ナザレに住んでいたヨセフとマリアは、自分たちが考えてベツレヘムにいったのではなく、ローマからの命令で、ヨセフの故郷の町に帰ることになりました。でもこうして、旧約聖書で、救い主はベツレヘムで生まれると言われていたことが実現しました。神さまが皇帝を通して働いておられたのです。

12月19日(火)ルカ二1〜7

 ヨセフの先祖はイスラエルの2代目の王さま、ダビデでした。ダビデはイスラエルの国でとても愛されて、尊敬されていた王さまです。そして神さまも、ダビデが心から神さまに信頼して従ったので、ダビデの子孫から救い主が生まれると約束されました。そして約束された通り、ヨセフの子どもとして救い主イエスさまが生まれたのです。

12月20日(水)ルカ二6〜7

 ヨセフとマリアは、子どもが生まれる前にナザレに帰れると思っていたかもしれません。「ところが、彼らがそこにいるうちに」赤ちゃんの生まれるときが来てしまいました。でもお部屋はもう満員で泊まれませんでした。

12月21日(木)ルカ二6〜7

 イエスさまは神の子なのに、宮殿や立派な建物ではなく、動物の匂いのする家畜小屋でお生まれになりました。どんな人のところに来てくださるお方として、とても低いところから人間として始めてくださいました。

12月22日(金)ルカ二1〜7

 イエスさまのベッドは、家畜の餌を入れる飼い葉桶でした。まさか救い主が動物たちの小屋で生まれたとはだれも想像しないことでした。イスラエルの人々は長い間、救い主が来るのをずっと待っていました。でもだれも思いつかないような場所で、静かにイエスさまはお生まれになりました。

12月23日(土)ルカ二1〜7

 救い主は、イスラエルの本当の王さまとなるお方です。でもヨセフは王ではありませんでしたし、二人は貧しい普通の夫婦でした。でもイエスさまが育つのに、この二人の家で生まれることが一番安全で、またふさわしい家だったのでしょう。

 クリスマスおめでとうございます。イエスさまは静かにお生まれになりましたが、天でも喜びがあり、地上でもお祝いに駆けつけた人たちがいました。

12月24日(日)ルカ二8〜12

 イエスさまの誕生を知らされたのは、羊飼いたちでした。知らせてくれたのは、天使です。そこが地上の王さまとは全く違います。救い主の誕生のお祝いに招かれた羊飼いたちは、世の中ではあまり人々から相手にされない人たちでした。でも彼らが喜びの知らせを最初に聞きました。

12月25日(月)ルカ二8〜12

 羊飼いたちが聞いたのは、すべての人に与えられる大きな喜びの知らせでした。みんなが待っていた救い主がとうとうお生まれになったからです。すべての人ですから、今の私たちにとっても大きな喜びです。イエスさまが私たちを救ってくださり、平和と希望に生かされる喜びです。

12月26日(火)ルカ二8〜12

 救い主を探すのに、羊飼いたちにはとてもわかりやすいしるしでした。飼い葉桶に寝ている赤ちゃんは、イエスさましかいないからです。そして飼い葉桶のあるのは、家畜小屋です。そこなら、貧しい羊飼いたちもだれにも邪魔されないでいって、お祝いにいくことができます。きれいな宮殿だったら入れてもらえなかったでしょう。

12月27日(水)ルカ二13〜14

 羊飼いたちは、野原で、天使の軍勢の大合唱を聞きました。イエスさまの誕生のお祝いの大合唱です。どんなにすばらしい歌声だったでしょう。神さまが救い主を地上に送られたことは、天使たちにとっても喜びでした。

12月28日(木)ルカ二15〜16

 羊飼いたちは、天使の言葉を信じて救い主に会いに走り出しました。そして天使の言われた通りに、飼い葉桶に寝ている赤ちゃんに会うことができました。「このお方が救い主なんだ。自分たちのような貧しい立派でもなんでもない羊飼いのためにも来てくださったんだ。」彼らは本当にうれしく思いました。

12月29日(金)ルカ二17〜19

 ヨセフとマリアは突然お祝いに駆けつけた羊飼いに驚いたでしょう。それだけでなく、天使が教えてくれたからやってきたんだと聞いて、ますますびっくりしたでしょう。でも生まれる前から、自分たちも天使から救い主のお父さんとお母さんになると言われていたことを、思い出して心に受けとめました。

12月30日(土)ルカ二20〜21

 羊飼いたちの帰り道は、神さまへの賛美であふれていました。天使の行った通りだったこと、自分たちは救い主に会えたんだという喜びがいつまでもいつまでも神さまへの感謝と賛美になりました。私たちのクリスマスも、神さまの御名が崇められ、賛美であふれますように。

いよいよ今年も終わりです。この一年はどんな年でしたか。新しい年も神さまに信頼して、期待して歩んでいきたいですね。

12月31日(日)ルカ二22〜35

 ヨセフとマリアはイエスさまを連れて神殿に来た時、シメオンに出会いました。シメオンは赤ちゃんであるイエスさまを見て、「救いを見た」と神さまをたたえました。神さまが約束を果たしてくださったので、もう救いが始まっていると信じ喜んだのです。

1月1日(月)ルカ二22〜35

 あけましておめでとうございます。今年も神さまの恵みが豊かにありますように。
イエスさまに出会って語るシメオンの言葉は、両親がイエスさまのことを、改めて救い主であることを心に留めさせる機会となりました。

1月2日(火)ルカ二41〜45

 迷子になったことはありますか。そういう時、とても不安になりますね。お祭りの帰り道、ヨセフとマリはイエスさまがいないことに気づきました。」二人とも心配で仕方がなかったでしょう。探しながらエルサレムへ戻りました。でも心配することはなかったのですが、それがわかりませんでした。

1月3日(水)ルカ二46〜47

 ヨセフとマリアはイエスさまを見つけることができましたが、その様子にびっくりしました。イエスさまが自分よりもずっと年上の聖書の先生たちと質問したり、答えたりしていたからです。イエスさまはとても賢い子どもだったのですね。周りの大人たちも感心していました。

1月4日(木)ルカ二48〜 49

 マリアは、「どうしてこんなことをしたの?一緒に帰らないでいなくなっちゃうから、心配したじゃない。探したのよ。」と言いましたが、イエスさまもまたどうして両親が探したのか不思議でたまらないようでした。イエスさまは神の子だから父の家である神殿が、イエスさまの家でもあるのです。だから何も心配しなくて良いのです。

1月5日(金)ルカ二50

 お父さんもお母さんも、イエスさまの言っていることがよくわかりませんでした。生まれる前に救い主となる神の子だと聞かされていましたが、だから神殿にいるだろうとは思いつきもしなかったのです。でもイエスさまは、この時12歳でしたが、自分が神の子救い主であることを理解していました。

1月6日(土)ルカ二51〜52

 イエスさまは、自分は神の子だからもう両親の家には帰らないとは言われませんでした。家に帰って今まで通り、普通の子どもと同じように、二人の子どもとして、両親の言葉に聞いて、従って歩まれました。神の子ですが、人の子どもとして成長していく道を飛ばすことはありませんでした。