胎児から成人までの一貫した教案誌 個人的な学び・家庭集会にも最適

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 このコーナーは聖書の光の子どもデボーション (子どもだけでなくてもいいのですけれど…)のページをそのまま載せてあります。自由にコピーしてフリガナをつけたり、文字の大きさを変えたり、言い方を変えたり、 みなさんのクラスの子どもたちに合わせてアレンジして使ってください。
 


 
あなたはどんな時、自分はずるいなあとか、罪人だなあと感じますか。私たちはどんな時、自分の心の醜さに気がつくのでしょう。とにかく私たちは自分の罪に気づくからこそ、「イエスさま、ゆるしてください」とイエスさまに頼ることができるんすね。
1月5日(日)ルカ五1
イエスさまは湖の前に立っていました。そこへ大勢の人が押し寄せてきました。みんなイエスさまの話を聞きにやってきたのです。イエスさまの言葉が「神の言」だったからです。聞いていると、自分は神さまに愛されているんだなあと感じたり、希望がわいてきたりしたのです。
1月6日(月)ルカ五2~3
 イエスさまは、漁を終えて片付けをしていたペテロの舟にのせてもらい、舟の上からお話をしました。ペテロは思いがけず、だれよりもイエスさまの一番近くで神の言葉を聞きました。
1月7日(火)ルカ五4~5
 ペテロは漁師のプロです。そして今日は一晩中漁をして一匹も取れなかったのです。でも「お言葉ですから」と言って網をおろしてみました。一匹も取れなかったからもう今日は無理なんじゃないかな、という思いよりも、イエスさまの言うとおりにしてみようと思わせる力のある言葉だったのです。
1月8日(水)ルカ五6~7
魚は網が破れそうになるほどとれました。仲間に頼んで助けに来てもらっても、2つの舟が沈みそうなほどの量でした。だれもそこまで予想も考えもしませんでした。「どうして?なんで?」不思議だし、びっくりでした。でもそれがイエスさまの力でした。
1月9日(木)ルカ五8~9
 ペテロは「やった。大漁だ」とは喜べませんでした。普通だったら夜に漁はするものだとか、今日はもう無理だとか、イエスさまはそういう人が思う当たり前を超えたお方だったのです。イエスさまの力に自分は到底かなわないことを感じました。ペテロは自分がとても罪深い人間で、イエスさまのそばにはいられないと感じました。
1月10日(金)ルカ五10
イエスさまは言われました。「恐れることはない。人間をとる漁師になるのだ」。イエスさまは罪人のペテロをだめだと言われませんでした。罪をゆるすお方として、ペテロと仲間たちを、群衆をイエスさまと引き上げる働き人にされました。
1月11日(土)ルカ五11
 ペテロたちはもう一度舟を引き上げました。そして今度は「いっさいを捨てて」イエスさまに従いました。どうしてそんなことができたのでしょう。イエスさまの言うとおりにすることがすばらしいことだと知ったからです。イエスさまの語る神の言葉が、本当ですばらしいと知ったからです。
 
だれかに悪口を言われたら、傷つきます。反対に誉められたらすごくうれしくなります。言葉は目に見えないのに、私たちを元気にしたり、動かしたり、悲しくさせたりする力がある不思議なものですね。ましてイエスさまの言った言葉は、本当になるのですから、すごいです。
1月12日(日)ルカ七1~3
ローマ軍隊の百人隊長(百卒長)はユダヤ人ではありません。普通ユダヤ人は外国人とは仲良くしないのですが、カペナウムの町のユダヤ人たちは、この隊長を特別に大事にしていました。だから百人隊長の願いを、代わりにイエスさまにお願いをしに来るぐらいでした。
1月13日(月)ルカ七4~5
 人の「ねうち」とは何でしょうか。多くの人はあれができるから、こんなことをしたから、あの人は立派な「ねうち」のある人だと思うかもしれません。カペナウムのユダヤ人たちも百人隊長が「ユダヤ人を大事にし、礼拝堂まで建てた人」だから、イエスさまへのお願いを聞いていただくにふさわしい人だと言いました。
1月14日(火)ルカ七6~7
 でも百人隊長は自分のことを、イエスさまに会うにもお迎えするにも「ねうち」も資格もないと言いました。自分が何かをしたから、お願いを聴いてもらうのに、ふさわしくなったとは思っていなかったのです。百人隊長には、自分に価値があるからお願いできるという考えはありませんでした。
1月15日(水)ルカ七7
百人隊長は、イエスさまが言うとそのとおりになることを信じていました。イエスさまの言葉には力があるということです。だから「ただ、お言葉をください」と言ったのです。それでもう僕は絶対に治ると信じていました。
1月16日(木)ルカ七8
 「権威」というのは、自分の言ったとおりにさせることができる力のあることです。たとえば、百人隊長の下にいる百人は、隊長の言うことを何でも聞いて、言うとおりにしなくてはなりません。それと同じように、天の権威を持っているイエスさまだから、イエスさまが言えば、病気でもなんでも言うことを聞くと、百人隊長は信じていました。
1月17日(金)ルカ七9
イエスさまは、百人隊長が心からイエスさまを信じ頼っていることを感心され喜ばれました。ここまで信じ切っている人はなかなか見たことがないとまで言われました。
1月18日(土)ルカ七10
 百人隊長が信じたとおり、僕は元気になりました。イエスさまは、近くにいてもいなくても、触っても触らなくても、神さまの力を行ってくださいます。「ただお言葉をください」と信じる心一つでいいのです。お言葉を信じるだけでいいのです。
 
自分の心が悩みでいっぱいになると、私たちは不自由です。それをだれかに話してもどうしようもないこともあります。でも私たちはイエスさまに頼ることができます。イエスさまは助けてくださいます。
1月19日(日)ルカ八2628
ゲラサ人の地は外国です。そこで出会った人は悪霊にとりつかれていました。悪霊にとりつかれた人がイエスさまにひれ伏しました。悪霊はイエスさまが怖かったのです。自分よりも力がある偉大な神の子だと知っていたからです。人にとりついて苦しめる自分たちをイエスさまが懲らしめることがわかっていたからです。
1月20日(月)ルカ八29
 ゲラサの人々は、悪霊にとりつかれた人を鎖と足かせでつないで押さえつけておこうとしました。けれどもそれを断ち切ってしまうので、みんなからとてもこわがられていました。そんな悪霊でもイエスさまにはかなわないし、イエスさまの命令にはさからえませんでした。
1月21日(火)ルカ八3031
 レギオンは5千~6千人もいるローマの大軍団のことです。一人の人の中にものすごくたくさんの悪霊が入っていたのです。悪霊たちは、居心地のいい人間の中から追い出されて、底しれぬところへ行かされることを恐れました。悪霊にとっては牢獄のようなところだからです。
1月22日(水)ルカ八32~33
悪霊が入り込んだ豚の群は、がけから湖へ落ちてみんなおぼれ死んでしまいました。悪霊は豚に入り込んで湖の中に行けば、イエスさまから逃げられると思ったのかもしれません。けれどもイエスさまの力の届かないところはありません。
1月23日(木)ルカ八3436
 町の人は、悪霊がいなくなって、もとに戻った男の人をそんなに喜びませんでした。それよりも飼っていたたくさんの豚が死んでしまったのでとても損をした、大変なことになったと思いました。失ったたくさんの豚を取り返す以上の恵みをあふれさせるイエスさまに助けをもとめることはしませんでした。
1月24日(金)ルカ八37
ゲラサの町の人々は、イエスさまに出ていってほしいとお願いしました。イエスさまの力に、ある人は、自分を変えてくれるかもしれないと期待します。でも期待しない人もいます。変わりたくないしこのままがいいと思うからです。
1月25日(土)ルカ八3839
 たくさんの悪霊にしばられていた男の人は、イエスさまによって救われました。自由にされてどんなにうれしかったことでしょう。家族に会えます。人間らしく生活ができます。彼は、自分にも、他のだれにもどうすることもできなかった苦しみから助けてくださったイエスさまのことを町中に伝える人になりました。
 
一人で行くよりだれかと一緒だととても心強くなります。イエスさまのことを伝える伝道も、一人より二人や仲間と行くのがいいですね。信じる私たちもイエスさまを伝える人の一人です。
1月26日(日)ルカ十1~4
私たちは、教会に誘ってもなかなか来てもらえないことが多いように思います。でもイエスさまの目にはイエスさまを求めている人がたくさん見えていて、収穫は多いと言われました。働き人もまだまだ必要です。神さま、イエスさまを知らない人をあなたのもとへ連れていけるように、私もお用いください。
1月27日(月)ルカ十5~7
 イエスさまのことを伝える私たちは、だれかに平安と平和も持っていきます。平安は、神さまに自分は愛されていることを信じたら、心に与えられる心の平和です。そしてイエスさまを信じたら神の子、平和の子になるのです。それを私たちは伝えていくのです。
1月28日(火)ルカ十8~11
 イエスさまのことを聞いたみんなが信じるとは限りません。嫌な顔をされたりばかにされたりすることもあるかもしれません。イエスさまを信じることは、自分の罪を認め悔い改めて、今までの生き方を変えることにもなります。だから嫌だという人もいるのです。
1月29日(水)ルカ十12~16
 イエスさまの時代の人々は、イエスさまや、遣わされた弟子たちによって病気が治り、悪霊が追い出され、みんなの心が喜びでいっぱいにされているのを見ることができました。それでも信じないのは、伝えた人を遣わしたイエスさまとイエスさまを遣わした父なる神さまを信じないし、自分にはいらないということなのです。
1月30日(木)ルカ十1720
 弟子たちはイエスさまのように悪霊に命令できたことがうれしくてたまりませんでした。イエスさまから与えられた力に敵はかなわないのです。でも力があることより、自分も他の人もイエスさまに救われたことこそが、何よりも宝であり、喜びなのです。
1月31日(金)ルカ十21~22
イエスさまも聖霊によって喜びでいっぱいになりました。その喜びは感謝のお祈りとなりました。イエスさまと共に生きる喜びや、救われた喜びは、賢い人、頭のいい人ができるのではなく、神さまによって与えられることです。そのことをイエスさまは心から感謝しました。
2月1日(土)ルカ十2324
 弟子たちはイエスさまによって神さまの力のすごさや働きを見、それが確かに神さまの働きだと信じました。神さまのみわざを見ることはとても幸せなことです。神さま、私たちも日々の生活で、あなたがしてくださっている働きに気づいて、感謝して生きることができますように。
 
 困っている人を助けることが、簡単にできるときと、勇気が必要な時とあるかもしれません。どんな時も、人の気持ちに立って行動できるといいですね。
2月2日(日)ルカ十25
律法学者は、聖書のことを教える先生です。そんな人がイエスさまを試すために質問をしました。イエスさまがどれだけ聖書を知ってわかっているか試そうとしたのでしょうか。イエスさまがもし答えられなかったら、イエスさまを困らせることができるとも思ったのかもしれません。
2月3日(月)ルカ十26~28
 律法学者には答えがわかっていました。ただイエスさまを試して自分がイエスさまの上に立とうとしたのですが、「そのとおりに行いなさい」と言われ、律法学者はまるで自分がまだ神を愛し、隣人を愛するという律法を行っていないかような感じになってしまいました。
2月4日(火)ルカ十29
 律法学者はイエスさまを試そうとしたのに、なんだか自分が試されていると感じました。それに律法学者なのに、律法を守れていないと人々に思われたくないとも思ったでしょう。そこで「そうは言っても、じゃあ、わたしの隣り人とはだれのことですか」と質問して、少しでも自分の立場をよくしようとしたのです。
2月5日(水)ルカ十30~32
 イエスさまのたとえに出てきた祭司とレビ人はどちらも人々の模範となるような人たちです。けれども強盗に襲われ、半殺しにされた旅人を見ても見ぬふりをして助けませんでした。神さまの仕事に急いでいかなければならないという理由だったかもしれません。または二人にとってはこの旅人は隣り人ではなかったのかもしれません。
2月6日(木)ルカ十3334
 旅人を助けたのは、普段からユダヤ人にとってはとても仲の悪いサマリヤ人でした。でもその人は嫌いなユダヤ人だから助けないとは思いませんでした。同じ人間として、サマリヤ人はユダヤ人を見て「気の毒に思い」ました。そして当然のように傷の手当をし、宿屋まで連れていって面倒をみたのです。
2月7日(金)ルカ十35
サマリヤ人は、旅人の傷がよくなるまでとことん助ける気持ちでいっぱいでした。このサマリヤ人はまさにイエスさまの愛をたとえています。私たちの隣り人となってくださり、とことん救ってくださるイエスさまの姿なのです。
2月8日(土)ルカ十2324
 この人は私の隣り人だけど、この人は違う、そういう区別はありません。「行って同じようにしなさい」とは、だれに対しても私たちは隣り人になることができるということです。イエスさまに愛されている私たちは、イエスさまのように愛する人にもしていただけるのです。
 
 このたとえを聞いた人がこんなことを言いました。「こんなふうに息子を甘やかしちゃだめだ」。あなたはどう思いますか。
2月9日(日)ルカ十五1113
生きているお父さんに遺産をほしいということは、親不孝なことでした。弟息子は親不孝をさらに重ねます。町に繰り出して、もらった財産を全部遊んで使ってしまうのです。なんて愚かなこと、と思うでしょう。でも神さまから離れて生きるなら私たちもこの息子と似たようなものだとイエスさまはたとえられました。
2月10日(月)ルカ十五14~16
 ユダヤ人にとって、豚は食べないし飼わないけがれた動物でした。それなのに豚の世話をするということは、弟息子にとってはどん底の生活でした。豚のエサをお腹いっぱい食べたくなるほどお腹がすいていて、それは本当にみじめなことでした。
2月11日(火)ルカ十五1719
 ここまで来た時、弟息子はやっと気づきました。今までの自分の考え方や生き方が愚かであり、こうなったのは自分のせいだとわかりました。「もうお父さんに息子として受け入れてもらうことはできない。ごめんなさいとあやまって、雇い人の一人として雇ってもらおう」と、心をあらためました。
2月12日(水)ルカ十五20
 お父さんは息子の帰りをずっと待っていました。だから遠くに見えるぼろぼろの姿の人が息子だとすぐにわかり、走って迎え抱きしめました。お父さんである神さまは、私たちが悔い改めて戻ってくるのを待っておられます。そしてどんな人もどんな罪もごめんなさいと戻ってくるならゆるしていただけるのです。
2月13日(木)ルカ十五2124
 悔い改める息子のために、お父さんは良い服と指輪と履物を与え、宴会を始めました。お父さんにとって帰ってきた息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったようなものでした。そのように悔い改めてイエスさまを信じる人を喜んで、天国では喜びの宴会が開かれています。
2月14日(金)ルカ十五2530
まじめにやってきたのに、ばかみたいだ。お兄さんは弟を受け入れられませんでした。真面目に頑張っている人はお兄さんの気持ちがよくわかるでしょう。世の中では真面目に生きている人が祝福されるはずだと考えられています。でも神さまは真面目な人もそう生きられない人もどちらも大事な人として愛してくださっているのです。
2月15日(土)ルカ十五3132
 ふてくされるお兄さんのこともお父さんは愛しています。父なる神さまはどちらとも一緒にいるし、すべてのものを与えてくれています。神さまから心が離れている人が帰ってくるのを主は待っておられるのです。
 
 イエスさまが天国に行った人と、地獄に行った人のたとえを話されました。
2月16日(日)ルカ十六1922 
生きている間、金持ちと貧しいラザロとは全く反対の生活をしました。お金持ちは遊んで暮らしました。ラザロは貧しくて病気で惨めでした。でもどちらにも同じようにやってきたものがあります。それが死ぬということでした。
2月17日(月)ルカ十六2324
 死んだ後の世界で二人はまるで逆転しました。天国で安らかに過ごすラザロに対して、金持ちは熱い火の中での苦しみもだえていました。地獄から金持ちはあわれみを求めました。生きていた時、神さまにあわれみを求めたことなどなかったでしょう。何もかも満たされていて、神さまのあわれみが自分にも必要などとはわからなかったのです。
2月18日(火)ルカ十六2526
 しかし金持ちの願いを叶えることはできません。天国と地獄の間には超えることのできない大きな淵がありました。アブラハムの言葉に、金持ちは深く後悔したことでしょう。先のことなど何も考えず、今さえよければいいと遊んで暮らしていたことを。
2月19日(水)ルカ十六2728
 せめて兄弟たちには気づいてほしいと思い、ラザロをよみがえらせて、兄弟たちに警告してほしいとお願いしました。生きているときには自分が地獄で苦しむようになるとは考えもしませんでした。なぜなら金持ちはラザロを無視してはいなかったのです。玄関先にいることをゆるし、残り物も与えて、自分なりに施しをしていたのです。でも地獄で苦しまないためには、自分もまた神さまのあわれみが必要だとはわかりませんでした。
2月20日(木)ルカ十六29
 地上に生きている人にはすでに聖書があって、神さまの言葉を知ることができます。ユダヤ人は幼いときから神さまの律法と預言の言葉を教えられてきています。アブラハムはラザロをつかわすつもりはありませんでした。
2月21日(金)ルカ十六30
金持ちは自分と同じように、兄弟たちも神さまの言葉に耳を傾ける心を持っていないことを知っていました。ラザロがよみがえって自分の言葉を伝えた方が、兄弟たちは悔い改めるに違いないと考えました。兄弟たちの心の頑固さを金持ちはよくわかっていたのです。
2月22日(土)ルカ十六31
 死んだ人が生き返って、注意してくれたら、すごく説得されそうです。でもアブラハムは、頑固な心は生き返った人の言葉も聞かないだろうと言いました。聖書の言葉にちゃんと耳を傾けることができるなら、お金があってもなくても、自分には神さまのあわれみが必要だとわかり、悔い改めることができるはずだからです。
 
 人はどんな時に自分が悪かったと気づくのでしょうか。注意されたり叱られたりして気づくこともあれば、人から親切にされたり、やさしくされても、気づかされることがあります。
2月23日(日)ルカ十九1~2
取税人は嫌われていました。ローマに収めるお金を余分にとって、その余分を自分の分にしていたからです。だから取税人のかしらは、取税人の中でもリーダーの立場ですし、金持ちですから、もっと嫌われていたことでしょう。それがザアカイでした。
2月24日(月)ルカ十九3
 ザアカイはイエスさまに興味を持っていました。うわさを聞いていたのでしょう。先生と呼ばれた人々の多くは、取税人は罪人だから、交わりをしませんでした。それなのにイエスさまは、先生と呼ばれ、人々を教える人なのに、罪人と呼ばれる人々と友だちになり、一緒に食事をするのです。だからきっと一体どんな人なんだろうと気になっていたのでしょう。
2月25日(火)ルカ十九4~5
ザアカイは、とにかくイエスさまを見たかったのです。ところがびっくりです。イエスさまの方から声をかけてきたのですから。それも初めて会ったのに、名前まで知っていたのです。それも自分の家に泊まることにしているとまで言われたのです。
2月26日(水)ルカ十九6
 ザアカイは、どうしようかな、とは考えませんでした。すぐに木からおりて、イエスさまをどうぞどうぞと自分の家のお客様として迎え入れました。でもそれはザアカイの心にイエスさまをお迎えしたことでもあったのです。
2月27日(木)ルカ十九7
 町の人たちはこのことが気に入りませんでした。ザアカイはみんなには悪いヤツ、嫌なヤツなのです。罪人なのです。イエスさまのようなお方が罪人の仲間になるなんて考えられないことでした。だからみんなイエスさまのことまで文句を言ったのでした。
2月28日(金)ルカ十九8
イエスさまはザアカイのしてきたことを取り上げて、とっちめるようなことはしませんでした。でも不思議なことにザアカイの心は変わっていました。みんなの前で言ったのです。「貧しい人には財産の半分を寄付します。お金をたくさん取り上げて苦しめてきた人々に4倍にして返します」と。イエスさまの愛で心がいっぱいにされていました。
2月29日(土)ルカ十九9~101
 イエスさまは、「きょう、救いがこの家にきた」と言われました。ザアカイが変わるのは、家の人たちにとってもよいことです。ザアカイがお金を寄付したり、返したりすることによって、受け取った人も助かります。一人の人の救いは多くの人にも恵みを分けていくことにもなるのです。
 
 献金は神さまへの感謝の気持ちのささげものです。アフリカ伝道の父リビングストンは、献金をささげる入れ物に自分がのって、自分をおささげしました。
3月1日(日)ルカ二十一1~4
神殿の庭にある献金箱はラッパをひっくり返したような形をしていて、お金を投げ入れると音が響くものでした。お金持ちが投げ入れるたくさんの献金と違って、貧しいやもめのわずかな献金を投げ入れる音はわずかな音をたてただけでした。けれどもイエスさまは彼女の献金に注目されました。
3月2日(月)ルカ二十一1~4
イエスさまの言葉に、聞いた人たちはびっくりしました。「あの貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れたのだ」と言われたからです。レプタ2枚というのは、とてもわずかなお金です。やもめというのは、夫が死んでしまった奥さんのことで、稼ぐ夫がいないので、貧しい暮らしをしている人が多く、この女性も貧しかったのです。
3月3日(火)ルカ二十一1~4
イエスさまがやめもの献金を「だれよりもたくさん」と言われた理由に、弟子たちはもっとびっくりしました。入れた献金は、ありあまる中からささげたお金持ちと違って、生活費のすべてだったからでした。
3月4日(水)ルカ二十一1~4
 このやもめはどうして生活費を全部ささげることができたのでしょう。わずかなお金でわずかな食べ物を家族に買うこともできたのに。でもやもめは、神さまへの感謝の気持ちがあふれ出て、全てをささげる、ことにしたのです。
3月5日(木)ルカ二十一1~4
 やもめは、献金してしまった後の生活に不安はなかったのでしょうか。やもめは、いつでも空の鳥や野の花が神さまによって生かされ支えられているように、自分も支えられていることを心から信じていました。だからささげることに不安はありませんでした。
3月6日(金)ルカ二十一1~4
 やもめはわずかな献金を、お金持ちに交じってするとき、音がわずかで恥ずかしいなどと考えることもありませんでした。ただ神さまに生かされている感謝と、神さまへの信頼で心がいっぱいだったので、多い少ないとか、持っている持っていないとか、そういうことにとらわれることはありませんでした。
3月7日(土)ルカ二十一1~4
 やもめの献金についてイエスさまが言わなかったらだれにも注目されることはありませんでした。また、彼女が生活費すべてをささげたという事情もイエスさましか知ることはありませんでした。イエスさまはちゃんとやもめのことを見ていてくださいました。知っていてくださいました。私たちのことも見ておられ知っていてくださいます。
 
 最後の晩餐という絵を知っていますか。あの絵はこの箇所から書かれました。
3月8日(日)ルカ二十二1~2
過越のお祭りのために、エルサレムには大勢の人が集まります。そんな時、もしかしたら人々はイエスさまを王にしてローマに反抗するかもしれない。なんとかしてイエスさまを殺そう。祭司長たち、律法学者たちはそのための計画を立てました。
3月9日(月)ルカ二十二3~6
イスカリオテのユダにサタンが入ったとはどういうことでしょう。イエスさまを裏切ろうと思ったのです。イエスさまを殺す計画をしている人たちに、だれにも邪魔されないでイエスさまを引き渡す仕事を引き受けたのです。
3月10日(火)ルカ二十二7~13
弟子たちは祭の食事の準備にでかけました。水がめを持っている男の人に出会いました。その人が入る家までついていって、家の主人に言いました。「弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が行っておられます」。家の主人はちゃんと部屋を用意していました。全部イエスさまの言ったとおりでした。
3月11日(水)ルカ二十二1416
昔イスラエルはエジプトで奴隷でした。そこから脱出して自由になるために、神さまがしてくださったことを記念して過越の食事を食べるのです。でもイエスさまにとってのこの食事は、これから十字架で苦しまれることを記念した食事でした。イエスさまの苦しみは、私たちが罪と罪の裁きから救われ、自由にされるためだからです。私たちみんなが罪から脱出する、新しい出エジプトが起こるからです。
3月12日(木)ルカ二十二1718
 過越の食事というのは、何を食べるか決まっていました。種なしパンと苦菜と小羊の肉です。厳しい奴隷の生活や、急いでエジプトから出るためであったことをずっと忘れないためにです。でもイエスさまにとってはそれも最後です。イエスさまが十字架の苦しみによって、新しい過越を行ってくださるからです。
3月13日(金)ルカ二十二1920
 新しい過越の食事はパンとぶどう酒です。イエスさまが十字架で私たちのために血を流して死なれたことによって私たちの罪がきよめられ、ゆるされました。イエスさまの十字架が私のためだったことを思い、パンとぶどう酒をいただきます。それが洗礼を受けた人がいただいている聖餐です。
3月14日(土)ルカ二十二2123
 イエスさまの言葉は、だれにとってもショックでした。イエスさまが去っていくと言われたこと、そして裏切り者がいるということ。一体この中のだれがそんなことを?お互いを疑ったりかんぐったり。でもだれにも意味がわかりませんでした。
 
 私たちの信じる心はイエスさまのお祈りで支えられています。
3月15日(日)ルカ二十二24
自分たちの中でだれが一番偉いのか、弟子たちは議論を始めました。上座、下座という言葉を聞いたことはありますか。上座には目上の人や、お客様が座ります。下座には年の若い人や、食事のお世話をする人が座ります。イスラエルでも食事の席で偉い人とそうでない人の座るところが決まっていました。
3月16日(月)ルカ二十二2526
イエスさまの言葉はまるで反対言葉です。なぜなら一番えらい人は、家来や召使いのように、また若い新人さんのようになる人のことだと言うからです。イエスさまは、偉い人というのは、身を低くして、人の言うことを聞く人だと言われました。だれかのために、お金やご褒美などをもらわないで、やってあげなさいと言われました。
3月17日(火)ルカ二十二27
イエスさまは、病気の人を治し、寂しい人の友だちになりました。悪霊を追い出し、普通の生活にもどれるようにされました。たくさんの人が押し寄せてきても、みんなを大事にされました。何よりも十字架で死んで私たちを罪と死から救ってくださいました。最も身を低くして私たちに仕えてくださいました。主人の食事に給仕として世話をする人のように、です。
3月18日(水)ルカ二十二2830
イエスさまは弟子たちに「わたしの試練のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた」と言われました。でもこれからが一番の試練と危険がやってきます。それを弟子たちは乗り越えなければなりませんでした。そしてついには神の国の食卓でまたイエスさまと一緒に食事をし、共に神の国を治めるというすばらしい約束をいただいたのでした。
3月19日(木)ルカ二十二31
 ふるいにかけられるとは、ペテロとそして弟子たちみんなが大きな試練にあうということです。心が試されて、大きくゆさぶられるのです。悪魔がペテロたちを誘惑して試すことを神さまにお願いして許されたからです。
3月20日(金)ルカ二十二32
 ペテロたちだけではありません。私たちには誘惑も試練もあります。そして悩んだり苦しんだりします。でもイエスさまはペテロと私たちのために祈ってくださいました。信仰がなくならないようにと。信仰から離れそうになってもそこからまた立ち直らせてくださるのです。
3月21日(土)ルカ二十二3334
 ペテロは、自分が三度もイエスさまのことを知らないと言うだろうという予告を信じませんでした。たとえ牢獄でも死でもどこまでもついていけると思っていたからです。自分は裏切らない弟子たちはみんなそう思っていました。
 
 
 すごく後悔したことはありますか。あの時ああすればよかった、時間を戻せるならやり直したいと。ペテロはものすごく後悔したでしょう。心が苦しかったでしょう。
3月22日(日)ルカ二十二4748
ユダはイエスさまを逮捕する人々の先頭に立っていました。親しそうにイエスさまに挨拶のキスをしようとするユダに、イエスさまは言われました。「あなたは人の子を裏切るのだ」。あなたは救い主に対して裏切りをしているのだと。
3月23日(月)ルカ二十二4950
弟子たちは、イエスさまに大変なことが起こっていると感じました。つるぎで切りつけて、脅し、抵抗しようと思ったのでしょう。弟子の一人が祭司長の奴隷の耳を切り落としてしまいました。イエスさまを守りたかったのです。
3月24日(火)ルカ二十二51
イエスさまはすぐにその切り落とされた耳を癒やされました。そのような力を持っておられるイエスさまが、自分を守れないはずはありません。でも「それだけでやめなさい」というイエスさまは、戦うことも抵抗することもしないで、相手にされるがままになられました。
3月25日(水)ルカ二十二5253
イエスさまを逮捕しにきた人々は、神さまのための働きをする人たちでした。でもイエスさまは彼らの時を闇の支配の時と言われました。神の子を殺そうとするほど闇が心を支配していたからです。
3月26日(木)ルカ二十二54
 連れて行かれるイエスさまの後を、かなり離れて遠くからペテロはついて行きました。イエスさまのことが心配で、イエスさまが大祭司の家の庭で裁判される様子を、人々にまぎれてそっとみるつもりでした。
3月27日(金)ルカ二十二5560
 ペテロは「あなたもイエスの仲間だ」といわれて、どっきりしました。自分が仲間だと知られたら、捕まってしまうかもしれないと思い、とても怖くなりました。だから3回とも「知らない、違う、わからない」と言ってしまいました。たとえ死ぬことになっても、イエスさまについていくと心に決めていたのに、自分が危ないと感じたら、そんな勇気も力もないペテロでした。
3月28日(土)ルカ二十二6062
 鶏が鳴きました。そしてイエスさまはペテロを見つめておられたのです。ペテロはイエスさまの言葉を思い出して、いたたまれなくなりました。イエスさまの言われたとおり、自分は弱い人間だった。イエスさまを裏切るずるい人間だ。自分が恥ずかしいし、イエスさまに申し訳ない。ペテロは激しく泣きました。ペテロはもう一つ思い出していたでしょうか。イエスさまが祈ってくださっていたこと、そして立ち直ると言う約束の言葉を(二十二32)
 
 祭司長やその仲間たちは、何が何でどんな手を使っても、イエスさまを罪人にして、死刑にしたいと考えていました。そうなれば、自分たちは安全だからです。
3月29日(日)ルカ二十三1~2
イエスさまは、「ローマに反対して自分が王なるキリストだと言った」と訴えられました。ローマに支配されているのに、自分が王だと勝手に言う人は、ローマ皇帝を敵にすると思われるからです。確かにイエスさまは神の国の王さまです。でもそれはローマ皇帝や他の国々の王とは違います。人を罪から救う救い主だからです。
3月30日(月)ルカ二十三3~5
ピラトにはイエスさまが何も悪いことをしていないことがわかっていました。だから「この人は悪くない」と言いました。するとますます人々はわめき出しました。「この人は、人の心をあやつって、ガリラヤからはじめてユダヤ中の人を集め、動かそうとする危険な男です」。
3月31日(火)ルカ二十三6~9
ヘロデはイエスさまに会いたいと思っていましたが、特に奇跡をみせてほしいと思っていました。けれどもイエスさまから何も聞き出せないし、奇跡もみることはできませんでした。
4月1日(水)ルカ二十三1012
ヘロデにとっては奇跡を見せないイエスさまにはあまり興味はありませんでした。だから祭司長たちの激しい訴えにあわせて、イエスさまをばかにしたり、あざけったりしました。かといってヘロデもイエスさまは罪人だとは言いませんでした。王のような格好をさせてピラトのもとへ送り返しました。
3月25日(木)ルカ二十三1317
 ピラトははっきりと、イエスさまにはみんなが訴えるような罪はない、と言いました。「ヘロデもこの人を死刑にするような罪はないとして、送り返してきた」。ピラトはイエスさまをむち打ってから、ゆるしてやろう、と訴える人々を説得しようとしました。イエスさまには罪はないのです。
4月2日(金)ルカ二十三18~19
 人々の叫びは「イエスを殺せ、バラバをゆるしてくれ」でした。本当に人々を動かして、世の中を騒がせ、人を殺したバラバではなく、どこまでも罪のないイエスさまを殺すことを求めました。今や、祭司長たちだけでなく大勢の人々がそう叫んでいました。
4月3日(土)ルカ二十三2025
 ピラトは「この人には罪はない」と言い続けました。けれども「イエスを十字架につけろ」と人々の声が勝ちました。ピラトは正しいことを貫くことができませんでした。祭司長たちの企み、ユダの裏切り、正義を通せないピラト、群衆の叫び、これら共に、神さまの救いの計画があわさって、イエスさまの十字架がありました。