胎児から成人までの一貫した教案誌 個人的な学び・家庭集会にも最適

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 このコーナーは聖書の光の子どもデボーション (子どもだけでなくてもいいのですけれど…)のページをそのまま載せてあります。自由にコピーしてフリガナをつけたり、文字の大きさを変えたり、言い方を変えたり、 みなさんのクラスの子どもたちに合わせてアレンジして使ってください。
 


 パウロたちの新しい一歩によって、さらに世界に福音が広がっていきました。
10月6日(日)使徒十五36~41 
 まるでけんかわかれのように見えるパウロとバルナバです。前の伝道旅行で逃げ出したマルコを連れて行くか行かないかで二人はどちらも自分の意見をゆずりませんでした。でもこれが、伝道がさらに広がるきっかけになりました。そしてマルコも立派な働き手として成長していくのです。
10月7日(月)使徒十六1~3
 パウロはシラスと伝道旅行にでかけました。ルステラの町でテモテという青年と出会いました。テモテはその町のクリスチャンの間でとても信頼され期待されていました。パウロはなテモテを伝道者として育てたいと思い、伝道旅行に一緒に連れて行くことにしました。
10月8日(火)使徒十六3
テモテはユダヤ人ですが、割礼を受けていませんでした。ユダヤ人のしるしは割礼です。ユダヤ人なのに割礼を受けていないとユダヤ人からは偽物のように思われます。だからテモテは、救われるのに割礼はいりませんが、ユダヤ人に受け入れてもらうために、割礼を受けました。それはユダヤ人にもイエスさまのことを伝えやすくするためです。
10月9日(水)使徒十六4~5
パウロたちの伝道旅行の大切な目的の一つは、いろいろな教会に、エルサレム教会で行われた会議の結果を伝えるためでした。ユダヤ人でない人が、救われるために割礼を受けなくてもいいことを聞いて、みんな安心しました。またパウロたちの教えや励ましを受けて、ますます信じる心が成長していきました。さらに信じる人が増えていきました。
10月10日(木)使徒十六6~7
 パウロたちは行こうとするところで、何度か聖霊に止められてしまいました。そのたびに方向を変えてイエスさまの導きを待ちました。進もうと思う道が開かれない時、イエスさまは別の道を計画されていることがあるのです。
10月11日(金)使徒十六8~10 
ついに、なぜ行く道が閉ざされたのかがわかりました。マケドニヤに行くことが神さまの計画だったのです。パウロが見た夢の中の幻に出てきた人は、助けを求めていました。パウロたちは、イエスさまを伝えるために、神さまがマケドニヤに行けと言われているのだとわかりました。
10月12日(土)使徒十六11~15
 マケドニヤに渡ったパウロたちは一番大きな町ピリピへ行きました。そこで最初にイエスさまを信じたのは、外国人の女性のルデヤでした。神さまが彼女の心を開かれたからです。ルデヤは仕事で成功していて、彼女の家は集会をする場所になり、パウロたちの住む所や食事、働きを支える人になりました。
 
 突然の辛い経験がパウロとシラスを襲います。けれどもそこにまた思いがけない出会いと救いが起こりました。どうしてこんな目に、と思うことも神さまはお用いになります。
10月13日(日)使徒十六16~18 
 占いの霊にとりつかれた女は、パウロたちにつきまとっては、毎日宣伝しました。けれども悪霊の宣伝は、パウロたちを人々に変に注目させて困るだけでした。困り果てたパウロはついにその女から、イエスさまの名によって悪霊を追い出しました。
10月14日(月)使徒十六19~24
 女の人を利用してお金儲けをしていた人々はとても大損をしました。そこで腹いせに二人は危険人物として訴えられて、逮捕されてしまったのです。ちゃんとした調査も裁判もありません。あおられた群衆の責め立てる声に動かされて、ローマの長官はパウロとシラスをむちで打ち、牢獄に入れてしまいました。
10月15日(火)使徒十六25
パウロとシラスは激しく打たれたむちの痛みに苦しみました。それにもかかわらず、二人は牢獄の中で神さまにお祈りをし、賛美の歌を歌い続けました。他の囚人たちはじっとそれを聞いていました。不平や不満でいっぱいになりそう牢獄が、賛美と祈りでみんなの心を沈めました。
10月16日(水)使徒十六26~28
突然大地震が起こりました。目をさました牢獄の番人は、すべての戸が開いているのを見て、自分はもう死ぬしかないと絶望しました。みんな逃げてしまったと思ったからです。だからパウロの一言は奇跡の言葉としか思えませんでした。どうしてみんな逃げなかったのでしょう。牢獄の番人は、パウロとシラスがこの牢獄にいたから、二人の祈りと賛美が、みんなをここにとどまらせたと思いました。
10月17日(木)使徒十六29~34
 もう死ぬしかないと思ったのに、そうしなくてすんだ牢獄の番人は、イエスさまを信じました。そして番人の家族もみんな信じ救われたのです。パウロとシラスはむちで打たれて、牢獄に入れられたことは、辛く苦しいことでした。けれどもそこで出会った牢獄の番人が救われることになりました。
10月18日(金)使徒十六35~39 
パウロとシラスはユダヤ人ですが、ローマの市民でもありました。ローマの市民はどんな場合でもむちで打たれてはいけません。それなのに、パウロたちに自分の立場を伝えるひまも与えずにひどい扱いをしたことは、ローマの長官たちの大失敗でした。
10月19日(土)使徒十六40
二人は牢獄から出てルデヤの家に戻りました。ピリピから出ることになったので、イエスさまを信じた仲間たちを励まし、教え、別れの言葉を伝えて、また旅に出ました。
 
 携帯を使っている人は、手紙はあまり書かないかもしれません。パウロは教会の仲間を励ますために、たくさん愛の手紙を書きました。
10月20日(日)ピリピ一1~5 
パウロはピリピ教会のためにお祈りをするとうれしくなりました。教会のみんながイエスさまを信じて歩んでいることが感謝でたまりませんでした。パウロは、伝道してすぐピリピを離れたので、小さな教会には指導者がいませんでした。でも信じた時から今までずっと、イエスさまから離れないでいたからです。
10月21日(月)ピリピ一6~8
 イエスさまが私たちにしてくださったよい業は罪からの救いです。でも信じても悩みや苦しいことがあります。では救われるってどういうことでしょう。どんな時もイエスさまが支えてくださっていて、決して見捨てられません。そしてイエスさまにお会いする時、もう悲しみも涙もない世界へ導いてくださるのです。
10月22日(火)ピリピ一9~11
パウロはいつもピリピの教会のためにお祈りしました。ピリピの教会の人々が神さまの愛でいっぱいになるように。愛によって何が大事なのかをわかっていけるように。やがてイエスさまにお会いする時まで、イエスさまを信じてよかったという感謝をあらわしていけるようにと。
10月23日(水)ピリピ一12~17
パウロは牢屋に入っていましたが、がっかりしてはいませんでした。なぜなら、パウロの仲間たちは、パウロが大変だから自分たちががんばろうと一生懸命伝道するし、パウロのことをねたんでいる人たちもパウロの先を越そうと伝道をしていました。どちらであっても、とにかくイエスさまが伝えられるために役に立っていたのです。
10月24日(木)ピリピ一18~19
 牢屋がいいはずはありません。でもパウロは自分にとって都合が悪いことだけを見ませんでした。それよりもとにかくイエスさまが伝えられているのだからこんないいことはないと思い喜びました。嫌だと思えることも違うところから見てみたら良かったことに変えられていくのです。
10月25日(金)ピリピ一20~21 
パウロが何よりも大事にしていたことは、パウロが何をしても、たとえ死んだとしても、イエスさまのすばらしいさがパウロを通して、人々に伝わっていくことでした。パウロにとって生きることはキリストを生きることでしたし、死ぬことは得になることでした。
10月26日(土)ピリピ一22~26
パウロが死ぬことは自分にとって良いことだと言ったのは、天国でイエスさまのそばにいられるからです。でも今はまだ生きて、ピリピの教会の人々の信仰を励ますことの方が大事だと信じていました。
 
 小学生の時、席が近くて同じ班の女子3人で仲良しになりました。でも3人だと、どちらか一方と仲良くしていると言われたり、遠慮すると結局自分がのけものにされているように思えたり、3人でまとまるって難しいなあと思ったものでした。
10月27日(日)ピリピ二1~4 
党派心は、自分のお気に入りの人だけ特別扱いして、他の人を仲間に入れないことです。自分がのけものにされたくないからです。虚栄心は、見栄を張って、自分を本当より良く見せようと無理をすることです。少しでも誰かより上に見られたいからです。そういう心は教会の中をばらばらにしていきます。
10月28日(月)ピリピ二5~8
 イエスさまは罪のない神の子で、誰よりも優れたお方なのに、のけものにされ、だれよりも低くされて罪人として十字架で死んでくださいました。そうして私たちを救う神さまの計画に従われました。へりくだることは、私たちにはとても難しいことです。でもそれをしたイエスさまが助けてくださいます。そしてイエスさまにならうことが、ばらばらな私たちを一つにします。
10月29日(火)ピリピ二9~11
神さまは、だれよりも低くされたイエスさまをよみがえらせて、だれよりも高いお方とされました。このイエスさまの前には、この世界のどんなものも、偉くもないし、高くもありません。やがてすべてのものが「イエスさま、あなたは私の救い主です」と信じ感謝をささげるようになる、そういうお方です。
10月30日(水)ピリピ二12
「救いの達成に努めなさい」というのは、救われるためにまだまだがんばりなさいということではありません。御言葉を信じて従いなさいということです。救われたことを感謝して生活することは、御言葉のとおりにやってみる生活なのです。
10月31日(木)ピリピ二13~14
 うまくいかなかったり失敗したりすると、信じて損したと不満が出てきて、神さまのことを疑う気持ちでいっぱいになることがあります。そういう気持ちがイエスさまに従うことを邪魔してくるのです。でもそういう時こそ神さまが実現させてくださると信じるなら、乗り越えていけるのです。
11月1日(金)ピリピ二15~16
御言葉は私たちのいのちの言葉です。なぜなら私たちに、神さまの愛と、どう生きたらいいのかを教えてくれているからです。私たちの心にある神さまの言葉は、私たちをこの世の中で星のように輝かせてくださいます。
11月2日(土)ピリピ二17~18
パウロと共に喜ぶことは、イエスさまを信じて従って生きてよかったと喜ぶことです。やがて死ぬときにもイエスさまに従い続けてよかったと喜ぶことです。
 
  パウロは一つになれないピリピの教会を助けるために、二人の人を送ることにしました。。
11月3日(日)ピリピ二19~20 
テモテはだれよりもピリピ教会が一つになれないのを心配していました。そしてお祈りしていました。私たちも祈られています。自分の知らないところでもだれかが私たちのことを心配しお祈りしてくださっています。そうやって支えられています。
11月4日(月)ピリピ二21
 私たちはつい自分のことばかりになってしまいます。夢中なことで頭がいっぱいだったり、心配事でずっと悩んでいたりすると、自分のことばかりになってしまうのです。でもイエスさまに目を向けて、イエスさまのように生きようとすると、自分のことばかりでなく他の人のことにも気づけるようになります。
11月5日(火)ピリピ二22~24
パウロは、テモテがピリピの教会の指導者になれば、きっとばらばらな教会がまた一つになれると信じしていました。テモテのイエスさまに心を向けて生きている姿は、教会の人々にも伝わって、彼らもイエスさまに目を向けるようになると、テモテのことを信頼していたのです。
11月6日(水)ピリピ二25
パウロはもう1人ピリピに送ることにしていました。牢獄にいるパウロの生活のお世話をするために、ピリピ教会から送り出されたエパフロデトでした。エパフロデトは、パウロにとっては同労者、戦友、兄弟のような人で、パウロと一緒にイエスさまのことを伝えた大事な人でした。しかしそのような大事な人をピリピに送り返す必要がありました。
11月7日(木)ピリピ二26~27
エパフロデトは病気になって、死にそうになってしまいました。けれども神さまがいやしてくださいました。エパフロデトにとっては、パウロを支えるために、教会の代表として送り出されたのに、病気になってみんなに心配をかけてしまい、とても申し訳ない思いでいっぱいだったのです。
11月8日(金)ピリピ二28
エパフロデトは、与えられた働きをやり通せなかったとがっかりして、自分のことが嫌だったでしょう。でもエパフロデトが教会のみんなと会えば、エパフロデトも、教会のみんなも元気になるとパウロは考えました。だから送り返すことにしたのです。
11月9日(土)ピリピ二29~30
教会の人たちもエパフロデトのことを情けないと思っていたようです。自分たちの期待のようにならないと、失敗やできなかったことに目を向けて、苦労した人のことを責めてしまうこともあるのです。それもまた自分のことばかりになっているからです。だからパウロはそうでなく、喜んで彼を迎えてほしいと書きました。
 
 うれしいことがあると、心も体も元気になるよね。何かいいことあったんだって、みんなにわかるぐらい喜びは力になるね。
11月10日(日)ピリピ三1 
何かうれしいことがないと喜べないですよね。でもパウロがいう喜びは、イエスさまを信じていると、思いもかけないところからも発見できる喜びのことです。この手紙を書いたパウロだって、牢屋の中にいたのに、喜びをちゃんと見つけていたように。
11月11日(月)ピリピ三2~3
 でも喜びをかき消して、発見できなくさせるものがあります。それは自分のことばかり自慢する心です。私たちは人と比べて優れていることで喜ぼうとすることを注意する必要があります。人を自分より下に見ようとするので、人より劣っていたら喜べなくなってしまいます。
11月12日(火)ピリピ三4~7
パウロは、ユダヤ人にとっては、うらやましがられるような自慢できることをいっぱい持っていました。立派なお家で育ち、勉強ができて、律法をちゃんと守って、だれからも尊敬される人でした。でもイエスさまを信じたパウロにとってはそういうものが喜びを与えてくれることはなくなりました。
11月13日(水)ピリピ三8~11
パウロはどんなものよりも、どんなことよりもすばらしいものをいただきました。それはイエスさまです。もちろん、立派だと言われ、尊敬されることは悪いことではありません。でもイエスさまが私たちにしてくださった十字架の救いほど、すごいことはないのです。だからパウロにとってもそれをいただくこと以外に最高のものはないのです。
11月14日(木)ピリピ三12~16
 イエスさまを信じたらそこですべて完成ではありません。いただけるものがまだまだあります。信じて天国にいくまで、ずっといただけるものを求めていくのが私たちの生活です。私たちの天国までの目標は、イエスさまのように神さまと人を愛することです。
11月15日(金)ピリピ三17~19
パウロはピリピ教会や私たちのお手本です。褒められてうれしいとか、立派で自慢できるものがあってよかったとか、そういうことを自分の支えにしないお手本です。ただイイエスさまを自分の支えにする生活と、そこから発見できる喜びを人にもわけていく生活のお手本です。
11月16日(土)ピリピ三20~21
世界にはいろいろな国の人がいます。悲しいことに自分と違う国の人を下に見たり、差別したり、バカにしたりする人がいます。でもイエスさまを信じる人は、だれでもみんな天に国籍を持つ天国人です。もう一度イエスさまがこの世界に来られる時、復活の体をいただいて新しい世界で生きる天国人です。
 
献金をちょっともったいないなあと思ったりするかもしれません。でも神さまの恵みのすばらしさがわかると、もったいなくないのです。ささげたくなるのです。あんなによくしてもらったから、お礼がしたいって思うようになるのです。
11月17日(日)Ⅱコリ八1~2 
私たちは、ささげものはたくさんある人ができると思いがちです。でもエルサレム教会の大変さを聞いたピリピ教会は、自分たちもとっても貧しくて大変だったのに、多くの献金をしました。たくさんあったのはお金ではなく、神さまと教会の仲間を思うあふれる気持ちでした。
11月18日(月)Ⅱコリ八3~5
 自分の力以上にささげたいと思う気持ちはどこから湧き上がってくるのでしょうか。それは神さまのくださる愛と恵みに「ありがとう」をあらわしたい、私のできることでこたえたい、という感謝と喜びから出てくるのです。
11月19日(火)Ⅱコリ八6
コリント教会でもテトスを中心に献金が集められていました。ところが何かに邪魔されて途中でストップしてしまったのです。でもパウロは、ピリピ教会の姿を通して、コリント教会が最初に献金しようと思った時の気持ちに戻ってやり遂げてほしいと思いました。
11月20日(水)Ⅱコリ八7~8
コリント教会は信仰も聖書の勉強も熱心で、神さまと人を愛する心もいっぱいある人たちでした。だからそういう豊かな思いを生かせば、この献金もやり遂げることができると、パウロは励ましたのでした。
11月21日(木)Ⅱコリ八9
 何よりもイエスさまほど愛があふれていて気前のよいお方はありません。神の子として何もかも持っておられたのに、無力な貧しい人となって、私たちのために罪人として裁かれてくださったのです。イエスさまによって私たちは神の子として豊かに生きるようにされました。
11月22日(金)Ⅱコリ八10~12
エルサレム教会への献金は、もともとはコリント教会が一番に始めたことでした。他の教会と同じようにコリント教会もエルサレム教会を思い、支えたかったのです。だからいつかやろうではなく、今、持っているところに応じでやり遂げればいいのです。。
11月23日(土)Ⅱコリ八13~15
自分たちばかり献金して、損しているように感じられるかもしれません。でも私たちの持っているものは、神さまからいただいたものです。だからそれを分け合って支え合うことは、余って無駄にすることがないし、少ないところも足りなくて困ることがなくなります。お互いちょうど良い分量で生かしていただけるのです。そして次に自分たちが困ったら、助けてもらえるのです。
 
パウロの喜びは、イエスさまを信じた人たちが、愛されてうれしいから感謝の気持ちと愛の気持ちで、献金したり、贈り物をしたりするということでした。
11月24日(日)ピリピ四1
イエスさまを信じているからって、「何を言われても、何をされてもぜんぜん平気」なわけはありません。当然傷ついたり、へこんだりします。だからイエスさまに助けていただいて乗り越えていくのが、主にあって堅く立っていくことです。
11月25日(月)ピリピ四2~3
 教会の中でもあの人とは一緒にやれないと思う人がいるかもしれません。教会の中で頼りにしている人に話してみて、その人に助けてもらうといいかもしれません。二人だとうまくいかなくても、誰かが二人の間に入って一緒にやってもらうと、うまくいく場合もあるからです。
11月26日(火)ピリピ四4~7
私たちは怒るし、泣くし、悲しみます。そういう時どうやって喜べるでしょう。「神さま、今はとてもこのことを喜べません」と神さまに訴えていいのです。怒ったり悩んだりしている時は、喜ぶことからどんどん遠くなっていきますが、なんでも神さまに打ち明けて祈り続けるなら、心がだんだん落ち着いてきて、また喜びが見つけられるからです。
11月27日(水)ピリピ四8~9
聖書の言葉はもちろんですが、世の中にも、私たちにとって良いことや良いものはたくさんあります。そういうものは大事にしていいのです。またパウロは、自分の生活を見せ、言葉で教えることを通して、信じた人の生活も伝えました。そうやってパウロが伝えてうれたことを実行していくことも大事なのです。
11月28日(木)ピリピ四10 ~13
 あまりお金がなくて生活しなくては行けない時、誰かが助けてくれたら、本当にありがたいものです。でもパウロは、本当にありがたいけれども、たとえお金があってもなくても、どんな場所に置かれても生活できるようにされていました。イエスさまによってでした。
11月29日(金)ピリピ四14~17
パウロにとってピリピの教会の人たちに対する喜びは、お金の助けや物を送ってくれるのが、彼らの信仰から来ていることでした。人を愛するという思いがパウロやだれかを助けようという形となっている信仰を喜びました。
11月30日(土)ピリピ四18~23
パウロはピリピの教会からもう十分なほどの贈り物を受けて満たされていました。そしてその贈り物を通して届けられる愛に満たされていました。ささげてきたピリピの教会もまた、ささげてなくなってしまうのではなく、主イエスさまがすべてを満たしてくださるのです。
 
今日から十二月です。あと25日たてばクリスマスです。イエスさまが私たちのために生まれてくださったことがどんなにすばらしいことなのか、よくわかるクリスマスでありますように。
12月1日(日)ルカ一5~7
イスラエルでは、子どもが生まれることは神さまの祝福で、たくさんいればいるほどいいと思われていました。ザカリヤとエリサベツは立派な人たちで、神さまを心から信じて、御言葉に従っていました。それなのに子どもがいなかったのです。だからどうしても引け目を感じないではいられなかったでしょう。
12月2日(月)ルカ一8~10
 ザカリヤは神殿の聖所にある香壇で香をたいていました。香は神さまへの香りのささげものです。またお祈りのしるしでもありました。神さまへのお祈りが、良い香りのようにささげられ神さまのもとへ届けられるのです。まさに香をたいている間、多くの人々が外でお祈りをしていました。
12月3日(火)ルカ一11~14
天使の知らせはすばらしいものでした。「ザカリヤさん、よかったね。あなたに男の子があたえられますよ」。おじいさんになった今はもう子どもはあきらめていました。それなのに神さまによって子どもが与えられるのです。名前も神さまが決めていました。ヨハネです。
12月4日(水)ルカ一15~17
生まれてくる子どもは、救い主のために働くようになります。救い主のために働くヨハネが生まれるということは、救い主も現れるということです。ザカリヤとユダヤ人みんながあきらめることなく祈り待っていた祈りがいよいよ聞かれようとしていました。
12月5日(木)ルカ一18 ~20
 ザカリヤはうれしいはずでした。でもそれよりも不思議でたまりませんでした。こんなおじいさんとおばあさんにどうやって子どもが生まれるんだと。そこで天使は、信じることができないザカリヤを、話しをすることができないようにしました。ザカリヤは自分に起こった不思議なことを通して、神さまの力によって男の子が生まれることを知りました。
12月6日(金)ルカ一21~23
ザカリヤは、自分にこれから起こるすばらしい神さまの恵みを誰にも話すことはできませんでした。ただ黙って祭司の仕事を終えて家に帰って行きました。でもザカリヤは話すことができないことによって、ますます子どもが与えられるのだと感じました。
12月7日(土)ルカ一24~25
天使の言葉のとおりにエリサベツのお腹に赤ちゃんが与えられました。今まで子どもがいないことで引け目を感じていたエリサベツでしたが、神さまは自分のことを忘れていなかったのだと感謝しました。
 
「あなたは恵まれている」と人に言われたことはありますか。友だちが多いとか、良い家族だとか。たとえ人からはそう見えても、自分でもそう思って感謝できる場合と、そうは思えなくて、感謝できない場合があります。「自分は恵まれているんだなあ」と思えることも恵みです。
12月8日(日)ルカ一26~28
ヨセフと婚約していたマリヤでしたが、まだ10代だったとか。でも婚約中だから結婚の準備を少しずつしていたでしょう。そんなマリヤの前に突然現れた天使が「恵まれた女よ、おめでとう」と言いました。マリヤはいったい何に恵まれたいたのでしょうか。彼女にとっての恵み、そして私たちにとっても恵みです。「主があなたと共におられます」。
12月9日(月)ルカ一29~31
 天使はさらに「あなたは神から恵みをいただいている」と言いました。それはマリヤのお腹に男の赤ちゃんが与えられて、お母さんになることでした。赤ちゃんの名前も決まっています。「イエス」です。どうしてそれが恵みをいただいていることなのでしょうか。
12月10日(火)ルカ一32~33
マリヤのお腹に与えられる子どもは神の子なのです。マリヤは神の子のお母さんになるのです。その子はだれよりも力があり、すべての人を超えた神の子です。そして永遠に世界を支配する王となるのです。だから天使は神の子のお母さんになるマリャを「恵みをいただいている」と言ったのです。
12月11日(水)ルカ一34
マリヤが結婚していたら、ヨセフとの間に赤ちゃんが生まれることは自然なことです。でもまだ結婚していないのです。どうやって生まれるのでしょうか。それに、婚約中に妊娠してしまったら、ヨセフや周りの人はどう思うでしょう。ヨセフは自分の子どもではないから怒るかもしれません。本当にこれは恵まれたことなのでしょうか。
12月12日(木)ルカ一35 ~36
 マリヤには神さまの力によって子どもが与えられるのであって、ヨセフとの間の子ではありません。神の子だからです。そしてマリヤには強い味方がいました。親戚のエリサベツです。エリサベツも神さまによって子どもが与えられたからです。
12月13日(金)ルカ一37
「神には、なんでもできないことはありません」。この言葉はマリヤをとても励ましました。これが罪のない神の子が生まれるための神さまの方法で、また私たちが救われるための方法でした。
12月14日(土)ルカ一38
マリヤは神さまの言うとおりにしてくださいと答えました。共にいてくださる神さまに、ヨセフのこともお任せしました。神さまの恵みを受けとれたことがマリヤにとっての何よりの恵みでした。
 
あなたはよくしゃべる方ですか。私はおしゃべりな子どもで、母に時々「耳休ませて」と言われたものでした。それでも我慢できなくて、喋っていたように思います。ザカリヤのように話ができないことは、どんなに不便でしょう。
12月15日(日)ルカ一57~58
赤ちゃんの誕生は、近所や親戚の人たちにもとても大きな喜びでした。特に「主が大きな憐れみを彼女におかけになったことを聞いて」喜びました。神さまはエリサベツを忘れていなかったね、心にかけてくださっていたね、すばらしいことをしてくださったね、と喜びました。
12月16日(月)ルカ一59~61
 赤ちゃんには神さまによってもう名前が決められていました。ザカリヤはエリサベツに字を書いて伝えたのでしょうか。エリサベツは神さまが決めた名前を知っていて、「ヨハネ」という名にしなくてはいけないと言いました。でもそれを知らない人たちは反対しました。
12月17日(火)ルカ一62~64
ザカリヤのこたえも「その名はヨハネ」でした。その途端、口のきけなかったザカリヤが、神さまを賛美し始めたのです。ザカリヤは話ができない間、いろいろなことを思ったでしょうが、何も言えませんでした。もし今度話ができるようになったら何を言おうと考えていたかもしれません。でも最初に口からあふれ出たのは神さまへの賛美でした。
12月18日(水)ルカ一65~66
その場にいた人々は不思議な出来事をみて驚きました。話せなかったザカリヤが突然神さまを賛美し始めたからです。この赤ちゃんはすごい人になるのかもしれないと思いました。ヨハネは神さまに守られていました。
12月19日(木)ルカ一67~71
 ザカリヤは神さまが約束どおりにしてくださる方がだとほめたたえました。「神さまは言ったとおりのことをしてくださる、救い主によって、私たちを敵の手から救い出しくださる、約束を忘れないお方」とほめたたえました。
12月20日(金)ルカ一72~75
「神さまは、昔の人たちも憐れみを受けてきたように、また昔の人たちと約束をされたように、誓ったことをちゃんとやってくださいます。敵の手から救い出された私たちは神さまに言われた言葉に心から従います」とザカリヤの賛美は続きます。
12月21日(土)ルカ一76~80
最後にザカリヤは息子のことを預言して歌いました。「ヨハネは預言者として働きます。救い主の前に人々の心を悔い改めさせて、救い主のところへ案内します。人々は神さまの憐れみによって罪がゆるされることを知ります。それは暗闇から光と平和へ導かれることです」。ヨハネは神さまの働きをする人として成長しました。
 
いよいよクリスマスですね。アドベントに入るとクリスマスソングをたくさん歌いますね。最初のクリスマスも賛美がいっぱいありました。マリヤとザカリヤの賛美。そして天の軍勢の大合唱です。そして羊飼いたちの賛美です。
12月22日(日)ルカ二8~10
天使の言葉は「すべての民に与えられる大きな喜び」でしたが、すべての民に伝えられたのではなく、野宿をしていた数人の羊飼いたちだけでした。神さまはどうしてすべての人に大々的に伝えないで、数人の羊飼いだけに伝えたのでしょうか。
12月23日(月)ルカ二11~12
 すべての人のために生まれた救い主は、思いもかけないところにおられました。布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされているのです。羊飼いたちにとっては、家畜小屋におられるイエスさまは、会いにいきやすかったでしょう。自分たちも羊を飼っていて、家畜小屋や動物の餌を入れる飼い葉桶は慣れた場所だからです。
12月24日(火)ルカ二13~14
羊飼いたちはまぶしい光にてらされながら、おびただしい天の軍勢による大合唱を聞きました。それはイエスさまのお生まれを喜ぶ賛美であり、また神さまの栄光と地上の平和を祈る賛美でした。すばらしいコンサートだったことでしょうね。
12月25日(水)ルカ二15~16
クリスマスおめでとうございます。「主がお知らせくださった出来事を見てこよう」と羊飼いたちはみんな思いました。だから喜んで急いでイエスさまを探しに出かけたのです。そして飼い葉桶に寝かされている救い主の赤ちゃんを見つけ出すことができました。
12月26日(木)ルカ二17~18
 突然見知らぬ羊飼いがやってきて、みんな驚いたでしょう。なんでこの赤ちゃんに会いに来たの?とか、だれから聞いたの?とか、不思議でたまらなかったでしょう。でももっと不思議なのは羊飼いたちの話でした。天使が現れて救い主が生まれたと教えてくれたのですから。
12月27日(金)ルカ二19
マリヤはこの羊飼いたちの訪問を心にとめて思い巡らしていきました。すべてのことを理解することはできなかったでしょうし、多くはわからないことだらけだったでしょう。けれどもただの不思議なこととして忘れてしまうことはしませんでした。
12月28日(土)ルカ二20
羊飼いたちは、天使のお告げ通りだったので、さらに喜びでいっぱいになりました。そして神さまへの賛美で溢れていました。羊飼いはイスラエルでは下にみられるような生活をしていた人たちでした。けれども自分たちは神さまから忘れられていないと、天使を通して知ったのでした。こうして羊飼いたちの生活には賛美が与えられました。
 
今年もあとわずかです。1年を振り返るとどんな年でしたか。自分ではわからないかもしれませんが、きっとたくさん成長していますよ。
12月29日(日)ルカ四14~15
イエスさまは、ガリラヤ地方で聖霊の力によって活動されると、たちまちうわさが広まりました。「すごい人が現れたよ。病気を治したり悪霊を追い出したりできるんだ」。「もしかして救い主?」。聖書のお話も聞いていると希望がわいてきて、みんなはイエスさまを尊敬しました。
12月30日(月)ルカ四16~19
 イエスさまが読んだ聖書の箇所は、イザヤ書六十一章でした。救い主によって、貧しい人に生きる希望の言葉が語られ、囚われて不自由な人が解き放たれて自由にされ、見えなかった人が見えるようにされていくというイザヤの預言の言葉でした。
12月31日(火)ルカ四20~21
イエスさまはみんなの前でイザヤ書の言葉について「今日この言葉は実現した」とお話されました。イザヤはイエスさまのことを預言していました。だからイエスさまがイザヤの預言していたことをしているので、今日、この言葉は実現した」と言われたのです。
1月1日(水)ルカ四22
あけましておめでとうございます。新しい年も神さまがあなたを神と人から愛される人として成長させてくださいますように。
イザヤの言葉はわたしのことをいっているのだ、と言ったイエスさまの言葉に、聞いていた人々は「この人はすごい!でもこの人は大工ヨセフの息子だ。どうしてこの人がイザヤの預言していた人だというのだ」と疑いだし、信じることができませんでした。
1月2日(木)ルカ四23~24
 ナザレの人々はイエスさまの軌跡のうわさを聞いていたので、ふるさとナザレでも見せてほしいと思っていました。けれども小さい頃からイエスさまのことを知っていたナザレの人々は、イエスさまが奇跡を行えるのは自分たちを超えたお方であるから、ということは、認めたくありませんでした。
1月3日(金)ルカ四25~27
預言者エリヤとエリシャは自分の国の人をいやしたのではなく、外国人をいやしました。ユダヤ人をそっちのけにして、外国人が恵みを受けたことを語ることによって、イエスさまもまた別の町では奇跡を通して神さまの力をあらわしても、ふるさとナザレではなさらないことを語られました。奇跡を見てもナザレの人にとっては、イエスさまは大工の息子としか、みることができなかったからです。
1月4日(土)ルカ四28~30
自分たちの思いに沿わないので、イエスさまを崖から突き落とそうとするほど、人々は怒りました。自分の思い通りにない人はいならかったのです。