(2013年6月「りばいばる」奉仕局だより)

「『奉仕局』として考える」

            奉仕局長 内藤達朗

『この世界に仕える教会を目指し』

 
 私は日本ホーリネス教団の様々な歩みの中で、教会が仕える社会的責任について考えさせられてきた。

 1988年頃の同和問題、その後、昭和天皇の即位礼や大嘗祭の課題、日本福音同盟総会での「戦後50年にあたってのJEA声明」採択に対し、昭和の弾圧を経験した日本ホーリネス教団も、1997年3月に教団総会で「日本ホーリネス教団の戦争責任に関する私たちの告白」が決議された。それに伴い「福音による和解委員会」が設立。そのような中、当教団牧師による性加害事件が1999年発覚、教団としては人権対策室、セクシャル・ハラスメント相談室の創設となった。

 このような経過の伏線に教会の社会的責任が提唱された1974年からのローザンヌ世界伝道会議(マニラ、ケープタウンと)がある。当教団も「包括的福音」が施政方針の中で受け止められるようになった。

人間に与えられた使命それは教会に

 
創世記1章26節28節には、

 『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と地のすべての這うものとを治めさせよう」。』

 神は創造した私たちに命令した、「治めさせよう、」「地を従わせよ、治めよ」、と。つまり、神は創造した私たちに、創造したこの世界を治めるようにという使命を与えた。それが教会に与えられている使命である。

 地を従わせ、治めるということは、治める行為が、語られた神に係わっている。神の創造にはそれぞれに、神の思いと考えと意志と計画があってのことである。したがって、その神の思いを土台にして治めることは第六日に創造された人間には必須である。そして、この世界はそれぞれが単体で作られ、単体で存在してはいない。すべての創造物は互いに関係して造られている。第一日の創造があって第二日、第三日の創造があるように、第六日の創造があり、人間にその統体(ホリスティック)としての世界を治めるようにと委託されている。この神の意志と計画を土台にして人間がこの世界を治めることである。

 人間が神のかたちにかたどって造られたとは神が人間を信任しているということである。治める私たちは、神から信頼されていることを自覚し、この世界を治めることである。この世界での治める働きは、神の創造のみ旨を第一にし、創造された統体としての世界の「秩序」を大事にして、それを犯さないように治める必要がある。しかし、人間はこれまで神の秩序を無視して、人間中心的に運営してきた。それがこの世界を混乱と危機、破壊へと導いている。

 ケープタウン決意表明によって「私たちは、伝道と社会的政治的参与の両方が、ともに私たちキリスト者のつとめであることを確認する。」(いのちのことば社・ケープタウン決意表明39~40頁)とされ、伝道と社会的責任が同等に置かれている。

 しかし、創世記の1~3章によると、神が創造された人間がこの世界を神のみ旨に従って治めるのであるが、その後にこの治める使命にある人間が罪を犯している。そして、その罪の赦し、救い主の出現が預言されている。それは、治める人間が罪を犯したままではその使命を果たせないからである。そのために救い主が預言され、その救いの実現のために救いの歴史がある。その歴史の長さと、聖書におけるその救いの叙述の長さのために、治める使命が軽視されてきた。福音派は、社会派ではないという自己理解に立ったため、この世界を治める働きを軽視してきた。本来は、伝道と社会的責任が同等ではなく、この世界への使命を果たすことが主であって、救いはそのためであるという理解をもたねばならなかった。その使命を軽視したため、救いが全てとなり、教会の使命は人々を救うため、沢山の人々を救うため、そのための教会成長と理解されてきた。そこで、救われないことにいら立ちを覚え、教会が成長しないことに失望感をもち、それらが閉塞感をもたらすことの大きな原因となっただろう。私は、この長い教会の閉塞感は、この世界への使命に教会が立つためだったのではないかとさえ感じている。

 このような理解と使命感がなければ、様々な今日の社会における課題に係わることはできない。この使命観の欠如が、この世界を治める業の放置となり、その働きを神のみ心を考えない者たちに委ねてきたことにより社会の混乱を生み出していることとなっている。逆に、このような使命感を基に、社会に遣わされていく時、牧師はもちろん、教会員たちの日々の生き方に力が与えられるのではないだろうか。

 私たちはこの使命に立ってこの社会に遣わされ、仕事をしている。この自覚を持って主の世界に仕えよう。