私は子どもの頃家族でトランプやゲームをして負けると、すぐに怒っていました。負けず嫌いで負けを認めるのが難しかったのです。 7月6日(日)ヤコブ一19〜21  聞くって難しいですね。聞いているうちに思ったことを言いたくてしかたがなくなり、その人の話をさえぎって、自分の考えを言ってしまったことがあるでしょう。それでいて自分の言うことは聞いてほしいと思っている私たちです。神さま、御言葉と人の言う話を最後までちゃんと聞く心を与えてください。 7月7日(月)ヤコブ一19〜21  怒りについては「怒るに遅く」とありますから怒ってはいけないというわけではないですね。でも私たちは頭に来るとすぐに怒ってしまいます。まるでスイッチを押されたみたいに反応してしまうことがあります。怒ることを遅くすることも難しいものです。神さま、怒る前に深く息を吸って心を落ち着かせることができますように。 7月8日(火)ヤコブ一19〜21  私たちは、だれかのためや、正しいことが行われていないことを怒ります。でもそれでカッとなってしたことが人を傷つけたり罪を犯してしまったりすることもあります。私たちは自分を中心に考えてしまうからです。 7月9日(水)ヤコブ一19〜21 私たちは自分が自己中心で、19節とは真反対の「聞くのに遅く、語るに速く、怒るに速い」ものたちです。だからそういう私たちであることをよく心に留めておきたいものです。そういう私たちだからこそ御言葉が必要なのです。 7月10日(木)ヤコブ一22〜24 「聞くに速く」と言われたように、聖書の御言葉をよく聞いていると、神さまが私に言われている言葉がわかるようなります。それを行うことは大切なことです。私たちはいろいろな良いことを聞いて知っています。でも聞いて終わっていることが多くあります。御言葉はそうではなく、行うことができますように。 7月11日(金)ヤコブ一25 「聞いたことを行う」ことはすぐにはできないかもしれません。どうしたらいいかわからない時があります。勇気がない時もあります。でもいつも御言葉を覚えていると、必要な時に行う力と勇気が与えられます。 7月12日(土)ヤコブ一26  「口ではいつも偉そうなことを言っているのに、あの人は自分では何もしない」と言われたら辛いですね。私たちは人に言うのは簡単ですが、自分ではできていないことが多いのにそれに気づいていないものです。だから人のことをとやかく言うより、自分が御言葉を生活の中でどうやって行うかを考えていきたいですね。そうやっていつも御言葉を心で思い出しているなら、行う人にされていくからです。  コリントの信徒への手紙は、パウロがコリントにある教会にあてて書いた手紙です。パウロは教会のことを、私たちの体ととても似ていると書いています。 7月13日(日)Ⅰコリ十二12〜13  私たちの世界にはいろいろな国の人がいます。そして似ているところはあっても、みんな考え方も感じ方も得意なことも違っています。でもイエスさまを信じ洗礼を受けると、バラバラな私たちが聖霊によって一つにされて、イエスさまのからだにされるのです。教会のことです。 7月14日(月)Ⅰコリ十二14〜16  体はいろいろな部分からできているというパウロの言葉になるほどと思います。確かに足が手ではないから体の一部ではないといったところで、体の一部でなくなることはありません。私たちも、あの人のようでないから、イエスさまの体でなくなるということことはないのです。 7月15日(火)Ⅰコリ十二17〜20  私たちは一人だとできないことがたくさんあります。でもいろいろな人と組み合わさることで、できなかったことができていくことがあります。イエスさまのからだである私たちも、目の人、耳のひと、手の人、足の人とそれぞれが合わさって一つの体となることができ、イエスさまをあらわしていくのです。 7月16日(水)Ⅰコリ十二21  私たちにとって、自分の体でいらないところはありません。それと同じようにイエスさまの体である一人一人に、いらない人はいないのです。自分も、だれかも欠けてはならない大切なイエスさまの体の一部です。 7月17日(木)Ⅰコリ十二22〜25  私たちは何もできていないように思うと、そこにいてはいけないように思います。活躍している人、強くしっかりしている人の方が良くて、そうでないとダメに思えるかもしれません。でもそうではないのです。私は弱くて力がなくても、その私も、大切な体の一つとしての働きがあり、必要とされているのです。 7月18日(金)Ⅰコリ十二22〜25  自分の体の一部たちがそれぞれ好き勝手にバラバラに行動することはありません。同じようにイエスさまの体の一部である私たちは、自分勝手にバラバラに生きるのではなく、お互いに他の人のことも思いやって聖霊によって一つにされて、一緒に生きるものたちなのです。 7月19日(土)Ⅰコリ十二26〜27  私たちはみんなが合わさってイエスさまの体にされています。私たちは体の中に痛いところがあると元気が出ません。そこが気になってつい「痛い、痛い」といってしまいます。同じように、イエスさまの体の一部であるだれかが、喜んでも、苦しんでも、同じ体の一部である私たちもうれしいしい、苦しいのです。  私たちは、あの人みたいにできたらなあ、この人みたいにこれを持っていたらなあと思うことがあります。でも私たちが一番持っていたいもの、必要なものは愛なのです。 7月20日(日)Ⅰコリ十三1〜3  お友だちを教会に連れてくるのが得意な人がいます。献金をたくさんできる人がいます。イエスさまのことを伝えるのが上手な人がいます。それらはみんなイエスさまを信じた人に与えられた良いものです。でもそういうことをするときに、持っている必要のある大事なものがあります。それは愛です。 7月21日(月)Ⅰコリ十二1〜3  私たちは良いことをして、ほめられたり喜ばれたりすると、とてもうれしいし、自慢したくもなります。それは悪いことではありません。でもほめてもらいたいとか、認められたいためだけに、良いことをしているとしたら行き詰まってしまいます。もしほめてもらえなかったり認めてもらえなかったら、人を悪く思ったり、「してあげたのに」と文句が出てしまうかもしれません。そこには愛がないからです。 7月22日(火)Ⅰコリ十三1〜3  神さまの前には、愛がなければ、どんな立派なことも、人々からほめられるようなことでも、意味がないのです。でも私たちは、だれかのことを思って愛を持って何かをすることがなかなかできません。神さま、どうぞ私に愛する心を与えてください。自分のためではなく、人を愛してすることができますように。 7月23日(水)Ⅰコリ十三4〜7  私たちはパウロが書いている愛とは反対のことをしてしまいます。我慢できないことがあるし、人のことを妬んでしまいます。自分のことばかり考えてしまうし、人にされたことをいつまでも怒っていることもあります。神さま、私は愛と反対のことをしてしまいます。聖霊が私を愛する者に造り変えてください。 7月24日(木)Ⅰコリ十三8〜10  今私たちに大切で必要だと思う多くのことが、やがて必要ではなくなる時がやってきます。それは今の世界が終わる時です。でも愛はなくなりません。愛は私たちにとっていつまでも、なくてはならないものなのです。 7月25日(金)Ⅰコリ十三11〜12  イエスさまを信じていると、聖書の言葉が本当だとわかってきます。そしてイエスさまのことをますます知るようになります。でもイエスさまのことを本当にすっかり知ることができるのは、今の世界が終わって新しい世界になる時です。 7月26日(土)Ⅰコリ十三13  新しい世界でも信仰と希望と愛はなくなりません。その中で一番は愛です。だから神さまのあふれる愛を受けた私たちは、新しい世界でも神さまと人を愛して生きるのです。  夏休みですね。宿題を計画的にできたらいいですね。楽しい夏休みでありますように。 7月27日(日)Ⅱコリ九6〜7  私たちは、お金がたくさんあったら、献金ができるようになると思います。でも本当はそうではないのです。お金があっても、献金を取り分けておかなかったら、いつの間にかお金は無くなっています。だからいつかまたお金が貯まったら献金しようと思ってもなかなかできないものです。 7月28日(月)Ⅱコリ九6〜7  「豊かに蒔く者は、豊かに刈り取る」と書かれていますが、「豊か」とはどれくらいでしょう。お金の額が大きいことのように思えます。でもお金が多いか少ないかということではないでしょう。神さまへの感謝の気持ちをいつも持っていることです。感謝の気持ちがいっぱいだと、献金だけでなく、他にも神さまに喜ばれることがしたくなります。 7月29日(火)Ⅱコリ九6〜7  献金が惜しいなあという気持ちになることもあるかもしれません。他に使いたい時もあるでしょう。いやいや渋々してしまったこともあるかもしれません。でも神さまは、私たちに命をくださり、また生きていくためのあらゆる必要をくださっています。神さまの与えてくださったものがどんなにたくさんなのかを思い出して、私たちも喜んでささげることができますように。 7月30日(水)Ⅱコリ九8〜9 献金したらお金が減って損をするように感じられますか?大丈夫です。「神は、あらゆる恵みをあなた方に満ち溢れさせることがおできになります。」すばらしい約束です。神さまがいつも私たちの心を満たしてくださって、損したなどと感じることはないのです。 7月31日(木)Ⅱコリ九8〜9  神さまは、献金する私たちに必要を与えて生活を支えてくださいます。だから時には困っている人や必要な場所にささげる分も神さまが私たちに与えてくださいます。助け合って生きるように私たちをお用いくださいます。 8月1日(金)マルコ十二41〜44  女の人の献金はお金持ちの人の献金の多さに比べたらとても少ないお金でした。でもイエスさまはびっくりするようなことを言いました。「誰よりもたくさん入れた。この人は生活費全部を入れたから。」全部ささげてもいいと思うほどに、女の人は神さまへの感謝があふれていたのです。 8月2日(土)マルコ十二41〜44  女の人はどうして貧しい生活をしているのに、持っている生活費を全部ささげることができたのでしょうか。神さまが自分の生活の面倒見てくださると信じていたからです。空の鳥や、野の花が神さまに生かされているように、自分も守っていただけると信じていました。  8節の「光の子として歩みなさい」は覚えやすいですね。私も小学生のころ覚えた聖句の一つです。 8月3日(日)エフェソ五6〜7  もし「こんなことをしたらあなたはもう愛されなくなる」「こういうことをしなかったらあなたは失格だ」と言う人がいたら、その言葉にだまされてはいけません。私たちは罪を犯したり、失敗したりすることがあります。なかなか御言葉を実行できないかもしれません。でもそれで失格になりません。神さまの愛も無くなりません。罪を犯したら悔い改めればいいのです。失敗したらやり直せばいいのです。イエスさまを信じる人は、愛されなくなったり、見捨てられたりしないからです。 8月4日(月)エフェソ五6〜7  イエスさまが教えてくださったこととは違うことを教える人がいるかもしれません。聖書には書いてないのに、「神さまがこういった」と言って私たちを間違った道へ連れて行こうとする人がいるかもしれません。だからお祈りしましょう。神さま、私たちが神さまの言われる正しいことを知ることができるように助けてください。 8月5日(火)エフェソ五8〜9  イエスさまを信じない生活は、暗闇の中を歩いているようなものです。光が見えないので、正しい方向がわからないで、迷子になってどうしていいかわからなくなってしまいます。でもイエスさまを信じると心の中にイエスさまが光となってきてくださるので、もう闇ではないのです。光とされているのです。 8月6日(水)エフェソ五8〜10  私たちは「光の子」です。光の子はどんな子でしょう。イエスさまにいつも希望を持っている人です。私たちは落ち込んだり、元気をなくしたりすることがあります。とても辛いところを通ることもあるかもしれません。でもイエスさまにお祈りすること、期待することをやめない人は心に光を持ち続けます。 8月7日(木)エフェソ五8〜10  私たちが頼ることをイエスさまは喜んでくださいます。イエスさまに頼る人は、イエスさまの言葉を聞いて、その通りに生きようとするからです。それが光の子なのです。 8月8日(金)エフェソ五11〜14  イエスさまを礼拝し、聖書の言葉を聞いていると、イエスさまが喜ばれないことがどんなことかわかってきます。自分の心にもイエスさまの光が照らすので、自分の心の罪が見えてくるのです。自分の罪が見えたら正直になって悔い改めることができますように。 8月9日(土)エフェソ五41〜44  闇の生活は隠そうとし、見えないようにします。でもイエスさまは、私たちがもう隠さないでいられるよう救ってくださいました。光の子としてくださいました。  私たちは人と交わりを持ちながら過ごしています。同じように私たちは神さまと交わりをも持っているのです。 8月10日(日)Ⅰヨハネ一1〜2  この世界の初めからイエスさまはおられました。そのイエスさまが人間になってきてくださり、弟子たちと神の国を伝えてくださいました。この手紙を書いたヨハネも、イエスさまのそばでいろいろな教えを聞いて、イエスさまのなさることを見て、三年間一緒に生活しながら過ごしました。だからこの手紙はイエスさまのことをそのまま教えてくれています。 8月11日(月)Ⅰヨハネ一3〜4  交わりといったら、話をしたり、一緒に遊んだり、ご飯を食べたりして過ごすことです。では目に見えない神さまとどうやって交わりができるのでしょう。私たちの礼拝は神さまとの交わりの時間です。またお祈りも、賛美も、一人で聖書を読んだりすることもそうです。生活の中で御言葉を思い出してどういうことか考えることも、自然に心の中でどうしたらいいですかとお祈りしていることも神さまとの交わりなのです。 8月12日(火)Ⅰヨハネ一3〜4  私たちはどんな時にうれしくて たまらなくなるでしょう。がんばった成果があった時。欲しい物をもらえた時。ほめられた時。いろいろあります。でもそれ以上に信じる人がみんなうれしい気持ちであふれるようになるのは、神さまとイエスさまと交わりを持つことなのです。 8月13日(水)Ⅰヨハネ一5〜7 教会で神様を礼拝し、自分で聖書を読んだりお祈りをしたりしていると、神さまが私たちの心を光で照らされます。罪に気付かされて悔い改めるようにされます。答えが与えられたり、勇気や力が与えられたりします。だから光である神さまと交わりをしていると、罪と闇から離れていくようにされるのです。 8月14日(木)Ⅰヨハネ一5〜7  神さまを信じていると、私たちは光の中を生きているのです。そして神さまの前に罪を隠したり、罪を裁かれることを恐れたりしなくて大丈夫だとわかります。私たちのどんな罪も、イエスさまの十字架で流された血が私たちをゆるして清くしてくださると約束されているからです。 8月15日(金)Ⅰヨハネ一8〜10  罪に気がついたら、神さまに告白し、悔い改めることが大切です。神さまのゆるしを受け取って、清くされて生きることが光の中の歩みです。 8月16日(土)Ⅰヨハネ一 8〜10  罪を犯したことがない人はいません。もしいたなら、私たちはもっとお互いに仲良くできたでしょう。妬んだり、憎んだりしないでしょう。でも私たちはイエスさまによってゆるしていただかなくてはやっていけない者なのです。  「互いに愛し合おう」と書いているヨハネは、かつて雷の子とイエスさまから呼ばれた人でした。でもイエスさまによって愛する人に変えられました。 8月17日(日)Ⅰヨハネ四7〜8  愛し合うって聞くと、好きな人同士がつき合うことみたいに聞こえます。でも聖書のいう愛し合うことは、自分の好きでない人のことも大切にすることです。相手のことを考えて生活することです。 8月18日(月)Ⅰヨハネ四7〜8  「あの人のことは愛せないなあ」と思うことがあるでしょう。そうだとすると、愛せないから神を信じない人、神を知らない人になるのでしょうか。人を愛することが難しいことを知っているのは大事なことです。どうしたらその人のことを愛せるのかなと考え、お祈りしながら進むことは愛を生きているのです。 8月19日(火)Ⅰヨハネ四9〜10  イエスさまが十字架で死んでくださり、死からよみがえられたのは、私たちを愛してくださったからです。イエスさまは十字架でとても苦しいのに、自分を十字架につけてののしる人たちのために「彼らをおゆるしください」と祈られました。大好きな人だけでなく、愛するのが難しい人のことも大切にしていけるように、イエスさまが愛を見せてくださいました。 8月20日(水)Ⅰヨハネ四9〜10  神さまがはじめに私たちを愛してくださいました。イエスさまが来てくださったのも、私たちの罪をゆるすための十字架の死も、私たちを愛しているから、してくださったのです。だから私たちが愛したら神さまも愛してくださるのではないのです。もう神さまは初めから私たちを愛してくださっているのです。 8月21日(木)Ⅰヨハネ四11〜12  神さまがどんなに自分のことを愛してくださっているかを知れば知るほど、私たちは心がうれしくなって、私も人を愛したいなあという力になります。そして私たちがだれかを愛して大切にしていくなら、神さまが愛してくださっているのはこういうことなんだと、他の人もわかるようになるのです。 8月22日(金)Ⅰヨハネ四13 イエスさまを信じる私たちには、聖霊が住んでくださっています。聖霊は私たちに、神さまの愛の中に自分がいることを教えてくれるのです。神さま、どうぞ聖霊によってもっとあなたの愛を教えてください。 8月23日(土)Ⅰヨハネ四14〜16a  私には愛がないと思うことがあるでしょう。私が愛することができなくても、イエスさまを信じる私の心に神さまがいてくださり、愛を与えてくださいます。だから「神さまはあなたを愛しているよ。私も愛されていることを知って心が安心したよ。」と愛を伝えることで愛は届けられるのです。  この世界はやがて終わります。そして私たちの想像を超えたすばらしい世界がくるのです。 8月24日(日)黙示録二一1〜2  終わりが来ると寂しい気持ちや、残念な気持ちになります。でもほっとする終わりがあります。今の世界が終わって新しい世界がきたら、私たちはほっとできるのです。海もなくなってしまうのは、悪魔や罪とつながっているものがなくなるということです。もう私たちを神さまから引き離す世界が終わるので、私たちはほっとできるのです。 8月25日(月)黙示録二一1〜2  エルサレムはイスラエルの中心の町です。そしてイエスさまが十字架にかけられた町です。でも神さまの思いに反対した古いエルサレムはなくなって、新しいエルサレムが現れます。新しいエルサレムは、イエスさまを信じる人たちの町です。もうイエスさまに反対する人はいないのです。 8月26日(火)黙示録二一3〜4  今も神さまは信じる私たちの中に住んでくださっています。でも目には見えないし、いつもはっきりと感じられるわけではないので、わからない時もあります。でも新しい世界では、何にも邪魔されることなく、きよい神さまと私たちが共に住むようになるのです。 8月27日(水)黙示録二一3〜4  古い世界にはあったけど新しい世界にはないものがあります。悲しいことや苦しいこと、どうしてこんなことがあるのですか?と嘆くことも、心や体が痛むこともありません。死も罪も病気もないからです。それは古い世界と一緒に終わるのです。 8月28日(木)黙示録二一3〜4  私たちはこの世界で生きていると、涙を流すことがなくなりません。でも新しい世界では神さまが、今の世界で流した涙をふいてくださり、もう悲しみは終わったんだよ、と言ってくださいます。それは古い世界の涙が無駄になることなく、慰めの世界で私たちが安心して生きられるということです。 8月29日(金)ヨハネ十一33〜44  ラザロが死んだとき、イエスさまは姉のマリアの涙を見られました。そしてイエスさまも涙を流して一緒に悲しまれました。でもラザロはイエスさまの呼びかけで死からよみがえりました。イエスさまは涙で終わらない世界があることを見させてくださいました。 8月30日(土)ヨハネ二十11〜18  お墓に納められたはずのイエスさまの体がなくなってしまい、マグダラのマリアは悲しくて泣きました。でもイエスさまが生きておられることを知った時、マリアの涙は拭われました。何もかも終わってしまったと思っていたのに、もっとすばらしいこと起こっていたからです。希望が見えて喜んだだけでなく、心から慰められたのでした。  ヨナは神さまに逆らいました。でもそのヨナに出会った船乗りたちは、嵐の中で本当の神さまに出会いました。 8月31日(日)ヨナ一1〜3  預言者なのにヨナは神さまの命令に従いませんでした。「いくら神さまが言われることでもそれはできません」と神さまから離れようとして別の船に乗り込みました。私たちは神さまに従うことが大事だと知っています。それなのに、あなたのいう通りにはしません、と離れていくヨナにびっくりしますね。でも私たちも従うことから逃げていることがあるかもしれません。 9月1日(月)ヨナ一4〜5  船は激しい嵐にあい、乗っている人たちは恐ろしくてたまりませんでした。船が壊れてしまいそうで、もう生きて帰れないかもしれないと思いました。ヨナが神さまに逆らったことは、他の関係ない人たちも巻き込んでしまったのです。それなのに、ヨナは船の底でぐっすり眠っていました。ヨナの図太さにさらにびっくりです。 9月2日(火)ヨナ一6  船長はヨナが寝ているのを見て「こんな時に寝ているとは!」と驚いてあきれたでしょう。ヨナは、こんな時こそ、どうして自分の信じる神さまに祈らないんだと言われてしまいました。そうなのです。私たちはどんな時でも神さまに祈ることができます。それでも船長は、助けてもらえるか自信がありませんでした。でも私たちの信じる神さまは、私たちの祈りに答えてくださるお方です。 9月3日(水)ヨナ一7〜10  くじ引きによって嵐はヨナのせいだ分かりました。ヨナは自分のことを「海と陸とを造られた天の神、主を畏れる者です」と言います。船乗りたちは、ヨナが、天の神さまに背いたために、この大嵐が起こったことを知りました。そしてヨナの信じている神さまが嵐を巻き起こす力ある方であることを知りました。 9月4日(木)ヨナ一11〜13  ヨナを海に投げ込めば海は静まるのです。でも船乗りたちはヨナを殺したくありません。なんとかして陸に向かって船を漕ごうとしました。しかし神さまの巻き起こした嵐を前に、自分たちはどうすることもできないことを知りました。 9月5日(金)ヨナ十一14〜16  ついに彼らはヨナの神さまに祈り、ヨナを投げ込みました。すると嵐が静まりました。彼らはヨナの神さまをおそれました。そしてこの方こそ本当の神さまだと信じ、礼拝しました。 9月6日(土)ヨナ二1〜10  大きな魚に飲み込まれ、ヨナは死なずに助かりました。魚のお腹の中で、ヨナは神さまに悔い改めました。「私はあなたに逆らいました。おゆるしください。命を助けてくださりありがとうございます。今度はあなたに従います。」  ヨナはどうして神さまの言葉に逆らってニネベに行かなかったのでしょうか。 9月7日(日)ヨナ三1〜5  今度はヨナはニネベに行きました。そして40日後にニネベは滅びると町中を伝えて回りました。ニネベの町は罪と悪にあふれていました。だからヨナにはニネベの人々が心を入れ替えるとは思えませんでした。ところが驚くことに神さまの言葉を聞く耳など持たないと思っていた人々が神さまを信じ悔い改めました。 9月8日(月)ヨナ三6〜9  ニネベの王さまも、神さまの言葉を聞きました。すると乱暴でむごたらしく人を苦しめるような人でしたが、自分たちがどんなにひどく悪かったかを認め悔い改めたのです。王は神さまに悔い改めるように町中に命令しました。もしかしたら神さまがゆるしてくださるかもしれないと一生懸命お祈りしました。ヨナを通して語られた神さまの言葉が、ニネベの人々の心を変えました。 9月9日(火)ヨナ三10  神さまはニネベの人たちの悔い改めを見て、滅ぼすことをやめられました。どんなに悪と乱暴にあふれたひどい町でも、本当は滅ぼしたくないのです。どんな人も悔い改めて救われることを望んでおられるからです。 9月10日(水)ヨナ四1〜3  ヨナはニネベの人々がゆるされたことが気に入りませんでした。「だからあなたに従いたくなかったんです。ニネベのような悪い奴らは滅ぼしてしまった方がいいのに。彼らのような人たちには厳しくすべきなんです。」ヨナは自分がゆるされたことを棚に上げていました。神さまに私を憐れんでくださいとお願いするのに、自分の気に入らない人には、神さまが憐れみ深くあってほしくないと思う勝手さを私たちは持っています。ヨナは自分が預言者として伝えた言葉の通りにならないことも受け入れられませんでした。 9月11日(木)ヨナ四4〜5  神さまは怒るヨナに「あなたは怒っているが、それは正しいことか?」と尋ねられました。自分の方が正しいと思うヨナは神さまの思いがわかりませんでした。神さまは、ヨナにも人のことを裁くのでなく、ゆるす人になってほしかったのです。 9月12日(金)ヨナ四6〜11  神さまがくださったとうごまがなくなったとき、ヨナはまた怒りました。神さまは言われました。「あなたは怒るが、それは正しいことか?」ヨナが気に入っていたとうごまは、ヨナが育てたものではないのです。でも彼は惜しみました。 9月13日(土)ヨナ四6〜11  神さまはヨナに言われました。あなたはとうごまがなくなってとても残念に思ったね。私もこのニネベの人たちを失いたくないんだ。彼らも私の大切なひとりひとりだから。  イスラエルが南北二つの国に分かれてしまった後、先に北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされました。残った南ユダはその後バビロン帝国に滅ぼされてしまいました。 9月14日(日)ダニエル一1〜2  南ユダ王国にバビロンが攻めてきました。エルサレムはバビロンの兵隊に囲まれて降参するしかありませんでした。ユダの王ヨヤキムは、とらえられ、神殿の中の金や銀でできた大切な道具と一緒にバビロンに連れて行かれました。ユダの人々が神さまの言葉に従わなかったので、国が滅ぼされてしまったのです。 9月15日(月)ダニエル一3〜5  バビロンには、他にも王さまの親戚や、貴族などの高い地位の人たちも連れて行かれました。彼らは健康で、顔も体つきも格好が良く、小さい時からユダ王国を支えるために勉強してきた若者たちでした。だから彼らにはバビロンの王さまのために働いてもらうのです。そこで若者たちは、バビロンのことをたくさん勉強することになりました。 9月16日(火)ダニエル一6〜9  ダニエルとその友だち3人もこの若者たちの中にいました。彼らには一つ困ったことがありました。それは出される食事が、  神さまの喜ばれないものだったのです。王さまも食べるような立派な料理ですが、届く前に偶像にささげられていたからです。彼らは神さまに喜ばれない食事は食べないことにしました。そして自分たちの世話をしてくれる役人に、食事についてお願いしたのです。神さまも彼らの信仰による決心が守られるように助けてくださいました。 9月17日(水)ダニエル一10〜13  ダニエルたちの世話をする役人は心配でした。野菜と水だけだったらダニエルたちはお腹が空かないでしょうか。元気をなくし、病気にならないでしょうか。他の若者たちより顔色が悪ければ、役人が王さまに罰せられてしまいます。私たちでも思います。野菜と水だけいいの?本当に大丈夫なのか、彼らはまず10日間試すことにしました。 9月18日(木)ダニエル一14〜16  10日後の結果は、ダニエルたちの方がだれよりも顔色がよく、体もしっかりしていました。神さまの喜ばれる食事をしたいという決心に神さまが答えて彼らの健康を守ってくださいました。 9月19日(金)ダニエル一17  神さまはこの四人の若者たちに、バビロン王のもとで働くための知識と、本を理解する能力と知恵を与えて、彼らが用いられるようにされました。神さま、私たちにも必要な知恵と理解力を与えてください。 9月20日(土)ダニエル一18〜21  王さまには、彼らほど優秀な人はいないとわかりました。彼らはユダヤ人でしたが、バビロンで用いられました。  私たちがどんな時も天地を造られた神さまだけを信じ拝むことからそれませんように。 9月21日(日)ダニエル三1〜6  バビロンのネブカデネツアル王が大きな金の像を造りました。そこで国中のリーダーたちを集めてお祝いをすることにしました。お祝いの式で、王は集まった人々に金の像を拝むことを命令しました。金の像を造ることもそれを拝ませることも、王の力がどんなに強く大きいかを人々に示そうとしたのです。 9月22日(月)ダニエル三7〜12  たとえ金の像を拝みたくなくても、拝まないことはとても勇気のいることです。なぜなら王さまは、金の像をひれ伏して拝まない人はだれでも、燃える火の中に投げ込むと言ったからです。金の像を拝まなかったのはダニエルの仲間、シャデラエク、メシャク、アベド・ネゴの3人でした。彼らは天地を造られた神さまだけを信じて拝んでいたからです。 9月23日(火)ダニエル三13〜15  自分の言う通りにしない人がいることは、王さまにとって一番腹立たしいことです。なんとかして言う通りにさせなければ、王さまとしては都合が悪いのです。王さまはもう一度彼らに金の像を拝むように命令しました。拝まないなら本当に燃える火の中に投げ込むと言いました。「私の手からお前たちを救い出す神などいない。」王さまは自分がどんな神よりも強いと思っていました。 9月24日(水)ダニエル三16〜18 火の中に投げ込まれることがわかっていても、どうして3人は金の像を拝まないでいられたのでしょうか。彼らは神さまがどんなところからも救い出してくださると信じていました。でも神さまが救ってくださらなかったとしても、神さまに従うつもりでした。神さま、自分の願いが通ることだけでなく、そうならないことが神さまの思いなら、それを受け取ることができますように。 9月25日(木)ダニエル三19〜23  3人が自分の思い通りにならないことで王の怒りはさらに燃え上がりました。彼らを投げ込んだ人たちが、焼き殺されるほど激しく火が燃える炉の中に、3人は縛られたまま投げ込まれてしまいました。 9月26日(金)ダニエル三24〜27  王さまは驚きました。火の中で3人が生きていたのです。縄を解かれて歩いているのが見えました。そしてもう一人神の子のような人がいるのも見たのです。神さまが天使によって彼らを燃える火から、自分の手から救い出したのを彼は見たのでした。 9月27日(土)ダニエル三28〜30  王さまは3人の信じる神さまをほめたたえました。彼らの信じる信仰に神さまがちゃんと答えて救い出したことと、それができるのはこの神さまだけだと認めました。  バビロンが滅び、ペルシャがバビロンを治めるようになりました。ダニエルは新しい王さまのもとでも働いていました。 9月28日(日)ダニエル六1〜6  ダニエルはペルシャの国の大臣になりました。3人いた大臣の中で一番王さまに信頼されていたので、他の大臣はダニエルを妬みました。ダニエルはだれより賢くて、喜ばれる良い働きをしていました。それにダニエルを悪く言いたくても悪いところが見つけられませんでした。ダニエルには神さまが共におられました。 9月29日(月)ダニエル六7〜10  大臣たちはダニエルを罠にかけるため新しい法律を考えました。30日間王さまにしかお祈りしてはいけないという法律です。王さま以外の他のものにお祈りしたらライオンの穴に投げ込まれてしまうのです。天地を造られた神さまだけにお祈りをするダニエルをライオの穴に投げ込んで、ダニエルを殺そうと考えたのです。妬みが大きいと、人を殺そうとするほどになるのです。 9月30日(火)ダニエル六11  ダニエルは新しい法律ができたことを知りました。でもダニエルは家に帰ると、いつものようにお祈りすることをやめませんでした。ダニエルはライオンの穴に投げ込まれるのが怖くなかったのでしょうか。怖くないことはないでしょう。でも自分を自分で守ろうとないで、今まで自分を守ってきてくださった神さまに何もかもお任せしました。 10月1日(水)ダニエル六12〜15  王さまは、ダニエルが神さまにお祈りをして、法律に違反したことを聞きました。そしてこれはダニエルを罠にかけるための大臣たちの悪巧みだったのだと気づきました。でも一度王さまが賛成した法律は、王さまでも変えられないのです。王さまにとってダニエルはとても大切な人でしたので、なんとかしてダニエルを助けたいと考えましたが、どうすることもできませんでした。 10月2日(木)ダニエル六16〜18 王さまはライオンの穴に投げ込まれるダニエルに「お前の信じている神さまがお前を救い出してくださるように」と言いました。王さま自身が、ダニエルの神さまに頼るしかありませんでした。 10月3日(金)ダニエル六19〜25  ダニエルは、確かに生きていました。神さまがライオンの口を塞いでくださったのです。ダニエルはどこも怪我をしていませんでした。王さまは、ダニエルの信じている神さまが本当に守ってくださったことを知りました。 10月4日(土)ダニエル六26〜28  お祈りするものを裏切らない神さまを知った王さまは、国中の人々に伝えました。ダニエルが信じている神さまこそ、生きておられ、私たちのお祈りに答えてくださる救い主だと。