いよいよ三学期が始まりますね。神さまの祝福が豊かにありますように。 1月7日(日)マルコ一1〜5  「福音」は良い知らせです。あなたにとっても、私にとっても良い知らせはどんなことだと思いますか。それは神の子イエスさまが、この世界に人間になってきてくださったことです。それがどうしていいことなのでしょう。イエスさまがしたり、言われたりしたこと全てが、神さまが私たちを愛していることを教えてくれているからです。 1月8日(月)マルコ一1〜5  洗礼者ヨハネは、「救い主が来られるよ」と人々に知らせるために生まれた人です。「救い主をお迎えするために、自分の罪をごめんなさいと悔い改めて、ゆるされるために洗礼を受けよう。」そう言ってヨハネは、人々がイエスさまをお迎えできるように心の準備をしました。神さま、私も罪を思い出したら、悔い改めることができますように。 1月9日(火)マルコ一5〜6  らくだの毛衣を着るヨハネの格好はてとても変わっていましたが、それは神さまの言葉を伝える預言者の姿でした。だから大勢の人がやってきて、洗礼を受けたのです。神さまの言葉を聞いて、罪がゆるされたい、変わりたいと思ったのです。 1月10日(水)マルコ一7〜8  ヨハネが人々に伝えたい大切なことは、「私よりも力のある方」のことでした。ヨハネは多くの人にとって、自分たちに神さまのことを教え導いてくれる偉大な先生でした。でもヨハネは、自分とは比べ物にならないずっと力のあるお方、救い主がこれから来られると伝えました。それがイエスさまなのです。 1月11日(木)マルコ一9〜11 イエスさまは救い主なのに、なぜ他の人と同じように洗礼を受けられたのでしょうか。救い主は罪のない神の子です。でも全ての人が通る必要のあることを、イエスさまも人として同じように歩んでくださったのです。水からあがられるイエスさまに、神様は天から言われました。「あなたは私の愛する子、私が遣わした救い主だ。」 1月12日(金)マルコ一12〜13  私たちはみんな悪魔の誘惑に会います。だれも自分の力では勝つことはできません。でも悪魔よりも強いお方が私たちと共にいて、悪魔の誘惑に勝つ力を与えてくだいます。イエスさま、私にも誘惑に勝つ力を与えてください。 1月13日(土)マルコ一14〜15  ヨハネは王さまの罪を「それはいけない」と伝えたので、牢屋に入れられてしまいました。でもヨハネは与えられた使命をしっかりとやり遂げました。そしてイエスさまが働きを始められる時となりました。イエスさま、あなたを信じる人が増え、神の国が広がりますように。  イエスさまの話すこと、なさることが何もかもすばらしかったので、イエスさまのところには大勢の人がいつも集まりました。 1月14日(日)マルコ二1〜2  この日もイエスさまのおられる家は、入り口まで人でいっぱいでした。みんなイエスさまが語る御言葉を聞きたかったのです。イエスさまの言葉には力があって、神さまの愛がわかり、希望が見えたり、悔い改めようと思ったり、あの人をゆるそうと思ったりしたからです。そして今もイエスさまの御言葉は、聞く私たちを導いくださいます。 1月15日(月)マルコ二3〜4  「ちょっと天井の屋根をはがさせてもらうよ。後でちゃんと直すから。」四人は家の屋根をはがして、病気の人を吊り下ろすというみんながびっくりすることをしました。大勢の人が帰るのを待つことも、明日にしようとも思いませんでした。今イエスさまに会って、癒してほしかったのです。イエスさまが助けてくださると信じていたからです。 1月16日(火)マルコ二5  信じる心そのものは目には見えません。でも四人の行動には、イエスさまならこの病気の人を助けてくださると信じていることがあらわれていました。そしてイエスさまはちゃんとそれを見てくださいました。イエスさま、私もイエスさまを信頼してイエスさまのされることにお任せできますように。 1月17日(水)マルコ二5  イエスさまの言われた言葉は不思議です。「病気よ、治れ」ではありませんでした。「あなたの罪はゆるされた。」でした。「イエスさま、ちょっと待ってください。この人に今必要なのは病気が治って歩けるようになることです。」私たちはそう思います。でもこの人の本当に必要なことは罪がゆるされることだったのです。 1月18日(木)マルコ二6〜8  律法学者たちは、イエスさまに心の中で思ったことを見抜かれてドキッとしたでしょう。イエスさまには人の心の中もわかってしまうのです。罪をゆるすことができる神の子だからです。 1月19日(金)マルコ二9〜11  罪をゆるすと言っても目には見えないので、言うだけなら簡単に思えます。病気を治して人を歩かせることの方がよっぽど難しく感じます。でもイエスさまはだれにもできない罪のゆるしを本当に与えてくださるのです。 1月20日(土)マルコ二12 イエスさまの言葉はその通りになりました。男の人は起き上がり、布団を担いで出ていきました。罪が赦され、病気も癒やされました。彼を運んだ四人の信じる思いがこたえられたのです。神さま、私もだれか苦しんでいる人を、イエスさまのもとに連れていって、イエスさまに助けてもらうことができますように。  イエスさまは、働きをして行くために弟子を作りました。弟子にならないかと声をかけた人は、どんな人だったのでしょうか。 1月21日(日)マルコ一16〜20  イエスさまが弟子になるように声をかけたのは、ペトロとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟でした。四人は漁師でしたが、すぐに漁師をやめてイエスさまの弟子になったのです。どうしてそんなことができたのでしょうか。イエスさまの「私についてきなさい」は「私に従いなさい」という意味の招きの言葉です。言葉に力がありました。イエスさまが言われたらそれが実現していく力です。 1月22日(月)マルコ一16〜20  イエスさまは「人間をとる漁師にしよう」と言われました。それは、イエスさまを信じる弟子を作る人になることです。イエスさまの弟子は、やがて自分もイエスさまの弟子を作る人になるのです。イエスさまが、まだふさわしくなくても、弟子として生きるよう彼らを育て、弟子を育てる人にするのです。 1月23日(火)マルコ二13〜14  徴税人レビは、仕事中に、イエスさまに「私に従いなさい」と言われました。するとレビはその言葉に従いました。彼にとってもイエスさまの言葉には力がありました。すぐにイエスさまのお弟子になりました。 1月24日(水)マルコ二13〜14  徴税人の仕事は、税金を集めることです。イスラエルを支配するローマ帝国に納める税金がたくさんありました。道を通るにも税金を取られました。多めに取り立てるし、支配者ローマの手先のように思われて、とても嫌われた仕事でした。彼らは罪人と呼ばれていました。でもイエスさまは罪人と呼ばれたレビを弟子にしたのです。 1月25日(木)マルコ二15  イエスさまがレビの家で一緒に食事をしていた時、食卓に座っているメンバーの多くは徴税人や罪人でした。どうしてイエスさまはそういう人たちを受け入れたのでしょうか。彼らは神さまからも人からも見捨てられた人だと思われていました。でもイエスさまはだれも見捨てられていないことを示されたのです。 1月26日(金)マルコ二16〜17  イエスさまのすることが理解できないで、あきれている人々がいました。聖書を教える律法学者たちです。ユダヤ人は、立派で正しい先生は罪人と呼ばれる人たちと交わりを持たないのが普通だったのです。でも自分たちが人を分け隔てして、下に見る罪人であることには気づきませんでした。 1月27日(土)マルコ二16〜17 私たちは、自分が正しいと思っていると、本当はだれもがみんなイエスさまの救いが必要なのに、それに気づけません。私たちはみんな、イエスさまが必要な罪人なのです。  イエスさまの弟子たちは、イエスさまと共に生き、働く人たちです。それは神の家族でもあるのです。 1月28日(日)マルコ三13〜15  イエスさまにはたくさんのお弟子さんがいました。その中から十二人を選んで、彼らを「使徒」と呼ばれました。彼らはイエスさまと一緒に生活しながら、イエスさまのそばでイエスさまのすること見て、話すことを聞いて学ぶためです。そして神の国のこととイエスさまが救い主だと伝える人になるのです。 1月29日(月)マルコ三13〜15  彼らは悪霊を追い出す力を与えられます。悪霊によって苦しめられ、 生きることが苦しく辛い人々を、イエスさまは自由にされました。その力を受け継いで、悪霊に捉えられている人を自由にするのです。私たちの心を支配する悪魔の力より、神さまの力は強く、救ってくださることを示すためです。 1月30日(火)マルコ三16〜17 ペトロはあだ名です。ヤコブとヨハネのあだ名はボアネルゲス(雷の子ら)。この三人はさらにイエスさまのそばで大事なことを見たり、聞いたりしました。彼らは新しい名前を与えられて、イエスさまと共に生きる人、神の国に生きる人としてつくられ、育てられていきました。 1月31日(水)マルコ三18〜19  イエスさまの十二弟子、(使徒)となった他の人たちはどんな人だったでしょうか。選ばれた人たちを見てみると、徴税人だった人、ローマの支配に反対運動していた人がいます。他の人も私たちが考える弟子らしい人ではなかったようです。イエスさまによって育てられていくので、最初から弟子らしなくてもいいのです。 2月1日(木)マルコ三18〜19  イスカリオテのユダのことはショックな言葉です。でも私たちもイエスさま信じきれなくて裏切ってしまうことがあります。神さま、私もイエスさまを信頼できなかったり、人の思いを裏切ってしまったりするような弱さがあります。どうぞ私を助けてください。 2月2日(金)マルコ三31〜35  イエスさまの家族は、イエスさまのもとにたくさんの人が集まることや、イエスさまが集まった人たちに、神の国について話していることにとてもびっくりしました。自分の家族がどうしてそんなことをしているのか理解できませんでした。だから集まっている人たちと一緒にそこに座ってイエスさまの話を聞くことができませんでした。でもやがてはイエスさまを信じるようになるのです。 2月3日(土)マルコ三31〜35  イエスさまは、イエスさまの言葉を聞いて、信じて、その言葉に生きる人は、イエスさまの家族だと言われました。イエスさまは自分の家族のことも、神の家族のことも愛されました。  私たちの体にはご飯が必要です。そして心が元気でいられるためにも必要なことがたくさんあります。その必要に、本当に答えることができるのは、イエスさまなのです。 2月4日(日)マルコ六30〜31  イエスさまだけでなく、十二人の弟子たちもとても忙しくなりました。たくさんの人がやってきて、病気を治したり、悪霊を追い出したり、お話をしたりしていたら、ご飯を食べる時間もないほどだったのです。それほどに、多くの人がいつも助けを求めてやってきました。 2月5日(月)マルコ六32〜34  イエスさまは、先回りして集まって待っていた大勢の人をご覧になって、とても深く心を痛められました。みんな、イエスさまが教えてくださる力ある言葉、命の言葉を聞きたいと思っていました。私たちも悩みで苦しくて、どうしていいかわからないことがあります。イエスさまは私たちのことをいつも深く憐れんでいて、苦しみの中を導いてくださるのです。 2月6日(火)マルコ六35〜37 イエスさまは、弟子たちに「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」と言われました。普通ならどう考えてもできないことです。五千人もの人に配れるパンを用意できるお店もないし、お金もありません。でも「あなたがたの手で」と言われたのは、イエスさまが弟子たちにそれをさせてくださるのです。 2月7日(水)マルコ六38〜41  5つのパンと2匹の魚。それでは全然足りません。でもイエスさまはそれをとってお祈りをしました。そしてパンをさいて魚と一緒に弟子たちに渡しました。弟子たちはグループに分かれて座っている人たちにパンと魚をどんどん配りました。「あなたがたの手で」と言われた通りになりました。 2月8日(木)マルコ六42〜44  五つのパンと2匹の魚は、イエスさまがどんなに分けてもなくなりませんでした。そして全員が食べてお腹いっぱいになりました。食べられなかった人はいないし、あまりで十二に籠が埋まるほどでした。イエスさまは、足りないと思えるものをあふれさせて、満たすほどに用いてくださるのです。 2月9日(金)マルコ六41〜44 私たちは、悩みがあまりなく、友だちとも楽しく過ごせている時は、心が元気でいられます。でも何かで不安になったり、悩みが出てきたりすると、途端に心は元気でいられなくなります。でも五千人の心を命の御言葉で、五千人の体を5つのパンと2匹の魚で満たしたイエスさまは、私たちの心と体の必要も満たしてくださいます。 2月10日(土)マルコ六30〜44  イエスさまが私に与えてくださる御言葉を、イエスさまの愛を私もだれかに分けていくことができますように。  イエスさまってどういう人?と聞かれたら、あなたはなんて答えますか。 2月11日(日)マルコ八27〜30  人々はイエスさまのことを、病気を治すし、悪霊を追い出す力を持っているので、普通の人とは違うと思っていました。昔から預言者は、神さまから力を受けて、奇跡を行うことができた人が多かったので、預言者だと多くの人は思っていました。でもイエスさまが預言者よりももっと力のある神の子だとはだれもわかりませんでした。 2月12日(月)マルコ八27〜30  弟子たちはどう思っていたのでしょうか。ペトロが「あなたはメシアです。」と答えたように、弟子たちはみんなイエスさまを神の子救い主だと信じていました。でも何もかもわかっていたわけではありませんでした。神さま、イエスさまのことを、どんどん知って、ますますイエスさまを信じてついていけますように。 2月13日(火)マルコ八27〜30 イエスさまがメシア、救い主であることをどうして弟子たちは、だれにも言ってはいけなかったのでしょうか。みんなの期待する救い主と、イエスさまが救い主としてしようとしていたことが違うので、邪魔されないためには、まだ秘密にする必要があったのです。 2月14日(水)マルコ八31〜32  イエスさまは弟子たちに大切なことを教え始められました。イエスさまは、これから多くの苦しみを受け、ユダヤ人のリーダーたちからのけものにされて殺される、でも三日後に復活するというのです。これを聞いたら、どんな気持ちになりますか。殺されるなんてあってほしくないと思うでしょう。でも大切なことは、三日後に復活すると言われたところまで聞くことです。 2月15日(木)マルコ八33  ペトロは「サタンよ、引き下がれ」とイエスさまに叱られてしまいました。神さまが決めたメシアの働きを邪魔しているからです。ペトロが思うメシアは傷つけられ、殺されるはずはないのです。強くて勝利するはずです。でもイエスさまはよみがえりによって死と罪に打ち勝つメシアです。それが弟子たちにはわかりませんでした。 2月16日(金)マルコ八34〜35 私たちは自分が得をすることばかり考えます。損はしたくありません。でもイエスさまに従う人は、時には自分が損をしてもいいと思って生きることができます。すべてはイエスさまが満たしてくださるからです。 2月17日(土)マルコ八36〜38  イエスさまは私たちのために十字架で命を捨て死なれました。でも死からよみがえられました。だから、私たちは死んだら自分の命を買い戻すことはできませんが、イエスさまが新しい命を与えて神の国で私たちを生かしてくださいます。  祈っても祈ったことがなかなか進んでいない時、祈るのをやめてしまうことがあるかもしれません。でもバルテマイのようにあきらめないでイエスさまに叫び続けたいですね。 2月18日(日)マルコ十46〜47  イエスさまの時代、目の見えない人の働ける場所はありませんでした。だからバルテマイは道端に座ってだれか親切な人が分けてくれる食べ物やお金で生きていました。彼はなぜそんなに必死で叫んだのでしょうか。イエスさまだけが彼の本当に必要な物を与えることができると信じていたからです。 2月19日(月)マルコ十48  どんなに叱られても、黙らせられそうになっても、バルテマイはあきらめませんでした。「私を憐れんでください。」と叫ぶ声は、止められれば止められるほど、どんどん強くなりました。バルテマイはこのチャンスを逃したくありませんでした。イエスさまが必ずこたえてくださると信じていました。 2月20日(火)マルコ十49 イエスさまは、バルテマイの叫びを聞かれました。そしてバルテマイを呼んできなさいと言われたのです。イエスさまが呼ばれたのですから、だれも邪魔はできません。イエスさまは、私たちもあなたに助けを求めて祈る時、どうぞあきらめない心を与えてください。 2月21日(水)マルコ十50  最近躍り上がって喜ぶようなことはありましたか。バルテマイはイエスさまが呼んでおられると聞くと、躍り上がってイエスさまのところまで行きました。どんなにうれしかったことでしょう。イエスさまが自分の叫びを無視されなったことは、バルテマイにとって大きな励ましとなりました。 2月22日(木)マルコ十50  イエスさまが呼んでくださったとわかった時、人々は「安心しなさい」と声をかけました。バルテマイがこの時を逃してはいけないと必死で叫んでいたから、安心させようとしたのです。そしてバルテマイは確かに安心したのです。イエスさまにお話できばもう大丈夫だと安心しました。 2月23日(金)マルコ十51〜52 イエスさまは「何をしてほしいのか」と聞かれると彼はまた見えるようになりたいと言いました。バルテマイはイエスさまにそれができると信じていました。イザヤという預言者を通して、神さまは、救い主は見えない人を見えるようにすると約束しておられました。イエスさまはまさにその救い主なのです。 2月24日(土)マルコ十%!〜52  見えるようになったバルテマイが見たのは、十字架へ向かうイエスさまでした。イエスさまは言われました。「行きなさい」と。どこへ行けばいいのでしょうか。イエスさまの後ろ姿を見ながら、弟子となってついて行きました  貯金は残ったお金からではなく、最初からとっておかないとなかなかできません。献金も、「これは神さまへささげる分」と思って最初からとっておくといいですね。 2月25日(日)マルコ十二41〜44  神殿に献金をささげる箱が並んでいる場所がありました。箱といっても、ラッパの形をしたもので、お金を入れると音がしたようです。ところで献金は神さまへの感謝の思いをあらわしたささげものです。でも音でたくさん入れたことがわかるので、「すごい」と思われるようささげた人もいたかもしれません。神さま、献金が神さまへの感謝の気持ちであることをいつも思い出させてください。 2月26日(月)マルコ十二41〜44  イエスさまは献金をささげる人々を見ておられました。すると、お金持ちが多くのお金を入れる中で、一人の女性が献金を入れるのが見えました。彼女の献金は、二枚の銅貨で、私たちのお金にすると百五十円ぐらいでした。ほとんど音が響かなかったので、だれの目にも止まりませんでした。でもイエスさまは、彼女のことを見ておられ、とても喜ばれたのです。どうしてでしょうか。 2月27日(火)マルコ十二41〜44 彼女は夫が死んでしまい、貧しい生活をしていたやもめでした。人と比べたらたくさんささげたようには全く思えません。でもイエスさまの言葉に私たちはびっくりします。「あの人は、だれよりもたくさん入れたんだよ。持っているお金、生活費を全部入れたんだからね。」そんなことどうしてできたのでしょう。 2月28日(水)マルコ十二41〜44  全部捧げてしまったら、明日からどうやって生活するのかな。私たちはそう思わずにはいられません。でもこの女の人は、貧しい中でいつも神さまが必要なものを与えてくださり、生活を支えてくださることを感謝していました。だからお金に頼らなくても生活できたのです。 2月29日(木)マルコ十二41〜44  私たちは、たくさんのお金があれば献金ができると思います。でもどんなにお金があっても、感謝の気持ちがなければ献金はできません。ささげることを惜しいと思ってしまうからです。 3月1日(金)マルコ十二41〜44 イエスさまが、弟子たちをわざわざ呼び寄せて、あの女の人はね、と言われなければ、だれにも目に止められませんでした。でもイエスさまはそういう人のことも見ていてくださり、わかっていてくださいます。 3月2日(土)マルコ十二41〜44  この女の人は私たちのステキなお手本です。お金がたくさんなくても、神さまによって生きていけると信じていると、心は自由だと教えてくれているからです。神さまを心から信頼できますように。  イエスさまの十字架の時が近づいていました。 3月3日(日)マルコ十四1〜2  祭司長や律法学者たちは、ユダヤ人のリーダーたちです。彼らは、イエスさまが自分たちより人気があり、みんながイエスさまについていくのが許せませんでした。だからイエスさまを殺すことにしたのです。神さまのために働く人たちが妬んで神の子を殺す計画を立てていたのです。神さま、どうぞ妬みに支配されないように私を助けてください。 3月4日(月)マルコ十四3〜5  女の人のしたことは、周りの人にはもったいないことをしたように見えました。1年分の働いたお金ぐらいかかるとても高いものだったからです。でもそんなに高いものを全部イエスさまにささげることはすごいことです。なかなか簡単にはできないことです。 3月5日(火)マルコ十四3〜5 彼女のしたことを厳しくとがめた人は、香油を無駄にしたと言いました。でもささげた人は、イエスさまのために用意したことなので、決して無駄な使い方ではありませんでした。神さま、私たちが、人がなぜそれをしたのかも考えないで、見た目で勝手に判断しないでいられるように助けてください。 3月6日(水)マルコ十四6〜9  香油を売ったお金を、貧しい人々に募金として使うことは、とても良いことです。無駄にならないようにも思えます。でもイエスさまは、「私に良いことをしてくれた」と喜ばれました。と。イエスさまは、香油を注いだ女の人の気持ちを受け取られました。 3月7日(木)マルコ十四6〜9  イエスさまはもうすぐ十字架につけられて殺されてしまうのです。ユダヤ人は、死んだ人の体に香油を塗ってお墓に納めていました。だからこの女の人がイエスさまに香油を注いだのは、これから死ぬことになるイエスさまの体に、ちょうど香油を塗ることとなったのです。今は貧しい人に与えるより、もっとふさわしいことをこの人はしたのだと言われたのです。 3月8日(金)マルコ十四6〜9 イエスさまは、ご自分の命を私たちのために投げ出して、十字架で死んでくださるのです。そしてこの女の人は、イエスさまの愛への感謝を、香油をささげることを通して表しました。それだけでなく、自分のすべてをイエスさまにおささげしたのです。 3月9日(土)マルコ十四6〜9  女の人が1年分の給料と同じぐらい高い香油を惜しみなくイエスさまにささげたのは、それほどに、イエスさまを大切に思っていたからです。十字架に向かうイエスさまに、イエスさまの話を聞いてきた彼女のできる誠意一杯の贈り物でした。私たちもイエスさまの言葉をよく聞くことができますように。  イエスさまは、ご自分がこれから逮捕されて、十字架で死ぬことを知っておられました。それは神さまから見捨てられることでした。だからイエスさまは何度も祈られました。 3月10日(日)マルコ十四32〜34  神の子だから死ぬのは平気でしょうか。いいえ、イエスさまは私たちと同じ人となられました。だから平気ではありませんでした。そして三人の弟子たちの前でも平気な姿を見せていたのではなく、苦しみ悩む姿を見せ、苦しい思いを伝えることもされました。そして一緒に目を覚ましていて欲しいと願われたのです。 3月11日(月)マルコ十四32〜34  十字架で死ぬことは、神さまから見捨てられてしまうことです。私たちの罪を背負ってイエスさまが悪いと裁かれるのです。私たちが神さまから見捨てられてしまったらもうおしまいです。こんな恐ろしいことはありません。それなのに人としてイエスさまはそれを引き受けてくださいました。イエスさましかできないことです。だからイエスさまは死ぬほど苦しいと言われました。 3月12日(火)マルコ十四35〜36 イエスさまもそれを引き受けなくても済むなら、そうしたいと神さまにお祈りしました。神さまには他の方法でも私たちを救うことができるからです。でもイエスさまは自分の思い通りではなく、神さまの思い通りにしてくださいと祈られました。神さまが本当に願うことをするために、イエスさまはお祈りされました。 3月13日(水)マルコ十四37〜38  三人の弟子たちは眠ってしまいました。でも、彼らが本当にどこまでもイエスさまについていくためには、起きて祈らないとできないことでした。これから起こることは、みんなの心が不安でいっぱいになり、逃げ出したくなるようなことだからです。でも起きてお祈りすることができませんでした。 3月14日(木)マルコ十四39  イエスさまはまた離れた場所に行って同じお祈りをされました。イエスさまは十字架に向かうために何度も祈られたのです。神さま、私たちが誘惑に負けてしまわないために、いつも起きてお祈りしていけるように助けてください。 3月15日(金)マルコ十四40 弟子たちはやっぱり起きて祈ることはできませんでした。神さま、心が眠ってしまい、お祈りできなくなることから私を守ってください。 3月16日(土)マルコ十四41〜42  イエスさまが3度目のお祈りを終えた時、イエスさまの心は十字架へ向かう覚悟ができていました。何度もお祈りしていく中で、神さまの思いに心が立てるようされました。私たちはお祈りしていくと、心が神さまの思いと一致していけるのです。それがお祈りの力なのです。  イエスさまは逮捕されて、裁判にかけられてしまいました。イエスさまがどんな悪いことをしたのか調べるためです。でもどんなに調べても、イエスさまに罪はありません。 3月17日(日)マルコ十五1〜5  イエスさまの罪は、自分のことをユダヤ人の王とした、ということでした。ユダヤ人を支配しているのはローマ皇帝です。それなのに、自分を王とすることは、皇帝に逆らうことです。だからイエスさまは大きな罪を犯したと言われました。イエスさまを妬む人々にとっては、どんな手を使ってもイエスさまを死刑にしたかったのです。 3月18日(月)マルコ十五1〜5  ローマの総督ピラトは、イエスさまが本当に悪いのか調べました。でもイエスさまが「私は悪くない」と、自分を守るようなことを何も言わないので、不思議でたまりませんでした。イエスさまはもう十字架に向かうことを決めていたので、自分を守る必要はなかったのです。 3月19日(火)マルコ十五6〜10 ピラトには、イエスさまが訴えられているのは、妬みのためだとわかっていました。だからイエスさまをゆるしたいと思いました。ピラトから見ても、ユダヤ人リーダーのしていることは明らかに、妬みからだとわかるようなことだったのです。神さま、私たちが妬みで心がいっぱいになりそうな時に、妬みに支配されないようにどうぞ助けてください。 3月20日(水)マルコ十五11〜13  ピラトのところには大勢の人々が押しかけてきていました。祭司長たちは彼らに「バラバを許せ」と、ピラトに訴えさせました。彼らはさらにイエスさまを「十字架につけろ」と叫びました。大勢の人々からいっせいに言われたら怖いですね。大勢の声には力があります。もし間違った意見なのに、力を持つならば、それはとても恐ろしいことです。正しいことができなくなるからです。 3月21日(木)マルコ十五14〜15  ピラトには、イエスさまが十字架にかけられるような悪いことを、何一つしていないことがよくわかっていました。ところが群衆の激しい叫びはどんどん強くなりました。ピラトは正しいことを行う力を持っていたのに、群衆の声に負けて、正しいことを行うことをやめてしまいました。 3月22日(金)マルコ十五15 神さま、恐れや不安で正しいことができなくなる私たちです。どうぞ、正しいことを行う勇気と力を与えてください。 3月23日(土)マルコ十五16〜20  ローマの兵隊たちは、死刑になったイエスさまをバカにして、ひどくいじめました。イエスさまを十字架につけたのは、私たちみんなの妬み、人を下にみてバカにする心、ずるい思い、自分勝手な心の罪でした。  今週は、金曜日にイエスさまが十字架につけられる受難週です。イエスさまが私たちのために苦しまれ、死なれたことを思い出してお祈りできたらいいですね。 3月24日(日)マルコ十五21〜24  通りがかったばっかりに、シモンはイエスさまの十字架を担がされ、イエスさまと一緒にゴルゴタへ行きました。イエスさまはそこで十字架につけられました。息子たちの名前が書かれているので、きっとシモンは後でイエスさまを信じたのでしょう。シモンは十字架を担ぐことによって、救い主と出会ったのです。 3月25日(月)マルコ十五25〜27  罪状書とは、その人がどんな悪いことをしたかが書かれるものです。イエスさまは、自分のことをユダヤ人の王と言ったとされて、罪があると裁かれました。でも罪状書は「ユダヤ人の王と言った人」ではなく、「ユダヤ人の王」でした。まさに人々が「ユダヤ人の王」を十字架につけてしまったと示すことになりました。 3月26日(火)マルコ十五28〜32 通りがかりの人も、祭司長や律法学者たちも、そして一緒に十字架につけられた人たちですら、イエスさまをののしりました。「自分を救ってみろ。」「十字架から降りてみろ。」イエスさまはできるのに、十字架からは降りませんでした。私たちを救うために、この苦しみを耐え忍んでくださったのです。 3月27日(水)マルコ十五33〜36  辺りが急に暗くなりました。神さまもまた、イエスさまの十字架を深く痛み悲しんでおられたのです。その場にいるみんながこの暗さに、これは大変なことが起こっていると思いました。イエスさまが叫ぶ言葉によって、天から昔の預言者エリヤがやってきて、本当にイエスさまを救い出すかもしれないと思うほどでした。でも人々が期待する奇跡は起こりませんでした。神さまは別の奇跡を計画しておられたからです。 3月28日(木)マルコ十五37〜38  イエスさまは本当に死んでしまいました。するとその時、神殿にあった神さまと人との間を隔てていた大きな垂れ幕が裂かれました。きよい神さまと罪人の私たちとの間の境目はもういらないという、神さまからのしるしでした。イエスさまによって罪が裁かれたからでした。 3月29日(金)マルコ十五29 死なない奇跡ではなく、死んでいかれるイエスさまを見た百人隊長は、イエスさまを神の子と信じました。死を通して奇跡が起こりました。 3月30日(土)マルコ十五16〜20  イエスさまを最後まで見守っていたのは、女の弟子たちでした。イエスさまは悪いことをした人として死刑にされたのです。だからその人の仲間がそこにいることは、とても勇気のいることでした。  イースターおめでとうございます。イエスさまは、罪と死を勝ってよみがえられました。ハレルヤ! 3月31日(日)マルコ十六1〜6 お墓の入り口を塞ぐ石がすでにどけられていたので、女の人たちは驚きました。さらに驚いたのは、お墓の中に二人の天使が座っていたことでした。でも一番驚いたことは、イエスさまの体がなかったことでした。イエスさまの体に香油を塗りに来たのに、女の人たちは塗ることができませんでした。その必要がもうなくなっていたのです。イエスさまがよみがえられたからです。 4月1日(月)マルコ十六7〜8  天使たちはとてもすばらしいことが起こっていることを教えてくれました。でも女の人たちは、天使に会ったことが恐ろしくて、イエスさまが生きておられることを喜ぶことも、落ち着いて考えることもできませんでした。だからこのすばらしい知らせを伝えることができなかったのです。 4月2日(火)マルコ十六9〜11 最初に生きておられるイエスさまにお会いしたのはマグダラのマリアでした。彼女はイエスさまが生きておられることを弟子たちに伝えました。ところが弟子たちは全く信じることができませんでした。死んだが人が生き返ることはあり得ないと思っていたからです。 4月3日(水)マルコ十六12〜13  田舎に向かって歩いていた二人の弟子も途中でイエスさまとお会いしました。最初は、イエスさまだとは全くわかりませんでした。イエスさまの姿が十字架の前とは違って見えたのです。彼らも弟子たちに伝えに行きましたが、信じてもらえませんでした。死の力より神さまの力の方が強く、大きいとは思えなかったのです。 4月4日(木)マルコ十六14  十一人の弟子たちはイエスさまに会って初めて信じることができました。イエスさまは彼らのことを、「頑固だなあ」と言われました。イエスさまは死んで、生きているはずがないと思い込んでいたからです。神さま、あなたにはできないことがないことをいつも思い出させてください。自分の頑固な思い込みから自由にしてください。 4月5日(金)マルコ十六15〜18 出て行ってだれかにイエスさまのことを伝えるのはとても勇気が必要です。でも伝えていくための必要な力も与えてくださいます。イエスさま、私たちにも、イエスさまのことを伝える勇気と力をください。 4月6日(土)マルコ十六19〜20  イエスさまは天にお帰りになられましたが、弟子たちが、出て行っていろいろな国の人々にイエスさまを伝えました。イエスさまが彼らといつも一緒におられ、どんな時も彼らはイエスさまを伝える力をいただいて進みました。