イエスさまの祈られたことは、聖書の時代の人のためだけではなく、時代を超えて今の私たちのためのお祈りでもあります。 4月2日(日)ルカ二三32〜33  犯罪人はしてはいけない罪を犯した人です。ではイエスさまは犯罪人ですか?いいえ。イエスさまには何の罪もありません。でも他の二人の犯罪人と一緒に十字架につけられました。本当ならこれは取り返しのつかない大変な間違いです。でもイエスさまは私たちを救うために十字架に進んでくださいました。 4月3(月)ルカ二三34 イエスさまは、さらに自分を十字架につけた人々がゆるされるようにお祈りをされました。多くの人は後になってから自分たちが間違っていたことを知ります。でも今はそれがわからないのです。イエスさま、私たちの罪がゆるされるために、苦しみの中でお祈りしてくださりありがとうございます。自分に罪があるなら、それに気づかせてください。 4月4日(火)ルカ二三35〜39 見ていた人々が次々とイエスさまをののしりました。本当に救い主なら、約束された王なら、自分を救ってみろと。犯罪人の一人までも、俺たちと自分を救ってみろと言いました。みんながイメージしていた救い主は、十字架から降りて自分を救う人でした。でもイエスさまの救いは全く違っていました。死からよみがえって、死と罪の力に打ち勝つ救い主なのです。 4月5日(水)ルカ二三40〜43  もう一人の犯罪人は違いました。イエスさまのお祈りを聞いていたら自分は本当に悪かったと思いました。だから十字架から助けて欲しいと思いませんでした。でもイエスさまを救い主と信じて、天国で自分を思い出してくださいとお願いしたのです。彼は死んだ後もイエスさまと一緒にいる救いをいただきました。死ぬその時まで、悔い改める人はゆるされます。イエスさま、私も自分の罪を認めて悔い改めることができますように。 4月6日(木)ルカ二三44 ~46  あたりが暗くなり、まるで世の終わりが来たようになりました。これはただごとでありません。イエスさまが神さまから見捨てられたのです。神さまから捨てられたら救いがないのです。でもイエスさまは全てを神さまに任せて死なれました。 4月7日(金)ルカ二三47 ~49 ローマ兵の隊長は、イエスさまが十字架から降りて自分を救うのを見て信じたのではなく、死んでいく姿を見てイエスさまを神の子と信じました。人が思う奇跡ではなく、神さまの思いが人を救うのです。 4月8日(土)ルカ二三50―56  イエスさまはお墓に納められました。みんなこれで終わったと思いました。でもここから新しいことが始まります。  弟子たちがイエスさまの復活を信じるには少し時間が必要でした。 4月9日(日)ルカ二四1〜5  お墓にあるはずのイエスさまのお体がありません。盗まれたの?どうなってしまったの?びっくりしてとまどっていた女の人たちにとって、天使の言葉はもっと驚きでした。イエスさまは生きておられるというのです。生きておられるのだから、お墓にいるはずはありません。とまどいが喜びに変わりました。 4月10(月)ルカ二四6〜8 弟子たちはイエスさまからに「三日目に復活する」と聞いていました。でもだれも心に留めませんでした。今まで死の力が何よりも強く、死に勝てると思っていなかったからです。でもイエスさまの言葉を聞いていれば、死に勝つ約束の言葉を思い出すことができます。イエスさま、あなたの言葉をよく聞いて、いつも思い出して、その言葉の力を体験できますように。 4月11日(火)ルカ二四9〜12 死んだ人が生き返ることは普通ありません。だから弟子たちは「馬鹿げたこと」だと思いました。「当たり前」の考え方が私たちに神さまのすばらしい働きを信じないようにさせてしまいます。神さま、「当たり前」にとらわれないで信じる者にしてください。 4月12日(水)ルカ二四13〜 24  二人の弟子はよみがえられたイエスさまがわかりませんでした。彼らは「イエスが生きておられる」と言った女の人たちの言葉を、墓が空っぽであることを聞いても、信じることができませんでした。そしてイエスさまの姿も今までとは違って見えたのでしょう。でも何よりもイエスさまに目を開いていただかなければわからなかったのです。 4月13日(木)ルカ二四25 ~27 イエスさまはすぐに「私だよ」とは教えませんでした。なぜでしょうか。まずは聖書の言葉を聞いてほしかったのです。聖書で約束された救い主は、病気を治し、悩んでいる人を助け、悲しんでいる人を慰めるお方です。そして苦しみを受けて私たちを救うと預言されていました。イエスさまこそ、その救い主でした。 4月14日(金)ルカ二四28 ~31 夕食の時でした。イエスさまがパンを手でさいて、お祈りして渡してくれました。すると、二人の目が開かれて「イエスさま!」とわかりました。聖書の話を聞き、食事を分け与えてくださることは、いつもイエスさまがしてくださったことでした。こうしてイエスさまが目を開いてくださいました。 4月15日(土)ルカ二四32―35  二人はイエスさまの話に心が燃えていたことを思い出しました。イエスさま、私たちの心の目を開いてください。み言葉を思い出して、イエスさまの愛の働きに気づくことができますように。  神さまが造られたこの世界はとても良くできています。神さまが造られたもので必要のないものはありません。すてきなことですね。 4月16日(日)創世記一1〜5  世界は真っ暗闇に光が造られたところから始まりました。神さまが「光あれ」言われたら、なかった光が、現れたのです。光のある昼間と暗闇の夜ができました。神さま、私の心が暗闇に覆われそうな時、神さまの光を与えてください。 4月17(月)創世記一6〜13 第二の日、「大空が現れよ」と言われて大空ができ、第三の日、水は「一ヶ所に集まれ」と言われて海ができ、そして乾いた陸地が造られました。「陸地に草や木が出て、種ができ、実をならせよ」と言われるとその通りになりました。神さまの言葉は言った通りになるのです。 4月18日(火)創世記一14〜19 第四の日には、太陽、月、星が造られました。昼間は太陽が世界を明るく照らし、夜は月と星が夜空に輝くようにされました。昼間は太陽が草や木を元気にします。夜は、造られた多くのものが休めるように暗いのです。活動する時と休む時が与えられました。神さま、起きる時にはすっきり起きることができ、眠る時にぐっすり眠れますように。 4月19日(水)創世記一20〜25 海の中には泳ぐ魚や海の生き物が造られ、空には鳥たちが飛び、陸地にも生きる動物が造られました。歩くものもいれば、地をはうものも、虫も、微生物もいて、いろいろな種類の生き物が造られたのです。神さまはできたものたちを見て満足されました。人が生きるために必要なものは全てでき上がりました。 4月20日(木)創世記一26 ~28 私たち人間が最後に造られました。人間は神さまに似たものとして造られました。そして人には造られた世界と生き物たちの世話をする仕事が与えられました。命あるものたちがみんな増えていき、互いに支え合いながら生きる世界なのです。 4月21日(金)創世記一29 ~31 神さまは、人や生き物たちが生きていけるように、「草や木の実を食べていいよ」と言われました。こうして世界ができあがりました。神さまは全てを見て満足され、この世界をとても気に入られました。この世界は私たちが知っている以上に不思議ですてきな世界なのです。 4月22日(土)創世記二1―3  この世界も宇宙も全てを神さまは造られて、第七の日に休まれました。神さまは造った一つ一つのものを見直して、祝福されました。良いものができてよかったと喜ばれたのです。そして私たちのためにお休みを造ってくださったのです。私たちはみんな休まなければ生きていけないからです。休みも大切な創造のプレゼントです。  神さまは人を、交わりを持って生きる者に造られました。 4月23日(日)創世記二4〜6  天地を造られた神さまは、最初天からの雨ではなく、地下から水を沸き上がらせて乾いた地面を潤されました。世界は天から降る雨だけではなく、地面から湧いてくる水によって生かされています。神さまは上からも下からも命を生かす恵みを与えてくださいます。 4月24(月)創世記二7 神さまはこの世界を言葉で造られました。でも人間は土のちりでかたち造られました。まるで私たちが粘土で人を造るのと同じですね。でも違うのは、神さまの命の息が吹き込まれないと、生きることができないところです。どんなに私たちが上手な人形を造っても、命の息を吹き込むことはできません。命は神さまからいただくものです。 4月25日(火)創世記二8〜9 エデンの園に人は住むようにされました。園の中央に命の木と善悪を知る木が生えていました。他にもとても美しくておいしそうな実のなる木がたくさん生えていました。神さま、あなたは私たちにたくさんの生きるための恵みを与えてくださっていることをありがとうございます。 4月26日(水)創世記二10〜14 エデンの園には川が流れていて、それがまた4つの川に分かれて、エデンの園から流れ出ていました。川の水があれば命のあるものは生きることができます。エデンの園は、命のあるものを生かす水の源があるところでした。 4月27日(木)創世記二15 ~17 エデンの園にはこれだけはしてはいけないという決まりがありました。それは食べてはいけない木のみが一本だけありました。園にはたくさんの実のなる木が生えていました。どれを食べてもいいのです。ただ神さまは、善悪を知る木の一本だけ食べてはいけないと言われました。食べたら死ぬからです。人にはエデンの園を守るという仕事が任せられました。 4月28日(金)創世記二18 ~20 神さまは人のために土でさまざまな生き物を造られました。一人でいる人間にふさわしい助け手が必要だったからです。生き物たちが連れて来られると、人はそれに名前をつけていきました。名前をつけると、それは人にとって特別なものになります。でも人の助け手になる生き物はいませんでした。 4月29日(土)創世記二21〜24  神さまは、人に一番ふさわしい助け手として、人から取られた肋骨で、女の人を造られました。女の人を見たら、男の人は「この人だ!」と思って、自分にピッタリだとワクワクしました。話をしたり、助け合ったり、支え合ったりして一緒に生きる相手だと喜びました。私たちは心を通わせることのできる人間の相手が必要なのです。  どうしてエデンの園には食べてはいけない木があったんだろう。どうして蛇がいたんだろう。そう思うかもしれません。私たちもあの時あれがなかったら、あんなことしなかったのにと思うことはたくさんあります。でもそれは神さまのせいですか? 4月30日(日)創世記三1〜3  人にとっては、食べられる木の実がたくさんあったので、1つだけ食べられないとしても気にならなかったかもしれません。でも蛇はわざと善悪の知識の木に女を注目させたのです。そしてそそのかそうとしました。神様から与えられた園一番の賢さを、良いことに使いませんでした。神さまに与えられている良いものを、良い形で使うことができますように。 5月1日(月)創世記三4〜7 蛇は神さまの「取って食べてはいけない。取って食べると蚊ならず死ぬ」と言われた言葉を「食べても死なないよ」「神さまのようになれるよ」と言い変えました。女は善悪の知識の木の実を見て、とても食べたくなりました。「死なないのなら、神さまのようになれるなら食べてもいいか。」彼女は自分だけではなく夫にも与えたのです。神さまの言葉より他の言葉の方が自分に都合よく思えたのです。 5月2日(火)創世記三8〜10 知識の木の実を食べても二人は神さまのようにはなりませんでした。気にならなかった裸が恥ずかしくなりました。神さまに背いたので、神さまに会うのが怖くなりました。何か良いものを手に入れたでしょうか。いいえ。神さまとの関係が壊れてしまったのです。 5月3日(水)創世記三11〜13 男は、こんなことになってしまったことを、女と女をくださった神さまのせいにしました。女は蛇のせいにしました。だれも神さまの言われたことを守れなくてごめんなさいと言いませんでした。私たちは少しでも自分の悪かったことを軽くしようとだれかのせいや、何かのせいにする罪を持つようになりました。 5月4日(木)創世記三14 ~15  蛇は全ての生き物の中で一番呪われたものとされました。神さまから引き離そうとそそのかすものには、救いがないのです。そして私たちには、そのようにそそのかす悪の言葉に勝つ力がありません。だからイエスさまが戦ってくださり、悪の力を砕いてくださったのです。 5月5日(金)創世記三16 ~19  神さまに背いた二人は、これからは苦労をし、苦しみや痛みを経験しながら生き、やがて死んでいくのです。でも神さまは二人を見捨てませんでした。 5月6日(土)創世記三20〜24  神さまは、エデンの園の外で生きる二人に皮の衣を用意して、二人を裸から守られました。背いたのに、神さまの愛は無くなりませんでした。  私たちが罪に負けないためにいつも神さまの助けが必要です。 5月7日(日)創世記四1〜2  アダムとエバに二人の男の子が与えられました。二人の息子は、二人が造られたのと同じやり方ではなく、エバのお腹の中で造られて生まれてきました。アダムとエバは神さまに背いてエデンの園を出ていかなければなりませんでしたが、生かされて、新しい命を生み出す喜びを与えられました。 5月8日(月)創世記四3〜5 カインは、自分と自分のささげものが、神さまに受け入れてもらえなかったので、神さまのことをとても怒りました。神さまに「それはだめ」と言われた時、私たちは「何で?」と怒るかもしれません。でもそういう時は自分のことを見直す時です。自分の思った通りに行かなかった時、神さまに怒るより、自分のことを見直すことができますように。 5月9日(火)創世記四6〜7 「罪が戸口で待ち伏せしている。罪はあなたを求める。」まるで罪が生き物で、私たちの心の扉の前に立っていて、ドアを開けてと言っているかのようです。心のドアを開けてしまったらだめなのです。神さまはカインに「あなたは罪の言いなりならないで、そこから離れることができる」と言われました。私たちは弱くても、罪の言いなりにならないでいられる力を神さまがくださるからです。 5月10日(水)創世記四8〜9 残念ながらカインは神さまへの怒りとアベルへのねたみの言いなりなってしまいました。アベルをどうして殺してしまったのでしょうか?アベルさえいなければ、自分はみじめな思いをしなくなると思ったのかもしれません。でもその人がいなくなるように、人を傷つけるなら、心に喜びも安心も持つことはありません。 5月11日(木)創世記四10 ~12  カインは、これから自分の罪をなかったかのように生きていくことはできません。今までのように畑を耕しても、アベルを殺して埋めた土はもうカインに実りを与えてくれなくなりました。カインは土を見るたびに、アベルを殺したことを思い出し、心が苦しくなるのです。 5月12日(金)創世記四13 ~14  カインは生きていくことがとても辛くなりました。自分がどんなに取り返しのつかないことをしたのかやっとわかったのです。そして自分がアベルさえいなければいいと思ったように、今度は人殺しの自分が、危険でいない方がいい人と思われるようになりました。 5月13日(土)創世記四15〜16  神さまはカインを見捨てておられませんでした。彼に守るしるしをつけられました。罪を犯して生きる場所がなくなり、自分の場所を探し続けるカインを、神さまは守り続けてくださるのです。  箱舟に乗ったノアと家族と生き物たちは、洪水から救い出されて生き残りました。イエスさまは罪から救ってくださる私たちの箱舟です。 5月14日(日)創世記六5〜8 人が神さまに背いてからは、人の心はどんどん神さまから離れていきました。自分勝手で、傷つけあったり、敵対しあったりし、神さまが放っておくことはできないほど悪い方向に進んでいったのです。だから神さまはこの世界を滅ぼすことを決めました。私たちは今も、神さまから離れては、だれも自分勝手にしか生きられません。 5月15日(月)創世記六9〜12 ノアは神さまと世界にとって希望でした。他の人々が神さまから離れて好き勝手に生きていたのに、ノアだけは神さまの言葉を聞いて従い、神さまと共に歩んだからです。神さま、私たちも神さまを信じて、神さまと共に歩み続けることができますように。今も罪のために悲しいことが起こるこの世界に、愛を届ける希望として私たちを用いてください。 5月16日(火)創世記六13〜18 神さまはノアに「大洪水を起こして世界を滅ぼす」と言われました。ノアはきっとびっくりしたでしょう。人だけでなく、他の生き物もみんな滅ぼされるのです。ただ一つ生き残る方法は、大きな箱舟を造ってそれに乗ることです。 5月17日(水)創世記六18〜22 神さまは、ノアと家族の他に、全ての生き物の雄と雌のカップルを箱舟に乗せるように言われました。世界は水で埋まってしまい、箱舟に乗ったものたちの他は滅びてしまうのです。大きな箱舟をノアの家族だけで造るのは簡単ではありません。でもノアはただ神さまの言葉の通りに従いました。神さま、私もあなたの言葉に従って生きることができるよう助けてください。 5月18日(木)創世記七1〜10  箱舟ができあがりました。箱舟に乗るためにノアと家族の他に、生き物たちがやってきました。ライオンやキリンのような動物もいれば、蛇やカエル、鳥や虫、他にたくさんいたのです。長い間箱舟の中で過ごすのに、仲良くいられるでしょうか。生き残るようにと神さまが箱舟に乗せたのですから、神さまが守ってくださいます。 5月19日(金)創世記七11 ~16  箱舟に乗ったのは雄と雌のカップルでした。洪水の後の世界に子どもたちを産んでまた生き物が増えていくためです。私たちはイエスさまという箱舟で救っていただきました。だから私たちもイエスさまを信じる人が増えていくために伝えることができますように。 5月20日(土)創世記七17〜24  40日間降った雨で世界は水に覆われて、生き物はみんな死んでしまいました。残された箱舟の生き物たちが新しい世界を造るのです。  ノアたちは洪水から救い出され、新しい世界で生きていきます。罪のある彼らを、神さまの祝福が導いてくださいます。 5月21日(日)創世記八1〜5  世界が水で覆われて約4ヶ月。さあ今度は箱舟にいる生き物たちが生きられる世界に戻すことが始まりました。風が吹き、雨が止みました。水が減り始めました。世界を覆った水ですから、すぐには無くなりません。水が減って箱舟がアララト山の上で動かなくなったのは、さらに4ヶ月後でした。一瞬で世界が水で覆われたり、なくなったりしたのではなく、全てに時間が必要でした。 5月22日(月)創世記八6〜12 ノアが4回目に飛ばした鳩は戻ってきませんでした。もう生き物が外の世界で生活できるからです。洪水で覆われてしまった世界がまた回復していました。神さま、あなたは私たちの罪を裁いても、その後また回復し、やりなおさせてくださることを感謝します。 5月23日(火)創世記八13〜19 ノアが箱舟の外を見ると地面がすっかり乾いているのがわかりました。もういつでも出ていけます。でもノアは神さまの言葉を待ちました。そして「さあ、みんな、動物たちも一緒に出なさい」という言葉を聞いてから外に出たのです。神さま、私たちも神さまの言葉を聞いて進むことができますように。 5月24日(水)創世記八20〜22 神さまはノアたち家族がささげたささげ物の焼かれる匂いをかぎながら、もうこのような形で世界を滅ぼすことはしないと言われました。なぜなら、世界を滅ぼしてもノアたち残された人間にも罪があるからです。神さまは罪ある人間を全く滅ぼして、はじめから人間を造り直すことはされませんでした。そして罪から救う道をつくられました。 5月25日(木)創世記九1〜7  ノアたちは神さまから祝福されて、洪水の後の世界に送り出されました。神さまは、「あなたがたは、どんどん増えて広がっていきなさい。これからは植物と同じように、鳥や魚や動物のお肉も食べ物として生きなさい。人を殺してはいけません。」と言われました。神さまの祝福の言葉が、いつも彼らを支えるのです。 5月26日(金)創世記九8~11 神さまは人や地上にある生き物たち全てと契約を立てられました。契約は、神さまと生き物の間で約束です。神さまはもうこれから洪水で世界を滅ぼすことはしないと言われました。では人間は何を約束したのでしょう。何も、です。私たちには神さまに差し出せる約束がなくても神さまは約束を守るお方です。 5月27日(土)創世記九12〜17  虹は、神さまからの約束を守るというしるしです。人と約束したら裏切らない神さまの愛のしるしです。  私たちは日曜日に集まって神さまを礼拝します。そしてまた神さま から、それぞれの場所に散らされて、遣わされていくのです。 5月28日(日)使徒二1〜5  今日はペンテコステです。約束された聖霊が、お祈りしていると弟子たちに降りました。すると聖霊に満たされた弟子たちは、いろいろな外国語で、イエスさまの救いを語りました。聖霊は私たちがイエスさまのことを伝える力をくださいます。神さま、私に、イエスさまを伝えるために、人に伝わる言葉を与えてください。 5月29日(月)使徒二6〜13 外国で生まれ育った人がイスラエルに戻ってきて、エルサレムに住んでいました。彼らは弟子たちの言葉が、自分の聞き慣れた言葉なので、イエスさまのことがよくわかりました。こうしてそれぞれ言葉は違っていても、みんなイエスさまの救いのことを聞きました。 5月30日(火)使徒二14〜21 ペトロは集まってきた人々に語りました。「今私たちが外国語でイエスさまのことを話しているのは、聖霊の力によります。預言者ヨエルが、全ての人に聖霊が与えられる日が来ると預言しことが起こったのです。」聖書で預言された言葉は、神さまの計画の中で必ず実現するのです。 5月31日(水)使徒二22〜36 イエスさまは、病気の人を治し、悪霊を追い出し、神の国について教えてくださいました。このお方をユダヤ人は十字架につけて殺してしまいましたが、イエスさまは神さまによって復活されました。イエスさまこそ救い主だったからです。私たちの罪もイエスさまを十字架につけたのです。 6月1日(木)使徒二37〜42  ペトロの話を聞いてみんなショックを受けました。救い主を十字架で殺してしまうとは、取り返しがつかないことです。でも1つだけ救いの道があります。悔い改めてイエスさまを信じ洗礼を受けることです。罪がゆるされて聖霊を心にいただけるのです。私たちもだれでもゆるしていただけます。 6月2日(金)創世記十一1~4 昔はみんな同じ言葉を話していました。人々は天まで届く高い塔を建てて、自分たちが神さまの世界まで近づけると自慢しようとしました。そして高い塔を目印にして、世界中に散らばらないでいられるようにしたいと思いました。 6月3日(土)創世記十一5〜9  神さまは天から降りてきて、人々がお互い何を言っているのか、わからないようにされました。すると言葉が通じなくなって、高い塔を建てることができなくなりました。人々はそこからバラバラに散っていきました。しかしペンテコステは、いろいろな言葉でイエスさまの話を聞いて信じることで、バラバラな人を一つにしました。  ノアの息子の子どもの、そのまた子どものずっと後に、アブラムが生まれました。 6月4日(日)創世記十二1 ある日アブラムは神さまに声をかけられました。自分の住み慣れた土地を離れて、神さまの示される地に向かいなさいと言われたのです。親戚や家族と別れて、月を神さまと信じる町を離れて、天地を造られた神さまについていく、新しい生き方をするためにです。 6月5日(月)創世記十二2 神さまの約束はものすごく大きなものでした。「私はあなたを1つの国にしよう。だからあなたは有名になるのだ。そしてあなたは世界の人が祝福される源にしよう。」まだなかったイスラエルという国が、アブラムから起こるのです。そしてアブラムによって、世界中の人が祝福されるのです。それは神さまの言葉を信じてついていって本当によかったとみんなが知ることです。 6月6日(火)創世記十二3 祝福されているというのは、神さまの愛を知って信じていることです。なぜなら、最悪としか思えないこと、自分にはどうしようもないことが起こっても、神さまがそこを乗り越えさせてくださると希望を持っていけるからです。神さまは決してその希望を裏切りません。アブラムが神さまに従う生活を通して、それを私たちに教えてくれています。 6月7日(水)創世記十二4 75歳はおじいちゃんです。でも驚くことに、アブラムの新しい人生は75歳から始まりました。神さまの言葉に従う人生は、何歳になっても希望があります。これからまた新しいことが起こるとワクワクできるのです。それを味わうために大切なことは、神さまの「告げられた通りに」従うことです。 6月8日(木)創世記十二5〜6  アブラハムは妻と甥のロトと一緒に、多くの召使いや財産を持ってカナンにやってきました。カナンが神さまに行きなさいと言われた場所だったのです。しかしそこにはすでに昔から住んでいる人たちがいました。でも神さまが導いてくださったのですから、居場所は与えられていくのです。 6月9日(金)創世記十二7 アブラムには子どもがいません。それなのに神さまはカナンの土地を、アブラムの子孫に与えると約束されました。アブラムに子どもを持つ希望が与えられました。祭壇を作り、その上で動物を焼いて神さまに感謝の礼拝をささげました。 6月10日(土)創世記十二5〜9  アブラムは移動しながらテントを張って生活していました。偶像を信じるカナンの人々の中でも、アブラムは、自分に声をかけてくださった天地を造られた神さまに祭壇を作り礼拝しました。私たちも、毎日聖書を読み、祈る時間をもてますように。  アブラムと一緒に旅をしてきた甥のロトは、ソドムの町に住んでいました。すると思いがけないことに、戦争に巻き込まれてしまいました。でもロトにはアブラムがついていました。 6月11日(日)創世記十四1〜12 ソドムの王さまは、他の4つの町と手を組んで自分たちを治めている強い4つの町と戦争をしました。ところが負けてしまい、ソドムの町は敵に攻められて、住んでいた人々や財産が取られてしまいました。その中にアブラムの甥のロトやその家族がいました。神さま、戦争に巻き込まれて苦しんでいる人たちをどうぞ助け出してください。 6月12日(日)創世記十四13〜16 アブラムにとって甥のロトは大切な息子のようなものです。すぐに助けに立ち上がりました。アブラムは、自分が住んでいる町の人たちと仲良くやっていくために同盟を結んでいました。いざというときはお互いに助け合うのです。 6月13日(火)創世記十四13〜16 アブラムの家にはいざという時戦える召使いが318人いました。敵の数に比べたら、同盟の仲間たちの軍隊と合わせても多くはありません。けれども作戦を考えて敵に立ち向かい勝利しました。そしてロトや他にも囚われた人々、奪われた財産を取り戻すことができたのです。神さま、自分の目の前の問題が大きくても、立ち向かうために、知恵とまた助けてくれる仲間を与えてください。 6月14日(水)創世記十四17〜18 戦いに勝って戻ってきたアブラムを、助けられたソドムの王が出迎えました。またサレムの王メルキゼデクもアブラムを祝福しに現れました。アブラムのしたことは、自分の甥だけでなく、他の人々を救い出す大きな働きでした。祝福の基として用いられたのです。 6月15日(木)創世記十四19〜20  メルキゼデクはアブラムを祝福しました。アブラムが天地を造られた神さまに祝福されますようにと。私たちにとって神さまの祝福はどんなすばらしい宝や、財産よりも、私たちになくてならないものです。私たちは神様の祝福に守られています。 6月16日(金)創世記十四19〜20  メルキゼデクは、アブラムが敵に勝てたのは、神さまがついていたからだといい、神さまを崇めました。アブラムは持ち物の十分の一をおささげして感謝を表しました。私たちは努力しますが、いつも私たちを支えてくださる神さまの恵みのおかげで前進できるのです。 6月17日(土)創世記十四21〜24  アブラムはソドムの王からの褒美は何も受け取りませんでした。後になってソドムの王が「アブラムが金持ちなのは俺のおかげだ」と言わせないためです。それにアブラムは神さまから十分いただいて満足していました。  神さまはアブラムが神さまとその約束の言葉を信じていけるように、約束を語り続けてくださいました。信じられなくなる時、大事なのは神さまの言葉を聞くことです。 6月18日(日)創世記十五1 アブラムは年をとっていました。持っている財産を受け継がせる子どもがいませんでした。カナンの土地はまだ自分の土地ではありません。これからどうなっていくのでしょう。でも神さまは言われました。「恐るな。私はあなたの盾である。」神さまが盾となって前に後ろにいてくださるのですから、こんなに強い守りはありません。 6月19日(日)創世記十五2〜3 「でも」とアブラムは神さまにいいました。「神さまは結局私に子どもをくださらないではないですか。」アブラムはもうあきらめていました。「あなたの子孫にこの地を与える」と言われ、信じてきましたが、一向に子どもは与えられていません。彼は自分の考えで信頼できる人に財産を任せる計画を立てていました。 6月20日(火)創世記十五4〜6 神さまの約束と計画は変わっていません。アブラムとサライから生まれる子どもが跡継ぎとなるのです。数えきれないほどの天の星のように、子どもが与えられると言われました。アブラムは信じました。神さまはアブラムの信仰を確かだと認められました。 6月21日(水)創世記十五7 アブラムの元々いたところはカルデアのウルトいう町でした。町の人々は、月を神さまと信じて拝んでいたました。でもそこから神さまが連れ出したのです。そして神さまは、連れ出したからにはこれからもずっとアブラムの面倒を見てくださり、約束の地を継がせてくださるのです。神さま、罪の生き方から連れ出された私たちを、天国という約束の地まで導いてください。 6月22日(木)創世記十五8〜11 アブラムはこの土地を継ぐことができる確かなしるしがほしいと思いました。神さまはアブラムと契約を結ぶと言われました。神さまが必ずアブラムとの約束を果たすという契約です。契約のためにアブラムは、殺した動物を用意しました。。 6月23日(金)創世記十五12〜16  神さまはアブラムを深く眠らせて、神さまの約束がどのように実現していくのかを語られました。それはアブラムの時代を越えて、ずっと後の子孫の時代に実現するという長く大きな計画でした。私たちの思う時間よりもっと大きな時間の中で、神さまの計画は進められているのです。 6月24日(土)創世記十五17〜24  神さまは裂かれた動物の間を通って、アブラムと契約を結ばれました。アブラムに必要なことは、神さまが、必ず約束を果たしてくださると信じ続けることです。  神さまはアブラムに新しい名前のアブラハム(多くの国民の父)と、約束通り男の子イサクを与えられました。イサクはアブラハムとサラをいつも笑顔にしました。 6月25日(日)創世記二二1〜2 アブラハムはイサク以外だったらどんないけにえでも喜んでささげたでしょう。でも神さまは愛するイサクをささげなさいと言われました。アブラハムの信じる心を試すテストだったからです。とても辛いテストでした。 6月26日(日)創世記二二3〜5 アブラハムはきっと眠れない夜を過ごしたでしょう。翌朝早く、イサクを起こして、従者と共に出かけました。「私と子どもは、礼拝をしてまた戻ってくる」と言い、二人の従者を途中で待たせて、イサクと二人だけで進みました。神さまにイサクをささげてしまったら、二人で戻ってこられません。でもどのような形であっても、また二人でここに戻ってこられるとアブラハムは信じていました。 6月27日(火)創世記二二6〜8 イサクはずっと不思議に思っていたかもしれません。祭壇の上でささげる肝心のいけにえがないからです。「お父さん、ささげ物の子羊はどこですか。」アブラハムにとって答えるのが難しい質問でした。けれども「神さまが用意してくださるから心配ないよ。」と答えました。 6月28日(水)創世記二二9〜12 アブラハムは心が張り裂けそうになりながら、イサクをナイフで殺そうとしました。その瞬間天使がアブラハムの手を止めました。神さまはアブラハムが、やっと与えられた愛する息子を惜しみなくささげたのをご覧になって、もうそれで十分だと言われました。アブラハムは何よりも神さまのことを1番にしていました。 6月29日(木)創世記二二13〜14 アブラハムは神さまが用意してくださっていた牡羊をイサクの代わりにささげることができました。神さまが用意してくださると信じた通りでした。本当は、神さまは人の命をささげることを望んでおられません。だから今の私たちには決してそういうことをしなさいと言われることはありません。 6月30日(金)創世記二二15〜17  神さまは、アブラハムが何よりも神さまを1番に思っていることがわかったので、アブラハムを祝福すると約束されました。イサクから子ども、孫、そのまた子どもと増え広がり、神さまに導かれる国となっていくのです。 7月1日(土)創世記二二18〜19  アブラハムのずっと後になって、彼の子孫からイエスさまが生まれました。イエスさまは十字架の死と復活によって、私たちを救ってくださいました。そして信じる私たちみんなを神さまの祝福の中に入れてくださったのです。