あけましておめでとうございます。新しい年、失敗を恐れず挑戦していきたいですね。新しい年も神さまの祝福が豊かにありますように。 1月1日(日)ルカ三1〜2 ヨハネはイスラエルの荒れ野にいました。荒れ野は、雨も降らないし畑もできません。そんなところでの生活はとても大変でしょう。だからヨハネはただ神さまに頼っていたのです。そして彼は荒れ野で神さまの言葉を聞きました。与えられた使命を始める呼びかけでした。私たちにとっても辛く苦しい荒れ野にいるように思える時こそ、神さまの言葉はよく心に響いてきます。そしてそれが生きる力になるのです。 1月2日(月)ルカ三3〜6  ヨハネには生まれる前から神さまに任せられた仕事がありました。それは人々が自分の罪を悔い改めて、神さまの方に心を向けて生きるようにと伝えることです。そして救い主をお迎えできるように人々の心を準備するのです。それは昔から神さまが計画され預言されていたことでした。神さま、私に与えられている神さまの奉仕を、私もすることができますように。 1月3日(火)ルカ三7〜9 「毒蛇の子らよ、お前たちを神さまは怒っておられるぞ。良い実を結ばないなら、救われないだろう」と語るヨハネの言葉は手加減なしです。ごめんなさいと言葉だけの人、悔い改めても生活を変えない人を知っていたからです。神さま、私たちが厳しい言葉を怖がるのではなく、本当に大切なことを聞き取る心を与えてください。 1月4日(水)ルカ三10〜14 ヨハネの言葉に心を動かされた人々は、「このままではいけない、どうしたらいいですか」と聞きました。ヨハネは、人と分け合って支え合いなさい、ズルや脅しで人からお金を奪うことをやめなさいと教えました。無くしたくないし、もっと欲しいと思うより、持っているもので十分だと知り、分け合う心は、人と仲良く生きることができ、自分も心が満たされる道だからです。 1月5日(木)ルカ三15〜17  ヨハネは人々に期待されても、メシアが自分よりずっと力のある方であると伝えて、メシアの前に出しゃばることはありませんでした。神さま、私が神と人の前にへりくだれますように。 1月6日(金)ルカ三18〜20  ヘロデ王は自分の罪を悔い改めることができませんでした。王であることは人々から尊ばれますが、神さまの前に尊いのは、悔い改める心です。 1月7日(土)ルカ三21〜22 罪のゆるしを受けるための洗礼は罪のないイエスさまに必要ありません。でも私たちと同じ人間として体験されました。また神さまによる「私はあなたをメシアとして遣わす」という就任式でもありました。 昔イスラエルの人々は、エジプトを脱出した後、荒れ野で四〇年間過ごしました。何もない荒れ野での生活は大変で、すぐに不平不満が出たり、偶像を作ったりもしました。でも神様の助けとゆるしによって乗り越え、神さまの言葉が本当だと信じるようになっていったのです。 1月8日(日)ルカ四1〜2 荒れ野は神さまと出会う大事な場所です。だからイエスさまもイスラエルの人々が経験した荒れ野の生活をたどって悪魔の誘惑を受けるために40日間過ごされました。何も食べないでお祈りをして、これからの働きの準備をしたのです。 1月9日(月)ルカ四3  悪魔の「神の子なら証明してよ」という言葉は誘惑です。イエスさまなら自分のペコペコのお腹のためだけでなく、世界中の食べ物のない人たちのために、すぐにいくらでも食べ物を用意できるのです。そうすれば人々はすぐにイエスさまを信じるでしょう。これは神の子の力を見せて人をイエスさまの言いなりにさせる誘惑でした。 1月10日(火)ルカ四4 イエスさまの答えは「人はパンだけでは生きるものではない」の聖書の言葉でした。私たちの体には食べ物が必要なように、心にはみ言葉が必要です。心は食べ物だけでは満たされないので本当の救いにはならないのです。神さま、どうぞ、与えられた力を自慢するためではなく、人と仲良く生きるために使うことができるようにしてください。 1月11日(水)ルカ四5〜7 悪魔は全世界をあげるから、私を拝みなさいと言いました。そうしたらイエスさまは全世界を手に入れて、世界を悪魔の手から救い、一番偉いお方になるのです。そしてもう十字架にかかって苦しまなくてもいいのです。その方が楽で簡単です。 1月12日(木)ルカ四8  イエスさまの答えは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」の聖書の言葉でした。イエスさまが神さま以外に拝むことも従うこともありません。全世界の一番のお方は神さまなので、悪魔からもらう必要もありません。神さま、私たちもあなた以外のものを信頼したり、拝んだりしないよう助けてください。 1月13日(金)ルカ四9〜11  「神の子なら、神殿の一番高いところから飛び降りてみろ。聖書に、天使たちに守らせる、とあるから、守られるところを見せてみろ。」今度悪魔は、聖書の言葉が本当なのか、神さまの力を試してきたのです。 1月14日(土)ルカ四12〜15 聖書に「神を試してはならない」と書いてある、と言ってイエスさまはサタンを退けました。他にも私たちに起こるあらゆる誘惑に勝たれました。だからイエスさまが私たちに、誘惑に勝つ力を与えてくださいます。 神さまの奇跡は、神さまが私たちを愛して共にいることのしるしです。 1月15日(日)ルカ七11〜12  大事な家族が死んでしまったら、どんなに悲しいでしょう。あるお母さんの大事な一人息子が死んでしまいました。夫ももう死んで、いません。たった一人残されたのです。お母さんの気持ちを考えたら、心が張り裂けそうですね。神さま、大事な家族が死んで悲しみの中にある 人に神さまの豊かな慰めを与えてください。 1月16(月)ルカ七13〜14  お母さんの泣いている様子を見て、イエスさまはとても心を痛められました。悲しくて胸の奥がぎゅーっと痛くなって、辛くて仕方がない気持ちを感じられたのです。もう息子と話すことも笑ったり怒ったりすることもできません。寂しくて悲しくて涙が止まらない、そういう気持ちをイエスさまも感じられたのです。神の子イエスさまは人の気持ちをわかってくださるお方です。 1月17日(火)ルカ七13〜14 涙が止まらないほど悲しいのに、「もう泣かないで」なんて言われたらほっといてほしいと思うでしょう。でもイエスさまは「もう泣かなくてもいいよ。」と言われました。無理矢理に泣くのをやめて前を向かせようとしたわけではありません。イエスさまは、悲しみを一緒に悲しんでくださいますが、それで終わりではないのです。希望の始まりだからです。 1月18日(水)ルカ七14〜15 イエスさまが死んだ人に呼びかけると、それは生きた人になります。ただひとこと「起きなさい」という言葉なのに、力があるのです。その通りになるのです。「もう泣かなくてもいいよ。」と言われた通りのことが起こるのです。イエスさま、あなたの言葉が本当に実現することを信じて歩めますように。 1月19日(木)ルカ七8 すばらしいことが起こりました。息子が生き返ってお母さんの元に帰ってきましたす。夫もいない、息子もない、もう私には何もないと思っていたでしょう。でもイエスさまは、お母さんを放っておかれませんでした。息子を返すことによって、神さまが共におられることを教えられたのです。 1月20日(金)ルカ七16〜17 近所の人たちは、イエスさまをただものではないと思いました。だから預言者だと考えました。昔の預言者にもお祈りをして死んだ息子を生き返らせた人がいたからです。でもイエスさまは、預言者よりもすごいお方、神の子救い主なのです。 1月21日(土)ルカ七16〜17 みんなが「神さまは私たちを忘れていない。神さまは本当にすばらしい」と喜びました。神さまがしてくださるすばらしいことを私たちが気づいて、神さまをほめたたえることができますように。 イエスさまの偉大さを知れば知るほど、私たちはイエスさまに平伏すでしょう。でもまだわかっていないから、時々偉そうにしたり、み言葉を聞かなかったりするのかも知れせんね。 1月22日(日)ルカ九18〜20 イエスさまには普通の人ができないことができます。病気を治したり、悪霊を追い出したり、死人を生き返らせたり。それにイエスさまに出会った人は変えられます。悲しんでいる人が慰められたり、悪いことをしていた人が心を入れ替えたり。でもまだイエスさまが何者かを知っている人はいません。ただ弟子たちだけが、イエスさまを神の子メシアと信じていました。 1月23(月)ルカ九21〜22  イエスさまは確かにメシア、救い主です。でもイエスさまは、ご自分が苦しめられ殺されると言われました。力や強さを見せて人々を従わせるのではなく、私たちを罪から救うために十字架で死んで、死からよみがえる救い主なのです。 1月24日(火)ルカ九23〜27 イエスさまは私たちを愛して命を差し出し、私たちに永遠の命を与えてくださいました。イエスさまからいただいた命を大切にできるのは、自分を満足させることではなく、人を愛して生きることです。神さま、私たちに人を愛する心を与えてください。 1月25日(水)ルカ九28〜29 神の子イエスさまの本当の姿は、いつもは隠されていました。それを山の上では三人の弟子たちにお見せになったのです。お祈りしているうちに、イエスさまの顔も着ている服も光り輝いていました。イエスさまの本当の姿は弟子たちに自分たちよりもずっと偉大なお方だと気づかせました。神さま、私たちも神の子イエスさまのすごさをもっと知って、私たちが謙遜になれますように。 1月26日(木)ルカ九30〜31 イエスさまのそばにはモーセとエリヤもいて、イエスさまの十字架について話し合っていました。モーセは、エジプトで奴隷だったイスラエルを約束の地へ導き出しました。エリヤは偶像を拝むようになったイスラエルを、まことの神さまへと導きました。そしてイエスさまは、罪の奴隷から私たちすべの人を救い出すのです。 1月27日(金)ルカ九32〜34 ペトロは、三人がいるこのすばらしいことがずっと続いてほしいと思い、トンチンカンなことを言ってしまいました。モーセ、エリヤはもういなくていいのです。救い主がおられるからです。 1月28日(土)ルカ九35〜36  雲は神さまがおられることのしるしです。神さまは言われました。「これに聞け。」そして見えるようになったのはイエスさまの姿だけでした。神の子イエスさまに聞くこと、従うことが一番大切だと示されたのです。」 お祈りは大事だとわかっていても、なんてお祈りしたらいいかわからないかも知れません。だったらイエスさまが弟子たちに教えてくださった「主の祈り」をお祈りすればいいのです。 1月29日(日)ルカ十一1〜2  天のお父さんである神さまは、私たちのお祈りを喜んで聞いてくださいます。主の祈りでまずお祈りするのは神さまのことです。私たちはすぐに「あれしてください。これしてください。」とお祈りしたくなります。でもその前に神さまのことを祈るのです。神さまがすばらしいということがみんなにわかり、神さまを信じることができますように。そしてこの世界が神の国になりますように。 1月30(月)ルカ十一2  神の国は、神さまが良いと思われる計画が実現するところです。私たちは、私の願いや私の考えの通りになってほしいと思います。でも神私の思いより、神さまの方がもっと良いことを知っておられます。神さま、あなたの良いと思われることが行われますように。それによって私だけでなく、他の人にも恵みとなると信じます。 1月31日(火)ルカ十一3 私たちのためのお祈りが始まる「日毎の糧」は、毎日のご飯も、生活に必要なものも、神さまに与えてくださいと求めるお祈りです。親の仕事が守られなければ、食べていくことも生活も難しくなります。また今も食べることすら難しい人もいます。だから日毎の糧を求めるお祈りは、自分のためだけのお祈りではなく、仕事をして育ててくれる家族のためですし、また今生きていくのが大変な人のためのお祈りでもあるのです。 2月1日(水)ルカ十一4 私たちにとって人との関係はとても大切です。一人では生きていけない私たちです。私たちはとてもたくさんゆるされて生きています。何よりも神さまが私たちの罪をイエスさまによってゆるしてくださいました。だから悔い改めの祈りはいつも必要です。そしてゆるされたから、ゆるす力もいただけます。 2月2日(木)ルカ十一4  誘惑はなくなりません。そして私たちは誘惑に負けやすいものです。だからいつも祈るのです。誘惑から助けてください。誘惑に負けてしまっても、神さまから離れないで悔い改めさせてください。 2月3日(金)ルカ十一5〜8 神さまにお願いするのに、こんな状態ではもうダメだろうとあきらめる必要はないのです。あきらめないで祈り続けることが大切です。 2月4日(土)ルカ十一9〜13  神様へのお祈りは、あきらめないで求め、探し、門をたたき続けることと同じです。神さまはお祈りにこたえてくださるし、私たちに聖霊をくださって、さらに祈るようにしてくださいます。 神さまから与えられた律法では安息日は仕事をしてはいけない日です。食事は前もって作っておくし、歩く距離や、持っていい荷物の量も決まっていました。心も体も休めるためです。 2月5日(日)ルカ十三10〜13  18年間もの長い間腰が曲がったまま伸ばすことができないのは、とても辛かったことでしょう。人の目も気になったでしょう。曲がってしまった腰に引け目に感じて、心も不自由だったかも知れません。だからイエスさまの「あなたは病から解放された」の言葉と、伸ばされた手が、腰を治して病気から解放した時、彼女の心も自由にされたのです。だから神さまを賛美しました。 2月6(月)ルカ十三14 これはうれしいことです。神さまはすばらしいとみんなで喜びたいことです。けれども会堂長はとても怒りました。安息日に病気を治すことは仕事です。それは律法を守らないことになります。会堂長はまじめに安息日に病気を治してはいけないと思っていました。だから一緒に喜べませんでした。 2月7日(火)ルカ十三15〜16 安息日でも水を飲ませるため家畜を自由にさせます。だとしたら18年間病気に縛られた人を安息日でも自由にすることは、いけないことではないでしょう。安息日は神さまを礼拝し、心に平和をいただく時です。病気が治って心に平和をいただけるなら、ふさわしい日です。 2月8日(水)ルカ十三17 イエスさまのことを怒ったり反対したりした人たちは恥ずかしくなりました。律法を守るには愛の心が必要です。愛がないと、どんなに言葉通りのことをして、周りからは立派だとほめられても、自分の満足になってしまいます。人に対する愛の心で律法を行うなら、律法が命を助けたり、人を思いやったりするためのものだとわかります。 2月9日(木)ルカ十三17 女の人の腰がまっすぐになって、みんな喜びたかったでしょう。でも会堂長が怒ったので、喜ぶことを遠慮していたかも知れません。でもイエスさまの言葉を聞いて、イエスさまのされたことをみんな大喜びしました。神さま、私たちも御言葉を愛の心で行っていけるように助けてください。 2月10日(金)ルカ十四1〜4  イエスさまは、イエスさまを陥れようとする人々の前で、病気の人をいやされました。それは安息日が人を救うための日で、病気を治すことはゆるされていることを示すためでした。 2月11日(土)ルカ十四5―6  もし子どもや飼っている動物に何かあったら、安息日だから明日ねという人はいません。必ず助けるでしょう。そう言われて反対する人はいません。だからたとえ安息日でも病気の人を治すことはゆるされているのです。 悩みすぎて眠れなかったりお腹が痛くなったりすることがあります。そういう時どうしたらいいのでしょうね。 2月12日(日)ルカ十二22〜23  私たちはお金や物がたくさんあれば安心できると思いますよね。もちろん、必要なものがないと困ります。家や、食べ物、着る服がなければ生きていくのが大変です。でも不思議なもので、たくさん持っていても心配はなくなりません。絶対これで大丈夫と思えるものは、私たちにはないからです。神さま、私たちは心配ばかりします。どうしたらいいか教えてください。 2月13日(月)ルカ十二24 カラスは人間のように働いたり、畑で野菜を作って食べたり、貯金したりしません。でも神さまがちゃんとカラスが生きていけるように食べ物を与えて面倒をみておられます。カラスのことを忘れない神さまは、私たちのことはもっともっと気にかけて、カラスよりはるかに面倒を見てくださるのです。 2月14日(火)ルカ十二25〜26 どんなに悩んだって、自分の命の時間を自分で伸ばせないし、どうしようもないことがあります。でも神さまにはできないことはありません。だったら神さまにもっともっと頼ったらいいのです。神さま、あなたが助けてくださると信じます。心に平安を与えてください。 2月15日(水)ルカ十二27〜28 お花はきれいで、見る人の心をなごませてくれます。たとえだれも見ていなくても、神さまはきれいに咲かせ、やがて散っていきます。王様が金や銀で作った宮殿や、華やかな町よりも、神さまの咲かせるお花はきれいです。だとしたら、神さまは私たちにもっともっと良いことをしてくださるのです。 2月16日(木)ルカ十二29〜30 欲しいものがあるのは、自然なことです。でも欲しいものはキリがありません。さらに物だけでなく、人から見てすごいなと思われることをもっともっと手に入れようと一生懸命になっていると、いつも不安や心配の中に落ちてしまいます。だから私たちは神さまに祈り求めますが、私の本当の必要を知っておられる神様にあとはお任せすることで、心が安心できるのです。 2月17日(金)ルカ十二31〜32  神の国を求めると、どんないいことがあるのでしょう。神の国では、イエスさまを信じた神の子たちが、イエスさまの愛によってお互い分けあったり支え合ったりして満足し合えるのです。 2月18日(土)ルカ十二33〜34  今の生活ではなくなったり減ったりすることを心配します。でも神の国ではそういう心配はありません。だからなくなる心配のない神の国に宝をつみたいものです。それは愛という宝です。神さまを信じて、人と一緒に生きることです。 イエスさまは、罪人と嫌われている人とも一緒に食事をしました。それをとがめる人にたとえ話をされました。 2月19日(日)ルカ十五11〜16  弟息子は一文なしになりました。雇ってもらっても仕事は豚の世話です。ユダヤ人にとってはどん底の仕事でした。食べるものもなく、彼に食べ物を分けてくれる人もいなかったのです。どんなに惨めだったでしょうか。 2月20(月)ルカ十五17〜19 彼はそこで初めてハッとしました。家での生活は、なんと恵まれていたのだろうと気づきました。「何もかもあって、困ることなどなかった。せっかく分けてもらったお父さんの財産を、ただ遊んで使ってしまい、自分はなんてばかなんだ。」お父さんを悲しませることをしてしまい、とても申し訳なく思いました。神さま、自分が気づかなければならないことがあるなら、気づかせてください。 2月21日(火)ルカ十五17〜19 家に帰ってやり直す決心をしました。恥ずかしいし、受け入れてもらえるかわかりません。追い返されるかも知れません。でももう息子ではなく、あの家で働く雇い人の一人としてやり直させてもらおうと心を入れ替えていました。 2月22日(水)ルカ十五20 お父さんは、心配して毎日帰ってくるのを待っていました。だから遠く離れていても、息子をすぐに見つけて、走り寄って抱きしめたのです。息子がボロボロになって帰ってきた姿を心からいたわって受け入れたのです。お父さんはどうして叱らなかったのでしょうか。 2月23日(木)ルカ十五21〜24 悔い改める息子をお父さんは受け入れました。お父さんにとって帰ってきた息子はまるで「死んだ息子が生き返った、いなくなったのに見つかった」ものなのです。だから心から喜んで、お祝いをしたのです。これは神さまが私たちみんなを待っていて、神さまのところに来る人を喜んで受け入れてくださる姿なのです。 2月24日(金)ルカ十五25〜30 お兄さんはまじめに、お父さんの言うとおり働いてきました。だから自分の方がもっとお父さんに良いことをしてもらえるはずで、弟に良いことをするのはおかしいと怒ったのです。まじめな人は救われて当然。そうでない人は救われない。そう思っていたユダヤ人の姿をあらわしていました。私たちも同じように思っているかもしれません。 2月25日(土)ルカ十五31―32  お父さんは二人の息子のどちらも大切で愛しています。遠く離れていた息子も、そばにいても心が離れていた息子も、どちらもお父さんの愛に気づいていませんでした。イエスさまはその愛を示すためにこられました。だからだれとでも一緒に食事をしてくださるのです。 コロナ感染症が流行ってから、私たちにとって当たり前のことが、そうでなくなりました。マスクなしの賛美、食事や交わりなど、どんな当たり前のことも神さまからの恵みなんだと感謝していきたいですね。 2月26日(日)ルカ十七11〜13  遠くからイエスさまに叫んだ十人は病気にかかっていました。人にうつしてしまうかもしれないので、近づくことができません。家からも町からも離れて生活していました。だから遠くから叫びました。イエスさまに届かない叫びはありません。 2月27(月)ルカ十七13〜14 十人はイエスさまに「憐れんでください」と言って、病気を治してほしいと叫びました。イエスさまは彼らを見て言われました。「祭司に体を見せにいきなさい。」それは祭司に体を見せて病気が治ったと言ってもらえれば、また家族のところに戻れるからです。彼らはまだ治ってはいませんでしたが、イエスさまの言葉を信じて出かけました。 2月28日(火)ルカ十七14 イエスさまは、まるでもう治っているかのようにして、「祭司に体を見せに行きなさい」と言われただけでした。でもそのとおり、途中で病気が治っていました。イエスさまの病気の治し方はいろいろです。触ることもあれば、言葉だけの時も、そして信じて出ていったら途中で治っているということもあるのです。 3月1日(水)ルカ十七15〜16 一人の人は、病気がいやされたことに気がついて、「神さまはすばらしい、神さま、ありがとう」と崇めながら、イエスさまのところに戻ってきました。彼はサマリヤ人で、ユダヤ人とは仲が悪い民族でした。でもイエスさまはそういう区別をされず、十人みんなをいやされました。 3月2日(木)ルカ十七15〜16 サマリア人の一人が、イエスさまのところに「ありがとう」と言いに戻ってきたのは、ありがたい気持ちがあふれていたからでしょう。ユダヤ人でない自分、ふさわしくない自分にも神さまは憐れんで、恵みを与えてくださったのだと感動したのです。 3月3日(金)ルカ十七17〜19  他の九人もきっと途中で病気が治っていることに気づいたでしょう。でも祭司に見せるより、まずは神様とイエスさまに感謝しに戻ろう、とはならなかったのです。治って良かった、で終わってしまいました。治ることばかり考えて、治してくださるイエスさまに目を向けることができませんでした。 3月4日(土)ルカ十七17―19  サマリア人にイエスさまは言われました。「立ち上がっていきなさい。あなたの信仰があなたを救った。」サマリア人は心も体も救われました。これからサマリア人は、天国人、神の子として生きていくのです。 イエスさまを信じて自分の心にお迎えすると私たちは変えられます。自分のことばかり考えるのではなくて、人を愛して生きるには、人と一緒に生きるにはどうしたらいいのか考えるようになるのです。 3月5日(日)ルカ十九1〜2  お金があっても、大勢の人から軽蔑されたり、嫌われたりしていたら、あまり楽しくないでしょう。ザアカイはお金持ちでしたが、ユダヤ人からは嫌われていたし、罪人なんて呼ばれていました。徴税人の仕事が、税金を決められた額より多めにとって残りを自分のものにしたり、無理やりとったりして、人々を苦しめていたからです。 3月6(月)ルカ十九3〜4 人気者のイエスさまは、大勢の人に囲まれていたので、背の低いザアカイには見えませんでした。木登りしてまでイエスさまを見ようとするとは、このチャンスをなんとしても逃したくなかったのでしょう。ザアカイは自分が思う以上にイエスさまを求めていたのです。 3月7日(火)ルカ十九5 イエスさまもまた、ザアカイに会いたいと思っておられました。だからイエスさまは一度も会ったたことがないのに、ザアカイを知っていて、ザアカイの名前を呼ばれ、家に泊まりたいと言われたのです。 3月8日(水)ルカ十九6 ザアカイ迷うことなく急いで降りてきて、自分の家にイエスさまを喜んでお迎えしました。自分のような、嫌われ者の罪人のところにイエスさまがきてくださるのが、うれしかったのです。イエスさま、私の心にも来てください。そして私の心が喜びでいっぱいになりますように。 3月9日(木)ルカ十九7  人々は、イエスさまのされることを受け入れられませんでした。イエスさまは、正しい人や弱い者の味方であるはずです。ザアカイは人を苦しめる悪者です。でもだとしたら、もし人を苦しめる徴税人が、人を苦しめることをやめるようになったらどうでしょう。 3月10日(金)ルカ十九8  ザアカイは、人々がイエスさまに文句を言うのを聞いて、自分の決心を告白しました。「自分の持っているお金を貧しい人を助けるために使います。だまして多くとってしまった税金は多めに返します。」彼は自分がやったことが悪かったと悔い改め、苦しめてきた人々に償うと約束しました。 3月11日(土)ルカ十九9―10  不思議です。イエスさまがザアカイの家に来てくれただけで、ザアカイは変えられたのです。もうお金を自分のために集める生活ではなく、人と一緒に生きるために、自分の持っているものを分け合うようになりました。イエスさまを受け入れた時、彼は救われ、変えられました。そしてもう周りの人も苦しめられないのです。 イエスさまの十字架の時が迫っていました。十字架に向かって、イエスさまも反対者も準備を進めていました。 3月12日(日)ルカ二二1〜6  ユダはずっとイエスさまに従ってきました。でもサタンが彼の中に入って、イエスさまを裏切ってしまったのです。彼はイエスさまを殺したいと、時を伺っていたユダヤ人リーダーたちに、イエスさまを引き渡す相談をしました。神さま、サタンの誘惑に弱い私たちです。どうぞ私たちを助けてください。 3月13(月)ルカ二二7〜13 過越祭の食事は、昔、神さまがイスラエルをエジプトの奴隷から自由にしてくださったことを忘れないで、喜びお祝いする食事です。ペトロとヨハネは、イエスさまの言葉どおりに、イエスさまが用意されていた部屋で食事の準備をすることができました。イエスさまは、私たちにも神の国で一緒に喜び祝う食事を用意してくださっています。 3月14日(火)ルカ二二14〜16 イエスさまはいよいよ十字架にかけられて苦しめられるのです。でもそれは、私たちを罪から救うためにです。私たちは罪から脱出するのです。だからイエスさまは、この過越の食事は、罪からの脱出を喜び祝う新しい過越の食事として準備してくださいました。イエスさま、私たちを罪から自由にしてくださりありがとうございます。 3月15日(水)ルカ二二17 ~20 「パンは私の体。ぶどう酒は私の流される血。」とイエスさまは言われました。それはイエスさまの十字架によって私たちの罪がゆるされ、きよめてくださったからです。だからイエスさまを信じて、洗礼を受けた人はみんな、そのことを思い出して感謝する食事として聖餐式に参加するのです。これが新しい過越の食事です。 3月16日(木)ルカ二二21〜23  イエスさまが割いて渡されたパンと、分け与えたぶどう酒を、いただいた弟子たちの中に、ユダもいました。イエスさまは彼が裏切ることを知っておられました。でも最後までユダが悔い改めることを待っておられました。 3月17日(金)ルカ二二24〜27  弟子たちの興味のあることは、一番偉い人になることでした。それは人を自分の言いなりにさせたいし、すごいと思われたいからです。でもイエスさまは、人を言いなりにさせる人になるのではなく、仕える人になりなさいと言われました。それはイエスさまのように人を愛して生きる人になることです。 3月18日(土)ルカ二二28―30  弱い弟子たちでしたが、イエスさまの復活の後、聖霊を受けてずっとイエスさまに従い続けました。聖霊が私たちを神の国に入るまで導いてくださいます。そして神の国の食事をイエスさまと楽しむのです。  イエスさまが逮捕される時が近づいていました。 3月19日(日)ルカ二二31〜34  ペトロは信仰が本物かどうか、悪魔にテストされるのです。そしてペトロはイエスさまのことを裏切ってしまいます。けれどもそれで終わりではありません。イエスさまが祈られたので、大きな失敗の後、立ち直ってやり直すことが約束されていました。イエスさま、あなたが祈られたように、私たち誘惑に負けて罪を犯しても、悔い改めて立ち直ることができますように。 3月20(月)ルカ二二35〜38 イエスさまはこれからとても悪いことをした犯罪者としてとらえられてしまいます。そうすると、イエスさまの仲間であった人々はどうなるでしょうか。仲間もまた同じように悪い人々と見られるかもしれません。もちろんそんなことはしていないのです。でもとても厳しいことが待っていることを覚悟するようにとイエスさまは伝えようとされました。 3月21日(火)ルカ二二39〜42 イエスさまは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。悪魔はイエスさまを十字架から、弟子たちをイエスさまから引き離そうと挑んできます。だから誘惑に負けてしまわないために、祈ることが必要なのです。イエスさまは祈られました。「苦しまなくても良いのならそうしてほしいです。でも神さまが願われることをしてください。」と。 3月22日(水)ルカ二二43 ~44 天使はイエスさまが悪魔の誘惑に負けないよう、祈るイエスさまのそばにきて支えました。これからやってくる十字架によってイエスさまは死なれ、神さまから裁かれて見捨てられるのです。それは想像できない恐ろしいことです。イエスさまはもがくようにして汗を流して祈られました。私たちを救うために、でした。 3月23日(木)ルカ二二45〜46  祈らなければいけないのに、祈ることができない時があります。眠くてどうしようもない弟子たちのように、他のことでいっぱいになってしまうことがあります。神さま、どうぞ誘惑に陥らないようまずお祈りすることができますように。 3月24日(金)ルカ二二47〜51 弟子の一人が、逮捕に来たある人の片耳を切り落としました。でもイエスさまはその耳をすぐに癒されました。ユダも、剣を振り回した弟子も、支配者ローマとメシアが戦い、勝利して新しい世界を作ることを期待していました。でもイエスさまが戦争をして神の国を作ることはありません。 3月25日(土)ルカ二二52―53  イエスさまは大悪党のように逮捕されようとしていました。今は、まるで悪魔の支配が勝っているように見えました。でも「今は」であって、ずっとではありません。  イエスさまの十字架は、神様の救いの計画と、人間の罪の計画の両方から進められていきました。 3月26日(日)ルカ二二54〜62  ペトロはイエスさまが受ける裁判をそっと見に、大祭司の中庭にいきました。中庭の真ん中にあった焚き火の前にペトロは何食わぬ顔で座りました。裁判では、イエスさまが罰を受けるような悪いことをしたのかどうかの判断が行われます。そしてペトロの信仰もいよいよテストされるのです。 3月27(月)ルカ二二56〜57 ペトロのことをじっと見つめる召使いの女がいました。ペトロは彼女が自分のことを見ていることに気づいて、ドキドキしました。そして「この人も仲間だ」と言われて、さらに心臓が激しくドキンとなりました。そして出てきた言葉は「あの人を知らない」でした。仲間だと認めてしまったら、自分も逮捕されるかもしれないと怖かったのです。 3月28日(火)ルカ二二58〜62 イエスさまは人気者で有名でした。弟子のペトロも、仲間であることは誇りでした。でも今は、仲間であることは危険でした。2度、3度と「仲間だ」と言われて、とにかく疑いを晴らすのに必死でした。自分を守ろうと結局イエスさまのことを知らないと3回言ってしまいました。鶏が鳴きました。全てイエスさまの予告どおりでした。ペトロだけが弱いのではありません。私たちも自分を守ろうとして、イエスさまに従いきれないことがあるかもしれません。 3月29日(水)ルカ二二63 ~65  イエスさまを捕らえた人々は、イエスさまをばかにして、悪口を言いました。目隠しをして殴ったのがだれか当てさせようとしたのは、「神の子ならできるだろ。どうだ、やってみろ。できないくせに」という気持ちでした。イエスさまはできるのに、されるがまま耐え忍ばれました。 3月30日(木)ルカ二二63 ~65  イエスさまをばかにしてののしる人々は、まさか自分たちがそうやって神の子に大変な罪を犯していることは分かりませんでした。私たちは、自分の方が上で正しいと思っていると、人を見下してひどくおとしめようとする心を持っています。 神さま、どうぞ人を見下す心から私を守ってください。 3月31日(金)ルカ二二47〜51  ユダヤ人リーダーたちは、イエスさまが、人間なのに自分を神の子メシアだと言いふらした犯罪者として死刑にしたいとムキになっていました。だから無理矢理に罪人にしました。自分たちを守るためなら何でもする、それが私たちの罪です。 4月1日(土)ルカ二二52―53  イエスさまは自分を守ろうとはされませんでした。自分を殺したい人も含めてすべての人を救うために命を与えてくださったのです。