幸せって何だろう?イエスさまが言われる幸せは、まるで幸せと反対な言葉があるよ。これってどういうことかな? 7月3日(日)マタイ五1〜3  心が貧しいのに幸せなのはどうしてでしょうか。心が貧しいとは、自分が神さまの助けがないとやっていけないことを知っている心のことです。困ったり、不安になったり、うまくいかないことがあると、神さまにお祈りして頼るので、助けと力と平安をいただけるから幸いなのです。 7月4日(月)マタイ五4  悲しいことが起こった時は、幸せではありません。悲しいことや辛いことなどない方がいいでしょう。でも起こるのです。悲しむのです。でも神さまは悲しみだけで終わらない、慰めをくださいます。そして私たちもいつか悲しむ人を慰める人にされるのです。 7月5日(火)マタイ五5  へりくだる心は、自分が罪を犯したり、間違えたり、失敗したりすることを知っていて、神さまに支えてもらおうとする心です。それを忘れてしまうとへりくだることができないので、人をバカにしたり、批判したりしてしまいます。神さまに「私を支えてください」とお祈りをして頼れる心は、安心をいただけるので、心が満たされて歩めるのです。 7月6日(水)マタイ一6  「義に飢え渇く」というのは、神さまに喜ばれる生活がしたいと思う心です。そして自分の力ではそれができないので、神さまにお祈りして、神さまに喜ばれることができるよう求める心です。神さまに力をいただいて、神さまに喜ばれることをさせていただけると、私たちの心も喜びでいっぱいになります。 7月7日(木)マタイ五7  「憐れみ深い」心は、自分のことばかりではなく、だれかのことを考える心です。そういう心は、喜んでいる人と一緒に喜んだり、悲しんでいる人と一緒に悲しんだりします。まただれかを助けたり、支えたりします。すると同じようにだれかが一緒にいて、自分のことも支えてくれるのです。 7月8日(金)マタイ五8〜9  心が「清い」のは、神さまだけを信じ頼る心のことです。また平和は私たちが造り出すものです。私たちが人をゆるしたり、愛したりするところに平和ができるからです。イエスさまが私たちを愛し、ゆるしてくださったことを感謝し続けるなら、私たちも愛し、ゆるす人にされていきます。それが神の子なのです。 7月9日(土)マタイ五10〜12  イエスさまを信じているために、いじめられたり、苦しめられたりしたら嫌です。怖いです。とても喜べません。でもどんな時も神さまから離れないで信じ祈るなら、神さまが乗り越えさせくださり、心にある信じた喜びは消えないのです。  私たちが誘惑を受けることはずっとなくなりません。だとしたら、負けないようイエスさまに助けていただく他ありません。イエスさまは誘惑に勝たれたので、私たちにも勝つ力を与えてくださいます。 7月10日(日)マタイ四1〜2  イエスさまは、ご自分から悪魔の誘惑を受けるために、荒野へ行かれました。これは救い主としての働きに出るための準備でした。悪魔は絶えずイエスさまの働きを邪魔しようとするからです。 7月11日(月)マタイ四3〜4  悪魔は、「お前は本当に神の子なのか。神の子なら奇跡を見せてみろ。」と誘惑しました。イエスさまが石をパンに変えれば、ご自分もお腹いっぱい食べられるし、世界中の飢えている人たちにも食べさせてあげられます。そうしたら世界中の人から喜ばれて、みんながイエスさまを信じるでしょう。でもイエスさまの救い主としての働きはそういう方法ではありませんでした。 7月12日(火)マタイ四3〜4  イエスさまは聖書の言葉で誘惑を退けました。私たちの体には食べ物が必要なように、心にも心の食べ物が必要です。それは神さまの言葉です。神さまの言葉は私たちの心を元気にし、満たすからです。だからイエスさまはパンを与える奇跡ではなく、イエスさまの十字架の救いによって、私たちに命のパンを与えてくださいました。 7月13日(水)マタイ四5〜7  大勢集まる神殿で、人々の注目を浴びるような奇跡を見せるなら、すぐに有名になり、みんながイエスさまを信じるでしょう。神の子のすごさを見せる絶好のチャンスです。 7月14日(木)マタイ四5〜7  神さまを試してはいけないと聖書に書いてある、とイエスさまは聖書の言葉で誘惑を退けました。人にはできない驚くようなことをしたら、人を信じさせることは簡単です。でもイエスさまは神殿から飛び降りなかったし、十字架からも降りてご自分を救いませんでした。誘惑に乗って、神の子の証明をすることはされませんでした。 7月15日(金)マタイ四8〜10  今は悪魔が人々を神さまから引き離して、自分の思い通りにさせようと世界を支配しています。だから悪魔を拝めば、もうイエスさまは十字架にかからなくてもいいのです。今度は全ての人がイエスさまを恐れ、平伏すようになるからです。 7月16日(土)マタイ四8〜11  奇跡を見せたり、天使を従わせたりした方が人は信じるかもしれません。十字架の苦しみ以外の方法で人を救えるなら、それでもいいように思えます。でもイエスさまは聖書の言葉でキッパリと誘惑を跳ねのけ、悪魔を退散させました。そして私たちを救うため苦しみの道を歩んでくださったのです。 「コロちゃんのおうち」というかわいい絵の古い聖書紙芝居があります。私が小学生の時に何度もみました。ユーチューブにあるので、よかったらみてみてね。 7月17日(日)マタイ七1〜6  私たちは「あの人はこんなことをした、あんなことを言った」と、人がしたよくないことが気になり、批判したくなります。でも自分も同じようなことをしたり、言ったりすることがあるのに、それは別に悪くないと思っています。自分の悪いところは認めないで人のことは「悪い」と思うのはなぜでしょうね。 7月18日(月)マタイ七7〜11 「求めなさい。そうしたら与えられる」なんて、なんとすばらしい言葉でしょう。「だったらあれも、これも、神さま、ください。」と期待したくなります。でも与えられなかったら「神さまは聞いてくれない」と文句を言ってしまいます。私の思い通りに何もかも聞かれるわけではありません。でも私たちが神さまに求め、探し、たたき続けるなら、私たちにちゃんと答えてくださいます。 7月19日(火)マタイ七12  人にしてもらいたいことは何でしょう。私たちは人に優しくしてほしいし、助けてほしいし、仲良くしてほしいですね。それを人にするのは、イエスさまの言葉を守ることなのです。なぜなら、イエスさまの言葉を守ことは、私たちと人が平和になり、愛し合い、喜び合って生きることになるからです。 7月20日(水)マタイ七13〜14  狭い門から入るとは、イエスさまを信じることです。そしてイエスさまを信じいても苦しいことや悲しいこともあるのが狭い門から続く道です。時には、信じていることを人に理解してもらないとか、反対されることがあるかもしれません。だから信じ続けることができるよう神さまに祈りたいと思います。 7月21日(木)マタイ七15〜20  ニセの預言者は、私たちを狭い門ではなく、広い門へと導こうとします。さらに本物そっくりなので、見分けることが難しいのです。私たちがイエスさまの言葉を行なっていくことによって、本当のものを見分ける力が与えられます。 7月22日(金)マタイ七21〜23  私たちは聖書をたくさん読んでいて、いつもお祈りをしていることを立派だと思います。でもそれは立派になるためにするのではなく、イエスさまがしてくださったように、人を愛し、ゆるして生きるためです。 7月23日(土)マタイ七24〜29  イエスさまを信じる生活の堅い土台は、イエスさまの言葉を聞いて、神さまに助けていただきながら行うことです。それは人生にいろいろな嵐が吹き荒れて、心が激しくゆさぶられることが起こっても、イエスさまを信じ続ける力になります。  私たちは自分が正しいと思っていると、正しくないと思える人のことをつい批判したくなります。でも自分も同じことをしていると気づくと、人に対する見方が変わります。 7月24日(日)マタイ九9〜13  マタイは税金を集める徴税人でした。この仕事はイスラエルでとても嫌われていました。支配者ローマに税金を治めることをみんなが嫌がっていたからです。だから徴税人も嫌われていました。そんな嫌われ者マタイをイエスさまは弟子にしました。弟子にするなら評判の良い人に声をかければいいのに、どうしてマタイだったのでしょうか。 7月25日(月)マタイ九9〜13  マタイはうれしかったのです。「私に従いなさい。」というイエスさまの一言を聞いて、仕事中だというのにイエスさまの弟子になりました。マタイは嫌われ者で悪口を言われていました。でもイエスさまはそんな自分に弟子になるよう声をかけてくれたのです。 7月26日(火)マタイ九9〜13  ここでイエスさまと一緒に食事をしていた人たちは、みんな徴税人や罪人で、悪い人と軽蔑され嫌われていました。もしあなたがそういう人たちと一緒にいたら、周りの人の目が気になるかもしれません。たとえば、私たちが不良と一緒にいると、周りから仲間に見られてしまったらどうでしょう。イエスさまはどうして平気だったのでしょうか。 7月27日(水)マタイ九9〜13  イスラエルでは、先生や人の上に立つ人は、徴税人や罪人と呼ばれる人たちと食事や交わりをしませんでした。なぜなら立派な人、模範的な人はそういうことはしないものだったからです。だから真面目で立派なファリサイ人たちはイエスさまを批判したのです。 7月28日(木)マタイ九9〜13  イエスさまの言われるとおり、私たちは風邪をひいたり、大怪我をしたりしなければ病院には行かないでしょう。体に問題がない時は医者は必要ないからです。ではどういう人がイエスさまを必要だと思うと思いますか? 7月29日(金)マタイ九9〜13  自分が正しく生きていると思っていると、そうできていないように見える人のことを批判したくなります。「ちゃんとしないからいけないんだ」と。でも自分の力では正しく生きられないことを知っている人はイエスさまに助けを求めます。そして本当は、だれも自分の力では正しく生きられないのです。 7月30日(土)マタイ九9〜13   正しく生きる力のない人に、イエスさまは「私のところに来て頼りなさい」と言われます。イエスさまが十字架で私たちの罪をゆるしきよめてくださったからです。私たちはみんな罪人で、心を救う医者であるイエスさまが必要なのです。  遠く離れ、簡単に近づけない道のないところでも、イエスさまが来られない場所はありません。 7月31日(日)マタイ十四22〜23  イエスさまは、弟子たちたちを舟に乗せて、集まった人たちみんなも帰らせて、ひとりでお祈りをしに山に登られました。お祈りはイエスさまの大事な時間でした。イエスさまは神さまの働きをするためにいつもお祈りをしておられたのです。 8月1日(月)マタイ十四24〜26  弟子たちが大波と戦っている時でした。舟がにっちもさっちもいかないところに恐ろしいものが見えたのです。湖の上を歩いてくる人影です。湖の上を歩ける人などいません。近づいてくる不気味な影を幽霊だと思いました。みんなおびえて叫びました。もう自分たちはおしまいだと思ったのです。 8月2日(火)マタイ十四27  おびえて叫ぶ弟子たちに、すぐイエスさまは声をかけられました。「安心しなさい。私だ。恐ることはない。」幽霊ではありませんでした。嵐に困り果てていた弟子たちを、イエスさまが水の上を歩いて救いに来てくださったのです。イエスさまにとってはどんな場所も行けないところはないのです。 8月3日(水)マタイ十四28  「ああ良かった。イエスさまだったんだ。」とみんながほっと安心しました。イエスさまがおられるならもう嵐も恐くありません。すると勇気が湧いてきて、ペトロは自分も水の上を歩いてイエスさまのそばへ行きたいと思ったのです。イエスさまがともにいてくださるので、どんなことも乗り越えられると思ったからです。 8月4日(木)マタイ十四29  水の上を歩けるなんて、すごいことです。でもペトロはそういう不思議な体験をして自慢したかったのではありません。イエスさまがいるから大丈夫だと心を強くされたのです。だから嵐の湖の上でも踏み出して歩いたのです。イエスさまの「来なさい」という呼びかけは、道のないところも歩ませてくださいます。 8月5日(金)マタイ十四30〜31  ペトロのイエスさまを信じる強い思いが、風の強さに揺さぶられました。するとそれ以上歩き続けることができず、沈みそうになりました。ペトロはとっさに叫びました。「主よ、助けてください。」すぐにイエスさまは信じ切ることのできないペトロの手をしっかりと捕まえてくださいました。 8月6日(土)マタイ十四32   私たちも手に負えないことを恐れてイエスさまを疑ってしまうことがあるかもしれません。だから「信じることのできない私を助けてください」と祈りたいと思います。イエスさまは嵐を沈め、私たちがイエスさまを、「あなたは本当に神の子です。」と信じる者にしてくださいます。  自分は信じる気持ちが足りないなあと思うことはありますか。それなら、そういう自分をそのまま助けてくださいと祈ればいいのです。 8月7日(日)マタイ十七14〜16  発作が起こると、息子が火の中や水の中に倒れてしまうとは、いつか死んでしまうかもしれません。お父さんにとっても、息子にとっても辛く苦しいことでした。でも弟子たちは助けることができませんでした。もう頼れるところはイエスさまだけです。お父さんはイエスさまに助けを求めました。 8月8日(月)マタイ十七17  イエスさまは弟子たちができなかったことを呆れて「なんと不信仰なんだ」と言ったのではありません。悪魔が人間の心を迷わせて、信じないようにさせている、そういうこの世界のことを言われたのです。人が信じようとしても、邪魔をするものがある、それですぐに人は疑ってしまう、迷ってしまうそれが私たちの世界なのです。 8月9日(火)マタイ十七17  イエスさまはこの世界をじっと我慢しておられて、いつか我慢できなくなると言われたのではありません。イエスさまは信じることのできないこの世界を支えてくださっています。でもどこまで支え切れるだろうかと言われたのです。もちろんイエスさまは支えてきってくださいました。十字架によって私たちを救ってくださったからです。 8月10日(水)マタイ十七18  イエスさまは息子にとりついていた悪霊を叱って追い出されました。息子はすっかり癒やされました。イエスさまより強い悪の力はありません。 8月11日(木)マタイ十七19~20  弟子たちは今まで悪霊を追い出してきたのに、この時はできませんでした。それは「信仰が薄いからだ」と言われました。でもそれなのに「からし種一粒ほどの信仰があれば、山も移る」とも言われました。からし種はとっても小さな種なのです。不思議です。信仰が薄くてはダメなのに、小さい信仰があればいいというのはどういうことなのでしょう。 8月12日(金)マタイ十七19~20  もし自分の信仰が小さいと思うなら、「私は信じることすら弱いです。どうぞ私を憐れんで助けてください。」とイエスさまに頼ることが大事だということなのです。だから「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言われました。信仰が小さければ小さいほど、ひたすらイエスさまに頼るからです。 8月13日(土)マタイ十七19~20  弟子たちは悪霊を追い出す力をいただいて、それがどんどんできていくと、そういう力を与えられていない人たちより自分は立派な信仰をもつ偉い人間だと思ったのかもしれません。その思いが、信じることより大きくなって悪霊を追い出せなかったのでしょう。  私たちが人をゆるすためには、ゆるされていることを知ることです。 8月14日(日)マタイ十八21〜22  「もうあなたのことは絶対にゆるさない。」と言われてしまったら、それはとても悲しく怖いことです。私たちはたとえ怒られたり、注意されたりしても、多くのことをゆるされて生きています。ところが人のことをゆるすとなると、ゆるせないと思うことがあります。自分が深く傷つけられたり、取り返しのつかないような目にあわされたりしたら、ゆるすことはとても難しいでしょう。 8月15日(月)マタイ十八21〜22  私たちがゆるせないと思う理由の一つは、相手の方が自分よりとても悪いと思えるからです。ゆるしてしまったら、相手はちゃんと反省しないでまた同じことをするかもしれません。もし相手がちっとも自分を悪いと思っていなければ、なおさら私たちは怒りでいっぱいになるでしょう。 8月16日(火)マタイ十八21〜22  ユダヤ人は三回までゆるせばいいと考えていました。だからペトロが考えた七回までゆるすことは、とても心の広い人のすることでした。でもイエスさまは、七の七十倍、つまり何回までと決めないで、いつもゆるしなさいと言われました。 8月17日(水)マタイ十八23〜27  イエスさまのたとえに一万タラントン借金した人が登場します。それは六千億円という途方もない金額で、到底払いきれないものです。自分も家族も一生奴隷のような生活をしなければなりません。すると王さまはその人や家族のことを思い、心を痛めて借金を帳消しにしたのです。なんということでしょう。もう返さなくていいのです。こんなすごいことがあるでしょうか。 8月18日(木)マタイ十八28~30  こんな感謝してもしきれないほどのことをすばらしいことを経験したら、人に対して優しくなれそうな気がします。でもこの人は、仲間の借金をゆるすことができませんでした。自分が受けた恵みの大きさがわからなかったのでしょうか。 8月19日(金)マタイ十八31〜35  これを見ていた他の仲間たちのように、私たちもこの人をひどくケチでよく深い、思いやりのない人だと思います。どうしてゆるしてあげないのかと。でも実は私たちも、自分はゆるされているのに、人のことはゆるせないでいることがあるのです。 8月20日(土)マタイ十八19~20  私たちは自分の力では自分の罪をどうすることもできません。でも神さまは、イエスさまの十字架によってゆるしてくださいました。だから私たちは、イエスさまがしてくださったことを忘れずに、ゆるされた者として、人をゆるす者でありたいと思います。天の国はゆるし合う者の国なのです。  永遠の命は、死なないでずっと生きられるということではありません。死んだ後も神さまと天国で生きる命のことです。そして生きている今も神さまを信じていると、天国ってこういうところなんだと、体験できる命です。 8月21日(日)マタイ十九16〜17  青年は、善い行いをしたら永遠の命をいただけると思っていました。そこでイエスさまは、本当に善いお方である神さまから与えられた戒めを守りなさいと言われました。その戒めを守ることの他に付け足すような善いことはないと言われたのです。 8月22日(月)マタイ十九18〜20  この青年は、イエスさまが守るように言われた十戒をみんな守ってきた模範的な人でした。特に、「隣人を愛しなさい。」の言葉どおり、困っている人、貧しい人を助けるために、募金をし、食べ物を分け与えてきました。それでもこのままでは自分は永遠の命をいただけないと思ったのです。何かが自分に足りないけれど、何が足りないのかわかりませんでした。 8月23日(火)マタイ十九21〜22  イエスさまは、「何もかも捨てて私に従ってきなさい。」と言われました。青年は悲しみながら立ち去りました。だれかのためにする善い行いならなんでもしたでしょう。でも地位も財産もなくして、イエスさまの弟子になって生きることはできませんでした。財産があって、地位がある方が、人々に立派だと思ってもらえるし、安心して生きていけるからです。 8月24日(水)マタイ十九23~25  弟子たちはこの青年が立派な人だから神さまに祝福されてお金があると思っていました。そんな模範的な人が天国に入るのが難しいとしたら、一体だれが天国に入れるのでしょう。ラクダが針の穴など通れるはずがありません。なんだか途方に暮れてしまいます。 8月25日(木)マタイ十九26  私たちには天国に入るためにできることはないのです。自分の力では戒めも守れないし、イエスさまに従うこともできないからです。つまり自分が何かをしたら、永遠の命をいただけるのではないのです。それは神さまだけにできること、神さまがしてくださる恵みなのです。 8月26日(金)マタイ十九27〜30  ペトロは青年ができなかったことを自分たちはしたので、得意な気持ちになっていたかもしれません。でも弟子たちができたのは、神さまが導いてくださったからです。そしてイエスさまに従った人はみんな、天国でご褒美をいただいて、永遠の命を生きるのです。 8月27日(土)マタイ十九29~30  イエスさまは、私たちを救うために、十字架で全てを捨てて神さまに従われました。このイエスさまを心から信じることが永遠の命をいただく道です。  天国はどんなところなのでしょう。今の世界では当たり前のことが、そうではない世界のようです。 8月28日(日)マタイ二十1〜7  ぶどう園の主人は一日に五回も人を雇いました。主人は何回も広場に行って、その度に広場に何もしないで立っている人がいるのを見たのです。それはその人を雇ってくれる人がいなかったからです。この主人はその人たちを放っておけない人だったのです。 8月29日(月)マタイ二十1〜7  働く時間の長さに関係なく、とにかく働くことができてよかったのは、どの時間の人も同じだったでしょう。短い時間でも働かせてもらえた人は特にありがたく感じたでしょう。たとえ短くても少しでもお金がもらえるなら助かるからです。 8月30日(火)マタイ二十8〜9  給料は最後の人からもらい、一番長く働いた人たちが最後でした。それもたった一時間しか働かなかった人が1デナリオンをもらえたのです。それはこの時代の1日分の給料です。わずかな時間しか働かなかった人にとっては驚くほどの恵みでした。働いた分に全くふさわしくない、多すぎる給料でした。 8月31日(水)マタイ二十10  自分たちより短い時間しか働かなかった人たちが、1デナリオンをもらっているのを見たら、きっと私たちも最初から働いた人たちと同じように期待するでしょう。自分たちはもっと多くもらえるのかなと。それが今の私たちの世界だからです。ところが長く働いた人たちも同じ1デナリオンだったのです。そんな時どんな気持ちになるでしょう。 9月1日(木)マタイ二十11〜12  最初から働いた人たちは納得できませんでした。「長い時間働いた自分たちが、ちょっとしか働かなかった人たちと同じ給料なのはおかしいじゃないか。」こんなのずるい、平等じゃない、損をした、と私たちも思うかもしれません。でもだれも損をしていないのです。それが天国なのです。 9月2日(金)マタイ二十13〜16  ぶどう園の主人は、約束通りのお金をくれました。だから不平等でもインチキでもないのです。ではどうして不満を感じたのでしょうか。私たちは、大して働いていない人たちが同じ金額をもらうことがどうして許せないのでしょうか。 9月3日(土)マタイ二十13〜16  天国に入れていただくことは、私たちの働きにふさわしくない、神さまからの多すぎる給料をいただくようなものなのです。たとえどんなに多く働いても、神さまがくださる天国は それ以上の恵みです。イエスさまが十字架で死んでよみがえられたから、私たちはゆるされて天国へ行けるのです。必要なのはイエスさまを信じるだけです。ものすごく大きな恵みです。 イエスさまはもうすぐ十字架にかけられます。そのためにエルサレムに来られ、そのまま神殿に行かれました。 9月4日(日)マタイ二一12〜13  神殿の広い庭では、神さまを礼拝する時におささげする動物が売られていました。また神殿に収めるためのお金の交換所がありました。だからそこではたくさんの人が売り買いしていたのですが、イエスさまはみんなを追い出されました。また店番をしていた人の台や椅子もひっくり返されたのです。そこにいたみんなはとてもびっくりしました。どうしてこんなことをされたのでしょうか。 9月5日(月)マタイ二一12〜13  神殿は神さまを礼拝するところ、お祈りをささげるところです。でも礼拝をしている心までは見えません。だからささげものは、礼拝する人の心を表しています。でもだんだん、心のこもらない形だけのささげものになっていたのです。また売る人は、お金を儲けのために、礼拝する場所を利用していました。そのことに気づかせるために、イエスさまはみんながびっくりすることをされたのです。 9月6日(火)マタイ二一14  イエスさまは目の見えない人、足の不自由な人々をいやしました。イエスさまが私たちの救い主だからです。イエスさまは、頼り、祈る私たちを罪やいろいろな苦しみから救いだすお方です。そして神さまを礼拝する場所は、人々の病気がいやされる場所でもあるのです。 9月7日(水)マタイ二一15〜16  イエスさまが神殿で奇跡を行い、子どもたちがイエスさまをほめたたえることを嫌がる人々がいました。神殿を管理する祭司長や律法学者たちです。彼らはユダヤ人社会のリーダーでした。イエスさまがすることも、それを喜ぶ声も、イエスさまが神の子救い主であることを表していました。それが気に入らなかったのです。 9月8日(木)マタイ二一15〜16  神殿の本当の主人は神さまと救い主イエスさまです。でもいつの間にか祭司長や律法学者たちが自分たちの偉さを示す場所になっていました。だからイエスさまが本当の主人だとは認めたくありませんでした。 9月9日(金)マタイ二一15〜16  神殿でイエスさまをほめたたえることは一番ふさわしいことです。だとしたら、その声は止められてはいけないのです。 9月10日(土)マタイ二一15〜17  イエスさまを信じる人の心にイエスさまは住んでくださいます。神殿は神様のおられるところです。だから私たちの心も神殿です。そして信じる私たちの心の主人はイエスさまです。 私たちがイエスさまにお祈りしたり、イエスさまを賛美したりし続けるなら、イエスさまの恵みを味わう生活をさせていただけます。  イエスさまはもう一度この世界の終わりの時に来られます。それがいつかはわかりません。いつ来られても私たちが喜んでイエスさまをお迎えするには、どんな準備ができるでしょう。 9月11日(日)マタイ二五1〜4  この世界の終わりには、イエスさまがもう一度来られて、新しい世界がやってきます。それはまるで、結婚式をするためにやってくる花婿を迎えるのに似ています。イスラエルでは、花嫁を花婿が迎えに行きます。迎えにきた花婿を、花嫁の友だちが出迎えるのです。私たちはこの友だちのように、イエスさまをお迎えしたいと待っています。 9月12日(月)マタイ二五1〜4  結婚式は夕方に始まるので、電気のないこの時代は、一人一人が灯を持っていました。灯は油を入れた器に糸を垂らし、火をつけてともします。十人のうち五人の賢いおとめは、油が足りなくなった時のことを考えて余分に油を持っていました。他の愚かな五人は予備の油を持っていませんでした。 9月13日(火)マタイ二五1〜4  イエスさまを待つ私たちの灯は、イエスさまを信じる信仰です。信仰が明るく輝いていると、周りも照らされて、イエスさまを信じたくなります。信仰を明るく輝かせる油は聖霊です。聖霊はイエスさまを信じる私たちの心に住んでおられます。そして私たちがイエスさまを信じ続けるよう励まし、み言葉を思い出させ、従う力を与えてくれます。 9月14日(水)マタイ二五5〜7  花婿が来たのは真夜中でした。それまでみんなが眠ってしまいました。起きて灯を見ると火が消えそうです。でも予備の油を準備していたおとめたちは油を足すことができました。私たちもイエスさまが来られる時、信仰を明るく輝かせてお迎えしたいですね。そのための準備はどうしたらできるでしょうか。 9月15日(木)マタイ二五8〜13  イエスさまがいつ来られるのかだれにもわかりません。今日来られるか、来年来られるか、それとも私が死んだ後なのか。いつ来られるとしてもお迎えできる準備、予備の油を持っているような準備は、お祈りをやめないことです。 9月16日(金)マタイ二五8〜13  私たちの信仰は、いつも燃えて輝いてばかりではないでしょう。礼拝がつまらなくなり、出たくない日もあるかもしれません。でも教会から離れないで「私を助けてください」と祈り続けるなら、私たちの信仰は支えられます。 9月17日(土)マタイ二五8〜13  私たちは自分の力では信仰を輝かせ続けることはできません。でも聖霊が私たちの信仰を励まし輝かせてくださいます。聖霊が私たちを、いつでもイエスさまをお迎えできるように 整えてくださいます。  この世界の終わりにやってくる新しい世界とは、天国のことです。 9月18日(日)マタイ二五14〜15  三人が預けられたお金の数字だけを見ると、5や2に比べたら1は少なく見えます。でも日本のお金にすると、1タラントンは20年分の給料と同じです。とても多いですね。そのように私たちには神さまから与えられたものがあります。力や時間、健康や才能などです。それは私たちそれぞれにふさわしい分量なのです。 9月19日(月)マタイ二五16〜18  5タラントンと2タラントンを預かった二人は、主人が自分を信じてお金を預けてくれたことがうれしくて、喜んでもらいたくて働きました。神さまは私たちにも「やってごらん」と信頼して任せてくださっています。私たちに与えられているものは何でも神さまから任されたものです。 9月20日(火)マタイ二五16〜18  1タラントン預けられた人はどうしてそれを土に埋めたのでしょうか。働きたくなかったのか、失敗したくなかったのか。それとも面倒だったのか、他の人がうらやましくて、すねてしまったのか。主人が信頼して任せてくれたことより、自分の与えられたものが気に入らなかったのでやらなかったのです。 9月21日(水)マタイ二五19〜23  戻ってきた主人は、5タラントンと2タラントンを預かった二人を「忠実な僕」と誉めて喜びました。主人の喜びは、二人がたくさん稼いだからではなく、信じて任せたものを使って、主人に従ったことでした。そのように神さまは、私たちが今の世界でどれだけ多くのことができたかを期待しておられるのではなく、与えられたものを使ってイエスさまに従い続けることを望んでおられます。それが天国で喜ばれることなのです。 9月22日(木)マタイ二五19〜23  1タラントンの人が主人のことを怖がったのは、主人の愛がわからなかったからです。だれかを恐れるのは、私たちが「あなたはだめだ」と言われるのではないかと思うからです。 9月23日(金)マタイ二五19〜23  神さまは私たちが失敗したり、間違えたり、時には罪を犯してしまっても見捨てるお方ではありません。やり直させてくださいます。もし私たちが罪を犯したなら、悔い改めて、与えられたものを使って、従っていけばいいのです。 9月24日(土)マタイ二五19〜23  与えられているものを使わなければ、使い方を忘れてやがて失われてしまいます。今与えられているものに、何か不満があるかもしれません。もっと別のものが良かったとか、あるい は、私には無理だから他の人にしてほしいと思っているかもしれません。でもそれが神さまから今の私に任されている良いものなのです。  イエスさまを信じる人はみんな新しい世界、天国へ入れていただけます。だからイエスさまが来られるまで、私たちは、イエスさまを信じって良かったことを、まだ信じていない周りの人に話したり、愛の心で一緒に過ごしたりして伝えていくのです。 9月25日(日)マタイ二五31〜46  この世界が終わって、新しい世界がやってくると、その世界の王さまはイエスさまです。そして世界中の人が集められて、イエスさまの裁きを受けるのです。その時永遠の命をいただいて、天国に入る人と、永遠の火に入る人に分けられます。それはまるで、昼間は一緒にいた羊とやぎが、夜は分けられて休ませるのに似ています。 9月26日(月)マタイ二五31〜46  イエスさまを信じたら、天国に入れると約束されています。でもここを読むと、まるで愛の行いをしなかったら天国に入れないかのように思えます。だとしたら、イエスさまを信じただけでは、天国に行けないのでしょうか。もちろんそうではありません。 9月27日(火)マタイ二五31〜40  イエスさまは、右側に分けられた人々に、「私の父に祝福された人たち」と言われました。彼らはイエスさまが困っていたり苦しかったりした時に、助けて世話をしてくれたからだと言われました。でも彼らはそのことを覚えていませんでした。忘れていたのは、イエスさまにしたとは気づいていないし、自分のした愛の行動を特別なことと思っていなかったからです。 9月28日(水)マタイ二五31〜40  イエスさまは、私たちがだれかのためにした小さな働きや愛の行動を覚えてくださっています。そして「私にしたのである。」と言われます。イエスさまは、私たちの愛の行動を喜んで受け取ってくださるのです。 9月29日(木)マタイ二五31〜40  「これらの最も小さな者」は私より弱い人ことのように思えます。でも私たちはみんなイエスさまに救っていただかなければやっていけない小さな者たちです。私たちもまたいろいろな人に愛の助けをいただいています。 9月30日(金)マタイ二五41〜46  私たちは自分勝手で、人のことを思いやることのできないことがたくさんあります。だから本当は左側に分けられた人たちのように、イエスさまに「してくれなかった」と言われてしまうような者たちなのです。でもイエスさまの十字架によって罪がゆるされたので、もうそのようには言われない者にしていただいたのです。 9月31日(土)マタイ二五41〜46  私たちは、イエスさまへの感謝の気持ちとして、天国までの道を、食べ物を分けあったり、困っている人に親切にしたり、お世話をしたりして人と一緒に生きるのです。