新しい年も聖書の言葉が、生活の中で「本当なんだ。」と実感できるといいですね。神さまの愛と恵みが豊かにありますように。 1月2日(日)マルコ一40  イエスさまの前にひざまずいてお願いした人は、家族や友だちから離れて生活しなくてはならない病気にかかっていました。もう長い間人の中に入ることができなかったのです。病気の辛さがあるのに、人と交わりを持つことができないのはどんなに辛く寂しいことでしょう。 1月3日(月)マルコ一40 この病気の人がお願いしたのは、「病気を治してください」ではなく、「私がよくなることをイエスさまが望んでくださるならお願いします。」でした。もちろん治りたいのですが、でもイエスさまが一番いいと思うことにお任せしていました。イエスさまの考えることが一番いいことだと信じていたからです。 1月4日(火) マルコ一41〜42 イエスさまは、その人がどんなに病気で苦しみ悩んできたか、辛かったかを深く感じられました。またその人を苦しめる病気に怒りも感じられました。イエスさまはその人に触って「私もあなたが良くなることを望んでいるよ。清くなれ。」と言われ、病気をいやされました。 1月5日(水)マルコ一43~44 病気だった男の人が、家族のもとに戻って、仕事もできるようになるためには、祭司のところに行って、確かにこの人は病気がなおり、清くなっていると証明してもらわなければなりません。そうすれば、だれもがこの人を安心して受け入れられるからです。 1月6日(木)マルコ一43~44 病気が治ることを「清くなった」と書かれています。この病気は皮膚の病気のことだったようですが、皮膚の病気をユダヤ教では「汚れている」と言っていました。だから治ると、ユダヤ教の祭司が調べて清くなったと言ったのです。 1月7日(金) マルコ一43〜44 イエスさまはその人に、イエスさまによって治ったことをだれにも言わないよう、とても厳しく注意しました。どうしてなのでしょう。イエスさまは私たちを罪から救うために来られました。病気が治ったら、イエスさまはもういらない、と本当に必要な救いを受け取らない人がいるかもしれません。だから病気が治せることばかり宣伝したくなかったのです。 1月8日(土)マルコ一45 イエスさまが望まれることをしていただくのが一番いいと思っていた人ですが、彼は黙っていることができませんでした。イエスさまが望まれることに従うことができなかったのです。こんなすばらしいことがあったのだから言わないなんてもったいないと。けれども、それで、イエスさまの活動をやりにくくさせてしまいました。  自分ではどうしていいかわからなくても、友だちやだれかに相談したら助けてくれることがあります。私たちは一人ではできなくても、周りのだれかと助けあうなら、問題を乗り越えていけますね。 1月9日(日)マルコ二1〜2  イエスさまのお話をみんな聞きたがっていました。それで御言葉を聞くために家の戸口まで隙間がないほどいっぱいの人が聞きに来ました。聞いていると、喜びや希望がわいてきたり、慰められたりしたでしょう。罪を悔い改めたり、人をゆるすように示されたりもしたでしょう。神の国へ入るための御言葉が聞けたのです。 1月10日(月)マルコ二3 イエスさまのおられる家に、4人の男の人が運んできたのは、病気で体が不自由な人でした。でもイエスさまなら治せると4人は信じていたのです。もし自分にそういう仲間がいるなら、それはなんとありがたいことでしょう。また自分がだれかをイエスさまの所へ運んでいけたなら、それもうれしいことです。 1月11日(火) マルコ二4 それにしても家の中は戸口まで隙間のないほどの人でうまっています。どうやっても入れないのです。でも彼らはあきらめませんでした。だれかが「屋根から吊り降ろそう」と考えたのです。「それはいい。」とみんな思いました。イエスさまのもとへ連れて行くのに、入り口でなくてもいいのです。頭の柔らかい考えを持てる4人だったのです。 1月12日(水)マルコ二5 イエスさまには、4人が、イエスさまなら治せると心から信じていることがよくわかりました。本人はもうあきらめていたかもしれません。でも信じる友だちの思いをイエスさまは聞いてくださるのです。 1月13日(木)マルコ二5 どうしてイエスさまは「あなたの病気は治る」と言わないで、「あなたの罪は赦された」と言われたのでしょう。病気が治っても、イエスさまに罪をゆるしていただかなかったら、救っていただかなかったら、神の国に入ることができないからです。だれにとっても一番必要なのは罪のゆるしによる救いなのです。 1月14日(金) マルコ二6〜9 「罪がゆるされた」と言葉で言うのは簡単です。それが本当に起こったのか目では確かめられないからです。だから病気を治すことの方が難しいように思えます。でもイエスさまは神の子なので、病気も治せるし、罪をゆるす力も持っておられるのです。 1月15日(土)マルコ二10〜12 イエスさまが語られると、病気の人は立ち上が出て行きました。行きは戸口からは入れないほどいっぱいだった人が、みんな驚いてどいたので、自然に道ができていました。彼は4人の信仰のおかげで救われました。  小学校の時、朝顔の種をまいて、観察をした覚えがあります。だいたいの人はやったことがあるのではないでしょうか。芽が出て成長していくのって楽しみですよね。きっと神さまも私たちの心にまかれた御言葉の種が成長していくのを楽しみにされているのかな。 1月16日(日)マルコ四1〜9  イエスさまの話を聞いたらどんなことが私たちにおこるのでしょう?目に見えない言葉が私たちの心にどう働くのでしょう?イエスさまはそれを聞いた人がよくわかるように、たとえ話で語られました。ある人がまいた種は、落ちたところがどんなところかで、芽を出すか、出さないか、実を結ぶか、結ばないかの違いがありました。ということはどういうことなのでしょうね。 1月17日(月)マルコ四10〜12 イエスさまの言葉は、信じる人にとっては、大事な言葉です。だからよく聞くし、悔い改めたり、元気が与えられたりします。そしてそのとおりに生きたいと思います。でも信じていないと、自分にどう関係があるのかよくわからないの、聞いても理解できないのです。 1月18日(火) マルコ四13 弟子たちはイエスさまを信じて、従っていました。けれども実は彼らもなかなかイエスさまの言葉を理解できませんでした。信じていたらわかると昨日は書いたのに、どういうこと?と思うでしょう。もちろん信じているとわかるのです。でももっとよくわかるためには、イエスさまが十字架で死んで復活されることが必要でした。そこから本当にわかるようになるのです。 1月19日(水)マルコ四14〜15 まかれた種は、神さまの言葉です。道端には、種が芽を出す場所がありません。御言葉を聞く心にも、受け入れる思いがないと、悪魔が「こっちの方がいいよ」と誘う方に心がむいてしまい、御言葉が自分のものになりません。 1月20日(木)マルコ四16〜17 芽を出しても根を張れない土地では枯れてしまうように、御言葉に感動しても、その言葉をやってみようとしないと、苦しいことがあったり、イエスさまを信じることに反対されたり、ばかにされたりすると、くじけてしまいます。。 1月21日(金) マルコ四18〜19 いばらに塞がれて実を結ばくことができなかったのは、忙しかったり、優先させたいものがいっぱいあったりする心です。御言葉が後回しにされて、結局御言葉とは関係ない生活で心がいっぱいで、実を結ぶことができないのです。 1月22日(土)マルコ四20 よく耕された土地で、植物は成長し実を結びます。そのように、私たちの心がイエスさまを信頼し、感謝しているなら、御言葉のいうようにやってみると、それが豊かな実を結びます。  聞いてすぐわかることと、一度聞いてもよくわからないことがあります。でも何度も何度も聞いていくうちにわかるようになると、すごくうれしいですね。 1月24日(日)マルコ四21〜23  電気のなかったイエスさまの時代は、油を入れた器に糸を入れて、それに火をつけて暗いところを照らしました。それを灯といいます。せっかく灯をつけたのに、蓋をして消したり、何かの下に置いて隠したりしたら意味がありません。イエスさまのお話は私たちの心を照らす希望の灯です。でもすぐにはわからないことがあります。でも信じる心には、いつまでもわからないままではなく、ちゃんと分かるようにしてくださいます。 1月25日(月)マルコ四24〜25 イエスさまの言葉を聞いたら、信じたり、やってみようと思ったりするでしょう。でも自分には関係ないと思い、聞いてもなんにも感じ無い時は、聞いたことを忘れてしまいます。聞く心がないと、神さまから与えられるものを受け取ることができません。神さま、あなたの言葉をよく聞ける心を与えてください。 1月26日(火) マルコ四26〜27 神の国は信じる人の心に与えられます。でも日本ではイエスさまを信じる人はまだまだ多くはありません。少ないと、自分を弱く感じますし、神の国が小さく感じられます。でも私たちがあきらめないで、だれかに伝え、イエスさまに従っていくなら、種が自然に成長していくように、神の国も増え広がっていくのです。 1月27日(水)マルコ四28〜29 私たちは種をまいたら、お水をやって世話はできますが、芽をださせたり成長させたりすることはできません。それは神さまがされることです。そうしてやがて収穫のときがやってきます。同じように、神の国は完成するのです。 1月28日(木)マルコ四30〜32 からし種は小さな種です。でも小さいままではなく、大きく成長します。そのように、神の国のはじまりは小さくても、神さまによって大きくされていくのです。私たちのできることが小さくても、神さまが神の国のために大きく使ってくださいます。 1月29日(金) マルコ四30〜32 小さな種だったからしの成長は、大きく枝をはり、葉の陰に鳥が巣を作れるほどです。十字架で死んで復活されたイエスさまを神の子救い主だと信じたのは、最初はわずかな人たちでした。しかし今は、世界中に信じる人がいるようになりました。今私たちはイエスさまの陰に安心して集まり、休むことができます。 1月30日(土)マルコ四33〜34 イエスさまの言われたたとえの意味がよくわかるためには、どうしたらいいのでしょうか。イエスさまを信じて弟子になることです。  イエスさまは人に知られないようにこっそり外国の町へやってきました。それでも人々に気づかれてしまいました。 1月31日(日)マルコ七24  電話やネットのない時代ですが、イエスさまが来たことがすぐにわかってしまうとは、うわさの力はすごいですね。イスラエルの周りの外国の町にもイエスさまは知られていました。 2月1日(月)マルコ七25〜26 イエスさまの足元にひれ伏したお母さんには、悪霊に取りつかれた小さな娘がいました。お母さんは、イエスさまに娘を助けてほしかったのです。イスラエル人は外国人と関わりを持たないので、ギリシア人のお母さんにとっては、お願いすることは勇気がいったでしょう。でもイエスさまになら助けてもらえると信じていました。 2月2日(火) マルコ七27 いつものイエスさまなら、すぐに助けてくれるはずなのに、この時はどうしてなのでしょう。「まず、子どもたちに十分食べさせるべきである。」というのは、「わたしはまずイスラエル人のために働くためにきました。」と外国人のお母さんに言われたのです。なんだかイエスさまらしくありません。 2月3日(水)マルコ七27 イエスさまはさらにイスラエル人を「子どもたち」と呼び、このお母さんのことを「小犬」言われました。この「小犬」は、お家で飼われているペットのことです。ペットですから、ちゃんとかわいがって世話をしてもらえるのです。ペットは家族のように大事にされます。だから、大丈夫なのです。まずはイスラエル人からと言っても、このお母さんのこともイエスさまは放おってはおかれません。 2月3日(木)マルコ七28 悪霊に取りつかれた子のお母さんは、イエスさまに「小犬」と言われても失礼だと怒りませんでした。それどころか「確かに私は小犬です。」と自分を低くして、「でも小犬も食事中に子こどもたちがあちこち落とすパンくずはいただけますよね。」と答えたのです。お母さんは、イエスさまに、恵みのおこぼれで十分です。それで自分の娘は悪霊から助かりますと、心から信じていました。 2月4日(金) マルコ七29 イエスさまは「その言葉で十分である。」と言われました。それはイエスさまが、「イエスさまなら助けてくださる」と信じるお母さんの心を受け取られたのです。そして「行きなさい。悪霊はあなたの娘から出ていった。」と言って、女の子を救われました。 2月5日(土)マルコ七30 お母さんが家に帰ってみると、女の子から悪霊はもう出ていっていました。イエスさまが言われたとおりでした。信じて、あきらめないで良かったとお母さんは、娘と喜んだことでしょう。  イスラエルの人々は長い間救い主メシアを待っていました。でも人々が期待するメシア(救い主)の姿と、来られたイエスさまの姿は違っていました。 2月6日(日)マルコ八27〜28  病気を治したり、悪霊を追い出したり、普通の人ができないことができるイエスさまは一体どういう人なのでしょう?たくさんのお弟子さんがいた、洗礼者ヨハネかな?もう一度くると約束されていた昔の偉大な預言者エリヤかな?それともとにかく力のある預言者なのかな?みんなはそんなふうにうわさしていました。 2月7日(月)マルコ八29〜30 イエスさまの弟子たちはどう思っていたのでしょうか?ペトロが 弟子を代表して言いました。「あなたはメシアです。」「メシア」とは救い主ということです。そうです、イエスさまは、どんな偉大な預言者よりも、どんなに力ある人よりももっとすごいお方、神の子救い主です。でもイエスさまが救い主であることはまだ秘密です。イエスさまがしようとすることを邪魔されないためです。 2月8日(火) マルコ八31〜32 イエスさまは、自分は必ず殺されてしまうこと、けれども三日目に復活されると言われました。みんなびっくりしました。だからペトロはイエスさまをいさめ始めたのです。イエスさまの言っていることは、メシアらしくないことです。「そんなことはあってはならないことです。メシアであるお方はそんなことを言ってはいけません。」イエスさまは間違っているから止めなくてはいけないとペトロは思いました。 2月9日(水)マルコ八33 ペトロは叱られてしまいました。「サタンよ、私の後ろに引き下がりなさい」と。ペトロだけでなく、みんなが待っていた救い主は、戦争に強く、ローマ帝国を打ち破って、イスラエルをローマの支配から救い出すお方でした。でもイエスさまは、十字架で死んで罪と死の力を打ち破り、罪から私たちを救うメシアなのです。それを邪魔することは悪魔のすることなのです。 2月10日(木)マルコ八34 イエスさまに従う人がすることは、①自分を捨てることです。自分の方が神さまより正しい、神さまのやり方は間違っていると思うことをやめることです。②自分の十字架を負うことです。苦しむことから逃げないことです。③イエスさまの後ろをついていくことです。 2月11日(金) マルコ八34  イエスさまについていくことは、時にはイエスさまのために損をするように思えることもあります。 2月12日(土)マルコ八35〜38 もしイエスさまのために損をすることがあっても、イエスさまを信じて天国の命をいただいているなら、それが一番の持ち物、一番の得です。  イエスさまの十字架は、だれも避けて通れません。それを受け入れて私たちは救われるし、イエスさま のことがわかるからです。 2月13日(日)マルコ九2〜3  ペトロとヤコブとヨハネは、今まで見たことのない、イエスさまの本当の姿を見ました。イエスさまの姿が変わり、着ている服がこの世界にはない白さに輝き出しました。いつもはイエスさまの神の子としての本当の姿は隠されていたのです。 2月14日(月)マルコ九4 イエスさまのそばに現れた二人は、どちらも旧約聖書でとても大きな働きをしました。モーセはエジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの人々をエジプトから脱出させました。エリヤは、バアルという偶像を信じる人々と対決して、天地を造られた神さまこそ本当の神さまであることを示した預言者でした。 2月15日(火) マルコ九5〜6 神さまに従い通したモーセとエリヤ、そして神の子救い主イエスが一緒にいることに、ペトロはとてもすごいことが起こっていると思いました。天国はこういうところだと思いました。何を言ったらいいかわからないけれども、住まいを建てて3人を引き止めて、ずっとこのままでいてほしいと思ったのです。 2月16日(水)マルコ九7〜8 あっという間に偉大な3人は雲に包まれ見えなくなりました。そして雲の中から神さまの声が聞こえたのです。「あなたがたはこの私の愛する子の言葉を聞きなさい。」弟子たちがそこに見えたのは、イエスさまが一緒にいてくださることでした。 2月17日(木)マルコ九9〜10 ペトロたち3人は、自分たちが見たすばらしい出来事を、イエスさまが復活されるまでは、秘密にしていなければいけないと言われました。彼らも他の弟子たちも、強く輝かしいメシアだけを夢見ていたからです。でもイエスさまは「死者の中から復活する」と言われたように、輝かしさの前に、苦しめられ殺されて死なれるという暗闇を通らなければなりませんでした。 2月18日(金) マルコ九34  この時はまだ彼らはイエスさまの言われた「使者の中から復活する」ことがどういうことかわかりませんでした。イエスさまが十字架で死んで、死からよみがえった後でなければ、だれも本当にイエスさまをわかることはできませんでした。 2月19日(土)マルコ九35〜38 旧約聖書で、メシアが来る前にエリヤが来ると約束されていました。だから律法学者たちは、イエスさまがメシアならエリヤが来ているはずだ、でもまだ来ていないと言って、イエスさまを信じませんでした。でもバプテスマのヨハネが約束されていたエリヤでした。そして彼らはヨハネのことも信じませんでした。  イエスさまはエルサレムに向かっていました。エルサレムでは十字架の苦しみが待っていました。弟子たちにはよくわかりませんでしたが、イエスさまが大変なことへ向かおうとしているということは感じていました。 2月20日(日)マルコ十13〜18  お父さんやお母さんが、イエスさまに触ってもらおうと子どもたちを連れて行きました。どうして触ってほしかったのでしょうか。イエスさまに触ってもらえれば、子どもたちが祝福されると信じていたのです。イエスさまに祝福してもらえれば安心でした。 2月21日(月)マルコ十13〜18 弟子たちは、イエスさまが、何かとても大変なことに向かって、心を集中させておられるのを感じていました。子どもたちはそのイエスさまの集中する心を邪魔するものだと思ったのかもしれません。今大事な時、子どもが来るようなところではないと叱ったのかもしれません。 2月22日(火) マルコ十13〜18 イエスさまは、弟子たちが子どもたちの来ることを止めたことに、心を痛めました。そして子どもがとても大切であることがわからず、偉そうに追い払う弟子たちの態度を、強く怒られました。子どもたちがイエスさまを邪魔するのではなく、そういう弟子たちがイエスさまを邪魔していたのです。 2月23日(水)マルコ十13〜18 イエスさまは「神の国はこのような者たちのものである。」と言われました。イエスさまに祝福してほしいとお願いする人はだれも邪魔されてはいけません。イエスさまは弟子たちに、「ここは子どもの来るところではない」と言うのではなく、「一緒に祝福をいただこうね」と言ってほしかったのです。 2月24日(木)マルコ十13〜18  ある子は、自分ではイエスさまのところへ行く行き方も、行ったらいいこともわからないために、イエスさまのところへは行かないかもしれないし、行けないかもしれません。だから連れていってあげる人がいることは大事なことです。 2月25日(金) マルコ十34  神の国は、イエスさまに「祝福してください」と連れて来られた子どもたちだけでなく、子どもたちを連れてくる人たちも一緒に祝福していただけるところです。そして「子どものように神の国を受け入れる人」というのは、イエスさまの祝福が必要だと信じる人のことです。また祝福を受け取る人のことです。 2月26日(土)マルコ十35〜38 イエスさまは、子どもたちを一人一人抱き寄せて、手を置いて祝福されました。これからイエスさまは十字架で苦しみ死なれます。私たちを救うために罪と死に打ち勝ってよみがえられるためです。そうして約束された神の国への道が完成されるのです。  すぐあきらめるタイプですか。それとも粘り強くあきらめないで続けるタイプですか?イエスさまにお祈りする時は、あきらめないで祈り続けたいですね。 2月27日(日)マルコ十46〜47  バルテマイはイエスさまに会いたいと思っていたのでしょう。だからイエスさまが自分のそばを通っていることを知った時、このチャンスを逃してはいけないと叫び出しました。「主イエスさま。私を助けてください。」と。彼はイエスさまなら自分を助けてくれると信じていました。 2月28日(月)マルコ十48 多くの人はこの人のことを叱って黙らせようとしました。みんなは歩きながらイエスさまの教える言葉を聞いていたので、バルテマイの声がうるさくてたまらなかったのです。彼のことを邪魔に思っても、彼がなんで叫ぶのかを聞く人はいませんでした。けれどもバルテマイは叫び続けました。止められれば止められるほどバルテマイはもっと大声で叫んだのです。 3月1日(火) マルコ十49 イエスさまはその声を無視しないで立ち止まられました。そしてバルテマイを呼ばれたのです。イエスさまが去ってしまわないようにと必死で叫ぶバルテマイを叱る声はなくなっていました。「もう安心していいよ。イエスさまが呼んでくださったから。」と励ましの声に変わっていました。 3月2日(水)マルコ十50 バルテマイは本当にうれしかったのです。それまで大事にしていた上着を脱ぎ捨てました。上着はバルテマイの体を守る服であり、座る時の敷物であり、人から物やお金をもらう時にその上においてもらう商売道具でした。でももう必要なくなったのです。うれしくて躍り上がってイエスさまのところに行きました。周りの人が「こっちだこっちだ」と教えてくれる声をたよりにして行ったのかもしれませんね。 3月3日(木)マルコ十51  私たちは、バルテマイが助けてほしいことは、目が見えるようになることだろうと思います。そんなことは聞かなくてもわかると思います。でもイエスさまは聞かれました。「何をしてほしいのか。」と。イエスさまは何でも知っておられます。でもイエスさまは、私たちが自分で何をしてほしいのかを言うこと、祈り求めることを大事にされます。 3月4日(金) マルコ十51〜52 バルテマイの「また見えるようになりたい。」という求めにイエスさまは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。でもそれでもう十分でした。見えるようになっていました。 3月5日(土)マルコ十52 バルテマイはイエスさまに従う弟子になりました。そして十字架へ向かうイエスさまの後について行ったのです。  イエスさまの十字架の死と復活の時が近づいていました。 3月6日(日)マルコ十一1〜3  イエスさまは、これからエルサレムへ入るために、二人の弟子に子ろばを連れてくるように言われました。まだだれも乗ったことのない子ろばでした。子ろばを連れてきてどうするのでしょう?イエスさまは、子ろばに乗ってエルサレムに入ろうとしていました。 3月7日(月)マルコ十一4〜6 二人は言われたとおりにでかけていくと、イエスさまが言われたとおり、繋がれた子ろばが見えました。子ろばを連れて行こうとすると、言われたとおり「その子ろばをどうするの?」と声をかけられました。言われたとおりに「主が今必要としています。」と言うと、やっぱり言われたとおり、子ろばを連れていくのをゆるしてもらえました。 3月8日(火) マルコ十一7〜8  子ろばを連れてきた二人は、自分の上着を子ろばに掛けて、イエスさまが乗る席を整えました。一緒にエルサレムへやってきた大勢の人々は、上着を敷いたり、葉のついた枝を地面に敷いたりして、王さまの通られるカーペーットのようにしました。子ろばに乗ってエルサレムへ入って行かれるイエスさまを王さまとして迎えるためでした。 3月9日(水)マルコ十一7〜8 普通だったら王さまは馬にのってどうどうとした姿でやってきます。戦いに勝つ強い姿です。でもイエスさまが乗ったのは子ろばです。ゼカリヤという預言者が平和の王さまが子ろばに乗ってやってくると預言していました。イエスさまこそ預言されていた平和の王さま、救い主だからです。 3月10日(木)マルコ十一9〜10  さあ、いよいよイエスさまのエルサレムに入る行進が始まりました。イエスさまの乗った子ろばの前にも後ろにも、ここまで一緒にやってきたたくさんの人がいてエルサレムに入っていきます。みんなは叫びました。「ホサナ!」「主よ、今救ってください!」とお祭りのときに歌う詩篇を叫んでいます。みんなの心はいよいよローマの国から自由になれるという期待でいっぱいでした。でもイエスさまにとっては、十字架の苦しみへの行進でした。 3月11日(金) マルコ十一9〜10 戦いで力強く走る馬と違って、ろばは人や荷物を運ぶのに使われます。そのようなろばに乗るイエスさまの姿は、とても地味で低い姿です。救い主として十字架で苦しむという低い姿を示しておられました。 3月12日(土)マルコ十一11 「ホサナ!」と叫びながら行進した人々は、イエスさまがそのままローマ帝国を倒すために何かを始めることを期待しました。でもそうされなかったイエスさまのことがわかりませんでした。  生活費全部をささげるなんて、そんなこと、どうしてできるのかな? 3月13日(日)マルコ十二41〜44  神殿の中庭に献金箱がありました。箱といっても、ラッパをひっくり返したような形をしたもので、献金を投げ込むと音が鳴るようなものでした。たくさん入れれば音が長く鳴り響きます。そう考えると少ないとなんだかささげにくいですね。 3月14日(月)マルコ十二41〜44 イエスさまは人々がささげる様子を見ておられました。すると一人の貧しい女の人がお金を入れました。「やもめ」というのは、夫が死んだ人のことです。この時代は夫が死ぬと生活が大変になる人が多く、貧しかったのです。でもこの人は貧しくてもささげることをやめませんでした。 3月15日(火) マルコ十二41〜44  このやもめがささげたのはレプトンというお金2枚でした。これは私たちのお金では、1円や5円ぐらいのわずかなお金です。お金持ちの鳴り響く献金は、周りの人が注目したかもしれません。けれどもこのやもめのわずかな献金には人々は注目しなかったでしょう。でもイエスさまはこのやもめに注目されました。そして弟子たちを呼び寄せて驚くことを言われたのです。「彼女はだれよりもたくさん献金をしたんだよ。持っている生活費全部をいれたんだから。」 3月16日(水)マルコ十二41〜44 私たちは献金の多い人をすごいと思うものです。でももしお金持ちがささげるお金よりもずっと少ないわずかな献金でも、それがその人の持っている全部だとしたら、どうでしょうか。それは本当にすごいことです。そこまでささげきってしまうことができるなんて、簡単なことではありません。どうしてそんなふうにできたのでしょうか。 3月17日(木)マルコ十二41〜44  やもめはこれからどうやって生活するつもりなのでしょう。私たちはそういうことが気になります。そういう計算をしないで献金するなんて、それはやりすぎのように思えます。でもやもめは心配していませんでした。自分は神さまによって支えられていると信じていたからです。ただ神さまへの感謝があふれて全てをささげていたのです。 3月18日(金) マルコ十二41〜44 私たちは持っていないと、とても不安です。なくなってしまったら生きていけるのか心配です。でも空の鳥や野の花の面倒をちゃんとみてくださる神さまは、私たちの必要をちゃんと与えてくだるので大丈夫なのです。 3月19日(土)マルコ十二41〜44 お金持ちや貯金がいけないということではありません。持っていてもいなくても私たちが神さまを信頼していたら、やもめのように、心が自由に身軽に生きられるのです。  イエスさまの十字架は、私たちの罪の裁きがイエスさまの血によって過ぎ越しゆるされるためでした。 3月20日(日)マルコ十四12〜16  二人の弟子は、エルサレムに過ぎ越しの食事の準備にでかけました。エルサレムに入ると、水瓶を運ぶ人に出会いました。イエスさまはその人についていくように言われていたので、二人はその人についていきました。そして、イエスさまが言われた通り、その人の入った家の主人に、過ぎ越しの食事をする部屋を案内してもらうことができました。イエスさまの言われた通りのことが起こる、それを弟子たちはとことん学びました。 3月14日(月)マルコ十四17〜18 夕方、イエスさまと十二人の弟子たちがそこで過越の食事をはじめました。しかしそこでイエスさまは みんながびっくりすることを言われました。「この中で私を裏切るものがいる。」。でも一体だれがそんなことを?だれもユダが裏切るなどと想像もしませんでした。だからだれのことかわかりませんでした。 3月21日(火) マルコ十四19〜21  イエスさまを裏切る者がいると言われ、みんなとてもショックでした。だれもそんなことはしたくないのです。でもユダは裏切ってしまいました。イエスさまはユダのためにも十字架で死なれました。そしてイエスさまの十字架は、「生まれなかったほうがよかった」と言われたユダも、またどんな人も「生まれてよかったね」に変えてくださいました。 3月22日(水)マルコ十四22〜25  過越の祭の食事は、エジプトの奴隷生活から脱出した記念の食事でした。でもこれからは新しい食事をしなさいとイエスさまは言われました。罪の奴隷から脱出した記念の食事です。弟子たちがイエスさまから分け与えられたパンとぶどう酒は、イエスさまの十字架で裂かれる体と流される血によって、罪がゆるされたことを感謝する食事となりました。 3月23日(木)マルコ十四26〜28  イエスさまは、聖書に預言されているように、これから起こることにみんなこわくなって、イエスさまから離れてしまうと言われました。でもそれで終わりではありません。「私は復活します。そうしたら、私はガリラヤに先に行ってあなたがたを待っています。」 3月24日(金) マルコ十四29〜30 ペトロはイエスさまのことを三度知らないと言うと予告されました。そんなことは絶対にしないと思っていましたが、自分がどんなに弱いかをわかっていませんでした。 3月25日(土)マルコ十四29〜30 ペトロや他の弟子もみんな、死を覚悟していました。でも自分の力では、逮捕されて十字架に向かうイエスさまについてくことはできませんでした。  1年が終わりました。また新しい学年になりますね。入学する人や転校する人もいるでしょう。春休み、良い時を過ごせますように。 3月26日(日)マルコ十四32〜34  過越しの食事のあと、みんなでゲツセマネへ行きました。お祈りをするためです。でもイエスさまはとても苦しそうです。悩んでおられます。もうすぐ十字架にかかられる時が迫っていたからです。神の子だからなんともないこと、平気なことではないのです。「死ぬほど苦しい。」ことに向かっておられました。 3月27日(月)マルコ十四35〜36 「この十字架を過ぎ去らせてください。何でもできる神さま、もしゆるされるなら、十字架で苦しまなくてもすむ道を与えてください。でも私の願うことではなく、神さまが一番良いと思われることをしてください。」とイエスさまはお祈りされました。自分の思いではなく神さまの思いに従うためにお祈りされました。 3月28日(火) マルコ十四37〜38  「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」とイエスさまは言われました。イエスさまにとって十字架を避けたいと思うことは大きな誘惑でした。でもそれに向かうために、誘惑に陥らないために、イエスさまも祈られたのです。祈らなければ、負けてしまうからです。 3月29日(水)マルコ十四37〜38  弟子たちも誘惑に陥らないために祈る必要がありました。これからやってくるイエスさまの苦しみの戦いは、弟子たちにとっても恐ろしいことで、祈らないでは耐えられないことでした。あっという間に逃げ出してしまうことになるのです。でもだれも目を覚まして起きていることができませんでした。 3月30日(木)マルコ十四39〜40  また同じお祈りをされて、弟子たちのところへ戻ってみると、やはりだれも起きていられませんでした。イエスさまの苦しみをそばで支えることもできなかったし、これからどんなことが起こっても、イエスさまについていくためには、祈りが必要でしたができなかったのです。 3月31日(金) マルコ十四41〜42 イエスさまの十字架は、神さまから見捨てられてしまうことでした。その恐れと苦しみと悩みに向かうために、イエスさまは何度も祈られたのです。この日だけ十字架に向かうためにお祈りしたのではなく、何度も祈っておられたのです。 4月1日(土)マルコ十四41 ついに時が来ました。ユダがイエスさまを逮捕する人々を連れてすぐそこまで来ていました。「立て、行こう。」と言われたイエスさまの心は、すっかり準備ができていました。もう迷うことなく神さまの思いのままに進む決心をしていました。誘惑に勝っておられました。