あなたはだれかをあだ名で読んだり、自分もあだ名で呼ばれたりしていますか。私は神学生の時、ある教会学校に来ていたおともだちに、マンガにでてくる犬に似ているとのことで、「まめたろう」と呼ばれていましたよ。 10月3日(日)マルコ三7〜8  イエスさまの周りには大勢の人が集まり、行く所どこへでもついて来ました。イエスさまが病気を治したり、悪霊を追い出したりしていると聞いて、イエスさまのところに行けば、助けてもらえると思ったからです。いろいろな場所からどんどん集まる人が増えていきました。みんなイエスさまに希望を見ていました。 10月4日(月)マルコ三9〜10  病気で苦しんでいる人たちがイエスさまに触ろうと押し寄せてきて、イエスさまは押しつぶされそうでした。小舟に乗って、人々から離れないと危険なほどでした。きっと自分が先に行こうと割り込む人や、抜け駆けさせないようにする人などがいたでしょう。みんな早く助けてほしかったのです。 10月5日(火) マルコ三11〜12  悪霊はイエスさまを見るとひれ伏しました。人々がまだ知らないことを悪霊は知っていたからです。それはイエスさまが救い主であるということです。けれども悪霊がイエスさまの本当の姿を人々に語ることをゆるしませんでした。 10月6日(水) マルコ三13〜15  イエスさまは群衆から離れてお祈りするために弟子たちと山に登りました。そして弟子の中でもいつもイエスさまのそばでイエスさまから学び、イエスさまの働きを一緒にする十二人を選ばれました。彼らは使徒と呼ばれる弟子たちの中の代表でした。 10月7日(木) マルコ三16  十二人のうちの一番弟子はペトロです。私たちがよく聞くペトロという名前は実はイエスさまがつけたあだ名で本名はシモンです。ペトロとは「岩」という意味です。イエスさまを神の子救い主と信じる信仰の岩として、教会の土台としてそう呼ばれました。 10月8日(金)マルコ三17  ヤコブとヨハネの兄弟は、「雷の子ら」という意味の「ボアネルゲス」とあだ名をつけられました。怒りっぽいというか、ちょっとそれは言い過ぎじゃないと思われるようなことを言ってしまう二人だったからです。イエスさまが弟子たちをあだ名で呼ばれるとはとても親しみを感じますね。 10月9日(土) マルコ三18〜19  弟子のある人は漁師、ある人は税金をとりたてる人、ある人は独立運動家など、いろいろな人がいました。裏切り者までいます。みんな臆病で、物分りもよくはなく、自分が一番だとえばりたいと思っているような、私たちとよく似た人たちです。でも彼らをイエスさまは選び、育てました。  別に偉い人になりたいとは思わないかもしれません。でもだれかより少しでも上でありたいと思うことはあるでしょう。自分の方が長くやっているとか、あの人よりこれはうまくできるとか。つい私たちはそうやって、ちょっとでも偉いと思いたいし、思われたいものです。 10月10日(日)マタイ二十20〜21  ゼベダイの息子のヤコブとヨハネはお母さんに、「神の国では二人の息子をぜひイエスさまの次に偉い大臣にしてください。」と言ってもらい、イエスさまにお願い事を聞いてもらおうとしました。もちろんお母さんは息子たちに偉くなってほしかったでしょうし、二人は一番偉くなりたかったのです。 10月11日(月)マタイ二十22〜23  「自分が何を願っているか、分かっていない」とイエスさまは言われました。彼らが期待していたのは、今の世界で自分たちが大臣になって偉くなりたかったのです。でもイエスさまが王となって治める国は、今のこの世界ではなく、新しくやってくる神の国という世界のことです。だからわかっていないのです。 10月12日(火) マタイ二十22〜23  イエスさまが飲もうとしている杯は、十字架で死ぬことです。だからヤコブとヨハネにも、「キミたちは、私と一緒に死ぬ準備ができているのか?」と聞かれました。二人は偉くなりたいし、イエスさまにどこまでもついていきたいという気持ちがありました。だから「できます」と言いました。でも本当はよくわからないから言えたのです。 10月13日(水) マタイ二十22〜23  たとえ二人がイエスさまのために死んでも、それが神の国で絶対に大臣になれるということではありません。それは父なる神さまが決めることで、人が願っていただくものではないのです。 10月14日(木) マタイ二十24  他の10人が怒ったのは、みんな誰よりも偉くなりたかったからです。イエスさまの選ばれた12弟子は使徒と呼ばれ、大勢の弟子たちのリーダーです。その中でもさらに一番偉い人と思われたかったのです。 10月15日(金)マタイ二十25〜27  イエスさまは、偉くなりたいなら、だれかのために喜ぶことをしたり、助けたり、支えたり、祈ったりしなさいと言われました。でもそうしたから絶対に高い地位につけるとか、偉くなれるということではありません。神の国での偉いとはそういう生き方だと言われたのです。 10月16日(土) マタイ二十18〜19 イエスさまは私たちを救うために身代金として、自分の命を差し出されました。遥かに偉いお方なのに、私たちをいつも支え、助け、共にいてくださっています。だから私たちもイエスさまがしてくださったことをだれかにしていくのです。 「雷の子」と呼ばれるぐらい、ヨハネは気が短く、荒々しいようなことを言ってしまう人だったのでしょう。そんな彼がイエスさまと共に歩み、イエスさまの十字架の死と復活を見てどんなふうに変えられていったのでしょうね。 10月17日(日)ヨハネ十三1〜5  イエスさまが十字架につけられる時が近づいていました。イエスさまの心は弟子たちを思う思いでいっぱいでした。だからイエスさまは弟子たちの足を洗い始めたのです。裏切る人にもそうでない人にも、足を洗って、「私はあなたがたを本当に大切に思っている」という気持ちを表されました。 10月18日(月) ヨハネ十三6〜8 ペトロが「洗わないで」とイエスさまを止めようとした時、ヨハネは「自分もそう言えば良かった」と思ったかもしれません。みんなはこんな奴隷のすることをイエスさまにしていただくのは申し訳ないと思いました。でもイエスさまは言われたのです。これはあなたがたと私との関係をつなぐ大事なことだと。 10月19日(火) ヨハネ十三9〜11 ペトロはそれならば、と今度は頭や手も差し出しました。でもイエスさまに従ってきた彼らに必要なのは足を洗うだけです。それは、イエスさまが十字架でひとりひとりの罪のゆるしのために死んでくださることをあらわしていました。イエスさまに洗っていただかなければ、だれもきよくしていただけないのです。 10月20日(水) ヨハネ十三12〜17  イエスさまに洗っていただいた者たちは、今度はお互いに足を洗い合う者とされました。一番偉い人になりたいと言っていた彼らが、イエスさまのしもべとなって、だれかのために、お祈りしたり、助けたり、支えたりするのです。 10月21日(木)ヨハネ十三18〜20 ユダの裏切りをイエスさまは知っておられます。しかし弟子たちには今はわかりません。やがてユダの裏切りを知ってショックを受ける弟子たちが、裏切りと十字架の悲しみを乗り越えて行く時、イエスさまが確かに神さまと一つのお方でもあるということを信じるようになるのです。 10月22日(金)ヨハネ十三21〜30  雷の子と呼ばれたヨハネは、主に愛された弟子とも呼ばれています。彼はペトロの合図でイエスさまから裏切り者を聞き出そうとしました。でもだれもイエスさまの言われたことがわかりませんでした。それだけユダがみんなに信頼されていたからです。 10月23日(土)ヨハネ十九26〜27 十字架の苦しみの中で、イエスさまはお母さんのマリヤをヨハネに任せました。今日からは二人は家族です。この十字架で私たちを救ってくださったイエスさまを信じる者たちはみんな神の家族になるのです。  私たちはイエスさまを見たことがありません。当然、触ったこともなく、直接イエスさまの言葉を聞いてもいません。でも、イエスさまを見て、触って、イエスさまから聞いた人たちが私たちに教えてくれたので、私たちはイエスさまを知ることができました。 10月24日(日)Ⅰヨハネ一1〜2  ヨハネはイエスさまと一緒にいて、イエスさまが病気を治したり、悪霊を追い出したり、罪人の罪をゆるしたりするのを見ました。また一緒にご飯を食べて、イエスさまに触り、そばでお話を聞いて、イエスさまが神さまのところから人になって来られたお方であることを知りました。そしてこのイエスさまは私たちの命だとヨハネは言うのです。 10月25日(月) Ⅰヨハネ一3〜4  友だちとお話したり、一緒に遊んだりするのは楽しいですね。私たちにとってだれかと一緒に過ごす交わりの時間はとても大事です。同じように、私たちは神さまとイエスさまと交わりを持つことができます。礼拝し、お祈りし、聖書を読み、信じる仲間とお話をしたりすることです。それは私たちの心を喜ばせ元気にし、命を輝かせる力になります。 10月26日(火) Ⅰヨハネ一5  光である神さまには暗いところや、闇の部分が全くありません。神さまはうそをつくことも、罪を犯すこともないし、隠したり、ごまかしたりすることもないお方です。だから私たちは安心して神さまの光の中を歩むことができます。それは神さまを信じ続けることです。 10月27日(水) Ⅰヨハネ一6〜7  闇の中ではなく、光の中を歩むのはどうしたらできるのでしょう。イエスさまを信じ、イエスさまの言葉を聞き続けることです。なぜならイエスさまの言葉は私たちが罪を行うことから助け出して、十字架の救いによって心を清くしてくださるからです。 10月28日(木) Ⅰヨハネ一8  罪をつい隠してしまいたくなるかもしれません。でも罪を隠してしまうと、私たちは心にうしろめたさを持つことになります。わかってしまったら恥ずかしいし、怒られたり、罰せられたりすることを恐れる生活になってしまいます。 10月29日(金) Ⅰヨハネ一9  イエスさまを信じてからも、私たちは罪を犯すことがあります。大事なことは、自分の罪を告白して悔い改めることです。イエスさまの十字架によるゆるしは、どんな罪もゆるして私たちを清めてくださると約束しています。 10月30日(土) Ⅰヨハネ一10  聖書を読んだり、お祈りしたりしていると、聖霊が働いて、自分の気づかなかった罪が見えてくるようになります。み言葉が私たちの心を光で照らすからです。罪を犯したことがないとは言えなくなるのです。   「雷の子」と呼ばれたヨハネが、イエスさまに愛されて「愛の人に」変えられました。同じように私たちも「愛の人」に変えられていく希望があります。 10月31日(日)Ⅰヨハネ四7〜8  私たちは、自分が愛されていることがわかると、愛する人になることができます。神さまを信じるとは、神さまに愛されていると信じることです。神さまを信じたら、愛されていることがわかります。そうしたらうれしくて、今度は自分も人を愛したくなるのです。だから互いに愛するようにされていきます。 11月1日(月) Ⅰヨハネ四9〜11  神さまの愛が一番よくわかるのは、イエスさまをつかわして、イエスさまの十字架の死で、私たちの罪がゆるされるようにしてくださったことです。私たちが何かをして愛されるのではなく、イエスさまが先に私たちを愛して命をささげてくださいました。この愛に感謝のお返しをする一番の方法は、私たちも愛し合うことです。 11月2日(火) Ⅰヨハネ四12〜13  私たちは神さまを見たことがありません。でも信じる私たちの心には聖霊が住んでくださっています。だからお互いに祈り合い、励まし合い、親切にして支え合うことで、神さまが自分とともにいてくださることがわかるし、信じる仲間の心にも神さまがいてくださることがわかります。 11月3日(水) Ⅰヨハネ四14  ヨハネや弟子たちは、人となられたイエスさまを見たし、一緒に過ごしました。ヨハネはイエスさまが十字架で死なれるのをそばで見て、命をかけて私たちを救ってくださったことと、神さまがそれほどに私たちを愛してくださっていることを知りました。そして実際に見ていない私たちに見たことを伝えてくれたのです。 11月4日(木) Ⅰヨハネ四15〜16  イエスさまを信じる私たちは礼拝やみ言葉から神さまの声をききます。神さまも私たちの祈りの声を聞かれます。そういう交わりによって神さまが愛であること、愛してくださっていることがよくわかるようになります。 11月5日(金) Ⅰヨハネ四17〜18  私たちはなにかと恐れます。人の言葉や、自分の将来のこと、また死んだら天国に行けるのかなと。でもゆるされていることを信じると地獄への恐れは消えます。一番良いことをしてくださると神さまを信頼してお任せするなら、心が平和にされます。神さまを信じることは神さまを愛することで、愛は恐れを心から追い出します。 11月6日(土) Ⅰヨハネ四19〜21  信じる仲間の「きょうだい」同士でも愛しあうのが難しいことがあります。だから愛してくださる神さまの愛をいつも思いだしたいと思います。神さま、私に愛する心を与えてください。   ヨハネはおじいさんになってもイエスさまのことを伝えていました。それでイエスさまに反対する人々に逮捕されてしまい、罰としてパトモス島に連れて行かれ、そこで囚人として過ごしていました。 11月7日(日)黙示録一8  神さまはヨハネに、今の世界が終わり、新しい世界がやってくることを幻で見せてくださいました。そこでヨハネはその幻をこの黙示録に書き残しました。神さまはご自分のことを「私はアルファ(初め)であり、オメガ(終わり)である。」と言われました。神さまはこの世界の初めからおられ、終わりまですべてを導いておられるお方です。 11月8日(月) 黙示録一9〜11  ヨハネは聖霊に導かれて、ラッパのような大きな声を聞きました。「あなたが見ているものを書き残しなさい。そして7つの教会に送りなさい。」7つの教会に神さまからの言葉が語られるのです。この7つの教会は、昔から今の私たちまでのすべての時代の全世界の教会を代表した教会です。 11月9日(火) 黙示録一12〜16  ヨハネが振り向いて見ると、まぶしく輝いた、世界を治める王として立たれたイエスさまが見えました。この世界が終わるときに、善と悪をわけて、悪に対してはさばきをされるお方としてのイエスさまが立っておられたのです。 11月10日(水) 黙示録一17〜20  ヨハネはイエスさまの本当の姿を見ました。きよいお方を前にして、「罪人の自分が神さまを見てしまったからもう滅ぼされるしかない。」と怖くなり倒れてしまいました。けれどもイエスさまがヨハネに手を置いて言われました。「怖がらなくていいよ。私は一度死んだけれどもよみがえって生きている。私は死と地獄に勝った。だから恐れることはない。あなたは私の言葉を書き残しなさい。」 11月11日(木) 黙示録二1〜2  イエスさまはなにもかもを知っていてくださいます。エフェソの教会が、嘘の教えを広めようとした人を見抜いて、その嘘にだまされなかったことと、イエスさまを信じているためにいじめられ、苦しめられることに耐えきたことを、イエスさまは知っておられたのです。信じることをやめないで耐え抜いたこと喜ばれました。 11月12日(金) 黙示録二3〜5  エフェソ教会には問題がありました。神さまの愛を忘れ、愛し合うことができなくなっていたのです。悔い改めて、もう一度神さまの愛を感謝し、互いに愛することからやりなおしなさいと言われました。 11月13日(土) 黙示録二6〜7  もし私たちが間違った教えを退けて、最後まで神さまを信じ、み言葉に従うことをやめないなら、新しい世界で命の木の実をいただける救いを約束されています。   神さまに礼拝をささげているのは、地上の私たちだけではありません。天の世界でも、天使や天にいるものたちによってささげられています。 11月14日(日)黙示録五1〜2  神さまが見させてくださった幻の中で、ヨハネは神さまが天の玉座に座っておられ、巻物を持っておられるのが見えました。巻物には、神さまのなさろうとしているこれからの計画が書かれています。さらに7か所に簡単には開けられない封印がしてありました。巻物を開くには、封印を解くのにふさわしい人が必要でした。 11月15日(月) 黙示録五3〜4 ヨハネの期待とは反対に、天にも、地にもどこにも、巻物を開くことのできるふさわしい人がいませんでした。神さまが世界の終わりに向かってなさろうとしておられる計画が知らされてようとしているのに、それを聞くことができないのです。ヨハネは希望を失って、涙を流しました。自分たちの世界が神さまから離れすぎている姿が悲しくてたまらなかったのです。 11月16日(火) 黙示録五5 天の長老がヨハネを慰めました。「泣くのをやめなさい。イエスさまが十字架で罪と死に打ち勝たれたから、この巻物の封印を解いて、巻物を開いてくださる。」ふさわしいお方がおられました。私たちの救い主イエスさまです。自分たちにはできないけれども、イエスさまが封印を解いて、神さまの秘密の計画をわかるようにしてくださいます。 11月17日(水) 黙示録五6〜7 ヨハネが目にしたのは、体に傷跡のある小羊でした。それは十字架で死なれたイエスさまをあらわしていました。この小羊が神さまから巻物を受け取ったのです。いよいよ世界の終わりの計画と世界にあるいろいろな謎が解かれる時がきたのです。 11月18日(木) 黙示録五8〜10 小羊であるイエスさまが、巻物を受け取った途端、天にいた者たちがいっせいにひれ伏しました。さらに彼らは賛美をささげました。竪琴が奏でられ、地上で祈られたみんなの祈りが神さまへの香りのささげものとして賛美とともに届けられました。 11月19日(金) 黙示録五11〜12  天の世界には4つの生き物と24人の長老たちがいて、さらに彼らの周りを囲んで多くの天使がいます。天使の数は数え切れないほどのようです。天使たちもまたイエスさまを賛美して大合唱をしました。「屠られた小羊である十字架で死なれたイエスさまこそ、どんなものよりもすばらしいお方です。」と。 11月20日(土) 黙示録五13〜14 今度は地上でも海の中までも、すべての造られたものたちが、神さまとイエスさまを賛美しました。ヨハネは天と地とすべてが一つになって礼拝する幻を見たのでした。  世界の終わりがくると聞くと、怖いなあと思うかもしれません。でも神さまがヨハネに見せた新しい世界は、本当にすばらしい世界で、だれもがそこに住みたいと思うところです。 11月21日(日)黙示録二一1  今の世界が終わると、新しい天と新しい地が現れます。そこにはもう海はありません。この海には、悪魔の力に支配された獣が住んでいて、そこから出てきて、私たちの平和の邪魔をするので、そういう悪魔の力がいっさい消えてしまうということなのです。 11月22日(月) 黙示録二一2 エルサレムもまた新しくされて天から降ってきます。エルサレムは神さまの住んでおられるイスラエルの中心の町です。しかし古いエルサレムに住んでいた人々は、神さまに従いきることができませんでした。新しいエルサレムにはイエスさまを信じた人たちが住みます。そして神さまに従い、神さまの祝福で満たされたところとなるのです。 11月23日(火) 黙示録二一3〜4 新しい世界には、罪がなく、こわいものも、疑うこともないので、神さまと心からお交わりができます。今も目に見えない神さまが、いっしょにいてくださいますが、新しい世界では、いつもいっしょにいてくださることがはっきりとわかり、心が満たされるのです。 11月24日(水) 黙示録二一3〜4 今の世界では、私たちが泣いてしまうようなことがいろいろ起こります。でも新しい世界には、もう涙を流すようなことが一つもないのです。死ぬことがありません。苦しいことも悲しいこともありません。病気や痛いことも起こりません。辛い思い出や悲しい出来事も、全ては消え去ってしまい、心が慰められるのです。 11月25日(木) 黙示録二一5 神さまがすべてを新しくすると約束されました。神さまはこの新しい世界に、私たちに来るようにと招いてくださっています。その招きにこたえることができるのは、新しく造られた人です。それはイエさまが私たちのために十字架で死んでよみがえられたことを信じて生きる人のことです。 11月26日(金) 黙示録二一6  神さまはご自分のことを「私はアルファ(初め)であり、オメガ(終わり)である。」と言われました。神さまによってすべてのものは始まりました。生まれました。そして神さまによって完成していくのです。 11月27日(土) 黙示録二一7〜8 もし新しい世界に入れなかったら、と思うととてもこわいですね。自分の力ではだれも入ることができません。新しい世界を受け継つぐには、どんな時もイエスさまを信じることをやめないことです。イエスさま、誘惑に負けやすい私たちをどうか助けて、悪魔に勝たせてください。  いよいよクリスマスを待ち望むアドベントという期間になりました。今年もうれしい気持ちでクリスマスを迎えたいですね。 11月28日(日)エゼキ三四1〜6  おうちで生き物を飼っている人は、家族のようにご飯をあげ、お散歩に連れていき、遊んであげ、病気になったら病院に連れていくでしょう。もしちゃんと世話をしてかわいがってあげなかったら、死んでしまう大切な命だからです。それと同じように、イスラエルの国の王は、国民の世話をする羊飼いのような人です。でも自分の働きをちゃんとしない王さまやリーダーたちがいました。 11月29日(月) エゼキ三四1〜6  イスラエルの国には、貧しい人、病気の人、困っている人がたくさんいました。でも王は、そういう人たちから無理矢理持っているものや収穫したものを王のものとしてとりあげて苦しめていました。お金持ちや、国のリーダーたちと一緒になって自分が楽しくて満足できることばかり考えて、国民の幸せのために働かなかったのです。 11月30日(火) エゼキ三四7〜10  神さまは自分の大事な人々が、正しく助けられ、支えられて生活することができないのを、そのまま放おってはおかないお方です。王を初め、国を導くリーダーたちに任せることをやめて、神さまご自身が立ち上がり、苦しめる者たちの手から、苦しみの中にある人々を救い出すと言われました。 12月1日(水) エゼキ三四11〜16  神さまはご自身が、苦しむ人々の羊飼いになると言われました。王や国のリーダーたちに見捨てられた人々を、神さまが探し出して集め、必要を与え、病気をいやして、面倒をみてくださるのです。罪の中をさまよっている人を救い出してくださるのです。 12月2日(木) エゼキ三四17〜19  自分だけがたくさん食べたり、飲んだりして十分満足しても、人に分けることができない心は、とても悲しいものです。まして国のリーダーがそうであったとしたら、その国はいつまでも続かないとだれもが思うでしょう。 12月3日(金) エゼキ三四20〜22  神さまは、神さまによって王になり、国のリーダーとされたことを忘れ、偉い地位でいい気になっていた人々を裁くと言われました。実際、イスラエルの国は滅んでしまうのです。しかし神さまの裁きは、王やリーダーたちが悔い改めて生き方を変えるためのチャンスでした。 12月4日(土) エゼキ三四23〜31  神さまはすべての人を正しく導き、世話をする良い羊飼いを与えると約束されました。それがクリスマスに来てくださったイエスさまです。神さまとひとつであるイエスさまは、悪と罪と死の力から私たちを救う私たちの羊飼いです。  クリスマスを待つアドベントの第2週です。マリヤは天使から自分が神の子のお母さんになることを告げられました。そしてお腹に赤ちゃんを宿しました。お父さんになるヨセフにもまた、神さまからの言葉が必要でした。神さまはヨセフとマリヤを信頼し、赤ちゃんとして生まれるイエスさまを任せられました。 12月5日(日)マタイ一18  マリヤのお腹には赤ちゃんがいました。神さまの力によって与えられた神の子でした。でもそのことをヨセフはまだ知らなかったので、マリヤが妊娠したことはヨセフにとってとてもショックなことでした。 12月6日(月) マタイ一19  この時代、婚約中でも女性が他の男性の子どもを宿してしまったら、石で打たれて殺されたのです。ヨセフは心から神さまを信じていました。そして心からマリヤのことを大切に思っていました。だからマリヤのことを裁こうとは思いませんでした。だれにも気づかれないうちにお別れしようと決心しました。 12月7日(火) マタイ一20  ある晩天使が夢に現れました。「ヨセフ、何も心配はいらない。マリヤとそのまま結婚しなさい。マリヤのお腹の子は、聖霊の働きで、神さまの力のよって与えられたのだ。」マリヤは何も悪くありませんでした。ヨセフは、これは神さまのなさったことなのだと知りました。どんなに心がほっとしたことでしょう。 12月8日(水) マタイ一21  神さまはマリヤのお腹の子に「イエス」という名前を決めておられました。その子には人を罪から救うという大きな使命がありました。ヨセフは、だから聖霊によってマリヤに子どもが与えられたのだと知りました。特別な子どもなのです。 12月9日(木) マタイ一22〜23  救い主が来ることはずっと前から約束されていました。そして預言者たちがそのことを伝えてきました。長い年月が経ってついにその約束が実現する時がやってきたのです。 12月10日(金) マタイ一22〜23  預言者イザヤが預言したのは、マリヤのようにまだ結婚していない女の人から救い主が生まれることでした。そしてその子は「インマヌエル」(神がともにおられる)と呼ばれるということでした。神さまがともにいてくださることがよくわかるように、イエスさまが人間になってきて、人とともに歩んでくださったのです。 12月11日(土) マタイ一24〜25  ヨセフは目が覚めるとすぐに天使によって告げられた神さまの言葉に従いました。マリヤと結婚し、生まれてきた子どもにイエスと名付けて、自分の子どもとして育てたのです。私たちが救われるためには、神さまに従ったヨセフとマリヤがいたことを忘れないでいたいものです。  クリスマスを待つアドベントの第3週です。マリヤがイエスさまのお母さんになることはすばらしい奇跡ですが、それを引き受けることはとても勇気のいることだったでしょう。なぜなら簡単には人にわかってもらえないことだからです。 12月12日(日)ルカ一39  マリヤは神さまの力によって、お腹の中に赤ちゃんが与えられるという不思議ですばらしい経験をしました。でも多くの人はこのことを信じてくれないでしょう。でも親戚のエリサベトだけはわかってくれる人でした。なぜなら年をとった彼女にも神さまの恵みによって子どもが与えられていたからです。だからマリヤは急いでエリサベトに会いに行ったのです。 12月13日(月) ルカ一40~42 「こんにちは」というマリヤの挨拶はエリサベトだけでなく、お腹の赤ちゃんにも聞こえていました。お腹の赤ちゃんがお腹の中で喜んで踊ったのです。聖霊で満たされたエリサベトは喜びでいっぱいになり、「マリヤ。あなたはだれよりも神さまに祝福されていますよ。」とマリヤを励ましました。 12月14日(火) ルカ一43  エリサベトはマリヤのお腹の子が救い主だと信じていました。人に説明するのが難しいこの出来事を、エリサベトは聖霊によって理解し、マリヤを心から受け入れていました。自分の体に起こっていることを信じてくれるエリサベトは、マリヤにとって強い味方でした。 12月15日(水) ルカ一44  エリサベトのお腹の子どもは、大人になると、バプテスマのヨハネと呼ばれます。彼はみんなに、罪を悔い改めようと呼びかけ、イエスさまが救い主だからついていくように導きました。まだお母さんのお腹にいる時に、救い主のお母さんのマリヤのことを喜び踊るとは、普通の子ではないことがわかります。ヨハネも神さまに特別な仕事を与えられた子どもでした。 12月16日(木) ルカ一45  エリサベトの言葉は、マリヤをとても励まし慰めました。「主の言葉が必ずそのとおりになると信じる人こそ、幸せな人ですよ。」私たちもまた、神さまの言葉を本当だと信じて従う時、神さまが与えてくださる幸せを体験できます。 12月17日(金) ルカ一46〜50  マリヤは特別有名な人でも、地位がある人でもなく、普通の人です。世界には大勢の人がいるのに、神さまはマリヤに目を留められました。「どうして私が?」と思うようなことがマリヤに起こったのです。マリヤはうれしくて神さまを賛美せずにはいられませんでした。 12月18日(土) ルカ一51〜56  神さまは、マリヤだけでなく私たちにも、私たちが当たり前と思うことをひっくり返して、思いもよらなかったすばらしいことをしてくださいます。  今週はクリスマスを待つアドベントの第4週です。そしていよいよクリスマスです。イエスさま、私たちのために人となってお生まれくださりありがとうございます! 12月19日(日)ルカ二8〜10  羊飼いたちは夜中もずっと羊の番をしているのですね。眠たくて大あくびをしていたかもしれません。そこへ突然天使が現れて、神さまのまぶしい光に照らされたのですから、びっくりして眠気などいっぺんに吹き飛んだでしょう。天使は「すべての人に与えられる大きな喜び」を伝えに来たのです。驚いている羊飼いたちが世界の人を代表して喜びの知らせを受け取ることになりました。 12月20日(月) ルカ二11 大きな喜びとはどんなことでしょう。それは、ベツレヘムに「あなたがたのために救い主が生まれた」ことでした。あなたがたとは、羊飼いもそうだし、この時代のすべての人も入っているし、そして時代をずっと超えて今の私たちのことでもあります。救い主はあなたや私のために生まれてくださいました。 12月21日(火) ルカ二12 救い主のしるしは、なんと家畜のエサを入れる箱である飼い葉桶に寝かされているというのです。立派な宮殿でも暖かなお家の中でもなく、動物がいる家畜小屋でお生まれになったからです。それも神の子であるのに、人に面倒をみて育ててもらわなければ死んでしまうような弱い赤ちゃんから初められました。 12月22日(水) ルカ二13〜14 羊飼いたちの目の前に天の大軍が現れました。そして知らせに来た天使とともに神さまを賛美したのです。大軍の大合唱ですから、きっとものすごく迫力があり、また美しかったことでしょう。「天には神さまのすばらしさが現れるように。地には神さまのみ心にかなう人々に平和があるように。」と祈りの賛美が響き渡りました。 12月23日(木) ルカ二15〜16 羊飼いたちは、とてもわくわくしました。みんなで相談して、ぜひ救い主に会おうと、急いででかけたのです。そして彼らは飼い葉桶に寝かされた救い主である赤ちゃんに会うことができました。家畜小屋はきっと羊飼いにとって入りやすい場所だったでしょう。引け目を感じることなく会いにいけたのです。 12月24日(金) ルカ二17〜19  見ず知らずの羊飼いたちがやってきたのは、天使が教えてくれたからだと聞いて、みんな不思議に思いました。マリヤはこの赤ちゃんは確かに救い主なのだと強く確信させられたのでした。 12月25日(土) ルカ二20〜21 メリークリスマス!羊飼いたちの帰りの道は、神さまへの賛美であふれていました。天使が言った通りであり、救い主に会えたことが、確かな大きな喜びとなりました。  今年も最後の週となりました。どんな1年でしたか。1年を振り返って、ともにいてくださる神さまに感謝をしたいですね。 12月26日(日)マルコ一1〜4  エリサベトのお腹の中でマリヤの声を聞いて踊ったヨハネが、大人になって活動します。ヨハネは預言者イザヤが預言した「荒野で叫ぶ者」でした。彼は人々が悔い改めて、来られる救い主を信じ受け入れるために、人々の心を整える働きをしました。 12月27日(月) マルコ一5〜6 いろいろな場所からヨハネのもとに続々と人々が集まってきました。このままでは自分は救われないと思い、悔い改めるためにやってきたのです。彼らはヨハネの前で罪を告白して心を入れかえるための洗礼を受けました。 12月28日(火) マルコ一7〜8 ヨハネのもとに集まった人たちは、神殿で働く祭司やレビ人もいれば、兵隊や税金を集める人などいろいろな人がいました。ヨハネはみんなから尊敬されましたが、彼は「私よりも力のあるお方、救い主が来られる。」と言って、自分を決して救い主の前に出すことはしませんでした。 12月29日(水) マルコ一9〜11 イエスさまもヨハネから洗礼を受けられました。でもイエスさまに罪があったわけではありません。イエスさまは罪のないお方ですが、私たちと同じ人間を生きるために受けられました。イエスさまが洗礼を受けると、天から鳩のように聖霊が降り、父なる神さまの声が聞こえました。それは、このイエスさまこそ神さまに愛された、神さまの心にかなったお方、救い主であるという神さまからの宣言でした。 12月30日(木) マルコ一12〜13 イエスさまは聖霊によって荒野に導かれて、40日間悪魔の誘惑にあわれました。私たちのように誘惑を受けることを体験され、それに勝って、私たちもイエスさまによって誘惑に勝つことができるようにしてくださいました。 12月31日(金) マルコ一14〜15  バプテスマのヨハネは、ヘロデ王が神さまの前に正しくないことをしていたので、それはいけないことだとはっきりと伝えました。それで逮捕されてしまいました。その頃イエスさまはご自分の働きを始めるための準備を終えて、神の国の福音を伝える働きを初められました。 1月1日(土) マルコ一16〜20 あけましておめでとうございます。今年も聖書の言葉を聞きながら歩んで行きたいですね。 イエスさまは漁師のペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子として招かれました。アンデレはもともとバプテスマのヨハネの弟子でしたが、ヨハネの救い主の話を聞いてイエスさまに従うようになりました。ヨハネはしっかりと自分に与えられた働きをしたのです。