イエスさまの荒々しいやり方にびっくりさせられます。でもイエスさまのムチは、痛めつけ傷つけるムチではなく、音で導くムチでした。ムチの音で神殿を商売に利用する人々や売られていた動物たちを追い出されたのでした。 1月3日(日)ヨハネ二13~16  お祭りが近づいていました。お祭りの始まる前にイエスさまは神殿に行って、大掃除をされました。必要なものを残し、そうでないものを取り除かれたのです。お祭りに集まる人々が、ただ神様を礼拝し、お祈りできるためにです。 1月4日(月)ヨハネ二13~17  普段使うローマのお金を、神殿に納めることができるユダヤのお金に変えてくれる両替屋は必要でした。律法で決められた通りのささげものができるように、用意された動物を売る店も必要でした。でも神さまへ動物やお金をささげること、お祈りをすることは、神さまとの交わりのためという、大事な意味が忘れられていました。だからイエスさまは大掃除をされたのです。 1月5日(火) ヨハネ二18  ユダヤ人リーダーたちは「お金の両替やささげる動物を売ることを許しているのは祭司たちだ。それなのにあなたは祭司たちより偉いつもりか。こんなことをしてもいいという証拠をみせてみなさい」と怒りました。祭司以外でそういうことができるのは、神の子か、神さまからの使いとしてきた人しかできないことです。神殿を「父の家」と言ってイエスさまが自分をまるで神の子として行動したことが許せませんでした。 1月6日(水) ヨハネ二19~22 イエスさまはご自分のからだのことを神殿と言われました。イエスさまはやがてユダヤ人たちに十字架につけて殺され、三日目によみがえられます。神殿を壊して三日目に建て直すとはそのことを言われたのです。それが神の子の証拠で、しるしでした。神殿は神さまのおられるところです。そしてイエスさまも神の子で神のおられる本当の神殿だからです。 1月7日(木)ヨハネ二19~22  ユダヤ人リーダーたちにはイエスさまの言葉の本当の意味はわかりませんでした。イエスさまの言っていることが愚かに聞こえて笑いました。弟子たちも復活されたイエスさまと会ってからこの言葉を思い出して理解しました。 1月8日(金)ヨハネ二19~22 イエスさまの十字架で罪が赦されました。だからもう罪のゆるしのために動物をささげることはしません。そして信じる私たちのうちに神さまが住んでおられます。私たちも神の宮(神殿・教会)なのです。 1月9日(土) ヨハネ二23~25  私たちは心が変わりやすい弱いものです。イエスさまはそのことをよく知っていて導いてくだるお方です。  イエスさまは固く閉ざした人の心をあたたかく開いて、新しくしてくださいます。 1月10日(日)ヨハネ四1~6  ユダヤ人とサマリヤ人はとても仲の悪い者同士です。だからユダヤ人は近道でもサマリヤの中を通り抜けることはしません。でもイエスさまはどうしてもサマリヤを通過しなければなりませでした。そこにイエスさまを必要としている人がいたのです。どんなところにもイエスさまは来てくださるお方だからです。 1月11日(月)ヨハネ四7~15  イエスさまはかわくことのない永遠の命の水を持っています。女の人の心はカラカラにかわいていました。さびしい気持ちや悲しい気持ちや、ぽっかり穴の空いたような心でした。だからイエスさまの水をほしいと思いました。 1月12日(火) ヨハネ四16~18  どうしてイエスさまは「あなたの夫を連れてきなさい」と言ったのでしょうか。女の人にとってそれは一番触れられたくないことでした。でもイエスさまは彼女の生活を見抜いていて、一番助けてほしいことを知っておられました。だから言われたのです。 1月13日(水) ヨハネ四19~26 女の人は自分のことを言い当てたイエスさまを、特別な力を持つ預言者だと思いました。そこで彼女は本当の礼拝はどこでするものかとたずねました。礼拝の場所においてもユダヤ人とサマリヤ人はいがみ合っていたのです。でもイエスさまの答えは、大切なのは場所ではなく、神さまを礼拝する心だと言われました。どこであっても、心から神さまに感謝と賛美をもって、私は神さまのものですとおささげすることが本当の礼拝です。 1月14日(木)ヨハネ四27~30  女の人にとって見知らぬユダヤ人だった人は、預言者よりもっとすごいお方、救い主でした。もともと女の人は誰にも会いたくありませんでした。自分のことを悪くうわさされるからです。それなのに、救い主のことをみんなに知らせに行きました。命の水をいただいて、かわいた心が喜びに変えられていたからです。 1月15日(金)ヨハネ四31~38 イエスさまにとって、助けを求めている人、救いを求めている人は、サマリヤ人もユダヤ人も関係ありません。イエスさまの目にはイエスさまの愛を受け取って生まれ変わるのを待っている人々なのです。 1月16日(土) ヨハネ四39~42  サマリヤの人々は女の人の言葉を聞いて、イエスさまのもとに導かれ信じました。そしてイエスさまの言葉を実際に聞いてさらに信じました。イエスさまがサマリヤを避けないで通られたから、多くの人が救われたのです。私たちのどんなところにもイエスさまは避けないできてくださり、救ってくださいます。  評判の良い病院にはたくさんの人が集まります。良い治療を受けられるという期待を持つからです。神殿の門のそばにあった池にも、たくさんの人が集まっていました。自分の病気が治る時を待っていました。 1月17日(日)ヨハネ五1~4  その池では病気が治る奇跡が起こっていました。天使が時々降りてきて、池の水を動かすのです。その時真っ先に池に入った人は、どんな病気も治ってしまうのです。だから集まった人々はチャンスをじっと待っていたのです。なんとしても治りたかったのです。 1月18日(月)ヨハネ五5~7  イエスさまはそこに寝たきりの男の人が38年もの長い間病気が治らないままでいるのを知りました。治りたいから池のそばに寝ているのに、自分では素早く動けないのです。それに池の水が動いたときに彼を助けて運んでくれる家族も友だちもいませんでした。「なおりたいのか」と聞かれても自分では無理だし、真っ先に出てくる言葉は「わたしを池に入れてくれる人がいないから治らない」という思いでした。 1月19日(火) ヨハネ五8~9  イエスさまが「起きなさい。床を取り上げ歩きなさい」と言われると、彼は癒やされて歩き出しました。イエスさまの言葉には力がありました。自分ではどうやったって立てないし、だれも助けてくれないし、とほとんどあきらめていたようなこの男の人を立たせたのです。もう水が動くのを待つ必要はないのです。 1月20日(水) ヨハネ五9~10 男の人にとって、病気が治ったこの記念の日は安息日でした。そこでユダヤ人リーダーたちにとっては、イエスさまが病気を治したことも、男の人が床を取り上げて歩き出したことも、安息日にしてはいけないことだと言いました。そして病気を治すという仕事をした犯人探しを始めたのです。本当なら、病気が治ったことを喜ぶことこそ安息日にふさわしいことでしょう。 1月21日(木)ヨハネ五13~15  男の人は自分のことを治してくれたお方がだれなのかを知りませんでした。神殿でもう一度イエスさまに会って、イエスさまを知りました。イエスさまは「もう罪を犯してはいけない」と言われ、この人がイエスさまを信じるようにと招かれました。 1月22日(金)ヨハネ五16 ユダヤ人たちはイエスさまが安息日の掟を破ったと責めました。でも本当に神さまの掟を守るとは、人の命の必要に応えることなのです。決まりを守ることは大事ですが、それよりも大事なのは命です。 1月23日(土) ヨハネ五17~18  イエスさまは神さまを父と呼び、自分の働きは父の働きだと言われました。神さまの人を救う働きに休みはないのです。  アイドルや有名人が現れるところに、たくさんのおっかけファンが集まっている映像をみたことがあります。イエスさまの周りに集まる人々もそういう感じだったのでしょうか。 1月24日(日)ヨハネ六1~4  大勢の人がイエスさまの行くところならどこへでもついて来ました。イエスさまが病気を治すことのできるすごいお方だからです。助けてもらいたい人、お話を聞きたい人、病気を治してもらいたい人、いろいろな人がいたでしょう。イエスさまが弟子たちと山に登られると、そこにも大勢の人が集まってきました。 1月25日(月)ヨハネ六5~6  ピリポはイエスさまの言う言葉にびっくりしました。あんなに大勢の人にパンを食べさせたいと考えておられたからです。でもそれはイエスさまがピリポをテストされたのです。ピリポは、どんなにたくさんのパンを持っていてもとても無理だと思いました。きっと私たちだってそう思うでしょう。でもイエスさまは無理だとは思っておられませんでした。 1月26日(火) ヨハネ六7~9  アンデレも子供からもらった5つのパンと2匹の魚を持っていましたが、「これではどうしようもない」と言いました。確かにそうなのです。普通に考えたら自分たちには無理なのです。でもイエスさまにはできることを弟子たちは気づきませんでした。 1月27日(水) ヨハネ六10~11 男の人だけで五千人です。そこに女の人や子どもも数えたら、ものすごい数になります。でもイエスさまはパンをとって感謝のお祈りをして、それを分け与えていきました。不思議なことに配っても配ってもパンはなくなりません。「イエスさま、あと魚を5つください」。次々と魚もほしいという声の言われるままにイエスさまの手から魚が渡されました。イエスさまは最初からこうやってみんなに食べさせるつもりだったのです。 1月28日(木)ヨハネ六12~13  「これだけ」の量しかなかったあの5つのパンと2匹の魚でイエスさまはみんなをお腹いっぱい食べさせました。それどころか余りまであったのです。イエスさまは余りも無駄にはされず、弟子たちの持っていたかごに集めさせました。 1月29日(金)ヨハネ六14 みんなはイエスさまを神さまから送られてきた預言者だと思いました。でも、人が少ないと思うものをあふれさせてくださる、預言者よりもすごいお方です。 1月30日(土) ヨハネ五15 イエスさまさえいれば、食べることも生きていくことももう困りません。人々はイエスさまを自分たちの言いなりになる王さまにしようとしました。イエスさまは人の言いなりにはなりません。だから一人で山に去られました。  イエスさまは大勢の人の声を聞かれます。その中には今の私たちもいます。では、私たちはイエスさまの声をちゃんと聞けているでしょうか。 1月31日(日)ヨハネ六16~21  弟子たちはイエスさまをおいて先に舟でカペナウムへ向かいました。ところが、夜の湖が荒れだして、こいでもこいでも前に進めません。イエスさまがいてくださったらと私たちは思います。でもイエスさまは嵐の中に近づいてきて、弟子たちと進まれたように、嵐の中の私たちに近づいて助けてくださいます。 2月1日(月)ヨハネ六16~21  湖の上を歩いてくる人がいたら、驚かない人はいないでしょう。もしかして幽霊かもしれないと思うと、とても怖いです。でもイエスさまの一言は恐れをしずめます。「わたしだ、恐れることはない」と。「ああ、イエスさまだ。良かった」とほっとしてうれしくなって、すべての恐れが吹き飛びます。イエスさまと共に向こう岸へ渡らせていただけます。 2月2日(火) ヨハネ六22~27  嵐の後はまた群衆です。イエスさまにお腹いっぱい食べさせてもらった大勢の人々は、次の日もまたイエスさまを追いかけてきました。すると彼らにイエスさまは言われました。「永遠に命につながる、なくならない食べ物をあなたがたに与えます」。それはいったいどんな食べ物なのでしょう。 2月3日(水) ヨハネ六28~31 なくならない食べ物のために働くこと、そして永遠の命につながる、なくならない食べ物をいただくことは、イエスさまを信じることです。でも多くの人は、昨日お腹いっぱい食べさせてもらえた、あのとても不思議な体験をしたのに、まだイエスさまを信じられないと言いました。 2月4日(木)ヨハネ六32~33  昔エジプトを脱出したイスラエルの人々は、荒野で食べ物がなくて困った時、神さまが毎朝天から降らせてくださるマナを食べて、荒野を生きることができました。そして今は、神さまがイエスさまを天から送ってくださったので、イエスさまを信じるなら、荒野に感じる生活でも心が生きることができるのです。 2月5日(金)ヨハネ六34~35 イエスさまは命のパンです。イエスさまを信じるなら、心が飢えることも渇くこともありません。たとえ心が空っぽに感じても、イエスさまに助けを求めるなら、満たして溢れさせてくださるからです。 2月6日(土) ヨハネ五36~40 これを聞いた多くの人はイエスさまを信じませんでした。信じるためにもっとすごい力を見たがりました。でもイエスさまを信じたら、イエスさまがずっと一緒に人生を歩んでくださり、死んだ後もよみがえらせてくださるすごい奇跡があるのです。  私たちは心にも目をもっています。心の目には、体の目が見えなくても、見えるものがあります。 2月7日(日)ヨハネ九1~5  生まれつき目の見えない男の人は、小さい時からいつも、自分か、親のせいで目が見えないと言われてきたのでしょう。でもイエスさまは言われました。「だれのせいでもない。ただ神さまの力が現れるためだ」と。その言葉にその人はどんなに慰められたことでしょう。心の暗闇にきっと光が灯ったでしょう。 2月8日(月)ヨハネ九6~7  イエスさまに目に泥を塗られた人は、言われたとおりシロアムの池に行きました。「シロアム」は「遣わされた者」という意味です。イエスさまはこの人を見えるようにするために遣わされたお方です。彼は目を洗うと見えるようになりました。神さまの力が現されたのです。 2月9日(火) ヨハネ九8~12  目の見えなかった人が見えるようになって、彼を知っていた人はみんな驚きました。違う人だと信じない人もいました。見えなかったのが見えるのですから、不思議でたまりません。でも彼ははっきりと「あの見えなかった私です」と言いました。彼は神さまの力を確かに体験した人でした。 2月10日(水) ヨハネ九13~23 安息日は仕事をしてはいけないと律法で決められています。パリサイ人たちは、イエスさまが目を見えるようにしたことは仕事だから、安息日にやってはいけないことをしたのだと言いました。安息日は仕事を休んで神さまを礼拝する日です。ではイエスさまが目を見えるようにしたことは悪いことですか? 2月11日(木)ヨハネ九24~34  パリサイ人たちは、イエスさまを罪人だと言って、何度も目の見えなかった人が見えるようになったことを説明しても信じませんでした。目を見えるようにしてもらった人は、イエスさまのことをほとんど知りません。でも自分に起こったすばらしいことが、神さまの力によることだと思いました。だからこんなことができるのはイエスさまが神さまだからだ、と言いました。彼はユダヤ人社会から追放されてしまいました。一人ぼっちになったのです。 2月12日(金)ヨハネ九35~38 追放された人のところに、イエスさまの方から会いに来てくださいました。彼はイエスさまの顔も知らなかったのです。そして彼は救い主イエスさまを信じました。もう一人ではありません。救い主が共にいてくださいます。 2月13日(土) ヨハネ九39~41  正しい生き方をしていても、妬み、怒り、偏った心で心の目がにごっていたら、すばらしい出来事をすばらしいとは見えません。目が見えるようになった男の人は、心の目も開かれました。   せっかく育てた子牛や豚などを盗む人がいて、飼い主をがっかりさせているというニュースがありました。昔も今も変わらないのですね。 2月14日(日)ヨハネ十1~6  羊と羊飼いはとってもお互いのことをよく知っています。だから羊は、羊飼い以外の人には、たとえ泥棒でなくてもついていきません。羊にはわかるのです。名前を呼んで、先頭に立って「こっちへおいで」と草や水飲み場へ案内してくれる羊飼いの声が。そしてその声だけを頼りにしています。それはイエスさまと信じる私たちとの関係です。 2月15日(月)ヨハネ十7~9  羊は盗まれたり、他の動物に襲われたりしないように檻に入れられて守られます。さらに檻は塀で囲まれて、中に入るために羊飼いも羊も門を通りました。イエスさまは羊を守る檻への入り口の門と同じお方です。私たちを守り救ってくださる門です。イエスさまだけが私たちの救いです。 2月16日(火) ヨハネ十10~11  羊のために命をかけるってすごいことですね。でも本物の羊飼いはライオンやクマから羊を命がけで守ります。イエスさまは私たちを罪の裁きと滅びから救うために命を投げ出して、十字架で死なれました。死からよみがえられて私たちに永遠の命を与えてくださいました。永遠の命は、生きている今も死んだ後も神さまと共に生きる命です。 2月17日(水) ヨハネ十12~15 飼い主ではなく、雇われて世話をする羊飼いは、羊を守る覚悟ができていません。だから羊のピンチを守れなくて、逃げてしまいます。イスラエルのリーダーたちは、公平にイスラエルの民を導いたり、助けたりせず、彼らの気に入らない人たちを見捨てていました。でもイエスさまはどんな時も私たちの声を聞いてくださり、見捨てないお方です。 2月18日(木)ヨハネ十16  イエスラエルの人々は、自分たち以外は救われないと思っていました。でもイエスさまは、イスラエルという囲いの外の人々も救うと言われました。そしてやがて、国や地域、民族がばらばらでもみんなイエスさまを信じる一つの仲間になるときがくるのです。 2月19日(金)ヨハネ十17~18 イエスさまはご自分の命を喜んで私たちに差し出してくださいました。それは神さまを愛し、神さまの愛しておられる私たちを、イエスさまも愛してくださっているからです。 2月20日(土) ヨハネ十17~18 イエスさまはご自分の命を捨てる力と、よみがえる力とを神さまから与えられていました。イエスさまのその力は死よりも強いので、私たちがもう死ぬことをこわがらなくてもいいようにしてくださったのです。イエスさまが命を与えてくださるからです。   イエスさまにすぐ助けてほしいのに、待たなければならない時があります。たとえ間に合わなかったと思っても、イエスさまには間に合わなかったということはないのです。 2月21日(日)ヨハネ十一1~4  イエスさまの仲良しの家族、マルタとマリヤとラザロ。そのうちの弟ラザロが病気になってしまいました。でもイエスさまは言われました。「ラザロの病気は死ぬほどのものではない」と。それは「死んで終わりではない」という意味です。ラザロを通して、神さまのすばらしさが現されると言われました。 2月22日(月)ヨハネ十一5~10  イエスさまはすぐに出発されませんでした。イエスさまは2日経って、ラザロに会いに行くと言われた時、弟子たちは、イエスさまがまた以前のように命を狙われることを心配しました。でもイエスさまは言われました。「私の活動できる時間は決まっているんだ。だから危険があっても、与えられた時間(昼間の時間)は、神さまの思いを行うことができるので、大丈夫だよ」と。 2月23日(火) ヨハネ十一11~16  ラザロのところへ行かれることにした時には、もうラザロは死んでいました。でもそれは、病気を治すことよりももっとすばらしい神さまの力を、弟子たちや多くの人が見て、信じるためだったのです。 2月24日(水) ヨハネ十一17~24 イエスさまが到着した時、ラザロが死んでもう4日経っていました。イエスさまがいてくださったら、弟は死ななかったとマルタは思っていました。そしてイエスさまが願うことはなんでもかなえられることも信じていました。でもイエスさまは「あなたの弟はよみがえる」と言われた時、この世界の終わりの時によみがえることだと思いました。でもイエスさまは、今よみがえると言われたのでした。 2月25日(木)ヨハネ十一25~27  イエスさまはよみがえりであり、命です。ということは、死んでしまったラザロに命を与え、よみがえらせることができるお方なのです。またイエスさまを信じる人は、今の世界で体は死んだ後も、神の国で神さまといっしょに生きる命と、よみがえりの体をいただくのです。 2月26日(金)ヨハネ十一28~37 ラザロのもう一人の姉マリヤは、イエスさまに会うと、泣き出しました。するとイエスさまもいっしょに涙を流されました。愛する家族が死んでしまった深い悲しみをともに悲しまれました。 2月27日(土) ヨハネ十一38~44 ラザロは死んでから日が経っていました。でもそれはイエスさまには問題ではないのです。ラザロは生き返りました。イエスさまは、信じる者に神さまのすばらしさを見させてくださるお方なのです。  イエスさまが十字架にかけられる時が迫っていました。 2月28日(日)ヨハネ十三1  過ぎ越しの祭がやってきます。それはイエスさまが十字架にかけられる時です。それは弟子たちとお別れして、神さまのもとに帰る時が近いということでもありました。そのみちのりをイエスさまは、弟子たちをこの上なく愛し通されました。 3月1日(月)ヨハネ十三2~5  人の足を洗うのは、奴隷の仕事です。先生であるイエスさまが、身を低くして弟子たち一人ひとりの足を洗うのは考えられないことでした。その中にはイエスさまを裏切るユダもいました。でもイエスさまはわかっていて、ユダの足も洗われました。愛しておられたからです。 3月2日(火) ヨハネ十三6~11  イエスさまはなぜ奴隷のようになって足を洗うのか、だれにもわかりませんでした。でももしイエスさまに洗っていただかなかったら、イエスさまとは何も関係のない者になってしまうのです。イエスさまはすべての人のしもべ、奴隷となって死なれることで、私たちの罪を清くしてくださることを示していたからです。 3月3日(水) ヨハネ十三12~15 イエスさまが弟子たちの足を洗われたのは、イエスさまを信じる者たちのお手本としてされました。お互いの足を洗い合いなさいと。でも自分を低くすることは簡単なことではありません。だからだれかのために何かをするとき、イエスさまのことを思い出して、イエスさまのように、身を低くしてお互い助け合い、支え合いなさいと言われました。 3月4日(木)ヨハネ十三16~17  イエスさまは私たちにとって、先生であり、救い主であり、上のお方です。そのイエスさまが、とても大事なことで、そうしなさいと言われるのだから、イエスさまの弟子であり、愛されている私たちは、いつもそのことを心において歩むのです。それがイエスさまの弟子の道であり、祝福される道です。 3月5日(金)ヨハネ十三18~19 残念ながらユダだけは、違う道を行こうとしていました。他の弟子たちもやがてユダのしたことを知って大きなショックを受けることになります。でもイエスさまはすべてをわかっておられながら、ただ神さまに従って行かれました。すべてのことは弟子たちがイエスさまを信じるためなのです。                               3月6日(土) ヨハネ十三20 イエスさまをお手本にした歩みは、身を低くして人を愛して生きることです。その生き方を通して、他のだれかが、どうやったらそんなふうに生きられるの?と言ってもらえたらうれしいですね。それは、だれかが救い主イエスさまを信じたいと導かれ、神さまが愛だと知ってもらえることだからです。  私たちの心には悩みや不安がやってきます。先のことがわからないからです。でもイエスさまは私たちのすべての不安や悩みに勝利の宣言をしてくださいました。 3月7日(日)ヨハネ十六12~15  弟子たちはイエスさまと別れの時が近づいていました。イエスさまがいなくなってしまったら、自分たちはどうなるのだろうか?弟子たちは不安になりました。でもイエスさまは言われました。「あなたがたを正しく導いてくれる聖霊が与えられるから大丈夫だよ」と。聖霊がイエスさまの言葉や思いを教えてくださるのです。 3月8日(月)ヨハネ十六16~19  イエスさまは十字架で死なれ3日目によみがえるまで、弟子たちから見えなくなります。そして復活して弟子たちに会われた後、今度は天にお帰りになって見えなくなるのです。でもやがてまたもう一度地上に来られる時、お会いできるのです。弟子たちだけでなく、私たちにはイエスさまとお会いできる希望があります。 3月9日(火) ヨハネ十六20~22  これから深い悲しみが弟子たちにやってきます。それはイエスさまが十字架で苦しまれ、死なれるということです。でも赤ちゃんを産んだお母さんが、生まれるとその喜びの方が強いので、痛みを忘れてしまうように、イエスさまの死の悲しみを乗り越えるイエスさまのよみがえりがあるのです。そしてよみがえられたイエスさまに会って奪われることのない喜びでいっぱいにされるのです。 3月10日(水) ヨハネ十六23~24 聖霊が与えられると、イエスさまの言われたことがよくわかってきます。そしてイエスさまとは会えなくなっても、イエスさまのお名前によってお祈りすることで、神さまがいっしょにいてくださる喜びがいろいろな形で与えられるのです。 3月11日(木)ヨハネ十六25~28  イエスさまは神さまのもとから来られました。そして神さまのもとへ帰られます。でも弟子たち、そして私たちはイエスさまの名前で祈ることで、イエスさまがおられた時と同じように、神さまのことを知り、イエスさまに従っていくのです。 3月12日(金)ヨハネ十六29~32 弟子たちはイエスさまを信じますと告白しました。でもイエスさまにはわかっていました。この後すぐに、逮捕されるイエスさまを見捨てて弟子たちが逃げてしまうことを。しかしイエスさまは神さまとともに十字架へ向かうと言われました。                               3月13日(土) ヨハネ十六33  イエスさまを信じても、私たちには悩みがあります。でももうイエスさまがすべてのことに勝利してくださいました。だから「勇気を出しなさい」と言われるイエスさまが、私たちも勝利させてくださいます。  イエスさまはねたまれて罪人とされました。正しいことが行われないようにするねたみの力は恐ろしいものです。 3月14日(日)ヨハネ十八28~32  イエスさまにどんな罪があったというのでしょうか。何もないのです。でもローマの総督ピラトを動かして、むりやりにでもイエスさまが死刑になるようなことをした、ということにしようとしました。イエスさまを死刑にするためには、ローマの裁判で死刑を決めないとできなかったからです。 3月15日(月)ヨハネ十八33~38  イエスさまは王さまです。でもそれはこの世界ではなく、神の国の王さまです。神さまのもとから来られたので、この世の人でもないのです。ピラトはそれを聞いた時、イエスさまには死刑にするような罪は何もないと思いました。ピラトにはユダヤ人たちのイエスさまに対するねたみだとわかっていたのです。 3月16日(火) ヨハネ十八38~40  ピラトははっきりと、イエスさまに何の罪もみつけられないと言いました。過越の祭のときには、囚人の中から一人、罪がゆるされるというならわしがありました。ピラトはそれでイエスさまを自由にしようと提案しましたが、ユダヤ人たちは受け入れませんでした。 3月17日(水) ヨハネ十九1~3 ピラトは兵隊にイエスさまをムチで打たせました。イエスさまの頭にはいばらの冠をのせ、紫の服を着せて王さまの雰囲気にしました。兵隊たちが「王さま、ばんざい」と言いました。さらにはイエスさまの顔をたたきました。すべてはイエスさまを笑い者にしていました。なんとつらく、みじめな姿でしょうか。 3月18日(木)ヨハネ十九4~8  ピラトはみじめな姿のイエスさまをユダヤ人たちに見せて、どう考えてもこのような人が、死刑にされるようなことはしていないと、わからせようとしました。ピラトは言いました。「この人になんの罪も見言い出せない」。しかし人々は十字架につけよと叫ぶばかりでした。 3月19日(金)ヨハネ十九9~11 ピラトはイエスさまを死刑にすることも、しないことも決定することができる力のある人でした。でもそれは神さまから与えられたものだとイエスさまは言われました。つまりピラトは神さまから与えられた力で、神の子を死刑にすることになってしまうのです。                               3月20日(土) ヨハネ十九12~16  ピラトはなんとかしてイエスさまを助けたいと思いました。しかしユダヤ人たちの脅しの言葉に負けてしまいました。イエスさまには罪がないとわかっていたのに、正しいことを貫き通すことができませんでした。十字架を前に、ユダヤ人やピラトを通して、人間の罪の姿が現れたのでした。  イエスさまは自分から進んで十字架へ向かわれました。自分から命を投げ出してくださいました。 3月21日(日)ヨハネ十九17~18  イイエスさまはご自分で十字架を背負われ、ゴルゴタでもう二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられました。ピラトはイエスさまには罪がないとわかっていたのに、罪人として死刑にしたのです。それはあってはならないことです。でもこれは神さまの決めたことでした。 3月22日(月)ヨハネ十九19  イエスさまがどんな悪いことをしたのかが書かれた板が、イエスさまの頭の上に打ち付けられました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」。そこには何も罪は書かれていません。むしろ王さまを今十字架にかけているのです。罪のなかったお方を無理矢理十字架にかけたことがわかるものでした。 3月23日(火) ヨハネ十九20~22  イエスさまの罪状書きはヘブル、ローマ、ギリシャの3つの国の言葉で書かれていました。ピラトにとってはユダヤ人への嫌がらせでしたが、まるでユダヤ人の王だけでなく、世界の救い主だということを表しているようでした。ユダヤ人たちは、自分で勝手に王を名乗ったと書いてほしいと願いますが、ピラトはゆずりませんでした。 3月24日(水) ヨハネ十九23~24 イエスさまを十字架につけた兵隊たちは、罪人の服をもらうことができました。彼ら4人はイエスさまの服を分け合い、1つだけはくじびきで決めました。こんなふうに兵士たちがしたことは、詩篇に預言されていました。イエスさまが十字架で死なれることが、神さまの計画であり、その実現だったのです。 3月25日(木)ヨハネ十九23~24  くじびきで分けられたイエスさまの下着は縫い目のないもので、祭司が着るものと似ていました。祭司の仕事は、神さまと人とをつなぐことです。イエスさまはまさに祭司として、神さまと私たちをつなぐために、十字架で死んでくださったのでした。 3月26日(金)ヨハネ十九25 十字架までお供した人たちがいました。お母さんのマリヤと他3人の女の人たち。そして主に愛された弟子ヨハネでした。イエスさまの仲間としてその場にいることも勇気がいることですが、イエスさまの苦しまれる姿を見届けることはどんなに辛いことだったでしょう。                               3月27日(土) ヨハネ十九26~27  イエスさまは十字架の痛みと苦しみの中でも、悲しまれるお母さんのことを大切にされました。イエスさまは、ご自分がいなくなった後、お母さんを支える家族となるようヨハネにお願いしました。二人はイエスさまによってつながれた家族となりました。イエスさまを信じる私たちもみんな神の家族です。  普通ならあってはならないイエスさまの十字架の死。でも何もかも終わってしまったようなここから救いが始まります。 3月28日(日)ヨハネ十九28~30  イエスさまが息をひきとるときが近づいていました。イエスさまが神さまから任された働きはすべて成し遂げられました。イエスさまは「すべてが終わった」と言って息をひきとられました。それはなすべきことを果たし終えたという意味でした。私たちのための救いの働きを完成してくださったのです。 3月29日(月)ヨハネ十九31~7  安息日が近づいているので、死体をとりおろす作業が始まりました。イエスさまの足が折られなかったこと、そして脇腹を突きさされて、血と水がでたことは、預言されていたことの実現でした。確かにイエスさまは旧約聖書で預言された救い主でした。 3月30日(火) ヨハネ十九31~37  イエスさまの十字架の死は、過ぎ越しで殺されたまことの小羊でもありました。かつて神の使いがエジプト中の長男を打たれた時、小羊の血を家の門に塗っていたイスラエル人の家は、神さまの使いが通り過ぎていき、神さまの裁きが通り過ぎました。今度はイエスさまの十字架で流された血が、私たちのすべての罪をきよめて、裁かれないようにしてくださったのです。 3月31日(水) ヨハネ十九38~40 イエスさまの弟子になったことを秘密にしていたアリマタヤのヨセフでしたが、もうこそこそしないで、イエスさまの死体をとりおろすのに名乗りをあげました。もう一人ニコデモも体に塗る香料を用意して、アリマタヤのヨセフと共にイエスさまを葬る準備をしました。二人ともイエスさまを尊敬する気持ちでいっぱいでした。 4月1日(木)ヨハネ十九41~42  イエスさまの体は、まだ一度も使われていないお墓におさめられました。お墓の蓋が閉じられ、こうしてもうすべてが終わってしまったかのようでした。でもここから新しいことが始まるのです。 4月2日(金)ヨハネ三16 神さまは私たちを心から愛してくださっています。そのことが私たちにわかるように、イエスさまが私たちと同じ人間となってきてくださいました。十字架で私たちのために死んでよみがえられました。イエスさまを信じるならはだれでも、罪がゆるされて永遠の命をいただけるようにされました。                             4月3日(土) Ⅰヨハ四10  イスラエルでは、長い間、罪がゆるされるために、動物をささげてきました。それをあがないといいます。でもイエスさまの十字架で流された血によってもう動物の血を流す必要がなくなりました。イエスさまが罪をあがなってくださり、救いが完成したからです。