イエスさまのされることは時々どうして?と思うことがあります。でもすべては私たちが救われるためにされることです。どんな時もそこにいつもつながっています。 1月6日(日)マタイ三1〜4  「ごめんなさい」と悔い改めることは、いつも自分のことばかりだった心が、神さまの方を見るようになることです。それは神さまのことを考えて生活することです。バプテスマのヨハネは、人の心を悔い改めによって神さまの方に向ける使命を与えられた人でした。 1月7日(月)マタイ三5〜6  「悔い改めよ、天国は近づいた」という言葉を聞いたら、多くの人がヨハネのところに集まりました。みんな天国に行きたかったのです。でも今のままでは行けない罪があることを知っていたのです。だから悔い改めて洗礼を受けました。 1月8日(火)マタイ三7〜10   パリサイ人やサドカイ人は、聖書の言葉を、特に律法を熱心に学び守っている模範的な人たちです。そのような人たちもヨハネのもとにやってきて悔い改めたのです。ヨハネは彼らに、自分たちはユダヤ人だから救われて当然だと思うな、模範的な生活をしているから大丈夫だ、などと思うなと厳しく言いました。悔い改めても、今までと変わらないならば、厳しいさばきがあるのだと。 1月9日(水)マタイ三11〜12  バプテスマのヨハネによると、ヨハネから洗礼を受けても終わりではないのです。ヨハネより優れた方が来られて、その方から聖霊と火とによるバプテスマを受ける必要があるのだと言いました。ヨハネの洗礼は悔い改めたしるしとしての洗礼ですが、その方は悔い改めた人の罪をきよめることができるのです。 1月10日(木)マタイ三13  バプテスマのヨハネから洗礼を受けようとする人々の中に、ヨハネがいう「聖霊と火で洗礼を授ける方」も立っていました。それにしても不思議です。罪をきよめるはずの方が、悔い改めの洗礼を受けようとしているのですから。 1月11日(金)マタイ三14〜15  イエスさまは罪を悔い改める洗礼を受ける必要はありません。罪がないからです。でもイエスさまは罪人の私たちのために洗礼を受けようとされました。悔い改めが必要な私たちと同じになってくださったのです。それが私たちを救う十字架へ行くための道だからでした。 1月12日(土)マタイ三16〜17  天からの声は「わたしの心にかなう者である」とイエスさまについて語りました。父なる神さまの思いの通りにする人だと言われたのです。私たちは神さまの言われたとおりになかなかできない時があります。だからイエスさまがすべて神さまの思いや言われたことをして、私たちもできるように導いてくださるのです。  ダイエットは明日からだ。勉強は明日からだ。明日からがんばるって言ってなかなかはじめられない、そういう誘惑ってありませんか。 1月13日(日)マタイ四1〜2  誘惑にはあいたくありません。でもイエスさまはわざわざ悪魔に誘惑されるために、試されるために荒野に行かれたのです。イエスさまは荒野で40日間何も食べないでお祈りをしました。すると悪魔がやってきたのは、40日たってお腹がすき過ぎてしかたのない時でした。 1月14日(月)マタイ四3〜4  悪魔は石をパンに変えて神の子の力を見せてほしいと言ってきたのです。それもお腹のすいたイエスさま自身と、食べる物がなく困っている世界の人を、その力で救ってみせろと言ったのです。それこそまさに救い主だとわかるだろうと。 1月15日(火)マタイ四3〜4   人は確かに食べないと生きていけません。食べたら元気になるし、やる気も出ます。でも心にも必要な食べ物があります。それは神さまの言葉です。毎日神さまという心のごはんを食べることが、私たちの心を救ってくださいます。イエスさまはそう聖書に書いてあると言って、悪魔の誘いにのりませんでした。 1月16日(水)マタイ四5〜7  悪魔は次に、あなたが神の子なら、神殿の屋根から飛び降りて聖書の言葉のとおりに天使が支えて守ることを証明してみせてよと言ってきました。でもイエスさまは、それは「神さまは本当に守ってくれるのか」と言って神さまを試そうとすることだ、「主なる神を試みてはならない」と聖書に書いてあると言って、悪魔の誘いにのりませんでした。 1月17日(木)マタイ四8〜10  悪魔は、私を拝んだら、この世界はすべてあなたのものだよと言ってきました。イエスさまは救い主として十字架で苦しまれ、死なれることが決まっています。でも悪魔を拝めば苦しまなくていいのです。世界を手に入れて、あとは神の子の力でいくらでも人々を救えるのです。しかしイエスさまの答えは「サタンよ、退け」でした。 1月18日(金)マタイ六10〜11  私たちは目に見えない神さまよりも、目に見えるわかりやすいものに頼りがちです。簡単で時間がかからなくて助けてくれそうだからと、お守りとか占いとかにお金をかける人もいます。でもイエスさまは神さまに従うことだけしかされませんでした。それが私たちを救うただ1つの道だからです。だから私たちもただ神さまを信じ神さまに従うのです。 1月19日(土)マタイ六13  「誘惑にあわせず」というお祈りは、「誘惑がやってきても、誘惑にはまり込んでしまわないように」というお祈りです。悪魔の誘惑に勝ったイエスさまは、共にいて私たちにも誘惑に勝つ力をくださいます。  どうしたら人にやさしくなれるのでしょう。自分が失敗すること、間違うことを知っているなら、人の気持ちを考えますし、人のことを厳しく言えなくなるでしょう。 1月20日(日)マタイ九9  取税人はお金持ちでした。税金を集める仕事をする人ですが、正しくないお金の集め方をして稼いでいたので、嫌われ者でした。マタイはそういう仕事をしている真っ最中にイエスさまに声をかけられたのです。そしてためらうことなく立ち上がりイエスさまに従いました。これまでの生き方をやめようと立ち上がったのです。 1月21日(月)マタイ九10  イエスさまと弟子たちが食事をする席には、多くの取税人や罪人と呼ばれる人たちが一緒にいました。イエスさまのようにみんなから「先生」と呼ばれる人が罪人たちと交わりを持つことは考えられない時代でした。でもイエスさまにはそういう壁はありませんでした。 1月22日(火)マタイ九11   パリサイ人たちは、律法を正しく学び正しく守る人たちです。そして正しくないことからは自分たちを徹底的に離れるようにしていました。だから正しい人が罪人と食事をしたり交わりを持ったりすることは、考えられないことでした。だから弟子たちに、あなたの先生はそういうことをするとは一体どういうつもりなのかと言ってきたのです。 1月23日(水)マタイ九12  病気の人にとってお医者さんが必要なように、罪人にとって必要なのは神さまの救いです。イエスさまは彼らのお医者さんとして彼らと交わっておられたのです。 1月24日(木)マタイ九13  イエスさまが罪人たちとの食事は、「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と語った預言者の言葉を実現していました。神さまのあわれみがどのようなものであるかを実演されていたのです。だから神さまの好まれるあわれみをイエスさまから学びなさいと言われました。 1月25日(金)マタイ九13  神さまのあわれみはどんな人にも注がれています。正しい人だけが愛されているのではなく、罪人のことも神さまはいつも思っておられ、神さまのもとに戻っておいでと待っておられます。だから、正しい人が罪人をさげすんで差別するのではなく、神さまに生かされているお互いとして、神さまのところへ一緒に行くことを願っておられるのです。 1月26日(土)マタイ九13  イエスさまは義人を招くためではなく、罪人を招くために来られました。でも義人、つまり正しい人などいないのです。神さまの前には、どんなに立派な人も罪があるからです。そして自分の力で正しく生きているつもりでも、罪人なのです。だからパリサイ人たちも神さまのもとに招かれています。神さまのあわれみに頼るようにと。  イエスさまは、12人に権威を与えて、天国を伝えるために町や村につかわしました。 1月27日(日)マタイ十1  イエスさまが弟子たちに与えた権威ってなんでしょう。命じると、言われたとおりになる力のことです。汚れた霊は「出て行け」と命じられたら、出ていきます。病気も「治れ」と命じれば治ります。わずらいとは、悩みのことですが、それに「なくなれ」と命じればなくなるのです。天国が、悪霊や病気、悩みに悩まされないところだと、みんなに知らせ、また天国の恵みを手渡すための力でした。 1月28日(月)マタイ十2〜4  イエスさまらから権威をさずけられたのは12人。気持ちの熱い兄ペテロと人を誘うのが得意な弟アンデレ。イエスさまから「怒りん坊」とあだ名をつけられた兄ヤコブと弟ヨハネ。取税人マタイや政治活動家のシモン。イエスさまを裏切るユダ。イエスさまの復活を疑ったトマス。他にもそれぞれ特徴がある人たちで、最初から模範になれる人たちではありませんでした。 1月29日(火)マタイ十5〜7   彼らのすることは、まずユダヤ人に「天国は近づいた」と伝えることでした。みんなは、天国は死んだら行くところと思うかもしれません。でも死んだ後だけでなく、生きている今も、神さまのすばらしさがわかると、今いるところが天国になるのです。イエスさまを信じたら生きていても天国のすばらしさを知ることができます。だから天国は近づいたのです。 1月30日(水)マタイ十8  病気が治ったり、死んだ人が生き返ったりしたら、すごいですね。重い皮膚病の人たちは家族と離れて暮らしていたので、いやされたら家族のもとに返れます。悪霊が出ていったら、心も体も自由になれます。そういうすばらしいことを、弟子たちを通して神さまがしてくださっているとわかると、天国が近づいているんだとわかるのです。 1月31日(木)マタイ十9〜10  弟子たちの伝道旅行の荷物はほとんどありません。それは天国を伝える働きのために、寝るところ、食べるもの、生活の必要をすべて用意してくれるお家が与えられるから、という神さまの約束でした。 2月1日(金)マタイ十11〜13  弟子たちを迎える家には、平和がやってきます。弟子たちが神さまからいただいたもので、安心して生きているので、その心の平和がその家にも渡されるのです。 2月2日(土)マタイ十14〜15  天国と天国にある平安をいただくには、それを受け取った弟子たちを受け入れることです。彼らが天国を伝えて、手渡してくれるからです。彼らを受け入れないなら受け取るチャンスがなくなります。神さまの救いと恵みをただでいただいた私たちも、だれかにこの恵みを伝えて、手渡していけますように。  天国ってどんなところ?。みんなイメージはいろいろです。イエスさまはたとえを使って、聞いている人々の心にわかりやすく想像できるよう話をされました。 2月3日(日)マタイ十三24〜26  天国は、ある人が良い種を畑にまいておいたようなものです。眠っている間に毒麦の種をまかれるという嫌がらせを受けました。でも毒麦がまかれているのに気づいたのは、芽が出て実を結んでからでした。良い種だけをまいたはずなのに、毒麦まで生えてくるとは、畑仕事を一生懸命していた人たちにはがっかりさせることでした。 2月4日(月)マタイ十三27〜29  毒麦はどうやら敵のいやがらせだとわかります。しもべたちは毒麦だけすぐにでも抜いてしまう方がいいと思いました。けれども主人は麦も一緒に抜いてしまうことを心配して止めました。確かに根っこ同士がからまっているので、毒麦と一緒に麦も抜けてしまいかねませんでした。 2月5日(火)マタイ十三30   主人は収穫まで待つことにしました。収穫の時刈る者たちに、刈ったものを毒麦と麦に分けさせて、毒麦は処分すればいいのです。その方が間違って麦を抜いて無駄にすることもありません。天国の主人はすぐに悪いものはだめと捨ててしまうのではなく、最後の時まで待っておられます。 2月6日(水)マタイ十三31〜32  天国はまるで一粒のからし種のようなものです。からし種というのはとても小さな種です。でも芽を出して成長すると空の鳥がその枝に留まるぐらいに大きくなるのです。この地上に神さまがもたらされる天国の始まりが、小さくて私たちが気づかなくても、確実に大きくなって救われる人をどんどん迎えいれるのです。 2月7日(木)マタイ十三33  パンを作ったことはありますか。パンの材料にはパンをふくらませるパン種が必要です。でもその分量はたくさんでなくて大丈夫です。ちょっとのパン種で、ちゃんとパンの生地が大きくふくらむのです。そのように天国も、この世界の中でどんどん増え広がっていくのです。 2月8日(金)マタイ十三34〜35  イエスさまは天国のこと、神さまのことをわかりやすく話すために、たとえを語られました。畑仕事や、魚をとる仕事、羊飼いや、家族などをたとえました。言葉だけではわかりにくくても、絵を見たらすぐわかるように、たとえを語られました。 2月9日(土)マタイ十三36〜43  でも時々たとえが難しくてわからないこともありました。そんな時イエスさまは弟子たちにはたとえの意味を教えてくれたのです。毒麦のたとえは、今は毒麦でもやがて麦に変わる時がくるかもしれません。だから神さまは最後の時、収穫の時まですべての人が救われるのを待っておられるのです。    お祈りがなかなか聞かれない時があります。神さまはもう聞いてくださらないのかな?と思う時、今週の聖書箇所を思い出してみてください。あきらめなかったカナン人のお母さんのお祈りが、私たちのお祈りをはげましてくれますよ。 2月10日(日)マタイ十五21  ツロとシドンの地方はイスラエルではなく外国です。イエスさまは毎日、大勢の人に囲まれてお話をしたり、病気を治したり、悪霊を追い出したりしていました。人々はいつも途絶えることなくやってきます。そしてパリサイ人たちはイエスさまを罪人として陥れようとしています。そういうところから少し離れて静かに過ごそうとされました。 2月11日(月)マタイ十五22  ところが、この外国の地でも1人の女性の叫び声が聞こえてきたのです。カナンの女性でした。悪霊にとりつかれた娘を助けてほしいと叫んでいました。女の人はイエスさまを「主よ、ダビデの子よ」と呼びました。それは「救い主よ」という意味の言葉で、外国人でしたが、イエスさまを救い主と信じていました。 2月12日(火)マタイ十五23〜24   ところがイエスさまは一言もお答えになりません。どうしたのでしょう。弟子たちもこのままでは困るので、イエスさまになんとかしてくださいと言うのですが、「私の働きはユダヤ人のためだ」と言うばかりです。なんだかイエスさまはいつもと違って冷たい感じがします。 2月13日(水)マタイ十五25  女の人はあきらめませんでした。イエスさまの足もとにひれ伏してイエスさまを礼拝しました。そしてひたすらお願いしました。本当に頼れるお方はイエスさま以外にないことを知っていたからです。 2月14日(木)マタイ十五26  子どもたちとはユダヤ人のこと、子犬とは外国人のことです。ユダヤ人のために私は働くのだから、あなたの願いは聞けないとさらに女の人を突き放しました。どうしてイエスさま?どうして聞いてくださらないの? 2月15日(金)マタイ十五27  女の人は自分が子犬と呼ばれても、怒ったりすねたりしませんでした。イエスさまが助けてくれないことに文句を言ったり、ののしったりもしませんでした。それどころか「そうです。わたしは子犬です。だからパンくずで十分です。それで娘は治ると信じます」。と言って、イエスさまを信じることをやめませんでした。 2月16日(土)マタイ十五28  なんとまっすぐにイエスさまを信じていることでしょうか。イエスさまのユダヤ人への愛はあふれ出ていて、ユダヤ人でない自分たちにもこぼれ落ちて救ってくれると信じていたのです。イエスさまも彼女の信じる思いの大きさに感心されました。そしてついにこたえてくださいました。娘はいやされたのです。  「イエスさまって一体何者なんだろう?」と多くの人が思っていました。病気を治したり、悪霊を追い出したりできるし、神さまのことをよく知っている。人にはできないことができる不思議なお方。でもみんなはまだイエスさまの正体を知りませんでした。 2月17日(日)マタイ十六13〜14  人々はイエスさまのことを何者だと言っていたでしょうか。弟子たちによると、イエスさまはバプテスマのヨハネだとか、昔の偉大な預言者エリヤだ、いやいやエレミヤだとか、とにかく預言者なんじゃないかとうわさしていました。預言者は神さまの言葉を人々に伝える人でしたが、神さまの力をいただいて、奇跡を行う人もいたからです。 2月18日(月)マタイ十六15〜17  「あなたこそ生ける神の子キリストです」とペテロは答えました。確かにそれが本当のイエスさまの正体でした。ペテロと弟子たちは、イエスさまのことを預言者よりもっとすごいお方、神の子、救い主だと信じていました。でもペテロは頭がいいからとか、自分でピンと来て正解を言えたのではなく、神さまが教えてくれたからわかったのです。 2月19日(火)マタイ十六18   ペテロというのは「岩」という意味です。本当の名前はシモンですが、「ペテロ」はイエスさまがつけられたあだ名で、新しい名前です。岩は頑丈で建物の土台になります。そのように教会は、ペテロの「イエスさまこそ神の子救い主です」と信じる信仰を土台として建てられるとイエスさまは言われました。 2月20日(水)マタイ十六19  ペテロのいただいた「天国のかぎ」とはどんな「かぎ」なのでしょう。イエスさまを信じたら救われて天国へ行けるということです。そして自分の罪を悔い改めるなら、ゆるされますよと伝えていくことです。 2月21日(木)マタイ十六20〜21  イエスさまが救い主であることはまだ弟子たちだけの秘密です。そしてさらに弟子たちはイエスさまの秘密を知らされました。それはイエスさまが十字架で死なれ、3日目によみがえるということでした。 2月22日(金)マタイ十六22〜23  ペテロは「サタンよ、引き下がれ、わたしの邪魔をする者だ」と叱られてしまいました。さっきはイエスさまを救い主だと信じて言えたことを「さいわいだ」とほめられ、教会の土台の「岩」となると言われたのに、今度はイエスさまの邪魔をする「つまずきの石」と言われてしまいました。 2月23日(土)マタイ十六24〜28  イエスさまを救い主と信じることは、イエスさまが十字架で死なれ、よみがえる救い主だと信じることです。そして信じる私たちも、イエスさまのあとをついていきながら、イエスさまの生き方をまねて神さまの言葉に従っていくのです。  イエスさまは救い主です。でも見た目は普通の人とかわりありません。でもイエスさまは確かに神の子救い主としての本当の姿もお持ちなのです。 2月17日(日)マタイ十七1〜2  イエスさまは神の子救い主です。でも人となって来られたイエスさまの見た目は弟子たちと同じで、特別な違いはありません。ところが、ペテロとヤコブとヨハネだけはイエスさまの本当の姿をちらりと見させていただけたのです。光り輝く顔と光のように白い衣を着たイエスさまでした。 2月18日(月)マタイ十七3〜4  ペテロはわくわくしました。モーセとエリヤも現れ、イエスさまと3人で語りあっていたからです。モーセもエリヤも昔の偉大な人ですが、もう弟子たちの時代には生きていません。それなのに、今目の前にいます。この3人がいればもう敵なしです。なんとしてもこのまま3人がずっと一緒にいてほしい、だから小屋を建てましょうと言ったのです。 2月19日(火)マタイ十七5   ペテロたちは天からの声を聞きました。イエスさまが洗礼を受けて水から上がられた時、聞こえてきた神さまの言葉と同じでした。神さまに愛され、神さまの思いを実行していくイエスさま。このイエスさまの言葉に聞き従うのが一番いいのだと語られました。 2月20日(水)マタイ十七6〜8  ペテロの願ったことは起こりませんでした。天の声をこわがってひれ伏している弟子たちにさわり、優しく声をかけてくださったのはただひとりそこに残られたイエスさまでした。イエスさまがただひとり救い主だからです。 2月21日(木)マタイ十七9  どうしてイエスさまの光り輝く本当の姿をだれにも言ってはいけなかったのでしょうか。イエスさまの救い主としての働きは、人々が期待していたのとは違う姿でした。だからだれにもご自分の大事な働きを邪魔されないために、十字架で苦しんで死なれ、よみがえるまでは、ご自分のことを秘密にしておく必要がありました。 2月22日(金)マタイ十七10〜11  律法学者たちは、もし救い主が来るとしたら、その前にエリヤが先に来ているはずだと言いました。聖書に預言されているからです。でもエリヤがまだ来ていないのだから、イエスさまが救い主であるはずがないと言いたかったのです。人々が期待するイエスさまを彼らは認めたくありませんでした。 2月23日(土)マタイ十七12〜13  バプテスマのヨハネこそが再び来るエリヤでした。けれどもヨハネのこともイスラエルのリーダーたちは認めませんでした。そしてヨハネが与えられた働きをやり遂げる前に、自分勝手な人間の都合で殺してしまいました。人の罪が神さまから送られた働き人をどけてしまったのです。  簡単にゆるせることと、そうでないことがあります。時にはあの時もそうだった、この時もそうだった、まただ、とゆるせないことをずっと忘れないで覚えていることもあるでしょう。でもゆるせるようになりたいですね。 3月3日(日)マタイ十八21〜22  7の70倍ゆるすということは、490回までということではありません。ずっとゆるしなさいとイエスさまは言われました。でもどうしてもゆるせなかったり、いつまでも心の中にひっかかり続けたりすることがあります。それはどうやってゆるせるようになるのでしょう。 3月4日(月)マタイ十八23~25  天国の決算というのは、この世界の終わりの時に行われることです。私たちの罪がどれだけあるのかを計算するのです。それをイエスさまは、王様から到底支払いきれない借金をした人にたとえました。その人は自分も家族も持ち物も全部売り払って借金を返すように言われました。もちろんそれでも支払いきれませんから、牢獄の中で働き続けるのです。 3月5日(火)マタイ十八26〜27   到底返すことなどできないのに、彼は必死で、必ず返すから待ってくださいとお願いしました。すると驚いたことに王様はすべての借金を帳消しにすると言ったのです。彼が返すにはどんなに大変で、家族も辛い思いをしても終わらないほどであることを思い、心をとても痛めたからです。とても簡単にゆるせるような金額ではありません。どこまでも憐れみ深い王様でした。 3月6日(水)マタイ十八28〜30  ところが借金を帳消しにしてもらったこの人は、自分の友だちのわずかな借金をゆるすことができませんでした。友だちがどんなにお願いしても聞かないで、牢獄に入れてしまったのです。あれほどの借金をゆるしてもらったのに、どうして彼は自分の友だちをゆるせなかったのでしょうか。 3月7日(木)マタイ十八31  この様子を見ていた仲間たちがとても胸を痛めました。あんなに大きな借金をゆるしてもらった人が、わずかな自分に対する借金をゆるさないことに残念でなりませんでした。 3月8日(金)マタイ十八32~34  王様は「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきだった」言いました。人をゆるす秘訣は、自分がどんなに神さまからあわれみをいただいているかを知っていることです。人のしたことをゆるせない私たちですが、自分では償えない罪をゆるしていただいているのです。 3月9日(土)マタイ十八35  どんなに大きな愛とあわれみでゆるされてきたかを知るならば、私たちは人をゆるさないわけにはいかなくなります。神さまと周りのみんなからゆるされてここまで来ることができた私たちなのです。  天国はどんな人がいけると思う?いい人が行けて、悪い人は行けない、そう思っているかもしれないけれど、イエスさまはそうは言われませんでした。 3月10日(日)マタイ十九16〜18  永遠の命は天国で生きる命です。どうやったら永遠の命をもらえるのでしょう。この人のように、多くの人は良いことをしていたら天国にいけると思っています。でもイエスさまはいましめを守りなさいと言われました。 3月11日(月)マタイ十九19〜20  この青年はいましめをみんな守ってきました。すごいですね。まじめで立派な人です。それなのに、「それならよかった。自分は永遠の命をいただける、天国に行ける、大丈夫だ」とは思えませんでした。まだ自分には何かが足りない、それはいったい何だろうと思ったのです。 3月12日(火)マタイ十九21〜22   それにしても自分の持ち物を全部売り払って寄付するなんて、「えーそんなの無理だよ!」とだれでも思うでしょう。青年は今までにも貧しい人に寄付をしてきたでしょう。でもそれを全部とは簡単ではありません。でも「そうすれば、天に宝を持つ」のです。ということはそれまで彼がいましめを守ってきたこと、してきた良いことは天に宝を持つこととにはならなかったようです。でも彼はイエスさまの言う通りにすることはできませんでした。 3月13日(水)マタイ十九23〜25  この時代の人はみんな、お金持ちや仕事で成功している人は、それが神さまに祝福されている証拠だと思われていました。それなのに、この青年のようにいましめを守り、神さまに祝福されているはずのお金持ちが天国に入るのが難しいとしたら、いったいだれが入れるのでしょう。弟子たちは驚くばかりでした。 3月14日(木)マタイ十九26  人に永遠の命を与えるのも、天国へいれることができるのも、神さまだけです。人が何か良いことをしていただける命ではないのです。ただ、信じて従う人に神さまの愛とあわれみが与えてくださるプレゼントなのです。 3月15日(金)マタイ十九27〜28  確かに弟子たちは青年と違ってすべてを捨てて従いました。青年にはできなかったけど、人にはできないというけれど、自分たちはできたとペテロは思いました。でも本当は弟子たちも自分の力ですべてを捨てて従うことができたのではありません。神さまが導いてくださったから、神さまによってできたのです。 3月6日(土)マタイ十九29〜30  弟子たちには新しい世界でのすばらしい立場が約束されました。けれども弟子たちだけではなく、イエスさまを信じ、イエスさまに従った人はみんな、神さまからのすばらしすぎる恵みと永遠の命がいただけて、天国へいけるのです。  礼拝やお祈りも、いつの間にかただ形だけやっているだけになってしまうことがあります。でも神さまは、私たちの祈りに形だけで答えたり、愛したりすることはないのです。 3月17日(日)マタイ二一1〜5  イエスさまはエルサレムに入るために子ろばが必要でした。そして貸してくれる人に「主がお入り用なのです」と言えば、弟子たちが貸してもらえるように前もって用意されていました。「主がお入り用なのです」という言葉は、私たちの心にも響いてくる言葉です。 3月18日(月)マタイ二一6〜11  イエスさまは子ろばに乗って、平和を持ってくる王さまとしてエルサレムに入られました。多くの人が喜びの声をあげながら迎えました。パレードのように、イエスさまの周りを大勢の人が囲んで、「ホサナ!」と叫んで歓迎しました。世界を変えて、自分たちを救ってくださるのはこの人だと期待しました。 3月19日(火)マタイ二一12   エルサレムへ入るとイエスさまは神殿に行かれました。するとイエスさまは、神殿の庭で、礼拝でささげる動物を売ったり買ったりする人たちをみんな追い出しました。お店の台や椅子もひっくり返してしまいました。なぜこんな荒々しいことをされたのでしょうか。 3月20日(水)マタイ二一13  神殿は神さまを礼拝するところ、お祈りをするところです。ところが、いつの間にか礼拝のささげものを利用して、お金儲けの場所になっていました。神さまのためと言いながら、自分たちのためにしているのです。だからイエスさまは「強盗の巣にしている!」と激しく怒られたのです。このすべての激しい行動は神殿を本当の姿の「祈りの家」として取り戻すためにされたのでした。 3月21日(木)マタイ二一14  目の見えない人や体の不自由な人は神殿に入ることができませんでした。けれどもいつもは神殿の門の外で物乞いをしていた彼らが、中に入ってきてイエスさまに助けを求めると、イエスさまは彼らをいやされました。祈りの家である神殿は、神さまがみんなのお祈りを聞いておられるところなのです。 3月22日(金)マタイ二一15~16  イエスさまが、神殿の庭でものを売り買いする人たちを追い出したり、目の見えない人や足の不自由な人をいやしたりするのを、ユダヤ人リーダーたちも、子どもたちも見ていました。しかし喜んでイエスさまをほめたたえたのは子どもたちだけでした。 3月23日(土)マタイ二一16〜17  ユダヤ人リーダーたちは、子どもたちのイエスさまへの賛美をやめさせるべきだと言いました。救い主だけをほめたたえる言葉「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたからです。彼らはどんな不思議なわざを見ても、イエスさまを救い主と認めたくありませんでした。  周りからすごいねと言われていると、自分は本当にすごいのかもと思えてくることがあります。ほめられると調子に乗ってしまことは誰にでもあります。でも失敗したり、人から注意されたりすると気づきます。自分がたいしたことはなかったのだと。 3月24日(日)マタイ二三1〜3  律法学者やパリサイ人たちは、聖書をよく勉強して人に教える先生です。けれどもイエスさまは、彼らは教えていることとやっていることが違っていると言われました。熱心に律法を守っているように見えていても、教えていることと、やっていることがずれていたのです。 3月25日(月)マタイ二三4  律法では安息日に仕事をしてはいけません。でもどこまでは仕事で、どこまでが仕事でないのかがわかりにくいので、学者たちがそれを考えました。他の律法もこのように解釈していきました。するときまりがあまりに細かくなって、守るのがとても大変になりました。それで学者たちからちゃんと守っていないと責められる人が多くなったのです。 3月26日(火)マタイ二三5〜7   学者たちが律法を守っていると思ってやっていたことは、人にみせることでした。人にほめられたり、偉いと思われたりするためにしている人が多かったのです。律法を守るのは、自分勝手に生きるのではなく、神さまの方を向いて生きるためです。人と助け合って生きるためです。それがいつのまにか、自分をよくみせるために一生懸命やるようになっていました。だから言うこととやることがずれていたのです。 3月27日(水)マタイ二三8〜9  この時代、先生のことを父とも呼んでいました。先生、父、教師と呼ばれていると、だんだん自分の心が偉い人になったような気分になりがちです。高ぶって偉そうになってしまうことがあります。でも神さまが私たちのまことの先生、信仰のお父さんなのです。 3月28日(木)マタイ二三10  キリストが信仰を導いてくださる教師です。そして私たちはみんな兄弟姉妹であって、だれかより上とか下とかもないのです。 3月29日(金)マタイ二三11  仕えるというのは、召し使いのように神さまの言われることを何でもすることです。でも何でもするのは難しいです。愛するとか、ゆるすとかなかなかできないものです。お祈りしてイエスさまに助けていただきながら、どうするのかを教えていただくのです。 3月30日(土)マタイ二三12  自分を低くすることは難しいです。でもイエスさまが十字架で死んでよみがえってくださったこと、その愛の大きさに、ふさわしいお返しをできない私たちであることをいつも忘れないなら、私たちは自分を高くすることもできないとわかるでしょう。   イエスさまの十字架への道にはいつもお祈りがありました。神の子でも、人間として父なる神さまに祈らないで過ごすことはありませんでしたし、祈らないでは進めませんでした。だから私たちも祈るのです。 3月31日(日)マタイ二六36〜37  イエスさまは過ぎ越しの食事の後、弟子たちと祈りの場所ゲッセマネに行かれました。そしてペテロとヤコブとヨハネを連れてさらに奥へと進まれました。するとイエスさまは3人の前で悲しみ出し、悩みに苦しみ始められたのです。どんな時にも強い心でしっかりしておられるイエスさまなのに。それほどにこれから向かう十字架の死は悲しく怖く苦しいものだったのです。 4月1日(月)マタイ二六38  イエスさまはその心の悩み苦しんでいる気持ちをペテロたちに隠すことなく話されました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」。神の子なのにどうしてそれほどまでに十字架に苦しめられなければならなかったのでしょう。 4月2日(火)マタイ二六39   イエスさまはうつぶしになって祈られました。「この杯を過ぎ去らせてください」。十字架で苦しみ死ぬことが「この杯」です。私たちすべての人の罪を背負って、イエスさまが裁かれるためにです。それは死んで神さまから見捨てられるところまでいくことでした。 4月3日(水)マタイ二六40  十字架を前にイエスさまはこんなにも苦しみ祈られている。けれどもペテロたちは一緒に目を覚まし、イエスさまの苦しみを思って一緒にお祈りすることはできませんでした。眠くて仕方なかったのです。そしてイエスさまがどうしてそんなに恐れているのか、苦しんでいるのかわからなかったのです。 4月4日(木)マタイ二六41  「誘惑に陥らないように」する道はお祈りだとイエスさまは言われました。私たちにとっての誘惑は、神さまの思いより自分の思いを通したいということです。その思いにはまり込んでしまわないためには祈ることです。そして神さまから助けていただくことなのです。 4月5日(金)マタイ二三42  イエスさまの祈りは「この杯をわたしから過ぎ去らせて」から、「この杯を飲むほかに道がないのでしたら」に変わりました。十字架とは別の道で私たちを救うことができるのなら、と願われましたが、この道しかないと受け入れて、「神さまの思いのままにしてください」と祈られました。苦しみ悩み祈り続け、神さまに従う道を進まれました。 4月6日(土)マタイ二六43〜46  苦しみ悩みの中で祈りを繰り返し、そして祈り終えた時、イエスさまは「立て、さあ行こう」と立ち上がられました。私たちの罪のために苦しまれる十字架の時が迫っていました。イエスさまの心は神さまと1つでした