聖書だワクワク195号  小学生の頃、親戚のおばさんが欲しいものを買ってあげるからと、お店に連れていってくれました。ところが何時間も悩んで、結局何も選べなかったのです。それでも何かを買ってもらったのかもしれませんが、選べなかったことがなぜか忘れられません。 10月7日(日)列王上三1  ダビデの息子ソロモンがイスラエルの3代目の王になりました。他の国と仲良くやっていくために、エジプト王の娘をお嫁さんにもらいました。こうすれば戦争をしかけてこないし、他の国から攻撃されても助けてもらえるのです。でも本当に外国との関係を助けてくださるのは神さまなのです。 10月8日(月)列王上三2〜4  ソロモンの神さまを愛する心は、礼拝のささげ物の多さからわかります。1千もの動物とは途方もない数です。ささげ終わるまでには時間も相当かかったでしょう。でもソロモンには、惜しみなくささげるほどに、神さまへの感謝と喜びがありました。 10月9日(火)列王上三5〜9  ソロモンは神さまに「欲しいものをあげよう」と言われます。イスラエルに住んでいる大勢の人々が安心して平和に暮らすために、王はいろいろ考える必要があります。まただれも解決できない問題を解決する知恵と力も必要です。ソロモンは、王として物事を正しく判断したり解決したりする知恵のある心が自分には必要だと思いました。だからそれをお願いしたのです。 10月10日(水)列王上三5〜9  ソロモンは王として自分には何が足りなくて何が必要なのかをよく知っていました。あなたなら何をお願いするでしょうか。私たちにとって必要なものは、形のある物だけではありません。目に見えない心の中の必要も求めることができます。 10月11日(木)列王上三10〜15  神さまはソロモンが求めたものを喜ばれました。ソロモンにはだれよりもすぐれた知恵のある心と、求めなかったたくさんのお金、人々からの評判や信頼もあわせて与えられました。神さまもソロモンへ求めておられます。それはダビデのように、神さまの言葉に従い続けることでした。 10月12日(金)列王上三16〜26  だれも見ていない二人のお母さんだけしかしらない事件でした。どうやって本当のお母さんを見分けることができるのでしょう。ソロモンは、本当のお母さんなら、きっと子どもの命を守るために何でもすると考えました。神さまの知恵が正しいものを判断させたのです。 10月13日(土)ヨハネ十五1〜7  私たちもイエスさまとつながっているならば、望むものを与えられると約束されています。私たちがイエスさまを信じ、御言葉を生活していこうとすると、自分に何が必要かわかってきます。そしてそれを求めるなら、与えていただけるのです。  イスラエルの国は、ソロモンの時代にとても大きくなり栄えましたが、その栄えは長くは続きませんでした。ダビデの後を継いだソロモンもそうでしたが、偉大なソロモン王の後をレハベアムが継ぐこともまた大変なことだったでしょう。 10月14日(日)列王上十二1〜2  ソロモンの息子レハベアムは、イラエルのすべての人から期待されて王となりました。栄えた国をおさめるには、神さまの言葉に聞くことと、王として正しい助言を受け入れることが必要でした。 10月15日(月)列王上十二3〜5  父ソロモンの時代には、いろいろな建物を建てるためにたくさん働かせられたり、そのために税金をたくさん取り立てられたりしていました。それが人々の生活をとても苦しめていたのです。そこで人々は、レハベアムにはそれを軽くしてくれることを期待したのです。こんな時王としてどう答えることがいいのでしょうか。 10月16日(火)列王上十二6〜11  レハベアムは父のもとで働いた経験の深い年上の人々の、「民のしもべになって、彼らに仕えるのがいい」という意見が気に入りませんでした。そこで自分と同世代の人々の意見を取り入れることにしました。人々の言葉を聞いて、それに丁寧に答えていくことより、強くて逆らうことのできない恐い王である方が王らしくていいと思ったのです。 10月17日(水)列王上十二12〜15  レハベアムは、王の答えを聞きにやってきた人々に、「これからは父以上にもっと厳しくする」と荒々しく答えました。そのため民の言葉を聞こうとしない王に人々はがっかりしました。こうして、父ソロモンが神さまに背いてしまったために、息子の時代には国が分裂すると言われていた通りのことが起こっていくのです。 10月18日(木)列王上十二16〜20  レハベアムに対してイスラエル12部族のうち10部族が反乱を起こし、レハベアムの使者アドラムを石で撃ち殺してしまいました。そしてヤラベアムを自分たちの王にしたのです。レハベアムは自分も殺されるかもしれないと、エルサレムに逃げることしかできませんでした。 10月19日(金)列王上十二21〜24  レハベアムにはまだ強い軍隊がありました。この軍隊で反乱した人々に向かえば、勝って、また国を一つに取り戻せると思いました。ところが神さまらかのストップがかかったのです。「この事はわたしから出たのである」という神さまの言葉に聞き従って、彼は自分に与えられた部族をおさめることを受け入れました。 10月20日(土)ヨハネ十二25〜33  ヤラベアムは、神さまから与えられた国と王の立場を、神さまの言葉に従っておさめることはしませんでした。人と相談して人々の心が自分から離れない方法を考えて行ったのです。  イスラエルが北イスラエルと南ユダの2つの国に分かれて何年も立ちました。どちらの国も神さまを信じなかったり、偶像を礼拝したりする王さまの時代がありました。特に北イスラエルではアハブ王は今までの王の中で最悪でした。 10月21日(日)列王上十六29〜34  外国シドンからお嫁にきたイゼベルが、バアルを神と信じていて、アハブも一緒に礼拝するようになりました。偶像礼拝のための祭壇を造り、アシラという偶像も造りました。自分の都合のよい信じやすい神を神とする生活は、やがて国全体を苦しめることになりました。 10月22日(月)列王上十七1  預言者エリヤはアハブ王に「神さまが、これから数年雨が降らないと言っておられる」と伝えました。バアルの神は畑を豊かに実らせる神で、雨も降らすと信じられていました。でもエリヤの伝えた言葉どおり雨が降らなくなったのです。そうなることでまことの神さまがどなたであるかをアハブが知って、神さまに心を向け直すためだったのです。 10月23日(火)列王上十七2〜7  雨が降らなければ、エリヤももちろん困ります。水がなくなってしまうからです。それにアハブに都合の悪い言葉を伝えたので、エリヤの命が王にねらわれるかもしれません。でも神さまは、川のそばにエリヤを隠れさせました。川の水が飲めるし、からすが毎日朝晩食事を運んでくれたのです。こんな不思議な方法でエリヤは生かされました。 10月24日(水)列王上十七8〜12  次のエリヤの隠れ場も不思議なところでした。外国の町で、夫に死なれた女の人の家です。それもその人の家にはもうわずかな粉と油しかないのです。女の人はそれを息子と食べて死を待つばかりだと言ったのです。どうやってこの人がエリヤを養えるのでしょうか。 10月25日(木)列王上十七13〜14  でもエリヤはもっと不思議です。まず私にパンを一つ持ってきなさい。その後あなたと息子のために作りなさいと言いました。それが言えたのは神さまの約束の言葉があったからです。「神さまが雨を降らす時まで、かめの粉もびんの油もなくならない」。エリヤは雨を降らせなくさせ、からすによって養う神さまを心から信じていました。 10月26日(金)列王上十七15〜16  神さまの言葉の通り粉も油もなくなりませんでした。神さまはやめもがエリヤを養うと言われましたが、エリヤと出会ったおかげで、やもめと息子も神さまによって養われ、生かされたのでした。 10月27日(土)ルカ十二22〜29  エリヤや、やもめたちを養われた神さまは、空の鳥や野の花のことだって忘れてはおられません。そして私たちの悩みや心配事にも助けを与え、毎日の必要を満たしてくださるのです。 目に見えない神さまのことをどうやったらわかるでしょう。まずはお祈りしてみることです。 10月28日(日)列王上十八17〜19  アハブは、雨が降らないのは自分の罪のせいなのに、エリヤのせいにしていました。偶像を拝む自分の罪を認めていないからです。まことの神さまを信じないで、人が作った神さまを信じることがどういうことかをわからせるため、エリヤは勝負を持ちかけました。エリヤの信じる神対バアルの対決です。 10月29日(月)列王上十八20〜21  対決の日、カルメル山にイスラエル中の人が集まりました。みんながみんな、バアルを心から信じていたわけではないでしょう。けれどもバアルを拝まないとアハブやイゼベルにひどい目に合わされるのかもしれません。でも2つの神の間に迷うのはやめて、今日こそまことの神に立ち返ろうとエリヤは呼びかけました。 10月30日(火)列王上十八22〜24  「本当の神さまはどっちなのか?祭壇に神さまへのささげものの牛をのせて、天から火をくだして燃やすことのできるお方が本当の神さまだとしようじゃなか」。エリヤの言う対決方法にみんなが納得しました。まことの神さまは人の祈りにこたえてくださるお方だからです。 10月31日(水)列王上十八25〜29  バアルの預言者たちがはじめにお祈りをしました。「バアルよ、こたえてください」と朝から祈りました。昼になってもこたえはありません。踊ったり、刀で体を傷つけて血をながしたりして、神さまの気をひいて、こたえてもらおうといっしょうけんめいやりましたが、何も起こりませんでした。肝心なことはその神さまが本当に生きておられるのかということなのです。 11月1日(木)列王上十八30〜35  エリヤの番になりました。エリヤは祭壇の周りに大きな溝をつくり、たきぎも牛もびしょびしょで、溝も水でいっぱいになるほど、水をかけました。しめった祭壇は火がつきにくいのに、これでもかというぐらいの水です。でもその方が神さまの力のすごさがわかりやすいと考えたのです。 11月2日(金)列王上十八36〜40  エリヤは祈りました。「イスラエルの神こそ神であることを知らせてください。わたしに答えてください」。すると主の火がくだって牛もたきぎも石もちりも焼き尽くしました。溝の水もなくなりました。すべての人にはっきりとわかりました。「主こそ神です」。神さまは生きておられ、お祈りにこたえてくださいます。 11月3日(土)列王上十八41〜46  3年もの間雨は降りませんでした。けれどもエリヤが祈るとついに雨が降り出したのです。人々がまことの神さまに心を向けなおしたからです。天から火をくだし、雨を降らす神さまこそ、豊かな実りをくださいます。 「あの人でも」と思うような人や、どんな偉大な人でも落ち込んだり、勇気を失ったり、立ち上がれないほどに打ちのめされることがあります。そんな時、人はどうやってまた心が元気になれるのでしょうか。 11月4日(日)列王上十九1〜2  イゼベルは、アハブ王から山での出来事と、バアルの預言者たちが滅ぼされたことを聞いても、こわがったり恐れたりしませんでした。山であったあんなにすごい出来事を聞いても、心が弱くならず、何も変わらず、天地を造られた神さまをおそれることもありませんでした。 11月5日(月)列王上十九3〜4  自分の命をねらうイゼベルにエリヤの方が打ちのめされてしまいました。イゼベルから遠く離れたところへとひたすら逃げました。そしてだれもいない荒野で神さまにお願いしたのです。「死にたいです」と。結局1番降参させたかったイゼベルを倒せなかったのです。もうすべてが無駄に思えました。 11月6日(火)列王上十九5〜8  心も体も疲れ切り、まったくやる気をなくしたエリヤはそこで眠りました。神さまは「何を言っているんだ。しっかりしなさい」とは言われませんでした。天使が食事を運んでくれて、エリヤはそれを食べては寝、食べては寝を続けました。神さまはエリヤにゆっくり休むときをお与えになりました。 11月7日(水)列王上十九6〜10  休んで元気を取り戻したエリヤは、40日も歩いてホレブの山の洞穴にこもりました。そこで神さまの語りかけを聞きます。「あなたはここで何をしているのか」。「イスラエルの人はみんな他の神々を信じました。でも私はあなたを信じて従ってきました。私はたった1人で戦ってきたのです。それなのに、何をやっても無駄でした。結局私も殺されそうです」。エリヤのように私たちも自分の気持ちを神さまにぶつけていいのです。 11月8日(木)列王上十九11〜14  山を裂き、岩を砕くほどの激しい風。その後の地震。そして火。どれもこわくて、神さまの前に出るには心も体も縮こまってしまいます。でもその後、洞穴から出てきたエリヤに神さまは細い声で言われました。「あなたはここで何をしているのか」。神さまの同じ質問に、エリヤの答えは変わりません。まだ落ち込みと不満がエリヤの心を覆っていました。 11月9日(金)列王上十九15〜17  神さまはエリヤに預言者をやめていいとは言われませんでした。まだ彼には仕事が残っていたのです。そしてエリヤの働きの本当の結果はもっと先のことで、他の人々が彼の仕事を引き継いでそれぞれしていくのです。それが神さまの答えでした。 11月10日(土)列王上十九18  エリヤは1人ぼっちではありません。多くの仲間が残されていました。  死にたいほどに落ち込んだエリヤでしたが、彼は立ち直りました。そしてその後も活躍をし続けました。そんなエリヤもついにこの地上での生活に終わりを迎えようとしていました。それも死ぬのではなく、神さまによって取り去られるのです。跡継ぎはエリシャでした。 11月11日(日)列王下二1〜3  エリヤはエリシャにいいました。「私は1人でベテルに行ってくる」。でもエリシャはついて行きました。今日、エリヤは主によってこの地上から取り去られるのです。だからエリシャはエリヤとの最後の時まで離れたくありませんでした。先生がいなくなる前に、エリシャはしておきたいことがあったのです。 11月12日(月)列王下二4〜5  エリコに1人で行こうとするエリヤにエリシャは離れずついて行きました。どこへ行っても、預言者仲間たちは言いました。「今日エリヤ先生はいなくなるんだね」。エリシャはだれにも二人の大事な時をじゃまされたくないので、黙って見守ってほしいとお願いしました。 11月13日(火)列王下二6〜8  ヨルダン川にやってくると、エリヤは自分のマントを丸めて水を打ちました。水が左右に分かれ、二人は土の上を歩いて渡りました。イスラエルの人たちがエジプトを脱出した時、海が分かれて土の上を歩きました。またカナンに入る時、このヨルダン川も左右に分かれて、人々は土の上を歩いて渡りました。まるでその昔のことを体験し直すかのようでした。 11月14日(水)列王下二9  エリヤが言いました。「私が主に取り去られる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。「あなたの霊の2つ分をわたしに継がせてください」。エリヤがいなくなる前に、自分がエリヤのあとを継ぐしるしがほしかったのです。エリヤの働きをしっかりとやりとげるために、エリヤの持っているものすべてを確かに受け継ぎたかったのです。 11月15日(木)列王下二10〜13  話をしている間に火の車と火の馬が現れ、あっという間につむじ風にのってエリヤはいなくなってしまいました。「イスラエルにとっての偉大な武器であるお方!」エリシャは叫びました。悲しくて寂しくて希望もないような感じがしました。でもエリヤのマントが残されていました。それこそがエリシャがエリヤの跡継ぎとなったしるしでした。 11月16日(金)列王下二14  エリシャはエリヤがしたようにマントで水を打って、ヨルダン川を渡りました。そうできたのは神さまが共におられるしるしでした。 11月17日(土)列王下二15〜18  帰ってきたエリシャを見た預言者仲間たちは、エリシャとエリヤがまるで一つになっているように見えました。確かにエリシャがエリヤの跡継ぎとなったのだとわかりました。  人の言葉をきけることは大事なことです。人のアドバイスが私たちを助けてくれることがあるからです。 11月18日(日)列王下五1〜5  ナアマンは病気のことでとても悩んでいました。このままではもう今までどおり、将軍として自分のちからを発揮することはできないかもしれません。でもナアマンはとてもついていました。イスラエルから連れてこられた1人の使用人の女の子が、イスラエルにはナアマンを治せる人がいると教えてくれたからです。 11月19日(月)列王下五6〜8  スリヤの王の手紙に、イスラエルの王はとても困ってしまいました。でもナアマンの家で働く女の子のように、エリシャのことをすぐには思い出さなかったのです。イスラエルの王のそばには、神の預言者エリシャがいました。そして彼は神さまの力をいただいてナアマンを助けることができるし、イスラエルの王も平和に過ごせるのです。 11月20日(火)列王下五9〜12  ナアマンは自分の病気が治ると思うととてもうれしかったでしょう。ところがエリシャではなくただ弟子が出てきて、ヨルダン川に体を7回しずめて洗うようにと言っただけでした。ナアマンは自分が想像していたようにエリシャがしてくれなかったのでとても腹が立って帰ろうとしました。自分はスリヤの偉い人なのだからもっとよくしてくれるはずなのにと。 11月21日(水)列王下,五13〜14  でもナアマンは帰りませんでした。家来の言葉を聞くと思い直して、川に入ってエリシャの言葉どおりにしたのです。すると病気が治り、それ以上に若い生き生きとした体になっていました。エリシャを通して語られた神さまの言葉がナアマンの病気をいやしたのでした。 11月22日(木)列王下五15〜17  ナアマンはエリシャにお礼を言いました。そして「私はイスラエルの神さまこそ本当の神さまだと知りました。これからはこのイスラエルの神さまだけを信じていきます」と言いました。ナアマンは体がいやされ、心も救われました。 11月23日(金)列王下五18〜19a  ナアマンはスリヤ王の家来です。王が信じる神に礼拝をするとき、ナアマンも一緒いて、王の体を支えなければいけません。そのためにスリヤの王が信じる神を拝むような形になってしまうかもしれません。「でも私の心は、イスラエルの神さま以外には拝んでいません」。ナアマンはイスラエルの神に自分のすべてをささげました。 11月24日(土)列王下五19b〜27  弟子のゲハジがエリシャに内緒でしたことを、エリシャは知っていました。神さまと預言者エリシャの前には何も隠すことはできないのです。ナアマンの贈り物を受け取ったゲハジは、ナアマンの病気まで受け取ることになりました。  神さまを信じ続けることが難しい時があるかもしれません。神さまがおられるならどうしてこんなことが起こるのかと思ったり、こんなめにあわないようにしてくれるのが神さまなんじゃないかと思ったり。そういう時は今週の箇所のヒゼキヤを思い出してみてください。やっぱり信じようと励まされると思いますよ。 11月25日(日)列王下十八1〜8  南ユダ王国のヒゼキヤ王は心から神さまを信じ、頼りました。国の中から偶像を取り除き、御言葉を守って歩んだので、ダビデのように神さまに喜ばれました。自分たちよりもずっと大きな国アッスリヤが強い力で攻めてきても神さまに信頼し、国を守ることができました。 11月26日(月)列王下十八9〜12  北イスラエル王国は神さまから離れ、偶像を信じ拝むようになっていました。そしてアッスリヤに攻め落とされ、国が滅んでしまいました。彼らが信じた偶像は国を守ることができませんでした。 11月27日(火)列王下十八13〜25  ところが神さまを信頼して歩んできたヒゼキヤと南ユダ王国でしたが、ついにアッスリヤが攻めてきて次々と町を攻め落とし、エルサレムにまで入ってきたのです。アッスリヤ王の家来ラブシャケが「エジプトに頼ったって、助けてもらえないよ。自分たちが来たのはお前たちが信じている神のゆるしによることだ」と言ってエルサレムの人々の心をゆさぶりました。 11月28日(水)列王下十八26〜37  「ヒゼキヤにだまされるな。主もおまえたちを救えない」。人々の心はゆれたでしょう。神さまとヒゼキヤを信じていいのかな。それともラブシャケの言うアッスリヤ王の言葉どおりにした方が助かるのかな。でも人々は神さまとヒゼキヤを信じて何も言いませんでした。 11月29日(木)列王下十九1〜19  ヒゼキヤは悔しい思いを神さまにぶつけてお祈りしました。もう絶体絶命です。でも彼の思いは神さまから離れませんでした。天地を造られた神さまがまことの神さまだし、自分たちを救ってくださると信じて祈りました。 11月30日(金)列王下十九20〜34  神さまの答えは「彼はこの町にこない。わたしはあなたがたを救う」でした。本当にこのまま神さまを信じて大丈夫かな、と私たちの信じる心がくじかれそうになることがあるかもしれません。でも神さまは信じる私たちを確かに救ってくださいます。 12月1日(土)列王下十九35〜37  神さまは主の使いによって一晩でアッスリヤの大軍を滅ぼされました。どんな神々が自分たちの手から救うことができたか、お前たちの信じている神もお前たちを救えない、と言ったアッスリヤの王は、エルサレムに攻めてくることはありませんでした。自分が滅ぼされてしまいました。  クリスマスが近づいてきました。ケーキやプレゼントが楽しみですね。私たちの国はどことも戦争をしていなし、国の中も平和が続いています。だからそういう楽しみを待ち望むことができます。平和って本当に大事なんです。 12月2日(日)ゼカリヤ九9  昔、戦争で勝った国の王様は、その国の中心の町に、軍馬に乗り大勢の兵隊を引き連れて大行進し入って行きました。。「これからは私がこの国の王だぞ」というしるしでした。ところがゼカリヤが預言した王様は「ろばの子」に乗っています。人や荷物を乗せても戦いには行かないろばは、平和の動物です。だからろばの子に乗って来る王も平和の王としてやって来るのです。 12月3日(月)ゼカリヤ九9  シオンやエルサレムはイスラエルのことです。そこに住む人々に喜びでいっぱいになる時がやってくると、ゼカリヤは預言しました。どんな喜びでしょう。平和の王がやって来ることです。争いがなくなります。そしてみんなの心も安心し、信じ合う心で穏やかになる、そういう平和です。 12月4日(火)ゼカリヤ九10   多くの人は武器をたくさん持っている方が安心だと思っています。だから世界の多くの国では戦争で負けないために武器がたくさんつくられています。本当は武器のいらない世界が1番安心、安全ですが、それが1番難しいのです。だから平和の王は戦いの馬には乗りません。そして武器をみんななくして本当の平和をつくるお方なのです。 12月5日(水)ゼカリヤ九10  ゼカリヤが預言した平和の王は、イスラエルだけの王ではありません。世界の国々に平和をつくる王としてやって来られます。そして私たちの心の平和の王としてやって来られます。 12月6日(木)マタ二十一1〜5  エルサレムに近い町で弟子たちはイエスさまのためにろばの子を用意しました。と言っても、もともと話はついていて、弟子たちがある家に行って「主がお入り用なのです」と言えば、子ろばが渡されるようになっていました。それに乗ってイエスさまがエルサレムに入るためです。ゼカリヤが預言した平和の王がイエスさまだからです。 12月7日(金)マタ二十一6〜9  子ろばに乗ってエルサレムへ入られるイエスさまを、みんなが喜んでお迎えしました。みんなは期待していました。自分たちを支配するローマ皇帝をやっつけてくれると。けれどもイエスさまは平和の王として十字架にかかるために子ろばに乗って来られました。 12月8日(土)ゼカリヤ九9〜10  死に打ち勝ってよみがえられたイエスさまは、信じる私たちの心に平和の王として住んでいます。イエスさま、不満でいっぱいの時も不安でいっぱいの時もどうぞ私の心を平和にしてください。  マタイによる福音書の始まりは人の名前ばかり書かれていて、ちょっと読みにくいところです。でもあるお友だちがここを読んだ時、「みんな、つながってるんだね」と言ったそうです。つながっていることがわかるとおもしろくなりますよ。 12月9日(日)マタイ一1  アブラハムからイスラエルは始まりました。彼は神さまから声をかけられて信じた人でした。アブラハムには最初子どもがいませんでしたが、100歳になってイサクが生まれました。そこから孫、ひ孫と子孫が増えていきました。そしてついにはイエスさままでつながっていきました。 12月10日(月)マタイ一2〜11  イスラエルの系図は男性の名前ばかりがのっています。けれどもイエスさまのお母さんのマリヤと、他4人の女の人の名前がのっています。どうしてなのでしょう。実はこの4人の女の人たちは、系図にのせるにはあまりふさわしくない人たちでした。 12月11日(火)マタイ一3   タマルは死んだ夫のお父さんをだまして、お父さんとの間に子どもを産みました。それは本当はしてはいけないことです。でもその生まれてきた子どもがイエスさまの先祖になりました。 12月12日(水)マタイ一4  イスラエルがいよいよカナンの地に入る時、最初に倒した町がエリコでした。そのエリコに住んでいたラハブはイスラエルの偵察隊の二人をかくまって彼らの命を助けました。だから家族と共に生かされて、イスラエル人と結婚したのです。彼女はもとはよくない仕事をしていた人でしたが、イエスさまの先祖になりました。 12月13日(木)マタイ一4  ルツはモアブ人で外国人です。でもイスラエル人と結婚し、夫が死んだ後も、夫のお母さんを大事にしました。イスラエルに帰ってきてお母さんのために働きイスラエル人とまた結婚しました。イスラエル人は外国人と結婚したり交わりをしたりすることはいけないこととされていました。でもルツはダビデ王のおばあちゃんに、そしてイエスさまの先祖になりました。 12月14日(金)マタイ6  「ウリヤの妻」はバテシバです。ダビデは、ウリヤと結婚しているバテシバと関係を持ちました。それをごまかすために戦争の激しいところでウリヤを死なせました。でも二人からソロモンが生まれ、イエスさまの先祖になりました。 12月15日(土)マタイ一12〜17  神の子イエスさまの系図は立派な人だけの方がふさわしいはずです。でも系図にのった人みんが立派ではありません。名前がのったわずかな女の人たちはもっとふさわしくありませんでした。けれどもこのような罪の世界に、罪のないイエスさまが人となって生まれてくださいました。ダビデの子孫から救い主が生まれるという約束どおりに。  マリヤはとても特別な体験をしました。天使によってあなたは神の子のお母さんになると言われたからです。「お言葉どおりにしてください」と受け入れましたが、きっとだれかに話したいし、聞いてほしかったでしょうね。 12月16日(日)ルカ一39〜40  マリヤのお腹の赤ちゃんは聖霊によって与えられました。そんな不思議な話を簡単に信じてくれる人はあまりいません。でもエリサベツはわかってくれます。エリサベツは年をとっていて、もう子どもを産めなくなっていましたが、彼女も神さまによって赤ちゃんを与えられたからです。だからマリヤは会いに行きました。 12月17日(月)ルカ一41〜44  エリサベツのお腹の赤ちゃんは、大人になってから、イエスさまのことを「このお方こそ神の子です」とみんなに知らせる働きをします。すでにエリサベツのお腹にいるときから、「マリヤのお腹の子は神の子だよ」と喜びおどって、エリサベツに知らせました。そういう不思議な体験はこの二人だからこそ喜びあえたのです。 12月18日(火)ルカ一45   エリサベツの喜びは何よりもマリヤが主の言葉を信じて、神の子のお母さんになったことでした。マリヤが主の言葉を信じなかったり、私は嫌ですと言って断ったりしたら、どうなっていたのでしょう。マリヤが信じたことは、神さまの計画の実現をお手伝いする人になったということです。それがエリサベツにはうれしかったのです。 12月19日(水)ルカ一46〜48  エリサベツに励まされたマリヤも「これでよかったんだ」とほっとしたことでしょう。そして神さまへの賛美がでてきたのです。「神さまは、人から低く見られても不思議のないような私を神さまの働きに使ってくださった。私はこれからずっと幸せ者といわれるでしょう」。 12月20日(木)ルカ一49〜50  「神さまは私になんてすごいことをしてくださったんだろう」とわかればわかるほど、神さまを賛美し、喜びの思いが出てきます。神さまのしてくださったことを「大きなこと」として喜び神さまを賛美する心が私たちにもいつも与えられますように。 12月21日(金)ルカ一51〜55  マリヤは自分が神の子のお母さんになったのは、神さまのあわれみによるのだと知っていました。だから神さまのあわれみは、忘れられているような人、注目されないような人たちにもちゃんと注がれていると賛美したのです。 12月22日(土)ルカ一56  妊娠したはじめの3ヶ月は、赤ちゃんがしっかりお腹の中で育つために、お母さんが心も体も安心して生活できる場所が必要です。結婚しないうちに赤ちゃんを宿したと、心無い言葉で傷つけられることのない良い場所を神さまはマリヤに与えてくださいました。  クリスマスおめでとうございます。クリスマスは私たちにとっては喜びのときです。でもクリスマスの始まりの時には、喜んだ人もいれば、不安になった人もいました。そして悲しい出来事も起こったのです。 12月23日(日)マタイ二1〜3  ユダヤ人は長い間、自分たちを救う王、救い主が生まれることを待っていました。でもユダヤ人の王が生まれたと外国人の博士たちから聞いた時、エルサレムのユダヤ人たちは喜びませんでした。むしろヘロデ王が自分の王座を守るために、ひどいことをするかもしれないし、自分たちの都合が悪くなるのではないかと不安になりました。 12月24日(月)マタイ二4〜6  ヘロデは救い主が生まれる場所を知るために学者たちを集めました。学者たちは聖書では、ベツレヘムに生まれることが預言されていると教えました。けれども学者たちも博士たちのように救い主に会いに行こうとはしませんでした。待っていたお方が来られたことを、外国人の博士たちのようには信じなかったのです。 12月25日(火)マタイ二7〜8  ヘロデは博士たちにベツレヘムへ行くようにと伝えました。そして「私も拝みに行きたい」と言いました。けれども本当に拝みにいくのではありません。自分の王座が奪われないために殺しにいくつもりなのです。 12月26日(水)マタイ二9〜12  彼らはイエスさまに会うと、ひれ伏して拝みました。ひれ伏して拝むことは、「あなたこそ私たちの王さまです。あなたに私たちは従います」という気持ちを表しています。宝物も、私たちのすべてをあなたにささげますというしるしでした。そしてヘロデのもとへは帰りませんでした。神さまがヘロデのもとへ帰るなと言われた言葉に従いました。 12月27日(木)マタイ二13〜15  神さまはヨセフにもエジプトへ逃げるようにと言われました。ヨセフはすぐに起きると夜のうちにマリヤとイエスさまを連れてエジプトへ行きました。こうしてまだ小さなイエスさまはヨセフとマリヤが神さまに従う生活によって守られて育ちました。 12月28日(金)マタイ二16〜18  ヘロデは救い主の情報を手に入れることができませんでした。そのため救い主がどの子かわからないので、ベツレヘムの2歳までの男の子をみんな殺したのです。ヘロデは自分を守るために、人を悲しませたり苦しめたりすることもどんなことでもしましたが、決して心が安心することはありませんでした。 12月29日(土)マタイ二19〜23  時がたってヘロデは死にました。天使のみ告げで、ヨセフたちはエジプトを出てイスラエルに戻りました。さらに御告げを受けてナザレに住みました。こうしてイエスさまはナザレ人として成長しいくのです。  いよいよ今年も終わります。この1年どんなことを心配したり悩んだりしましたか。心配で眠れなくなったり、学校に行きたくなかったり、お腹が痛くなったりすることもありますね。でも来年もきっと心配はなくならいでしょう。だからイエスさまの言葉をいつも思い出したいですね。 12月30日(日)マタイ六25  あの人は自分のことをどう思っているのかな。明日、もしこんなことになったらどうしよう。不安でいっぱいになって明日が来なければいいのに、と心配しすぎてしまうことがあるかもしれません。でもこの世に生まれさせてくださった神さまは、悩みや不安を乗り越えさせてくださいます。 12月31日(月)マタイ六26〜27  鳥をみたら、なんの悩みもなくて楽でいいなあ、なんて思いそうです。でももしかしたら、鳥にとって人間はもっといい生き物にみえているかもしれません。神さまからたくさんのいいものをいただいているからです。 1月1日(火)マタイ六28〜30   道端や野に生えている花は、人に引き抜かれて捨てられることがあります。反対に、だれにも目を止められることもなく、咲いて枯れて終わるものもありますが、その美しさは見られていてもいなくても変わりません。はかない命ですが、みんな神さまが面倒を見ているのです。まして私たちのことを神さまはそれ以上によくしてくださるのです。 1月2日(水)マタイ六31  思いわずらうなと言われても簡単には気持ちを変えらないものです。悩むなというのは、してはいけませんということではなくて、だから神さまに頼ろうということなのです。 1月3日(木)マタイ六32  神さまが私たちの必要をすべて知っておられるなら、いいことがあってもいやなことや困ったことはなくていいんじゃないのって思います。でも不思議と悲しいことや大変だったことがとても私たちを成長させてくれることがあるのです。必要を知っているなら、足りないことはないはずです。でも足りないということが私たちに必要なこともあるのです。そういうことをみんな神さまは知っていて、私たちの面倒をみてくださっています。 1月4日(金)マタイ33  悩みばかり見ているとどんどん抜け出られなくなります。だから目を神さまに向けてみましょう。たとえば礼拝をしたり、御言葉を読んだり、賛美をしたり、だれかに祈ってもらったり、話をきいてもらったりすることです。やがて神さまにゆだねてみようとなるからです。 1月5日(土)マタイ六34  先のことがわからない私たちにはどうすることもできないことがたくさんあります。だから不安も増えていきます。だから祈っていきましょう。「神さま、まず今日1日を助けてください」と。