新しい年度となりました。入学、進級おめでとうございます。これから始まる新しい生活を神さまが豊かに祝福してくださいますように。   さて、先週の後半と同じ聖書箇所ですが、今週もう一度エマオに向かう弟子たちとイエスさまとのやりとりをみてみましょう。 4月3日(日)ルカ二四13〜16  二人の目はさえぎられていました。だから一緒に歩いておられるのがイエスさまだとはわかりませでした。私たちもショックや悲しみ、思い込みや怒り、先走りや勘違いなど、何かに心が邪魔されて、目の前に見ていることを正しく見ることができなくなることがあるのです。 4月4日(月)ルカ二四17〜18  「何を話しているのですか」と尋ねられて立ち止まった二人の顔は「悲しそうな顔」でした。希望を失い、光が閉ざされて暗闇に落とされたような思いを抱えていたからです。しかし希望の光はすでに、彼らと一緒におられたのです。 4月5日(火)ルカ二四19〜24  イエスさまは確かに死んでしまったのに、生きていると報告する女たちと、確かに墓は空っぽだったということが、二人にはどうにもこうにもわけがわかりませんでした。 4月6日(水)ルカ二四25〜27  見知らぬ人は、「あなたがたは全然聖書のことがわかっていない」と言って、聖書全体に記されている救い主について教えてくれました。二人は心が鈍くて、目の前のイエスさまのこともわからなければ、聖書が言っていることもわかっていませんでした。でもわかっていなければ、何度でもイエスさまが教えてくださるのです。 4月7日(木)ルカ二四28〜29  夕暮れに二人は目的の場所に着きました。イエスさまはそれでも先へ進もうとされていて、一緒に泊まっていくようにと、彼らは強く引き止めました。日が暮れたら旅は危険です。しかしそれだけでなく、彼らはこの見知らぬ人からもっと教えてほしいほどに楽しかったのです。 4月8日(金)ルカ二四30〜32  夕ご飯の時でした。イエスさまがパンを取ってお祈りをし、裂いて分け与えてくれるのを見て、二人は「イエスさまだ!」と気づきました。それは食事の時いつもイエスさまがなさることでした。イエスさまの教える言葉と、イエスさまのなさる業とで、さえぎられた目が一気に開かれたのでした。 4月9日(土)ルカ二四33〜35  二人とも感じていたことは、旅の途中ずっとイエスさまが話す聖書の言葉で、心が燃やされていたことでした。暗闇が心をおおい、悲しい暗い顔にしかなれなかった彼らの心に、希望と喜びでわくわくし、やる気と力が出て来るような御言葉の力を感じたのです。彼らはすぐに立ち上がりエルサレムへ戻りました。  私は、結婚してこの六年間、夫があごひげを剃った時に気づけたのは三回ぐらいでした。なぜかあごひげがなくなったことに気づけないのです。顔を見ていても、です。何を見ているのでしょうね。弟子たちが信じなかったり、気づけなかったりしたことが人ごとではありませんね。 4月10日(日)ルカ二四33〜36  弟子たちはイエスさまの話でもちきりでした。すると彼らの真ん中にイエスさまがお立ちになりました。そして「安心しなさい」と言われました。イエスさまが私たちの中心に来てくださるので、どんな時も安心へ導かれます。 4月11日(月)ルカ二四37〜40  イエスさまを目の前に見ていてもなかなかみんなは信じることができませんでした。まさか幽霊では…。「わたしに触ってごらん」。彼らはイエスさまに触ることができました。幽霊ではないのです。よみがえられて、確かに生きておられたのです。 4月12日(火)ルカ二四41〜43  イエスさまは生きておられる。そう思うとうれしいのです。でもまだなんだかよくわからないのです。イエスさまはさらに焼いた魚を食べました。ちゃんと食べることができる体をもっておられました。夢だった、信じて損をした、とがっかりさせられることは決してありません。 4月13日(水)ルカ二四44  旧約聖書には救い主とはどんなお方か救い主について預言されています。それはイエスさまのことです。そして預言されていることはみんな実現していくのです。イエスさまは弟子たちと過ごした三年間、ずっとそのことを語られました。そして聖書の言葉は今も私たちの生活の中に実現しているのです。 4月14日(木)ルカ二四45  聖書の言葉がよくわかるようになるために、弟子たちはイエスさまに心を開かれました。私たちもただわからないだけでなく、集中できない時もあるし、自分の思い込みで聖書の言葉を読んだり、聞いたりしていることもあります。イエスさま、あなたの言葉がよくわかるように私の心を開いてください。 4月15日(金)ルカ二四46〜49  聖書の一番のメッセージは、救い主イエスさまは十字架の苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえったこと、そのことによって、信じる私たちに罪ゆるしが与えられることです。そしてそれを伝えていくことがエルサレムから、そこにいる弟子たちから始まったのです。 4月16日(土)ルカ二四50〜53  イエスさまは、弟子たちを離れて天にあげられました。イエスさまをもう目の前で見ることができなくなった弟子たちでしたが、イエスさまが生きておられることを知っていたので、心にある喜びはなくなりませんでした。  私は小学生の頃よく、「あなたは口から生まれたのね」と言われたほどおしゃべりな子でした。母親には「ちょっと耳休ませて」と言われていたほどです。だから今週の箇所の「聞くに早く、語るにおそく」という言葉は、いつも私に言われているんだなあと思わされていました。 4月17日(日)ヤコブ一19  早くするべきことは、人の話を聞くこと、ゆっくりするべきことは、話すことと、怒ること。でもつい話すことと、かっとなって怒ることが早くでてきて、話を聞くことが後回しになってしまう私たちです。言いたくなったり、怒りたくなったりしたら、深呼吸を一つしてみましょう。そして祈りたいものです。まずは聞けますようにと。 4月18日(月)ヤコブ一20  人に怒りを感じる時の多くは、相手が悪くて、自分が正しいと思っています。だから自分が怒るほどに相手のやり方が間違っているとか、悪いとか、変わるべきだと思っているのです。人を怒らせる人が悪いと。でも聖書は、たとえその人にとって正しい怒りであったとしても、怒りでは神さまの正しさを行ってはいないと言います。 4月19日(火)ヤコブ一21  植えると雑草が生えにくくなる植物があります。御言葉は、私たちの中に絶えず出てくる悪を取り除く力があります。御言葉を聞いて心にどんどん植え付けていきましょう。御言葉が働いて私たちをどんなところからも救ってくださいます。 4月20日(水)ヤコブ一22  御言葉の力がよくわかるのは、自分がその言葉の通りにしてみた時です。そして御言葉が生活の中で自分を助けてくださっているとわかったら、それは人が教えてくれるよりももっと自分のものとなります。 4月21日(木)ヤコブ一23  知識があっても、経験したことがないとわかっているようでいてわからないことがたくさんあります。「聖書にこう書いてあるよね」と知っているだけのところから、「やってみて本当だったよ」というところにいくのとではだいぶ違うのです。 4月22日(金)ヤコブ一24  自分の姿は鏡以外ではなかなか見ることはできません。録画して初めて癖ある歩き方や話し方などがわかります。自分の外側の姿を知っているようでわからないものです。御言葉も知っていてもその通りにやってみたことがないと、いいことはわかっているけれど、というところまでしか知らないのです。 4月23日(土)ヤコブ一25 心に、ある御言葉が思い出されるのは、それがきっと今の自分と関係があると感じられるからでしょう。その御言葉を無視しないで考え、「どうしたらいいですか」と祈りながら生活していると、御言葉にそって生きるようにされていきます。  みんなを平等にみるということは案外難しいものです。自分に優しくしてくれる人には、自分も優しくできるのですが、そうでない人には優しくなれないものです。誰かがひいきされていると嫌な気持になりますが、自分でも自分の都合や好み、気が合うからと、気づかないで人に対する態度を変えているのかもしれません。 4月24日(日)ヤコブ二1  私たちはどんな時に人を分け隔てしてしまうのでしょうか。見た目から。仲の良さ。また相手が恐い人だと言うことを聞くけど、そうでないと言うことを聞かないとか。あの人はいい人、悪い人とか。まずは自分が分け隔てをしている人がいないか、気づくことが大切です。 4月25日(月)ヤコブ二2〜4  ここまで人を差別したりしないよ、と思うかもしれません。でも、自分が受け入れられない人のことはいつも悪く見ていたり、ばかにしたりしていることはないでしょうか。反対に自分に賛成してくれる人のことはすべてが良いと受け入れているかもしれません。 4月26日(火)ヤコブ二5〜7  私たちは神さまによって、生きるための満足を与えられています。神さまからいただかなければやっていけない貧しい者たちです。すべては神さまからいただいていることを忘れてしまうと、人にケチをつけたり、人を偏ってみたり、分け隔てした態度をとってしまうのです。 4月27日(水)ヤコブ二8  私たちの心はとても狭く、神さまからいただかなくてもやっていけるような気になることまであります。でも神さまは私と誰かを分け隔てすることなく、愛を注ぎ続けてくださいます。この神さまの愛にいつも感謝するなら、人を分け隔てしない生き方へ導かれるのです。 4月28日(木)ヤコブ二9〜11  どんなに献金をたくさんささげたり、聖書をたくさん読んでいたり、お祈りをいつもし、人のために良いことをたくさんしてあげても、もし人を分け隔てしてしまうなら、神さまは喜ばれません。それが罪だからです。罪を悔い改めて、心を変えていただく必要があります。 4月29日(金)ヤコブ二12  私たちはつい人を分け隔てしてしまうような者です。でもイエスさまの十字架による救いに差別はありません。そしてどんなところにも救いの力は強く働いてくださいます。イエスさまに助けを求めるなら、私の人を偏ってみる心の目も、もっと違う目で見えるようにしてくださいます。 4月30日(土)ヤコブ二13 人への不満や批判が多いと、その人をさらに悪く見てしまいます。でもそれはもはや私の心が偏っているのです。神さま、どうぞあなたのあわれみでゆるされている私が、人のことをさばくのではなく、愛することができますように。  私たちの心の中には、マンガに出てくるような良い天使と悪い天使がいるかのようです。悪い方が自分をそそのかします。でも良い方がそれはだめなんじゃないの、とストップをかけます。まるでその二人が言い合いをしているかのように、私たちの心の中には闘いが起るものです。 5月1日(日)ヤコブ四1〜2  欲しいものがみんな手に入ったらいいのにと思いますが、すべて思い通りにはならないものです。だから気をつけないと何がなんでも手にいれようとする思いが強くなって人を傷つけてしまかもしれません。だから欲しい時いつでも神さまに祈り求めなさいと言われました。 5月2日(月)ヤコブ四3〜4  私の思い通りにかなえてくれることをお祈りして、それをかなえてくれない神さまは神さまじゃない、と私たちは思いがちです。でも私たちが信じている神さまは、ロボットや召使いではありません。かなえられない祈りにも神さまからのメッセージがみえてくるものです。 5月3日(火)ヤコブ四5  兄弟のだれかが親に甘えていると、すごくねたましくなって甘えたくなったことはありますか。私だけをみてほしいと。神さまも私たちが神さま以外を神さまのようにして頼ることをがっかりされます。私たちをねたむほど強く愛してくださっているので、神さまに求めてくる者に最もよいものをくださるのです。 5月4日(水)ヤコブ四6  私たちはすぐ傲慢になります。傲慢とは、神さまより私の方が正しいと思うことです。神さまだったらこうしてくれるはず、こんなこと起らないようにしてくれるはずと、私のイメージ通りの神さまにしようとすることです。そのままではどんなに注がれている神さまからの恵みも受けとることができません。 5月5日(木)ヤコブ四7  神さまの方が正しいのに、悪魔の言いなりになってしまいそうな弱い私たちです。悪魔はいつも私たちの願いを「いいよ」と言い、「思い通りにしたらいいのに」とささやきます。そうやってうまく私たちを悪魔の計画にのせようとします。悪魔の強いさそいに立ち向かう力は、神さまに従うことです。 5月6日(金)ヤコブ四8〜9  神さまに近づく一番の方法は、お祈りすることです。なんでも祈ってみましょう。特に罪の悔い改めは、「ゆるされた」ことがよくわかると、神さまと自分が本当に近いことがわかるようになるのです。 5月7日(土)ヤコブ四10 神さまの前に「私は小さく、弱い者です」と認めるなら、へりくだったものとして、神さまが高くしてくださいます。高くされるとは、人を上から見下せるようになるのではなく、神さまのすばらしさが、私を通して人に表されるようになることです。  イスラエルは長い間外国に支配されてきました。イエスさまの時代はローマ帝国の一部でした。だからイスラエルの人々はイスラエル国として自分たちの国を建て直したいというのが長い間の望みでした。しかし神さまの計画されている新しいイスラエル、神の国は、人が思うのとは違った形でやってくるのです。 5月8日(日)使徒一6〜7  「イエスさまが十字架の死からよみがえられた。今こそ、イスラエルの国がローマの支配から出る時だ」と弟子たちは考えました。けれどもイエスさまは「今だよ」と言われませんでした。私たちが「今しかない」と思っても、神さまが考えておられる「今」には別の時があるのです。 5月9日(月)使徒一8  弟子たちは、イエスさまが今までのように前に立って自分たちをリードしてくれると思いました。しかしイエスさまは、「聖霊」が弟子たちに与えられて彼らが力を受け、エルサレムから地の果てにまで、弟子たちが出かけて行って、イエスさまのことを「救い主」として伝える人になると言われました。 5月10日(火)使徒一9  イエスさまは弟子たちの見ている前で天にあげられて行き、姿が見えなくなりました。よみがえられたイエスさまは今までのように、目に見える姿で弟子たちのそばにはおられなくなりました。でも、それは共におられないということではありません。目に見えなくても弟子たちと共におられ、今も生きて私たちと共にいてくださいます。 5月11日(水)使徒一10〜11  いつまでも天を見つめて立っている弟子たちの前に天使が現れました。そしてイエスさまがまた「おいでになる」と言いました。イエスさまはもう一度おいでになるのです。そのことを、イエスさまを信じる私たちは今も期待して待っています。 5月12日(木)使徒一12  イエスさまが天にあげられたのはオリブ山でした。オリブ山はいつもイエスさまが祈りの場所として弟子たちと登っていた山です。彼らはそこをおりてエルサレムへ帰っていきました。イエスさまを目では見ることはないけれども、信じて歩む新しい生活が始まったのです。 5月13日(金)使徒一13  十一人の弟子たちは、イエスさまが十字架にかかる前の夜、一緒に食事をした家の二階に戻りました。今彼らのすることは、ひたすらお祈りをしてイエスさまが言われたように約束された聖霊を待ち望むことでした。 5月14日(土)使徒一14  11人の弟子たちには他にも仲間がいました。女の人もいました。みんなは共に心を合わせて、祈りました。約束された聖霊は、特別な人だけに与えられるものではなく、祈り求めるすべての人に与えられるからです。  教会にも誕生日があります。それはペンテコステの日です。クリスマス、イースターとともに、教会でお祝いをする大切な日なのです。 5月15日(日)使徒二1〜4  ユダヤ教のペンテコステの祭の日、それは突然起りました。激しい風のような音がして、舌のようなものが炎のようにわかれて一人一人の上にとどまりました。約束の聖霊が弟子たちの上にくだったのです。すると弟子たちは全く知らない国の言葉で話し始めました。聖霊は彼らがもともと持っていなかった新たな力を与えたのです。 5月16日(月)使徒二5〜8  この不思議な出来事の物音は外にも響いたようです。建物に野次馬が集まりました。野次馬の多くは、外国生れのユダヤ人でした。だから彼らの生れ故郷の言葉は外国語です。すると、彼らの知っている生れ故郷の言葉が聞こえてきたのです。驚いたことに、それを話しているのは、イエスさまの弟子たちでした。 5月17日(火)使徒二9〜11  聖書によると、その場所には本当にいろいろな国の人がいました。その誰もがわかるそれぞれの言葉を弟子たちが使って、神さまの大きな働きを語っていました。イエスさまが約束されたように、聖霊の力を受けてイエスさまが救い主だと伝える働きが始まったのです。 5月18日(水)使徒二12〜13  これはいったいどうしたことか。理由を知らない人々は驚くばかりでした。しかし人によっては、酒に酔っているのだとあざ笑いました。この不思議な出来事が神さまの働きであることをすぐには理解できなかったのです。神さまの働きを酔っていると思ってばかにしてしまうとは残念なことですが、物事を曲げてみてしまう心が私たちの中にはあるものです。 5月19日(木)使徒二14〜18  ペテロたちは立ち上がり、自分たちがなぜこうなっているのかを話し始めました。「私たちは酒に酔っていない。」「これは預言されていた、神の霊が男にも女にも、若者にも老人にも、みんなに与えられると言われていたことが起ったことなのです。」聖霊がペテロたちを力強く語らせて用いました。 5月20日(金)使徒二17〜21  ペテロたちが聖霊を受けた時は「終わりの時」だと記されています。終わりの時とはどういうことでしょう。ペテロたちの時代から今の私たちまでずっと終わりの時を生かされています。それはイエスさまを信じ呼び求めるなら救われる時ということです。 5月21日(土)使徒二22〜24  「あなたがたが十字架で殺したイエスは、神さまによって死からよみがえられた。これは神の計画だった。」心突き刺される言葉に、この後多くの人が悔い改めてイエスさまを信じ洗礼を受けました。ここから教会が誕生しました。  自分の生活に夢を持つことのできない人がいました。その人が持てる希望は、自分をみてかわいそうに思った人が、今日食べていけるためのお金をわけてくれることでした。まさかそんな自分の生活がすっかり変わってしまうとは思いもしなかったことでしょう。 5月22日(日)使徒三1〜3  足の不自由だった男の人は、神殿の門に座って、誰にでもするように、ペテロとヨハネにもお金の施しをお願いしました。まさかこの出会いが自分の生活を全く変えてしまうとは思いもしないことでした。でもこの人が二人に声をかける前から、神さまはこの人を救おうとされていたのです。 5月23日(月)使徒三4〜8  ペテロの「キリストに名によって歩きなさい」という一言が、この人を立たせました。それはお金や高価なものをもらうことよりもこの人にとって最高の施しでした。キリストの名によって命じられたことは、その通りになる力があるのです。必要なことはそれを信じることです。 5月24日(火)使徒三9〜10  この足の不自由な人のことは、神殿に来る多くの人が知っていました。だから彼が歩いたり踊ったりして、神さまを賛美しているのをみてびっくりしたのです。しかし「何とすばらしいことが起ったんだろう」と素直に喜べなかったようです。   神さま、どうぞ私たちがあなたの業を見たならば、すなおに喜べるものとしてください。 5月25日(水)使徒三11〜12  この出来事に驚いた多くの人がペテロとヨハネのそばに集まってきました。人々はみんなペテロとヨハネに不思議な力があって、足の不自由な人をなおせたのだと思ったのです。だからこれが神さまのすばらしい働きであることをちゃんと伝える必要がありました。 5月26日(木)使徒三13〜16  ペテロは「あなたがたがいのちの君を殺してしまった」とイエスさまの十字架のことを話しました。「しかしイエスさまは死からよみがえられた。このイエスさまを信じ頼ったので、イエスさまがあの人の足をいやしたのだ」。十字架という取り返しのつかないことがひっくり返されて、足の不自由な人をいやすようなすべての人の希望となりました。 5月27日(金)使徒三17〜18  イエスさまの十字架は、みんな、それがとんでもない間違いだとは知らないでしたことでした。それも神さまの昔から計画されたことでもあって、その通りになったのです。 5月28日(土)使徒三19〜20  ペテロの言葉は聞いた人々の心にショックを与えたでしょう。自分たちは取り返しのつかないことをしたと。でも気づくことが大事です。気づいたら悔い改めればいいのです。心からの悔い改めは、私たちの歩みを変える力となります。  神さまの目覚ましい働きを弟子たちがすることによって、今度は弟子たちの身が厳しくとがめられて行くようになります。けれども、聖霊に満たされた弟子たちは、もう逃げたり、イエスさまから離れたりすることはありませんでした。 5月29日(日)使徒四1〜4  ペテロとヨハネがイエスさまの復活を宣伝していることが気にくわない人たちがいました。ユダヤ教の先生たちです。彼らは二人をとらえて、牢屋に朝までいれてしまいました。けれども、二人の話を聞いた多くの人たちがイエスさまを信じました。イエスさまを信じる思いを止めることはできなかったのです。 5月30日(月)使徒四5〜7  ペテロたちを尋問した人たちは、イエスさまを十字架にかけるため裁判をした人たちです。だから彼らはペテロたちの話していることが受け入れられませんし、すぐにやめさせたいのです。自分たちが間違っていたと言われたくないし、認めたくないからです。 5月31日(火)使徒四8〜12  聖霊に満たされたペテロの言葉には力がありました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスさまは、よみがえられた。聖書にある、いらないと思って捨てられた石が、ある場所にしかはまらない大事な石であったとはイエスさまのことだ。イエスさま以外に救いを与えてくださるお方はいない。そしてイエスさまの名がこの人を歩けるようにしたのだ。」 6月1日(水)使徒四13〜14  先生として教えるような勉強をしていない二人が、まるで指導者のように教えることができ、足の不自由だった人がいやされている。どうして彼らのような人にそんなことができたのか。みんな不思議でたまりません。でもその謎を解く鍵は、彼らがイエスさまと共にいた弟子であるということです。 6月2日(木)使徒四15〜17  ユダヤ教の指導者たちは、ペテロとヨハネの活動を脅してやめさせようとしました。人は自分が強い位置にいると思っていると、自分より弱いと思う人を脅して、その心を支配しようとする罪をもっています。 6月3日(金)使徒四18〜22  でも二人は脅しの言葉を恐れず、「私たちは人の言葉ではなく、神の言葉に従います」と答えました。ペテロとヨハネは聖霊を受けて、心にはイエスさまが住んでおられたので、彼らの心は強くされていました。 6月4日(土)使徒四23〜31  ペテロとヨハネの弟子仲間たちは二人の報告を聞きました。脅されたと聞いたら、不安になり、心が萎えて縮こまってしまいそうです。けれども彼らは祈りました。祈りの後、彼らはみんな聖霊に満たされて、大胆に語り出しました。聖霊によって、イエスさまに心から信頼するようにされていたのです。  最初の教会は、イエスさまのことを伝えてはいけないと言われるようになり、脅されもしました。しかしそれにも関わらず、イエスさまを信じる新しいメンバーがどんどん増えて成長していきました。すると教会の中に問題が起ったのです。 6月5日(日)使徒六1  最初の教会に差別問題が起りました。イエスさまを信じている者同士でも問題はあります。問題があることが悪いと思うより、問題が起った時、ちゃんと問題に取り組んで、どうしらたらいいですかと、いつも神さまに聞きながらしていくことが大切です。 6月6日(月)使徒六2〜4  ペテロたち十二使徒は、弟子全員でこの問題を考えるため、みんなを集めました。そしてみんなに平等に配給するための専門の奉仕者をたてることにしたのです。「御霊と知恵とに満ちた評判のよい七人」を選び、その人たちに任せることにしました。使徒たちがすべてをするのではなく、役割を分担していくことによって、さらにお互いの声を聞き、支え合えるようにしました。 6月7日(火)使徒六5〜6  選ばれた七人の人々は、使徒たちに手を置いて祈られて、正式に配給の奉仕をする人にたてられました。教会はいろいろな人たちの様々な奉仕によって支えられ、神さまの働きに用いていただいています。 6月8日(水)使徒六7  最初の教会には、外からイエスさまを伝えるなと圧力がかかり、中にも問題が起りました。しかしそれらを乗り越えて教会はさらに成長していきました。そして祭司の中にもイエスさまを信じる人が起されたのです。神さまはすべてのことを用いて働きを広めていかれるお方です。 6月9日(木)使徒六8〜11  ステパノは、信仰と聖霊の力によって、神さまの奇跡を次々と行いました。また彼の知恵深さに太刀打ちできる人はいませんでした。そこで彼を妬んだ人々が、ステパノを陥れようと嘘そのうわさを流したのです。まるでイエスさまの時と同じです。妬んでしまう心を私たちはいつも警戒しないと、妬んだ相手より、悪魔に負けてしまうのです。 6月10日(金)使徒六12〜14  ステパノを妬む人々はさらに、ステパノを裁判にかけさせました。ステパノが、神さまのことをばかにした、神さまの言葉に逆らうことをしたと、偽の証人をたてて次々と言わせ、ステパノが悪い人だと思わせようとしました。妬みはとことん人を悪くしようとし、自分たちを良い人にしようとしてしまうのです。 6月11日(土)使徒六15  自分がどんどん厳しい立場においやられているのに、ステパノの顔は「ちょうど天使の顔のように見え」たのです。自分を陥れようとする人々への怒りや恐れはなく、神さまを全く信頼して穏やかでした。   「この人は神さまをばかにした悪い人」そう訴えられたステパノは、イスラエルの歴史を振り返りながら人々に長いメッセージを語りました。それは、本当に神さまを頼ることへ人々の心を向けようとするためでした。 6月12日(日)使徒七1〜8  イスラエルの始まりはアブラハムです。アブラハムは神さまの言葉を信じて、神さまの示す地に行きました。しかしその土地は一歩の幅も与えられませんでした。彼に与えられたのは、彼とその時まだ生まれていなかった子孫にこの地を与えるという約束でした。それでもアブラハムは信じて神の民となりました。 6月13日(月)使徒七9〜16  兄弟に妬まれたヨセフはエジプトに売られました。奴隷となったヨセフでしたが神さまは彼と共にいてあらゆる苦難から彼を救い出し、ついにはエジプト王のパロのもとで宰相となりました。それは大飢饉から家族を救うための神さまの計画でした。一族はエジプトへ非難し、そこで神さまの恵みを受けました。 6月14日(火)使徒七17〜29  やがてイスラエルがエジプトの中で増えると奴隷にされてしまいました。その頃生れたモーセは、神さまによってエジプト王の娘に育てられました。勉強もでき、力のある人になりました。しかし彼がイスラエルを助けたいと思った時には、彼は用いられませんでした。 6月15日(水)使徒七30〜38  モーセがエジプトを出て四十年後、シナイ山でモーセは神さまと出会いました。イスラエルを助けたいと思った時には、用いられなかったモーセが、今度は神さまによってイスラエルを助け出す人とされました。モーセがリーダーとなってイスラエルをエジプトから脱出させ、神さまの言葉を人々に伝え、荒野の旅を導きました。 6月15日(木)使徒七39〜43  しかしイスラエルの人々は、神さまとモーセが信じられなくなり、目に見える金の子牛の偶像を造ってそれを拝みました。神さまは、そのように背く人々を、外国に攻め滅ぼさせ、外国へ連れて行かれると言われました。いつも私たちには、見えない神さまより、見えるものの方を信じたくなる誘惑があります。 6月17日(金)使徒七44〜53  見えない神さまを礼拝する場所としてモーセは幕屋を造りました。それが後に神殿となりました。けれどもどちらも神さまをおさめきれません。しかし人の心は、見える建物がいつの間にか偶像になってしまい、神さまの言葉に背いてしまったのです。 6月18日(土)使徒七54〜60  ステパノは殺されてしまいます。けれども彼はイエスさまのように、彼を殺す人々を思い、「彼らをおゆるしください」と祈りながら息を引き取りました。  今神さまは私にこのことをするように言われていると感じたことが何度かありました。でもそれを実行できなかったことが何度もありました。そのことで心がひっかかって後悔したことがありました。最近は、そう思った時、神さまが私に今いわれているんだと思ってすぐにそれをするように努力しています。 6月19日(日)使徒八26〜28  サマリヤでピリポの伝道が成功し、大勢の人が救われました。しかし神さまはピリポをサマリヤに留まらせないで、ガザに行くように言われました。ピリポはサマリヤを離れることを嫌がらないですぐにガザに向かいました。確かにそこにもピリポを必要としている人がいたのです。 6月20日(月)使徒八29〜31  聖霊に導かれてピリポはイザヤ書を読んでいる人と出会いました。その人は読んでも意味がわからないので、馬車に一緒に乗って聖書を教えてほしいと頼んだのです。見ず知らずのピリポでしたが、その人の心は、聖書の話を聞くための用意ができていました。この人のためにピリポは呼ばれたのでした。 6月21日(火)使徒八32〜35  エチオピアの宦官はイザヤ書五三章に書かれている人が誰のことかわかりませんでした。そこでピリポは、殺される場所へひかれて行く羊のように黙々と十字架へ向かわれたイエスさまのことで、イエスさまの十字架と復活こそ、私たちを救うことを語りました。 6月22日(水)使徒八32〜35  宦官は女王のそばで働く地位の高い人ですが、男性の性器を取って子どもを残すことのできない人でもありました。だから33節の言葉と自分とが重なり合って、この言葉にとても心が引かれたのでしょう。聖書の言葉はそのようにして私たちの生活と深く関係して語りかけてきます。 6月23日(木)使徒八36〜38   宦官はイエスさまを神の子救い主として信じますと告白しました。そして二人は車を降りて水の中に入り、ピリポによって宦官に洗礼が授けられました。こうしてエチオピア人からもイエスさまの弟子が誕生しました。 6月24日(金)使徒八39  水から上がると、すぐに聖霊によってピリポは取り去られました。宦官は一人残されました。しかし彼の心にはイエスさまが住んでおられ、聖霊が導いていたので、心に喜びを持ちながら旅を続けることができました。 6月25日(土)使徒八40  ピリポの伝道旅行は続きます。町々をめぐりカイザリヤまでイエスさまを伝え続けました。彼は神さまの言われるままに進んだのです。   どうぞ私たちが聖霊の導きを感じたら、そのように実行できるよう助けてください。誰かの救いのために用いてください。  あの人は到底イエスさまを信じることはないだろう、そう思っていた人が信じたらこれはもう奇跡です。こんなうれしいことはありません。でもそもそも私もあなたもイエスさまを信じたのは神さまの奇跡の業なのです。 6月26日(日)使徒八1〜2  サウロは到底イエスさまを信じるような人ではありませんでした。彼はステパノを殺すことに賛成していたし、その場面を見ていました。そしてこの時もイエスさまを信じる者たちをとらえるために先頭に立ってダマスコへ向かっていました。しかし、彼の方が神さまにとらえられてしまうのです。 6月27日(月)使徒九3〜6  ダマスコへ向かう途中、突然のあまりにまぶしい天からの光によって、彼は地に倒れました。そして自分が決して信じることはないと思っていたイエスさまの声を聞いたのです。今まで嘘だと思ってきたイエスさまとのまさかの出会いでした。イエスさまはそれぞれと出会ってくださいます。 6月28日(火)使徒九7〜9  サウロは目が見えなくなっていました。ダマスコでの三日間、食べも飲みもしませんでした。どんなにショックだったでしょう。神さまに従っていると思ってやってきたことが、神さまに背くことをし、多くの人を苦しめ、また殺すことすら賛成してきたのです。そんな彼を救うことができるのはイエスさまだけなのです。 6月29日(水)使徒九10〜16  神さまはアナニヤに、サウロのために手を置いて祈ってあげるようにと言われました。しかしアナニヤはとても抵抗を感じました。サウロのしてきたことがあまりにもひどかったからです。でも神さまは、そのようなサウロをイエスさまのために働く人として選ばれました。 6月30日(木)使徒九17   アナニヤは神さまの言葉に従いました。それもサウロのために祈る時「兄弟サウロ」と呼びかけて祈り、サウロを受け入れました。サウロは、自分のために祈ってくれたアナニヤのように、ゆるし受け入れてくれる、イエスさまを信じる者たちによって新しい人生を歩み始めることができたのです。 7月1日(金)使徒九18〜19  「目からうろこが落ちる」ということわざは、このサウロの体験からきています。サウロがアナニヤに祈ってもらうと、目をさえぎっていたうろこのようなものが落ちて、見えるようになりました。イエスさまに対してさえぎられていた心の目も開かれ、彼は洗礼を受けました。 7月2日(土)使徒八19〜22  熱心にイエスさまに反対してきたサウロが、今度は熱心にイエスさまこそ神の子キリストだと説き始め、多くの人が驚きました。今強く私たちに反対する人があっても、イエスさまに救われるようにあきらめないで祈り続けたいですね。