子どもの頃よくしかられた言葉に「返事ばかりいい」というのがありました。言われたら「はい」と言うのですが、言われたことをやらないわけです。でも返事をしないわけにもいきません。だから「じゃあ、なんて返事すればいいんだろう?」と心の中でへ理屈をつぶやいたものでした。言われたことをやるって難しいものですね。 7月5日(日)ルカ六46  「主よ、どうしたらいいですか」と叫び助けを求め、こたえをくださいとイエスさまに尋ねるのに、もしそのこたえが、気に入らないからと受けとらなかったらどうなるのでしょうか。言われた通りにしたくないと無視したら、助けやこたえを捨てることになるのです。 7月6日(月)ルカ六47~48  建物には土台が必要です。地面を深く掘って、固いところに土台を持った建物は、大きな揺れや嵐、ある程度の洪水にも耐えやすいのです。同じように、私にはどうしようもないからイエスさまの言う通りにしてみようと、お言葉を聞いてそれを生活の中でやってみると、私たちの心の土台ができていくのです。 7月7日(火)ルカ六47~48  でも言われた通りになかなかできないのが私たちです。そうしたらいいのはわかるけど、できない、したくないと。すんなりできなくてもいいのです。心にひっかかっている御言葉を、やってみたり、うまくいかなかったり、無視したり。そうしながらもある時、こういうことなんだと分かることがあるからです。 7月8日(水)ルカ六47~48   「地を深く掘る」ことは、失敗したり成功したり、納得したり、後悔したり、感謝したり、悔い改めたり、信じたり、信じられなかったりと、いろいろなことを経験して行くことが必要です。そうしていくうちに、自分が学んでいって、従う力になっていくのです。 7月9日(木)ルカ六47~48  イエスさまの言葉を聞いても行っていないなあと思うことはあるでしょう。できていないなあと思うこともよくでてくるでしょう。でも大事なことは、今できたか、できていないかということに目を止めすぎるより、とにかく御言葉を聞き続けることです。 7月10日(金)ルカ六47~48   御言葉を聞き続け、従う力をくださいと祈っていくなら、神さまがその道をひらいて、させてくださいます。聞き続けていると、ある時やってみようと思い、聖霊にうながされて、行うことを助けていただけます。 7月11日(土)ルカ六49   「倒れてしまう」ことは従わなかった罰ということではありません。しかし御言葉を聞いて、従うことをチャレンジしたり、考えたりしていかないと、イエスさまを信じ続けることが難しくなって、心がイエスさまから離れてしまうのです。  やられたらやりかえしたい。それがわたしたちです。どれだけこっちが痛かったか、嫌だったか、傷ついたか、やった相手にも同じ思いを味わうようにさせたい。わからせたい。そう思ってしまいます。でもイエスさまの言うことは全く反対です。なんとも驚く言葉です。 7月12日(日)ルカ六27  敵だと思う人はいますか。憎い人はいますか。心を踏みにじられる時、到底ゆるせないでしょう。いじめやいやがらせはやめさせなければならないことです。しかし相手を敵として仕返しをするなら、今度は自分が相手の敵になるだけです。自分の傷ついた心を癒せるのは、仕返しではなく、イエスさまだけです。 7月13日(月)ルカ六28~30  心がいつも暗くなるような傷を受けると、自分に自信がもてなくて、なんとなく生きるのが辛くなります。ばかにされたり、大切にされていないと感じたりすると、人に優しくできなくなることもあります。だから自分を苦しめる相手を呪い、悪者にしたいと思うのです。でも、むしろその人が祝福されますようにとお祈りをしなさいとイエスさまは言われました。 7月14日(火)ルカ六31  私たちは誰もが、この私を愛してほしい、受け入れてほしい、そしてゆるしてほしいと思っています。たとえ立派でなくてもだめなところが一杯あっても。だとしたら、私たちも人に対してそうしたいものです。イエスさま、私に人を愛する心、受け入れる心、ゆるす心を与えてください。  7月15日(水)ルカ六32~35  大好きな人には優しくできますが、そうでない人にはそうしたくないことがあります。でもイエスさまは人からのお返しをあてにしないで、苦手な人にも自分のできる良いことをしてあげなさいと言われました。するとますます神の子として自分が愛されていることがよくわかり、心が満たされるのです。 7月16日(木)ルカ六36   神さまに愛されていることがわかると、それが深い喜びになって、神さまにお返しをしたくなります。うれしくて私も人を大事にしたくなります。でも私にその愛がないこともわかるのです。だから人の気持ちを本当に考えていけるように神さまの助けが必要なのです。 7月17日(金)ルカ六37   人のことは悪いと責めるくせに自分が同じことをしても、「まあいっか」と甘くなる私たちです。イエスさまが私のために十字架で死んでゆるしてくださったことをいつも思い出したいものです。 7月18日(土)ルカ六38   自分が損しないようにとケチになると、自分がすごく恥ずかしいと気づきます。でも損得よりもイエスさまと誰かが喜んでくれたらいいとできることをするなら、実は自分も幸せな気持ちになるのです。  私たちは目で世界を見ますが、心の目でも見ています。立派な人にはさすがだなという目で、失敗の多い人にはそういう人という目で見ることがあります。すると、私の心が思い込みで見てしまい、正しく見ていないことも起こります。心の目が曇らないよう、また曇ったらなら気づくにはどうしたらいいのでしょうか。 7月19日(日)ルカ六39  ここでの盲人とは心の目が見えていない人のことです。私たちは偏った心で見ると、良いものを良いと見ないで、悪いと思ってしまいます。そうするとそのような心の目では正しく物事を見ていないので、人にも間違ったことを伝えたり教えたりしてしまうのです。 7月20日(月)ルカ六40  私たちの心は、偏ってものを見てしまうことがあります。私たちの心の目をよく見えるようにしてくださるのは、イエスさまの言葉を聞いていくことです。私たちはイエスさまの弟子としてイエスさまにならい続けると、イエスさまのようにものを見るよう導かれ、イエスさまに似たものとされるのです。 7月21日(火)ルカ六41  梁というのは、家を支える柱のことですが、それほど大きなものが目に入っているのに気づかないなんて、私たちはなんと鈍感なのでしょう。でも私たちは、誰かのしている小さな気に入らないことは、いちいち気がついてとがめたくなるのです。自分が間違っていたり、悪かったりしても認めることが実は難しい私たちなのです。 7月22日(水)ルカ六42  大きな梁が私の目にあったからよく見えていなかったのです。どうやってそれは取れるのでしょうか。まず自分の罪を知ることです。そうしたら、イエスさまが私のために死んでくださったことがどんなにありがたいことかわかり、梁がとれた目で世界を見させていただけます。 7月23日(木)ルカ六43~45  心の中がうれしいことや楽しかったことでいっぱいだと、自然と笑顔が出てきます。でも不安や悲しみ、怒りや憎しみがあれば、自然と人に対して文句ばかりで嫌な態度をとってしまうことがあります。もしイエスさまの愛で一杯だったら、いただいた愛を分けることができます。 7月24日(金)ヨハネ八1~9  自分が正しいと思っていると、人のことを堂々と責められます。でも「罪のない者が、まずその人を罰しなさい」と言われたら、私たちは誰も何も言えません。本当に正しく罪を悪いとし、私たちを正すことができるのはイエスさまだけです。 7月25日(土)ヨハネ八10~11  イエスさまは「わたしもあなたを罰しない」と言われました。イエスさまに罪があったから、罰することができなかったのではありません。イエスさまの十字架は、この人の罪のゆるしのためでもあったからです。  いよいよ夏休みですね。夏休みと言えば宿題が多いですね。私は休み初日の決意を実行できたためしはなく、最後の一週間に必死でやる、そんなとほほな小中高生活でした。なにはともあれ、長い休みを楽しんでください。教会学校のキャンプや楽しい企画にもぜひ参加してくださいね。 7月26日(日)ルカ一二1  偽善者とは良い人のふりをして、心では思っていないことをやる人のことです。そう言われたら心にぐさりと突き刺さる厳しい言葉です。パリサイ人たちは神さまを信じ従う生活においては誰よりも立派な人でした。でも本当は人に誉められるため、立派だねと言われたいためで、そういう生き方に気をつけなさいとイエスさまは言われました。 7月27日(月)ルカ一二2~3  絶対に誰にも言わない、という約束で好きな人を教えたら、翌日にはクラス中が知っていたなんてことがあるでしょう。秘密を守ることが難しいのが私たちです。ましてや神さまにはご存じないことはありません。本当のことや隠れた悪は隠れたままにならないのです。 7月28日(火)ルカ一二4~5  私たちにとって誰かに見捨てられることはとても恐ろしいことです。でも本当に恐ろしいのは神さまに見捨てられることです。もう救いがないからです。でも私たちを友と呼んでくださるイエスさまが、十字架にかかって私たちの罪のために死んで神さまから見捨てられなくていいようにしてくださいました。だから神さまを信じる生活は、恐れる必要のない恐れから助けてもらえます。 7月29日(水)ルカ一二6~7  お店で売られているすずめを気にかける人はそういません。でもどんなすずめも忘れない神さまは、世界中のたくさんの人を一人も忘れていないのです。神さまは私たち一人一人を愛し、髪の毛の数さえもよく知っていて、私たちの面倒をみてくださいます。 7月30日(木)ルカ一二8~9  イエスさまを信じていると友だちに言うのは勇気がいるかもしれません。家族に反対されることもあるかもしれません。でもイエスさまが共にいてくださり、支えてくださいます。 7月31日(金)ルカ一二10  神さまがしてくださっていることを、自分の思い通りじゃなくて気に入らない、そんなのいらないと言ってしまう頑固さを私たちはもっています。それはせっかくの自分を救う道を、いらないと捨てることになるのです。 8月1日(土)ルカ一二11~12  イエスさまを信じているからともしばかにされたり、苦しめられたりしたらどうしましょう。こわいですね。でも神さまがそういう時、どんなことを言ったらいいのかを教えて、守ってくださるので心配しなくていいのです。  友だちが持っているものを自分も欲しくなることがあります。あの人はあんなにいっぱいあっていいなあとうらやましくなることがあります。おかしを一つ買ってあげると言われても、あれもこれも欲しくなるのが私たちです。満足するってむずかしいですね。 8月2日(日)ルカ十二13~14  兄弟に財産の分け前をもらえないから助けてくださいと、イエスさまがお願いされました。この時代、こういうことで助けを求めてくるのは、イエスさまがとても尊敬されていたからです。でもイエスさまの答えはまるで冷たく聞こえます。それは財産を分けてもらえなくても心が満たされて生きていける道があることを示すためでした。 8月3日(月)ルカ十二15  貪欲とは、あれがあればこれができればと自分の欲しいものが次々と出てきて、それをみんな手に入れようとすることです。でもイエスさまは言われました。ありあまるほどのものを持ったとしても満足できないし、生き生きと生きられるわけではないと。 8月4日(火)ルカ十二16~19  自分の畑の豊作を喜んで倉にためることは悪いことではありません。ただ、自分ことだけ、自分のためだけしか考えないことの残念さがたとえられています。自分の得だけを考えるより、人と分け合ったり助け合ったりする方が、実はとても心がうれしくなって満足していけるのです。 8月5日(水)ルカ十二20  たくさんの蓄えは生活を豊かにし、暮らしにも安心ができます。でももし突然死んでしまったら、蓄えたものはもう自分の役にはたたなくなります。神さまを信じる歩みは、たくさんあることで安心するより、あってもなくても生活を楽しませていただけます。 8月6日(木)ルカ十二21  いつでもどこでも自分が得したい、損はしたくないと思って生きるより、神さまに頼って神さまに喜ばれることを大事にする生活は、時には損をしても、無駄になることがあっても、不思議と心があたたかくなり、生きていてよかったと思えるのです。 8月7日(金)出エジプト二〇17  あれもこれもほしい。それも人が持っているものをつい自分も欲しくなったりするのです。でもいつでも何でも買えるわけではありません。まずは神さまに与えてくださいとお祈りしてみましょう。もし祈りが聞かれたら、与えられたことと祈りの聞かれたこととで大きな喜びがあります。 8月8日(土)出エジプト二〇17  欲しいもの全てを買ってはもらえないでしょう。親もあなたに何を買うのがいいか考えているからです。神さまも祈りを全て祈った通りにはしてくださいません。でも欲しいものを全て手にいれられなくても満足できるよう助けてくださいます。  私たちはいろいろ悩みます。悩み事がなくなることはないようです。でも悩みすぎるとご飯が食べられなくなったり、夜眠れなくなったり、人に会いたくなくなったりして、普通に生活するのが難しくなることがあります。だから悩んでも悩みに飲み込まれ続けないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。 8月9日(日)ルカ十二22~23  自分の顔や体型で悩んでいますか。勉強ができないとか、スポーツができないとか、あの人は自分のことをどう思っているのかなどなど、いろいろ悩みますよね。心配したり悩んだりするなと言われても難しいのです。でも思い煩うなと言われるイエスさまにはその秘訣があるのです。 8月10日(月)ルカ十二24~26  確かにからすは、後で困らないように食べ物をとっておこうなどとはしないようです。それは神さまが彼らの面倒を見ておられるからです。私たちは自分の生きる時間を延ばすことはできませんが、神さまにはそれは小さいことです。その神さまの私たちに対する思いは、鳥よりもさらに強く深いのです。 8月11日(火)ルカ十二27~28  野に咲く花を見てきれいだと思ったことはありませんか。神さまが咲かせたその自然の美しさは、きらびやかな王の宮殿や持ち物もかないません。それがたとえ明日には枯れてしまうとしても、神さまの目は注がれています。だから神さまは、それ以上に私たちもそれぞれをそれぞれらしく美しく咲かせてくださいます。それ以上によくしてくださらないはずはないのです。 8月12日(水)ルカ十二29~30  どうして、苦しいこと悲しいことがあるのでしょう。悩みがなくならないのでしょう。残念ながらそういうことはこれからもあるのです。でも神さまは私たちの必要をよくわかっておられます。どんなことの中でも私たちに一番よいことをしてくださいます。 8月13日(木)ルカ十二31~32  お金がいっぱいあれば安心とか、悩みがなければ幸せなのにと私たちは思います。でも神さまの愛がわかると、お金がなくても安心でき、悩みがあっても幸せを発見でき、それが神の国となります。どうぞ神さまの愛がわかりますように。 8月14(土)ルカ十二33~34  持っているものはなくしたくないですね。でもなくならないようにしようということばかりになると、それが大事になりすぎてしまいます。なくなっても神さまが与えてくださいます。握り続ける手を広げて人と分け合うと、持っていなくても心は豊かさを感じます。 8月15日(土)出エジプト二〇3  私たちはいつの間にか、自分の中に神さまのようにしているものが出てきます。だからどうぞ、まことの神さまを神さまとして信頼できますように。  私たちはみんなたくさんもらって生きています。これからもたくさんもらいましょう。するといつかもらったもののすばらしさと大きさに気づく時、私たちも与えることのできる人にされていきます。 8月16日(日)ルカ七36~38  イエスさまの足をぬらすほどの涙を流した女性。その涙にはどんな気持ちがあらわれていたのでしょうか。女の人がイエスさまの足にキスをし、高価な香油をぬったのはどういう気持ちからだったのでしょうか。 8月17日(月)ルカ七39~40  イエスさまを家に招待したシモンは、彼女がイエスさまの足にどん気持ちから香油を塗っているのかには注目しませんでした。それよりも「罪の女」と人々から顔をしかめられる彼女が、イエスさまに触っていることと、イエスさまが罪の女だとわかっているのかということばかりが気になりました。 8月18日(火)ルカ七41~43  シモンの心を見抜いたイエスさまのたとえ話は、私たちにもよくわかります。二人の人はどちらも同じ人からお金を借りていてどちらも返さなくてよくなります。二人の違いは借りたお金の多さでした。借りたお金が多ければ多いほど返すのは大変です。それなのに返さなくていいとなると、貸してくれた人への感謝の気持ちは、とても深くなるでしょう。またこれほどのことをしてくれた人へなんとか恩返しをしたくなるでしょう。 8月19日(水)ルカ七44~46  二人の人のたとえはそのままシモンと女の心と重なります。まじめに神さまに従うパリサイ人シモン。彼はそう自分は罪深くないと思っていたかもしれません。しかし女は自分がどんなに罪深いかよくわかっていました。その自分をゆるし救ってくださるイエスさまを最高のささげもので迎えました。そこには、「ごめんなさい」と「ありがとう」があふれていました。 8月20日(木)ルカ七47  私たちは、たくさんのものを受けてきたと知れば知るほど、感謝したくなり、恩返ししたくなります。だから神さまからこんなにも愛されているんだ、ゆるされているんだとわかればわかるほど、神さまを信じ、感謝と愛する気持ちがいっぱいになるのです。 8月21日(土)ルカ七48~49  イエスさまは罪をゆるすことができる神の子です。ゆるされたことを感じていた女は、さらにはっきりと言われ、確かなゆるしをいただきました。「あなたの罪はゆるされた」と私たちにも言ってくださっています。イエスさまが十字架で全てを引き受けてくださったからです。 8月22日(土)ルカ七50  罪がゆるされるためにできることはありません。ただゆるされたことを信じ受けとればいいのです。イエスさまは言われます。「安心して行きなさい」。  夏休みがそろそろ終わる頃ですね。クラスの席替えはいつありますか。私の学生時代は、だいたい学期ごとにありました。席替えは楽しみでしたが、小学校低中学年の頃は背の低い人が黒板の見えやすい前の席に決まりやすく、私はよく教卓の前か、前列のどこかでした。後ろの席はあこがれの席でした。 8月23日(日)ルカ一四7~9  大人の世界では上座と呼ばれる席があります。そこに座るのは、偉い人です。でも自分のことを地位がある者だと思って上座に座っていたら、もっと偉い人がやってきて席を譲ることになったら、なんと恥ずかしいことでしょう。席に限らず自分を偉いと思っていたことが恥ずかしくなることが私たちにはあります。 8月24日(月)ルカ一四7~9  私たちは、人と比べて少しでも自分は偉くありたいと思っていることがあります。でも、さっと人に助けの手を差し伸べられる人や、思いやりの言葉をすぐにかけられる人をみると、人より偉くありたいと思っていたことが恥ずかしいと思うものです。人のことを思いやれない心は偉くないと分かるからです。 8月25日(火)ルカ一四10  自分は偉くないと思っていたのに、思いもかけず上座へ座るようにすすめられたら、そのように評価されたことへの驚きと喜びがあるでしょう。でも、イエスさまが言われたのは、偉いと言ってもらうために身を低くするなら高くされる、ということではないのです。 8月26日(水)ルカ一四11  イエスさまは私たちのためにとことん低くされて十字架で死なれました。そして地獄にまで行ってくださいました。一番低い所までいくほど深く私たちを愛し救ってくださったお方こそが、最も高く偉いお方です。だから上座に座れるのはよみがえられたイエスさまなのです。 8月27日(木)ルカ一四11  私たちはイエスさまのように人から低く扱われると怒りを感じます。また自分が本当に偉くないのだと知ることもとても難しいのです。すぐに自分を偉くしたくなる私たちは、ただイエスさまによって支えられているのです。 8月28日(土)ピリピ二6~11  神の子イエスさまが人間になることほど、すごいことはありません。私たちだったら、何か生き物を救うために、人であることを捨てたくはないでしょう。自分もちょっと偉いかなと思うことはあっても、イエスさまにはかないませんね。 8月29日(土)一ペテロ五5~7  自分を低くすることを謙遜と言いますが、これはとても難しいことです。だから自分がいい気になっていてそれがくじかれると、自分はたいしたことはないのだとやっと気づきます。失敗しながらイエスさまについていき、学べばいいのです。  誰かの家のお食事に招待されたり、反対に自分の家に誰かを招待したりということは楽しいことです。聖書にはイエスさまが食事をする場面がよく出てきますが、いろいろな人からよく招待されていたようです。食事をしながらイエスさまの話を聞けるのは、とても楽しいひと時だったことでしょう。 8月30日(日)ルカ一四12~14  どんな人を家のパーティーに招待しますか。イエスさまは、お返しやお礼を期待できる人同士で招き合うより、どんなに親切にしてあげても、お返しができない人を招きなさいと言われました。神さまが、私たちには十分なお返しができないのに、多くを与えてくださるお方だからです。 8月31日(月)ルカ一四12~14  人に招待されたり、何かものをいただいたりしても、そのお返しができないと心苦しくなります。でも神の国では、お返しを心配する必要も、期待することもありません。なにせ私たちは誰も神さまの与えてくださった愛にふさわしいお返しはできないからです。だから人からもお返しを期待しないで、ただ神さまと人を愛することが、神さまへのお返しとなります。 9月1日(火)ルカ一四15  「神の国で食事をする人は、さいわいです」と叫んだ人は、将来自分が神の国に当然いれていただけるから良かったという思いでした。でも神の国の食事の幸いは、将来ではなく、今味わえるものです。それはお互い持てるものをわかちあう生き方が神の国の食事の幸いをすでに味わうことになるからです。 9月2日(水)ルカ一四16~20  せっかく招かれた晩餐会に、理由にならない理由で断って行かなかった人がいた、とたとえが語られました。イスラエルは長い歴史の中で、ずっと預言者たちによって、神の国の晩餐会に招待されていました。そしてついに準備ができたと伝える招待がイエスさまによってなされたのです。けれどもイエスさまの言葉を聞きたくないと、人々は招待を断りました。 9月3日(木)ルカ一四21  神さまの恵みをいらないと断ってしまったイスラエルにかわって、イスラエルの外にいる外国人が招待されました。私たちの誰もが招かれています。イエスさまを信じて歩み続けることで晩餐会にあずかれます。 9月4日(土)ルカ一四22  大勢の人が晩餐会にやってきてもまだ席が余っていました。私たちだけでなく、あの人もこの人も晩餐会にあずかってほしいですね。 9月5日(土)ルカ一四23~24  私たちが誰かによって教会へ導かれたように、私たちも誰かをイエスさまのもとへ導きたいですね。いらないと言われてしまうこともあるかもしれません。あきらめないで伝えることができますように。  教会学校の遠足で行った動物園で迷子になったことがあります。動物を見ていて気づいたら知っている人が周りに誰もいません。恐くなって慌てました。でも動いたらもっとわらかなくなると思い、じっと待ちました。しばらくして先生と仲間が捜しに来てくれました。ほっとして思わず涙が。うれしかったです。 9月6日(日)ルカ一五1~7  聖書の時代ユダヤ人は、取税人をとても嫌いました。一つには決まった額より多くお金をとって、多い分を自分のものにしていたからです。罪人と呼ばれた人々は、パリサイ人のように真面目に神さまに従っている人々からみたらいけないことをしていた人々です。でもそういう彼らがイエスさまの言葉を聞きたいと集まったのです。 9月7日(月)ルカ一五1~7  この時代、イエスさまのように先生と呼ばれる人が、罪人たちと食事を一緒にしたり、交わりを持ったりすることはありませんでした。だからイエスさまのしていることにパリサイ人や律法学者たちは顔をしかめて、とがめたのです。 9月8日(火)ルカ一五1~7  羊飼いはイエスさまで、いなくなった羊は取税人や罪人たちのことをたとえています。イエスさまは、パリサイ人たちが決してつきあうべきではないと思っている罪人たちが、見つけ出された羊のように、罪を悔い改めて神さまのもとに帰ってきた。そのことのすばらしさと喜びを語られたのです。 9月9日(水)ルカ一五1~7  もちろん迷子であった羊もまた見つけ出されてどんなに喜んだことでしょうか。そのまま探し出されなければもはや生きていけないからです。食べ物も飲み物も羊飼いが養ってくれるからです。そのように神さまのもとに戻って、神さまを信じて歩むと、生きていくための力と喜びを豊かにいただけるのです。 9月10日(木)ルカ一五1~7  罪人たちがイエスさまの言葉を聞きにやってくるのは、自分たちでもゆるされ救われるんだと知ったからです。そのように、神さまから離れ、神さまに喜ばれない生活をしていた人が悔い改め、イエスさまを信じることは天でも大きな喜びとなるのです。 9月11日(土)ルカ一五1~7  野原に残された九九匹については、どうでしょう。彼らは悔い改めを必要としない九九人の正しい人とも言われています。でも悔い改めを必要としない正しい人は本当はいません。みんな悔い改めが必要な人です。 9月12日(土)ルカ一五1~7  パリサイ人、律法学者たちもまた、失われた一匹の羊でした。表面的には悔い改めを必要としない野原に残された優等生羊のようです。でも心の中はみんな罪人たちと同じように救いが必要だったからです。      「一生のお願いだから」という言葉を使って親を説得しようとしたことがありました。しかし一生のお願いが前にもあったということで、あまり効果のない言葉となりました。でもとにかくお願いを聞いてほしいとき、必死にお願いしますよね。 9月13日(日)ルカ一八1~8  がんばっても良い結果が出なくて、結局あきらめてしまったことはありますか。イエスさまは、お祈りについてはたとえなかなかきかれなくても、がっかりしてあきらめてしまわないで、いつも祈るようにといわれました。 9月14日(月)ルカ一八1~8  あきらめないで祈り続けるにはどうしたらいいのでしょうか。ある裁判官は思いやりも優しさもない人です。でも、彼のもとにしょっちゅうやってくるやもめのしつこさに根負けしてしまいました。「このしつこさはこりごりだ。仕方ないから裁判をしてやろう。そうすれば彼女から解放される」と思ったのです。 9月15日(火)ルカ一八1~8  思いやりも優しさもなく自分のことしか考えない裁判官も、やもめのあきらめることのない要求と訴えに耐えられませんでした。正義の思いで彼女のために裁判をするのではなく、やもめがこのまま来続けられても困るからよい裁判をしてあげようと思ったのです。あきらめず願い続けたやめもの思いが、裁判官を動かしたのです。 9月16日(水)ルカ一八1~8  「しつこいと嫌われるよ」と言われますし、思います。でも神さまは、祈ることではしつこくていい、あきらめるな、と言われます。不正な裁判官はしつこさに負けたました。まして私たちを愛しておられる神さまは、私たちのしつこいまでの祈りを決して面倒だとは思いませんし、最も良い答えを先に延ばすことはありません。 9月17日(木)ルカ一八1~8 大事なことは、私たちがあきらめないで、神さまのタイミングを信じて待てるかどうかです。あきらめないで祈ることをやめないことです。 9月18日(金)マタイ六724  「異邦人のようにくどくどと祈るな」。というのと、あきらめないでしつこくなっても求めるとの違いは何でしょうか。これだけたくさん祈ったから聞かれるはずと思うことです。祈りはたくさん祈ったからきかれるのではなく、信じて求め続けることなのです。 9月19日(土)ルカ二二39~46  私たちは嫌なことが起こらないようにと祈ります。でもどうしても避けられないで、通り抜けなければならないことがあります。イエスさまは祈りに祈って、十字架という苦しみを私たちのために受けられました。祈りは、私たちが避けたいと思うような苦しみを乗り越えるための力と助けなのです。  私たちはよく人を比べて見ています。どっちが上か下か、どっちがかっこいいか、きれいか、どっちの頭がいいかなどなどです。そして比べられて人よりも低く見られると、いい気持ちがしません。それなのに、自分より人を下に見ていることもあります。 9月20日(日)ルカ一八9~14  自分のことを「正しい人」とか「いい人」とか思っている人を見ると、「何様なんだ」と思うかもしれません。でも意外と私たちは言わないだけで、心の中では自分のことをそんな風に思っていることがあります。あの人よりは自分の方が正しいとか、自分はけっこういい人だとか。 9月21日(月)ルカ一八9~14  コツコツ物事を進められない私ですが、人に対してもっとコツコツやればいいのにと思うことがあります。全く説得力がありません。でもそう思う私の心には、私の方がまだできているのではという困った勘違いと高ぶる思いがあるのです。 9月22日(火)ルカ一八9~14  パリサイ人たちは本当に立派な人々でした。神さまの言葉を守り、断食をし、献金もし、模範的な人々でした。でもその立派さが自慢や誇りとなり、人を見下してしまうようになると、もう立派ではないのです。むしろ罪人だとわかってしまうのです。 9月23日(水)ルカ一八9~14  取税人は税金の取り立てをする時、正しくないことをしていましたから、それは確かにあらためなければいけません。この人は自分がそういう正しくないことを心から悔い、その申し訳なさに、祈りの中で顔をあげることができませんでした。でもどんな罪も心から悔い改めるならゆるされます。 9月24日(木)ルカ一八9~14  義人とは神さまに正しい人とされた人のことです。それは自分の努力で義人にはなれないと知って、心から悔い改めてイエスさまを信じる人が義人とされます。人がどれだけ立派に生きたかではなく、自分では立派に生きられないとイエスさまに頼る人です。 9月25日(金)ルカ一八9~14  つい高ぶってしまい、へりくだることが難しい私たちです。人はみな物事のペースもやり方、進め方も違っているものですが、自分のやり方考え方が正しいと思うと、違う人を受けいれられなくなることもあります。イエスさまについていくことだけがへりくだりへの道です。 9月26日(土)ルカ一八9~14  このパリサイ人のように、自分を誇るような祈りをささげることも、自分の心のずるさに打ちのめされて、取税人のように悔い改めの祈りをささげることも、どちらも私たちにはある心です。どちらの姿も「神さま、罪人のわたしをおゆるしください」と祈らなくてはやっていけないのです。  イエスさまが与えてくださる永遠の命は、今の命が死なないということではありません。死んだ後も神の国で生きる命です。でも死んだ後に与えられるというのではなく、生きている今も永遠の命を受けとって歩むのです。それはイエスさまを信じた私たちが神の子として輝いて今を生きる命なのです。 9月27日(日)ルカ一八18~30  イエスさまのもとへやってきた役人。この人は戒めを小さいときから守ってきた信仰深い人です。しかし彼には永遠の生命を受けられるという安心がありませんでした。だからイエスさまに聞きさえすれば、教えてもらえると思ったのです。イエスさまに聞くことは、永遠の生命への確かな道です。 9月28日(月)ルカ一八18~30  この人に一つだけすべき事がありました。持っているものを売り払って貧しい人々に分け与えること。そうすれば天に宝を積むことになるからです。財産を売り払うということは誰だって難しいことです。でも本当に幸いを感じるのは、財産があるからではなく、持っているものを人と分かち合って生きることなのです。 9月29日(火)ルカ一八18~30  この人はイエスさまの言葉を聞いて非常に悲しみました。自分は今のままでは永遠の生命を受けられないと知ったからです。たくさんある財産を失いたくなかったのです。私たちもたとえ大金持ちでなくても、持っているものを簡単に手放せません。イエスさまの役人への言葉は、私たちの心にもしっかりと挑戦してきます。 9月30日(水)ルカ一八18~30  どう考えてもらくだは針の穴を通れません。「それでは誰が救われるのか」と途方にくれてしまいます。私たちにはどうがんばっても永遠の命への道、神の国への道は得られそうにありません。それは神さまによってしかできないことです。 10月1日(木)ルカ一八18~30  「天に宝を持つ」とは、財産にではなく、神さまに頼って生きることです。無限の宝を持つ神さまは、私たちをどんな中でもちゃんと支えてくださるからです。神の国を生きる永遠の命とは、神さまにまかせて生きる命です。 10月2日(金)ルカ一八18~30  神の国のために自分のものも家族も捨てるとは、ないがしろにすることではありません。イエスさまを信じ、愛し、喜ばれるように生きようとすると、家族も大事にすることになり、祝福と永遠の命の中をいただけるのです。 10月3日(土)ルカ一八18~30  私たちが救われて永遠の命をいただけるのは、結局、私たちが何かをしたらいただけるものではないのです。イエスさまの十字架の死とよみがえりによって与えていただいたのです。