イースターおめでとうございます!そしてご入学、ご進級おめでとうございます!この一年も良いこともあれば、辛いことや悲しいこと、失敗することもあるでしょう。でも復活のイエスさまが共にいてくださり、私たちをどんなところからも立ち上がらせてくださいますよ。 4月5日(日)マタイ二八1〜6  固く閉ざされたイエスさまのお墓の入り口の石が、天使によって開かれました。それなのにすでにお墓の中は空っぽでした。イエスさまは「もうここにはおられない」のです。よみがえられたからです。イエスさまのよみがえりは、もうだめだというところに、救いがあるという希望です。 4月6日(月)マタイ二八7〜8  天使に会ったことも、イエスさまの体がなかったことも、女たちにはびっくりで、恐くて、うれしいことでした。でも天使に言われた通り、弟子たちに知らせに走りました。「イエスさまは生きてるよ、イエスさまに会えるよ」このことは今の私たちにまで届いている喜びの知らせです。 4月7日(火)マタイ二七9〜10  伝えに行く途中、女たちの前によみがえられたイエスさまが姿を現されました。信じてもらえないかもしれない、そういう不安を抱えていた女たちにイエスさまから会いにきてくださいました。そして弟子たちの生活の場所「ガリラヤで会える」と伝えなさいと言われました。私たちもまた毎日の生活の中で、イエスさまに会えるのです。 4月8日(水)マタイ二八11〜15  墓の番人の報告を聞いた祭司長たちは、嘘のうわさを流させて、イエスさまの復活をないものにしようとしました。彼らが固く閉ざした墓は開かれましたが、彼らの心は固く閉ざされたままでした。私たちも心を固く閉ざしてしまうことがあります。どうぞ墓を開いた主の復活によって、私たちの心を開いてください。 4月9日(木)マタイ二八16〜18  一一人の弟子たちは、イエスさまにガリラヤで会うことができました。けれども疑う者もいました。イエスさまは彼らに近づいてこられました。疑いから信じるようにイエスさまが近づいてくださるのです。 4月10日(金)マタイ二八19〜20  「すべての国民を弟子とする」「彼らにバプテスマを施す」「イエスさまの教えを守るよう教える」。この言葉に従った弟子たちによって、私たちにまで救いが届きました。私たちもまたこの言葉に従って、イエスさまを伝えていきたいですね。 4月11日(土))マタイ二八19〜20  いつまでも共にいられる人はいません。誰でも人の心の奥まで入ることもできません。でもいつまでも共にいることのできるイエスさまは、私たちの心の奥にもきて支えてくださるのです。  私たちは誰も神さまを見たことがないですよね?けれども神さまを信じることができます。なぜでしょう。目には見えなくても、聖書の話を聞いたり、賛美を歌ったり、お祈りをしたりしていると、神さまが共にいてくださることがわかるようになるからです。 4月12日(日)イザヤ六1  預言者イザヤは、ある日神殿が神さまの衣のすそで一杯になっていたのを見ました。それは目には見えない神さまがそこにおられることがわかるために、それをイザヤに見せたのです。神さまを目では見ることができなくても、私のそばにおられることを、神さまが示してくださいます。 4月13日(月)イザヤ六2〜4  6つの翼を持つセラピムは、私たちが想像するのとはちょっと違った姿の天使です。彼らは飛び交いながら神さまをほめたたえていました。彼らが「神さまのすばらしさが、世界中を満たす」と言うと、神殿の中が煙で満ちました。煙もまた、神さまがそこにおられることを示していました。 4月14日(火)イザヤ六5  イザヤは、神さまの衣のすそを見、また神殿の中に神さまがおられることがわかると、とても恐くなりました。預言者の仕事は、人々に神さまからの喜びの言葉も、厳しい怒りの言葉も語ります。「あなたがたは罪をおかした」と。しかしイザヤは自分こそなんと罪深いのかと思い、もうとても神さまの働きはできないと思いました。 4月15日(水)イザヤ六6〜7  するとセラピムは、イザヤの唇に祭壇の炭火をつけたのです。そして「これによってあなたの悪は除かれ、罪はゆるされた」と言いました。こうしてイザヤの罪はゆるされました。私たちはイエスさまの十字架によって「あなたの罪はゆるされた」と言っていただけるのです。 4月16日(木)イザヤ六8  イザヤは「わたしはだれをつかわそうか」と言う神さまの声を聞きました。「私は神さまの働きにはふさわしくない」と思ったイザヤでしたが、罪がゆるされて新しくされ、もう一度神さまのために働こうという思いが与えられました。だから「わたしをおつかわしください」と立ち上がったのです。 4月17日(金)イザヤ六9〜10  神さまが伝えなさいと言われることは不思議な言葉です。イザヤが語れば語るほど、みんなそんな話聞きたくないと言って、聞かなくなるというのです。 4月18日(土))イザヤ六11〜13  イザヤが伝える言葉は、これからイスラエルがとても辛いことを経験するようになる、ということでした。でもそれを通り抜けて残ったものに希望があるのです。神さまの言葉には、私たちが受け入れたくない言葉もあります。でもそれも大切なメッセーなのです。  ヒゼキヤ王の時代、アッスリヤという大国がエルサレムを攻めようとやってきました。まずアッスリヤの使者が人々に呼びかけます。「ヒゼキヤ王の言うことを信じるな。王を信じていたらこの国は危ないぞ。王はあなたがたを救えない。あなたがたの神も救えない」と言って人々を不安にさせようとしたのです。 4月19日(日)イザヤ三七1〜4  ヒゼキヤ王は、自分だけではなく、神さままでもが馬鹿にされ侮られたことを大変悔しく思いました。しかし悔しいからと愚かな行動に出ないで、祈るために神殿に行きました。また預言者イザヤに使いを送って、祈ってくれるよう頼んだのです。まずは祈ることなのです。 4月20日(月)イザヤ三七5〜7  ヒゼキヤ王の使いが着くと、イザヤにはすでに神さまからヒゼキヤへの言葉が与えられていました。「敵の言葉をこわがらなくても大丈夫だ。神さまの方法で敵は滅ぼされるから。」ということでした。あとは、この言葉を信じるかどうかだけでした。 4月21日(火)イザヤ三七8〜13  アッスリヤはさらに手紙をよこして、ヒゼキヤ王の心までも不安でくじこうとしました。「神さまを信じても助けてもらえないだろう。他の国々だって、それぞれの神々に助けてもらえなかったじゃないか。」私たちにも似たような声が聞こえてきます。「イエスを信じたって救われない。神なんていないんだから。」 4月22日(水)イザヤ三七14〜20  ヒゼキヤは神殿で手紙を広げて「神さまどうぞ私たちを救ってください。」と怒りや恐れやいろいろな思いの中で、ひたすら神さまを信じてお祈りました。私たちもいろいろな声を聞き、心が揺らいで不安になる時があるでしょう。お祈りすることが私たちを支えてくれます。 4月23日(木)イザヤ三七21〜35  神さまはヒゼキヤの祈りにちゃんと答えてくださいました。それは、敵の攻撃は言葉だけであって、実際にはもうアッスリヤはやって来ないという約束でした。私たちのお祈りに神さまは答えてくださいます。 4月24日(金)イザヤ三七36〜38  自分たちに勝てる者はなにもないと言っていたアッスリヤの王でしたが、ある朝突然彼の軍隊がたくさん死んでいました。天使に撃たれたからです。そのため戦争を続けられずにアッスリヤの王は国に帰りました。そしてその後自分の息子たちに殺されてしまいました。だからヒゼキヤもエルサレムの人々も助かったのです。 4月25日(土))詩篇第四六  この詩は、悩みの中の一番の助けは神さまだと言います。心が揺れ動く恐れや不安の中で、私たちの逃げ場所となるのは、神さまに心を向けて祈ることなのです。  神さまの助けてくださる方法は、とてもびっくりする方法の時があります。だから時々信じられなくなるかもしれません。普通ならそんなことで大丈夫?と思ってしまうからです。でも神さまを賛美して信じて行くなら、びっくりするような助けを私たちも体験できるのです。 4月26日(日)歴代下二〇1〜4  敵の大軍がユダのすぐそこまで攻めて来ました。ヨシャパテ王は国中に神さまに助けを求めてお祈りをしようと呼びかけました。すると、国中の人がエルサレムに集まって心を一つにしてお祈りをしました。 4月27日(月)歴代下二〇5〜12  ヨシャパテ王は神殿で集まった人々の中に立ってお祈りをしました。「神さま、神殿でお祈りする祈りをあなたは聞いてくださいます。私たちには、敵を打ち破る力はありません。ただあなたの助けに頼るしかありません。」ただ神さまだけが助けてくださると信じていました。 4月28日(火)歴代下二〇13〜17  するとヤハジエルを通して神さまは語られました。それは驚くようなことでした。「この戦いは主の戦いだ。あなたがたは戦う必要がない。共におられる主が勝利される。」神さまの前に共に立っていた子どもから大人まで国中の人々が、神さまの言葉を聞きました。 4月29日(水)歴代下二〇18〜19  ヨシャパテとすべての人々は神さまの言葉を聞いて、神さまの前にひれ伏しました。ひれ伏して、ありがとうございます、力のない私たちをよろしくお願いしますと任せました。レビ人は立ち上がって大声で心から神さまに賛美を歌いました。 4月30日(木)歴代下二〇20〜23  この戦いに必要なのは人の力ではありません。必要なのはただ主と、主の言葉を信じることです。だから聖歌隊が軍隊の先頭に立ち、神さまへの賛美を歌って戦いに向かいました。すると、隠れていた兵隊たちが敵を倒し始めました。それだけでなく、なんと敵が仲間同士で滅ぼし合ってしまったのです。 5月1日(金)歴代下二〇24〜25  戦場がどうなったのかを見に行った人々はみんな驚きました。戦っていた敵が一人残らず倒れ死んでいたのです。そこでヨシャパテ王と人々は、敵が残した家畜やお宝、服などを手に入れました。救われただけでなく、彼らにはさらに多く与えられたのです。 5月2日(土)歴代下二〇26〜30  敵の大軍から救い出されたヨシャパテ王と人々は、祈りにこたえてくださった神さまへの感謝と賛美を忘れませんでした。戦場だった場所はベラカ(賛美)の谷と呼ばれました。このことは他の国々にも知られ、神さまは恐れられました。そのため国に平和が与えられたのです。  あの人はあんなに悪いのだから、絶対にゆるされないはずだ。そう思える人がいるかもしれません。でももしそのあの人が自分だったら…。なんとかゆるしてほしいと思うでしょう。大丈夫。神さまの前にゆるされない罪はないのです。だからどんな人もゆるされるのです。 5月3日(日)歴代下三三1〜6  十二歳で王となったマナセは、まことの神さまから離れ、偶像を拝みました。また神殿の中にまで様々な神々を拝む祭壇を造って礼拝しました。そして占いや魔法、霊媒師なども信じ、自分の子どもを供え物として火で焼いて殺してしまいました。偶像を信じることは、間違った形で神を拝み、悲しい犠牲を引き起こすことがあるのです。 5月4日(月)歴代下三三7〜9  神の約束の言葉を忘れたマナセは、自分だけでなく国の人々にも偶像を拝ませ、神さまが喜ばれない生き方へと導いていきました。それは、かつて悪を行って神さまに滅ぼされた国々よりもひどく悪い生き方となりました。 5月5日(火)歴代下三三10〜13  神さまの言葉を聞かなかったマナセは、アッスリヤ帝国に攻められて捕らえられ、外国で奴隷にされてしまいました。マナセは苦しみの中で、初めて神さまの前に心からごめんなさいと悔い改めました。すると神さまはマナセをゆるし、エルサレムに帰ってやり直させてくださいました。こうしてマナセはこの神さまこそ本当なんだと信じました。 5月6日(水)歴代下三三14〜17  まことの神を信じたマナセにはもう他の神々は必要なくなりました。そこで全ての偶像を捨てました。そして国中の人とイスラエルの神さまだけを礼拝するようになりました。 5月7日(木)歴代下三三18〜20  マナセのしてきた王としての多くのことは、良いことも悪いことも書き残されています。しかし彼は悔い改めたことによって、どんなすばらしい働きよりも私たちの心を励ましてくれます。どんな人であっても、悔い改めるなら、神さまにゆるされてやり直させていただけるという励ましです。 5月8日(金)ルカ二三32〜38  十字架につけられたイエスさまの第一声は「父よ、彼らをおゆるしください。」という祈りでした。私たちがごめんなさいと悔い改める前から、私たちは祈られ、ゆるされていました。私たちが心から悔い改める時、ゆるしを受けとることができます。 5月9日(土)ルカ二三39〜43  イエスさまと一緒に十字架につけられた犯罪人の一人は、自分の罪を悔い「わたしを思い出してください」とイエスさまにすがりました。へりくだって悔い改め、イエスさまに頼る人は、イエスさまと共に生きる天国へ導いていただけるのです。  聖書の言葉は、神さまやイエスさまが聖書に出てくる人々に語られた言葉です。でも今の私たちにもまた同じように言われている言葉です。これは私にも言われている。そうわかる時があるからです。その時、その言葉の通りにしてみようとするなら、私たちの生活は変わっていきます。 5月10日(日)歴代下三四1〜2  八才で王になる。なんて大変なことでしょうか。でもヨシヤには、神さまを信じ、神さまの言葉に従う王になるようにと、教え育ててくれる周りの人々がいたのでしょう。彼は神さまに従って国を建て上げた先祖ダビデ王のように、何よりも神さまを第一にする王になりました。 5月11日(月)歴代下三四3〜7  ヨシヤは十六歳になると、はっきりと神さまを信じ、神さまの喜ばれることを聞き、考えて王の仕事をするようになりました。そこで二十歳になるといろいろな偶像も他の神さまの祭壇も粉々に壊して捨てました。そうして自分たちが信じるお方がただお一人だけであることをはっきりさせたのでした。 5月12日(火)歴代下三四8〜13  続いてヨシヤは、神殿の壊れたところも直す工事をすることにしました。そこで神殿にささげられた献金が、工事をする職人たちに支払われて、職人たちは丁寧に神殿の壊れたところを直していきました。神殿を直すことは、神さまを礼拝することを整えることです。神さまを賛美したりお祈りをしたりすることが大切にされるということです。 5月13日(水)歴代下三四14〜21  神殿の工事をする時に、失われていた聖書が発見されました。そしてヨシヤ王の前で聖書の言葉が読まれると、ヨシヤ王は驚き、これは大変だと自分の衣を裂きました。神さまの願われる生き方とは違う生き方を自分たちはしていると気づいたからでした。 5月14日(木)歴代下三四22〜28  聖書には、神さまの言葉を無視して生きるなら、裁きがあると記されていました。しかし女預言者ホルダを通して、ヨシヤ王の生きている間は裁きがないことを神さまは語られました。それは神さまの言葉を聞いた時、ヨシヤが心から悔い改めたからでした。神さまは悔い改めた心を受け入れてくださるのです。 5月15日(金)歴代下三四29〜33  国中の人が神殿に集まりました。そこで、王と人々はみんなで発見された聖書の言葉を聞きました。そしてヨシヤ王は「心から神さまの言葉に従おう」とよびかけたのです。こうして人々の生き方が変わっていきました。 5月16日(土)詩篇五一17  神さまへの大事なささげものは、悔い改めの心です。私たちの心からの悔い改めは、私たちを変えるからです。  大切なことを伝えているのに、ちっとも本気で考えてもらえなかったり、聞いてもらえなかったりしたらとっても辛いことです。預言者エレミヤは神さまの厳しい言葉を真剣に伝えても、イスラエルの人々が聞こうとしないことに心を痛めました。このままでは大変な苦しみと悲しみにあうことになるからです。 5月17日(日)エレミヤ九1〜3  人々は神さまの言葉を聞かないで自分勝手に生きていました。エレミヤは、このままでは国が滅んでしまうから悔い改めようと語ります。それもみんなが救われてほしいと涙をもって語ったのです。そして必ずやってくる裁きと人々の苦しみを思うと涙があふれるのですが、それでもまだ涙が枯れないよう「頭が水」であったら「目が涙の泉」であったらとまで思ったのです。 5月18日(月)エレミヤ九4〜9  人々の罪として特にとりあげられているのが、うそばかり言うことでした。それはだましあって本当のことを言わないでいるので、お互いに信じて助け合うことができないのです。うそで人を押しのけたり、陥れたりして、自分だけが得しようとするのです。神さまはそのような人の本当の心をあばいて、裁くと言われました。 5月19日(火)エレミヤ九10〜11  神さまの裁きとは、敵がやってきて青々とした山の木々や草原が焼き払われてしまい、人も動物ももはやいないような荒れた場所になるのです。エルサレムの町すらも、壊され荒れ果ててしまい、人が住むには難しい場所になる。だからそれを見てみんな泣き悲しむようになるのです。 5月20日(水)エレミヤ九12〜16  なぜそんなふうになってしまうのでしょう。神さまの言葉を聞くことができる人ならそれがわかります。でも自分たちの都合のいい言葉は聞けても、そうでない言葉を聞くことができませんでした。だから人々は神さまの言葉を無視して偶像を拝み続けました。 5月21日(木)エレミヤ九17〜22  さらには恐ろしいことが予告されます。多くの人の死体が町に横たわるようになるのです。あまりの多さにそれを葬りきれないで、野ざらしにされるほどです。こんなことが起こってほしくありません。だから神さまの言葉を聞くことが何より大事だったのです。 5月22日(金)エレミヤ九23〜24  この時代の人も、私たちも本当にすごいと誇れるのは神さまのことだけです。神さまの愛をどんどん知っていくと、自分たちのことはどんどん誇れなくなるからです。 5月23日(土)エレミヤ九25〜26  神さまの願われたことは、心から神さまだけを信じて頼ることでした。それが全ての人がいきいきと生かされる一番の道なのです。  ペンテコステは教会の誕生日です。聖霊が弟子たちにくだり、彼らは神さまの霊に満たされました。神さまの霊が彼らを助けて用いられたので、多くの人が救われて仲間となり、教会が生まれました。預言者エゼキエルも聖霊に用いられ、神さまの言葉を伝えました。 5月24日(日)エゼキエル三七1〜6  今日はペンテコステです。弟子たちを用いた聖霊は、エゼキエルにも与えられました。彼は骨に向かって語りなさいと言われます。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と。なんと不思議な言葉でしょう。さらには骨に向かって、あなたを生かすと命じるのです。でも神さまの言葉は語られた通りになるから、私たちにとって希望の言葉です。 5月25日(月)エゼキエル三七7〜10  エゼキエルが預言すると、骨と骨が動いてくっつきあい、人の形ができ上がりました。さらにエゼキエルが「息よ、四方から吹いてこの殺された者たちを生かせ」と預言しました。すると体に神さまの命の息が吹き込まれて生きた人になったのです。この神さまの命の息は、私たち全ての人を生かしています。 5月26日(火)エゼキエル三七11〜14  この時代イスエラエルは、大国に滅ぼされ、多くの人が外国へ連れて行かれました。エゼキエルもその一人です。人々の中には、国を失い、心の中は枯れた骨のように生きる希望を失った人もいました。けれども神さまは、彼らがもう一度生き生きと生きられるように、イスラエルに戻ってやり直せるようにしてくださることを示されたのでした。 5月27日(水)エゼキエル三七11〜14  枯れた骨が生かされる。なんとすごいことでしょう。ゾンビのように死んだままで生きて人を襲うのではありません。人として命をいただいて生き直すのです。もうだめだと思うところに、聖霊はきてくださって、私たちを生かし直してくださいます。 5月28日(木)ヨハネ二〇19〜23  イエスさまの十字架の死後、弟子たちは恐れと不安の中で閉じこもりました。そこへ復活されたイエスさまが現れたのです。イエスさまの姿と、吹きかけられた聖霊の息は、弱い弟子たちの心を平安にし、主の働きに用いられるための力となりました。 5月29日(金)使徒行伝二1〜4  激しい風が吹いてきて、弟子たちの上に聖霊が留まりました。聖霊によって彼らはイエスさまのすばらしさを語りました。どうぞ私たちも聖霊に満たしてください。 5月30日(土)使徒行伝二5〜13  聖霊によって弟子たちは、彼らが学んだことのない外国語でイエスさまを伝える力を与えられました。聖霊は私たちにも人々に伝える言葉を与えてくださいます。  ソロモン王が死んだ後、イスラエルは南北二つの国に別れてしまいました。そして北イスラエルは先にアッスリヤ帝国に滅ぼされてしまいます。その後南ユダも神さまの警告を何度も受けるのですが、聞こうとしなかったため、ついに滅ぼされてしまうのです。 5月31日(日)歴代誌下三六11〜14  南ユダ王国が滅びる直前の王はゼデキヤでした。彼は神さまの前に悪を行いました。また強情で預言者エレミヤの言葉を聞きませんでした。神さまの仕事をする祭司や民も神さまの前に悪を行いました。強情な心を誰もが持っています。私たちも神さまの言葉を聞かないなら、自分の強情な心を納めることはできません。 6月1日(月)歴代誌下三六15〜16  神さまはずっと彼らに預言者たちを送り続けて、神さまの言葉を聞いて立ち返るように語られました。神さまは私たちを裁きたいのではなく、救いたいと願っておられます。でもずっと神さまを無視するならば、救いのチャンスを自分から捨ててしまっているのです。 6月2日(火)歴代誌下三六17〜19  ついに神さまの裁きが大国バビロンによって行われます。多くの人が殺され、神殿の高価な道具が奪われ、神殿も宮殿も城壁も焼き壊されてしまいました。人々は神さまに背いた生活をしながら、自分たちには神殿があるから、守られているから大丈夫という自分勝手な都合の良い自信を持っていて、全て砕かれました。 6月3日(水)歴代誌下三六20〜21  生き残った人々はバビロンに連れて行かれ、王のもとで働かされました。エレミヤが「このままでは滅んでしまう」と預言した神さまの言葉通りのことが起こったのです。 6月4日(木)歴代誌下三六22〜23  しかしさらにエレミヤは、後に人々が自由にされ、またエルサレムの町や神殿を建て直す時がくることも預言しました。そして七〇年後にそれが起こるのです。次に大国を治めていたペルシャの王が、神さまに導かれて、ユダヤ人が自分たちの国に帰ることを許しました。神さまの裁きの後には回復の道があるのです。 6月5日(金)マタイ二一33〜36  神さまから託された言葉を語った昔の預言者たちの中には、人々の気に入らないことを語るために、無視されたりいじめられたり殺されたりした人がいました。そのことをイエスさまはぶどう園のたとえとして語られました。 6月6日(土)マタイ二一37〜42  そしてご自分もまた十字架で殺されることをたとえで語られます。始めはいらないと思った石がなくてはならない石であったと気づかされるように、イエスさまは捨てられて私たちを救う道となってくださいました。  バビロンのネブカデネザル王は二度に渡って、エルサレムを攻めました。その一回目の時に、バビロンに連れて来られた十五歳ぐらいの四人の若者たちがいました。彼らは、偶像の神が拝まれている国にあっても、天地を造られた神さまを信じる信仰から離れず、神さまに喜ばれる生き方を考えながら歩みました。 6月7日(日)ダニエル一1〜7  バビロンには、ユダヤ人だけでなく、いろいろな国の人々が連れてこられていました。そしてその中で優秀な若者たちが選ばれ、王ために働けるように教育されていました。この中に四人のユダヤ人、ダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤがいました。 6月8日(月)ダニエル一8  若者たちに出される食事は王さまの食事で、立派なものでした。しかしその中には、神さまが食べてはいけないと決めておられる汚れた動物や、偶像にささげられた食物など神さまに喜ばれない食べ物も含まれていました。ダニエルは神さまに喜ばれる食事だけをしたいと思いました。 6月9日(火)ダニエル一9〜10  神さまはこの四人の若者たちと共におられました。特にダニエルが宦官の長に気に入られ、信頼されるようにされました。そして四人が宦官の長の恵みとあわれみを受けられるようにしてくださいました。四人の、神さまに喜ばれる食事をしたいという思いを守れるよう、神さまも彼らを祝福されました。 6月10日(水)ダニエル一11〜14  そこでダニエルたちが十日の間、野菜だけを食べ、水を飲んで、他の若者たちの顔色や健康状態との違いがでるかどうか試してみてほしいという提案が受け入れられました。 6月11日(木)ダニエル一15〜16  その結果は何の問題もないばかりか、他の若者たちよりもむしろ肌色良く、体も太っていました。そこで彼らは神さまの前に汚れた食物を食べなくてもすむようになりました。外国で、さらに違う宗教の世界にあっても、彼らが自分たちの信仰を守って歩めるように神さまの支えがありました。 6月12日(金)ダニエル一17  神さまはこの四人に知識と知恵を豊かに与えられました。彼らが外国でも神の民として輝いて生きることができるようにされたのです。王に気に入られ、人々から尊敬され頼りにされることは、彼らの命を守ります。またダニエルに与えられた幻と夢の理解力は、後に多くの人を救うために用いられるのです。 6月13日(土)ダニエル一18〜21  彼らが王の前で彼らの知識と知恵を調べられると、彼らよりもすぐれたものはなく、それどころか、全国の博士たちよりも知恵がありました。彼らは王さまに用いられることになりました。  あなたは見た夢を覚えている方ですが。夢はとても奇想天外です。おもしろいものもあれば、本当に泣いちゃったり、恐くて逃げたいのに足が全然動かなかったり。夢を話したいと思うのに上手く説明できないのも夢ならではですね。 6月14日(日)ダニエル二1〜11  ネブカドネザル王は、学者たちを集めて、王がどんな夢を見たのかあててみること、そしてその意味は何かを示しなさいと、無理難題をだしました。学者たちは、夢が何かを話してもらえなければどうしようもないと訴えましたが、それは聞かれません。王は誰もできなければみんな殺すと脅しました。 6月15日(月)ダニエル二12〜16  王の言う通りにできる人は誰もいません。怒った王は、バビロンにいる学者や知恵のある者たち、ダニエルと三人の仲間たちも、皆殺すよう命令をくだしました。そこでダニエルは夢を解き明かすために王に時間をもらい、この問題にとりかかりました。 6月16日(火)ダニエル二17〜23  ダニエルは家に帰り、仲間たちと共に神さまに助けを求めてお祈りをしました。すると神さまは、ダニエルに王の夢とその意味を教えてくださったのです。ダニエルは神さまの偉大さほめたたえ、神さまへの感謝ささげました。祈りを聞かれたら、感謝を忘れないでいたいものですね。 6月17日(水)ダニエル二24〜30  ダニエルは夢の内容とその意味を伝えるために王のもとへ行きました。ダニエルは自分がその夢を知ったり、解き明かしたりするのではないと語ります。これができたのは、天におられる神さまがこのことを教えてくださったのだと。決して自分の知恵や力ではないことをダニエルは忘れませんでした。 6月18日(木)ダニエル二31〜35  王の見た夢は、一つの大きな像が立っていて、頭は金、胸と両腕は銀、腹とももは銅、すねと足の一部は鉄。一部は粘土という具合にできていました。そこに一つの石が出てきて像の足を砕いたので、像がこなごなに砕けてしましました。そして像を打った石が大きな山となりました。 6月19日(金)ダニエル二36〜45   この夢の意味は、まず金の頭はバビロンのこと。このバビロンもやがては別の国に変わり、その後に次々と世界を治める国がおこっては滅びをくり返すのです。そして最後には永遠に残る神の国がおこるということでした。神さまはそれを夢で示されたのです。 6月20日(土)ダニエル二46〜49  このことは、ネブカドネザル王がまことの神さまを知ることとなりました。外国にあっても神さまが共にいてダニエルたちを助けたので、彼らは活躍しながら、まことの神さまをあかししました。  日本は、イエスさま以外の神さまが多く信じられています。仏壇や神棚のあるお家がたくさんあります。だからとても自分たちを弱く感じることがあります。でもダニエルたちも同じような世界で、神さまに支えられながら信仰をもって輝いて生きていきました。彼らの姿は私たちを励ましてくれます。 6月21日(日)ダニエル三1〜7  ネブカドネザル王は、金でできた巨大な像を造りました。そして像ができたお祝いの式を大勢の人を呼んでしました。そしてこの式の中で楽器が鳴り響くと、この像を拝まなければいけないという命令を出したのです。そうしなければ火の燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまうのです。人々は言われたように楽器の音を聞くと金の像を拝みました。 6月22日(月)ダニエル三8〜12  ところが、シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人は拝まなかったので、王に訴えられてしまいました。彼らは天のまことの神さまだけしか神さまとして拝むことはしないからです。彼らは自分たちの身が火の炉に投げ込まれるのを知っていながら、金の像を拝みませんでした。 6月23日(火)ダニエル三13〜15  ネブカドネザルはそれを聞いて大変怒りました。そしてもう一度彼らに拝ませようとしたのです。そして「もし拝むことをしないなら、ただちに火の炉に投げ込むぞ。どんな神でも、私の手からあなたがたを救えるものはいないのだ」と言いました。王は自分こそが何よりも強く力があると思っていました。 6月24日(水)ダニエル三16〜18  彼らは、炉の中に投げ込まれても、神さまが救い出してくださると信じていました。「たといそうでなくても」もし救い出されなかったとしても、自分たちは金の像を拝むことはしないとはっきりと語りました。王に脅されても三人の気持ちは変わりませんでした。 6月25日(木)ダニエル三19〜25  怒った王は、炉の火を激しく熱くして、彼らをしばって投げ込ませました。彼らを投げ込んだ人々が、火に焼かれて死んでしまうほどでした。ところが王が驚いたことに、火の中をやけどもなく、三人が歩いているのが見えたのです。そしてもう一人神の子のように見える人も一緒にいたのです。 6月26日(金)ダニエル三26〜27   王は三人に火の中から出てくるように命じました。すると彼らは火の中から、なんの傷も火傷も負わず、髪の毛も服も焼かれず、そのまま出てくることができました。 6月27日(土)ダニエル三28〜30  王は「私の手からあなたがたを救えるものはいないのだ」と語りましたが、「このように救いを施すことのできる神はほかにない」と言うようになったのです。  イエスさまを信じているからといって、嫌なことが起こらないとか、困ったことに巻き込まれないということはありません。むしろクリスチャンだといってからかわれたり、ばかにされたりすることもあるかもしれません。でもどんな時もイエスさまを信じ続けることをやめないでください。イエスさまも私たちから決して離れないからです。 6月28日(日)ダニエル六1〜5  バビロンからペルシャの時代になりました。ダニエルは続けて、ペルシャの王さまに仕えていました。彼は誰よりも王に信頼され用いられていました。しかしそれをおもしろくないと妬む人々がいたのです。彼らはダニエルをなんとかして王に「あなたはいらない」と言われる人にしたいと考えました。 6月29日(月)ダニエル六6〜9  王に忠実で熱心に仕事をするダニエルの欠点を探すことはできませんでした。そこで彼らはこれから三〇日間王以外に拝んだり祈ったりしてはいけないという法律を作りました。ダニエルが天の神さまに毎日お祈りしているのを知っていたからです。 6月30日(火)ダニエル六10  ダニエルは新しい法律ができ、それに逆らうとライオンの穴に投げ込まれることを知っていました。しかし、いつものように家に帰って窓を開いてお祈りすることをやめませんでした。彼は自分の身に危険が及ぶような中でも、神さまに祈り感謝をささげました。 7月1日(水)ダニエル六11〜15  ダニエルをなんとか陥れたいと思っていた人々は、ダニエルがお祈りする姿を目撃し、すぐに彼を捕らえてダリヨス王に報告しました。王は大変なショックを受けました。なんとかしてダニエルを助けたいと思いましたが、一度定めた法律を変えることはできませんでした。 7月2日(木)ダニエル六16〜18  ダニエルは引き出されライオンの穴に投げ込まれてしまいました。王はただ「あなたの信じている神が救ってくださるように」というしかありませんでした。王は宮殿に帰っても食事も取らず、眠ることもしませんでした。それほどにダニエルのことを惜しんだのです。 7月3日(金)ダニエル六19〜24   翌朝早く王はダニエルのところへ行きました。「ダニエルよ、神さまはあなたを救ってくれたか」と聞くと、ダニエルは生きていました。ダニエルが神さまを信頼した通り、救い出してくださったのです。 7月4日(土)ダニエル六25〜28  ダリヨス王は、ダニエルの信じる神こそ生きておられるまことの神だ、この方をおそれなければいけない、と国中に書き送りました。神さまを信じているために誰かに苦しめられても、神さまが生きた力をあらわしてくださいます。