新学期を迎えました。入学したみなさんおめでとうございます。進級したみなさんも、新しい学年になって新たな気持ちにされていることでしょうね。これから起こることの中には、楽しいこともあれば、悲しいこともあるでしょう。でもどんな時もどんなことからも私たちを必ず助け支えてくださるのが神さまの愛です。神さまの愛はどんな時にもなくならず、私たちを強く覆ってくださいます。 4月6日(日)ヨハネ三16  神さまが私たちに与えてくださったひとりごイエスさまは、神の子なのに人間になって、私たちと同じように生活をされました。喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、痛んだり、苦しんだり。私たちのことをよくわかってくださるお方なのです。 4月7日(月)ヨハネ三16  神さまが愛している「この世」とは、この世界と私たちのことです。この世界と私たちはどんな世界ですか?愛されて当然の世界ですか?それとも、これじゃ愛せないような世界ですか?残念ながら私たちは愛されるにふさわしいすばらしい私たちではありません。 4月8日(火)ヨハネ三16   私たちは自分勝手で、自分さえよければいいと思ってしまい、それがけんかになったり、怒りになったりします。時にはあの人なんかいなければいいのにとすら思うことも。みんなそういう心を持っていて自分の力では解決できないのです。 4月9日(水)ヨハネ三16  けれども神さまは、愛されるにふさわしくないのに私たちを最初から愛してくださいました。だから私たちに愛されるふさわしさがなくて大丈夫です。ただ愛をありがとうと受けとればいいのです。 4月10日(木)ヨハネ三16  イエスさまは十字架で私たちの罪のために死んで、神さまに捨てられて死の世界まで行ってくださいました。だからもう私たちは自分の罪のために、死の世界や神さまに見捨てられることを恐れなくていいのです。 4月11日(金)ヨハネ三16  神さまの愛を受けとる方法は、イエスさまの十字架を信じることです。「私のためにイエスさまは死んで、私の罪を赦してくださった。イエスさまごめんなさい。ありがとうございます。」と心に受け入れるなら、今心に神さまの愛が一杯になって、イエスさまが住んでくださいます。 4月12日(土)ヨハネ三16  イエスさまは死よりよみがえられました。だから信じる私たちには永遠の命が与えられます。でも今の命が死なないということではありません。必ず私たちはみんな死を迎えますが、生きている今は神の子として輝いて生きるよう導かれ、死んだ後は涙も痛みもない天国で神さまを賛美し続けるのです。  今週は受難週といって、イエスさまが十字架におかかりになる週です。自分が待ちに待っていることが近づいている時は、早くこないかなと待ち遠しいですが、来てほしくないことが近づいている時は、いつまでも来ないでと思うでしょう。イエスさまも十字架にかけられる日が近づいてきて、苦しみながら祈られました。でも祈り終えるとすべてを委ねて十字架へ向かわれるのです。 4月13日(日)ヨハネ一九23〜24  何の罪もないイエスさまを十字架につけたローマの兵隊たちは、イエスさまの服を分け前としてもらうため、苦しむイエスさまの足下でくじを引き、誰のものにするかを決めていました。苦しみ死のうとしている人を前にどうして平気なのでしょう。自分にとって関係のないことだと思っていたからです。 4月14日(月)ヨハネ一九23〜24  くじでわけられた服は下着で、神さまの働きをする祭司が着ていたのと同じ布でした。祭司は神さまと人をつなぐ働きをします。イエスさまの十字架は、祭司のように神さまと私たちを、無関心な兵隊たちをもつなぐためのものだったのです。 4月15日(火)ヨハネ一九25  十字架のそばには、お母さんのマリヤと三人の女の人がいました。イエスさまの苦しむ姿に、お母さんの胸はどんなに張り裂けそうだったことでしょう。でも目をそむけることなく、一緒に苦しみを耐えました。 4月16日(水)ヨハネ一九26  弟子の一人ヨハネは、女の人たちと一緒にイエスさまを見守っていました。するとイエスさまはお母さんマリヤにヨハネをさして「今日からあなたの息子だ」と言われました。イエスさまの代わりに慰め支える息子をプレゼントされたのです。 4月17日(木)ヨハネ一九27  ヨハネにもマリヤのことを「この人はあなたのお母さんだ。頼んだよ」と言われます。するとヨハネは言われた通りお母さんのマリヤを家に引き取りました。神と人をつなぐイエスさまは、信じる者同士を神の家族として結んでくださるのです。 4月18日(金)ヨハネ一九28〜30  いよいよ最後にイエスさまは「すべてが終わった」と言って息を引き取られました。これは神さまの計画したことがすべて行われたということです。神さまの計画は、私たちを罪から救うことで、それに必要なことが全部終わったのです。 4月19日(土)マタイ一二50  イエスさまを信じたら、イエスさまは私たちを「わたしの兄弟、姉妹、母」と呼んでくださいます。私たちはイエスさまによってつながれて、神の家族になります。そしてお互いを愛して生きるよう、人を愛する思いを与えてくださるのです。  イースターおめでとうございます。イエスさまは十字架で死なれると、まだだれも葬られたことのない新しいお墓に納められました。お墓のそばを通る時、怖いと思うことはありますか。幽霊がでるかもしれないと思うと怖いですね。でもイエスさまは神さまの力によって三日目によみがえられました。だからお墓の中は空っぽでイエスさまはおられませんでした。私たちはもう、死ぬこともお墓も怖がらなくていいのです。イエスさまが罪と死に閉じ込められなかったように、私たちも救ってくださったからです。 4月20日(日)ヨハネ一九30〜42  イエスさまが死んだか確かめようと、兵隊がわきばらを槍でつき刺しました。すると水と血が流れ、死んでおられました。弟子のアリマタヤのヨセフとニコデモは、イエスさまの死体を十字架から降ろし、体に薬を塗り、布をまいてお墓に納めました。みんながイエスさまの死を確かに見たのです。でも私たちはイエスさまがよみがえられたことを知っています。 4月21日(月)ヨハネ二〇1〜2  マグダラのマリヤは墓の石が取りのけられているのを見てパニックになりました。イエスさまの体をだれかが取り去った!急いでペテロとヨハネに報告しました。イエスさまがよみがえることなど到底想像できませんでした。 4月22日(火)ヨハネ二〇3〜8  驚いたペテロたちはお墓へ走りました。お墓の中にはイエスさまの体と頭に巻いていた布はありましたが、体はどこにもありませんでした。ヨハネはこれを見て、イエスさまがよみがえられたと信じました。 4月23日(水)ヨハネ二〇9〜10  聖書の言葉が言っていたのは、イエスさまのよみがえりのことだったんだ!と弟子たちがわかるにはもう少し時間が必要でした。「私にも聖書が言った通りになっていた」と私たちも気づく時があるのです。 4月24日(木)マタイ二八1〜6  天使が女たちに「もうここにはイエスはおられない。かねて言われた通りよみがえられたから」と教えてくれました。イエスさまのよみがえりは、前から予告されていたことでしたが、だれも心にとめることはできませんでした。 4月25日(金)ルカ二四1〜12  「あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい」と天使たちはイエスさまの言葉を思い出させました。すると女たちは「三日目によみがえる」と言われたイエスさまの言葉を思い出したのです。 4月26日(土)ヨハネ一一25  よみがえりの命は、イエスさまだけでなく、信じる私たちもいただけます。それはこの地上で神の子として生かされ、死んだ後は神さまと共に神の国で生きる命なのです。  家族や親しい誰かが亡くなられことはありますか?悲しくて悲しくてしかたなかったでしょうね。死んでしまったらこの地上ではもう会えないので、想像しただけでも悲しくなりますし、その寂しさは計り知れないものですね。でもイエスさまはどんな深い悲しみもわかってくださり、一緒に悲しんでくださり、それを乗り越えることができるように慰めてくださいます。  4月27日(日)ヨハネ一一1〜6  友人のラザロが病気だという知らせがイエスさまのもとに入ります。けれどもイエスさまはすぐにラザロのもとには向かいませんでした。イエスさま早く!と私たちは思いますが、イエスさまは私たちが思うのとは違うタイミングですばらしいことをしてくださるのです。 4月28日(月)ヨハネ一一7〜16  イエスさまはラザロが死んでしまったことを、眠っているので起しに行こうと言われます。弟子たちにはイエスさまの言われている意味がわかりませんでしたが、すべてはみんながイエスさまを信じるようになるためのことでした。 4月29日(火)ヨハネ一一17〜22  イエスさまが行かれた時はラザロが死んでもう4日がたっていました。ラザロの姉のマルタは、イエスさまがいてくださったら弟は死ななかったのにと言いました。誰もがそう思ったのです。イエスさまが間に合っていたらよかったのにと。 4月30日(水)ヨハネ一一23〜27  イエスさまは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」と驚くべきことを言われました。イエスさまは「命」のお方なので、すべての終わりの死を希望に変えることができるのです。 5月1日(木)ヨハネ一一28〜36  ラザロのもう一人の姉妹マリヤも深い悲しみの中でイエスさまをお迎えしました。マリヤも人々も泣いていました。その様子にイエスさまの心は激しく揺れ動き、涙を流されました。イエスさまもラザロを深く愛しておられたのです。そして共に死を悲しまれたのです。 5月2日(金)ヨハネ一一37〜40  「さすがのイエスさまもラザロを死なせないようにはできなかったね」といじわるを言う人もいました。だからみんなラザロが死んだことはしょうがないと思いました。だれもイエスさまがこれからすることを想像できませんでした。 5月3日(土)ヨハネ一一41〜45  イエスさまは父なる神さまにお祈りをして、ラザロを呼びました。すると布で巻かれたままのラザロがお墓の中から出てきたのです。見た人はラザロのよみがえりをどんなに喜んだことでしょう。そして人々はイエスさまがよみがえりであり、命であることを信じました。  「ごちそうさん」のドラマを見たことがありますか。出てくるおにぎりがおいしそうで、見ているといつも食べたくなりました。私たちは食事をとることで、元気に生きることができます。同じように心にもご飯が必要です。心のご飯は神さまの言葉、聖書ですね。聖書の言葉は、私たちの悩みや苦しみにこたえをくださり、どう生きたらいいかを教え励ましてくださいます。心のおいしい食物です。 5月4日(日)ヨハネ六1〜6  手もとにあったのは、子どもの差し入れた五つのパンと二匹の魚だけ。大勢の人がお腹いっぱい食べるのにはどうしようもありません。でもみんな望むだけ食べることができたのです。イエスさまがお祈りをして分けたら五千人以上の人がお腹いっぱいになりました。私たちが「これだけ」と思ってもイエスさまに足りないことはありません。 5月5日(月)ヨハネ六22〜29  どんなにおいしいごちそうを食べても心に寂しさを感じて満足できない人がいます。本当においしいものを食べて満足できるのは、心を満たすご飯も食べることです。それはイエスさまを信じることです。 5月6日(火)ヨハネ六30〜40  イエスさまは自分のことを「わたしは命のパンである」と言われました。昔イスラエル人が荒野の旅で神さまが毎朝降らせるマナを食べて生きたように、今度はイエスさまが天から神さまによってくだって来られた命のパンなのです。 5月7日(水)ヨハネ六41〜51  イエスさまの言葉に、「あの人は天からくだってきたんじゃないよ。ヨセフの子じゃないか。」とつぶやく人がいました。イエスさまの言葉を受け入れるには、神さまの助けが必要でした。 5月8日(木)ヨハネ六52〜59  イエスさまは、「わたしの肉を食べ、血を飲むならば、永遠の命を持つ」と言われましたが、多くの人はどうやってイエスさまの肉など食べられるんだと思いました。もちろんそれはイエスさまを本当に食べることではなく、私のためにイエスさまが十字架で死なれたことを信じることなのです。 5月9日(金)ヨハネ六60〜65  イエスさまの弟子の中にも、これはひどい話しだと文句を言った人がいました。そんなのはありえない言葉に聞こえたのでしょう。イエスさまの言われた言葉を分かったり、信じたりすることができるのは聖霊に教えてもらうことだからです。 5月10日(土)ヨハネ六66〜71  多くの弟子たちがイエスさまから離れて行きましたが、十二弟子は離れませんでした。わからないこともありました。でもイエスさまは本物だ、私たちを救ってくださる神の子だと信じていました。だから離れたくありませんでした。  田舎道では、電灯が少ないと、夜道が真っ暗になります。暗いと前が見えないので怖いですね。でも月が出ている時は、とても明るく照らされて夜道を歩くことができます。私たちも目の前が真っ暗になったような気持ちになることがあります。でもイエスさまという光は、どんな心の暗闇にもやってきて、明るく希望の光を照らし出してくださいます。 5月11日(日)ヨハネ八12  もし楽しいことなんてほとんどないとしたら、毎日の生活は辛いですね。また自分の心に重いものがあって生きていていいのかなと思ったままも生きにくいです。でも「世の光」であるイエスさまは暗くなりがちな心を、うれしい気持ちにし、心を軽くしてくださいます。 5月12日(月)ヨハネ九1〜7  生まれつき目の見えなかった人を見るとイエスさまの時代の人々は、本人か両親が悪いことをしたせいだと考えました。けれどもイエスさまは誰のせいでもない、神さまがこの人にすばらしいことをしてくださるためだと言われました。 5月13日(火)ヨハネ九8〜12  昔からこの人のことを知っている人々はびっくりしました。見えないはずの人が見えるようになっていたからです。イエスさまによって目が見えるようになったことを人々は聞きました。こんなすばらしいことができるのはイエスさまだけですが、みんなイエスさまのことをまだ知りませんでした。 5月14日(水)ヨハネ九13〜23  ユダヤ人のリーダーたちは、目の見えなかった人が見えるようになったことを、どんなに説明しても信じませんでした。イエスさまがどんなにすばらしいことをしても、心の目が曇っていたので認めたくなかったからです。 5月15日(木)ヨハネ九24〜26  ユダヤ人のリーダーたちは、イエスさまが罪人だと決めつけていました。イエスさまのすることがなにもかも気に入らず、イエスさまが邪魔でした。イエスさまの正しさを見ていても、イエスさまへの敵対心が心の目を見えなくしていたのです。 5月16日(金)ヨハネ九27〜34  目が見えなかった人は、物が見えるようになっただけでなく、自分の目を開けた人が神さまから来たのだと思うようになりました。神さまから来た方だから、こんなことができたのだと。心の目も開かれていました。けれどもユダヤ人社会からのけ者にされてしまいました。 5月17日(土)ヨハネ九35〜41  イエスさまはのけ者にされてしまった彼にもう一度会ってくださいました。すると目を開けてもらった人は、イエスさまを救い主と信じました。私たちもイエスさまを信じると、イエスさまという光に照らされて周りのことを見る目が変えられるのです。  学校やおうち、建物には、塀や囲いがあります。塀の中に入ろうとする時に、普通は塀を乗り越えようとはしません。門を探して門から入りますよね。イエスさまはご自分を「門」だと言われました。イエスさまが門ってどういうことでしょう。イエスさまを門として入るところはどこなのでしょう。 5月18日(日)ヨハネ一〇1  イスラエルでは羊を囲いの中にいれて守っていましたが、時々羊どろぼうが塀を乗り越えてやってきたようです。私たちも羊のように弱く、どろぼうや、獣のような悪魔から守り助けてもらう必要があります。私たちを守る羊飼はイエスさまなのです。 5月19日(月)ヨハネ一〇2〜3  羊飼と門番と羊はお互いを知っています。門番は安心して羊飼のために門を開けます。羊たちは羊飼の呼ぶ声がわかりついていきます。私たちにとってイエスさまは羊飼です。どうやってイエスさまの声を聞けますか?聖書を読んだり、お祈りしたり、礼拝したりすることで、イエスさまの言葉を聞くことができます。 5月20日(火)ヨハネ一〇4〜6  羊飼は先頭にたって進みます。羊たちは迷子になりやすいので羊飼の聞き慣れた声をたよりに安心してついて行くのです。同じように、私たちの先頭を羊飼イエスさまは進みます。このお方について行くと、険しい道も乗り越えられます。 5月21日(水)ヨハネ一〇7〜8  「わたしは羊の門である」とイエスさまは言われました。門は獣やどろぼうから、羊を守りました。イエスさまは私たちを守る門です。襲って来る悪魔の攻撃や、正しくない方法で私たちをコントロールしようとする力から守ってくださいます。 5月22日(木)ヨハネ一〇9  イエスさまを信じたらあなたもイエスさまという「門」を通っています。イエスさまを通ったら、神の子とされています。この門を自由に出入りすることは、イエスさまを信じて神の子として歩む毎日のことで、神さまからの愛や助けをいただきながら、安心して進めるのです。 5月23日(金)マタイ七13〜14  イエスさまを信じていなくても、他の神さまや他のすばらしい教えや占いが自分を助けてくれそうだと思えるかもしれません。でもイエスさましか私たちを罪から救うことはできません。イエスさまを信じるという狭い門だけが神さまにつながっているからです。 5月24日(土)ヨハネ黙示三8  イエスさまの十字架の死とよみがえりが開いてくださった神さまへつながる門は、だれも閉じることはできません。いつでも開かれています。だから私たちも、いつも心をイエスさまに開いて信じ続けることによって、神さまにつながり続けることができます。  あなたは動物の世話をしたことがありますか。生き物を飼っている人は、食べ物をあげたり、散歩に連れて行ったり、遊んであげたりと世話をすることによって、家族のように一緒に生活していますね。私たちもいろいろな人からお世話を受けています。家族、近所の人、友だち、学校、習い事、教会学校の先生などなど。何よりも神さまからのお世話を私たちは受けていますね。 5月25日(日)ヨハネ一〇10〜11  良い羊飼はかっこよくて優しくてみんなの憧れなので、羊たちがみんななつきます。何よりも羊を助けるためには自分の命さえ代わりに差し出すのが良い羊飼です。イエスさまは私たちの良い羊飼となって、十字架に命を差し出してくださいました。 5月26日(月)ヨハネ一〇12〜13  羊の飼い主ではなく、アルバイトで羊の世話をする人は、狼が襲って来ると逃げ出します。良い羊飼であるイエスさまは、私たちを自分の羊としてかわいがり、決して逃げ出さないで守り切ってくださいます。 5月27日(火)ヨハネ一〇14〜15  イエスさまは私たちのことをよく知っておられます。私たちはどうでしょう?私たちはイエスさまについて行けば大丈夫だと知っていれば十分です。神さまとイエスさまが一つであるように、私たちもイエスさまと一つです。イエスさまによって命をいただいたからです。 5月28日(水)ヨハネ一〇16〜18  今はイエスさまを知らない人も、やがてイエスさまを信じて、羊飼イエスさまについていく一つの群になる日がきます。私たちの周りにいる人が早くイエスさまを知ることができますように。 5月29日(木)サムエル上一七31〜49  二代目のイスラエル王になったダビデは、もとはライオンや熊を倒して羊を守る勇敢な羊飼でした。それは神さまに守られていたからできたのです。彼よりも何倍も体が大きくて強いペリシテ人ゴリアテとの戦いも神さまによって勝ちました。彼は神さまの力を信じて強い人とされました。 5月30日(金)詩篇第二三篇  この詩篇でダビデは神さまこそすばらしい羊飼だとうたいました。羊のような自分たちを草のあるところへ連れて行き、食べさせ休ませ守ってくれる。このお方についていくなら、恐ろしい獣がせめてきても大丈夫だとうたいました。神さまは私たちのすばらしい羊飼です。 5月31日(土)ヨハネ二一15〜17  イエスさまは裏切ったペテロをゆるし、これからはペテロがイエスさまの弟子になる人たちを教え、世話をするようにと「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。イエスさまのお世話を受けた私たちも、いつか誰かをお世話をするまでに成長させてくださいます。  「〜への道」という言葉がよく使われます。「勝利への道」や「栄光への道」もよく聞きますね。練習をがんばることや、一生懸命勉強して、勝利や一番という栄光をつかむ人がいます。聖書では、イエスさまを信じる人々は「この道の者」と言われます。「この道」とはどんな道でしょう。それはイエスさまを信じる人がどんな風に生きているかを言います。イエスさまという道を歩く生き方です。 6月1日(日)ヨハネ一四1  イエスさまがいなくなってしまうらしい。これからどうなってしまうの?そう思った時に弟子たちはとても不安になりました。だからイエスさまは「心を騒がせるな、神を信じわたしを信じなさい」と言われたのです。先が見えなくて怖くなる時心が安心できるのは、神さまとイエスさまを信じることです。 6月2日(月)ヨハネ一四2〜4  イエスさまはしばらく弟子たちの前からいなくなりますが、それはイエスさまを信じるすべての者たちのために、天国でのお家を用意するためでした。イエスさまが十字架で死なれ、よみがえられた後、天にお帰りになることによって、天国の住いが整えられるのです。 6月3日(火)ヨハネ一四5〜6  イエスさまの行かれる天へはどうやって行くことができるのでしょうか。イエスさまご自身が天への道です。イエスさまを救い主として信じ従うと、イエスさまの道を進むことができます。イエスさまだけが神さまに通じる道です。 6月4日(水)ヨハネ一四7〜9  弟子たちはイエスさまを見れば、父なる神さまはこういうお方なんだとわかることできました。でも心の目がふさがっていてわからなかったのです。今も神さまは目で見ることはできませんが、イエスさまの生き方から神さまの愛を知ることができます。 6月5日(木)ヨハネ一四10〜11   イエスさまの語る言葉によって、いろいろな人が力を受けました。またイエスさまは、病気を治し、悪霊を追い出し、死んだラザロすら生き返らせました。こんなことができるのは神さまだけです。だからイエスさまを見たら神さまを見たことと同じなのです。 6月6日(金)Tヨハネ四12  神さまを見ることができたら信じやすいのに、と思うかもしれません。でもイエスさまのなさるすばらしい奇跡を見ても、信じることのできない人がたくさんいました。神さまから愛されているとわかることが、信じる力となります。 6月7日(土)Tヨハネ四13〜16  神さまを信じると、私たちはかみさまのものになります。私たちの心には神さまがいつも住んでおられます。私たちは神さまと一つなので、愛されていますし、愛する人にしてくださいます。  今日は聖霊が弟子たちにくだり、教会が生まれたペンテコステの日です。信じる私たちの心にはいつも聖霊なる神さまがいてくださいます。そして聖霊の力が、私たちを神さまの喜ばれることができるよう、助けてくださいます。聖霊に満たしてくださいとお祈りする聖霊が私たちのうちに満ちてくださり、イエスさまのお手伝いをさせてくださいます。 6月8日(日)ヨハネ二〇19  イエスさまが復活された日の夕方、弟子たちは自分たちも仲間として捕らえられるのではないかと恐れて、鍵をかけて家の中に閉じこもっていました。ところがよみがえられたイエスさまが、部屋の真ん中に立たれたのです。そして「安心しなさい」と声をかけられました。イエスさまの姿に、弟子たちの恐れは一瞬で吹き飛びました。 6月9日(月)ヨハネ二〇20  この人は本物のイエスさまかな?と疑う人もいたかもしれません。戸を開けなくても入って来られるなんて普通ではありえないですね。でもイエスさまは弟子たちに手の釘跡とわきの傷跡を見せて、本物だよと示されました。弟子たちはうれしくてうれしくてたまりませんでした。 6月10日(火)ヨハネ二〇21〜22  イエスさまは弟子たちに、これからは「わたしのために働いてもらうよ」と言われました。弱いこわがりな彼らで大丈夫でしょうか?大丈夫です。イエスさまが息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われました。弟子たちは新たな力を受けました。 6月11日(水)ヨハネ二〇23  弟子たちがイエスさまから与えられた働きは、人々に「イエスさはあなたのために十字架でしなれました。だからあなたの罪は赦されます」と伝えることでした。誰でも罪赦されると、心が本当に自由になって喜びと感謝に生きられるのです。 6月12日(木)使徒二1〜13   ペンテコステのお祭りの日、弟子たちは一人一人聖霊を受けました。聖霊に満たされると、聖霊の力によって、学んだことのない外国語でイエスさまこそ救い主だと語りはじめたのです。聖霊は私たちに神さまのことを伝える言葉と力とチャンスを与えてくださいます。 6月13日(金)使徒二22〜36  ペテロは大勢の人々に、あなたがたが十字架につけたイエスさまは、死なれたけれどもよみがえられた救い主だと話しました。そのことを目で見た証人として、聖霊の力を受けながら確信をもって語りました。 6月14日(土)Tヨハネ四37〜42  ペテロの言葉は、人々の心に深く届き、三千人もの人が悔い改めてイエスさまを信じ、赦しを受けました。イエスさまの命の息が弟子たちのうちに流れ続け、イエスさまのお働きに用いられました。  図工で作った作品や描いた絵はとってありますか。自分が作った作品は、けっこう気に入ってなかなか捨てられない物もあるでしょう。図工が得意でない人も、お家の人が作品を大事にとっておいていることもありますね。ところで私たちも神さまの作品です。私たちは自分の欠点を見て、失敗作だったんじゃないのと言いたいところがあるかもしれませんが、神さまに失敗作はありません。 6月15日(日)創世記二4〜8  私たちはお母さんのお腹の中から生まれてきました。それはみんな一緒です。でも一番初めの人間はどうだったのでしょう。初めは神さまが土で人を形作り、命の息を神さまが吹き入れると、人は生きはじめたのです。だから人は神さまの作品なのです。 6月16日(月)詩篇一三九1〜6  私たちは自分のことを知っている部分と、知らない部分があります。人からは見えるのに、自分では見えないことがあるからです。でも人も知らない自分の心の奥深いところまですべてを知っているのは神さまです。 6月17日(火)詩篇一三九7〜12  神さまから離れようと、遠くへいったり、隠れたりしても、神さまの目から隠れることはできません。でもそれは私たちを常に見張っている目ではなく、私たちを大事に思ういつくしみの目なのです。 6月18日(水)詩篇一三九13〜16  神さまは私たちをお母さんのお腹の中で造ってくださいました。だから生まれる前から神さまは私たちを知っておられ、神さまが生まれさせてくださったのです。偶然に生まれたのではなく、神さまの愛によって生まれ、生かされているのです。 6月19日(木)詩篇一三九17〜18   神さまは私たちのことをすべて知っておられますが、私たちは神さまのことをすべて知ることはできません。世界中にはたくさんの人がいて、たくさんの生き物がいて、多くの問題があって、私たちには手に負えないことばかりです。けれどもすべてに神さまは思いをもって働いておられます。 6月20日(金)詩篇一三九19〜24  私たちの敵は神さまから私たちの思いを引き離そうとする悪魔の働きです。悪魔は私たちが誰かに対していだく思いを利用して、私たちの道をそらそうとします。だから祈りたいと思います。「私の心に喜ばれないものがないかを探ってください」と。   6月21日(土)エペソ二10  私たちはとてもお世話になった人に何かお礼をしたくなります。同じように神さまがどんなに私たちを愛してくださっているかを知ったなら、神さまにいつもありがとうという気持ちで従ったり、こたえたりしたくなります。そういう良い作品として私たちは造られたのです。  大事なものをなくして一生懸命探したことはありますか?私は「探せ。そうすれば見出すであろう」というみ言葉を信じて「神さま、見つかりますように!」とお祈りしながら探したことが何度となくあります。するとちゃんと見つかるのです。見つかるとほんとにうれいしですね。神さまにとっても私たちは、誰もみつからないままでいていい人はいないのです。 6月22日(日)ルカ一五1  イエスさまの時代、取税人や罪人といった、人々から嫌われた職業の人と交わることは、よく思われませでした。けれどもイエスさまはそういう人々とよく一緒に食事をし、交わりをしました。そこである人々は「あなたのしているのは良くない」と言いました。本当にそれは良くないことだったのでしょうか。 6月23日(月)ルカ一五2〜7  そこでイエスさまはたとえを語られました。百匹の羊を持つ羊飼が一匹の羊がいなくなったことに気づきます。彼はその一匹を必死で探し、見つかったら大喜びをして近所の人と喜びました。神さまは罪人だったらあきらめ、立派な人なら大事にするお方ではありません。どんな一人でも捜して見つけ出し、神さまのもとに戻ることを喜ばれます。 6月24日(火)ルカ一五8〜10  女の人にとって十枚の銀貨は、結婚指輪のような意味を持っていました。だから一枚でもなくしたままではいられません。女の人はなくした銀貨を見つけると近所の人と一緒に喜びました。天においても悔い改めて神さまのもとに帰る一人の人を、天使たちも喜んでいます。 6月25日(水)ルカ一五11〜13  弟息子は、お父さんの生きているうちに財産を分けてもらいました。そして受けとったお金をすべて遊びで使い果してしまったのです。父親から離れて自分の力でうまくやることができませんでした。 6月26日(木)ルカ一五14〜19   弟息子は飢饉のために食べる物がなく、ユダヤ人が最も嫌う豚の世話をするまでに落ちぶれました。そこで初めて彼は自分が愚かであったと本心に立ち返りました。  6月27日(金)ルカ一五20〜24  雇い人の一人にしてもらう決心で家に帰りますが、お父さんはずっと弟息子の帰りを待っていて、喜んで迎え入れ、宴会まで開きました。このお父さんは、神さまの姿です。罪人と蔑まれた人でも、悔い改める人を神さまは受け入れてくださいます。 6月28日(土)ルカ一五25〜32  兄息子は。パリサイ人たちの姿です。彼らは外側は立派な人たちでしたが、自分を自慢し喜ばせるためにしていました。彼らも神さまに悔い改めなければならない罪人でした。そして彼らも神さまに愛されていました。    私たちはいつか死を迎えます。でもそれはいつなのかわかりません。でももしあとわずかしか生きられないと知ったら、残りの時をどのように過ごしたいですか?死んだ後、自分がどこへ行くのか不安はありませんか。それなら、イエスさまを信じたらいいのです。死んだ後のこともイエスさまが引き受けてくださるからです。 6月29日(日)創世記三1〜3  世界が造られたばかりの時は、人は死ぬことはありませんでした。でもエデンの園では食べてはいけない実のなる木が一本だけあって、それを食べたら死ぬと言われていました。蛇はエバをそそのかそうとその木の話題で彼女の心をひきました。 6月30日(月)創世記三4〜7  蛇は食べてはいけない木の実を食べても死なないと言いました。それどころか神さまみたいになれると言うのです。思わずエバは食べてしまいます。アダムにも勧め、彼も食べてしまいました。すると裸であることに気づきお互いを恥ずかしく思うようになってしまいました。 7月1日(火)創世記三8〜10  アダムとエバは神さまの歩かれる音を聞くと、神さまから隠れるようになりました。してはいけないと言われたことをしたうしろめたさと、裸である恥ずかしさに神さまの前に出られなくなっていました。 7月2日(水)創世記三11〜13  神さまはアダムに、善悪を知る木の実を食べたのかと聞きました。するとアダムはごめんなさいと言うことができず、エバに食べさせられたとエバのせいにしました。神さまに責められたエバは、ごめんなさいと言えず、蛇にだまされたと言いました。神さまの言葉に従わない罪、悔い改めない堅い心を人は持つようになりました。 7月3日(木)創世記三14〜15  エバをそそのかした蛇は悪魔でした。蛇は悪魔としてあらゆる獣の中で呪われるという裁きを神さまから受けました。そしてずっと後に救い主によって完全に悪魔が砕かれることを定められました。 7月4日(金)創世記三16〜19  アダムとエバもそれぞれ神さまから裁き受けました。二人の間には罪があり、お互いに不満をもったり、怒ったりするようになりました。神さまの助けがなくてはお互いを本当に愛することが難しくなってしまいました。 7月7日(土)ヘブル二14〜18  罪によって人は死ぬことになりました。死んだらどこへ行くのか恐れました。けれどもイエスさまは人間となって生まれてくださり、私たちの悩みや苦しみ、恐れを一緒に味わってくださいました。そして十字架の死と復活によって、罪と死に勝たれました。だからイエスさまを信じたら、死んだ後も神さまと一緒にいさせてくださいます。