あけましておめでとうございます。今年も聖書で一年がスタートしたでしょうか。もう三日坊主で挫折してしまった人も、あきらめないでまた聖書を読みましょう。聖書の御言はあなたのこの一年を神さまの豊かな祝福でいっぱいにしてくれるはずです。    ◇  ◆  ◇ 1月6日(日)ヨハネ二 イエスさまはカナでもたれた結婚式に行きました。お母さんのマリヤやお弟子さんたちも一緒です。ところがそのすばらしい喜びの時に、途中でぶどう酒がなくなってしまいました。これでは、結婚式は台無しです。でもイエスさまはその大ピンチで、水をおいしい上等のぶどう酒に変えてくださいました。イエスさまのお手伝いをした人たちだけが、もともとそれが水であったこと、イエスさまがそのことをしてくださったことを知っていました。 1月7日(月)ヨハネ二13~24 主イエスがエルサレムに行かれたとき、大事な神殿でいっぱいお金をもうけてやろうという人たちがそこで商売をしていました。イエスさまはとても怒って、その人たちを追い出してしまいました。そこは父なる神さまの家だからです。    ◇  ◆  ◇ 1月8日(火)詩篇一1~6 「主のおきて」とは聖書の御言のことです。御言を喜んで、いつもそれを思う人は、神さまの豊かな祝福をいただくことができます。朝聖書を読んで終わったら忘れてしまうでは困ります。何回も思い出して心にとめしょうね。    ◇  ◆  ◇ 1月9日(水)詩篇二1~12 神さまは王の王、主の主です。ですからこのお方に背くのはとても愚かなことです。私たちはいつも恐れの心をもってこのお方に近づき、このお方に仕えるのです。このお方を信じ、このお方に寄り頼むのです。 1月10日(木)詩篇三1~6 この詩篇を書いた人にはたくさんの敵がいました。敵に囲まてしまうこともありました。でもそんな中でもこの人はゆっくり眠り、目を覚まします。神さまが支えていてくださったからです。    ◇  ◆  ◇ 1月11日(金)詩篇四1~8 悩みがないわけではありません。むずかしいこともいろいろあったでしょう。でもこの人は安らかで、その心には喜びがあふれていました。神さまがその心に喜びをくださったのです。    ◇  ◆  ◇ 1月12日(土)詩篇五1~12 この詩篇を書いた人は朝ごとに神さまを礼拝し、朝ごとにお祈りをしました。そして、朝ごとに神さまはこの人の祈りを聞いて祝福を与え、その新しい一日のために必要な導きを与えてくださいました。そしてその一日も神さまが盾となって守って下さることを信じて一日を歩み出したのです。 みんなは朝起きたら一番に何をするだろう。「もう朝よ!学校に遅れるわよ」と叱られながら起きて、着替えて、ごはんを口にほおり込んで、「行ってきます!」って学校に飛び出すんだろうか。  いいことがある。これをするとみんなの一日がガラッと変わる。それは朝起きたらまず一番に、お祈りをする。夜の間も神さまが守ってくださったことを神さまに感謝し、この一日もお守り下さいと祈る。そうすると、きっとその一日がさわやかに始まるはずだ。まだの人は始めてみよう。    ◇  ◆  ◇ 1月13日(日)ヨハネ三1~3 イエスさまのところに夜、聖書の先生が訪ねてきた。ニコデモさん。でもイエスさまはこのニコデモに、聖書のことをいっぱい知っているとか、どれだけ偉いかではなく、新しく生まれることが大切だよ、と教えてくださった。 1月14日(月)ヨハネ三4~8 新しく生まれるって、お母さんのお腹の中にもう一度入って生まれ直すことではない。水と霊から生まれるとは、救い主のイエスさまを信じて、新しい命をいただくことなんだ。    ◇  ◆  ◇ 1月15日(火)ヨハネ三9~15 私たちが罪をゆるされて、新しく生まれるために、イエスさまは十字架に「上げられて」くださった。そしてこの十字架のイエスさまを信じる人は永遠の命をいただくことができる。    ◇  ◆  ◇ 1月16日(水)ヨハネ三16 神さまは「この世」を愛してくださった。それは私たちみんなのこと。どれくらい愛してくださったのだろう。たったひとりの御子イエスさまを与えて下さるほど。だから、イエスさまを信じる人は絶対に滅びることはない。天国まで続く永遠の命が与えられる。みんなはこの命を持っているかな。 1月17日(木)ヨハネ三17~21 悪いことをする人、罪を持っている人は裁かれます。神さまの罰を受けなければなりません。それはとても怖いことです。どうしましょうか。真面目になる決心をしましょうか。一生懸命何かいいことをしましょうか。知って下さい。イエスさまを信じる人は裁かれないのです。    ◇  ◆  ◇ 1月18日(金)ヨハネ三22~30 イエスさまのところにたくさんの人が集まるようになると、バプテスマのヨハネのところにはだんだん人が少なくなってきます。でもそれでいい、とヨハネは言います。ヨハネはみんなにイエスさまを紹介したかったからです。    ◇  ◆  ◇ 1月19日(土)ヨハネ三31~36 神さまのところから来たイエスさまは神さまの言葉を私たちに与えてくださいます。ですから、私たちはイエスさまを信じ、この方の語られることをよく聞くのです。 もう一つ朝にできたらいいこと。それは朝、着替えたら、すぐに朝ご飯ではなくて、座って自分の聖書を開いて、短くてもいいから読むこと。心に残った言葉があったら線を引いたらいい。そしてその言葉を何度も心に刻むこと。そして、この新しい一日のために神さまの助けを求めてお祈りをする。ほんの5分でも10分でもいい。  無理~と思っている人。それはあなたがギリギリに起きるからだ。起こされるまで寝てようと思うからだ。自分で起きる時間を決めて目覚ましをかけて起きてごらん。きっと一日がさわやかに始まる。    ◇  ◆  ◇ 1月20日(日)ヨハネ四1~15 イエスさまはサマリヤも町に立ち寄って、井戸のほとりでひとりの女の人と話をした。イエスさまはこの人に命の水をあげたかった。その人の心に永遠の命の水があふれ出る命の水。 1月21日(月)ヨハネ四16~26 この女の人は、イエスさまがただの人ではないと分かってきました。イエスさまは、ユダヤ人とかサマリヤ人とかえではない、心を込めて真実な礼拝をささげる人たちが集まってくる日が来る。あなたもその一人になりなさいと招かれたのでした。    ◇  ◆  ◇ 1月22日(火)ヨハネ四27~38 イエスさまはご飯を食べるよりももっと大好きで、もっと元気になることがありました。それは神さまの御心を行うことです。そして、みんながイエスさまを信じて永遠の命を得ることなのです。    ◇  ◆  ◇ 1月23日(水)ヨハネ四39~42 女の人の言葉を聞いてイエスさまのところにたくさんの人たちがやって来ました。そしてイエスさまの話を自分で聞いて、大勢の人がイエスさまを救い主として信じました。イエスさまも、この女の人もとてもうれしかったでしょうね。 1月24日(木)ヨハネ四43~45 イエスさまはガリラヤの人たちが本当の意味でイエスさまを信じることがないことを知っていました。人々は確かにイエスさまを歓迎しました。イエスさまはガリラヤのヒーローです。でもイエスさまを信じてはいなかったのです。    ◇  ◆  ◇ 1月25日(金)ヨハネ四46~54 病気の息子を持つ役人がいました。このお父さんはイエスさまのところにやって来て、カペナウムに来て息子を助けてほしいと言いました。でもイエスさまはただ、お言葉を与えて、この人を帰らせました。この人はイエスさまの言葉を信じて帰ったのでした。    ◇  ◆  ◇ 1月26日(土)ヨハネ五1~18 38年も病気に悩んでいる人がいました。イエスさまは「なおりたいのか」と声をかけ、「起きて、床を取りあげ、歩きなさい」とおっしゃって、彼をいやしてくださいました。 でもなあ、朝は眠くてどうしても起きられないんだよなあ、という人に名案があります。夜更かしをやめて、今よりも30分早く寝るのです。そうすると、きっと朝起きるのが楽になります。そして自分で「えぃ!」と、がばっと起きて、眠い頭ではなくて、さわやかな頭で一日を始める。そうすると、聖書を開いて読み、そしてお祈りすることが今よりもずっと楽しくなると思いますよ。    ◇  ◆  ◇ 1月27日(日)ヨハネ五19~29 子とはイエスさまのこと、父とは父なる神さまのことです。イエスさまはいつでも父なる神さまに従っておられました。そして、イエスさまを信じる人が、その罪のために裁かれて地獄に行くことなく、永遠の命を得て、天国に行くことができるようにしてくださるのです。あなたはイエスさまを信じていますか。 1月28日(月)ヨハネ五30~47 聖書にはいろいろといい言葉があるなあと思います。けれども、聖書はイエスさまについて書いてあるのです。もちろん、旧約聖書を見ると、イエスさまという名前は出て来ません。でも、旧約聖書も新約聖書も救い主のイエスさまを指し示しているのです。    ◇  ◆  ◇ 1月29日(火)ヨハネ六1~14 イエスさまのところに集まって来たたくさんの人たちにイエスさまはパンを食べさせてあげたいと思いました。でもあったのは五つのパンと二匹の魚。イエスさまはそれを祝福してみんなのほしいだけ食べさせてあげました。    ◇  ◆  ◇ 1月30日(水)ヨハネ六15~21 ガリラヤ湖の上で大嵐が襲ってきます。イエスさまは舟の中にいません。でもイエスさまは海の上を歩いて近づいて「わたしだ、恐れることはない」とおっしゃったのでした。 1月31日(木)ヨハネ六22~40 みんなはイエスさまにまたパンを出してほしいと思ったかもしれません。でもイエスさまは食べるパン以上に、もっとすばらしいものを用意しておられました。イエスさまご自身が命のパンだったのです。    ◇  ◆  ◇ 2月1日(金)ヨハネ七37~39 イエスさまは大声でおっしゃいました。だれでもかわく人は私のところに来て飲むがよい。イエスさまが下さる水を飲むと、そのお腹から生ける水が川のように流れてくる。多くの人たちを生かしていくことができるのです。    ◇  ◆  ◇ 2月2日(土)ヨハネ八1~12 こんな悪いことをした人はどうしたらいいでしょうか。死刑ですよね。つめよる人たちにイエスさまは罪のない人がまず石を投げなさい、とおっしゃいました。そしてこの女に人に罪のゆるしを与えて下さったのです。 朝起きて聖書を読むいいところは、その朝、読んだ御言を一日思いだし、味わいながら一日を過ごせるところ。だから読んで、はい、今日のおつとめおしまい、バタンと聖書を閉じて、何が書いてあったのかすぐ忘れてしまうのはとてももったいない。忘れてしまう人は、聖書通読ノートを作って、毎日いいなと思った言葉をノートに書き取って、何回も見たらいい。きっとみんなの生涯のとても大事な宝になるよ。    ◇  ◆  ◇ 2月3日(日)ヨハネ九1~12 この人が生まれつき目が見えないのはこの人が悪いのですか、両親が悪いのですか、と弟子たちが尋ねた。神のみわざがこの人の上に現れるため、とイエスさまはお答えになってこの人をいやしてくださった。神さまはあなたの人生にも神さまのすばらしいみわざをあらわそうとしておられる。 2月4日(月)ヨハネ九13~23 さてこの日は安息日でした。安息に仕事をするなんてとんでもない、とパリサイ人たちはカンカンです。そんな人はすごく悪い人だ。パリサイ人たちはあわれみに満ちたイエスさまを信じることができなかったのです。    ◇  ◆  ◇ 2月5日(火)ヨハネ九24~34 この人には難しいことはわかりませんでした。でもただそれでも分かっていたことがあります。自分は前は目が見えなかったけれども、今は見えるということです。ある方が自分の目を見えるようにしてくださったということです。    ◇  ◆  ◇ 2月6日(水)ヨハネ九35~41 イエスさまはこの人にもう一度近づいて、自分が救い主であることを教えて下さいました。この人はイエスさまに「主よ、信じます」と言って、イエスさまを信じました。この人は体の目だけでなく心の目も見えるようになったのです。 2月7日(木)ヨハネ十1~6 ここで羊とは私たちのこと、羊飼いはイエスさまのことです。この羊飼いは羊の名前をみんな知っています。そして羊も羊飼いの声を知っています。羊飼いは自分たちのことを守ってくれることをよく知っています。    ◇  ◆  ◇ 2月8日(金)ヨハネ十7~21 イエスさまは、私たちのすばらしい羊飼いです。私たちに豊かな命を与えるために喜んで命を捨てて下さるのです。いつも私たちのことを心にかけて心配していてくださるのです。    ◇  ◆  ◇ 2月9日(土)ヨハネ十22~42 イエスさまはその言葉を通して、またたくさんの奇跡を通してご自分が旧約聖書に約束されたキリスト、救い主であることを教えられました。そして、それはあのバプテスマのヨハネが話していたとおりでした。でもそれでも信じない人もいたのです。 朝、起きるのがどうしてもできない人。朝、聖書を読もうとするとどうしても頭に入らない人は、夕方でも、夜でもいい。自分で時間を決めてほしい。聖書を開いてお祈りする時を持とう。ただその時に読んで心に残った御言が次の日まで覚えていられるようにしてほしい。御言が心の中に何もない、空っぽのままで学校に行くのはさびしいもの。前の夜に読んだ御言を朝、もう一度思い出したらいいね。    ◇  ◆  ◇ 2月10日(日)ヨハネ十一1~16 マルタやマリヤの兄弟のラザロが病気だった。マルタもマリヤもイエスさまに早くきてほしかったでしょうね。でもイエスさまはすぐには動きません。イエスさまはラザロの病気によって、神の栄光があらわされることを知っておられたのです。イエスさまは、一番良い時を知っておられました。 2月11日(月)ヨハネ十一17~28 ラザロは死んでしまいました。イエスさまは間に合わなかったのです。でもイエスさまはマルタに、わたしを信じなさい、とおっしゃいました。イエスさまはよみがえりであり、命だからです。マルタは、主よ、信じます、と答えました。    ◇  ◆  ◇ 2月12日(火)ヨハネ十一29~44 マリヤは泣いていました。イエスさまは涙を流してくださいました。イエスさまはマリヤの悲しみを分かっておられたのです。イエスさまはお墓の前の石をどけさせて、ラザロを呼んでくださいました。ラザロは本当に生き返って出てきたのです。    ◇  ◆  ◇ 2月13日(水)ヨハネ十一45~57 たくさんの人たちがイエスさまを信じました。でもこれだけのことが起こっても、まだ信じない人たちがたくさんいました。その人たちはイエスさまを殺そうとします。 2月14日(木)ヨハネ十二1~11 イエスさまはまたベタニヤに行き、マリヤたちの家に行かれます。マリヤはとても高価なナルドの香油をイエスさまに塗りました。みんなはもったいないと言いました。でもマリヤはそうは思いませんでした。    ◇  ◆  ◇ 2月15日(金)ヨハネ十二12~19 イエスさまは人々が迎える中、エルサレムに入っていかれます。でもイエスさまが乗っていたのはかっこいい馬ではなく、小さなロバの子でした。旧約聖書に書いてある通りでした。    ◇  ◆  ◇ 2月16日(土)ヨハネ十二20~36 麦の種が、畑にまかれなかったら、そのまま一粒のままですが、まかれるとたくさんの実を結びます。イエスさまも一粒の麦の種のように、十字架で死のうとしておられました。イエスさまの十字架によって、信じる人はみんな救われる道が開かれたのです。 聖書を読んでいると、神さまが私たちに、あなたのしていることは良くないと、私たちの罪や間違いを示されることがあります。もし、神さまが御言を通して私たちにそのことを教えて下さったら、素直に神さまにおわびして、正しいことをしましょう。神さまが私たちに罪を教えて下さるのは、私たちのことが嫌いだからではありません。私たちのことを愛しておられるから、そのことをあなたに教えてくださったのです。    ◇  ◆  ◇ 2月17日(日)ヨハネ十三1~11 イエスさまが十字架にかかられる前の夜、誰もみんなの足を洗う人がいないのに気づいたイエスさまは、立ち上がって、水をたらいに入れて、一人一人の足を洗ってくださいました。足だけではありません。イエスさまは、足よりももっと汚い私たちの心も、その十字架によってきれいに洗ってくださったのです。 2月18日(月)ヨハネ十三12~20 イエスさまは弟子たちに、自分は手本をしめしたのだとおっしゃいました。ですから、イエスさまの弟子である私たちも足を洗い合います。それはいばりあうのではなく、お互いに仕え合うということなのです。    ◇  ◆  ◇ 2月19日(火)ヨハネ十三21~30 誰かが私を裏切ろうとしている・・・イエスさまはおっしゃいました。イエスさまはイスカリオテのユダが自分を裏切ろうとしていることを知っておられました。イエスさまはユダに最後まで悔い改めてほしかったのです。でもユダは行ってしまいました。    ◇  ◆  ◇ 2月20日(水)ヨハネ十三31~38 イエスさまは弟子たちに新しい戒めを与えられました。それは私たちがお互いに心から愛し合うことです。イエスさまの弟子は愛し合います。イエスさまが私たちを愛してくださったからです。 2月21日(木)ヨハネ十四1~17 イエスさまのお弟子さんたちはとても不安だったと思います。でもイエスさまは、心配しなくて大丈夫、神を信じ、また私を信じなさいとおっしゃいました。イエスさまはお弟子さんたちを見捨てたのではなかったからです。    ◇  ◆  ◇ 2月22日(金)ヨハネ十四18~24 イエスさまはお弟子さんたちに、あなたがたのところに帰ってくると約束してくださいました。私たちはイエスさまを愛します。そしてイエスさまを愛する人はイエスさまの言葉をよく聞いて、従うのです。    ◇  ◆  ◇ 2月23日(土)ヨハネ十四25~31 十字架を次の日に控えていても、イエスさまの心の中には誰も奪うことのできない平安がありました。そして、イエスさまはその平安を私たちにも与えて下さるのです。そして聖霊は、そのイエスさまの言葉を思い起こさせて下さいます。 聖書の御言を読んでいると、神さまが何を願っておられるかが分かってきます。そして、神さまの心が分かってきたら、神さまの喜ばれる生き方をするのです。愛の神さまが私たちにこれをするようにとおっしゃることは何でもさせていただくのです。  神さまが何かをするようにおっしゃるときには、神さまは必ず、そのために必要な力をも与えてくださいます。安心して下さい。神さまがあなたと一緒にいてくださるからです。    ◇  ◆  ◇ 2月24日(日)ヨハネ十五1~11 イエスさまがぶどうの木で、私たちはその枝です。枝は木から離れてしまったら何もできません。でも木としっかりつながっていたらたくさんのおいしい実を結ぶことができるでしょう。イエスさまにつながるとは、イエスさまの御言をいつも心に留めておくことです。 2月25日(月)ヨハネ十五12~17 私たちがイエスさまを選んだのではありません。イエスさまが私たちを選んでくださったのです。そしてイエスさまは私たちに大事なお仕事をまかせてくださるのです。イエスさまは私たちに豊かな実を結ばせて下さいます。    ◇  ◆  ◇ 2月26日(火)ヨハネ十五18~27 イエスさまを信じて生きていると、他の人たちから誤解されたり、憎まれたりすることがあります。でも驚くことはありません。あなたはイエスさまのもので、この世のものではないのです。    ◇  ◆  ◇ 2月27日(水)ヨハネ十六1~11 イエスさまと弟子たちのお別れの時が近づいていました。でもイエスさまは何も心配していません。かえってこれでいいのだと思っておられます。それはイエスさまが帰って行かれた後に助け主である聖霊が来て下さることを知っておられたからです。 2月28日(木)ヨハネ十六12~15 このところでイエスさまは聖霊を、「真理の御霊」と呼んでおられます。この聖霊は、私たちをいつも正しい道に導き、イエスさまのすばらしさを私たちに教えて下さるのです。    ◇  ◆  ◇ 3月1日(金)ヨハネ十六16~24 イエスさまは、私の名前を使って神さまにお祈りし、また求めるようにとおっしゃいました。だから私たちは、お祈りをするときに最後に「イエスさまのお名前によってお祈りします」と言います。そして、神さまはその祈りに答えてくださいます。    ◇  ◆  ◇ 3月2日(土)ヨハネ十六25~33 私たちがこの世で歩んでいるとき、私たちにはやっぱりなやみがあります。どうしていいかわからないこと、こわいこともあるでしょう。でも勇気を出してください。イエスさまはこの世に、悪魔の力にすでに勝ってくださったからです。  聖書の御言は私たちが罪を犯し、間違ったことをしていると、そのことを示し、私たちを悔い改めに導いてくれます。また神さまが何を喜ばれるかを教えて、私たちが正しいことをするようにと、私たちを導いてくれます。でもそれだけではありません。もっとすばらしいことは、私たちにイエスさまがどのような方なのか、神さまがどんなに恵み深いお方なのかということを指し示してくれるのです。ですから私たちが御言に触れ続けていると、神さまのことが分かってくるのです。そして私たちはきっととてもうれしくなるはずです。    ◇  ◆  ◇ 3月3日(日)ヨハネ十七1~5 この十七章は十字架を前にしたイエスさまのお祈りです。イエスさまは十字架を通して神さまの栄光が表され、人々は神を知り、永遠の命を持つようになることを知っておられました。 3月4日(月)ヨハネ十七6~19 イエスさまは次にお弟子さんたちのためにお祈りします。弟子たちはこの世にいても、この世のものではありません。弟子たちはみんな神さまのものです。イエスさまは弟子たちが心を一つにして神さまに仕えることができるようにとお祈りになったのです。    ◇  ◆  ◇ 3月5日(火)ヨハネ十七20~26 弟子たちによってやがてイエスさまを信じる人たちのためのお祈りです。イエスさまを信じる人たちがひとつになることができるようにという祈りです。そのことによってこの世はイエスさまが救い主であることを知るからです。    ◇  ◆  ◇ 3月6日(水)ヨハネ十八1~14 ユダはイエスさまがいつもどこでお祈りするか知っていました。イエスさまは他の弟子たちを逃がして自分は捕まえられていきました。神さまgあそのことを計画しておられるのを知っていたからです。 3月7日(木)マタイ二六26~29 イエスさまは最後の食事の時、パンとぶどう酒を弟子たちに渡して最初の聖餐式をなさいました。ですから今でも教会では、洗礼を受けた人たちが一緒に聖餐式を守ります。イエスさまの十字架を覚え、主を待ち望むためです。    ◇  ◆  ◇ 3月8日(金)マタイ二六36~46 イエスさまはゲッセマネの園でお祈りになりました。イエスさまは私たちの罪を負って十字架で死ぬことがどんなに恐ろしいことか知っておられたのです。けれども主は「わたしの思いではなく、みこころのままに」と祈られました。    ◇  ◆  ◇ 3月9日(土)マタイ二六47~56 イスカリオテのユダがやって来ました。ユダはイエスさまにキスをします。それが合図でした。イエスさまがしようと思えば十二軍団の天使を呼ぶこともできました。でもイエスさまは御言が実現することを大事にされたのです。  御言は神さまからの警告や導きであるだけでなく、神さまの約束です。聖書の御言は全部本当です。嘘がありません。それは神の言葉だからです。神さまが嘘をおっしゃることはないし、都合が悪くなったり、気が変わることもありません。ですから、私たちは安心して、聖書を読み、安心して聖書の御言を信じていいのです。聖書の御言は決して変わることなく、私たちを裏切ることもないからです。    ◇  ◆  ◇ 3月10日(日)ヨハネ十八15~18 ペテロは見つからないように気をつけながらイエスさまについて行きました。そして何食わぬ顔で大祭司の庭に入り、火にあたりながら、様子をうかがっていました。でも、ペテロのことを見ていた人がいて声をかけられたとき、ペテロは大あわてで、そうではない、と言ってしまいました。怖くなってしまったのでしょうね。 3月11日(月)ヨハネ十八19~24 最初に連れて行かれたのは大祭司カヤパの奥さんのお父さんアンナスのところでした。アンナスはイエスさまの取り調べをします。下役はイエスさまが生意気だと言って平手打ちをしました。でもイエスさまは何も悪いことはしていなかったのです。    ◇  ◆  ◇ 3月12日(火)ヨハネ十八25~27 ペテロは自分はイエスさまの弟子ではないと言いました。イエスさまとも一緒にいなかったと言いました。これで三回目。そして鶏が鳴きました。イエスさまがペテロに言っていた通りでした。    ◇  ◆  ◇ 3月13日(水)ルカ二二24~30 十字架の前の日にも弟子たちは誰が偉いかとけんかをしていました。でもイエスさまは偉い人、みんあを教える人は、仕える人になりなさいとおっしゃいました。イエスさまもまた仕える生き方をしておられたのです。 3月14日(木)ルカ二二31~34 シモンとはペテロのことです。イエスさまはペテロがイエスさまのことを知らないと言ってしまうことを知っておられました。でもイエスさまはペテロのためにお祈りしていて下さったのです。    ◇  ◆  ◇ 3月15日(金)ルカ二二47~53 ユダは十二弟子の一人でした。でもイエスさまを裏切ってしまいます。でも最後でもイエスさまは、「ユダ」と呼びかけておられます。イエスさまはこんなユダにも本当は「ごめんなさい」と悔い改めてほしかったのでしょうね。    ◇  ◆  ◇ 3月16日(土)ルカ二二54~62 ペテロは遠くからイエスさまについていきました。でもペテロは声をかけられたときに、イエスさまのことを三回知らないと言ってしまいます。鶏が鳴いたとき、イエスさまはペテロを見つめました。ペテロはその時にイエスさまの言葉を思い出したのです。 聖書の御言には命があります。そして聖書の御言は私たちに命を与えてくれるのです。聖書の言葉はただの規則やおすすめではありません。聖書の言葉はそれを読んで信じる人のうちに働いて、その人が聖書の言葉の通りに生きることができるようにしてくださるのです。だから毎日、聖書を読むことは大切なことであると共に、私たちの喜びです。聖書を毎日読んでいく中で、神さまは私たちをイエスさまに似た人にしてくださるからです。    ◇  ◆  ◇ 3月17日(日)ヨハネ十八28~40イエスさまは王さまでした。でもイエスさまの国はこの世のものではありません。イエスさまは天も地も全部の王さまなのです。ローマの総督ピラトはイエスさまに何の罪も認めることはできませんでした。イエスさまご自身が真理をであり、神のひとり子でした。 3月18日(月)ヨハネ十九1~5 イエスさまは頭にいばらの冠をかぶせられました。ピラトは「見よ、この人だ」とイエスさまを引き出しました。それはみじめな姿のイエスさまでした。でも、このお方こそがわたhしたc日の救い主なのです。    ◇  ◆  ◇ 3月19日(火)ヨハネ十九6~12 祭司長や下役たちはイエスさまのことを「十字架につけろ」と叫びました。何の罪もないイエスさまを殺してしまおうとしたのです。けれども、それは私たちの罪の身代わりでした。神の子さえも殺してしまうような人間の罪を、イエスさまは十字架の上で負われたのです。    ◇  ◆  ◇ 3月20日(水)ヨハネ十九13~16 イスラエルでは神さまが本当の王さまでした。でも祭司長たちは、「私たちの王さまはローマのカイザル様だけだ」と叫びます。それが本心だったのです。 3月21日(木)ルカ二二63~71 ルカはまずユダヤ人たちの宗教裁判について書きます。イエスさまが自分のことを神の子だと時に、ユダヤ人たちは、「嘘だ!」と言って、死刑にすることに決めたのです。でもイエスさまは本当に神の子でした。    ◇  ◆  ◇ 3月22日(金)ルカ二三1~12 ピラトのところに連れてこられたイエスさまでしたが、ピラトはガリラヤの領主ヘロデのところに送りました。ヘロデもまた兵卒たちもみんなイエスさまのことを馬鹿にしました。    ◇  ◆  ◇ 3月23日(土)ルカ二三13~25 イエスさまが十字架につけられて、そのかわりにたくさん悪いことをしていたバラバが赦され、自由にされました。罪のないイエスさまが十字架に死んでくださったおかげで、私たちも罪がゆるされ、本当は神さまに裁かれて滅ぶべき私に命が与えられたのです。 今週は受難週です。今週の日曜日はイエスさまがろばの子に乗ってエルサレムに入場された日、金曜日が十字架の日です。英語ではこの金曜日を「グッド・フライデー(すばらしい金曜日)」と言います。イエスさまが十字架につけられてしまったことはとても悲しいことです。イエスさまはとんでもない苦しみを経験して下さいました。でもこの十字架のゆえに、私たちの罪が赦される道が開かれました。だからグッド・フライデーなのです。    ◇  ◆  ◇ 3月24日(日)ヨハネ十九17~22 イエスさまは他の二人の強盗と一緒に十字架につけられました。イエスさまの頭の上にはどんな悪いことをしたかという「罪状書き」がつけられていました。「ユダヤ人の王」と書かれていました。神の子、王の王なるお方を、人間は十字架につけてしまったのです。 3月25日(月)ヨハネ十九23~27 イエスさまが十字架に釘づけられたとき、その十字架の下にお母さんのマリヤもいました。どんなに悲しかったことでしょう。イエスさまはお母さんのマリヤを弟子の一人に頼まれたのでした。    ◇  ◆  ◇ 3月26日(火)ヨハネ十九28~30 イエスさまは「わたしはかわく」とおっしゃいました。イエスさまは体も魂も本当に苦しんでくださったのです。でも最後にイエスさまは「すべてが終わった」とおっしゃいました。私の救いのために必要なすべてのことをイエスさまは成し遂げてくださったのです。    ◇  ◆  ◇ 3月27日(水)ヨハネ十九31~42 イエスさまが死なれたとき、アリマタヤのヨセフが勇気を出して、イエスさまの体を引き取ります。ヨセフはひそかにイエスさまを信じたのですが、十字架を見て、イエスさまを信じていることをみんなに言うようになったのです。 3月28日(木)ルカ二三32~38 イエスさまは十字架の上で、自分を十字架につけた人のためにお祈りになりました。呪いや裁きを求める憎しみに満ちた祈りではなく、「父よ、彼らをおゆるしください」ととりなされたのです。イエスさまは私の赦しのためにも祈ってくださったのです。    ◇  ◆  ◇ 3月29日(金)ルカ二三39~43 イエスさまと一緒に十字架につけられていた一人の強盗はイエスさまを信じました。その時、イエスさまは、あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる、と天国を約束してくださったのです。    ◇  ◆  ◇ 3月30日(土)ルカ二三44~49 イエスさまは最後に、父よ、と祈り、自分の魂を父なる神さまにゆだねられたのでした。イエスさまが死んだとき、イエスさまの十字架の番をしていたローマの兵隊までもが、「ほんとうに、この人は正しい人だった」と言いました。 イースターおめでとう。イエスさまは十字架かた三日目の日曜日の朝、死を打ち破り、墓を破って、よみがえられました。イエスさまのよみがえりは、イエスさまの十字架によって確かに私たちの救いの道が開かれたことの保証です。それだけではありません。私たちもやがていつか死ぬ日が来ます。でもイエスさまを信じて永遠の命を与えられた私たちには死は終わりではありません。私たちhやがて、イエスさまがよみがえられたようによみがえるからです。死は私たちにとっても終わりではありません。    ◇  ◆  ◇ 3月31日(日)ヨハネ二十1~10 日曜日の朝、お墓は空っぽになっていました。ペテロもヨハネもお墓の中を調べました。イエスさまのお墓は今も空っぽです。イエスさまは死の力を打ち破ってよみがえられたからです。 4月1日(月)ヨハネ二十11~18 マグダラのマリヤはずっとお墓の外で泣いていました。イエスさまが死んでしまっただけでなく、体までなくなってしまったからです。でもよみがえられたイエスさまは後ろから「マリヤよ」と声をかけてくださいました。    ◇  ◆  ◇ 4月2日(火)Ⅰコリ十五1~11 パウロが伝えた福音は、イエスさまが私たちの罪のために死んでくださったこと、そしてイエスさまが死を打ち破ってよみがえってくださったことでした。たくさんの人たちがよみがえられたイエスさまにお会いしたのでした。    ◇  ◆  ◇ 4月3日(水)Ⅰコリ十五12~19 もしイエスさまがよみがえらなかったとしたら、私たちの信仰は無駄で、あてにならないものを信じている私たちはとてもみじめです。けれども、イエスさまは本当によみがえられました。ここに私たちの希望があります。 4月4日(木)Ⅰコリ十五20~34 イエスさまがよみがえられたのは「初穂」でした。初穂がそれに続く豊かな収穫を期待させるように、イエスさまの復活は、私たちもまた死んでも生きるということを保証するのです。    ◇  ◆  ◇ 4月5日(金)Ⅰコリ十五35~49 私たちが死んでもまたよみがえるというとき、それは私たちにもう一度この肉の体が与えられるということではありません。私たちに、新しい、霊の体が与えられるのです。    ◇  ◆  ◇ 4月6日(土)Ⅰコリ十五50~58 私たちは死んで終わりではありません。私たちはやがてよみがえります。もう死には何の力もありません。イエスさまが死に勝利してくださったからです。ですから、私たちが今、この地上でがんばっていることが無駄になってしまうことはありません。私たちは喜んで主に仕えていくのです。