私たちがなにげなく暮らしているこの世界はとてもよくできています。食べたり食べられたりする世界ですが、それがうまい具合に組み合わさって互いに生かし合っています。 7月2日(日)創世記一1〜5  この世界は神さまの言葉によって始まりました。闇に向かって「光あれ」と神さまが語られるだけで光ができました。そして毎日朝が来て夜が来るように、闇と光がわけられたのです。朝の来ない日もなければ、夜の来ない日もありません。神さまがそのように世界を造られました。 7月3日(月)創世記一6〜8  第4日目に大空が造られましたが、大空の上と下に水が分けられました。大空の上の水は、ノアの箱舟の時長い間大雨となって降り、大洪水となりました。だから大空の上の水はもうなくなったようです。それでも生き物すべてに必要な雨は今も降って来て、私たちの生活をうるおしてくれています。 7月4日(火)創世記一9〜13   第3日目に神さまのひと声で天の下の水が1か所に集められ、陸と海ができました。さらに陸地に実がなる木や植物が生え育つようになりました。海も陸地も植物も、造られたものすべてを神さまは見て満足されました。神さまが造られたものはみな初めから良いものでした。 7月5日(水)創世記一14〜19   第4日目、昼間には太陽が、夜には月と星が天に造られ、地上を照らすようにされました。月がとても明るいことを知っていますか。電灯の少ないところでは、月がとても明るいので、暗い夜道もよく見えます。でも雲で月が見えない日は、夜が暗いことがよくわかるのです。太陽や月、星の位置で時間が経っていくのを感じたり、季節の変化を感じたりして、私たちは同じように繰り返されている毎日がちゃんと違っているのを知るのです。 7月6日(木)創世記一20〜23   第5日目に、水の中の生き物と空を飛ぶ鳥たちが造られました。そして生き物たちがどんどん増え広がるようにと祝福されました。1度だけダイビングを体験した時、海の中の美しさと様々な魚や生き物を見て、神さまの造られたすばらしい世界を、私は知らないことの方が多いのだと感じました。 7月7日(金)創世記一24〜25  第6日目、地上の生き物が造られました。強いもの弱いもの、美しく見えるもの、そうでないもの、歩くもの、這うもの、様々な虫などがいます。私たちにはちょっと嫌な生き物も、神さまが造られたものでいらなかったものはないのです。 7月8日(土)創世記一26〜二3  最後に人が神さまに似せて造られました。そして空と陸と海の生き物たちを管理するように任されました。そして人が増え広がるようにと祝福されました。神さまは完成した世界をご覧になって満足されました。すべては良いもので満ちていたのです。そして神さまは第7日目に休まれました。  鶴の恩返しのお話を知っていますか。鶴が娘の姿になって現れ、助けてくれたおじいさんのために高価な布を織る話です。おじいさんは織っている間部屋をのぞかない約束を破ってしまい、娘が鶴であることを知ってしまいましたね。やってはいけないと言われるとやりたくなるのはなぜでしょう。 7月9日(日)創世記二15〜17  この世界が造られた時から、人に与えられたことがあります。仕事と、してはいけないことです。仕事はエデンの園を耕し、植物の世話をし、大切に面倒を見ることです。そしてしてはいけないことは、この園にあるたくさんの木の中の1本だけは食べてはいけないということです。どうして食べてはいけなかったのでしょう。食べたら死ぬからでした。 7月10日(月)創世記二18〜20  人にふさわしい助け手とはどんな相手でしょう。様々な生き物たちが連れてこられました。それぞれに人は名前をつけてかわいがりました。けれどもふさわしい助け手を見つけることはできませんでした。人には動物たちよりもっと深く言葉をかけ合い、心を通わせられる相手が必要だったのです。 7月11日(火)創世記二21〜25   神さまは、今度は男の人のあばら骨をとって造った女の人を連れてきました。男の人にとって女の人は、今までにない心を深く通わせられる相手でした。だから彼は「これこそ、ついに」と自分にぴったりな相手に出会えたことを喜びました。 7月12日(水)創世記三1〜7   ダメと言われるとやりたくなる、そういう心が私たちにはあります。まして神さまのようになれるよ、という蛇の誘惑の言葉は、神さまの言葉と死んでしまうという理由よりも強く女の心を動かしました。女も男も食べてしまい、裸を恥ずかしく思うようになりました。何を見られても恥ずかしくない。そういう生活から、人には見られたくない見せられない部分がある、そういう生活に変わってしまったのです。 7月13日(木)創世記三8〜13   神さまの前から男も女も隠れました。神さまの言われた言葉を守れなかったことを素直に言えませんでした。ごめんなさいとも言えませんでした。男は女のせいにし、女は蛇のせいにしました。「食べたのか」「なんということをしたのか」という言葉に責められていると感じ、少しでも自分の方が悪くないと言うようになってしまったのです。 7月14日(金)創世記三14〜19  神さまは、蛇にも女にも男にも誰にも「あなたは悪くない」とは言われませんでした。しかし十字架による罪のゆるしの救いが与えられることを示されました。蛇は地を這うものになり、女は苦しんで子を産み、男は苦労して食べものを作りやがて死ぬようになりました。 7月15日(土)創世記三20〜24  神さまは彼らに皮の衣を作り着せてくださいました。勝手にしろ、放り出されたのではなく、体を覆うものを用意して新たな生き方を導かれました。そして人は死もなく、何の不自由もないエデンの園の外で生きていくことになったのです。  私が小学校低学年の頃、兄の誕生祝いの言葉にヘンテコなことを書きました。「ぼくは本当にバカだ。ぼくはなんてバカなんだ。バカだ。バカだ」。多分、頭がよくて穏やかな兄に嫉妬していたのでしょうね。兄は爆笑していましたが、母に怒られたことは言うまでもありません。 7月16日(日)創世記四1〜2  最初の人アダムとエバにカインとアベルという男の子が与えられました。エバにとって子どもを産むことは激しい痛みと苦しみでしたが、家族の誕生はそれをおおうほどのうれしい出来事だったでしょう。人はいつか死にますが、新しい命が生まれて、命が受け継がれるようになりました。 7月17日(月)創世記四3〜7  神さまはなぜカインのささげ物は受け取られなかったのでしょうか。それはカインにはわかっていたことです。神さまに「正しいことをしているなら顔をあげられるはず」と言われます。彼に正しくないことがあったのです。でもカインは神さまのことを怒りました。私たちも気をつけないと、注意された時自分が悪いのに、注意した人に怒りを感じてしまうことがあります。 7月18日(火)創世記四8〜12   カインは怒りの矛先を弟に向けました。弟に嫉妬し、アベルさえいなければと、弟を殺してしまいました。私たちも自分が悪いのに、なかなかそれを認められないことがあります。そして誰かに八つ当たりをしたり、恨んだりしてしまうことがあります。神さま、どうぞ私たちが罪を認め、悔い改めることができますように。 7月19日(水)創世記四13〜16   弟を殺し、地上をさまよう人となったカイン。人を殺した彼は、危険人物として人々から恐れられ、反対に殺されてしまうかもしれません。でも悪い人なのだから殺されても仕方がない。そんな風に私たちは思ってしまいそうです。しかし神さまは、彼が生きることができるように、命を守るしるしをつけられました。 7月20日(木)創世記四17〜22   カインはさすらい続けたでしょうか。いいえ、結婚し、子どもが与えられ、町まで建てました。さらに子や孫がどんどん増えました。そして家畜を飼う人、音楽を奏でる人、鍛治職人になる人が出てきました。神さまの前から去ったカインでしたが、生かされ増え広がったのです。 7月21日(金)創世記四23〜24  カインを守るための約束は、いつしか子孫たちに自分たちの都合の良い道具として利用されるようになりました。「カインのための復讐が七倍ならばレメクのための復讐は七十倍」。ゆるされてきたことがわからないと仕返しが当然になってしまうのです。 7月22日(土)創世記四25〜26  アダムとエバに新たな子どもセツが与えられました。アベルを失った悲しみ、兄息子が弟息子を殺した悲しみを抱えていたことでしょう。そのような心に慰めの存在が与えられたのです。そしてセツの子孫は神さまを信じて生きていきました。  「エバン・オールマイティ」という映画があります。現代に生きるエバンに神さまが現れて、「洪水がくるから、箱舟を造るように」と言われます。するとエバンのもとに動物や箱舟の材料が集まりだして箱舟を造らないわけにはいかなくなるのです。聖書を知っていると面白い映画ですよ。 7月23日(日)創世記六1〜8  神さまはこの世界を造ったことを後悔されました。神さまが後悔されるとは!それほどに、増え広がった人々の心は思いはかることが悪いことばかりで、神さまの心を痛めがっかりさせることばかりだったのです。だから神さまは世界を滅ぼすことを計画されました。そのような世界にあってノアだけは、神さまから恵みをいただいていました。 7月24日(月)創世記六9〜22  ノアは神さまが心を痛めるような世界の中で、神さまを信じ従って生きる人でした。そこで神さまは、ノアに箱舟を造るようにと命じました。その箱舟にノアとノアの家族とすべての生き物たちを一種類ずつ乗せて洪水から生きのびるためです。ところでこの船はとても大きな船で完成するまでに時間がかかったようです。でもノアは神さまに言われた通りにしました。 7月25日(火)創世記七1〜10   ノアは「わたしの前に正しい人であるとわたしは認めた」と神さまから言われます。ノアの正しさはどんなところにあらわれているでしょうか。それは「すべて主が命じられたようにした」というところです。すべて命じられた通りにすることは、簡単なようで難しいものです。面倒になって手を抜いてしまいたくなるからです。でも家族や他の生き物たちが生きのびるためにノアは決して手抜きをしませんでした。 7月26日(水)創世記七11〜24   ノアとノアの家族、そして生き物たちが箱舟に入ると、神さまによって箱舟の戸が閉ざされました。すると雨が降り出し、何日も何日も降り続きました。降り続く雨のすごさにやっと大変なことが起きていると気づいても、もう誰も箱舟に乗ることはできませんでした。高い山すらも深い水の中に沈んでしまい、箱舟だけが水の上に浮かび、箱舟にいたものだけが生き残りました。 7月27日(木)創世記八1〜12   神さまは箱舟の中にいたものたちに心をとめられました。もう箱舟で過ごすのは限界だったのかもしれません。しかしノアたちも動物たちもじっと外へ出られる時を待っていました。神さまが心にとめてくださっているからです。 7月28日(金)創世記八13〜19  洪水が起こって一年後、ついに神さまが「箱舟を出なさい」と言われました。神さまの言葉によってはじめてみんなは箱舟を出ました。 7月29日(土)創世記八20〜九17  箱舟を出ると、ノアたちはすぐに神さまを礼拝しました。神さまはノアたちを祝福し、もう洪水で世界を滅ぼすことはしないと言われました。その約束のしるしに虹を置いてくださいました。虹を見たら神さまの約束を思い出せますね。  神さまを信じていても私たちは失敗したり、誘惑に負けたり、罪を犯してしまったりします。そんな時大事なことは、ごまかしたり人のせいにしたりしないで、失敗は認め、罪に対してはごめんなさいと悔い改めることです。 7月30日(日)創世記十二1〜3  「わたしの示す地に行きなさい」と神さまは突然アブラムに語られました。神さまの約束の言葉はアブラムにとってすばらしい言葉ばかりでした。大いなる国民となる、あなたを祝福する、あなたの名を大きくする、あなたは祝福の基となる。でもこれらは今いる場所ではなく、神さまの言われる場所に行かなければなりません。アブラムの新しい人生が始まるのです。 7月31日(月)創世記十二4  神さまの言葉を聞いて、アブラムは主が言われたように出発しました。今の場所にいたいと思ったかもしれませんが、神さまの言葉を信じて従ったのです。それもアブラムは75歳です。神さまに従う歩みに、若いか若くないかは関係ないのです。 8月1日(火)創世記十二5〜7   アブラムは妻サラと甥のロトと一緒でした。そしてたくさんの財産や家畜、召使いなどもいました。でも自分たちの土地は持っていませんでした。カナンに着いた時、そこにはもちろんすでに住んでいる人々がいましたが、神さまは「あなたの子孫にこの地を与えます」と約束されました。アブラムには子どもはいませんし、いったいいつそうなるのかもわかりません。でもアブラムは神さまに祭壇をつくりささげ物をし、感謝の礼拝をささげました。 8月2日(水)創世記十二8〜9   さらにアブラムたちは家畜の食べられる草を探して先へ進みました。アブラムはたどり着くところでいつも祭壇をつくって礼拝をすることを大事にしました。それは天地を造られた神さまへ祈りをささげる礼拝でした。さらに旅は続きます。 8月3日(木)創世記十二10〜13   神さまの言葉に従うことにいさぎよいアブラムでしたが、人を恐れて失敗もしました。エジプトでは、妻サライを妻と言わないで妹だとうそをついたのです。美しくてモテるサライ。その夫だとわかったら、邪魔者で殺されるかも知れないと怖かったのです。自分を守るためにうそをついて、そのあと多くの人に迷惑がかかってしまいました。 8月4日(金)創世記十二14〜16  アブラムが予想した通り、妻のサラの美しさはエジプトでたちまち評判になりました。そしてエジプト王もサライを宮殿に呼んだのです。王に気に入られたらエジプトの王妃になってしまいます。サラはどんな気持ちだったでしょう。 8月5日(土)創世記十二17〜20  神さまがパロの家に疫病を流行らせたので、パロはサライがアブラムの妻であることを知りました。何も知らなかったパロは、あやうく人の奥さんを自分の奥さんにしてしまうところでした。パロが痛い目にあいました。自分を守ろうとして人を傷つけてしまうことがあるのです。  この夏休み、どこかへ出かける計画はありますか。教会のキャンプや、家族旅行や、一人で田舎に遊びに行くなどなど。でも毎日がテントを張ってキャンプ生活のような、毎日旅生活だったらどうでしょう。アブラムの生活は家畜の食べる草を求めて移動する旅人の生活でした。 8月6日(日)創世記十三1〜4  エジプトでの大失敗の後、アブラムはネゲブへ戻りました。アブラムは大変なお金持ちだったようです。金銀以外に、たくさんの羊やラクダなどの家畜もいました。だから人とたくさんの生き物たちとの大移動でした。そしてさらにベテルとアイの間の最初につくった祭壇まで戻ってきて神さまに礼拝しました。礼拝をささげることは、神さまに頼る生活へとアブラムの気持ちを戻して行く大事な時でした。 8月7日(月)創世記十三5〜7  ところがまたもや問題発生です。一緒に旅をしてきた甥っ子のロトとの関係がギクシャクしてきたのです。場所が狭くて、たくさんの家畜がお腹いっぱい食べられなくなりました。家畜の世話をする牧者たちが草の奪い合いや喧嘩などが起こしてしまい、みんなが気持ちよく生活することができなくなったのです。 8月8日(火)創世記十三8〜9   アブラムはロトと別れることを決心し提案しました。それはロトが行きたい場所を先に選んで、アブラムたちは、その反対側に行くことでした。年上のアブラムが当然のように先に選んだのではなく、ロトに良いと思う場所を先に選ぶようにしたのです。私たちは良いと思える場所を先に選びたいものです。でも神さまが助けてくださると信じてアブラムは先に選びませんでした。 8月9日(水)創世記十三10〜11   「主の園のように」「エジプトの地のように」緑が豊かに茂っていて、家畜たちが十分食べられそうな土地にロトの目はとまりました。たくさんの家畜たちを世話するにはちょうどいい場所で住みやすそうに見えました。しかしロトたちが住んでいるうちにその町は神さまによって滅ぼされてしまうのです。 8月10日(木)創世記十三12〜13   「ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった」とあるように、見た目は住みやすそうな町でしたが、人の心は荒れすさみ、争いや犯罪の絶えない住みにくい町だったのです。 8月11日(金)創世記十三14〜16  ロトと別れたアブラムに神さまは語られました。「目をあげて見渡しなさい」ぐるっと回って見渡す地はすべてあなたとあなたの子孫のものだよと言われます。それも子孫は地のちりのように多くなるのです。神さまが与えてくださる地は、希望と恵みに満ちあふれているのです。 8月12日(土)創世記十三17〜18  アブラムは約束の地をいただくために「その地をたてよこに行き巡る」ようにと言われます。そこでさらにヘブロンへ行き、そこに祭壇を作り、礼拝をささげました。  長く待つのは得意ですか。何かがもらえると約束されたら、最初は楽しみに待っていても、何年も待たされたらもうあきらめるか忘れてしまうかもしれませんね。でももし長い間待ち続けて約束がついに実現したら、それはどんなにうれしいことでしょう。  8月13日(日)創世記十八1〜5  神さまが突然アブラハムのもとを訪れます。もちろん神さまとその使いたちだとはアブラハムは知りません。けれども彼らを暑い昼間に突然現れた三人の旅人を急いで迎え、しばらく休むようにと引き止めました。いつでも人を迎え入れる心がアブラハムにはありました。 8月14日(月)創世記十八6〜8  妻サラにはパンを焼かせ、若者には子牛の料理を作らせます。急いで作るようにと言うのですが、パンは粉から作りますし、子牛は殺して肉にしてから作るわけです。それなりに時間はかかったでしょう。けれどもそういうことはきっとこの時代は、もてなす方ももてなされる方も普通だったのでしょう。アブラハムはできた食事を出して旅人にご馳走を振る舞いました。 8月15日(火)創世記十八9〜12   旅人の一人がアブラハムに語った「来年の今頃男の子が生まれている」という驚くべき言葉、それは本当にすばらしい予告でした。けれどもそれを聞いてもサラは素直に喜べませんでした。そんなことあるわけないと笑ってしまったのです。それほどに年を取っていて、サラだけでなく誰でも「無理」と思うようなことだったからです。 8月16日(水)創世記十八13〜15   ところが「なぜサラは笑ったのか」ともっと驚くべき言葉が語られます。サラはその場にいなかったし心の中で笑ったのですそれが、旅人にはわかってしまったのです。「主にとってできないことがあると思うのか」。そんなの無理に決まってると人の世界では決まってしまっていても、神さまの世界ではできないことはないです。 8月17日(木)創世記二十一1〜2   ついに約束されていた男の子がサラから生まれます。長い間待たなければなりませんでした。途中約束を待ちきれないこともありました。信じることができず、笑ってしまったこともありました。けれども約束は取り消されず、ちゃんと実現したのです。 8月18日(金)創世記二十一3〜5  アブラハムは息子イサクが与えられたときなんと百歳。75歳から始まった神さまの言葉を信じて従う生活。このように神さまといっしょに歩む生活は、神さまの約束の言葉が必ずなっていくことをひとつひとつ見させていただけるのです。 8月19日(土)創世記二十一6〜7  イサクは「笑う」という意味です。「こんな年寄りに子どもなど産めるはずもない」と心の中で笑ったサラに、神さまは本当の喜びの笑いを与えてくださいました。  アブラハムの息子イサクは飢饉のためにゲラルに移りました。神さまも、エジプトに避難するのではなくゲラルで過ごすようにと祝福の言葉を語られます。それはアブラハムが受けた祝福をイサクが受け継ぐということでした。 8月20日(日)創世記26:12〜16  神さまはゲラルでのイサクの生活を大変祝福され、人がうらやましがるほどのお金持ちになりました。ところが周りの人々からとてもねたまれて、お父さんの時代に掘った井戸を埋められるような嫌がらせまで受け、そこには住めなくなりました。祝福によって思いがけずねたまれ、苦しめられることもあるのです。 8月21日(月)創世記26:17〜21  まだまだ苦しいことが続きました。別の場所に移動して井戸を掘っても、ゲラルの羊飼いたちがやってきて、せっかく掘った井戸を奪っていくのです。井戸は大切な命の水です。それを掘っては奪われ、掘っては奪われとなると、もう気持ちかなえてしまいそうになります。 8月22日(火)創高26:22  イサクはあきらめませんでした。さらに移動して井戸を掘ると今度は奪われずに自分たちで使うことができました。イサクは神さまがこの場所を与えてくださったのだと信じ、感謝しました。 8月23日(水)創世記26:23〜25  イサクはさらにベエルシバに行きました。そこで神さまがまた現れて、「あなたを祝福し、わたしのしもベアブラ「ムのゆえにあなたの子孫を増やすでしょう」と語られます。イサクもまた祭壇を作って神さまに感謝の礼拝をささげました。生きていくのに必要な井戸と生活の場所を巡って。苦しい体験をしましたが、神さまの祝福の約束は、苦しいこと大変なことがあっても変わらないのです。 8月24日(木)創世記26:26〜29  イサクを追い出したゲラルの王アビメレクと友だちは、イサクが井戸を埋められた力奪われたりしても乗り越えて豊かな生活を送っているのを見て、そこに神さまの祝福と守りがあるのを見ました。そしてもはやイサクを敵にするのは神さまを敵にするような怖いことだと気づいたのです。だからお互い平和に過ごそうと提案してきたのです。 8月25日(金)創世記26:30〜31  彼は二人をもてなしました。そして提案どおりお互いに平和に過ごすことを誓い合いました。そして安心してアビメレクたちはそこを去っていきました。嫌がらせに対して文句を言ったり仕返しをしたりする力がなかったわけではないでしょう。でもイサクは平和の道を選びました。 8月26日(土)創世記26:32〜33  イサクのしもべたちはまた一つ井戸を掘り当てました。争わず忍耐したイサクに、たくさんの作物や家畜を育てるのに十分な水が与えられたのでした。  男の兄弟というのは、兄は弟に抜かれるものかと思い、弟は兄を抜いてやると思っている、そういう傾向にあると聞いたことがあります。ヤコブは少なくとも兄を抜くことをいつも考えていたようです。 8月27日(日)創世記二十五19〜21  イサクは四十歳でリベカと結婚しました。ところがなかなか子どもが与えられなかったのです。イサクはリベカのために子どもが与えられるよう祈り続けました。井戸のときもあきらめなかったイサクはここでもあきらめず祈りました。そしてついにリベカのお腹に赤ちゃんが与えられました。 8月29日(月)創世記二十五22〜24  お腹の赤ちゃんはリベカが不安になる程強く激しく動きました。そこでリベカが神さまに祈ると「二つの命が胎内にいて、やがて弟が兄より強くなる」と言われます。お母さんのお腹にいる時からまるで2人はどちらが先かを争っているかのようでした。 8月30日(火)創世記二十五25〜26   ついに双子が誕生します。それにしても弟の生まれかたはとても特徴があり印象的です。なぜなら、兄のかかとをつかんで生まれてきたからです。まるで兄を押しのけて自分が先に出ようとしているかのように。そこで名前もヤコブ「かかと」とか「押しのける者」という意味の名前がつけられました。その名の通り、ヤコブはずる賢くて押しのける者となっていくのです。 8月31日(水)創世記二十五27〜28   双子のエサウとヤコブは正反対の性格でした。兄は勇ましい性格で野に出て狩をしていました。でも弟はおだやかな性格で、家にいておかあさんの手伝いをするのが好きでした。そしてお父さんは鹿の肉を取ってきてくれるエサウが、お母さんは自分の側でいろいろ手伝ってくれるヤコブがお気に入りだったのです。 9月1日(木)創世記二十五29〜31   おだやかなヤコブでしたが、エサウのかかとをつかんで生まれたヤコブです。心の中ではいつも兄の特権を狙っていました。それは最初に生まれた者だけが受け継ぐことのできる神さまの祝福です。お腹をすかせて何も考えられない兄が食べ物をほしがっている時に、長子の特権と交換してくれるならあげるよと言ったのです。 9月2日(金)創世記二十五32〜33  エサウはとにかく腹ペコでした。だから弟が何か話を持ちかけてきても、面倒で考えられなかったのです。長子の特権など腹をすかせている自分には何の役にも立たないし、どうでもよく感じられました。ヤコブはその気持ちに追い打ちをかけるようにして、長子の特権を譲ることを誓わせ、レンズ豆の煮物と交換することに成功しました。 9月3日(土)創世記二十六34  こうしてエサウは激しくお腹が空いていたとはいえ、食べ物と長子の特権のどちらを取るかなど、並べて考えるようなものではないのに、食べ物を取ってしまったのです。大事なものを軽く扱ってしまい、やがて本当に大事なものを奪われてしまうのです。  アブラハムの息子イサクはききんのためにゲラルに移りました。神さまも、エジプトに避難するのではなくゲラルで過ごすようにと祝福の言葉を語られます。それはアブラハムが受けた祝福を今度はイサクが受け継ぐということでした。 8月20日(日)創世記二十六12〜16  神さまはゲラルでのイサクの生活を大変祝福されました。イサクは人が羨ましがるほどのお金持ちになりました。ところが周りの人々からとてもねたまれました。お父さんの時代に掘った井戸を埋められるような嫌がらせまで受け、そこには住めなくなったのです。神さまに従って祝福されたら思いがけずねたまれて苦しめられる、そういうこともあるのです。 8月21日(月)創世記二十六17〜21  まだまだ苦しいことが続きました。別の場所に移動して井戸を掘っても、ゲラルの羊飼いたちがやってきて、イサクの羊飼いたちがせっかく掘った井戸を奪っていくのです。井戸は大切な命の水です。それを掘っては奪われ、掘っては奪われとなると、もうここにはいられないのではないかと、気持ちがなえてしまいそうです。 8月22日(火)創世記二十六22   イサクはあきらめませんでした。さらに移動して井戸を掘ると今度は奪われずに自分たちが使うことができました。イサクは神さまがこのあたりをイサクの場所として広げてくださったのだと信じ感謝しました。 8月23日(水)創世記二十六23〜25   イサクはさらにベエルシバに行きました。そこで神さまがまた現れて、「あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増やすでしょう」と語られます。イサクもまた祭壇を作って神さまに感謝の礼拝をささげました。生きていくのに必要な井戸と生活の場所を巡ってひととき苦しい体験をしました。けれども、神さまの祝福の約束は、苦しいこと大変なことがあっても変わらないのです。 8月24日(木)創世記二十六26〜29   イサクを追い出したゲラルの王アビメレクと友だちは、イサクが井戸を埋められたり奪われたりしても乗り越えて豊かな生活を送っているのを見て、そこに神さまの祝福と守りがあるのを見ました。そしてもはやイサクを敵にするのは神さまを敵にするような怖いことだと気づいたのです。だからお互い平和に過ごそうと提案してきたのです。 8月25日(金)創世記二十六30〜31  彼は二人をもてなしました。そして提案どおりお互いに平和に過ごすことを誓い合いました。そして安心してアビメレクたちはそこを去っていきました。嫌がらせに対して文句を言ったり仕返しをしたりする力がなかったわけではないでしょう。でもイサクは平和の道を選びました。 8月26日(土)創世記二十六32〜33  イサクのしもべたちはまた一つ井戸を掘り当てました。争わず忍耐したイサクに、たくさんの作物や家畜を育てるのに十分な水が与えられたのでした。  神さまが祝福する人はいい人のはず。私たちはそう思います。でもどうやら違うようなのです。ずるいヤコブが祝福されます。祝福されて当たり前の人はどうやらいないことがわかります。 9月3日(日)創世記二十七1〜4  イサクは年をとってきて目が良く見えなくなりました。それで自分の命はもう長くないかもしれない。死ぬ前にちゃんと長男に神さまの祝福を受けつがせようと考えました。神さまからアブラハムが受けた約束と祝福をイサクが受けつぎ、今度はエサウが受けつぐためです。そこでエサウに大好きな鹿の肉を取ってきてほしいと頼みました。 9月4日(月)創世記二十七5〜17  お母さんリベカの驚くべき計画に、そんなことしちゃっていいの?とびっくりさせられます。長男エサウが受けるべき祝福を、弟息子のヤコブに受けさせたい。だから夫イサクをだまし、エサウを出し抜いてしまおう。大胆な計画にヤコブは迷います。「もしバレちゃったら大変だ」。けれどもお母さんはぐいぐいヤコブの背中を押してとんでもない計画を進めました。 9月5日(火)創世記二十七18〜25   イサクは不思議に思いました。エサウですと言って鹿の肉を料理してきたけれども、どうして今日はこんなに早く鹿を捕まえられたのだろうと。「本当にお前はエサウなのか。ヤコブじゃないのか。声は違うけれども腕の毛はフサフサしている」。ヤコブはきっとドキドキしていたでしょう。イサクはついにエサウだと信じて用意された料理を食べ、お酒を飲んでしまいます。お父さんが食べてホッとしたかもしれませんが、だましている心は本当にはホッとはできなかったでしょう。 9月6日(水)創世記二十七26〜29   イサクはヤコブを祝福します。ヤコブをのろう人は神さまからのろわれるのですが、ヤコブを大事にする人は神さまから大事にされるのです。とことん神さまがヤコブの味方でいてくださるという約束です。でも、こんなずるいやり方で祝福を奪ったヤコブに神さまは味方してくれるのでしょうか。 9月7日(木)創世記二十七30〜38   本物のエサウがやってきた時、イサクはガクガク震えました。恐れを感じたのです。ヤコブにだまされたからでしょうか。これは確かにリベカとヤコブのずるい計画でした。でもイサクはそこに神さまのご計画があったと気づいたからなのです。 9月8日(金)創世記二十七39〜40  イサクはエサウに祝福ではなく、「あなたは弟に仕える」と兄と弟の立場が逆転したことをはっきり伝えるしかありませんでした。 9月9日(土)創世記二十七41〜46  エサウのヤコブを殺す計画が起こる前に、リベカの機転でヤコブは家を出るように勧めます。ずるいヤコブなのに神さまはヤコブの味方となって守り続けます。神さまの祝福は人の側の良し悪しによって決まるものではなく、ただ神さまの恵みによって与えられるものだからです。  長い間ずっとほしいと思い狙ってきたエサウの受け継ぐ祝福。それをイサクは自分のものにできました。けれども当然、兄エサウとは最悪の関係になってしまいます。そしてこのことはまた長い間ヤコブの心にしこりとなって残りました。 9月10日(日)創世記二十八1〜5  ヤコブを送り出すイサクの言葉は「祝福の言葉」でした。「全能の神さまがあなたを祝福してくださるように」。父イサクには、ヤコブの人を押しのける心が、いつも誰かとぶつかったり敵を作ったりして、今後さらに苦労の絶えないことが見えていたかもしれません。でも祝福すると約束してくださった神さまの御手にすべてお任せしました。 9月11日(月)創世記二十八6〜9  エサウはすでに2人のお嫁さんがいました。たぶん2人とも偶像の神さまを信じていたのでしょう。イサクとリベカとはうまくやっていけませんでした。ヤコブがお母さんの方のいとこをお嫁さんにもらうために出て行ったので、エサウも神さまを信じているお父さんの方のいとこをお嫁さんにもらいました。 9月12日(火)創世記二十八10〜12   家を出たヤコブはひたすらおじさんの家を目指して歩きました。夜になると野宿をしました。枕が石とは硬くて痛そうです。さびしくて心細くて、疲れているのによく眠れなかったかもしれません。すると夢を見ました。天と地をつなぐはしごが見えました。それを天使が上り下りしていたのです。ひとりぼっちのヤコブを励ますように天から天使たちが現れたのです。 9月13日(水)創世記二十八13〜15    神さまがヤコブのそばに立っておられました。今までイサクが語ってきた祝福の言葉をヤコブは直接神さまから聞きました。「わたしはあなたと共にいる。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行うであろう」。ヤコブのことを神さまがどこまでも支えてくださるというすばらしい励ましをいただきました。 9月14日(木)創世記二十八16〜17   神さまが自分に直接会ってくださったことは、ヤコブの心を大きく動かしました。「神さまのことは聞いていたし、信じてきたし、礼拝してきたけれども、自分に出会ってくださったんだ」。これから進む道でも神さまを信じいく思いが強くされた時でした。 9月15日(金)創世記二十八18〜19  ヤコブは神さまとの初めての出会いの感動と厳かな気持ちを忘れないために、枕にしていた石をたてて柱とし、記念碑にしました。そしてそこをベテル(神の家)と呼んで、神さまを礼拝しました。 9月16日(土)創世記二十八20〜22  「あなたが約束通り私と共にいて私を守り、父の家に帰らせてくださるなら、あなたを私の神といたしましょう」神さまに誓いの言葉を語るヤコブの心には、まだまだしたたかさも感じられます。    ヤコブが家を出て20年。ずいぶん苦労しましたが、4人の妻と11人の子どもが与えられ、たくさんの家畜も持つようになりました。すると神さまから自分の故郷に帰りなさいと言われます。家には帰りたいのですが、かつて兄エサウを押しのけて祝福を奪った自分を、兄は果たしてゆるしてくれるだろうか。それが気がかりでした。 9月17日(日)創世記三十二1〜2  ふるさとへの旅の途中で、ヤコブは神の使いに出会いました。兄エサウのことを考えるとゆるしてくれるのかなとか、家族もろとも殺されてしまうのではないかとか、恐れの気持ちが出てきたでしょう。そんなヤコブに「わたしが守っているよ」とわかるように神の使いが現れてくださったのです。 9月18日(月)創世記三十二3〜5  ヤコブは使いを兄エサウのもとに送りました。自分が戻ってきたこと、たくさんの財産を持っていること、そしてお兄さんとまた仲良くやりたいという挨拶のためです。自分の姿勢を徹底的に低くして、エサウの気持ちを和らげようとしました。 9月19日(火)創世記三十二6〜8   使いの者が帰ってくると「お兄さんはあなたを四百人の人々で出迎えようと向かっています」と報告しました。果たしてそれは歓迎のしるし?それとも自分たちを皆殺しにするための軍隊なのか?ヤコブにはわかりませんでした。ただ怖くて仕方なかったので、持ってきた家畜を二つのグループに分けて、攻められてもどちらかが残れるようにしようと考えました。 9月20日(水)創世記三十二9〜12    ヤコブは神さまに祈りました。その祈りの言葉は、昔の人を押しのけるしたたかなヤコブから考えられないほど、神さまの前に身を低くしていました。「どうぞ兄エサウの手からわたしをお救いください」ヤコブが大事な家族を守るにはもう神さまに頼るしかなかったのです。 9月21日(木)創世記三十二13〜21   兄と会うための念入りな準備をします。お兄さんへの贈り物の群れをいくつも作りました。兄エサウの前に次々と贈り物の群れが現れ、エサウの心をなごませ、なだめることによって、エサウの怒りと仕返しをなんとか避けたかったのです。ヤコブは祈りとともに自分にできる限りのことをしました。 9月22日(金)創世記三十二22〜26  家族と家畜とすべてのしもべたちを先に川向こうに渡らせました。1人残っているヤコブに突然誰かがすもうを仕掛けてきたのです。何度やってもヤコブが参りましたと負けを認めないので、相手にヤコブの足のももの支えを外されて戦えなくなってしまいました。それでもヤコブはしがみついて祝福をお願いしました。 9月23日(土)創世記三十二27〜32  ヤコブはもはや「押しのける者」とは言わず、「神と戦う」「神の皇太子」という意味のイスラエルという新しい名を神さまからいただきました。ヤコブが戦っていたのは神さまだったのです。新しい名前はヤコブが新しい人として生きるしるしなのです。  ヤコブは神さまによってもものつがいを外され、杖をついて足を引きずって歩くようになりました。もし敵に襲われても、もう思うように戦うことはできません。できることはただ神さまに頼って進むことだけです。 9月24日(日)創世記三十三1〜3  ヤコブは四百人の人々とエサウが迎えにくるのを見ました。川を渡る前はエサウの仕返しや怒りが怖くて一番後ろにいたヤコブでしたが、神さまとすもうをして祝福をいただいたヤコブは、みんなの前に進み出て行きました。7回エサウに向かって身を屈めて、自分はエサウよりも小さな者であると身を低くしました。 9月25日(月)創世記三十三4〜7  ヤコブにとってあんなに不安と恐怖だったエサウの反応は、ヤコブを見ると「走ってきて迎え、彼を抱き、その首をかかえて口づけし、共に泣いた」のでした。エサウの態度に怒りや恨みはありませんでした。 9月26日(火)創世記三十三8〜9   エサウはアブラハムからイサクが受け継いだ祝福はいただけませんでしたが、彼の生活もちゃんと祝福されていました。ヤコブのたくさんの贈り物を前にして「私はじゅうぶん持っている。あなたの物はあなたのものにしなさい」と言えるほどだったのです。 9月27日(水)創世記三十三10〜11    ヤコブが贈り物を受け取って欲しいと何度も言うので、仲直りのしるしとしてエサウは受け取りました。ヤコブにとって喜んで迎えるエサウの顔が本当にうれしかったのです。神さまはヤコブの助けてくださいと言う祈りをきいてくださり、エサウと関係をつないでくださいました。 9月28日(木)創世記三十三12〜14   エサウはヤコブたちの先頭に立って導こうとしました。しかしヤコブは子どもたちの体調や羊たちの世話をしながら進むので、ゆっくり行って一緒になることを伝えました。勢いのあるエサウに対して、ヤコブはエサウの気持ちをたてながらも長旅で疲れている群れに合わせたいとお願いしました。 9月29日(金)創世記三十三15〜17  昔のようにどこまでも出しぬこうとするヤコブの姿はなく、どこまでも兄エサウを敬いました。兄エサウにゆるされて兄と仲直りでき、ヤコブの長い間のしこりがやっと取れて心が軽くなったことでしょう。ヤコブは不自由な足となっていたので、セイルまで行かないで、スコテに家を建てました。 9月30日(土)創世記三十三18〜20  ヤコブにとってはたくさんの不安と恐れを抱えながらやってきた長旅でしたが、神さまは約束通りヤコブたちを助け、兄との関係をよくしてくださいました。祝福を受けるにはふさわしくないずる賢さと何者も押しのけていくようなヤコブを、神さまは見捨てないで無事にカナンの地に戻してくださいました。そしてヤコブは神さまへの感謝の礼拝をささげることができました。