胎児から成人までの一貫した教案誌 個人的な学び・家庭集会にも最適

 

 サウルはダビデをねたみ、命を狙い続けました。ダビデは仲間たちと隠れ、逃げ続けました。ダビデにとってはいつまで続くのだろうと、辛く厳しいときだったことでしょう。

6月17日(日)サム上二六1?5

 ダビデの隠れ場所をこっそりとサウルに知らせた人がいました。さっそくサウルは、ダビデを捜すために三千人の軍隊でダビデのすぐ近くまでやって来ました。ダビデさえいなくなればいいと、なんとしてでもダビデを殺したかったのです。私たちはねたみで心がいっぱいになると、相手を邪魔者、悪者にしてしまいます。

6月18日(月)サム上二六6?9

 ダビデとアビシャイが陣営を偵察に行くと、みんなぐっすり眠っていて、誰も二人に気づきませんでした。アビシャイは「これは神さまが与えてくださったチャンスです」とサウルを殺させてほしいと言いました。けれどもダビデは許しませんでした。主が王として選び、油注いだサウルを殺すことは誰もしてはいけないと。

6月19日(火)サム上二六10?12

 サウルの死は神さまの手の中にあることだとダビデは信じていました。主が油注いだ特別な人を自分たちが殺すことは許されていないと確信していました。ダビデはサウルを王として立てた神さまを第一に考えていたのです。そこで自分たちがサウルを殺せたのに、殺さなかった証拠にサウルの枕元のやりと水のびんをとりました。神さまもダビデたちを守るため、サウルと軍隊みんなをぐっすり眠らせておられました。

6月20日(水)サム上二六13?16

 ダビデは攻撃を受けない安全な場所に立つと、サウルの軍の隊長アブネルに呼びかけました。「私はあなた方の陣営に忍び込みました。その証拠に王のやりと水のびんが無くなっています。」そしてアブネルを、主に油注がれた王を守らなかったと責めました。

6月21日(木)サム上二六17?20  

 サウルはダビデの声だと気づいて出て来ました。そこでダビデは、サウルに命を狙われるような悪いことをしていないこと、自分などサウルが気に留める必要のないとるに足らないものだと訴えました。

6月22日(金)サム上二六21

 ダビデにとってはチャンスだったのに「ダビデが自分の命を大事にしてくれた」と知ってサウルは心が揺るがされました。そして自分が愚かで大きな間違いをしていたと認めたのです。敵と思う相手が自分たちに対して「参りました」と思うのは、相手を倒すことばかりではないのです。

6月23日(土)サム上二六22?25

 ダビデはサウルの命を重んじました。けれども「だから今日わたしがサウルの命を重んじたように、わたしの命を重んじてください」とお任せしたのは、サウルにではなく、神さまにでした。

 ダビデはとうとうイスラエルの王になりました。かつて自分に主が油を注がれ、王として立てられたことが実現したのです。

6月24日(日)サム下六1?5

 ダビデは自分の町に神の箱を置きたいと思いました。神の箱というのは、神さまがいつもイスラエルと共におられるしるしの箱でした。ダビデは神の箱を運び出すのを盛大にしました。三万の軍隊が行進し、だれもがダビデを力ある王とわかるほどでした。車に乗せられた神の箱が進むと、ダビデたちは主への賛美と力いっぱいの踊りをささげました。

6月25日(月)サム下六6?8

 ウザが神の箱を手で押さえたら、死んでしまいました。喜びの行進がいっぺんに悲しみと恐怖に変わりました。神さまのきよさと厳しさをだれもが知らされました。ダビデは神さまを敬って盛大に神の箱を入場させようとしましたが、ただ自分の力やえらさを自慢していたに過ぎなかったのかもしれません。

6月26日(火)サム下六9?11

 ダビデは神の箱を自分の町に入れるのがこわくなりました。また取り扱い方を間違えて誰かが命を落とすかもしれません。そこで神の箱はオベデエドムの家に置かれました。自分がこわいから人の家に置くなんてずるいような気がします。でも今度はオベデエドムの家は祝福されました。家の人々は恐れではなく、喜びであふれました。

6月27日(水)サム上下六12?15

 そこでダビデは、もう一度オベドエドムの家から運び出しました。今度は神さまから決められた通りに神の箱を人が肩に担ぎました。そして神の箱の行進に合わせて、いけにえをささげ、ダビデは箱の前で力の限り踊りました。前回のような盛大さを見せつけることはなく、ただただ神さまをみんなで喜んだのです。

6月28日(木)サム下六16  

 ダビデの奥さんミカルは、町に神の箱が入ってくるのを窓から見ていました。ダビデは人目を気にすることなく、神さまの前で踊り続けていました。ところがミカルは、ダビデたちと一緒に喜ぶことはできませんでした。むしろダビデの姿が恥ずかしくて、王らしさや立派さが台無しだと思ったのです。

6月29日(金)サム下六17?19

 神の箱は無事用意された天幕の中に置かれました。ダビデは、自分たちは神さまのものですという思いのささげ物と、感謝の気持ちをあらわすささげ物をもって礼拝し、人々を祝福しました。こうしてダビデとイスラエルの人々は、自分たちの生活の中心には神さまがおられることを大事にしました。

6月30日(土)サム下六20?23

 ミカルはこの喜びと祝福に預かることはできませんでした。ダビデが神さまに対してどういう思いでいるかよりも、王らしくないダビデを見下したからです。

 人の話を聞くことは大事なことです。人の話が聞けないと成長できないからです。イエスさまの言葉も同じです。御言葉を聞けないと信じる心が成長していけません。私たちにとって聞く心はとても大事なのです。

7月1日(日)マタイ十三1~9

 イエスさまは、種がまかれた時、種が落ちた場所が良い土地以外は、実を結ばなかったというたとえをお話になりました。畑にまいたことはなくても、朝顔やひまわりの種をまいて育てたことがある人は多いと思います。だからなんとなく想像できるたとえです。でもここからイエスさまは何を言おうとされたのでしょうか。

7月2日(月)マタイ十三10~15

 聞いた人たちはそれが自分となんの関係があるのかなと思ったでしょう。このたとえがわかるには、イエスさまのことを信じる心が必要でした。イエスさまのことを信じていないと、イエスさまの不思議な力を見ても、神さまの力とは認めないし、よい言葉を聞いても、素直な気持ちで正しく聞き取れないのです。

7月3日(火)マタイ十三16~17

 救い主が来られることは長い間待ち望まれてきました。そして期待して待ち望んでいた多くの預言者たちや人々は、残念ながら救い主に会うことができませんでした。しかし今弟子たちは救い主イエスさまと会って、イエスさまから救いの御言葉を直接聞いています。すばらしい奇跡を目の前で見ています。それは本当にすばらしいことでした。でも心が閉ざされているとそれがわからないのです。

7月4日(水)マタイ十三18~19

 イエスさまの言葉は御国の言葉です。それが種のように私たちの心にまかれます。ところが御言葉を聞いても自分には関係ないと思っていると、奪われて心に残ることはありません。聞いた私たちの心には神さまの言葉の力は発揮されません。

7月5日(木)マタイ十三20~21

 芽を出しても根を深くはることができないものは成長できないし実を結べません。イエスさまの言葉がすばらしいと知っていても、私たちが信じていることを反対されたり、いやがらせをうけたりしたら、御言葉に聞き続けられなくなってしまう心のことです。

7月6日(金)マタイ十三22

 御言葉を聞いても、他のことの方がもっと大事で、あっちの方に気を取られてばかりいたら、御言葉はそっちのけになってしまいます。そうすると心にまかれた御言葉の種は生活の中で実を結ぶことができなくなります。

7月7日(土)マタイ十三23

 私たちは実を結ばない土地のような心が自分にもあること知っています。だから実を結ぶ良い土地のように御言葉を聞いて理解する心が必要です。ならば神さまに助けていただきましょう。私の心を耕してくださいと。

 自分ができていなくても、人ができていないと、「ちゃんとやりなよ」って言ってしまうこと、ありませんか。私たちはけっこう人に対しては厳しく、自分には「ま、いっか」と甘くなりがちですよね。

7月8日(日)マタイ七1

 「裁く」というのは、それはよくないと判断することです。確かに罪に対してはだめと言わなければいけません。でも私たちは何か気に入らないと、問題ないことなのに、ダメ出しをしたり、あら捜しをしたりしていることがあります。

7月9日(月)マタイ七2

 もしだれかに「そういうことはしちゃだめだよ」と言われたら、言った人に対して、自分だってやっているくせに、と思ったことはありませんか。私たちはだれかのことをとやかく言う時に、「じゃあ、あなたはどうなんだ?」と言われているということも忘れてはいけないのです。人に言うなら自分にも同じことが帰ってくるのです。

7月10日(火)マタイ七3

 不思議なもので、私たちは自分のことはよく見えないのです。それなのに、人のことはとてもよく見えます。だから人のことを注意したり、責めたくなったりします。でも、もし「自分も同じだ」ということが見えていたら、そんなに簡単には人のことは言えなくなります。

7月11日(水)マタイ七4

 「梁」は家の屋根を支える大きな材木です。人のことをとやかく言う私たちの目には、「梁」という驚くほど大きなものが入っているのにそれには気づかないで、人の目にある、吹けば飛ぶようなちりを気にしている、とイエスさまは言われました。私たちが自分に対しては甘く、同じようなことをやっていてもゆるしてしまうのに、人の小さな間違いやミスにはきびしい姿をそのように言われたのです。

7月12日(木)マタイ七5

 イエスさまが十字架で死ななければならなかったのは、私たちの罪がどうしようもなく重く、イエスさまのほかにだれも罪の問題を解決することができなかったからです。もしそのことを忘れてしまったら、私たちの目に梁はあるままです。そのままでは正しく見ることができないので、人のちりばかり注意してしまいます。

7月13日(金)マタイ七5

 人を裁いてしまうのは、私たちが自分のことを正しいと思いがちだからです。また人に対する不平や不満も人を裁きやすくなります。だからいつも私たちにはイエスさまの助けが必要です。「私の目にある梁をとりのけてください。裁く心ではなくゆるす心を与えてください」。

7月14日(土)マタイ七1

 もう一度1節に戻ります。私たちはつい人を裁いてしまいます。そういう時は、自分がどんなにゆるされているかを思いましょう。イエスさまとそして多くの人からも私たちはゆるされてきたのです。

 イエスさまの言葉は、まるで反対言葉です。私たちが良いと思っていることを必ずしも良いとは言わないで、良くないと思っていることを良いと言われるからです。でもそういう言葉はとても心に残ります。

7月15日(日)マタイ五1~3

 貧しいというのは、持っていないということです。心の貧しさは自分が人を愛したり、ゆるしたりする心がないと知っていたり、自分さえよければいいと思っていたり、心の中を人にみられたら恥ずかしい自分を知っている人です。そしてだから自分はイエスさまに救っていただきたいし、イエスさまなしではやっていけないと思っているということです。

7月16日(月)マタイ五3

 世の中ではたくさん持っている方が得をしているように見えます。お金がある。洋服やおもちゃ、ゲームをたくさん持っている。頭がいい。運動ができる。人よりも得意なもの、上手なものがある。そのように確かに多く持っているのが幸せそうです。でもどんなに持っていても、これができない。あれが足りない。そういう思いはなくならないのです。

7月17日(火)マタイ五3

 心が貧しい人は、イエスさまが共にいてくださらなかったら、自分はまるで何も持っていないようなものだと知っている人です。たとえ多くを持っていてもいなくても、自分にはイエスさまが必要で、イエスさまに頼るしかないと思っている人なのです。そういう人はイエスさまに頼ります。祈ります。それが幸いなのです。

7月18日(水)マタイ五3

 天国というのは、死んだら行くところで、今は関係ないところと思っていませんか。そうではありません。イエスさまを信じたら、イエスさまに頼ります。そしてイエスさまのように考えて生活することを目指します。それはもうそこから天国の生活が始まっているということです。

7月19日(木)マタイ五4

 なるべくなら悲しいことはない方がいいものです。それなのに「悲しんでいる人」が幸いとはびっくりです。悲しんでいるということは、辛かったり、苦しかったり、喜べないのです。どうしてそれが幸いなのでしょう。

7月20日(金)マタイ五4

 悲しい時、どうやったら慰められるでしょう。悲しくてしかたかのない時にはどんな言葉も役に立たないように思えます。慰めは、すぐにはやってこなくても、たくさん悲しんだ後に、やがて痛かった心がやわらいでいるのを感じるでしょう。

7月21日(土)マタイ五4

 イエスさまは、とっても辛かったり悲しかったりしたことを、時間をかけて乗り越えさせてくださいます。不思議と、あんなたに悲しかったことが、人を愛する力に変えられていきます。そんなふうに慰められる幸いがあるのです。

 「スカッとジャパン」というテレビ番組があります。自分たちの身の周りにいるムカっとする人が、うまい具合にとっちめられたり、恥をかいたりして、スカッとする話をドラマにしてみせる番組です。自分を悩ませる人が、他の人に注意されたり、過ちを認めさせられたりしたらスカッとするのに、そう思っていることはありますか。

7月22日(日)マタイ五38

 「目をやられたら、目だけをやりかえしなさい。歯をやられたら歯だけをやりかえしなさい。それ以上やってはいけません」という法律が古代にはありました。やられたらやりかえせ、というよりは、やられた以上のことはしてはいけませんという決まりでした。

7月23日(月)マタイ五39

 イエスさまは、やられても、「仕返しをしてはいけないと言われました。ここで言われる「右の頬をたたかれる」のは、相手が自分のことをばかにして、見下しているということだそうです。それなのにもう片方も差し出してたたかせるようにと言われるのは、見くだされたままでいなさいということです。

7月24日(火)マタイ五40

 自分より強い人に、必要以上に持っているものをとりあげられたら、ひどいと思うのは当然です。でも、抵抗しないでさらに持っているものまで差し出しなさいとは損するばかりです。ずるいことをする人には仕返しをしたくなります。でもそれは神さまに任せなさいと言われました。

7月25日(水)マタイ五41~42

 自分のことをまるで家来や召使のようにして働かせようとする人には、言われた以上のことをしてあげなさい、と言われました。せめてやられた分だけやり返せたら少しは気休めになるかもしれません。でもイエスさまは、当然の仕返しをしないどころか、相手の求め以上のことをしてあげなさいと言われたのです。

7月26日(木)マタイ五43~44

 敵を愛するのは簡単ではありません。でも愛することの1つに祈りがあります。その人のために祝福を祈るのです。自分に対してよい態度をしない人が祝福されるのは気にいらないかもしれません。でもイエスさまも、自分を十字架にかけた人々のため、敵であった私たちのため祈ってくださったのですから。

7月27日(金)マタイ五45~47

 神さまには「あなたは悪いことばかりするから、雨しか与えません」ということはありません。どんな人にも太陽も雨も与えられています。イエスさまを信じた天の父の子どもは、その神さまのされることをまねして生きるのです。

7月28日(土)マタイ五48

 「完全なものになる」というのは、神さまのされること、イエスさまのされることをまねして生きることです。その生き方は、たとえスカッとしなくても、もっと心を満たしていただけます。

 ずいぶん前のことですが、お昼のテレビ番組でココアが体にいいと言いました。するとあっという間にどこのスーパーでもココアが売り切れてしまいました。私たちは「これがいい」と教わると、一度はやってみたくなります。特にテレビやネットで知ったことに影響されています。

7月29日(日)マタイ七24

 イエスさまの言葉も聞いたら私たちに影響しています。影響されるというのは、心が動かされてやってみようとか、信じてみようと思うことです。またイエスさまは言われたけど、人を愛せない、ゆるせないのはなんでなんだろうと思うことも影響されているからです。

7月30日(月)マタイ七24

 イエスさまの言葉を聞くと何か心に残ります。その心に残った言葉が家や学校や遊んでいる時など思い出されると、イエスさまが言っていたからやってみたいと思います。御言通りにできたと思えたり、できなかったと感じたりするでしょう。そうやって御言葉に取り組んでいくことが私たちの信仰の土台になっていきます。

7月31日(火)マタイ七25

 イエスさまを信じて、御言葉を聞いて、その言葉のように生活するように取り組んでいても、私たちの生活には嵐がやってきて、困ったこと、悲しいこと、つらいことは起こります。そしてそういう嵐の時、イエスさまの御言葉が乗り越える力となるのです。

8月1日(水)マタイ七26

 イエスさまの言葉を聞いても行わないというのは、違う言葉をきいて信じて生きているということです。もちろん私たちもいろいろな言葉を聞くことは必要ですし、聞いて影響もされています。けれども違う言葉を聞くというのは、イエスさまの言葉より、他の言葉の方を信じて、それを自分の土台としていくことなのです。

8月2日(木)マタイ七26

 砂の上に家を建てたら、地震や災害にあったらすぐに壊れてしまうことはよくわかります。でもイエスさまの言葉を聞いて行わないことはどうして砂の上に家をたてるようなものなのでしょう。イエスさまの言葉は変わることがありません。けれどもイエスさま以外の言葉は変わっていくからです。

8月3日(金)マタイ七27

 どんな人の生活にも時には嵐がやってきます。失敗したり、うまくいかなかったり、もしかしたら取り返しのつかないようなことをしてしまったと深く後悔することもあるかもしれません。でも悔い改めてイエスさまの言葉に戻るなら、回復させていただけます。

8月4日(土)マタイ七27

 本当に「倒れてしまう」のかどうかがわかるのは、この世界の終わりの時です。その時まではイエスさまのもとに行くことができます。イエスさまは、いつでも御言葉に聞いて生きるようにと招いてくださいっています。

 自分とあまり変わらないような人に偉そうにいわれるとカチンときます。人より下に見られていると思うと嫌な気持ちになります。でももし最初から自分が高いところにいなければ、あまり気にならなくなるのかもしれません。

8月5日(日)マタイ十八1

 弟子たちの間では、誰が1番上に立つ人になるのか、けっこう気になることでした。弟子の中で偉い順を決めるなら、自分は1番か上の方でありたいと思っていたからです。誰かよりは上でありたい、優れていたい、認められたいと思うのは、だれでもあるものです。でも覚えておきたいのは、天国ではもうそういうことは関係ないのです。

8月6日(月)マタイ十八2~3

 天国で偉いのはだれなのか、の前に、天国に入れるのはだれなのでしょうか。「心を入れかえて幼な子のようになる」人です。それは罪を悔い改めてイエスさまを信じることです。イエスさまに頼ることです。

8月7日(火)マタイ十八4~5

 天国で1番偉いのは「この幼な子のように自分を低くする者」です。でも小さい子が「いえいえ、私はまだ子どもですから」なんて言いません。でも大人からは「まだ子どもなんだから」と言われ、「まだまだ」と低くされることがあります。まだまだだけれども、だからこそ御言葉をどんどん吸収していけます。それが大事なのです。

8月8日(水)マタイ十八6~7

 小さい者ってどんな人のことでしょう。自分よりも劣っている人や弱い人のことでしょうか。まずは私たちが小さい者、弱い者なのです。すぐに何かにつまずいて転んでしまう者です。人に言われた言葉、態度、自分の失敗や不成功などで恐れ不安になります。悪魔はそういう弱さをついて私たちを誘惑に陥れようとします。イエスさまから引き離そうとします。

8月9日(木)マタイ十八8~9

 自分はこのままではイエスさまから離れていってしまうかも、と思うような誘惑があったら、たとえ辛くてもそこから離れる必要があります。多くのものを失っても、イエスさまから離れなければ乗り越えていけます。

8月10日(金)マタイ十八10~11

 自分より強い人の前だと小さくなって、弱い人の前だと大きくなってしまうことがあるかもしれません。だれに対しても低くなることも、低く見ないことも難しいものです。でも私たちはみんな神さまの前には小さな者です。それを忘れないでいたいものです。

8月11日(土)マタイ十八12~14

 小さな私たちは迷いやすく、罪を犯したり、イエスさまから離れそうになったりします。でもイエスさまは、そういう私たちを、自分勝手だし大した人じゃないからいいや、とは言われません。探し出して助け、天国まで面倒をみてくださいます。

 今の世界にはあるけど、天国にはないものってな~んだ?いじめとか悲しいこと、病気とかくるしいこととか、そういうものはないんだって。それだけじゃなくて、今は当たり前のことが天国では当たり前ではないんだって。

8月12日(日)マタイ二十1~7

 天国は、まるで1日中、働く人を募集して雇うぶどう園の社長さんみたいなものだとイエスさまは言われました。その社長さんは朝6時からはじめて9時にも12時にも、仕事がなくて雇ってくれるのを待っている人たちをどんどん雇っていきます。3時にも、そしてもう短い時間しか働けない5時でも雇うのです。

8月13日(月)マタイ二十8~9

 不思議なことに短い時間しか働かなかった人からお給料が渡されました。それも朝6時の人に約束された金額と同じ1デナリのお給料。「え、あれだけしか働いていないのに、あんなにもらえるの?」。それは普通に考えたら働いた分には多すぎるお給料でした。

8月14日(火)マタイ二十10

 長い時間働いた人たちはすごく期待したのです。ちょっとした働かなかった人が1デナリもらえるなら、自分たちはもっと多くもらえるに違いない。ところがみんな同じだったので、すごく不公平に感じました。私たちもこの気持、わかる気がします。多くがんばったんだから、短い時間しか働かなかった人よりは多くてもいいはずだと。

8月15日(水)マタイ二十11~12

 「社長、おかしくないですか。ちょっとしか働かなかった人と、私たちのように長い時間暑い中でもがんばって働いた人と同じ金額なんて、納得いきません」。ちょっとしか働かなかった人と比べたら、長い時間がんばった人たちも同じ金額なのは損をしているみたいです。

8月16日(木)マタイ二十13

 でも社長さんは朝に約束した通りのお給料をくれたのです。ごまかしたりずるをしたりしていないのです。これが天国です。今の世の中の考え方とは違います。罪をゆるされ、神の子とされて天国にいれていただけるのも、私たちのがんばりや、イエスさまを何十年も信じて奉仕したとか、働きの多さは関係ないのです。ゆるしも救いも神さまが与えてくださる恵みだからです。

8月17日(金)マタイ二十14

 先に来た人も後に来た人もみんな同じように神さまの愛とゆるしをいただけるようにされています。私たちの側にはもらえる理由や当然の働きがないのにいただけるのが神さまの恵みです。

8月18日(土)マタイ二十15~16

 神さまの恵みはだれにとっても多すぎてあふれるほどのものです。後からの人に先をこされても損ではありません。むしろ後からの人にも「あなたももらえてよかったね」と一緒に喜ぶなら、天国を本当に感じることができるのです。

 朝に学校へ持っていくものを準備して、慌ててしまうことがよくありました。あのノートが必要だったとか、これを用意しておかなければいけなかったとか。「どうして昨日のうちに用意しなかったの」と、当然怒られたわけです。つい面倒で前もって準備をしないと後で困ることがよくありました。

8月19日(日)マタイ二五1~4

 5人の愚かな女と5人の賢い女。その違いはランプの油を余分に用意しているかいないかでした。花婿を待つ時間が長くなって、もしつけているランプの油が足りなくなってしまったら困ります。だから先のことを考えて用意しておけば安心でした。

8月20日(月)マタイ二五5

 花婿がなかなかやって来ないので、賢い女もそうでない女も居眠りをしてしまいました。賢い人は居眠りもしない、なんてことはありません。みんな疲れるし眠くなるのです。そういうことに違いはありません。

8月21日(火)マタイ二五6~9

 いざ花婿が来た時、油の用意がなかった女たちは、油を買いにでかけなければいけませんでした。油を用意していた女たちの分は、人に分けることのできる量はなかったのです。自分のものは自分で用意することが必要でした。私たちがイエスさまを信じる信仰も同じです。自分で信じなかったら、花婿イエスさまをお迎えできないのです。

8月22日(水)マタイ二五10~12

 油を買ってもどった女たちは、残念ながらお祝いの場に入れてもらえませんでした。イエスさまがこの世界にもう1度戻ってこられることが約束されています。その時にお迎えできるかどうかは、油を用意しているかどうかなのです。油とは何のことだと思いますか。

8月23日(木)マタイ二五10~12

 油というのはイエスさまを信じる信仰とか、祈りとか、愛とか、聖霊とか、希望とか、つまりイエスさまとつながっていることです。でもそれは私たちが立派であることやがんばることではありません。また戸が閉じられて入れてもらえないことを怖がることもありません。ただイエスさまが私のために十字架にかかってくださったことを感謝し、そこに希望を持っていけばいいのです。

8月24日(金)マタイ二五13

 「目をさましていなさい」というのは、眠っていけないということではありません。居眠りしてしまう私たちですが、呼ばれた時すぐに起きてイエスさまをお迎えできるようにしていることです。悔い改めてゆるされたことを忘れないことです。

8月25日(土)マタイ二五13

 イスラエルは救い主をずっと待っていたのに、イエスさまがお生まれになった時、それを知り、喜んだ人はわずかでした。だから祈りましょう。再び来られるイエスさまをお迎えできる私でありますようにと。

 いよいよ夏休みもあとわずかです。気になる宿題を毎日コツコツやって余裕をもって終わる人もいれば、追い詰められて必死でやる人もいます。どちらでも終わらせられるなら、それぞれのスタイルのタラント(能力)なのかもしれません。終わらないのは困りますが。

8月26日(日)マタイ二五14~15

 どうしてみんなに同じ量を預けなかったのでしょうか。「能力に応じて」とあるように、それぞれにとってふさわしい量だったのです。だれにでも同じように与えられているものと、分量が違うけど、それぞれにふさわしいものが神さまから与えられています。

8月27日(月)マタイ二五16~17

 5タラントと2タラントを預かった人はそれぞれ商売をしました。そしてそれぞれ倍に増やしました。自分に与えられたもので何ができるでしょうか。自分のできることを考えていろいろ挑戦してみることは、いいことなのです。

8月28日(火)マタイ二五18

 私たちはつい、多く預かった方が得で、少ないのはかわいそうだと思います。けれども1タラントというのは、20年分の給料と同じぐらいのお金です。決して少なくありません。それに「能力に応じて」というのは、この人なら1タラントで十分やれる力があると信頼されていたのかもしれません。けれども1タラントの人はお金を土に埋めて何もしませんでした。

8月29日(水)マタイ二五19~23

 時がたって主人が戻ってきた時、商売をしてお金をさらに増やした2人はともに「わずかなものに忠実であった」と言われます。1タラントだってすごい金額なのに、5タラント、2タラントはわずかどころではありません。でも主人はそれをわずかといい、多く増やしたことを喜んだのではなく、任されたものをいかして用いたことを喜びました。

8月30日(木)マタイ二五24~25

 1タラントを任された人は、主人のことを冷たい厳しい人だと言いました。だからもし失敗したら、もし預かったものがなくなってしまったら、叱られ、ひどい目に合わされるのがこわかったといいました。主人から期待されていることが、この人にはわかりませんでした。

8月31日(金)マタイ二五26~29

 すばらしい能力があっても使わないといつしかできなくなっていきます。私たちは人と比べて自分は少ないとひがむことがありますが、少なくないのです。神さまに喜んでいただけることを、私たちにもできるようにされているのです。

9月1日(土)マタイ二五30

 イエスさまが再び来られる時、自分は役に立たなかったと言われてしまうかもと恐れる必要はありません。私たちの罪のために十字架で死んでくださったイエスさまへの、感謝の気持ちでできることをしていけばいいのです。

 夏休みに終わりがあるように、いろいろなことに終わりがあります。そしてこの世界もやがて終わりを迎えます。その時にはイエスさまがもう1度来られて、新しい世界がやってきます。

9月2日(日)マタイ二五31

 イエスさまがもう1度来られる時には、イエスさまが新しい世界の王様です。その時までイエスさまを信じ続けて、「イエスさま、待っていました。今までありがとうございました。お会いできてうれしです」と言えたらいいですね。

9月3日(月)マタイ二五32~34

 とにかく全世界のすべての人がイエスさまの前に集められます。そして右と左に分けられるのです。右側の人は新しい世界を受け継ぐ人だと言われます。新しい世界は御国であり天国とも言います。そこに入れていただけることに希望を持って、楽しみにしていたら、とうとういれてもらえる時には、どんなにうれいしことでしょう。

9月4日(火)マタイ二五35~36

 イエスさまが空腹であったり、かわいていたり、旅人であったり、裸であったり、病気であったりしたのはいつのことでしょうか。ましてやイエスさまが牢獄に入っていた時があったとは、どういうことなのでしょうか。イエスさまと実際一緒に過ごした人々はその時代の人たちだけです。その時は確かにイエスさまをもてなした人たちはいました。でもイエスさまが天に帰られた後はだれも直接会っていません。いったいいつのことなのでしょうか。

9月5日(水)マタイ二五37~39

 右側に分けられた人たちも言いました。「いつわたしたちはあなたのためにそれらをしましたか」。右側にいた人たちはわすれてしまったのか、気に留めていなかったのか、思い出せませんでした。でもイエスさまはすべて覚えておられ、喜ばれたのです。

9月6日(木)マタイ二五40

 「最も小さい者」とはだれでしょうか。あの人の立派さに比べたら、自分は小さな人間だと思うことがあるかもしれません。だれかとだれかを比べて大きい、小さい、を考えます。でもイエスさまは、私たちみんなを小さい者と言われました。だれでもみんなイエスさまの助けが必要な小さい者です。お互いがだれかのためにしたこと、それが大きいか小さいか関係なく、イエスさまにしたことと同じだと言われました。

9月7日(金)マタイ二五41~44

 私たちが、これだけのよいことをしたのだから、私は天でも認められるはずだと思っているなら、その働きは、愛ではなく、自分のためにしたにすぎなくなってしまいます。

9月8日(土)マタイ二五45~46

 イエスさまが私を愛してくださったから、「私の感謝の気持ちです」と、だれかにできることをするなら、自分の満足のためではなくなるのです。

 教会というと、人が集まる建物のことをさしています。でも本当はそれだけではありません。信じたひとりひとりに神さまが住んでおられるので、ひとりひとりが教会ですし、信じた人々の群れも教会です。

9月9日(日)使徒十七1~3

 パウロたちは新しい町につくと、まずユダヤ人の集まるユダヤ教の会堂に行きました。テサロニケでもそうしました。そして3回の安息日にイエスさまこそ救い主キリストだと伝えました。「ユダヤ人ならよく知っているとおり、キリストは苦しめられて、死んでよみがえることが聖書で預言されています。そのとおり、十字架で苦しみ、死からよみがえったイエスこそキリストなのです」と。

9月10日(月)使徒十七4

 聞いた人たちの何人かが聖書の意味はそういうことだったのかと納得し、イエスさまを救い主と信じました。ユダヤ教の礼拝には、ユダヤ人だけでなく、ユダヤ人でないけれどもユダヤ人の信じている神さまを信じたいと思っていたギリシヤ人たちやお金持ちの女性たちもいました。そういう外国人たちも信じました。

9月11日(火)使徒十七5

 こうしてキリストを信じる者たちの集まりができあがりました。ところがそれをねたむ人々がいたのです。そしてパウロたちの働きの邪魔をしだしたのです。町でぶらぶらしていて何か気に食わないとすぐに暴れだす人たちを使って、うそを言って町の中に騒動を引き起こさせたのです。私たちは自分よりうまくいっていたり、認められていたりする人にねたみを感じやすいものです。だから心がねたみで覆われてしまわないようにしたいものです。

9月12日(水)使徒十七6

 パウロとシラスを引っ張り出して訴えようとしたのに、2人はみつかりませんでした。かわりにパウロの仲間のヤソンと他の仲間が捕らえられてしまいました。パウロたちは「天下をかき回してきた」とまで言われてしまいました。

9月13日(木)使徒十七7

 パウロたちはまるでローマ皇帝に反対するテロリストのように言われてしまいました。たしかにイエスさまはローマ皇帝とは別の王です。でもそれは神の国の王であり、イエスさまを救い主と信じる者たちの心の王なのです。

9月14日(金)使徒十七8

 この言葉を聞いた人たちが不安にならないわけがありません。自分たちの身に何かいやなことが降りかかったら困ります。だからそういう危ない人は長く町にいられなくなるのです。ねたみがまるで勝ったかのようでした。

9月15日(土)使徒十七9

 イエスさまを信じるヤソンと仲間たちは、お金を支払って釈放されました。イエスさまを信じてすぐに迫害され、大変だったことでしょう。でもテサロニケには確かに教会が誕生しました。

 テサロニケの教会は、生まれてすぐに迫害を受けました。迫害とは、信じることをくじくようないじめや苦しみを、反対する人から受けるとことです。イエスさまを伝えたパウロたちもすぐに町を出なければならなかったので、その後どうなったのかずっと心配していました。

9月16日(日)Ⅰテサ三1~3

 パウロはなかなか行けないテサロニケに、代わりにテモテを送りました。そしてテモテが行くことで、苦しみの中にあるテサロニケの教会を励ませればと考えたのです。イエスさまを信じる私たちは、苦しいことや悩むことから逃げることはできないようです。でも信じる者同士で励まし合って乗り越えることができるのです。

9月17日(月)Ⅰテサ三4~5

 テサロニケの教会の人たちがイエスさまを信じた時、パウロは、やがて苦しいことや悩むことがやってくると伝えていました。イエスさまを信じる生き方は、世の中の考え方や生き方と違うところがあるからです。だからパウロは心配しました。せっかく信じた人たちが、苦しみが大きすぎて信じるのをやめてしまっていないかと。

9月18日(火)Ⅰテサ三6

 でもテサロニケの教会は守られていました。テモテがパウロのもとに帰ってきて、そのことを報告してくれたのです。信じた人たちはくじけることなく、イエスさまを信じ続けているし、パウロたちにとても会いたがっていたのです。

9月19日(水)Ⅰテサ三7~8

 苦しみの中にいるのに、信じる思いが弱くなったり、くじけたりしないで、むしろイエスさまにさらに頼るテサロニケの教会の姿は、同じく苦しみの中にあるパウロを大いに慰めました。苦しい時はさらにイエスさまと深くつながります。テサロニケ教会はあんなに大変なのに、イエスさまは大変なところをちゃんと支えてくださっている。主は自分たちとも、テサロニケ教会とも共にいてくださるから大丈夫だという励ましになったのです。

9月20日(木)Ⅰテサ三9~10

 イエスさまを信じる信仰は、成長します。だから御言葉を聞き、教えていただきながら、信仰の足りないところを導いていただく必要があるのです。

9月21日(金)Ⅰテサ三11~12

 だからパウロは自分もテサロニケに行けることを神さまに祈りました。また人を愛する愛が増してさらに豊かにされるようにとお祈りしました。愛は、イエスさまを信じる私たちの、何をするにも必要な力だからです。

9月22日(土)Ⅰテサ三13

 イエスさまを信じる私たちの希望は、イエスさまがもう1度こられることです。だからその時なんの不安もおそれもなく、神さまのみ前に立つことができるように祈りましょう。「私の心を強め、清く、責められるところのない者としてくださるように」と。

 いつかこの世界は終わります。そしてその時イエスさまがもう1度来られます。そして私たちはイエスさまと会って、もう苦しみや悲しみのない新しい世界へ導いていただけます。

9月23日(日)Ⅰテサ四13~15

 イエスさまが再び来られる時を再臨といいます。でもイエスさまの再臨の前に死んでしまったら、その人たちはどうなるのでしょう。テサロニケ教会の人々はそのことが心配になりました。でも大丈夫なのです。イエスさまを信じて死んだ人々は、死が終わりではありません。再臨のイエスさまによってよみがえらされるからです。

9月24日(月)Ⅰテサ四16~18

 死んだらどうなるの、死んだ人はどうなるの、そういうことを心配する必要はありません。イエスさまが先に死んだ人も、まだ生きている人も、天のラッパの合図と共に呼び出してくださいます。まず先に死んだ人が呼ばれ、そして生きている人がイエスさまと空中でお会いするのです。そこからはずっとイエスさまと一緒に生きるのです。もう死はないのです。

9月25日(火)Ⅰテサ五1~3

 イエスさまはいつ来られるのでしょうか。いつこの世は終わりを迎えるのでしょうか。それはだれにも知らされていないのでわかりません。突然やってくることだけがわかっています。

9月26日(水)Ⅰテサ五4~5

 たとえイエスさまがいつ来られるのかわからなくても、私たちがイエスさまを信じ続けているなら、私たちは光の子として光の中を歩んでいます。イエスさまの希望の光が、私たちの進む先を照らしてくださり、イエスさまをいつでもお迎えできるように導いてくださいます。

9月27日(木)Ⅰテサ五6~8

 目を覚ましているとは、心の目のことです。聖霊に目を開いていただきましょう。私たちの心をイエスさまから引き離そうとする悪の力に負けないように、武具をいつも身につけましょう。それは信仰と愛の胸当て、そして救いの希望のかぶとです。

9月28日(金)Ⅰテサ五9~10

 神さまは私たちが、神さまの怒りで滅びることを望んでおられません。だからイエスさまの十字架の死とよみがえりがあったのです。なんてありがたいことでしょう。「こんな自分では救われない」と思う必要はありません。こんな自分をイエスさまは救ってくださっています。

9月29日(土)Ⅰテサ五11

 私たちは人に対して厳しくなって、もっとイエスさまを信じている人らしくとか、悔い改めた人らしくした方がいい、と思うかもしれません。でも「らしく」はいりません。それよりも「救われてよかったね」「ゆるされているんだよ」「イエスさまは共におられるよ」と励まし合い、支え合っていくことが大事なのです。

 イエスさまをお迎えするまでの間、私たちはどんなふうに過ごしたいですか。イエスさまに祈り、イエスさまを喜び、イエスさまに感謝して過ごしたいですね。

9月30日(日)Ⅰテサ五12~13

 教会の先生や大人たちに反発したくなることはありますか。また偉そうなことをいう大人に対して、「うざい」と思ったりしますか。みんな完璧ではないし、間違いもするし、勘違いして怒ることもあるかもしれません。けれども、尊敬と感謝と愛をもって、教会の先生や大人の人たちと話すなら、その方々に自分がゆるされ、愛され、祈られてきたことがきっとわかることでしょう。

10月1日(月)Ⅰテサ五14~15

 つい見える部分で人を判断する私たちです。だからイエスさまを信じたのに、まじめにしないし、怠けているようにみえる人を、注意ばかりしてしまいそうです。でも頭ごなしに注意したら、嫌がられるだけかもしれません。信頼し合えるところから、支え合ったり、励まし合ったり、注意し合ったり、受け入れ合ったりしていけるのです。

10月2日(火)Ⅰテサ五16~18

 涙も流すし、痛みもあるし、怒ってしまうこともあります。悲しんだり、悩んだり、後悔したりしながら、イエスさまにお祈りし、毎日を過ごしていく時、感謝の気持ちや、喜びが与えられていきます。イエスさまの愛やゆるしに気付かされて、自分が想像していた喜ぶこととは違う喜びが、感謝が発見できるのです。

10月3日(水)Ⅰテサ五19~20

 御霊とは聖霊のことです。聖霊は聖書の言葉を思い出させたり、教えたり、お祈りを助けてくださいます。だから聖霊に助けられていることを忘れないでいたいものです。聖霊は、私たちが御言葉を聞いて生活しようとすると、神さまの思いに生きるよう助けてくださいます。悪の誘惑からも守ってくださいます。

10月4日(木)Ⅰテサ五21~24

 私たちもこのパウロの祈りをそのまま祈りたいと思います。何を祈っていいかわからない時、この祈りを祈るのもいいですね。そしてこの祈りに真実な神さまは確かに答えてくださいます。

10月5日(金)Ⅰテサ五25

 私たちは祈られています。だから私たちもだれかのために祈っていきましょう。祈りの相手の詳しいことはわからなくてもいいのです。その人のためにひとことでもいいのです。私たちが祈られて今があるのですから、私たちの祈りが用いられて今度はだれかが支えられるなら、こんな感謝なことはありません。

10月6日(土)Ⅰテサ五26~28

 イエスさまの恵みはいつも私たちと共にあります。私たちにとって「いつも~をする」というのは、難しく感じることがあります。でもイエスさまは「いつも」なのです。時々とか、たまにとかではないのです。