「それっておかしいんじゃないの?」と気づいても、そう思っているのが自分一人だったら、「おかしい」と言えるでしょうか。とても勇気がいることです。大勢の意見につい負けてしまう弱い私たちです。 4月2日(日)マルコ十五1~5  イエスさまは悪いことをした人として裁判を受けました。代わる代わる祭司長たちは、イエスさまがどんなに悪いか訴えました。イエスさまが悪いのか悪くないのかを決める裁判長の総督ピラトは、言い訳も反論もしないイエスさまが不思議でした。それはイエスさまの心がもう決まっていたからです。十字架にかかること、これが神さまの計画だからです。                         4月3日(月)マルコ十五6~10  ピラトにはわかっていました。イエスさまは罪人として裁かれるようなことは何もしていないと。ただ、祭司長たちのねたみから殺されそうになっていると。どんなにイエスさまが悪いというリストをあげても、それはいかに彼らにとってイエスさまを邪魔なのかを見せているようなものでした。だからイエスさまをゆるしてあげたかったのです。 4月4日(火)マルコ十五11~13     ねたみは、人をとことん悪者にし、正しいことを見えなくしてしまいます。すでに大勢の人たちは、イエスさまが悪いと思わされていました。多くの人はちゃんと考えることをしないで、うそのうわさや、祭司長たちが言うから、という理由でそう思ったのかもしれません。彼らはイエスさまを「十字架につけよ」と叫びました。 4月5日(水)マルコ十五14~15  ピラトは最後までイエスさまは何も悪くないとわかっていました。でも、外で人々が叫ぶ声があまりにも強くて怖くなりました。群衆の声を聞かなかったら、もっと大変なことが起るかもしれない。正しいことを通さないで、群衆を満足させることを選びました。ピラトは誰よりも人に命令できる地位と力があったのに、群衆の叫びに負けて、正義を行えなかったのです。 4月6日(木)マルコ十五16~20  ローマの兵隊たちさえも、集団でイエスさまをばかにして、いじめ、苦しめました。とことんあざけられ、みじめにされるのは、なんと辛いことでしょう。イエスさまの味方になる人はいなかったのです。けれどもイエスさまはあらゆることを静かに耐えてくださいました。 4月7日(金)マルコ十五21  さんざん痛めつけられぼろぼろのイエスさまの代わりに、たまたま通りかかったクレネ人シモンが、十字架を無理に負わされました。シモンにとっては忘れられない出来事となったことでしょう。後にイエスさまを信じる人になりました。 4月8日(土)マルコ十五22  イエスさまはゴルゴタ(されこうべ)と呼ばれた場所で十字架につけられました。されこうべとは、骸骨のことです。まさに死と絶望が待つ場所ですが、救いと希望がそこから始まるのです。  十字架は死刑の中でもあまりにも残酷なものでした。釘で打たれた傷から血がゆっくりと流れ出ます。でもすぐには死なないので、痛みと苦しみをじっと耐えながら長い時間、人によっては二、三日かけて死を待たなければいけないのです。 4月9日(日)マルコ十五23~25  いよいよイエスさまは十字架に釘打たれようとしました。痛みを少しでもやわらげるために、没薬をまぜたぶどう酒が差し出されましたが、イエスさまは飲まれませんでした。痛み苦しみをそのまま受けられたのです。                                      4月10日(月)マルコ十五26~28  罪状書きは「ユダヤ人の王」でした。イスラエルの王とは、神さまの言葉に従って人々を治める人です。しかしそれまでの多くの王は神さまに背いて人々を治めきれず、国が滅んでしまいました。イエスさまはまことの王として、命を捨て、私たちを救ってくださいました。それはまことの王の支配が、私たちを生き生きと生きることができるようにすることをあらわすためでした。 4月11日(火)マルコ十五29~32     イエスさまが十字架で苦しまれる姿を見ながら、多くの人はイエスさまをののしりました。普通正義のヒーローは人を助けることができるし、自分のことも守ります。けれどもイエスさまは、まるで自分を救えないかのように、みじめな姿で死なれることを耐え忍ばれました。 4月12日(水)マルコ十五33~39  人々は、イエスさまの叫びを聞いて、もしかしたら天からエリヤがやって来てイエスさまを救うような何か奇跡がおこるかもしれないと思いました。しかしそういう奇跡は起りませんでした。イエスさまが息を引き取られると、神殿では、幕が上から下に裂けるという奇跡が起っていました。イエスさまの十字架の死が、私たちの罪をゆるし、神さまと人との間にあった壁がとりさられたしるしでした。そして百卒長がイエスさまを神の子だと認める奇跡も起りました。 4月13日(木)マルコ十五40~41  人が死んでいくまでの苦しみのありさまを最後までみとどけることは、どんなに辛くまた勇気のいることでしょう。しかしイエスさまにずっと従ってきた女たちは、十字架を離れることなくみとどけました。 4月14日(金)マルコ十五42~43  アリマタヤのヨセフは、ユダヤ人リーダーの一人でした。リーダーたちの多くがイエスさまを十字架につけることに賛成していたので、ヨセフのような立場の人がイエスさまの弟子であると知られることは勇気がいることでした。しかし彼は大胆にピラトのもとに行き、イエスさまを引き取ることを願いました。 4月15日(土)マルコ十五22  イエスさまは確かに死んでおられました。アリマタヤのヨセフによって十字架からおろされ、亜麻布にくるまれ、お墓におさめられました。墓の入り口は石でふさがれました。女たちがそれを最後までみとどけました。  イースターおめでとうございます。イエスさまは確かに死なれましたが、よみがえられました。イエスさまは本当に死なれたのかな?と疑う人もたくさんいます。死んだ人がよみがえるなんて、ありえないからです。でも死からのよみがえりがあるから、私たちには希望があるのです。 4月16日(日)マルコ十六1~2  女たちは安息日が終わってすぐにイエスさまの墓へ行きました。お墓に収める時には香料を塗るのが習慣だったからです。女たちは、イエスさまの遺体を丁寧に収めてあげたかったのです。 4月17日(月)マルコ十六3~4  女たちにとっての気がかりは、お墓の入口をふさいでいるとても大きな石を、誰に動かしてもらうかでした。女三人ではとても動かせないのです。イエスさまが死んだことを、決して取り消せないのと同じように、それは重く思えました。ところがお墓について驚いたことに、すでに石は転がされて、墓の入口が開いていました。女たちにとって動かせないものが動いていたのです。 4月18日(火)マルコ十六5~6  お墓の中には、イエスさまではなく、真っ白い長い衣を着た天使が座ってました。天使は重大発表をします。「イエスはよみがえって、ここにはおられない」。イエスさまが死んだことは人にはどうすることもできないことでした。それを神さまはよみがえらせて、動かせない死を動かしてくださったのです。 4月19日(水)マルコ十六7  イエスさまがガリラヤで待っている。そのことを弟子たちとペテロにも伝えなさいと天使は言いました。「ガリラヤで会える」ということは、確かにイエスさまが言われていたことでした。でもみんな忘れていたのです。いや、心にとめていなかったのです。私たちにも心にとめていない、聞き逃している大事な御言葉があるかもしれません。 4月20日(木)マルコ十六8  女たちは驚いて、こわがって、お墓から逃げて行きました。弟子たちにも伝えませんでした。どうしてなのでしょう。女たちの心はまだ、死が負けて、人がよみがえるというすばらしいことが起こったとは、信じられませんでした。それほど、私たちには死の力の方が強く見えてしまうからです。 4月21日(金)マルコ十六9~11  復活されたイエスさまが、マグダラのマリヤに現れてくださいました。マリヤは、イエスさまがよみがえったことを、泣き悲しんでいる人々に知らせました。けれどもみんな信じませんでした。死んだ人はよみがえらない、それが普通のことなので、イエスさまが復活したと信じることを、難しくさせるのです。 4月22日(土)マルコ十六12~13  田舎に向かって歩いていた二人の人にもイエスさまは現れました。この二人もイエスさまが復活したと話しましたが、みんな信じませんでした。でも、よみがえったイエスさまに会った人々がだんだんと増えていき、やがて弟子たちみんなが信じるようになりました。  イエスさまが復活し天にあげられると、もう姿を見ることも触ることもできません。でもイエスさまは私たちと共におられます。私たちが感じたり、見たりすることができなくても、信じる私たちとイエスさまはずっと一緒にいてくださるのです。 4月23日(日)マルコ十六14  一たす一は二。算数ではこれが正解です。でも神さまが働かれるところには、もっと違う答えが出てくることがあります。私たちはつい「こうなるはず」という思いがあるので、そうでないことを受け入れたり信じたりできなくなります。だから弟子たちもイエスさまのよみがえりをなかなか信じることができませんでした。神さま、かたくなになりがちな私たちの心を柔らかくし、信じるものにしてください。 4月24日(月)マルコ十六15  イエスさまは弟子たちに「信じられなかったから、もう任せられない」とは言われませんでした。彼らに大事な仕事をお任せになりました。 全世界に出て行って、すべての人々にイエスさまのことを伝えるようにと言われたのです。 4月25日(火)マルコ十六16    罪というと、何か悪いことをすることだと思います。もちろんそうなのですが、神さまを信じないことが罪です。神さまを信じないと、自分が神さまのようにえらいので、神さまを無視して自分がやりたいように、やってしまいます。それは自由で楽な感じがしますが、苦しくなった時、自分で自分を救えないので生きていることすら辛くなります。でもイエスさまを信じ洗礼を受けたら、イエスさまに救われているので、苦しみを乗り越えさせていただけるし、死んだ後のことも希望を持てるのです。 4月26日(水)マルコ十六17~18  イエスさまを信じて歩む時、神さまからの力をいただけます。いろいろな力があり、それぞれに与えられます。しかし、与えられた力は、自分を自慢するために使うのではなく神さまのすばらしさをしめして、神さまが今も生きて働いておられることをあらわすためであることを忘れてはいけないのです。 4月27日(木)マルコ十六19  イエスさまは天にあげられ、今神さまの右に座っておられます。それは罪にも死にも勝ったということです。だからイエスさまを信じて歩むことは、失敗や間違い、愚かさや罪によって落ち込んだり悔い改めたりすることはあっても、ゆるされ支えられていることを信じて歩めるのです。 4月28日(金)マルコ十六20  弟子たちはイエスさまを伝えにいろいろなところへ出て行きました。イエスさまが弟子たちといつも一緒にいて豊かな働きをしてくださいました。こうして教会は世界中に広がっていったのです。 4月29日(土)使徒行伝一3~5  弟子たちは出て行く前に、約束されていた聖霊がくだるのを待つようにとイエスさまから命じられていました。彼らはお言葉通り待ち望みました。聖霊を受けると、彼らは力を受けて目覚ましい働きができるようになりました。  今はメールですぐにやり取りできるので、あまり手紙を書かないかもしれません。それでも手紙が届くとうれしいですね。手紙から相手の様子や気持ちがわかると親しみを感じることができます。このローマ人への手紙は、パウロの、神さまとローマの人々への熱い思いがものすごく伝わってくる手紙です。 4月30日(日)ローマ一1  パウロはまだ行ったことがなく、また会ったことのないローマの教会に手紙を書きました。まずは自己紹介をするのですが、自分のことをどんな風に紹介しているでしょう。「私はイエスさまの奴隷で、イエスさまを伝える使徒です」。奴隷というのはご主人のいうことを何でも聞く人です。でもご主人イエスさまは愛によってパウロを動かすお方なので、苦しい奴隷ではなく喜びの奴隷なのです。 5月1日(月)ローマ一2~7  パウロはユダヤ人ではない外国の人に、イエスさまを伝えるように使命を与えられました。外国人であるローマの人々もイエスさまを信じ、神の家族とされていました。だからパウロは、ローマ教会の人々を、神さまに愛されている聖徒へと呼びかけたのです。そしてイエスさまを信じる私たちも神に愛されている聖徒です。 5月2日(火)ローマ一8    パウロはいつもローマ教会のためにも祈っていました。そして祈る時、彼らのことについてまず感謝をささげました。それは、ローマ中に、ローマの中にもイエスさまを救い主と信じている人たちがいる、ということが知られるようなっていたからです。ローマにも信じる人がいるとわかれば、イエスさまに興味をもつ人も出るし、信じたいと思う人が励まされて教会に足を運ぶきっかけにもなります。 5月3日(水)ローマ一9~10  パウロはいつかローマ教会へ行って、教会のみんなと会いたいと、とても強く願っていました。でもそのチャンスがなかなかやってこなかったので、ローマに行けるように、ひたすら祈り続けていました。パウロでもなかなか聞かれない祈りはありました。私たちも祈りを諦めないでいたいですね。 5月4日(木)ローマ一11~12  パウロがローマに行ってしたいことは、教会のみんなと交わりをし、信仰を励ましあいたいということでした。私たちもキャンプやユースジャムなどで、信仰の友と出会うことで、イエスさまを信じる仲間いる喜びと、仲間の信仰から励ましをもらえます。実際に会うことは大きな力なのです。 5月5日(金)ローマ一13~15  何よりもパウロはやはりローマでも伝道をしたかったのです。イエスさまのことを伝えたかったのです。それはイエスさまに救われたことの感謝がそのようにパウロをいつも動かしていたのです。 5月6日(土)ローマ一16~17  「十字架で死んだイエスさまがよみがえられた。」その話を聞くと、愚かな話だと思う人もいます。でもそれが私たちを救う神の力です。だからパウロも私たちも、人から愚かと思われても恥じることなく、イエスさまを信じるのです。  救われるってどういうことでしょう。私でも神さまにゆるされているんだ、神さまに愛されているんだ、とわかることです。そうすると心がとっても軽くなります。そして将来の不安や死んだ後の不安が襲ってきても、人との関係が壊れてしまっても、大きな苦しみにあっても、神さまは見捨てないという、変わらない支えがあることです。 5月7日(日)ローマ三10~18  「義人」とは正しい人のことです。聖書ではこの世界には正しい人は一人もいないと言います。一人ぐらいはいるだろうと思うかもしれません。世界には良いことをする人がいるし、刑務所に入るような悪いこともしていないし。でもそうでしょうか。誰でも人に見せたら軽蔑されるような、さらけ出せない心を持っています。 5月8日(月)ローマ三19~20  律法は、がんばれば正しく生きることができると思って、自分で守ろうとします。しかし努力しても正しく生きることができない自分に気づかされます。それによって自分が正しくも立派でもないことがわかり、どうにも言い訳できなくなるのです。私たちは神さまの前に、罪人の私をゆるし、お救いくださいというしかない者なのです。 5月9日(火)ローマ三21~22    私たちは自分の力やがんばりでは自分を正しくすることはできません。だから神さまがイエスさまを与えてくださり、イエスさまを信じることによって、「あなたは正しくなった」「義とされた」と言われるようにしてくださいました。この神さから義としていただくことは、信じるなら誰でも差別なく与えられます。 5月10日(水)ローマ三23~24   私たちはみんな罪を犯してしまいます。そのため神さまのすばらしさをあらわすことができないのです。それなのに、私たちが何か立派なことができたり、努力やがんばりで良い行いができたりしたからでもなくて、ただ神さまからの一方的なプレゼントとして救いをいただきました。 5月11日(木)ローマ三25~26   昔は悔い改めの時、どうぶつが罪の赦しのための供え物としてささげられました。しかし私たちのためにイエスさまが十字架の死をもって、神さまへの供え物となってくださいました。そして死からよみがえられたことによって、「義」の道をひらいてくださいました。神さまによって、正くない私たちは、正しいものへと変えていただいたのです。 5月12日(金)ローマ三27~28  ですから、「私は救われるためにこれをした、あれをした。だから救われたんだ」と言える人は誰もいなません。また自分はがんばった、よくやったと誇れる人もいません。そしてあなたはがんばってないから救われないということもありません。ただ私たちが「義とされる」のは、イエスさまを信じることによるからです。 5月13日(土)ローマ三29~31  神さまはユダヤ人だけの神さまなのではなく、すべての人の神さまです。そして信じるすべての人が義とされます。それが救われるということです。  あなたは何かをがんばったらごほうびがもらえることはありませんか。お手伝いをがんばったから今日は百円あげましょうとか、テストで百点とったから、お小遣いを増やしましょうとか。大人になれば働いた分のお金がもらえます。何かをやったからもらえるというのが私たちの世界では普通です。では、神さまの世界ではどうなのでしょうか。 5月7日(日)ローマ四1~8   神さまがアブラハムのことを「義」としたのは、彼が神さまを信じたからでした。彼が何か良いことをしたとか、神さまに認められる働きをしたとかではありません。がんばったから与えられるのではなく、がんばっていないのに、神さまを信じたら、救っていただけるのです。 5月8日(月)ローマ四9~10  ユダヤ人の男の人は、赤ちゃんの時に体の一部に傷をつける割礼を受けています。割礼を受けていることが、神さまに救われているしるしでした。だからやっぱり割礼を受けている人の方が、神さまに義と認められるのでしょうか。イスラエルの始まりとなったアブラハムはどうだったのでしょう。彼が神さまに義と認められたのは、割礼を受ける前でした。 5月9日(火)ローマ四11~12  アブラハムが「義」とされ救われたことは、目に見えるものではありません。だから、そのしるしとして、アブラハムは割礼を受けました。だからアブラハムは割礼を受けていない時に信じて義とされたので、割礼を受けていてもいなくても、信じた人は義とされるという道を最初に歩んだ人です。私たちの模範となった信仰のお父さんです。 5月10日(水)ローマ四13~15  アブラハムは七五歳を過ぎても子どもがいませんでした。でも神さまは、星の数のように数え切れないほどの子どもと、広い土地を与えますと約束しました。アブラハムはそれを信じました。だからアブラハムのように、神さまを信じる私たちはみんな、アブラハムの子孫ですし、アブラハムに約束された神さまが与えてくださる神の国を受け継ぐのです。 5月11日(木)ローマ四16~18  ところでアブラハムが「多くの国民の父となる」と約束された時、まだ彼には一人も子どもはいませんでした。でも彼は普通だったらもう子どもが与えられることを信じることが難しい年でしたが、希望を持って信じました。だから子どもイサクだけではなく、今では神さまを信じる多くの人が生まれて、確かに信仰の父となりました。 5月12日(金)ローマ四19~22  アブラハム百歳、奥さんのサラ九十歳。普通はもう子どもは生まれない年です。こういう時、信じ続けるのはとても難しいです。もう無理だとあきらめてしまいそうです。でも、アブラハムは、神さまは約束されたことをちゃんと実行してくださると信じたのです。 5月13日(土)ローマ四23~25  イエスさまは私たちの罪のために十字架で死んでくださり、よみがえられました。それが私たちを義とするためでした。私たちは自分のがんばりでなく、イエスさまによって義とされ救われているのです。  私たちは、あまりに期待しすぎて、がっかりしないように、なるべく期待しないようにすることがあります。期待が裏切られると楽しくなくなるからです。でも神さまを信じる生活は、がっかりで終わらない希望の生活です。 5月21日(日)ローマ五1   自分はイエスさまを信じたけど、本当に救われているのかなと、思う時がありますか。安心してください。イエスさまを信じたら、救われています。神さまとしっかり結ばれました。そして、神さまのことを、ただ罰を与えるこわいお方ではなく、罪をゆるしてくださったお方として信じていけるのです。 5月22日(月)ローマ五2  恵みというのは、何もしていないのに、もらえるプレゼントのことです。何をもらったのでしょう。イエスさまからの新しい命です。イエスさまに似たものになる命です。この命にはさらなる希望があります。私たちはみんないつか死にますが、いただいた命によって神の国で主とともに生きるという希望です。 5月23日(火)ローマ五3~4    イエスさまを信じていても、困ったことや、悲しいことは起こります。イエスさまがこれを乗り越えさせてくださると、信じていくと、がまんできる力が与えられます。そして乗り越えた時、心が成長しているものです。さらに、また次に困ったことが起こっても、あの時助けていただいたからと、イエスさまに希望を持って行けるのです。だから困ったことの中にいても、喜びが与えられます。 5月24日(水)ローマ五5   失望というのは、期待していたようにならなくて、がっかりすることです。がっかりしてばかりだと、もう期待できなくなります。でもイエスさまに希望を持っていると、自分の願っていたようにはうまくいかなくてがっかりしても、自分の思いよりもっとすばらしいことをしてくださるイエスさまにお任せいていけます。イエスさまを与えてくださった神さまの愛がどこまでも私たちを支えているからです。 5月25日(木)ローマ五6~8   神さまの方が私たち人間に何度も何度も裏切られて、がっかりし続けました。それなのに、私たちをあきらめないで愛していてくださいました。そのことを私たちの罪のために死んでくださったイエスさまの十字架であらわしてくださいました。 5月26日(金)ローマ五9  罪は、いつも心のどこかに、神さまは私のことを怒っているんじゃないかな、いつか私はその罰を受けるんじゃないかな、という不安を起こさせます。でもイエスさまによってゆるされていると信じたら、救われているので、怒っているんじゃないかと不安にならないで、ゆるされていると安心していけるのです。 5月27日(土)ローマ五10~11  神さまを信じないでいると、神さまをまるで私の邪魔をする敵にして生きてしまいます。でも信じると、敵どころか、私たちをあきらめないでゆるし続けてくださることを知って、心が平和になります。そして神さまの愛を喜んでいけるのです。  イエスさまを信じていく人生は、仲間が大事です。自分一人だけで信じるのではなく、信仰の友だちと共に礼拝をささげます。またお互いに励まし合い、助け合いながら、人にイエスさまのことを伝え、信仰生活を支えあいます。そして教会を一緒に建てあげていくのです。 5月28日(日)ローマ十二1  「礼拝」というと日曜日に教会に集まって賛美し、お祈りし、聖書のお話を聞くこと、と思います。でも礼拝は教会にみんなで集まってする形だけではありません。「私を神さまのものです。神さまの御用のためにお使いください」と毎日自分をささげて生活をすることも礼拝です。 5月29日(月)ローマ十二2  私たちは世の中で生きています。世と関係なく生きることはできません。でも何もかも世の中の考え方と同じで生きると、神さまの思いと違う方向に行ってしまいます。だから聖書の言葉を聞き続ける必要があります。そうすると、世の中ではこうする、こう考える。でもイエスさまはこう言われる。こう願われるということを知って、イエスさまのように生きることを助けていただけます。 5月30日(火)ローマ十二3~8   教会にはいろいろな人がいます。得意なことや大事にしたいこと、物の見方がちょっとずつ違ったり、奉仕の種類もいろいろあったりします。違っていると、時々一つになるのが難しくなります。でも人の体がいろいろな部分からできていて、それぞれが必要な違った働きをするように、教会の一人一人も、お互いが働きあってイエスさまのすばらしさを伝えていけるのです。 5月31日(水)ローマ十二9~10   愛にも、本物と偽物があります。私たちの心は時々、いい人ぶった偽物の愛を見せることがあります。でも本物の愛は、いい人のふりをしません。ほめられなくても、喜んでもらえなくても、自分ができることを誰かのためにするのです。そして人を自分より下に見ないで、お互いに尊敬しあえるのです。 6月1日(木)ローマ十二11~14   神さまに対して熱心な思いを持つこと、いつでも希望を捨てないで祈ること、人とつながりながら生きること、これらを大事にしなさいと言われています。でもずっと熱心ではいられなかったり、祈れなかったり、人と関わりたくなかったりする時もあるでしょう。だから信仰の仲間と励まし合うのです。 6月2日(金)ローマ十二15~16  私たちはけっこう鈍感なので、人の喜びも喜べなかったり、悲しみも悲しめなかったりします。それなのに、すぐに人の気持ちをわかってあげた気になって、勝手に励ましたり慰めたり、時には注意したり教えたりしてしまいます。神さま、どうぞ人の気持ちによりそえますように。 6月3日(土)ローマ十二17~21  仕返しをして懲らしめようとするのは、普通の世の中の考えです。でももしそれが成功してもイエスさまは、私たちが悪に負けていると言われます。イエスさまは「敵を愛しなさい」と言われるからです。イエスさま、イエスさまのゆるしと愛で私にも悪に勝たせてください。  教会の誕生日はペンテコステです。教会というのは、建物のことだけではありません。イエスさまを信じた人々の群れが教会ですし、信じる一人一人も教会です。なぜなら信じる人の群れにも、信じる一人一人の中にもイエスさまが、聖霊が、いてくださるからです。 6月4日(日)使徒二1~4  ペンテコステの日、聖霊が降りました。聖霊の力をいただいた弟子たちは、外国語でイエスさまについて話し始めました。目に見えない聖霊は、私たちの心にも住んでくださっていて、私たちに力を与え、神さまについて教えたり、伝えたりできるよう助けてくださっています。昔の弟子たちだけが特別にいただいたのではなく、信じる私たちはみんな聖霊をいただいています。 6月5日(月)使徒二5~13  勉強をしていないのに、弟子たちが外国語を話せたのは、自慢するためではありません。神さまのすばらしい働きを語るためでした。外国生まれ外国育ちの人々は、自分たちの心に届く言葉でイエスさまのことを聞けました。聖霊は、人の心よくわかるよう、私たちが伝える言葉を助けて用いてくださいます。 6月6日(火)使徒二14~21  聞く人の中には、弟子たちがお酒を飲んで酔っているとあざ笑う人もいました。聖霊が降るというすばらしい神さまのみわざが起こっていても、それもかつて預言された言葉が実現しているということであっても、閉ざされた心ではわかりません。聞く人の心にも豊かな聖霊の助けが必要なのです。 6月7日(水)ローマ八14  イエスさまを信じたら、神の子とされます。それはまるで、本当はそこの家に生まれた子ではないけれども、「うちの子にしよう」と親が願って、必要な手続きをして自分の家の子にするようなものです。その子は養子なのですが、その家の子どもとして育てられるのです。 6月8日(木)ローマ八15  聖霊は、神さまが私たちを養子とするように、神の子するために、イエスさまの十字架による救いを信じるよう導いてくださいました。「アバ」というのは、「おとうさん」という意味ですが、まだやっとしゃべるようになった小さな子が、お父さんのことを「とと」と呼ぶような感じです。私たちは神さまを「とと」と呼んでお祈りをしていいのです。なんだかお祈りのイメージが変わりますね。 6月9日(金)ローマ八16  でも私たちが本当に神の子になっているのか、と疑わせ不安にさえる声がどこからか聞こえて来るかもしれません。すると聖霊がちゃんと、「あなたは神の子にされました。イエスさまの十字架の救いを信じたからです」と私たちの心に教えてくれて、不安を取り去ってくれます。 6月10日(土)ローマ八17  神の家族はイエスさまを一番上のお兄さんとして、私たちも神の子たちです。神の子はみんなイエスさまが受けたものを、一緒に受け継いでいくのです。それはイエスさまに似ていると言われるような人になっていくことです。  手紙の最後に書く言葉で、送る相手に、「今度会えることを楽しみにしています」と書いて締めくくることがあります。パウロもローマの教会の人々になんとかして会いたいと言い、だから祈ってくださいとお願いしました。 6月11日(日)ローマ十五13  このお祈りは私たちがいつでも私の祈りとして祈ることができます。「あなたがた」のところに私を入れても、だれかの名前を入れてもいいでしょう。神さまによって、喜びと平安に満たされることと、聖霊によって希望にあふれることは、どちらもすばらしいことです。 6月12日(月)ローマ十五14~17  手紙は、人と話をする時とは違って、伝えたかった通りには読まれないこともあります。でもその場で言い直したり、もっと説明したりすることができません。そうすると、書いた人と読んだ人で違うことを考えてしまうことも起こります。でもパウロはそういうことも覚悟して、イエスさまについて大胆に書きました。おかげでこの手紙によって、今の私たちにも大きな影響を与えてくれています。 6月13日(火)ローマ十五18~21  パウロは、イエスさまのことがまだ伝えられていない場所へ行って、イエスさまを伝えてきました。ですから新しい場所にどんどん教会ができていきました。それが神さまからパウロに与えられた使命だったからです。そしてパウロは忠実に使命を果たして行きました。 6月14日(水)ローマ十五22~24  パウロは長い間ローマに行きたいと願っていました。しかしたびたびローマ行きに邪魔が入ってそのチャンスが閉ざされてきました。神さまから与えられた使命でも、それを果たそうとするのに、不思議と邪魔をされてしまい、順調に進むことができず、チャンスを待たなくてはならないことがあるのです。 6月15日(木)ローマ十五25~27  しかしまずパウロは先にローマとは反対方向にあるエルサレムに行かなければなりませんでした。食物が手に入らなくて困っているエルサレムのユダヤ人教会のために、献金を届ける使命があったからです。このエルサレム教会を支援するのは、異邦人教会でした。献金を届けることによって、ユダヤ人だ、異邦人だという国の違いを越えて教会が交わりを持つ橋渡しとなるためでした。 6月16日(金)ローマ十五28~29  パウロはローマに行きたいと願っていますが、ローマがゴールではありませんでした。イエスさまによって与えられた外国人伝道の夢はさらにその先のスペインへと広がっていました。スペインでもイエスさまを伝えることを計画していたのです。 6月17日(土)ローマ十五30~33  パウロはローマの人々にお祈りをお願いしました。それはパウロの働きを邪魔しようとするユダヤ人から救われて、エルサレムでの目的を果たせるように、そしてローマの教会の人々に会うことできるようにということでした。そしてローマに行けるようにという祈りは聞かれたのです。パウロが囚人となるという形でしたが。  パウロは悪いことをしていないのですが、囚人となりました。でもそれによってローマで裁判を受けることになったのです。ローマの教会へ書き送った手紙でも祈りをお願いしていたローマへの道が、こうして思いがけず開かれました。 6月18日(日)使徒二七13~20  ローマへ向けて船旅が始まりました。ところが激しい嵐に会い、船が遭難してしまいました。積荷や船具を捨てて船を軽くし、嵐の海を乗り越えようとしました。しかし何日もの間嵐がおさまらなかったので、乗っている人はみんな、もうダメだと希望を失ってしまいました。ローマに行けるはずなのに、なぜ神さま。そう思ってしまいそうです。 6月19日(月)使徒二七21~26  しかしパウロは希望を失っていませんでした。前の晩に神さまのみ使いが現れて、パウロも船に乗っている人もみんな助かると告げてくださったからです。神さまに導かれていてもすべてが順調とは限りません。でも神さまの希望の言葉がどこまでも導き続けてくださいます。 6月20日(火)使徒二八11~16  パウロたちは神さまの言葉の通り、嵐から全員が救い出され、マルタという島で三ヶ月を過ごしました。そしてついにローマに到着しました。長い間パウロは、ローマに何とかして行きたいと願い続けて到着し、そしてローマ教会の人々に会えたのです。神さまは確かに真実なお方です。 6月21日(水)使徒二八17~20  ローマのユダヤ人たちに、パウロは自分がなぜ囚人となったのか説明をしました。エルサレムでユダヤ人たちの誤解やパウロに対する反対があってのことでしたが、一番のことは、死んでいたのによみがえられたイエスさまに希望を抱いているからだと説明しました。死からのよみがえりは、絶望から希望への道です。 6月22日(木)使徒二八21~22   ローマのユダヤ人たちは、パウロから直接話を聞いて、何が真実かを知りたいと考えていました。人々の反対のうわさで判断しないで自分でちゃんと確認することは大事なことです。うわさと本当とはだいぶ違うことがよくあるからです。 6月23日(金)使徒二八23~29  パウロは囚人でしたが、彼のところにやってくる人々に語り続けることが自由にできました。パウロからイエスさまについて聞いたユダヤ人の中には信じる人もいましたし、信じない人もいました。信じない人がいると、ついがっかりしてしまいますが、パウロはユダヤ人から出て、外国人へ伝えることが神さまの導きだと、御言葉を確認しました。 6月24日(土)使徒二八30~31  パウロは自分の借りた家で、二年間思いっきり伝道することができました。家に訪ねてくる人のことをみんな受け入れイエスさまのことを伝えました。邪魔されることも人の目を気にすることもなく、教えることができました。  自分の命がもう長くはないとわかったら、どんなことをやっておきたいですか。なかなかそういう状況になってみないとわからないかもしれません。パウロがテモテあてにこの手紙を書いたのは牢獄の中でした。そして自分の人生がそろそろ終わりを迎えようとしていると知っていました。 6月25日(日)Ⅱテモテ四1~2  厳かというのは、真剣で重々しい様子です。パウロはテモテに、真剣で重い言葉によって命じると言ったのは、「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」でした。どんな時にも御言葉を伝え続けることを励みなさいと言っています。御言葉は人を救う力があるからです。 6月26日(月)Ⅱテモテ四3~4  しかし気をつけなくてはならないことは、人が聞きやすい言葉を求めたり、都合のいい言葉を聞きたがったりすることです。真の言葉に耳を傾けず、自分に都合の良いものを聞こうとすることです。人の反応ばかり気にしまうと、正しく御言葉を伝えることができなくなります。 6月27日(火)Ⅱテモテ四5   私たちは、調子に乗るとつい軽はずみな行動をしてしまうことがあります。だから慎重に考え、行動することが大事です。また苦難の時はじっと耐え、与えられた働きと役割をちゃんとやり抜くようにと、パウロは勧めています。神さま、慎重に与えられた働きをやり抜いて行けるように助けてください。 6月28日(水)Ⅱテモテ四6~8  この時代はキリストを信じる人は迫害を受けていました。牢屋に入れられたり、死刑にされたり、競技場で獣と戦わされたりしました。パウロも迫害によって自分は死ぬことになると感じていました。パウロは主の道を走り通し、信仰を守りぬいたので、悔いはありませんでした。義の冠が待っていることを期待し、死の近いことを受け入れていました。 6月29日(木)Ⅱテモテ四9~13  パウロは死ぬ前にテモテに一目会いたいという願いがありました。だから急いで早く来てほしかったのです。パウロのそばにはルカだけがいました。だからテモテにさらにお願いをします。かつてパウロが役に立たないと思ったマルコを一緒に連れてきてほしいと。パウロはマルコを自分の務めに役立つ人に成長したと認めたのです。 6月30日(金)Ⅱテモテ四14~18  パウロは、神さまから与えられた使命を十分果たせるように、神さまが力づけ助けてくださったと自覚していました。だからこれからも主がすべての悪のわざから助け出して、天の御国の救いに入れてくださると信じていました。 7月1日(土)Ⅱテモテ四19~22  「主が、あなたの霊と共にいますように。恵みが、あなたがたと共にあるように」私たちはどんな時にも、また死を前にしても、この祝福の祈りを誰かのために祈ることができます。