あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。今年も神さまの祝福が豊かにありますように! 1月1日(日)マルコ一1  合格や就職の知らせ、結婚や赤ちゃん誕生の知らせなど良い知らせを聞くとうれしいものですね。「福音」とは「良い知らせ」という意味です。イエスさまがこの地上に人となって来られ、語ったりしてくださったりしたすべてのことが、私たちにとっての「良い知らせ」です。私たちが救われて歩める知らせだからです。                                                                                                                                                                                                 1月2日(月)マルコ一2?5  旧約聖書のイザヤ書に、いつか救い主が来られることが預言されています。また、救い主の働きのため、先に活動を初めて、人々が救い主を受け入れるための心備えをさせる人も登場すると預言されています。それがバプテスマのヨハネです。彼は人々に、自分の罪を悔い改めて、洗礼を受けるようすすめました。すると多くの人が集まりました。みんな自分の罪をゆるされたいと願っていたのです。 1月3日(火)マルコ一6?8  ヨハネは野性的な格好で過ごし、食べ物も自然食。とてもシンプルで贅沢をしない人でした。そんなヨハネは、集まってくる人たちから尊敬されました。けれども彼は言いました。「わたしよりも力ある方が来られる」。このヨハネよりもすごい方が来られる。それは人々の心に大きな希望を与えました。 1月4日(水)マルコ一9?11  罪のないお方なのに、イエスさまはなぜ、悔い改めの洗礼を受けたのでしょうか。私たちと同じ人として歩まれたので、人として必要なことをイエスさまも体験されたのです。イエスさまに下った聖霊と天からの神さまの声は、イエスさまが救い主であることを示し、祝福しました。 1月5日(木)マルコ一12?13  聖霊によって、イエスさまは荒野へ追いやられました。そこでの生活は働きを始めるのに必要な準備の時でした。その準備とは、四十日の間何もない荒野で過ごし、悪魔がイエスさまを失敗させようとするテストを受けるためです。悪魔のテストにひっかかりやすい私たちが、助けられるためにイエスさまは誘惑に勝利されました。 1月6日(金)マルコ一14?15  ヨハネは悪いことをしたのではなく、ヘロデ王の悪い行いをとがめたのでとらえられてしまいます。力のある人は、自分に都合の悪いことは、力でもみ消して人を支配しようとします。私たちも注意しないと自分より弱いと思っている人を、自分の強さで思い通りにさせようとすることがあるのです。 1月7日(土)マルコ一15  イエスさまの活動の時がついに来ました。神さまが計画された、救いの道が開かれる時です。遠くにあると思っていた神の国がもう近くに足音をたてて来ているのです。今、悔い改めてイエスさまの言葉を信じるなら、神さまと共に歩むようになります。それが神の国を生きることです。  アイドルや人気俳優が空港にあらわれると、大勢のファンが集まって大騒ぎになっているのをテレビで見ることがあります。イエスさまも、御言葉を語り、病気を治し、悪霊を追い出したので、たちまちうわさの人になり、どこへ行っても大勢の人が集まるようになりました。 1月8日(日)マルコ二1?2  イエスさまがカペナウムの町の家に戻ったときも、大勢の人がやってきて、あっという間に家の中がいっぱいになってしまいました。人々はイエスさまからみ言葉を聞きたかったのです。イエスさまの言葉に自分たちを救う力を感じたのです。                                                                                                                                                                                                 1月9日(月)マルコ二3?4  中風という病気の人を運んで来た4人の人は、到底家の中に入れないのに、あきらめませんでした。その頃イスラエルの家は、外に階段があり、屋根にのぼれました。彼らは屋根をはいで上から病気の人をイエスさまのもとに釣り降ろしたのです。彼らは、また明日とは考えず、今日この病気の人を救ってもらいたいと願いました。 1月10日(火)マルコ二5  イエスさまは4人の熱心な思いを受けとられました。彼らがイエスさまを心から信じていたからあきらめなかったのがわかったのです。それにしてもイエスさまの言葉は「病気よ、治れ」ではなく「あなたの罪はゆるされた」だったのです。病気を治してほしいのに、なぜこの言葉だったのでしょう。 1月11日(水)マルコ二6?7  イエスさまの言葉が気に入らない人々がいました。律法学者たちです。罪をゆるせるのは神さましかいないのです。いきなり罪がゆるされたなどとまるで自分を神のようにして語るこの男はけしからん、と思ったのです。イエスさまは、自分を神とする悪い人なのでしょうか。 1月12日(木)マルコ二8?9  イエスさまを批判した人たちの心の言葉を見抜いたイエスさまは、彼らに問かけました。「簡単なのはどちらか?」。私たちは、病気を治すことより、「罪がゆるされた」といった方が、ゆるされたことは目に見えないし、言うのは簡単なんことだと、イエスさまの言葉がいい加減に思えるかもしれません。でもイエスさまは神の子なので、神さまにしかできない罪をゆるすこと、目に見えないことができるのです。 1月13日(金)マルコ二10?11  イエスさまは、罪をゆるすことも、病気をいやすこともできるお方として、中風の人に命じました。「起きよ、床をとりあげて、家に帰れ」。イエスさまが彼に触るのでも手を取るのでもなく、ただ一言語られただけでしたが、それで十分でした。 1月14日(土)マルコ二12  イエスさまの言葉どおり、中風の人は起き上がり、寝ていた布団をたたんでその場を出て行きました。イエスさまは病気を治せるだけでなく、人の罪をゆるす神の子なのです。「こんなすばらしい事は。今までも見たことがない」。だからこそ、イエスさまが来てくださったことは、私たちにとって良い知らせなのです。 校長先生の話や大人の礼拝の説教を聞く時、長いなあ、早く終わらないかなと思ったことはありませんか。長いお話は退屈だと感じますね。でも、お話がとてもわかりやすくておもしろかったら、時間を忘れて聞けるのです。イエスさまのお話を聞くために集まった大勢の人たちは、夢中になって聞いていたのでしょうね。 1月15日(日)マルコ二13?14  仕事中に「わたしに従ってきなさい」と言われたら、多分普通は、「仕事が終わってから後で行きますね」とか、「しばらく考えさせてください」というような返事をしそうです。しかしレビはすぐに立ってイエスさまについていきました。不思議です。彼の心を動かしたのは何だったのでしょうか。 1月16日(月)マルコ二15  レビのしていた仕事は税金をとる仕事です。取税人は、支配者である外国ローマの手下になってお金を集めている悪い人、また余計にお金を取りたてる嫌なやつとして嫌われ、罪人と呼ばれていました。でもイエスさまの教えを喜んで聞いて、従った人たちの中に、取税人や罪人たちが大勢いたのです。 1月17日(火)マルコ二16  イエスさまがレビの家で食事をし、罪人たちと親しくしているのをみて、とがめた人たちがいました。パリサイ派の律法学者たちです。彼らは、神さまの前にきよく正しく生きるためには、罪人たちと交わることはよくないことだと考えていたからです。イエスさまはそんなふうにとがめられても、どうして平気だったのでしょう。 1月18日(水)マルコ二17  イエスさまは、罪人を招いて救いに導くために来られました。だからきよい人ではなく、罪人たちと交わりを持ったのです。「私は罪人です。こんな私をお救いください」と願う人を救うためです。だからレビはこのお方について行こうと思ったのです。そして私たちはみんな罪人です。イエスさまは「みんな、わたしのもとにおいで」と招いてくださっています。 1月19日(木)マルコ二18?22  「どうしてあなたがたの弟子たちは断食しないのですか」という質問は、神さまの前にすべきことをしないのはよくないということです。でもイエスさまは、今は喜びのときだからしないのであって、悲しみの時になったら断食をするようになりますよと言われました。 1月20日(金)マルコ二23? 26  今度は「なんで安息日にしてはいけないこと、麦の穂をつむという仕事をするのですか」でした。でもイエスさまは、ダビデだって命の危険があった時には、祭司しか食べてはいけないものを、仲間たちに食べさせました。弟子たちも命のためにまず、食べることが必要ですと答えられました。 1月21日(土)マルコ二27?28  安息日は人が守られるためにあるものです。神さまの言葉をきいたり、体を休めたりして、人を守るのです。だからお腹がすいて麦の穂をつむのも、弟子たちを守るのです。 私たちは選ばれたり選ばれなかったりします。たとえば運動会のリレーの選手。学級委員。劇の主役。試合に出るメンバー、などなどです。選ばれない時、がっかりし残念に思います。でも神さまは、私たちみんなを選んでこの世に命を与え、生かしてくださっています。 1月22日(日)マルコ三13?14  イエスさまの一番近くでイエスさまからいろいろなことを教えてもらう弟子の十二人が選ばれました。イスラエルには十二の部族がありました。しかし神さまにそむき戦争に負け、イエスさまの時代にはもう全ての部族はそろっていませんでした。選ばれた十二人は、昔の十二部族を思いださせつつ、新しい神の国のリーダーとなる使徒として選ばれました。 1月23日(月)マルコ三14?15  イエスさまと十二人の弟子たちは起きるのも寝るのも食事もいつも一緒の生活です。生活を全てを共にする中で、イエスさまからいろいろなことを学ぶためです。それは彼らもイエスさまのようになって、救いの言葉を伝え、神さまの働きの邪魔をしようとする悪霊を追い出して、人々に希望を与えるためでした。 1月24日(火)マルコ三16  十二人はどんな人が選ばれたのでしょうか。一番弟子はペテロです。本名はシモンですが、ペテロはイエスさまにつけられた岩という意味のあだ名です。彼の心はとても熱い人ですが、イエスさまにしかられたり、イエスさまを裏切ったりしてしまいます。でもそのような人が変えられて、後に教会の土台を作る人になりました。 1月25日(水)マルコ三17  ヤコブとヨハネの兄弟は「雷の子」とイエスさまからあだ名をつけられるくらい、怒りっぽい兄弟だったようです。怒りっぽい兄弟が選ばれるとはおもしろいですね。イエスさまは怒りっぽい人は選ばないということはないようです。イエスさまのそばにいてだんだん変えられて行くからです。 1月26日(木)マルコ三18  アンデレは、お兄さんのペテロをイエスさまのところに誘いました。ピリポは友だちのナタナエル別名バルテマイを誘いました。他に取税人であったマタイや、イエスさまの復活を信じなかったトマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモンなどがメンバーです。彼らが選ばれた理由はわかりません。分かるのは誰かより優れていたからではなく、私たちと同じような人で、神さまの恵みによって選ばれました。 1月27日(金)マルコ三19  イスカリオテのユダはイエスさまを裏切って十字架に引き渡してしまいます。どうしてそういう人まで選ばれたのでしょう。不思議です。 1月28日(土)マルコ二31?35  イエスさまを信じた私たちはみな、神の家族です。イエスさまの本当の家族も最初はイエスさまの活動が理解できませんでした。後になってイエスさまを救い主と信じ、神の家族となりました。 たったこれだけと思っても、イエスさまには足りないことはありません。これだけじゃ、どうしようもないと、思わないでイエスさまに助けていただきたいですね。 1月29日(日)マルコ六30?32  伝道旅行から帰ってきた弟子たちは、うれしいこと、大変だったことをイエスさまに報告しました。そこでイエスさまは弟子たちを休ませようと船に乗って、人のいないところへ出かけました。私たちはみんな休みが必要です。そうでないと、どんなに良い働きをしても長く続けることができないのです。 1月30日(月)マルコ六33?34  誰もいないところでゆっくりしよう。そう思っていたのに、船を渡って着いた所には、もう先回りした人々が待っていました。これでは休めないよ、とついグチが出てきそうです。でもイエスさまは大勢の人々がイエスさまをとても必要としていて、待っているのをご覧になって、深く心を動かされました。イエスさまには「もうかんべんしてよ」ということはないのです。 1月31日(火)マルコ六35?37  さて食事の時間になると、イエスさまは弟子たちに「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われました。あまりに人はいっぱいです。近くにはお店もないし、あってもみんなの分を買い切れるような品物もお金もないでしょう。どう考えても無理でした。もちろんイエスさまには無理ではないのですが。 2月1日(水)マルコ六38?44  イエスさまは手元にあった五つのパンと二ひきの魚を手に取ってお祈りをし、それを裂いて弟子たちにお渡しになりました。「あなたがたの手で」と言われたイエスさまの言葉通り、弟子たちの手を通して、パンと魚が人々に届けられました。五千人以上の人がお腹いっぱいになり、余るほどでした。とても足りない分量と力のない弟子たちをイエスさまは用いて、全てを足らせてくださいました。 2月2日(木)マルコ六45?46  イエスさまは、今度こそ弟子たちを休ませようと、彼らを舟で向こう岸へ渡らせました。そしてイエスさまだけ一人になって祈るために山に登られました。どんなに忙しくても休みをとることと、一人で祈ることをイエスさまは大事にされたのです。 2月3日(金)マルコ六47?49  ところが弟子たちは、休むどころか嵐にあって舟を漕いでも陸地にたどりつけませんでした。イエスさまが湖の上を歩いて彼らに近づいてきたのに、弟子たちは人が湖を歩いているのに驚き、幽霊だと思ってこわがりました。深い暗闇の中に、イエスさまが思いがけない方法で助けに来られたので、弟子たちにはわかりませんでした。 2月4日(土)マルコ六50?52  イエスさまの「わたしである」の言葉で弟子たちはやっとほっとしました。そしてイエスさまが舟に乗ると嵐がぴたりとやんだので、とても驚きました。彼ら、少しのもので人々を満たすことのできたお方が、どんなにすごいお方なのかがまだわかりませんでした。 私たちは、知らない人に出会うと、あの人はどういう人なんだろうと思います。イエスさまのことも多くの人がすばらしい人だとわかってきましたが、どうしてこんなにすばらしいのかがわかりませんでした。 2月5日(日)マルコ八27?28  イエスさまについていろいろなうわさがたっていました。病気をなおしたり、悪霊を追い出したり、普通は誰にもできないことができて、多くの人がイエスさまに助けられていたからです。何よりも、救いをいただいて心が楽にされたからです。いったいイエスさまって何者なんだろうと、みんなが知りたがってうわさをしていました。 2月6日(月)マルコ八29  イエスさまのことを多くの人は、預言者だと思いました。預言者は、神さまの言葉を預かって伝える人です。預言者の中には、神さまの不思議な力をいただいて、病気をなおしたり、悪霊を追い出したりしていたからです。でもペテロははっきりと答えました。「あなたこそキリストです」。イエスさまは預言者を越えた力のある、神の子であり、救い主キリストなのです。 2月7日(火)マルコ八30  不思議なことに、イエスさまはご自分がキリスト、つまり救い主であることを人々に教えてはいけないと言われました。イエスさまが救い主だとみんなにはっきりと現す時を神さまが決めておられました。だからその時がくるまでは、イエスさまの働きが邪魔されないために教えてはいけないのです。 2月8日(水)マルコ八31  イエスさまは、これから必ず苦しめられ、捨てられ、殺されるとご自分のことを言われました。どうして?弟子たちはきっと顔を見合わせて驚き、悲しんだでしょう。しかしイエスさまの最後の言葉をよく聞いてください。「三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、」。よみがえりがあるのです。 2月9日(木)マルコ八32?33  私たちもきっとペテロのように言ってしまうでしょう。だってそんなことがあっていいはずがないからです。だからペテロは「あなたは救い主なのに、それはいけません」と言ったのです。しかし思いもかけず、イエスさまからしかられてしまいました。サタンはイエスさまの十字架を失敗させようとします。だからイエスさまの十字架の苦しみを邪魔することは、サタンと同じだと言われてしまうのです。 2月10日(金)マルコ八34?35  私たちはイエスさまの前にでて、「それはいけません」とイエスさまより自分が正しいと思ってしまうことがあります。でもイエスさまの後ろにさがり、十字架を負ってあとをついていくなら、そこに命の道が見えてきます。 2月11日(土)マルコ八36?38  自分のことしか見ていないと、大事なものを見落としてしまうかもしれません。まして命を失ったら、何でも持っていても、もう自分のものとしては使えません。だから大事なことを見失わないために、イエスさまを見つめて歩むのです  人に「できる?」と聞かれて「できるよ」と言ったのに、できなかったことはありますか?私は子どもの頃、よくできもしないのに、なぜかできるよと言ってしまい、恥をかいていたように思います。 2月12日(日)マルコ九14?15  弟子たちはイエスさまがいない時に、助けを求めてきた人のことを助けてあげられませんでした。すると律法学者たちは彼らの先生であるイエスさまのことを何か言ったのでしょう。私たちも失敗したり、間違ったり、病気になったりすると、「神さまを信じているのに」と言われてしまって苦しい気持になることがあるかもしれません。でもそういうことはあるのです。 2月13日(月)マルコ九16?18  あるお父さんの息子が悪霊によって口がきけず、病気のような発作をおこしては危ない目にあっていました。きっといろいろなところに相談し助けを求めたことでしょう。しかしどこもだめでした。そしてイエスさまなら、と期待して弟子たちにお願いしたのにだめだったのです。弟子たちができないことでいろいろ言ってきた律法学者たちも、だからと言って助けてはくれませんでした。 2月14日(火)マルコ九19  イエスさまは、神さまの力が発揮されないほどに、人々の心が神さまに期待したり、信頼したりできない心であるのをがっかりされました。でもイエスさまは「その子をわたしの所に連れて来なさい」と言ってくださいます。信じ切れない私たちを,見捨てないのです。 2月15日(水)マルコ九20  息子にとりついた悪霊はイエスさまを見ました。そしてあがいて、息子を苦しめました。それは悪霊には自分に勝ち目がないことがちゃんとわかっていたからです。 2月16日(木)マルコ九21?24  息子のお父さんには、イエスさまが悪霊よりも力のある神の子であるとはわかりませんでしたし、神さまの力も信じきれませんでした。でも私たちも同じように、イエスさまのことを信じていないのかもしれないとはっとさせられることがあるかもしれません。そういう時は「信じられない私をどうぞ助けてください」と信じることも助けていただけばいいのです。 2月17日(金)マルコ九25?27  イエスさまが霊に「わたしが命じる。この子から出て行け、二度と、はいって来るな」と言われると、霊はイエスさまの言葉に逆らうことはできませんでした。この息子は霊から自由になりました。二度と霊に苦しめられることはないのです。 2月18日(土)マルコ九28?29  イエスさまの業を私たちが行うことは、難しいように思えます。弟子たちのように失敗しそうです。だから私たちは「イエスさま、あわれんでください」と祈り、イエスさまがしてくださることにおまかせしていくのです。 誰かよりは上でありたい、誰かよりは偉くありたい、そんな風に思うことはありませんか。誰かより偉いというのは、誰かより誉められたり、すごいと思われたり、誰かと比べた時に自分の方が優れていると思われたいというそういう気持です。 2月19日(日)マルコ十13  弟子たちは、イエスさまのもとに連れて来られた子どもたちを「だめだめ、先生は忙しいんだ」とかなんとかいって、追い払おうとしました。まるでイエスさまのことを思っているかのようでいて、実は自分たちの偉さを示したかっただけかもしれません。実は私たちも、そんな風に自分を偉いところに置いて、自分にとって重要でない人を追い払ってしまっているのかもしれません。 2月20日(月)マルコ十14?16  しかし弟子たちはイエスさまに叱られました。神の国では、神さまにとって重要でない人は誰もいないからです。そして子どものようにイエスさまのことを心から頼り、ついていくような人こそが、神の国に入ることができるからです。 2月21日(火)マルコ十32?34  エルサレムへ向かうイエスさまの目的は十字架にかかるためでした。だからイエスさまは先頭に立って十字架への道を向かわれたのです。しかしついていく弟子たちはまだイエスさまの道を理解できませんでした。イエスさまは繰り返し言われました。「わたしは、エルサレムでユダヤの指導者たちによって殺されます。しかし三日の後によみがえります。」 2月22日(水)マルコ十35?37  いよいよイエスさまが新しい国を興そうしているにちがいない。先頭に立つイエスさまを見てそう思ったヤコブとヨハネは他の弟子たちの抜け駆けをして、自分たちがイエスさまの両脇に座る大臣になれるようお願いしました。十二人の中でも自分たちが一番偉い人になりたかったのです。 2月23日(木)マルコ十38?40  イエスさまの飲む杯は十字架の苦しみです。そしてイエスさまの受けるバプテスマは、神さまの怒りを耐えることです。そのイエスさまの十字架で右と左に並んだのは二人の罪人でした。ヤコブとヨハネが想像していたイエスさまの輝かしい栄光とはかけ離れた、苦しみと死と裁きの時だったのです。 2月24日(金)マルコ十41  二人の抜け駆けを聞いて他の十人の弟子たちは、「ずるいぞ」と大変怒りました。みんなが一番になりたい、偉くなりたかったのです。すきあれば、私の方が偉いと認められたい、そういう思いは私たちにもあるのです。 2月25(土)マルコ十42?45  「偉くなりたいなら人に仕えなさい」。イエスさまの言われることは私たちの考えとはまるであべこべです。仕えるとは、褒美を期待しないで、人のために働くことです。イエスさまは罪人となり、命を投げ出して私たちに仕えてくださいました。  祈りがきかれないとあきらめたり、祈るのをやめてしまったりした祈りはありますか?バルテマイの叫びに習って、もう一度祈りなおしてみませんか。 2月26日(日)マルコ十46?47  道端に座って物乞いをしていたバルテマイは、にぎやかな一行がどういう人たちなのかを誰かに聞いたのでしょう。「あれはナザレのイエスとその一行だよ」。バルテマイはイエスさまが来ていると知った瞬間、叫びました。「イエスさま、わたしをあわれんでください」。自分を助けていただけるこのチャンスを逃したくありませんでした。 2月27日(月)マルコ十48  しかし多くの人は彼をだまらせようと叱ったのです。イエスさまに面倒をかけてはいけないと思ったのでしょうか。しかしバルテマイは、ますます声をはりあげて、イエスさまに叫びました。人にとがめられたら気持がなえてしまいそうな私たちですが、バルテマイはあきらめませんでした。 2月28日(火)マルコ十49  するとイエスさまは立ち止まられました。そして彼を呼んだのです。大勢の群衆の声にかき消されることなく、また彼をしかる人々にめげずあきらめず叫び続けたバルテマイの声は届いていました。イエスさまは彼の「あわれんでください」の声を聞かれたのです。自分の祈りの声はかき消されて聞こえていないのではと思える時があるかもしれません。でも神さまにはちゃんと届いているのです。 3月1日(水)マルコ十50  バルテマイは「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」の言葉に上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエスさまのもとに行きました。彼がはおっていた上着はマントのようになっていて、体を覆ったり、施しを受けとったりするのに使っていましたが、彼にはもうマントは邪魔でした。いち早くイエスさまのもとに行くためにマントを捨てました。 3月2日(木)マルコ十51  イエスさまは目が見えないバルテマイに目が見えるようにしてあげようと言われたのではなく、まず「わたしに何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。私たちはつい勝手に人の思いをこうだろうと思い込んでしまいます。でもイエスさまはちゃんとお聞きになられました。すると彼は「先生、見えるようになることです」と自分の言葉で求めました。 3月3日(金)マルコ十52  「行け、あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くと、バルテマイの目はたちまち見えるようになりました。彼が粘り強く求めたのは、今イエスさまにしていただきたい、イエスさまならしてくださる、そう信じあきらめない心だったのです。そしてバルテマイは十字架へ向かうイエスさまに従いました。 3月4日(土)マタイ七7?8  イエスさまに求める者は与えられます。捜す者は見出します。門をたたく者はあけてもらえます。なんと励まされることでしょう。 自分がした小さなよいことを、知らないところで実は誰かが見ていてくれて、よくやったねと言ってくれたら、ちゃんと見てくれている人がいるんだなと思えて、やはりうれしいですね。イエスさまも私たちのことをちゃんと見ておられ、分かってくださっているのです。 3月5日(日)マルコ十二41?44  イスラエルの神殿で、イエスさまは、人々が献金をする様子を見ておられると、一人の貧しいやもめがレプタを2枚ささげました。それは今の日本のお金で言えば、1円とか5円のようなわずかな額でした。けれどもイエスさまは、だれよりも彼女が一番多くささげたと言われました。それは彼女にとっての生活費全部だったからです。                                                                                                                                      3月6日(月)マルコ十二41?44  私たちはたくさんささげる人をみてすごいと思います。でもそれがその人の生活費全部ということはほとんどないでしょう。たくさんささげられることは確かにすばらしいことです。しかし少ない額でもそれが生活費全部となると、どうしてそんなことができたのかと驚くばかりです。 3月7日(火)マルコ十二41?44  生活費全部をささげることは、私たちにとっては簡単なことではありません。だってそれをささげてしまったら、明日からどうやって生活していけばいいのでしょう。やもめには家族はいなかったのでしょうか。家族は怒らなかったでしょうか。私たちはいろいろなことを心配してしまうので、ささげることができなくなってしまいます。けれどもやもめは、心配しなかったのです。神さまが自分も家族もちゃんと面倒みてくださる。だから私はこれをささげたい。そう思ったのです。 3月8日(水)マルコ十二41?44  私たちは。足りなくなるよりは多い方がいい、たくさん持っている方が安心だと思います。でもそのわりには持っていてこれで安心だとはならないのです。やもめがもっていたのは物ではなく、神さまに全てをまかせて生きる心でした。今まで支えてくださった神さまが必要をご存じでいてくださるから、それで十分だと信頼していたのです。 3月9日(木)マルコ十二41?44  失うことを心配してばかりいると、心が不自由になってしまいます。あれがないと困る、これがないと心配。そういう思いは尽きることがありません。やもめのように、何か物やお金しばられないで、身軽に生きられたらいいですね。 3月10日(金)マルコ十二41?44  イエスさま以外にはやもめが生活費全部をささげたことは知りません。だからもしイエスさまが弟子たちをわざわざ呼び寄せて、彼女に注目させなければ、誰にもわからないことでした。イエスさまはちゃんと見ていてくださいます。 3月11日(土)マルコ十二41?44  やもめはイエスさまが自分に注目していることを知ることはありませんでした。でも彼女は幸せでした。神さまの慈しみの目がいつも注がれているのを知って感謝していたからです。 良いことをしたのに、人に勘違いされたり、伝わらなくてとがめられたりしてしまうことがあるかもしれません。反対に人がした良いことを、私たちは自分の思い込みでとがめてしまうことがあるかもしれません。 3月12日(日)マルコ十四1?2  祭司長や律法学者たちは、イエスさまをなんとか悪者にして捕らえ、殺したいと考えていました。しかし祭りの間は、イエスさまのことを良い人だと尊敬している人たちが騒ぎ出すといけないので、様子をみることにしました。人々から立派だと思われていた祭司長や律法学者たちは、自分たちよりすばらしい方を認めることができませんでした。                                                                                                                                     3月13日(月)マルコ十四3  ナルドの香油は一年働いてためたお金ぐらい高価なものです。それをひとりの女の人が、惜しみなくイエスさまの頭に注いだのです。どうしてそんな思い切ったことができたのでしょうか。イエスさまに対する感謝でいっぱいの気持をなんとか現したかったのでしょう。 3月14日(火)マルコ十四4?5  しかしある人々は「なんてもったいないことを」と女の人に対して怒り、とがめたのです。「こんな無駄遣いをするくらいなら、この香油を売って、貧しい人に施すことができたし、そのほうがずっといいのに」。この香油は女の人のものです。彼女がどう使ってもそれはその人の自由なのに、周りの人は偉そうに思ったり、言ったりしてしまうのです。 3月15日(水)マルコ十四6  彼女としてはなんとかイエスさまに喜ばれる感謝をあらわしたいと思ったのに、人々から注意されてしまい、とても居心地がわるい、恥ずかしい気持になったでしょう。しかしイエスさまは言われました。「わたしに良いことをしてくれたのだ」。人々から無駄遣いと言われたことを、イエスさまは尊いささげものとして喜ばれました。女の人はどんなにほっとし、慰められたことでしょうか。私たちは気をつけないと、自分の考えが正しいと思って、人の良い行いをまるで悪いことのようにしてしまうことがあります。 3月16日(木)マルコ十四7  「貧しい人に施せば良いのに」という考え方はとても最もらしい立派な考え方に思えます。でも貧しい人はいなくならないですが、イエスさまは目に見える形でそばにずっとおられるわけではないのです。だから、彼女のできる心からのささげものは、この時で良かったのです。 3月17日(金)マルコ十四8?9  イスラエルでは死んだ人の体に香油をぬってお墓におさめます。彼女がイエスさまのために高価な香油をぬったことは、これから十字架で死なれるイエスさまに、思いがけずふさわしい贈物となりました。 3月18日(土)マルコ十四8?9  女の人の思い切った行動は、「できる限りのことをした」と喜ばれました。誰かのための心をこめた思い切った行動が時に無駄なことに見えたとしても、イエスさまはそれを無駄にはされません。 イエスさまが語られるこれから起ることは、ショックなことばかりでした。でも自分だけはそういうことはしないと弟子たちは思っていました。 3月19日(日)マルコ十四10?11  ユダはイエスさまをお金で売る相談を祭司長としました。どうしてイエスさまを裏切ってしまったのでしょうか。ユダはイエスさまより自分の考えの方が正しいと思ってしまったのかもしれません。イエスさまを自分の思い通りに動かしたかったのかもしれません。でもそれが十字架へ引き渡すことになるとわかっていませんでした。                                                                                                                                     3月20日(月)マルコ十四12?16  「過越の食事」はユダヤ人がずっと守ってきたお祭りです。弟子たちも食事の場所を用意しようとイエスさまに相談しました。するとイエスさまは、すでに考えていた場所に行けるように、案内してくれる人に出会えると言われました。十字架の前の弟子たちとの最後の食事は、イエスさまがすでに整えておられました。 3月21日(火)マルコ十四17?21  「あなたがたの中の一人が、わたしを裏切ろうとしている」。この言葉を弟子たちは聞いて大きなショックを受けました。弟子たちの誰もが「まさかわたしではないでしょう」と言いました。それはユダのことでしたが、他の弟子たちも裏切ってしまうのです。 3月22日(水)マルコ十四22?25  イエスさまがさいて弟子たちに与えたパンは、イエスさまの体で、杯をまわして飲ませたぶどう酒は、多くの人のために流すイエスさまの血ですと言われました。ユダも他の弟子もみんなそれをいただきました。それはイエスさまが全ての人の罪がゆるされるために十字架で死んでくださるというしるしでした。自分の罪の恐ろしさを知ったとき、ごめんなさいと神さまのもとに帰れるように、ゆるされる道をつくってくださいました。 3月23日(木)マルコ十四26  イエスさまと弟子たちは、過越の食事のしめくくりに神さまへ賛美を歌い、祈るためにいつものようにオリブ山へ向かいました。やがてユダに案内された人々がイエスさまを逮捕しに来ることをご存じでしたが、イエスさまはいつものようにオリブ山に行かれたのです。 3月24日(金)マルコ十四27?28  イエスさまは弟子たちがみんなイエスさまにつまずいてばらばらになってしまうと言われました。それはイエスさまが逮捕され死刑にされるとき、自分たちも殺されるかもしれないという恐れが、彼らをばらばらにしてしまうのです。しかし、死からよみがえったイエスさまのもと、もう一度に集められる希望が用意されていました。 3月25日(土)マルコ十四29?31  ペテロは力を込めて自分はイエスさまを裏切りませんと言いました。他の弟子たちも心からそう思っていました。でも自分たちがとても弱く恐れやすいことに気づいていませんでした。私たちは自分のことがわからないものです。 私たちは嫌なことから守ってくださいと祈ります。でも祈りはどうしてさけられないことや逃げられないことを逃げないで乗り越えるための力でもあります。自分では乗り越えられない嫌なことを、神さまは祈りにこたえて乗り越えさせてくださいます。 3月26日(日)マルコ十四32?34  ゲツセマネでのイエスさまの様子は恐れと悩みの姿でした。「悲しみのあまり死ぬほどである」と言われるほどに、心が苦しくて、恐れで落ち着かないのです。そして弟子たちにその姿を見せて、一緒に目をさましてほしいと願われました。神の子イエスさま、私たちと同じ人として、これから受けなければならない十字架を前に恐れと悩みに苦しまれました。                                                                                                                  3月27日(月)マルコ十四35?36  イエスさまは、十字架の苦しみを取りのけてくださいと祈られました。イエスさまは神の子だから十字架の苦しみも死もたいしたことはないと思いますか?そんなことはないのです。イエスさまは私たちの罪を全て負って、裁かれるために死なれるのです。神さまの怒りを人としてイエスさまが全部引き受けるのです。それは神さまに見捨てられるというとてつもなく恐いことです。けれどもイエスさまは「わたしの思いではなく、みこころのままにしてください」と祈られました。 3月28日(火)マルコ十四37?38  イエスさまの苦しんでおられる様子とは反対に、弟子たちは眠くて起きていることができませんでした。イエスさまの苦しみをいっしょに苦しむことができませんでした。 3月29日(水)マルコ十四39?42  イエスさまは三度祈られると、十字架へ向かうために心がととのえられました。弟子たちはどうがんばっても起きていることができませんでした。すると眠っていた弟子たちに「時が来た」「立て、さあ行こう」と声をかけられました。イエスさまは祈りこんで、神さまの時に向かって立ち上がられました。 3月30日(木)マルコ十四43?46  ユダが群衆の先頭に立ち、イエスさまのそばに近づいてきました。そしてあらかじめ「わたしがあいさつのキスをする人がその人だ」と言っていました。合図の通りにユダがすると、イエスさまは捕らえられてしまいました。祈り終えたイエスさまは全てを受け入れて進まれました。 3月31日(金)マルコ十四47?49  弟子の誰かが剣をぬいて、大祭司の僕の耳を切り落としました。イエスさまをなんとか守りたいと思ったからでしょうか。でもイエスさまは武器で攻撃したり、武器で身を守ったりすることはありません。ただ神さまが決められた計画に従われました。 4月1日(土)マルコ十四50  弟子たちは誰もイエスさまと共にとどまることはできませんでした。大勢の人々が武器をもって立っていました。そして彼らがイエスさまを捕らえるのを見ました。どうやっても勝ち目も力もないのを感じ恐くなり逃げ出してしまいました。