「時」には目に見える形はありません。でも私たちは目に見える別のもので「時」を感じます。時計のように正確に何時何分とはわかりませんが、太陽がのぼれば朝を、夕焼けを見て夕方を感じます。咲く花の種類やお店にならぶ野菜や果物で、春夏秋冬という時も感じます。おもしろいですね。 10月2日(日)伝道三1〜8  前に読んだ時には、全然心に残らなかった本が、ある時読んだら自分にとって、とってもぴったりだったということがあります。本にも読む時ってあるんだなあと思いました。「すべてのわざには時がある」とあるように、すべてのことにはふさわしい時があるのです。 10月3日(月)伝道三9〜11 「神のなさることは皆その時にかなって美しい」のです。私が考えるよりもやっぱり神さまの考える時でよかったと思わせていただけます。でも、もっと別の時がよかったのに何で今なの?と思う時もあります。そのように私たちにすべてはわからないことがあります。納得できないこともあるのです。 10月4日(火)伝道三12〜13  私たちはいつも楽しくは過ごせません。つまらない時や上手くいかない時、やる気が起きない時もあります。でも不思議とうまくいっているから楽しいというわけでもなく、失敗したり落ち込んだりしながら大変なことを乗り越えた時に、楽しさやうれしさを感じます。そういう風に毎日を過ごして行けることが神さまからの贈物なのです。 10月5日(水)伝道三14〜15  私たちの世界には「永遠」がありません。いろいろなことがどんどん変わり、あったものがいつのまにかなくなり、終わってしまいます。でも永遠」というのは、終わりがないことです。ずっと続くのです。そして神さまは永遠です。ころころ変わることもありません。 10月6日(木)伝道三16〜17  イエスさまは、本当は罪を犯していなかったので、死刑にはならなくてもよかったのです。でも裁判が正しくなされなかったので、イエスさまは死刑にされました。これを不正といいます。正しいことを正しく行われないことが私たちの社会にはあります。でも神さまの時がきたら、隠れていた罪を神さまがすべて正しく裁かれるのです。 10月7日(金)伝道三18〜19  人は動物と違っています。でも人も動物もみんな死にます。それは同じです。それなのに私たちはすぐに傲慢になって、えらぶってしまいます。だから、いつかは死ぬし、死に対して何の力もないことを忘れないでいたいものです。 10月8日(土)伝道三20〜21  どうせ死ぬのだからと、どうでもいいやと生きるより、せっかくの人生、楽しんで生きたいですね。神さまを信じ続けるなら、良い時だけでなく、苦しい時も乗り越えて、人生を楽しませていただけます。  「なんか空しいな」って感じたことはありますか。一生懸命にやったのに、そのわりにはたいした結果にならなかったり、苦労してもいいことがなかったりすると、空しいなと思うことがあります。頑張った分だけ、成果が出てほしいのに、うまくいかなかった時の空しさは大きいものです。でも人生にはそういうことがよくあるのです。 10月9日(日)伝道四1〜3  この書を書いた人は、この世界にはひどい扱いを受けている人や、いじめられている人がいるのに、助けてくれる人がいなくて、彼らがひとりぼっちで、悲しみ悩んでいるのを見ました。そういう苦しいめにあわないためには、死んだ方が、さらには生まれない方がいいとまでいいます。それほどにこの世界は正しいことが行われず納得がいかないことが多いのです。 10月10日(月)伝道四4〜6  人に対するねたみで、負けるものかとがむしゃらに働いて成功しても、必ずしも心が満足できず、空しいものです。かといって好きなことばかりしていて働かないのも困ります。働くことも好きなことをするのも、どちらも丁度よく楽しめるのが良いのです。 10月11日(火)伝道四7〜8  一生懸命働いてお金をたくさんもっていても、一緒に食事を楽しんだり、プレゼントを買ってあげたりする友だちや家族がいなかったら、きっと寂しく空しいことでしょう。共に生きる仲間のいない生活を、お金ではうめられないのです。 10月12日(水)伝道四9〜10  「ふたりはひとりにまさる」の「ふたり」は、友だち、仲間、家族のことです。落ち込んだ時、話を聞いてくれる誰かがいたら、励まされます。反対に相手が落ち込んだら、話を聞いて励ましたり、助けたりすることができます。 10月13日(木)伝道四11〜12  寒い時、家族のふとんの中にはいって一緒に寝ると暖かです。また、自分だけがやって失敗しても、だれかと一緒に挑戦したら成功することがあります。さらに仲間が増えれば、いっそう力が増して行きます。そして最高の友はイエスさまです。 10月14日(金)伝道四13〜14  人の注意する言葉や、人の話をよく聞いて自分を反省することは大事なことです。でもだんだん大人になると素直にきけなくなっていきます。自分がえらくなってしまうからでしょう。特に王のような高い地位の人はなおさらです。 10月15日(土)伝道四15〜16  人の忠告を聞くことのできない王に代わって賢い若い王が後をつぐならば、きっと王国はうまくいくように思えます。それなのに、人々はいつしかその王の良かった時代を忘れ、別の王に期待するようなことも起るのです。人のそういう愚かさを思うとこれもまた空しさを感じるものです。  私たちは知らないことがたくさんあります。天気を予報で知ることはできますが、先に起ることが何でもわかるということはありません。そのため、ある時は不安に、ある時はむなしさに襲われることがあるのです。だから何もかもご存じの神さまに頼って進むのです。 10月16日(日)伝道一一1  パンを水に投げたら、無駄になってしまいます。でもこんなことやっても無駄かもしれないと思えることを、すぐには結果や成果がでなくても、あきらめないで神さまに信頼してやり続けるなら、神さまはそれを用いてくださいます。 10月17日(月)伝道一一2  明日のことは誰にもわかりません。何かがおこるかもしれないし地震や事故に巻き込まれるかもしれません。だから災害に備えた準備がもちろん必要です。でも明日がやってくるかどうかもわからない私たちです。今できることを今するということも、明日のための準備です。 10月18日(火)伝道一一3〜4  何かをする時に用心することは必要です。でも先のことをいろいろ考えすぎると用心しすぎて、何もできなくなってしまいます。だから失敗してもやり直せばいいという気持で挑戦していけるといいですね。 10月19日(水)伝道一一5  赤ちゃんがお母さんのお腹の中に与えられる不思議は、神さまの奇跡です。赤ちゃんが生まれるために、人間にできることはある程度までありますが、誰にでも与えられるわけではないからです。だから今自分が生まれて生かされているのも奇跡なのです。 10月20日(木)伝道四一一6  昨年秋に4種類の野菜の種をまきましたが、芽はでても、大きく成長しませんでした。土づくりをしなかったからです。畑で野菜を作るには土をつくり、肥料を時々たしたり、たっぷりの水を与え続けたり、こまめな世話が必要なのを後で知りました。何かをする時に、成長させてくださる神さまにおまかせする部分と、自分でやらなければならない部分とがあるのです。 10月21日(金)伝道一一7〜8  若い時代は「光」や「太陽」のようにきらきら輝いて見えます。しかし年をとってくると体の変化が起こり、若い頃のようにはできないことが増えてきます。また長く生きる分、多くの楽しみや喜びもあれば、多くの悲しみや苦労も味わうことになります。でもその分、人としての心の深さや輝きがあるのです。 10月22日(土)伝道一一9〜10  若くても楽しんでいるようでいて、生きることがつまらなく感じたり、「生きていても良いことなどないのでは」と思ったりすることもあるでしょう。「空しくて生きるのが辛いです」そう神さまに祈っていいのです。空しさの先に、生きることを楽しむ知恵が与えられます。  イエスさまを信じていたら、いつも輝いていて、寂しさも、空しさも感じず、どんな時も怒らない、いらだたない、そういう人になるはずだと思っていたことがあります。それは大きな勘違いでした。寂しい、空しい、いらいらする。だからイエスさまに頼っていけるのです。 10月23日(日)伝道一二1〜2  「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」とあるように、もっと若い時にイエスさまを信じていたらよかったと言われた方があります。誰もが生活の中で悩んだり、迷ったりします。そういう時、造り主に聞きながら歩めたらよかったなあと思われるからでしょう。だから今、この時に、私たちを造り支えてくださっている神さまを見上げるなら、それが私たちの「若い日」となり、私たちを救うのです。 10月24日(月)伝道一二3〜4  私たちは、ああしておけばよかった、と後悔することがよくあります。年をとっていくと、体が衰え、できないことが増えていきます。するとさらに後悔が増えるかもしれません。でも神さまに祈る生活は、感謝が増える生活に導かれます。 10月25日(火)伝道一二5〜7  誰も年をとることはさけられません。もしかしたら、忘れっぽくなり、自分では何もできなくなるかもしれません。そしていつか命の終わりがやってきます。どうなったとしても、造り主が共におられるので、すべてを神さまにお任していけます。 10月26日(水)伝道一二8  がんばってきたことが、いっぺんで駄目になることがあります。反対にがんばっても、何にもならないこともあります。世の中には、自分の目に悪く見える人が幸せで、良い人が不幸せに見えたりすることがあります。空しいと思えることは、いろいろあって、神さま無しには生きる気持さえ失ってしまいそうです。 10月27日(木)伝道四一二9〜10  この書を書いた伝道者は、いろいろなことを考え、学び、人々がそこから生きる知恵を知れるようにと、こうした文章にしました。それは、「人生はなんて空しいんだ」ということだけで終わらないことを知らせるためです。 10月28日(金)伝道一二11〜12  この伝道者の言葉もまた、ひとりのお方、造り主である神さまによって教えられたものです。それは人生をただ「何をやってもつまらない、むなしい」と終わらせないように導く言葉なのです。 10月29日(土)伝道一二13〜14  「どうせ私なんて」「どうせこんなことやったって」「何をやってもつまらない」そういう思いで心が一杯になってしまう私たちを救うのは、神さまに「助けてください」と祈ることです。神さまだけを信じ頼る生活は、「何もかもいやになる」生活を変えてくださいます。  私たちが、イエスさまの十字架による救いを信じることができたのは、神さまの恵みです。私たちの力は全く関係ありません。 10月30日(日)Tコリ一18〜19  死んだのによみがえる。これを普通に聞いたらありえないことです。だから多くの人が初めは信じられないと思うでしょう。変な話に思えるでしょう。でも誰も死にはかなわないのに、ただお一人だけが死に勝って、私たちに罪と死から救う希望を持ってきてくださったのです。それがイエスさまです。 10月31日(月)Tコリ一20〜21  私たちはどうしてイエスさまを信じたのでしょう。頭がよかったからわかったのでしょうか?じゃあ頭がよくないと信じないのでしょうか。そうではないのです。頭がいいとか悪いとかは関係ないのです。ただイエスさまのことを伝えてくれる人がいたから知って、信じるように導かれました。 11月1日(火)Tコリ一22〜25  私たちは、神さまが現れて奇跡を起こしたら、信じやすいだろうと思います。でも神さまはそうされないのです。それどころか何でもできる神さまが、限界のある人となって、十字架で死んでしまうなんて、神さまらしくなく、弱く愚かにすら思えることです。でも私たち誰もが恐いと思う死からよみがえるという、奇跡によって、私たちを救ってくださったのです。 11月2日(水)Tコリ一26〜29  イエスさまに救っていただけるのは、私たちが何かができたり、頭が良かったり、力があるからではありません。弱く、物わかりも悪く、自分勝手なのに、何もできなくても、神さまからのプレゼントとして救いを与えていただいています。だから誰も自分を誇れないのです。 11月3日(木)Tコリ一30〜31  私たちが神の子にしていただけたことに、私たちの側には何の理由もありません。だから私たちのことについて誇れることはないのです。ただ私たちを愛し救ってくださった神さまのすばらしさだけを誇れるのです。 11月4日(金)Tコリ二1〜2  「私たちには罪がある」と言うより、イエスさまを信じたらお金持ちになれるよ、良いことだけが起るよ、と言った方が、魅力があるでしょう。でも、本当はそうではありません。十字架で死なれたイエスさまを信じたら、お金がなくても、嫌なことがあっても、どんな時も乗り越えて行く力をいただいて、喜びを持って歩めることなのです。 11月5日(土)Tコリ二3〜5  私たちは、イエスさまのことを伝えても、断られたら嫌だなと思います。でも断られることはあるのです。それでも私たちはあきらめないで伝えていきましょう。私たちが説明をうまくできたら人が信じるのではなく、私たちのつたない言葉を用いて信じる思いへと導いてくださいます。  イエスさまを信じたもの同士でも、みんながみんな、気が合うわけではないし、意見や考えが同じわけでもありません。だからといって一緒にやれないことも、一つになれないということもないのです。みんな違うからこそ、一つになって良い働きができるのです。 11月6日(日)Tコリ一二1〜3  イエスさまを信じたら、聖霊が私たちの心に住んでくださっています。でも目には見えないのに、どうやって聖霊が私の心におられることがわかるのでしょうか。「イエスさまを信じます。イエスさまは私の主です」と言えるのは、聖霊が心におられるからです。 11月7日(月)Tコリ一二4〜11  聖霊は私たちにそれぞれ違った賜物を与えてくださいます。ある人はイエスさまのことを伝えるのが得意。ある人は神さまを賛美する声がすてきで、ある人はいつも教会に友だちを連れてくることができたり。いやしの賜物や私たちの知らない言葉を語る賜物もあります。それぞれ違う賜物を使って神さまのすばらしさを表しています。 11月8日(火)Tコリ一二12〜13  世界には、いろいろな国の人々がいます。みんなばらばらに生きています。でもイエスさまを信じることによって、イエスさまを中心とした一つの仲間、一つの体にされています。人の体にいろいろな部分があるように、私たちはみんながイエスさまという体の必要な部分部分なのです。 11月9日(水)Tコリ一二14〜19  私たちの体は頭、手、足、体があります。頭には髪の毛が生えていて、耳や目、口、鼻があります。手だけの人とか、目だけの人ということはないのです。それぞれに役割があって、それぞれがあわさって、私たちの体がうまく動いています。 11月10日(木)Tコリ一二20〜21  私たちは、自分には手がいらないからとか、目がいらないからと言って切り捨てることなどありません。いらない部分は一つもなく、どれもが大事な役割をして生活ができています。同じようにイエスさまを中心とした教会という体も、私などいらないということも、あの人はいらないということもないのです。 11月11日(金)Tコリ一二22〜24  体の目立つところばかりが注目されます。けれども目に見えない部分や目立たないところも、すべてが私の体であり、必要なところです。体の中は外からは見えないのに、しっかりと働きをしているから生きていけるのです。 11月12日(土)Tコリ一二25〜27  私たちの体はどこかが調子悪いと、心も体も全体が元気をなくします。でもそこが調子良くなると、体全体も元気になります。そのように教会は、お互いがいたわり合い、支え合う一つのキリストの体なのです。一人一人は大事な体の部分なのです。  自分にはどんな賜物が与えられているのでしょう。誰かのようにはっきりとわからないかもしれません。そして賜物もいろいろです。でも忘れてならないのは、神さまとみんなのために用いられるどんなすばらしい賜物よりも、誰もがいただける一番大事な賜物があるということです。 11月13日(日)Tコリ一三1  「人の言葉」とは異言です。そして「天使の言葉」。どちらも勉強してできるものではなく、聖霊によって話せるようになります。聞いている人も、それがどういう意味かを教えてもらわないとわかりません。それが話せることはすごいことです。でも、もしそれが自慢になるなら、そこには愛がありません。ただのうるさい音になってしまいます。 11月14日(月)Tコリ一三2  聖書のことがよくわかっていたら、神さまのことをなんでも知っていたらすばらしです。強い信仰があるので、どんな問題が起っても、奇跡で乗り越えることができたら、本当に立派です。それでも、もし愛がなかったら、それらも役には立たないのです。 11月15日(火)Tコリ一三3  自分の持っているものを全部、人のために差し出しても、誰かために自分の体を犠牲にしても愛がなければ誰のためにもなりません。立派な行いが結局自分を自慢するため、誇るため、人に認めてもらうためなら、そこには愛はないのです。 11月16日(水)Tコリ一三4〜7  愛って、なんでしょう。愛はイエスさまです。イエスさまは私たちのことを思い、私たちを受け入れ、私たちの罪を背負い、私たちのために命を捨て、私たちのために耐え忍んでくださいました。ご自分を誇ったり、人を恨んだりせず、祈ってくださいました。イエスさまの優しさで包んでくださり、希望を与えてくださいました。 11月17日(木)Tコリ一三8〜10  イエスさまの愛はいつまでも残ります。私たちが人や神さまのためにするように与えられる賜物でよい働きができても、それはいつまでも残らないのです。けれどもこの世界が終わって新しい世界がやってきもて、イエスさまの私たちへの愛はなくなることなく、あり続けます。 11月18日(金)Tコリ一三11〜12  今はわからないことがたくさんあります。でもいつかすべてがはっきりわかる時が来ます。その時まで、イエスさまがどんなに私を愛しているかを知り続けることが、何よりも私と人のための賜物です。 11月19日(土)Tコリ一三13  イエスさまが私をどんなに愛しているかを知ると、うれしいので、誰かにもそれを分けたいと思わされます。それが私にも人にもイエスさまを信じること、希望を持つことへつながります。信仰、希望、愛がいつまでも残るからです。  生きていると、「どうしてなんだろう?」と意味がわからずに問い続けることがあるでしょう。特に死や病気や苦しみです。真実にこたえることができるのは神さまです。 11月20日(日)ローマ八18  私たちには、苦しい時や辛い時があります。その時の経験が重ければ重いほど、心に大きな傷や痛みを残します。しかし、将来神さまが与えてくださるものは、どんなにひどく苦しい出来事をもその大きな痛みや傷をはるかに覆って、私たちを乗り越えさせてくださるすばらしいものなのです。 11月21日(月)ローマ八19〜21  人間だけでなく、神さまによって造られたものはみんな、罪のためにもともとあったすばらしさが失われてしまいました。でもイエスさまが再びこの地上に来られる時、すべては新しくされるので、造られたすべてものが、神さまによって造られた本当のすばらしさを取り戻すのです。 11月22日(火)ローマ八22〜25  私たちは、新しい世界が来た時、復活の体をいただける約束が与えられています。しかしそれまでは痛みや苦しみのあるこの世界でその希望を持ちながら生きています。人間だけでなく造られたものたちもみんな新たな姿に生かされるのを待ち望んでいます。 11月23日(水)ローマ八26〜27  私たちの今の世界では、苦しんだり、悲しんだり、辛かったりすることはなくなりません。だからある時は、もう神さまにお祈りする言葉もわからなくなるほど苦しい時があるかもしれません。なんて祈ったらいいのかわからない、ただうめくような気持を、聖霊もうめいて私たちの思いを祈ってくださいます。 11月24日(木)ローマ八28  「どうしてこんなことが起るのだろう」と考えてもわからないことはたくさんあります。でもそのような中を神さまが真実なお方であることを信じ、神さまと共に歩み続けることをやめないなら、すべてのことは「これでよかったのだ」というところへ神さまが導いてくださいます。 11月25日(金)ローマ八29  神さまは真実なお方だと信じることは、神さまが裏切ることはなく、一番よいことをしてくださっていると信じることです。そう信じて神さまに従い続けると、神の家族として、イエスさまに似た者に変えられていくのです。 11月26日(土)ローマ八30  私たちはみんな神さまから「わたしのもとにおいで」と招かれています。そこで「お招きくださりありがとうございます」と神さまのもとにいくことが、イエスさまを信じ救われたことです。私たちは信じた今も、困ったこと、悲しいこと、辛いことはあります。でもいつかそういうことのない新しい世界で生きる、そういう約束と希望の中を歩んでいるのです。  あなたは、犬や猫や生き物を家で飼っていますか。ちゃんと世話をしてあげていますか。私は小学生の頃、家で金魚を飼いました。餌当番表が作られ、最初は楽しんでやっていましたが、やがて忘れるようになり、餌は母があげるようになりました。世話ができないと困りますね。 11月27日(日)エゼ三四1〜6  エゼキルという預言者の時代、イスラエルの国のリーダーたちはお金も食べ物も着るものも十分あり、生活に困ることはありませんでした。でもそうでない人たちがたくさんいても、国のリーダーとして、そういう人たちを助け、自分たちの持っているものを分け合う気持はありませんでした。 11月28日(月)エゼ三四7〜10  自分たちが幸せであればいいと、苦しんでいる人たちに目を向けようとしなかったイスラエルのリーダーたち。どうしたら周りに目を向けることができるのでしょうか。神さまは、ご自分が、貧しく生きるのも大変な人々の面倒をみると言われました。そしてリーダーたちを懲らしめるとも言われました。 11月29日(火)エゼ三四11〜16  ちゃんと世話を受けることができなくて、ばらばらにどこかへいってしまった羊たちを一匹一匹捜し出して面倒を見る良い羊飼のように、神さまがイスラエルの人々を面倒見ると言われました。弱く貧しい人、助けが必要な人、苦しんでいる人、病気の人。神さまは、一人一人を良く生きられるように、助け支えてくださる良い羊飼いなのです。 11月30日(水)エゼ三四17〜22  私たちはつい自分さえ良ければいいという思いになります。そうすると、気づかないうちに人を傷つけたり、弱っている人を見ても気づかなかったり、周りをみることができなくなります。そのままで行くと、気づいたら自分が仲間を失っていくことになります。 12月1日(木)エゼ三四23〜24  良い羊飼になれない私たちはまず、モデルとなる良い羊飼が必要です。どうやって世話の必要な人を助けるのか、どうやって寂しい人の友だちになるのか、良い羊飼の世話を受け、また真似をしながら学べるからです。だから神さまは新しいダビデとしてイエスさまという最も良い羊飼を与えてくださいました。 12月2日(金)エゼ三四25〜31  神さまという良い羊飼は、私たちが安心して歩めるように導いてくださいます。悪魔の誘惑に勝てるよう助け、毎日のいろいろな必要を与えてくださいます。神さまを信じる生活は良い羊飼神さまが共にいてくださることなのです。 12月3日(土)ヨハネ一〇11  私たちのためにイエスさまは命を捨ててくださった、本物の良い羊飼です。このお方についていけば、私たちを見捨てずよく世話をしていただけます。  御名をあがめるとはどういうことでしょう。イエスさまってすばらしいということ、そう賛美する、歌うことです。そして私はただ神さまの前に低くひざをかがめて感謝することです。このクリスマス、主を崇めることがいっぱいありますように。 12月4日(日)ピリピ二1〜2  教会に集まる人は、信仰は同じでも、意見は違うし、考え方も違います。時にはぶつかってしまうこともあるのです。そんな時必要なことは、みんなが一つになって、お互いの違いをうまく働かせられるように愛をくださいと祈ることです。 12月5日(月)ピリピ二3〜4  教会でもいばったり、自分のグループを作って、グループ外の人を差別したりするようなことが起ることがあります。それでは教会の中がばらばらになってしまいます。いばる心を恥ずかしく思い、自分はまだまだ、という思いで人を敬い、神さまのおかげで今があるということを忘れないことが大事です。 12月6日(火)ピリピ二5〜8  へりくだることのお手本はイエスさまです。イエスさまは神さまなのに人となって、人と共に歩まれました。人の醜い思いをたくさんぶつけられ、卑しめられて十字架につけられました。「神である私に無礼なことをした」と言わず、私たちが救われるために神さまに従って、救いを完成してくださいました。 12月7日(水)ピリピ二9  十字架の周りで人々はイエスさまをばかにしました。「お前が神の子なら、十字架からおりて自分を救ってみろ」。この言葉は人の心をさかなでします。ならば十字架からおりて人々に、「どうだ、これで神の子だとわかったか」とやってしまいたくなるでしょう。でもイエスさまはそのまま死なれました。死なないのではなく、死んだのによみがえることで、神の子イエスさまのすごさがあらわされました。 12月8日(木)ピリピ二10〜11  私たちは失敗しない方がいいし、悪いことは起らないほうがいいと思います。まして死なないで生きられたらいいと思います。でもイエスさまの救いは死んでもよみがえる、失敗してもやりなおせる、悪いことが起ってもそのままで終わらない、そういう逆転の救いです。だから私たちは「神さまのなさることはなんてすごいんだ。まいりました。あなたこそ主です」と告白するよう導かれています。 12月9日(金)ピリピ二12〜13  神さまの御言葉をよく心にとめて過ごしていると、神さまのすごさや愛がわかってきます。さらにやってみたいことや、興味を感じることが、新たに与えられ、それを挑戦するチャンスや力が与えられます。 12月10日(土)ピリピ二14〜15  それは私たちが命の言葉に導かれて、世の光として輝かせていただくためです。  クリスマスの出来事には、二組のカップルが登場します。一組は年老いた子どものいない夫婦。もう一組はまだ結婚していない婚約中のマリヤとヨセフ。どちらも子どもが与えられるには難しい理由がありました。でもそれを乗り越えてどちらにも子どもが与えられるのです。 12月11日(日)ルカ一5〜7  ザカリヤとエリサベツの夫婦は人々のお手本になるような信仰深い人たちです。信仰熱心だったら、神さまがそのごほうびとして子どもをたくさん与えてくださると、この時代は信じられていました。だから子どものいないまま年老いた二人は、人々に引け目を感じる思いがあったことでしょう。 12月12日(月)ルカ一8〜10  祭司をしていたザカリヤは一生に一度、自分に番が回ってくるかどうかというほどの名誉ある仕事の当番にあたりました。神殿の聖所という場所で、神さまにささげる香を炊いてお祈りをするのです。外でも神殿にお祈りに来ていた人々が祈っています。みんなで救い主が来てくださるようにと祈っていました。 12月13日(火)ルカ一11〜14  突然現れた天使に、これから自分はどうなるのかと、ザカリヤはこわがりました。しかし天使の言葉は喜びの言葉でした。「あなたの祈りは聞き入れられたのだ」。ずっと祈ってきたでしょう。しかしもう年もとってしまい、すでに祈りをやめてしまっていたかもしれません。それなのに、男の子が与えられると言われました。新たな人生の楽しみが与えられました。 12月14日(水)ルカ一15〜17  生まれて来る子は、神さまから特別な仕事を与えられていました。それは救い主の働きのために、人々が心に救い主を受け入れるよう先に準備をさせる人になるのです。祈りが聞かれたとは、自分に子どもが与えられるだけでなく、イスラエルの、救い主を送ってください、という長い間の願いもまた聞かれていたのです。 12月15日(木)ルカ一18〜20  子どもが生まれるには、もう妻は年をとりすぎていました。ザカリヤには「どうして年をとった私たちに子どもが生まれることができますか」としか思えませんでした。どうぞ、私たちが、思いがけなく祈りのこたえがやって来た時に、信じて受けとれる心でいられますように。 12月16日(金)ルカ一21〜23  祈りの後、祝福をしてもらうために待っていた人々は、出て来たザカリヤが全く話をすることができないのを見て、ザカリヤが神さまから何かを知らされたと気づきました。 12月17日(土)ルカ一24〜25  信じることのできなかったザカリヤでしたが、ちゃんと天使の言葉通り、エリサベツのお腹に子どもが与えられました。エリサベツは喜びでいっぱいでした。  誰でも、自分と同じようなことを体験していないとなかなかわからないものです。マリヤの神さまによる不思議な体験は、エリサベツだからこそわかることであり、一緒に喜べる確かな仲間でした。 12月18日(日)ルカ一39〜40  「あなたは神の子のお母さんになる」。天使に言われた言葉を信じてお母さんになることを決心したマリヤは、エリサベツも年をとっているのに、お腹に赤ちゃんがいることを聞きました。マリヤのことをわかって喜んでくれる人が与えられていました。だからマリヤはすぐにエリサベツの所に行ったのです。 12月19日(月)ルカ一41  マリヤが「こんにちは」とあいさつすると、エリサベツのお腹の赤ちゃんが、お腹の中で踊りました。お腹の中でマリヤの声を聞いて、聖霊によって、救い主のお母さんが来たのを喜んだのです。お腹の赤ちゃんも、マリヤを応援していました。 12月20日(火)ルカ一42〜45  エリサベツは「お腹には神さまの子がいるのね。神さまの言葉が本当だと信じる人は本当に幸せよ」とマリヤを励ましました。エリサベツ自身あきらめる年齢なのに、子どもが与えられました。だからまだ結婚していないのに、子どもを与えられる不思議な体験をしたマリヤのことを本当にわかってあげられたし、喜ぶことができました。 12月21日(水)ルカ一46〜50  エリサベツの言葉に励まされたマリヤは、神さまがすばらしいと賛美しました。「神さまは本当にすばらしいお方です。こんなちっぽけな私をちゃんと見ていてくださり、私を神の子のお母さんにするという、大きなことをしてくださってありがとうございます」。 12月22日(木)ルカ一51〜55  世の中では、お金や地位のある人が活躍しやすいものです。そして貧しく小さな人たちは注目されにくいものです。でも神さまの目はむしろ目立たない弱く貧しい小さな者を引き出して輝かせてくださいます。また神さまの憐れみは、忘れられてしまったと思える約束にもちゃんとこたえてくださいます。マリヤ自身がそれを体験しました。 12月23日(金)ルカ一56  マリヤは安心してくらせるエリサベツのもとで三ヶ月過ごしました。結婚前に赤ちゃんがお腹にいるとなると、人々からの目が厳しいことでしょう。そういうことからもしばらく守られて過ごせる場所を神さまが与えてくださいました。 12月24日(土)ルカ一57〜66  ザカリヤとエリサベツに男の子が生まれました。ヨハネと名前をつけたとたん、ザカリヤは口が元通りに話せるようになりました。人々はヨハネの誕生とザカリヤの口の不思議、そしてヨハネの成長のすべてに神さまの手が共にあることを感じました。  クリスマスおめでとうございます。今年はちょうど日曜日がクリスマスになりました。今朝目が覚めたら、枕元にプレゼントはありましたか?うれしいですね。教会学校でもプレゼントがもらえるかもしれませんね。でもまずはイエスさま生まれて来てくださってありがとうと喜びたいですね。 12月25日(日)ルカ二1〜7  マリヤが赤ちゃんを産む時がやって来た時、宿屋には空いている所はどこもなく、家畜小屋でマリヤは産みました。ベビーベッドは家畜のえさをいれる飼葉おけでした。イエスさまは立派な場所で神の子として迎え入れられたのではなく、場所がないからと急いで用意されたところに生まれたのです。最も低い所に生まれた神の子は、どんなところに来てくださるお方なのです。 12月26日(月)ルカ二8〜9  神の子救い主が生まれたという知らせはどこに届いたのでしょう。天使によって、野宿をしながら羊の番をしていた羊飼たちに、でした。有名な人や、地位のある人々ではなかったのです。 12月27日(火)ルカ二10〜11  天使は言いました。「すべての民に与えられる大きな喜びを告げる」。特別な人にだけの贈物ではなく、すべての人に与えられる大きな喜びです。大人も子どもも、お金持ちも、貧しい人も、立派な人もそうでない人も、みんなに与えられるのです。それは私たちのためにお生まれになったイエスさまです。このお方は、いつまでも決してなくなることのない大きな喜びです。 12月28日(水)ルカ二12  救い主がすぐにわかるかな?自分たちのような羊飼は会えるのかな?大丈夫です。家畜小屋の飼葉おけの中に布にくるまれて寝かされていますから。そんな赤ちゃんはどこにもいないでしょう。そして誰でも会いにいっていいのです。家畜小屋なら誰でも入りやすいでしょう。 12月29日(木)ルカ二13〜14  さらに羊飼たちは、天の軍勢のイエスさま誕生おめでとうコンサートまで聞くチャンスをいただきました。大人数のすばらしい神さまへの賛美だったでしょう。「天では神さまのすばらしさがあらわされますように。地上では、人々が神さまと歩むようになって、平和をいただけますように」。 12月30日(金)ルカ二15〜16  羊飼たちは「さあ行こう」と急いで出かけました。そして飼葉おけに寝ているイエスさまを捜しあてました。誰も知らなかった救い主の誕生を、羊飼たちは天使に招かれて、私たちを代表してお祝いしました。 12月31日(土)ルカ二17〜20  羊飼たちは天使の言葉がその通りであったことを喜び、神さまを賛美しながら帰りました。救い主と会えた喜びは、神さまへの賛美の歌へとつながっていくのです。