パウロたちの伝道旅行は、イエスさまを信じる仲間が増えますが、反対者も増えていきます。信じない人々とっては、イエスさまを信じる人がいることまでも受け入れられませんでした。 7月7日(日)使徒十七1〜3 パウロたちは、テサロニケでもいつものようにまずユダヤ人の会堂で、イエスさまこそ救い主だと伝えました。聖書にはキリストは苦しみを受けると書かれているし、死んでよみがえることも預言されています。十字架で死なれたイエスさまこそ、その人だと説明しました。 7月8日(月)使徒十七4 「聖書の預言の意味はそういうことだったのか。よくわかった」と信じた人たちがいました。ユダヤ人だけではなく、会堂で礼拝をささげていたギリシャ人たちも多く信じました。その中には貴婦人と呼ばれた身分の高い女の人もいました。彼らはイエスさまこそ救い主だと納得したのです。 7月9日(火)使徒十七5〜9 ところがユダヤ人の中でも信じなかった人たちは、ギリシャ人や貴婦人たちが大勢イエスさまをキリストだと信じたことが気に入りませんでした。ねたみがわいてきて、パウロたちの邪魔を始めたのです。パウロたちが、ユダヤ人を支配するローマを倒そうとしていると、うそを言いふらして逮捕されるようにしました。 7月10日(水)使徒十七10 パウロとシラスは仲間の助けで夜のうちにテサロニケを脱出しました。別の仲間が自分たちの代わりにユダヤ人たちにつかまって逮捕され、取り調べを受けたり、苦しめられたりしたので、二人はとてもつらかったしょう。でも今はそのことを神さまと仲間たちにまかせ、ベレヤへ進むしかありませんでした。 7月11日(木)使徒十七11 私たちは、嫌いな人の言うことや、信用できない人の言うことは素直に聞けません。ついひねくれた心で聞いてしまいます。まして十字架で死刑にされたと聞けば、なかなかその人を救い主と信じるのは難しいでしょう。けれどもベレヤの人々は、パウロの話を素直に聞いて受け入れたのです。そしてパウロの話すイエスさまを聖書に書いてある救い主の姿と照らし合わせて、確認して、パウロの言うとおりだと納得しました。 7月12日(金)使徒十七12 ねたみは人の成功をとことん邪魔します。テサロニケのユダヤ人たちは、大勢の人をうそで巻き込んでベレヤまでやってきました。そして町を混乱させて人々を困らせ、パウロを悪者にしようとしました。 7月13日(土)使徒十七13〜15  生まれたばかりの教会を守るため、シラスとテモテがしばらく残り、またパウロを守るため、パウロ一人アテネへ送り出しました。どんなに邪魔をされても、信じた人々はイエスさまから離れませんでした。  イエスさまを知らない人に伝えることは勇気がいります。みんながみんな素直に受け入れてくれるわけではないからです。多くの人は簡単には信じるとは言わないかもしれません。力強く伝道したパウロでも、ばかにされてがっかりしたことがありました。 7月14日(日)使徒十七16〜17 偶像の町アテネは、パウロの心を強く動かしました。まことの神、救い主イエスさまを伝えなければという強い思いがわいていました。だからユダヤ人会堂だけでなく、広場で毎日、そこで出会う人たちに誰にでもイエスさまについて話しをしたのです。 7月15日(月)使徒十七18〜21 広場には新しいことを知りたい、勉強したいという人たちが集まっていました。だからパウロが話すイエスさまについてみんなとても知りたくなりました。いったいどんな神さまなのだろうと。パウロにとっては、イエスさまのことを伝える絶好のチャンスでした。 7月16日(火)使徒十七22〜25a 「アテネの皆さん、あなたがたの知らない神さまについてお話します。神さまはこの世界とすべての生き物を造られました。だから人の作ったものにおさまりませんし、人の世話を必要ともしません」。 7月17日(水)使徒十七25b〜26 「私たちが生きているのも、またあらゆる生き物に命があるのも、神さまが命を与えてくださったからです。世界にはいろいろな国がありますが、神さまがこの世界の歴史を導いてこられました」。 7月18日(木)使徒十七27 「とてもうまくできたこの世界の仕組みや自然、あらゆるものを通して、この天地と私たち人間や生き物を造られた神さまを探すなら、ちゃんと神さまがおられることがわかります。神さまに出会うことができます。神さまは私たち一人ひとりのそばにいてくださいます」。 7月19日(金)使徒十七28〜31 私たちは神さまによって生きているので、人が神さまを作ることもできません。この神さまについて知らなかったことを誰でも悔い改めなければなりません。神さまはこの世界をやがて死からよみがえられたお方によって裁きます。でも十字架ですでに私たちの罪を裁かれて死なれ、よみがえられたお方が私たちを救ってくださいます。 7月20日(土)使徒十七32〜34  死んだ人がよみがえるということで、もっと詳しく聞きたくなったアテネの人々でしたが、いざよく聞いてみると、そんなことあるはずがないと、パウロをばかにして笑いました。多くの人が信じませんでした。でも信じた人がいて、その中にはデオヌシオという裁判官がいました。言い伝えでは、この人は多くの本を書いてイエスさまを伝えたそうです。大勢は信じませんでしたが、信じた人の一人が大きな影響を残しました。  普通なら危なくてみんなが反対するところに行って、困ったことになったら、「あなたが悪い」と言われます。パウロも聖霊によってエルサレムに行ったら危ないと教えられ、いろいろな人から行くのを反対されました。でもパウロはエルサレムに行くのをやめないのです。どうしてなのでしょう。 7月21日(日)使徒二十一1〜6 パウロは献金を届けるためにエルサレムへ向かっていました。船旅の途中寄った町のクリスチャン仲間が「聖霊が教えてくれた。エルサレムは危険だから行ってはいけない」と言いました。けれどもパウロは旅をやめませんでした。仲間たちもあきらめて、共に祈り合って別れました。止めたくても止められないので、神さまにパウロをおまけせしたのです。 7月22日(月)使徒二十一7〜13 カイザリヤでも預言者アガボが、パウロが「エルサレムで逮捕される」と預言しました。だれもがパウロを涙ながらに一生懸命止めました。みんなパウロを守りたかったのです。けれどもパウロの「死ぬことも覚悟している」という堅い決心をやめさせることはできませんでした。 7月23日(火)使徒二十一14 みんなはパウロを説得するのをあきらめました。それは、パウロの静かで落ち着いてイエスさまにすべてをおまかせしている姿を見て、止めようとした人たちの方がはっとしたのです。そして彼らも落ち着きを取り戻しました。すると「わたしの思いではなく、みこころのままに」という思いに行き着きました。 7月24日(水)使徒二十一15〜17 パウロと仲間たちは、エルサレムで起こる出来事を覚悟して出発しました。エルサレムへ向かう途中でパウロと仲間たちが居心地よく過ごせるために、カイザリヤのクリスチャンたちが一緒にでかけてくれました。エルサレムでも仲間たちが喜んで迎えてくれました。 7月25日(木)使徒二十一18〜26 パウロのことを悪く言ううわさがありました。それが間違っていること、パウロはユダヤ人として律法を大切にしていることをわかってもらうため、神殿でしばらく過ごしました。 7月26日(金)使徒二十一27〜36 神殿でパウロをみかけたユダヤ人が、パウロが外国人を神殿の中に入れたと勘違いしました。外国人が入っていい場所は「外国人の庭」までだったからです。パウロをよく思わない人だったので、神殿にいる人々を巻き込んでパウロを神殿から引きずり出しました。 7月27日(土)使徒二十一37〜40  混乱をしずめるためにローマ兵がパウロを捕らえました。人々から打ち叩かれていたパウロは助けられました。千人隊長にお願いして、人々に自分のことを説明するチャンスももらえました。大変な中にも神さまの守りがありました。  パウロは自分のことを説明するのに、イエスさまと出会ったことを話して、大勢の人にイエスさまの証をしました。 7月28日(日)使徒二十二1〜5 パウロは大勢のユダヤ人に自分について説明をしました。パウロはキリキヤという外国の町で生まれ、エルサレムで育ち、有名なガマリエル先生のもとで一生懸命聖書の勉強をし、熱心に神さまに従いました。そしてイエスさまを信じる人々をみんな逮捕して苦しめることが神さまのためだと思っていやっていました。 7月29日(月)使徒二十二6〜9 パウロがクリスチャンを逮捕するためダマスコに向かっていると、途中で強い光に照らされました。そして地に倒れたパウロに声が聞こえたのです。「なぜわたしを迫害するのか」。その声の主こそ、パウロが憎み敵対していたイエスさまでした。パウロはどきどきしたでしょう。自分が間違っていたと知ったからです。 7月30日(火)使徒二十二10〜11 パウロはこれからどうしたらいいのか、イエスさまに聞きました。イエスさまはダマスコで、パウロにするように決めてあることを告げると言われました。パウロはすでに、イエスさまのために働くことが決まっていたのです。 7月31日(水)使徒二十二12〜16 目が見えなくなっていたパウロの目を開いたのは、アナニヤのお祈りでした。アナニヤはさらにパウロに驚くことを話しました。「あなたはこれからイエスさまを伝える人になるのだ。だからすぐ洗礼を受け、罪を洗い落としなさい」。イエスさまの反対者だったパウロを、イエスさまは伝える人として選ばれたのです。 8月1日(木)使徒二十二17〜21 パウロは自分がイエスさまを信じる人を逮捕して苦しめていたのに、突然変わってイエスさまを信じ伝える人になったので、自分が体験したことがユダヤ人にとってイエスさまを信じるのに導きやすいと思っていました。けれどもイエスさまは「ユダヤ人は信じない」「だからあなたを外国人に伝える人として働かせます」といわれました。 8月2日(金)使徒二十二22〜24 ユダヤ人は、パウロが外国人のために働くという話を聞くと、反発を感じました。もうこんな話は聞いていられない。汚れた民である外国人を相手にするとはユダヤ人として考えられないと、大騒ぎになってしまいました。 8月3日(土)使徒二十二25〜29 パウロはユダヤ人でしたが、生まれたときからローマの市民でもありました。ローマの市民であることがパウロをむち打ちから守りました。それどころか、隊長から丁寧に扱ってもらえるようになりました。 パウロは神の国の市民でもあるので、神さまの確かな守りの中で、ローマの市民権も用いられたのです。  夏休み中にどこか旅行に行きますか。新幹線や飛行機に乗れたら、さらにわくわくしますね。でも島で生活していないと、船で旅行はなかなかないですね。私は島で生活していたとき、よく船に乗りました。パウロの体験ほどではないですが。波が荒れる冬の長時間の船旅はきつかったです。すぐに船酔いするので、ずっと寝ていました。 8月4日(日)使徒二十七1〜8 ユダヤ人に訴えられたパウロは、ローマで裁判を受けることにしました。このときパウロは囚人でしたが、ローマへ行く道が開かれました。旅ははじめから順調ではありませんでした。パウロたちを乗せた船は向かい風に邪魔されてなかなか進むことができず、途中の港で長く足止めされてしまいました。 8月5日(月)使徒二十七9〜12 船旅をするには危ない季節になりました。パウロは「これからの旅は命に危険が及ぶほどだからここで冬を過ごそう」と提案しました。けれども船旅のプロの船長さんや船乗りたちの意見が通り、出発することになりました。 8月6日(火)使徒二十七13〜20 とてもいい風に乗って船出しました。ところが間もなく大嵐にあい、船は流されるままになりました。やがて荷物や船具を捨てました。いつまでも嵐はやまず、激しい波と風に揉まれ続けました。だれもがもう助からないと思い、生きる希望を失いました。このときみんな思ったかもしれません。パウロの言葉の通りになったと。 8月7日(水)使徒二十七21〜26 パウロはどうだったでしょうか。神さまから「恐れるな」と言われますから、彼も恐れを感じていたのでしょう。でもパウロは希望を失いませんでした。なぜなら、神さまからの約束の言葉をいただいたからです。パウロが必ずローマ皇帝の前に立つことと、船のみんなが助かるという約束です。神さまの希望の言葉がみんなを励ましました。 8月8日(木)使徒二十七27〜32 やがて陸に近づいていることがわかりました。すると船乗りたちが小舟に乗って逃げ出そうとしたのです。「あの人たちがいないと助からない」というパウロの言葉に従って兵隊が行動しました。パウロの言葉は信頼されていました。 8月9日(金)使徒二十七33〜38 みんな何も食べていませんでした。「さあ、残っている食料を食べて元気になろう。みんな必ず助かるから」。パウロはこう言ってパンを食べました。それもそうだとみんなも元気になって食べました。パウロの神さまに信頼する姿はみんなを安心させました。 8月10日(土)使徒二十七39〜44 ついに船は浅瀬に乗り上げました。みんな陸まで泳いだり、船の破片につかまったりして、たどり着きました。パウロの言った通り、全員命が助かりました。  振り返れば、みんなに止められたエルサレム行きでした。実際エルサレムで誤解され逮捕されました。そしてローマへの旅は死ぬかもしれない大嵐を体験しました。でもついにパウロはローマに来ることができました。 8月11日(日)使徒二十八1〜6 マルタ島の人はパウロが毒蛇に噛まれたのを見て、人殺しでその罰を受けたのだと思いました。ところがパウロがいつまでも死なず、ピンピンしているので、反対にパウロのことを神さまだと思ってしまいました。 8月12日(月)使徒二十八7〜10 パウロは赤痢にかかり高熱で苦しんでいる人のためお祈りをし、手をおいていやしました。すると他の病気の人々もぞくぞくとやってきたので、パウロはみんなをいやしました。もうパウロを神さまとは言わなくなりましたが、パウロと仲間たちは島の人たちに尊敬されました。 8月13日(火)使徒二十八11〜15 三ヶ月後、パウロたちはマルタを出発しました。ローマに着く手前でも、ローマに着いても、いつもパウロを出迎えてくれるクリスチャンの仲間たちがいました。仲間たちに会うと、パウロは勇気と力をもらってとても元気になれるので、神さまに感謝しました。 8月14日(水)使徒二十八16 パウロはローマで一人の番兵による見張りがつきましたが、一人で生活をすることができました。牢屋ではなく家に住めたのです。自由に外には出かけられませんが、家に来る人には自由にイエスさまのことを伝えることができました。 8月15日(木)使徒二十八17〜22 パウロはローマに住むユダヤ人のリーダーたちを招いて、自分のことを説明しました。自分は囚人としてローマにきたこと。ユダヤ人から訴えられたけれども、罪を犯していないこと。ローマで裁判を受けることにしたことなどです。でもパウロは自分を訴えたユダヤ人を恨んではいませんでした。ただ、イスラエルのみんなが待ち望んでいた救いの希望がイエスさまだと伝えて反対を受けているのだと話しました。 8月16日(金)使徒二十八23〜28 多くのユダヤ人が、パウロからイエスさまこそ預言されている救い主だと聞きました。ある人々は信じましたが、信じない人々も大勢いました。パウロは信じないのも聖書で預言されていたとおりのことだと言いました。だからイエスさまの救いはユダヤ人の手から離れて、外国人に与えられたのだと。 8月17日(土)使徒二十八29〜31 ローマでは、今までさんざんユダヤ人たちにねたまれ邪魔されたようなことは起こりませんでした。そしてパウロは2年間、遠慮やためらう必要がなく、妨げられることもなく、家にきた人には誰にでも神の国と救い主イエスさまのことを伝えることができました。  預言者は神さまの言葉を伝える人ですが、聞く人にとってうれしい言葉もあれば、厳しくて辛い言葉も語らなければいけません。そんなの聞きたくないとか、自分には関係ないと耳をふさぐ人もいます。それでも真実に神さまの言葉を語り続けた預言者たちがいました。 8月18日(日)イザヤ六1〜4 神殿でお祈りをしていると、イザヤに神さまがあらわれました。神さまは天におられて、神殿は神さまの衣の裾でいっぱいになっていました。そして6つの翼を持つ天使のセラピムが、賛美しながら神殿を飛びかけていました。その賛美の声は神殿の土台を揺り動かすほど響いていました。 8月19日(月)イザヤ六5 きよい神さまの世界をみたイザヤは、自分が汚れた、ただの罪深いものだと強く感じました。自分は神さまの前に立てないと思いました。あまりに神さまがきよいので、自分の醜さにもう救いようがないのを感じ、自分はもうだめだ、滅びるしかないと思いました。 8月20日(火)イザヤ六6〜7  セラピムのひとりが祭壇から燃えている炭を持ってきて、がっかりしているイザヤの唇に炭でふれました。そして「あなたの罪はゆるされた」と言ったのです。自分の罪を自分ではどうすることもできなかったイザヤは、神さまによって罪をゆるされ、きよめていただきました。 8月21日(水)イザヤ六8 さらにイザヤは神さまの声を聞きました。それは神さまの働きのためにどこへでもでかけていって、神さまの言葉を伝えてくれる人はいないだろうか、と天使たちに聞いていたのです。そこで罪ゆるされたイザヤは神さまのために働きたいと思い、「わたしを使ってください」と自分を差し出しました。 8月22日(木)イザヤ六9〜10 ところがこの働きはとても厳しいものでした。なぜなら、どんなに語っても聞いてもらえないし、わかってもらえないのです。むしろいやがられたり、嫌われたり、憎まれたりするのです。イザヤが神さまの言葉を伝えれば伝えるほど、みんな聞かないのです。なんと大変な働きでしょう。 8月23日(金)イザヤ六 11〜12  イスラエルの町々が戦争で負けてボロボロになり、人々が外国へ連れて行かれ、もとに戻るのが大変なほどに荒れ果てるまで、イザヤも人々と共に生きながら、語り続けるのです。そうなってやっと人々は、神さまの言葉を聞かなかった自分の罪に気づくからです。 8月24日(土)イザヤ六13 これでもかというほどにされたのに、わずかに残されたものまでも焼き払われてしまう時がきます。それが神さまのイスラエルをきよめるための裁きでした。そしてそこから、新しい救いの希望が生まれてくるのです。裁きだけで終わりではないのです。   ある牧師の息子は、牧師になりたくないと思っていました。けれども「あなたは私に従いなさい」という語りかけが何度も聞こえてきて、ついに牧師になりますと従ったそうです。牧師だけでなく、神さまは様々な立場で、神さまの愛を表していくように信じる私たちを召して(声をかけて)おられます。 8月25日(日)エレミヤ一1〜3 聖書は「予言者」ではなく「預言者」です。神さまから言葉を預かって、それを人々に伝える人だからです。エレミヤは預言者として神さまに召され、エルサレムがバビロンに滅ぼされるまで働きました。 8月26日(月)エレミヤ一4〜5 神さまは、まだエレミヤがお母さんのお腹の中にいないときから、エレミヤを預言者として選んでいました。神さまは生まれる前からエレミヤに期待していたのです。なんてすごいことでしょう。私たちにも同じように、神さまは、私たちがまだ影も形もない時から私たちのことを知っていて、期待して呼んでくださっているのです。 8月27日(火)エレミヤ一6〜8  神さまの「生まれる前からあなたを選んだ」という言葉は、エレミヤの心を強く動かしたでしょう。でも戸惑いや恐れがありました。若い自分にはできないから無理だと思いました。でも神さまにはエレミヤが若いとか弱いとかは関係ないのです。神さまが共にいて助けて、その働きをちゃんと果たせるようにしてくださるからです。 8月28日(水)エレミヤ一9〜10 神さまはエレミヤの口に触られました。そして「わたしの言葉をあなたの口にいれた」と言われました。それは神さまがエレミヤに語る言葉を与えてくださり、それが必ずそのとおりになっていくということでした。裁きの言葉も希望の言葉もすべてそのとおりになるのです。 8月29日(木)エレミヤ一11〜12  ヘブライ語で「アーモンド」と「見張る」という言葉はよく似ています。それで春がやってきたことを感じるアーモンドをエレミヤに見せて、エレミヤが伝える神さまの言葉を、人々がちゃんと聞くかどうか見張っていると言われました。穏やかな春の後ろに実は危険が迫っていること考えるかどうかを見張っておられたのです。 8月30日(金)エレミヤ一13〜16  さらにエレミヤが見た「北からくる煮え立った鍋」も、この先人々の罪を裁くために、神さまがエルサレムを敵の手に渡すしるしでした。 8月31日(土)エレミヤ一17〜19 エレミヤは、預言者をやめたいほど大変な目にあいます。神さまの言葉を伝えると、王や高官や祭司たちから反対されたり、いじめられたり、苦しめられたりします。けれどもどんなときも勝つのは、反対者ではなく、神さまの言葉でした。  注意された時、素直に聞けない時があります。そんな言い方しなくてもいいのにと、注意された内容よりも言った人の言い方が気に入らないと思うかもしれません。でも自分の姿をよく見直す大事なチャンスです。ムカついても腹が立っても、ぐっとこらえて、神さまの前に自分のことを見直してみたいですね。 9月1日(日)エレ二十六1〜6 ユダの人々は神さまの喜ばれない生活をしていました。そこで神さまはエレミヤに、このまま神さまに聞き従わないならば、滅びると伝えるように言われました。しかしもし悔い改めて神さまの言葉に聞き従うようになるならば、わざわいをくだすことをやめるとも言われました。神さまは人々を待っておられました。 9月2日(月)エレ二十六7〜9 新しい王の時代がはじまったばかりのところで不吉なことを語るエレミヤの言葉は、王と人々の心に反発を起こさせました。滅びを語るエレミヤは殺されるべきだと言われてしまいます。神さまの言葉としては受け入れられませんでした。 9月3日(火)エレ二十六10〜11  エレミヤは裁判を受けました。裁判は、エレミヤに反対する人々にすぐに襲われて殺されることから守りました。けれどもエレミヤの言葉を聞いた人々の多くは、エレミヤを死刑にすべきだと訴えました。 9月4日(水)エレ二十六12〜15 エレミヤは死刑を訴えられても、神さまの言葉を語り続けました。神さまに悔い改めて立ち返るなら、神さまは裁きを思い直されると。多くの人が彼を殺すべきだと思っている中で、エレミヤはなんとか人々が神さまの言葉を聞くことを願っていました。まだ間に合うからです。 9月5日(木)エレ二十六16〜19  すべての人が聞く耳をもたないわけではありませんでした。また長老たちの中に神さまの言葉を聞くことができる人たちもいたのです。彼らはエレミヤの味方になって言いました。「今と同じように、ヒゼキヤ王の時代にミカが、悔い改めなければエルサレムが滅びると言いました。すると王が悔い改めたから、神さまはそれをなさいませんでした。それなのに私たちはもっと自分たちに神さまの怒りをまねこうとしているのです」。 9月6日(金)エレ二十六20〜23  エレミヤと同じことを預言した人がいました。エレミヤだけでなく、他の預言者も語るのだから、やはり悔い改めて自分たちの生き方を改めよう、と思ってもよさそうですが、エホヤキム王はそう思いませんでした。王によって預言者ウリヤは殺されてしまったのです。 9月7日(土)エレ二十六24 エレミヤもいつ殺されるかわからない状態でした。でもアヒカムによって助けられ、殺されないようにかくまってもらえました。  エルサレムはバビロンによって滅ぼされました。多くの人がバビロンに連れて行かれました。エレミヤはボロボロになったエルサレムに残っていました。 9月8日(日)エレ二十九1〜3 エレミヤはバビロンにいるユダヤ人に、手紙で神さまの言葉を伝えました。バビロンに移された人々は早くエルサレムに帰りたいと思っていました。またバビロンは近いうちに滅びると嘘の預言をする人もいたので、すぐに帰れると期待したのです。だからエレミヤは手紙で、神さまが人々にバビロンでどう過ごすことを願っておられるかを伝えました。 9月9日(月)エレ二十九4〜6 神さまはユダヤ人にバビロンで家を建てて、落ち着いた生活をしなさいと言われました。畑を作り、結婚して、子どもをうみ育て、バビロンで増え広がりなさいと言われました。ここで生きることを大事にしなさいと言われました。 9月10日(火)エレ二十九7  バビロンが平和であるように祈りなさいと言われました。国や町が平和であれば、自分たちの生活も安定し、安心して暮らせます。いつも敵に襲われていたら、びくびくして落ち着いた生活はできません。平和を求める祈りは、みんなが共に生きていくための大事な祈りでした。 9月11日(水)エレ二十九8〜9 注意が必要なのは、偽の預言者や占い師でした。すぐにエルサレムに帰れるよ、と言われたら、ついそちらにみんな飛びつきたくなるのです。そうやって彼らはエレミヤとは反対のことやうそを言って人々を期待させ、神さまの思いから引き離そうとするからです。 9月12日(木)エレ二十九10  70年たったら、ふるさとへ帰れる、それが神さまの約束でした。70年といったら、一人の人の一生分です。だとすると多くの大人は帰れないでしょう。帰ることができるのは、若い人や子ども、これから生まれてくる子たちです。神さまに背いてしまったためにこうなったのだから、悔い改めるために必要な年月なのです。 9月13日(金)エレ二十九11  神さまの計画は災いではなく、将来と希望の計画です。それは災いと思える今の生活も、また生きているうちに帰ることができなくもて、神さまの言葉に従って、心を決めてここで生きていくなら、将来と希望がちゃんと見えてくるのです。 9月14日(土)エレ二十九12〜14 バビロンには、造り主である神さまに祈りをささげる神殿はありません。でも祈りはできます。どこにいても神さまをさがすことができます。神さまがこたえてくださるからです。どこにいても神さまを信頼していくなら、やがて離れ離れだった人々がエルサレムに帰る時、みんなで心を一つにして神さまを礼拝する時がくるのです。すばらしい希望です。  裏切りものと聞けば、「イスカリオテのユダ」が思い浮かびやすいものです。でも神さまの目からみたら、イスラエルの民は、しょっちゅう他の神さまを拝んで、神さまから離れる裏切るりものたちでした。 9月15日(日)ホセア二1〜4 ホセアの奥さんは、ホセアを裏切って他の男性のもとへ行ってしまいます。それはとても悲しく辛いことでした。イスラエルの人々も、神さまを裏切って、バアルを拝んでいました。だから神さまは悔い改めるようにと言われました。 9月16日(月)ホセア二4〜7 ゴメルはもっと自分を喜ばせてくれる男性を探し回ります。けれども見つけることができません。そして夫ホセアのところにいた方がまだよかったと思います。イスラエルも、神さまから何もかもいただいていることを忘れて、バアルがもっといろいろ与えてくれると思っていたのです。 9月17日(火)ホセア二8〜13  神さまは雨をふらせなくされました。すると作物がとれなくなります。そして収穫を祝うバアルにささげるお祭りもできなくなります。バアルは雨を降らせ、作物を豊かに実らせる神であるはずなのに何もできないのです。人々がまことの神さまに心を向け直すための神さまの裁きでした。 9月18日(水)ホセア二14〜15 けれども神さまは裁きの後、イスラエルをバアルのいない荒野に連れ出して、どんなに大事に思っているかを語られるのです。「私に従ってきなさい。私だけに信頼しなさい。私こそ荒野をぶどう畑に変えてあなたを祝福するのだから」と。 9月19日(木)ホセア二16〜20  イスラエルが悔い改めて神さまに向き直ったら、神さまとイスラエルの関係は新しくされます。もうイスラエルは神さまだけを礼拝し、バアルがいらなくなります。生き物や人との関係が平和にされていきます。神さまのあわれみと真実が、イスラエルを守ってくださるのです。そしてイスラエルも心から神さまに従っていくのです。 9月20日(金)ホセア二21~23  神さまはイスラエルに、雨をふらせ、畑を実らせて、こたえてくださいます。裏切りものであり、あわれみを受けることもなく、神さまと関係のない生活をしていたイスラエルが、神の民としてあわれみを受けるものとされるのです。 9月21日(土)ホセア三1〜5 神さまに命じられて、ホセアは奴隷になっていたゴメルを買い戻し、他の男性のところに行かせないで、自分の妻としてとどまらせました。イスラエルは国が滅び、外国へ連れて行かれ、神殿も神さまを礼拝する道具も失いました。何もなくなったとき、バアルではなく、目に見えない神さまを信じる心が育ちました。そして神の民としてもう一度イスラエルに集められました。 バビロンに連れて行かれて70年後、エレミヤの預言どおり、ユダヤ人たちはエルサレムに帰ることができました。けれども荒れ果てた町を立て直したり、畑を耕したり、安定した生活をするには時間がかかりました。 9月22日(日)ハガイ一1〜6 神殿も壊されました。そこで新しく立て直そうと土台までは手をつけたのに、生活が大変だったり、邪魔されたりしてくじけてしまい、そのままになっていたのです。すると神さまが預言者ハガイを通して語られました。自分の家も生活も整ったのに、いつになったら神殿を完成させるのかと。 9月23日(月)ハガイ一7〜11 「あなたがたは自分のなすべきことを考えるがよい」と神さまは繰り返し語られました。そもそもユダヤ人がバビロンから帰ってくることのできた理由は、ペルシャ王クロスが、「神殿を再建せよ」と命令したからなのです。それなのにその第一の目的が放っておかれて、「あなたがたは自分の家のことだけに忙しくしている」と言われてしまいました。 9月24日(火)ハガイ一12〜15  預言者ハガイを通して神さまの言葉を聞いた総督ゼルバベル、大祭司ヨシュア、そして人々はみんなはっとさせられました。確かに自分の家のことばかりになっていて、なすべきことを忘れていたのだと思い、神さまに申し訳なく感じました。神さまは「共にいるから」と言われ、みんなの心をふるい動かされました。そこでみんなはさっそく神殿に取り組み始めたのです。 9月25日(水)ハガイ二1〜5 それにしてもかつてソロモンが建てた神殿の立派さと壮大さを知っているなら、今建てられた神殿はあまりにもみすぼらしかったのです。昔を知っている人にはとっては満足できるものではありませんでした。でも神さまは言われました。「勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいる」と。何も心配しないで神殿を建て続けるように人々を励まされました。 9月26日(木)ホセア二6〜9  神さまは神さまの方法で、この神殿を宝と神さまの栄光でいっぱいにすると言われました。それは前の神殿よりももっと神さまのすばらしさで満ちるという約束でした。 9月27日(金)ホセア二10~19  神さまはさらに「あなたがたが神殿の建て直しに取り掛かる前は、やる気のなさや罪深さが、礼拝もささげものもお祈りも作物も汚れたものにしてしまっていた。しかしあなたがたはわたしに従って変わった。今日からわたしはあなた方を祝福しよう」と言われました。 9月28日(土)ホセア三1〜5 セルバベルは、救い主はこのような人なのではと思わせる、神さまに選ばれた人でした。神さまの印章のようにされた人でした。 最後の審判とか、世界が滅びて新しい世界がくるとか、聞くとこわいと思うかもしれません。でもどんなに厳しい裁きの言葉があっても、その前には悔い改めと救いの道があります。イエスさまを信じて歩む道は救いの道です、 9月29日(日)マラキ四1 預言者はいつも人々に悔い改めるよう語ってきました。しかしそうできない人もたくさんいました。なかなか私たちの心は固くて強情なのです。だから裁きの炉に投げ込まれても仕方のないようなものです。でも火に投げ込まれ、焼き尽くされることはとても恐ろしいことです。でも忘れてならないのは、神さまは私たちが滅びないで救われてほしいと思っておられることです。 9月30日(月)マラキ四2 救われる道は主の名をおそれることです。おそれるとは、こわがることではなく、神さまを自分の心の王様として信じ、いつも見上げることです。義の太陽である神さまの祝福が信じる私たちを照らしてくださいます。ゆるされないで裁かれても仕方のない私たちをゆるして愛してくださっています。だからその喜びは踊らずにはいられないほどです。 10月1日(火)マラキ四3  ゆるされた私たちは、私たちを罪にくるしめ、神さまから引き離そうとする悪の力をふみつけさせてくださいます。 10月2日(水)マラキ四4 ゆるしをいただいた私たちの生活で大事なことは神さまの言葉を聞いて従っていくことです。 10月3日(木)マラキ四5〜6  神さまはこの世界が終わる前に、エリヤをもう一度送ると言われました。エリヤは親と子の関係を平和にするために来るのです。そしてまた人々を神さまへ結びつける働きをするのです。 10月4日(金)ルカ一17  この御言葉は、バプテスマのヨハネが生まれる前に、天使が父ザカリヤに現れて語った言葉の一部分です。「父の心を子に向けさせ」という言葉はマラキ四6出てくる言葉です。バプテスマのヨハネはマラキが預言していた人なのです。天使の言葉に戸惑いおそれるばかりのザカリヤでした。なにせ妻も自分も年老いていて、とても子どもを産めるとは考えられなかったからです。でも確かにヨハネは誕生し、成長して神さまの働き人になりました。 10月5日(土)ヨハネ一29〜34  バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを述べ伝えましたが、同時にイエスさまが特別なお方であることを人々に伝えました。「世の罪を取り除く神の子羊」と彼が宣伝したので、12弟子の一人となったヨハネはイエスさまに従ったのでした。そしてイエスさまは確かに私たちの罪を取り除く子羊として、十字架で死んでくださり、よみがえられました。