新年度が始まりました。入学したみなさん、学年があがったみなさん、おめでとうございます。ところで、裏切ったり、裏切られたりしたことはありますか。約束を破って秘密をばらしてしまったり、助けてくれると思ったら、無視されたり。どちらも悲しいですね。 4月7日(日)マタ二十六47 裏切り者のユダが大勢の人々とやってきました。彼らは剣と棒を持ってイエスさまを捕まえに来ました。イエスさまが暴れたり逃げたりしないためでしょう。まるでこわい悪者を捕まえようとするかのようでした。 4月8日(月)マタ二十六48〜49 ユダはイエスさまに挨拶のキスをしました。それはその人を捕まえろという合図でした。ユダの「先生、いかがですか」は、「先生、喜びがありますように」という意味があるそうです。でもイエスさまにとっては喜べない、寂しい挨拶のキスでした。ユダは自分がどんなに悲しく後悔をするようなことをしているのかまだ気づきませんでした。 4月9日(火)マタ二十六50  友だちに裏切られたと思ったら、仲良くするのは難しくなります。でもイエスさまは何もかもわかっていて、ユダのことを「友よ」と呼ばれました。裏切り者のユダをそれでもイエスさまは友と呼び、彼を愛することをやめることはありませんでした。 4月10日(水)マタ二十六51 イエスさまを守りたい、なんとかしてイエスさまの逮捕を止めなければと思ったのかもしれません。1人の弟子が剣を抜いて、捕まえに来た人に切りかかりました。でも片耳を切り落としても、逮捕を止めることはできませんでした。 4月11日(木)マタ二十六52 こわさのあまり、たたいたり強い武器で相手をやっつけようとしたりしたくなります。強い武器や強い力があれば大丈夫に思えます。でも力や武器で勝っても、相手はさらにもっと強い力で仕返しをしてくるかもしれません。だれにとっても本当の救いにはなりません。だからイエスさまは、人々のされるままになり、ご自分の命を差し出されました。 4月12日(金)マタ二十三53〜54 イエスさまは神の子です。神の子に従う12軍団の天使たちに命令すれば、だれもイエスさまにさからえなくなります。でもイエスさまは力のない弱い人のようになり、自分を守りませんでした。それが、神さまがいいと思われる道だからです。 4月13日(土)マタ二十六55〜56  イエスさまを逮捕するのに、剣や棒はいりません。イエスさまは自分を守るために戦ったり、逃げたり隠れたりもしないのですから。けれども弟子たちは、みんなイエスさまを見捨てて逃げてしまいました。こわくてたまらなかったのです。イエスさまは1人で苦しみの道を歩きだしました。  十字架は死ぬまで時間がかかり、とても長い苦しみが続くそうです。想像するだけで、だれもが嫌に思いますし、こわい罰です。イエスさまはその苦しみをじっと耐えてくださいました。 4月14日(日)マタ二十七45 イエスさまが十字架で苦しんでおられる間にあたりが暗くなりました。イエスさまの十字架が、イエスさまの人気をねたんだ人たちの仕組んだことでしたが、神さまの計画でもあったからです。神の子が神さまからの裁きを受けて死ぬという考えられないことが起ころうとしていたからです。 4月15日(月)マタ二十七46 裁かれるというのは、「あなたは悪い」とされて罰を受けることです。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とイエスさまは叫ばれました。イエスさまは私たちのために、ごめんなさいと言ってもゆるしてもらえなかったのです。「お前はもうだめだ」と見捨てられてしまったのです。それはどんな罰よりもおそろしいことです。 4月16日(火)マタ二十七47〜50  イエスさまの叫びを聞いてエリヤに助けを求めていると思った人々がいました。そのうちの1人が苦しみをやわらげる酸いぶどう酒を差し出した人を止めました。何か大きな奇跡が起こるかもしれないと思ったからです。しかし十字架からイエスさまを救う奇跡は起こりませんでした。イエスさまは本当に死んでしまいました。 4月17日(水)マタ二十七51 イエスさまが死なれてから奇跡が起きました。神殿の幕が上から下に裂けたのです。人が裂くなら、下から上にしか裂けません。上から下に裂けたのは、神さまがされたのです。それは神さまと人の間にある壁がなくなったということでした。地震が起こり、岩が裂けました。イエスさまの死がただの人の死ではないことを人にわかるように神さまがされたのです。 4月18日(木)マタ二十七52〜53 さらには死んでいた人々が生き返えりました。死がイエスさまによって打ち負かされて、よみがえることができる希望に変わりました。イエスさまが十字架で死なない奇跡ではなく、死んだ後に次々と奇跡が起こったのです。 4月19日(金)マタ二十七54 イエスさまの死ぬ様子と死んだあとのことを見ていた百卒長と、一緒にいた兵隊たちは、とてもおそれを感じました。そして「本当にこの人は神の子だった!」と信じたのです。イエスさまが死んだのは、神さまがしたことだったと感じました。 4月20日(土)マタ二十七55〜56  女の弟子たちは、逃げないで遠くからイエスさまが死なれるのを見ていました。胸がはりさけそうで辛かったでしょう。でもイエスさまの「よみがえる」という言葉はだれからも忘れられていました。  イースターおめでとうございます。イエスさまがよみがえられたことがどうしてうれしいのでしょう。私たちは死にますが、いつか新しい世界でよみがえって生きるからです。生きている今は、もうだめだということがあっても、イエスさまがそこから立ち上がらせてくださるからです。 4月21日(日)マタ二十八1〜4 イエスさまが十字架で死んで三日目の朝、不思議なことが起こりました。天使がお墓の入り口をふさぐ石を動かしたのです。お墓に来た女の人たちも、お墓の番兵も、それを見てびっくりしました。番兵は死人のようになったほどです。でも女の人たちにとっては、さらにびっくりでうれしくてたまらない出来事が起こっていました。 4月22日(月)マタ二十八5〜6 天使はすばらしいことを教えてくれました。「イエスはもうここにはおられないよ。よみがえって生きておられるよ」お墓の中にはもう死んだイエスさまの体はありません。生きておられるからです。 4月23日(火)マタ二十八7〜8  ではよみがえったイエスさまはどこにおられるのでしょう。イエスさまはガリラヤで待っている、イエスさまに会える、そう天使に言われて、ペテロたちに知らせに女の人たちは走り出しました。 4月24日(水)マタ二十八9〜10 走っていくと、イエスさまが目の前に立っていました。イエスさまの「平安があるように」という挨拶は、女の人たちの心を元気にしました。「ガリラヤで会おう。ガリラヤで待ってるからと、みんなに伝えなさい」イエスさまは確かに生きておられました。 4月25日(木)マタ二十八11〜15 お墓の番をしていた人たちも祭司長たちに報告しました。でも祭司長たちは、イエスさまがよみがえったことをみんなが信じないように、うそのうわさを流させました。うそのうわさは広まって、それを信じる人もいました。こうしてイエスさまがよみがえっても、イエスさまに反対する人たちは、イエスさまを信じませんでした。 4月26日(金)マタ二十八16〜17 弟子たちはついにガリラヤでイエスさまに会えました。でもイエスさまに会うまでは、よみがえられたことを信じない人もいました。よみがえることは普通ありません。だから今もはじめて聞いたときは信じられない人もいます。でもイエスさまが死からよみがえったから、私たちに救いがあるのです。 4月27日(土)マタ二十八18〜20  「すべての人にイエスさまを伝えて、イエスさまの弟子にしなさい」という命令に従った人々のおかげで、今の私たちもイエスさま信じることができました。だから私たちも誰かに伝えていくのです。イエスさまが共にいるので、勇気と力を与えて助けてくださいます。  弟子たちとイエスさまが、地上では本当に分かれる時がやってきました。天にお帰りになるからです。 4月28日(日)使徒一1〜2 医者だったルカは、ルカによる福音書に続いて使徒行伝を書きました。ルカによる福音書が「第1巻」で、イエスさまことが書かれています。そして使徒行伝は、聖霊を受けた弟子たちの活動が書かれています。迫害されて苦しめられたり、いろいろな問題があったりしりますが、聖霊に助けられて乗り越え、教会が誕生していくことが書かれています。 4月29日(月)使徒一3 イエスさまは地上にいる最後まで神の国について話されました。イエスさまが話す神の国は不思議なことがいっぱいです。今当たり前のことがほとんどあたりまえではないからです。だから弟子たちが本当に神の国のことをよくわかるには、聖霊の助けが必要でした。 4月30日(火)使徒一4〜5 イエスさまが言われた聖霊のバプテスマというのは、イエスさまのことを伝えていく力をいただくことです。イエスさまがいなくなっても、イエスさまの代わりに来られる聖霊が弟子たちにいろいろなことを教えてくれます。励ましてくれます。そして進む方向を示してくれるのです。 5月1日(水)使徒一6 弟子たちはずっとイスラエルがローマ帝国から出て、イスラエルという一つの国になることを待っていました。だからいよいよその時が来たと思ったのです。そして他の国々からも注目されるほど栄えて、神に選ばれたイスラエルの立派さが世界に知られていくにちがいないと思っていました。 5月2日(木)使徒一7〜8 イエスさまはそのことは神さま以外にはわからないことだと言われました。ただ聖霊がくだる時には、弟子たちがみんな力をいただいて、地の果てにまでイエスさまが救い主だと伝えにいくようになると言われました。神の国は戦って国を広げていくのではなく、人々に伝えて広がっていく国なのです。 5月3日(金)使徒一9〜11 復活されたイエスさまがついに弟子たちの見ている前で天にあげられて、いなくなってしまいました。すると天使があらわれて、彼らを励ましました。「イエスさまはまたおいでになる」と。寂しさや不安がいっぱいでしたが、またイエスさまに会えるという希望に元気が出ました。その希望は今の私たちにまで続いています。 5月4日(土)使徒一12〜14  その日から弟子たちはみんなで1つの家に集まって、聖霊を待ち望んで、心を合わせてお祈りをしました。男の人も女の人もいました。イエスさまのお母さんのマリヤもいましたし、以前イエスさまの活動に反対していたイエスさまの兄弟たちも今は仲間になっていました。    聖霊は話す人を助けるだけでなく、御言葉を聞く人の心も開いて、イエスさまのことをわからせてくださいます。 5月5日(日)使徒二1〜4 約束の聖霊が、集まって一緒にお祈りして待っていた弟子たち一人ひとりに注がれました。特別なだれかや選ばれた人だけに注がれたのではありません。イエスさまの言葉を信じて、祈って待っていたみんなが聖霊を受けました。 5月6日(月)使徒二5〜13 聖霊を受けた弟子たちはみんないろいろな外国語でイエスさまのことを話しはじめました。弟子たちのいた家に起こったものすごい物音を聞いて大勢の人たちが集まりました。彼らは外国で生まれ育ったユダヤ人たちでした。みんなが驚いたのは、どの人も自分の生まれ育った国の言葉でイエスさまのことを聞くことができたことでした。 5月7日(火)使徒二14〜21 どうしてガリラヤの人たちが習ったことのない外国語が話せるのだろう?お酒に酔っているだけじゃない?不思議に思ったり、ばかにしたりする人たちに対してペテロは語りかけました。「これはヨエルの預言が実現したのです。若者も老人も、男でも女でも、神さまの霊が注がれて、神さまの救いを話しているのです」。 5月8日(水)使徒二22〜28 神さまの救いというのはイエスさまのことです。ナザレのイエスさまは十字架で死なれましたが、神さまによってよみがえらされました。イエスさまは死んだままではありませんでした。それはダビデも詩篇で言っています。そのとおりのことがイエスさまに起こりました。 5月9日(木)使徒二29〜34 ダビデはイスラエルの2代目の王ですが、神さまの約束の言葉を信じて、詩篇で先に起こることを預言しました。イエスさまが死んだままでもなく、何もかもなくなってしまうこともなく、よみがえることを知っていたのです。そしてそのとおり神さまによってイエスさまはよみがえらされました。 5月10日(金)使徒二33〜35 よみがえられ、さらには天にあげられたイエスさまは、くださると約束されていた聖霊を、こうして弟子たちに注がれました。それを集まった人たちが見ているのでした。弟子たちが聖霊によって外国語で語るのを聞いているのでした。ペテロははっきりと言いました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神はキリストとされました」。 5月11日(土)使徒二36〜42  ペテロの話を聞いていた多くの人は、「自分たちはこのままではいけないのだ」と心がずきずきと痛みました。でもゆるされるし、救われると言われました。罪を悔い改めて、イエスさまを救い主として信じればいいのです。こうしてイエスさまを信じる教会が誕生しました。  だれかにおどされたことはありますか。本当は悪いことだからやりたくないのに、自分より強い人に「やれ」と言われて、やらないと「いじめる」とか「秘密をばらす」なんて言われたりすることです。おどしに負けない心がほしいですね。 5月12日(日)使徒四1〜4 ペテロとヨハネはイエスさまのお名前で歩けない人を歩けるようにしました。どうしてそんなことができるのか?みんながその力の秘密を知りたがりました。「十字架で死んでよみがえった救い主イエスさまが、その人を歩けるようにした」それが二人の答えでした。でも、それを気に入らなかったユダヤ人リーダーたちに二人は逮捕されてしまいました。 5月13日(月)使徒四5〜10 逮捕された二人は、ユダヤ人リーダーたちの前に出されて説明することになりました。「歩けなかったこの人が歩けるようになったのは、あなたがたが十字架につけて殺したイエスさまによってです。イエスさまは神さまによってよみがえらせられて、今も生きておられるからです」。ペテロは聖霊の力に満たされて、恐れることなく話しました。 5月14日(火)使徒四11〜12 「家を建てる人が、ある石を、他の石とは違うから捨ててしまった。ところが実はその石が建物全体を支える大事な石だった」という聖書の言葉は、イエスさまのことです。あなたたちが、邪魔だ、いらないと、十字架に捨てたイエスさまを、神さまは救い主としてよみがえらせたのです。 5月15日(水)使徒四13〜14 ペテロが立派に聖書の言葉を話すのを聞いていた人たちは、みんな驚きました。なぜなら、ペテロもヨハネも教えるための勉強をしていなかったからです。それが聖霊の力であることがわかりませんでした。リーダーたちはペテロたちに言い返したり、言い負かしたりする言葉がありませんでした。 5月16日(木)使徒四15〜18 ユダヤ人リーダーたちは、二人をおどすことにしました。「これ以上イエスのことを言い広めたら、お前たちを罰する」。強くおどせば自分たちの言いなりにさせられると思ったのです。反対に、おどすしか方法が思いつかないほど、ペテロたちの力と話す言葉に負けていました。 5月17日(金)使徒四19〜22 「私たちは神さまに聞き従います。だからおどされても、イエスさまが救い主だと伝えないわけにはきません」。聖霊に強められた二人はおどしに負けませんでした。 5月18日(土)使徒四23〜31  大変なめにあったら、きっと私たちはお祈りするでしょう。ペテロたちと教会の仲間もお祈りをしました。私たちの心を弱くするいろいろなことがありますが、イエスさまに頼る私たちを聖霊が助けてくださいます。 ステパノは、律法や神殿をもういらないもののように言ったと逮捕されてしまいました。けれどもステパノは裁判で自分を守るのではなく、ユダヤ人たちに「あなたがたは律法を守ることをしなかった」と厳しく語りました。 5月19日(日)使徒七51〜53 「強情」や「心にも耳にも割礼のない」というのは、「頑固」、「意地っ張り」ということです。ステパノは、ユダヤ人のリーダーたちのことをそう厳しく呼びました。どんな時に頑固になったり意地を張ったりしますか。自分は間違っていないと思っていて、それを押し通したい時です。そして意地を張っていると人の言うことを素直にきけないものです。 5月20日(月)使徒七51〜53 頑固だけではありません。人殺しとまで言われたら、怒りで爆発しそうです。でも確かに旧約聖書の時代、預言者が人々に都合の悪い神さまからの言葉を語ると、預言者をいじめたり殺したりしました。そしてユダヤ人リーダーたちも、救い主として来られたイエスさまを十字架で殺したのです。だから人殺しだと言ったのです。 5月21日(火)使徒七51〜54 律法には「殺してはならない」とあるのに、ユダヤ人リーダーたちが律法を守っていないではないか。そうステパノが強く厳しくユダヤ人リーダーたちを追い込んでいきました。そしてついに聞いていた人々の怒りが爆発したのです。 5月22日(水)使徒七54〜56 みんなは怒りで歯ぎしりをし、今にもステパノに向かって来そうでした。それなのに、ステパノは聖霊に満たされて、天を見上げていました。そしてイエスさまが神さまの右に立っているのを見たのです。ステパノには恐れや不安はありませんでした。イエスさまが自分を見ていて、自分を迎えようと立ち上がってくださっていることがわかったからです。 5月23日(木)使徒七57〜58 人々はいっせいにステパノを襲いました。そして町の外に引き出して石打ちの刑で殺そうとしました。その場所にサウロがいました。人々の上着の番をしていたのです。サウロはステパノが間違っていると思っていましたが、この時、一生忘れられないステパノの祈りの姿をみることになりました。 5月24日(金)使徒七59 人々から石をなげつけられている間、ステパノはずっとお祈りをしていました。「主よ、わたしの霊をお受けください」。これから死ぬ自分のすべてを神さまにおまかせするお祈りでした。 5月25日(土)使徒七60  ステパノは最後ひざまずいて大声で祈りを叫びました。「この罪を彼らに負わせないでください」。ステパノの2つのお祈りは、イエスさまの十字架のお祈りと同じでした。みんなにイエスさまによって救われてほしいことが最後までの願いでした。 ある人が昨日まで反対していたのに、今日からは仲間に変わっていたらだれでもびっくりします。最初はちょっと信じられなくてあやしいと疑うかもしれません。でもそういうことがサウロに起こりました。 5月26日(日)使徒九1〜2 サウロはイエスさまを信じる人たちを敵と思っていました。だからイスラエルに住むクリスチャンだけでなく、外国ダマスコに住むクリスチャンでも、とにかく逮捕しようと意気込んでいました。サウロは絶対にイエスも、クリスチャンも間違っているし、神さまに背いている悪いやつらだと思っていました。 5月27日(月)使徒九3〜9 ところが間違っていたのは、自分だったのです。ダマスコにつく前に、生きておられるイエスさまが直接サウロに現れました。あんなに反対していたイエスさまは真実なお方でした。自分の罪に打ちのめされ、ダマスコで三日間目の見えない暗闇の中で祈り続けました。 5月28日(火)使徒九10〜16 アナニヤは主の命令にすぐに「はい」とは言えませんでした。なにしろサウロはキリストを信じる者たちを滅ぼすことを全力でやっている人です。でも神さまは反対者サウロをイエスさまのことを伝える人に選ばれたと言われました。敵を選ばれるとは不思議です。でもそれが神さまのすばらしい計画なのです。 5月29日(水)使徒九17〜19 アナニヤは神さまに従いました。サウロのためにお祈りすると、サウロの目からウロコのようなものが落ちて、彼は見えるようになりました。サウロは悔い改めて洗礼を受けました。キリストの敵から味方に生まれ変わりました。 5月30日(木)使徒九20〜22 サウロは本物を知ったらとことんやる人です。いままでもそうでした。だから今度はイエスさまこそ神の子だと、どんどん伝えていきました。サウロを知る人はみんなびっくりです。昨日までとは全く反対の生き方をしているからです。 5月31日(金)使徒九23〜25 サウロ1人がクリスチャンの迫害をやめても、迫害はなくなりません。当然サウロがイエスさまを伝える人になれば、今度はサウロの命がねらわれるようになりました。けれども、彼は助けられてダマスコから脱出できました。 6月31日(土)使徒九26〜31  サウロはエルサレムでは最初イエスさまを信じたことを、信じてもらえませんでした。疑われても仕方ありません。ちょっと前までは、クリスチャンをひどい目に合わせてきた人でしたから。でもバルナバはサウロを信じて仲間に入れる手助けをしてくれました。私たちの目には、イエスさまを信じるのが難しく見える人がたくさんいます。でもサウロのようにどんなに難しくてもイエスさまは救うお方です。  信じてお祈りしていてもきかれないことがあります。でも私たちは、神さまが一番良いことをしてくださると信じて祈り続けます。私の願うこたえが一番良いとはかぎりませんが、神さまがこたえてくださる方法やこたえは、たとえその時にはわからなくても一番良いことだからです。 6月2日(日)使徒十二1〜5 使徒ヤコブが殺されてしまいました。それだけでなく、教会のリーダーのペテロまでもがヘロデに逮捕されてしまいました。教会ではペテロのために一生懸命お祈りをしました。「神さま、ペテロを助けてください」。「神さま、ペテロが神さまを裏切らないで耐えることができますように」。そんなお祈りがささげられていたのではないでしょうか。 6月3日(月)使徒十二6〜11 神さまは天使を遣わして、ペテロを助けてくださいました。ペテロは寝ぼけて頭がぼーっとしていたようです。天使がいなくなってから、頭がはっきりして、自分が神さまによって確かに救われたことに気づきました。教会のみんなの祈りが聞かれました。 6月4日(火)使徒十二12〜15 祈っていた教会の人々は、ロダの言葉を信じませんでした。「ロダは何をおかしなことを言っているのか」と。ヤコブが殺されたから、もうペテロも助からないだろうという思いが強く心をいっぱいにしていたのでしょう。確かに、天使の助けがなければ、ペテロは助からなかったと思えるほど厳しかったのです。 6月5日(水)使徒十二16〜17 門をたたき続ける音にやっと、開けてみると確かにそこにペテロが立っていました。そこでみんな驚いてしまいました。うれしいやら不思議やら大騒ぎになって、ペテロはみんなに説明するのが大変でした。 6月6日(木)使徒十二18〜19 夜が明けてペテロがいなくなっていた牢獄も大変な騒ぎになりました。あんなに厳重なところから、鎖でしばられ、兵隊の見張りもあり、どこもかしこも鍵がかけられていたのに、どうやって逃げ出せたのかとみんな不思議でたまりません。神さまの力を知らないヘロデは結局番兵のせいにして殺してしまいました。 6月7日(金)使徒十二20〜23 ヘロデはカイザリヤで思いがけなく死ぬことになりました。機嫌を取ろうとした人々から神さまだと言われ、虫にかまれて死んだのです。虫にかまれて死ぬことはとても恥ずかしいものと思われていました。高慢なヘロデを打ち砕く天使による一撃でした。 6月8日(土)使徒十二24  教会は反対され、時には命の危険にいつもおびやかされていましたが、それでも苦しいことが御言葉の力をとどめることはありませんでした。むしろ、イエスさまを信じる人が増えていきました。  今日はペンテコステです。聖霊が弟子たちに注がれて教会が誕生した日です。その後も聖霊はいつも働いておられました。エルサレムの教会が迫害を受けたときも、散らされた人々が聖霊に用いられて、行った町々で伝道し、アンテオケにも教会が誕生しました。 6月9日(日)使徒十三1 アンテオケ教会は、バルナバがパウロと一緒に教えていた教会です。彼らの他に「黒い」という意味のニゲルと呼ばれたアフリカ出身のシメオン、アフリカの町クレネ人のルキオ、そして宮廷で育ったマナエンなどがいて、彼らも預言者や先生をしていました。いろいろな人が教会にいました。 6月10日(月)使徒十三2〜3 彼らが礼拝をし、断食をしていると、聖霊に「バルナバとサウロを他の町々で宣べ伝えるために送り出しなさい」と言われました。二人は教会の大事なリーダーでしたが、聖霊の言葉に従って祈って二人を送り出しました。 6月11日(火)使徒十三4〜5 二人はマルコというバルナバの親戚を助手として一緒に連れていいきました。そしてバルナバのふるさとの島クプロにやってきました。ユダヤ教の礼拝堂に入ってまずは、ユダヤ人たちにイエスさまが救い主だと伝えていきました。 6月12日(水)使徒十三6 彼らは島を巡っていて、ユダヤ人の魔術師であり、偽預言者のバルイエスと出会いました。クプロという島は、いろいろな外国の文化がまざりあったところで、いろいろな神さまが信じられていました。また魔術師も多いところだったのです。この時代は、魔術師は総督や宮廷などで雇われて、総督や王さまにいろいろ助言をする働きをしていました。 6月13日(木)使徒十三7〜8 総督が熱心に二人の話を聞いている様子を見て、魔術師バルイエス、またの名をエルマは、とても心配になりました。素直な心の総督がイエスを救い主と信じてしまっては困るのです。自分をもう頼って来なくなるかもしれません。そうなると仕事がなくなってしまいます。そこで総督が信じないように邪魔をしたのです。 6月14日(金)使徒十三9〜11 ところが聖霊の力を受けたサウロに強く叱られて、目が見えなくなってしまいました。おまけにエルマが神の道を曲げる、偽物の預言者であることもあばかれてしまいました。目が見えないエルマは、しばらくの間は一人では歩けない無力な人になりました。サウロもイエスさまと出会った時目が見えなくされました。それを思い出して、エルマにも悔い改めるチャンスになること願ったのかもしれません。 6月15日(土)使徒十三12  総督はこれをみてびっくりしました。魔術とは違う、本当の神さまの力を知りました。そしてイエスさまを救い主として信じました。  外国の町で伝道がうまくいくと、ユダヤ人たちは妬むようになっていきました。そしてパウロたちは彼らの迫害を受けるようになっていきます。そこでパウロたちは外国人へイエスさまを伝えて行くよう導かれていきました。 6月16日(日)使徒十三13~15 バルナバの親戚ヨハネは、あまりに旅が大変だったのか、途中でエルサレムに帰ってしまいました。それでも二人は旅を続けて、ピシデヤにあるアンテオケという町にやってきました。そしていつものようにまずはユダヤ人の礼拝堂に入って礼拝をささげました。 6月17日(月)使徒十三16〜22 そこでパウロは、イスラエルの始まりから、イスラエル王国の2代目の王ダビデまでを振り返って話しました。そのダビデは神さまから大きな約束をいただいていました。それはダビデの子孫から救い主が生まれることでした。 6月18日(火)使徒十三23〜25 救い主が来られる前に、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを伝えて、救い主を迎える準備をしました。そして確かに救いイエスさまがダビデの子孫から生まれました。 6月19日(水)使徒十三26〜37 ところがユダヤ人リーダーたちからイエスさまは救い主として認められませでした。そして罪もないのに十字架で殺されました。しかし神はイエスさまを死人の中からよみがえらせました。弟子たちはよみがえったイエスさまの証人です。このことは、神さまがイスラエルの先祖にした約束が、本当になったことを宣べ伝えているのです。 6月20日(木)使徒十三38〜41 イエスさまによる罪のゆるしを今私たちは伝えています。律法を一生懸命行おうとどんなに努力しても、完全にできる人はいません。だから自分で自分のことを神さまの前に正しくできないのです。けれども今はもうイエスさまを信じる人はだれでももれなく、神さまの前に正しいと言っていただけるのです。 6月21日(金)使徒十三42〜43 このイエスさまの救いの話を聞いた人たちはみんな来週も聞きたいとパウロとバルナバにお願いしてきました。また聞きたいし、他の人にも聞かせたいほどの心がうれしくなる言葉でした。人々はいつまでも二人についてきて神さまの恵みの言葉を聞きました。 6月22日(土)使徒十三44〜52  次の安息日町中の人が神さまの言葉を聞きに集まりました。ところがそれを見てねたんだユダヤ人が、パウロの話をののしって反対しました。反対するユダヤ人に対して、外国人たちは救いの言葉を喜んで受け入れました。だからパウロは言いました。「わたしたちは異邦人の方へいく」。迫害があっても、二人がいなくても、信じた人々には聖霊が共にいて、喜びは消えることはありませんでした。  人は奇跡を見たら、神さまを信じやすいだろうにと思います。でも治した人に力を与えた神さまを知らない人は、治した人を神さまだと思ってしまうこともあるのです。 6月23日(日)使徒十四8〜10 生まれたときから歩けない人がパウロの話を聞いていました。聞いているうちにイエスさまを信じたのです。するとパウロの「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」という言葉が聞こえました。言われるままに立つと歩けたのです。神さまがいやしてくださいました。 6月24日(月)使徒十四11〜13 これを見たルステラの町の人たちは、「パウロはすごい、神さまだ、バルナバもきっと神さまだ」と言い出しました。天地を造られた神さまを知らなかったので、不思議な力を持つ人を神さまだと思って、拝もうとしたのです。 6月25日(火)使徒十四14〜15 自分たちが神さまにされてしまっては大変です。二人は「私たちは神さまではありません。あなたがたと同じ人間です」と言ってみんなを止めようとしました。神さまのすばらしさを知ってもらうための奇跡の力なのに、自分たちを神さまだと思われてしまっては困ってしまいます。 6月26日(水)使徒十四16〜18 パウロとバルナバは言いました。「私たちの信じている神さまは目には見えません。でも私たちが野菜や果物を作って食べられるのは、神さまが雨をふらせて成長させてくださるからです。神さまは、私たちに必要なものを用意してくださって、生きていけるようにしてくださっているのです」。こうして自分たちが神さまではないことをやっとわかってもらえました。 6月27日(木)使徒十四19〜20 もっと大変なことが起こりました。パウロが、彼をねたむユダヤ人たちにたくさん石を投げつけられて殺されそうになったのです。でもパウロは死にませんでした。こんな怖いことがあっても、パウロはイエスさまを伝えることをやめませんでした。自分が死ななかったのは、イエスさまを伝えるためだと心が熱く燃えていたからです。聖霊が共にいて励ましてくれたからです。 6月28日(金)使徒十四21〜23 「イエスさまを信じていても、悩みや辛いこと、大変なことはこれからもある。でもそれをイエスさまは乗り越えさせてくださるから信じ続けよう。そして天国でイエスさまにお会いしよう」。二人はそう言って、教会のみんなを励ましました。そして神さまが教会の一人ひとりを支えてくださると信じて、おまかせしました。 6月29日(土)ヨハネ十六33  苦しみや悩みなんてない方がいいのです。でも残念ながらだれにでもあります。だからどんな悩みや苦しみにも勝ったイエスさまが私たちを助けてくださいます。 イエスさまを信じたら救われて神の子とされます。それはどんな人でもです。でもそれだけで本当にいいのかな?もっと何か良いことをしなくていいのかな?いいえ。いいのです。罪をごめんなさいと悔い改めて、イエスさまを信じるだけでいいのです。 6月30日(日)使徒十五1〜2 ある人たちがやってきて、パウロとバルナバのいる教会の人々に言いました。「救われるためにはイエスさまを信じるだけでは足りないよ。割礼を受けないといけないよ」。パウロとバルナバは反対しました。「そんなはずはない。それではエルサレムに行って、ペテロたちに聞いてみよう」。 7月1日(月)使徒十五3〜5 エルサレムの教会でも、やはりある人々が言い出しました。「外国人はユダヤ人と同じように割礼を受けて、律法を守らないとだめだよ。救われないよ」。信じるだけではだめ、あれもこれもしないと。私たちも、時々そんなふうに思っていることがあるかもしれません。 7月2日(火)使徒十五6〜11 激しい話し合いのあと、ペテロが言いました。「あれを守らなければだめだ。この律法をそのとおりに行わないといけない。そう言われてきたけれど、だれも完璧にはできませんでした。自分たちができないのに、イエスさまを信じた外国人もしないと救われないというのは、おかしなことです。ユダヤ人も外国人も、私たちみんなが信じて救われるのは、ただイエスさまの恵み、プレゼントなのです」。 7月3日(水)使徒十五12 ペテロの言葉を聞いてみんなはしーんとなりました。ペテロの言うとおりだと思ったからです。「外国の町々でも、みんなイエスさまを信じて救われて聖霊をいただきました。いろいろな町に教会が生まれました」。パウロとバルナバが話す報告を聞いて、さらに信じるだけで救われることがわかりました。 7月4日(木)使徒十五13〜21 「神さまはユダヤ人や外国人の区別なく、信じるだけで救ってくださることがよくわかりました。律法や割礼はいりません」。イエスさまの兄弟ヤコブも言いました。 7月5日(金)使徒十五22〜29 会議で決まったことを伝えるために手紙が書かれました。ユダヤ人には食べてよいものと、食べてはいけないものとが決まっていました。だからユダヤ人とそうでない人たちがうまく一緒に食事ができるための約束ごとでした。割礼を受けるようにということはありませんでした。 7月6日(土)使徒十五30〜35  信じるだけではだめだと言われて、どうしようと思っていたアンテオケの教会の人々は、会議で決まったことを聞いてほっとし、喜びました。イエスさまを信じたら救われます。今も変わることはありません。