困った時、私たちは「イエスさま、助けてください」とお祈りすることができます。たとえだれにも相談できなくても、イエスさまにはお祈りできます。そしてイエスさまも私たちを助けてくださいます。 1月7日(日)ヨハネ二1〜3  イスラエルの結婚式では、ぶどう酒は最後まで欠かせません。もしぶどう酒を切らしてしまったら、花婿さんにとってはとても恥ずかしいことです。そんな大ピンチの場に、イエスさまの母マリヤとイエスさまがいました。ピンチを知ったマリヤは、すぐイエスさまに助けを求めました。 1月8日(月)ヨハネ二4〜5  お母さんに対する「婦人よ」という言葉は、冷たい言葉ではなく、女性を尊敬して呼ぶ言い方です。イエスさまは「今は神さまから与えられた働きをする時ではないのですが」と言われました。でもイエスさまはマリヤを突き放した訳ではありませんでした。だからマリヤはしもべたちに、「この方のいう通りにしてね」と言えたのです。 1月9日(火)ヨハネ二6〜8  しもべたちがイエスさまに言われた仕事は、不思議なことばかりでした。水を入れたかめを料理長のところは持って行くこと。でも彼らは何も言わないで言われた通りにしました。すると神さまのすばらしいみわざを体験することになりました。 1月10日(水)ヨハネ二9〜10  水がめのものを味見した料理長が花婿に、「こんないいぶどう酒をとっておいたんだね」と言いました。「おれたちは確かに水を入れただけだよな」。「すげー」。「それも1番いいぶどう酒だって」。しもべたちは言われた通りにしてよかったと思ったでしょう。この秘密を知っているのは彼らだけでした。 1月11日(木)ヨハネ11〜12  弟子たちもイエスさまのなさったことのすばらしさに、イエスさまを救い主だと信じました。この結婚式にイエスさまがいたから、花婿はピンチから救われました。私たちともイエスさまは共にいて、ピンチの時も救ってくださいます。 1月12日(金)ヨハネ二13〜17  イエスさまがムチを振って怒られる姿に驚かされます。でもお金もうけに利用されていた神殿を、本来の姿に戻すためだったのです。私たちも、自分の利益や名誉を得ようと礼拝の場を利用してしまうことがあるかもしれません。もしイエスさまのムチを感じることがあっても、それは私たちを悔い改めに生かす愛のムチです。 1月13日(土)ヨハネ二18〜22  イエスさまは十字架で死なれ、3日目によみがえられました。それが神殿を壊し3日のうちに起こすと言われたことです。神さまの住まいであるまことの神殿はイエスさまだからです。そして信じる私たちもまたイエスさまのおられる神殿とされています。  私たちは、本当に自分が悪くても、「あなたが悪い」と言われたくないものです。それに私が悪者にされたり、罰せられることはとてもこわいので、言い訳をしたり正直になれないことがあります。でもイエスさまは、私たちの代わりに悪者にされて十字架の裁きを受けてくださいました。どうしてそこまでしてくださったのでしょうか。 1月14日(日)ヨハネ三1〜2  ユダヤ人の指導者であったニコデモがイエスさまを夜訪ねてきました。イエスさまとゆっくり話をして、救いの確信をいただきたかったのです。自分は人々から先生と呼ばれているけれども、イエスさまを神から来られた自分よりもずっと力のある先生だと思ったからでした。 1月15日(月)ヨハネ三3〜4  イエスさまは「新しく生まれないといけない」と言われました。するとニコデモは、生まれ直して赤ちゃんからやり直すことだと思ってしまいます。そんなことできっこないと。でも新しく生まれるとは、体ではなく、心のことなのです。 1月16日(火)ヨハネ三5〜8  私たちはお母さんから生まれたままでは罪の中に生きています。けれども聖霊によって生まれ変わると、聖霊によって生きるようにされます。それは神の子とされて、神の子として歩むことです。でもそれなら聖霊によって生まれ変わるためにはどうしたらいいのでしょうか。 1月17日(水)ヨハネ三9〜15  ニコデモは偉い先生でしたが、聖霊によって生まれ変わらせる神さまの力がまだよくわかりませんでした。そこでイエスさまは、十字架にかけられるイエスさまを信じる人は救われ、聖霊によって新しくされるのだと言われました。 1月18日(木)ヨハネ三16  神さまは、私たちを心から愛し、大切に思っておられます。でも私たちはお互いに愛し合うことも、ゆるし合うことも難しくなっています。それは罪のために、私たちには神さまの愛がわからないからです。だから愛がわかように、イエスさまを与えてくださいました。 1月19日(金)ヨハネ三17〜18a  私たちはみんな神さまの前に罪を犯した罪びとです。だから本当なら「あなたが悪い。だからあなたは滅びだ」と罰せられます。それが裁かれることです。でもイエスさまが私たちの裁きを全部十字架で引き受けてくださいました。おかげでイエスさまを信じたら、だれでもどんな罪もゆるされて救われます。 1月20日(土)ヨハネ三18b〜21  「私は悪くない」と自分の罪から目をそらしていると、イエスさまを信じることができません。それどころかイエスさまをうっとうしく思い、十字架につけてしまうのです。だから私たちがイエスさまのもとへ行くためには、神さまの力が、聖霊の助けが必要なのです。  イエスさまと会って話をすると、人が救われます。イエスさまの言葉に力があるからです。だからイエスさまの言葉を聞くって大事ですね。 1月21日(日)ヨハネ四1〜9  人には会いたくなかったので、その女の人は暑いお昼時に水くみにいきました。あいにく井戸のそばに1人の男の人が座っていました。サマリヤ人とは仲の悪いユダヤ人です。それなのにこの人は、サマリヤ人の女の人に「水を飲ませてください」と声をかけてきました。しかしこれがイエスさまによって女の人が変えられる出会いとなりました。 1月22日(月)ヨハネ四10〜15  イエスさまの方から「水をください」と言ったのに、しだいにイエスさまはご自分には命の水があると言われました。その水を飲んだら、かわくことがないし、永遠の命の水がわきあがるとまで言われました。なんてすばらしい水でしょう。「その水をわたしにください」と今度は女の人が頼みました。 1月23日(火)ヨハネ四16〜18  女の人は驚きました。彼女が5回結婚したのに、うまくいかなかったことと、今一緒に住んでいるのは、夫ではないことをイエスさまが言い当てたからです。イエスさまは彼女が人目を避けるように生活していること、そして悩んでいることを知っておられました。 1月24日(水)ヨハネ四19〜26  女の人はこの見知らぬユダヤ人であるイエスさまを、すごい預言者だと思うようになりました。女の人はまた、ユダヤ人だとかサマリヤ人だとかどこで礼拝するかだとか関係なく、誰でもただ心から自分は神さまのものですと礼拝することが本物の礼拝だと、イエスさまに教えてもらいました。さらには、目の前にいるイエスさまこそが待ち望んでいた救い主だと知りました。 1月25日(木)ヨハネ四27〜30   イエスさまが救い主だと知ったとたん、みんなに知らせに町へ行きました。水がめをそのままにすぐに出て行くとは、彼女の心を突き動かすものがあったのです。人と交わりたくなかった女の人は、イエスさまと話をしているうち変えられていました。救い主に出会えたからです。 1月26日(金)ヨハネ四31〜38  イエスさまにとっては、神さまのみこころを行って、神さまの働きをすることは食事のように大事なことでした。それは悩んでいたこの女の人のように、救いを求めている人々と出会い、救いを与えることでした。同じようにイエスさまの救いが必要で、イエスさまを信じる準備ができている人がたくさんいると、イエスさまは言われました。 1月27日(土)ヨハネ四39〜42  女の人が人々にイエスさまを紹介したことは、サマリヤのスカルという町にいた多くの人々の救いとなりました。1人の人の救いは多くの人の救いへとつながっています。  イエスさまの言葉は、さらに人を救っていきます。けれどもイエスさまがすばらしい働きをすることを気に入らない人々もいたのです。 1月28日(日)ヨハネ四46〜47  カナといえば、結婚式でイエスさまが水をぶどう酒に変えたところです。しかし今回は、喜びの場面とは正反対の、大変な病気にかかっている息子のお父さんとの出会いでした。うちに来て、死にそうな息子をどうか助けて欲しいとお父さんはお願いしました。イエスさまが来てくれさえしたら息子は治るに違いないと望みをかけていました。 1月29日(月)ヨハネ四48〜50  お父さんはイエスさまが来てくれなければ息子は助からないと思っていました。でもイエスさまは一緒に行かれず、「お帰りなさい。あなたの息子は助かるのだ」とだけ言われました。するとお父さんは、イエスさまが来てくれなくても、言葉だけで助かることを信じました。 1月30日(火)ヨハネ四51〜54  帰り道に、家のしもべたちに会い、息子が助かったこと、それもイエスさまのお言葉をいただいた時に病気が治ったことを知りました。イエスさまの言葉の力は本物でした。こうして家族みんながイエスさまを救い主と信じました。 1月31日(水)ヨハネ五1〜9a  ベテスダの池いた病気の人の中で、イエスさまは38年間病気に苦しめられ、自分の力では池に素早く降りることのできない人に目を止め、声をかけられました。彼には池に入れてくれる仲間も家族もいませんでした。ところがイエスさまの一言で、その人はいやされて歩き出したのです。 2月1日(木)ヨハネ五9b〜10   男の人はある人々に「今日は安息日だから布団をたたんで、歩いたりする仕事はしてはいけない」と言われてしまいました。彼らは神さまの掟を正しく守って生きている人たちです。でも病気の人が治ってよかったねということができないのは、どんなに立派な生き方をしていても悲しい生き方です。 2月2日(金)ヨハネ五11〜13  彼らは安息日に「床を取り上げて歩け」と言ったイエスさまも、掟を破っていると思い、そんなけしからんことを言った犯人は誰かと尋ねました。何のために神さまの掟を守るのかが、正しくない方向にいってしまうと、病いの人が治って新しく生きられるという出来事のすばらしさも見えなくなってしまいます。 2月3日(土)ヨハネ五15〜18  ユダヤ人たちは、イエスさまが掟を破ったし、神さまを父と呼んで自分を神さまのように言うとは、あなたは悪い人だと責めました。病気の人を一言で立たせることができるなんて、神さま以外にできません。でも彼らは、自分たちの思いとは違うことをするイエスさまを正しく見ることができませんでした。  今週の聖書の箇所は、イエスさまが、兄弟からは理解してもらえず、ユダヤ人の指導者たちからは、逮捕して殺すべきだと思われています。それでも、イエスさまは人々に招きの言葉を叫ばれました。 2月4日(日)ヨハネ七1〜5  イエスさまの兄弟たちは、お祭りを利用して大勢の人の中で奇跡を行うべきだと言いました。もし本当にイエスさまが救い主なら、たくさんの奇跡を行うことで、誰もが認めることになるはずだと。そうは言っても兄弟たちがイエスさまを救い主と信じているわけではありませんでした。 2月5日(月)ヨハネ七6〜9  イエスさまはまことの救い主です。けれども兄弟たちや、また多くのユダヤ人たちが考えている救い主とは違っていました。だからイエスさまは、神さまの時があるから、そのタイミングで私は働くのだと言われました。 2月6日(火)ヨハネ七10〜13  イエスさまは兄弟たちとは別に、目立たないようにしてお祭りへ行かれました。お祭りでは、集まった人々の中に、イエスさまは良い人だとか、世の中をだましている悪いやつだとか、うわさがささやかれていました。多くの人がイエスさまのことを注目していたのです。 2月7日(水)ヨハネ七14〜24  イエスさまはユダヤ人の指導者たちから命をねらわれていました。なぜならイエスさまがすることが気に入らなかったからです。律法を守らなかったとか、神さまに失礼なことを言ったとか、もっともらしい理由をつけていました。でも本当に正しいことより、自分たちの正しさを守りたかったのです。 2月8日(木)ヨハネ七25〜31  イエスさまのなさる奇跡を見て、こんなこと、救い主にしかできない。そう思ってイエスさまを信じた人たちが大勢いました。けれども律法を守って神さまに従っていると思っていた人々は、イエスさまの奇跡によって生かされている人を見ても、喜ぶことができませんでした。 2月9日(金)ヨハネ七32〜36  イエスさまを気に入らない人々は、イエスさまが救い主かもしれないと、期待され注目されていることに、ピリピリしていました。そのためイエスさまを逮捕しようとしました。そしてイエスさまが語る言葉が理解できないとバカにしました。 2月10日(土)ヨハネ七37〜44  お祭りが1番盛り上がるのは、祭司たちがシロアムの池で水を汲む儀式です。これはイスラエルの民が荒野の生活でも神さまによって湧いた水をいただいて生かされたことを思い起こす儀式です  そして今度はイエスさまが、救い主として命の水を与えようと人々を招かれました。かつてイスラエルの民が荒野で生かされたように、イエスさまを信じる歩みには聖霊による命の水があふ出すのです。  人がやった悪いことについては、私たちは厳しく言ってしまいがちです。まるで自分はそこまで悪いことはしたことがないみたいに。 2月11日(日)ヨハネ八1〜6  パリサイ人、律法学者たちの問いは意地悪問題でした。もしイエスさまが律法で決められている通りに、その女の人を石で打って死刑にしなさいと言ったら、いつもゆるしを教えているのに違うことをすることになります。でもゆるしなさいと答えたら、律法を破った悪い人だと言われてしまいます。どちらを答えてもイエスさまの立場を困らせることができるのです。 2月12日(月)ヨハネ八7〜8  パリサイ人、律法学者たちは、イエスさまがなかなか答えないので、どんなに困っていることかと心の中で思い、自分たちの策略はうまくいくと考えていたでしょう。ところがついにでた答えは思いがけない言葉でした。「罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 2月13日(火)ヨハネ八9  私には罪がありませんと言える人はだれもいませんでした。それも長く生きている人ほど、自分には罪があることを知っていました。だからだれも石を投げることはできなかったし、その場に残る人もいませんでした。イエスさまを困らせたかったのに、反対に自分の姿を見させられることになってしまいました。 2月14日(水)ヨハネ八10〜11  罪のない神の子イエスさまは女の人を罰することができるお方です。けれども女の人をその場で罰しませんでした。それどころか女の人のために、そしてイエスさまを陥れようとした人たちのためにも十字架にかかって罪を裁かれてくださいました。 2月15日(木)ヨハネ八12  「光」は暗闇を照らし出します。そして見えなかったものを見えるようにします。命の光であるイエスさまは、私たちの心の目を開いて、自分の心を見させ、またイエスさまが救い主であることを見させてくださいます。 2月16日(金)ヨハネ八13〜18  パリサイ人はイエスさまが自分のことを「世の光」と言うことはおかしいと言いました。イエスさまはご自分が「世の光」として神さまのもとからきて、やがてまた神さまのもとへ帰ることをよくご存知でした。けれども、ユダヤ人たちは、イエスさまがナザレ出身の大工の子だとか、先生になるための学校で学んでいないとか、そういうことでイエスさまを判断しようとするので、イエスさまの言うことを受け入れることができませんでした。 2月17日(土)ヨハネ八19〜20  イエスさまと天の父なる神さまはひとつです。だからイエスさまが言うこと、することを見たら、神さまがわかるのです。けれどもパリサイ人たちは、心が閉ざされいたので、イエスさまも神さまのこともわからなかったのです。  イエスさまが十字架にかかられる時が近づいていました。もちろんだれもそのことをわかっている人はいません。ただイエスさまだけが心を整えて十字架へ向かわれていました。 2月18日(日)ヨハネ十二1  イエスさまは、過ぎ越しの祭りの6日前、ベタニヤのラザロの家に行かれました。ラザロはかつて病気で死んでお墓に葬られましたが、イエスさまによってもう1度生かされた人です。そしてイエスさまご自身が今度は十字架の死を迎えようとしていたのです。 2月19日(月)ヨハネ十二2  ラザロの姉マルタはいつもと変わらず、イエスさまのために食事を用意して、イエスさまをもてなしていました。イエスさまにとって、ラザロとその姉妹マルタ、マリヤは、本当に親しくて、ホッとできる人々だったのです。十字架を前にしたイエスさまには、彼らのあたたかいもてなしは慰めでした。 2月20日(火)ヨハネ十二3  マリヤはだれもが驚くもてなしをしました。イエスさまの足に塗られた香油は大変高価で、簡単に手に入れられるものではなかったのに、マリヤは惜しげも無くイエスさまに注いだからです。それはマリヤにとってイエスさまへの真心の感謝の贈り物だったのです。そしてその真心は香りとなって家の中にあふれました。 2月21日(水)ヨハネ十二4〜6  ユダは「なんてもったいないことを」とマリヤを責めました。「香油をお金にして、それを貧しい人に施せばよかったのに」と、もっともらしいことを言うのですが、それは彼が貧しい人のこと本当に思っていたわけではありません。彼は裏切り者で、みんなから預かったお金もごまかして使い込んでいました。自分のことしか考えられなくなっていたユダには、マリヤのしたことは無駄にしか見えませんでした。 2月22日(木)ヨハネ十二7〜8  イエスさまはマリヤのしたことを喜ばれました。「わたしの葬りの日のために、とっておいてくれた」と。ナルドの香油は死んだ人の体に塗ることにも用いられていました。十字架へ向かうイエスさまへのちょうどぴったりの贈り物だったのです。 2月23日(金)ヨハネ十二9  ラザロが生き返ったことは多くの人のうわさになっていました。人々は奇跡を行うイエスさまと、生き返ったラザロを一目見に、ベタニヤの家に押し寄せてきました。こうして多くの人がイエスさまを信じました。 2月24日(土)ヨハネ十二10〜11  ユダヤ人リーダーたち、はイエスさまだけでなく、奇跡の体験者ラザロも殺そうと相談しました。ラザロによってますます人々がイエスさまを信じるようになっていたからです。このままではどんどんイエスさまの方に行ってしまう。それはあってはならないことでした。  イエスさまは人気者で有名人でした。多くの人がイエスさまの教えについて行こうとしているように見えました。けれども「イエスさまー」と叫んでいた多くの叫びのほとんどが、やがて「十字架につけろー」に変わってしまうのです。 2月25日(日)ヨハネ十二12〜16  子ロバに乗ったイエスさまを出迎えた大勢の人々は、イエスさまがイスラエルを支配しているローマを倒して、自分たちを自由にしてくれることを期待していました。けれどもイエスさまは平和の王をとして馬ではなく子ロバに乗りました。戦いに向かうのではなく十字架へ向かう救い主なのです。 2月26日(月)ヨハネ十二17〜19  集まっていた大勢の人々の中には、イエスさまがラザロをよみがえらせたのを見た人もいましたし、その話を聞いてイエスさまを歓迎するために来た人もいました。盛り上がっている群衆を見て、パリサイ人たちは感じました。「どんなに邪魔しても、みんなあの男について行ってしまう」。早くイエスさまを殺さなければと言う思いが彼らに強く迫りました。 2月27日(火)ヨハネ十二20〜26  過ぎ越しの祭りに来ていたギリシャ人がイエスさまに会いたいとピリポに声をかけました。それは救いが世界に広がっていくことを感じさせる出来事でした。しかしそのためにはイエスさまが十字架で死ななければならないことを一粒の麦でたとえられました。 2月28日(水)ヨハネ十二27〜28  イエスさまは神の子だから、十字架は平気、と言うわけではありません。十字架の苦しみは、神さまによる罪のさばきです。イエスさまも十字架を前に不安や恐れに悩まされたのです。けれどもこのために来たのだと受け止めておられ、「み名があがめられますように」とお祈りされました。 3月1日(木)ヨハネ十二29〜33  天からの神さまの声を群衆はみんな聞きました。しかしはっきりと神さまが語られたとはわかりませんでした。でも天から声が聞こえたことによって人々は、イエスさまが父なる神さまの働きをしているのだと感じました。その働きとは、罪によって人の心を利用する悪魔を、十字架の死とよみがえりによって追い出してくださることです 3月2日(金)ヨハネ十二34〜36  ヒーローが死ぬなんてありえません。だからイエスさまの言葉をみんな受け入れられませんでした。人々にとって救い主は、戦いに勝つ強いお方のはずです。イエスさまはそれでも光である私を信じなさいと言われました。 3月3日(土)ヨハネ十二37〜43  今まで本当に多くの人々がイエスさまの奇跡を見ました。しかし結局信じることができませんでした。自分の思い通りであれば信じるけれども、そうでないと信じない勝手な心が私たちにあるからです。  イエスさまが言っておられた「わたしの時」がやってきました。それは十字架にかかることです。弟子たちと一緒にいることができるのも後わずかとなりました。 3月4日(日)ヨハネ十三1〜5  十字架にかかる時が近づいている中で、イエスさまが最後までされたことは、弟子たちを愛することでした。そこで突然イエスさまが弟子たちの足を洗い始められました。人の足を洗うのは奴隷の仕事なのに。自分よりも偉い人が足を洗ってくれたら、申し訳ないような気持ちになりそうです。 3月5日(月)ヨハネ十三6〜11  ペテロがイエスさまに、「わたしの足は洗わないで」と言った気持ちはわかる気がします。でもこの時は、イエスさまに足を洗っていただくことが大事でした。イエスさまが足を洗うことは、十字架の死で罪を洗いきよめてくださることを示していたからです。イエスさまにしかできないことです。「どうして今そんなことを」と思うことも「後でわかるようになる」という言葉を信じ、任せていきたいものです。 3月6日(火)ヨハネ十三12〜17  イエスさまが足を洗ってくださったことは、弟子たちや私たちのお手本でした。だから「互いに足を洗いあいなさい」と言われました。「互いに足を洗う」とは、お互いを思いやって生きることです。私たちのことをイエスさまがどんなに大事に思ってくださっているかを知り、信じるなら、私たちもイエスさまのように生きる力をいただけます。 3月7日(水)ヨハネ十三18〜20  イエスさまに足を洗っていただいた弟子の中に、残念ながら裏切ってしまう者がいました。裏切りというのは、イエスさまを十字架に売り渡してしまうのです。イエスさまはそのことをご存知でしたし、それは旧約聖書で預言されていたことが実現することだとも言われました。 3月8日(木)ヨハネ十三21〜30  イエスさまにとって、裏切る人が出ることは決してなんでもないことではありませんでした。だからイエスさまは心が騒ぎながら自分を裏切る者がいると言われました。それでもユダに対しても愛し通されることをやめられませんでした。 3月9日(金)ヨハネ十三31〜35  私たちはどうやったら、お互いに愛し合えるのでしょう。イエスさまの私への愛を知ることからです。十字架で死んだのは私のためだったと信じることからです。 3月10日(土)ヨハネ十三36〜38  ペテロはイエスさまのためなら命も捨てられると思っていました。でもそれはできませんでした。それどころかイエスさまの予告通り、ペテロもイエスさまなんて知らない、関係ない、と裏切ってしまいます。そういうペテロのために、そういう私たちのためにイエスさまが命を捨ててくださいました。  イエスさまは1人でよくお祈りをされました。そしていよいよ最後という時にも祈られました。それは弟子たちや、世のすべての人たちのために、つまり今の私たちのためにも祈られました。二千年前のイエスさまの祈りによって、私たちは支えられています。 3月11日(日)ヨハネ十七1〜5  神さまとイエスさまの栄光は、どんなものよりすばらしい輝きを持っておられ、考えること、されることはどんなこともすばらしいということです。けれども、人の目から見たらまるでみじめな姿にしか見えない十字架も栄光なのです。その苦しみと死によって、神さまが私たちをどんなに愛してくださっているかを現してくださった栄光なのです。 3月12日(月)ヨハネ十七6〜8  弟子たちはイエスさまが病気を治したり、悪霊を追い出したり、人を悩みから救ったりしたのを見ました。また神さまのこと、神の国の教えなどを聞きました。だから彼らはイエスさまを、神さまから来られた救い主だと信じ、イエスさまのものとされました。 3月13日(火)ヨハネ十七9〜11  イエスさまのものである弟子たちは、神さまのもの、神の子です。イエスさまと神さまはひとつだからです。けれどももうすぐイエスさまは、地上には目に見える姿でおられなくなります。だからイエスさまは、弟子たちを世の悪から守ってくださいと祈られました。 3月14日(水)ヨハネ十七12〜13  これからイエスさまは神さまのもとに帰られます。残された弟子たちは、今度は自分たちがイエスさまのしてきたことをし、教えてこられたことを教えていくことになります。それは必ず彼らの喜びとなるのです。 3月15日(木)ヨハネ十七14〜19  イエスさまのもの、神の子とされたものたちは、世の中とは違う生き方をします。ゆるすこと、愛することに生きるからです。イエスさまを信じなければ、ゆるさないし、愛さないのです。だからそういう世の中で、弟子たちがイエスさまを信じ続けられるように、そしてイエスさまのように生きることのすばらしさを伝えて行けるようにと、イエスさまは祈られました。 3月16日(金)ヨハネ十七20〜24  イエスさまはさらに、弟子たちからイエスさまの救いを聞いて信じた人々のために、また私たちのためにも祈られました。それはイエスさまを信じるすべての人が、イエスさまと神さまと1つになることでした。1つになるというのは、どういうことなのでしょうか。 3月17日(土)ヨハネ十七25〜26  神さまとイエスさまと信じる私たちが一つになるというのは、神さまが愛してくださったことを喜ぶことです。そしてイエスさまの愛に感謝して、私たちも人を愛して生きることです。  イエスさまは逮捕され、裁判を受けました。しかし残念がなら正しい裁判は行われませんでした。裁判をした総督ピラトはイエスさまに罪はないことをよくわかっていましたが、その正しさを通すことはできませんでした。 3月18日(日)ヨハネ十九1〜3  ピラトは兵隊たちにイエスさまをむちで打たせました。さらに兵隊たちはイエスさまをひどくばかにしました。人は自分よりも偉い人であれば、うやうやしくしますが、そうでないと思うとひどく見下すことがあります。イエスさまはされるがまま耐えられました。 3月19日(月)ヨハネ十九4〜6  ピラトははっきりと「イエスさまには罪がない、なんにも悪くない」と、人々に言いました。「見よ、この人だ」とピラトが言って、人々の前に引き出されたイエスさまの姿は、いばらの冠をかぶせられ、紫の上着を着せられているのが、あわれで、みじめにしか見えないほどでした。それでも人々は「十字架につけよ」と叫び出しました。ピラトは「彼にはなんの罪も見出せない」と言い続けました。 3月20日(火)ヨハネ十九7〜11  ユダヤ人たちは、イエスさまが自分を神の子だと言って、自分を神と同じにしたことは、ユダヤ教では死刑です、と言い通しました。しかしピラトはイエスさまを、本当にただの人ではないのかもしれないと思います。イエスさまは天から来られたお方なので、ピラトが考えて決めて力を振るう範囲を超えたお方なのです。 3月21日(水)ヨハネ十九12〜13  ピラトはイエスさまをゆるしたかったのです。でもイエスさまを殺したい人々は、ピラトがゆるしたら、もう総督ではいられなくなるとおどしました。自分には人をゆるしたり、死刑にしたりする力があると言ったピラトでしたが、ユダヤ人たちの言葉に、その力を出すことはできませんでした。 3月22日(木)ヨハネ十九14〜18  ピラトはユダヤ人たちにイエスさまのことを「あなたがたの王」と言い始めます。ユダヤ人たちはその言葉に怒って「十字架につけよ」と叫びました。ついにピラトはイエスさまを十字架につけるためにユダヤ人たちに引き渡しました。けれどもイエスさまは自分で十字架を背負われ、十字架につけられました。 3月23日(金)ヨハネ十九19〜22  十字架に掲げられた板に書かれたイエスさまの罪の内容は、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」でした。これでは罪の内容ではなくなっています。それどころかイエスさまはユダヤ人の王、救い主だと示していました。 3月24日(土)ヨハネ十九23〜27  イエスさまは母マリヤを弟子のヨハネにまかせました。ヨハネはお母さんのことを引き受けました。イエスさまを信じる人はみんな、神の家族になるのです。  イエスさまは十字架でどんなに苦しかったでしょう。そればかりか神さまから見捨てられてしまったのです。どうしてそこまでしてくださったのでしょう。そこまでイエスさまがしてくださらなければ、私たちは救われませんでした。 3月25日(日)ヨハネ十九28  十字架に両方の手首と足を釘で打ち付けられた体は、重たい体を手首で支えているので、長引く痛みと苦しみに耐えながらゆっくりと死を迎えるそうです。息を吸ったり吐いたりするのも苦しいのです。イエスさまが「わたしは、かわく」と言われた時、もう息がギリギリで命の終わりを迎えようとしていました。 3月26日(月)ヨハネ十九29〜30  イエスさまの最後の言葉は「全てが終わった」でした。これは「もう何もかもおしまいだ」というがっかりした言葉ではありません。「完成した」という方の「終わった」ということです。神さまの計画された救いは成し遂げられたというお言葉でした。 3月27日(火)ヨハネ十九31〜33  十字架刑は、じわじわと死を迎えます。苦しみの長く続く恐ろしい刑です。しかし明日から過越の祭であり安息日でもあるので、早くお墓におさめなければなりません。死を早めるために、イエスさまの十字架の右側と左側に十字架につけられた二人の人は、足を折られました。しかしイエスさまはもう死んでおられたので、足を折ることはありませんでした。 3月28日(水)ヨハネ十九34〜35  死んでいることを確認するために、兵隊はイエスさまの脇腹をやりで刺しとおしました。すると血と水が流れ出ました。イエスさまの十字架で流された血が私たちの罪を清くしてくださいました。そして信じる私たちの心を潤す命の水を与えてくださいました。 3月29日(木)ヨハネ十九36〜37  過越の祭には小羊が殺されます。それは昔イスラエルがエジプトの奴隷だった時、小羊の血が塗られたイスラエルの家は、神さまの滅びの使いが過越して行ったので、だれも死ぬことがありませんでした。それを感謝する祭のために小羊が殺される時、イエスさまも罪を取り除く小羊として十字架で血を流されました。過越の小羊は骨を折ってはいけません。同じようにイエスさまも折られませんでした。こうして救い主について預言されていたことが実現しました。 3月30日(金)ヨハネ十九38〜40  イエスさまの遺体は、人には知られないようにこっそり弟子になった2人の人によってお墓に葬られました。彼らはもう弟子であることを知られることを恐れませんでした。 3月31日(土)ヨハネ十九41〜42  イエスさまは、十字架につけられた場所のそばにあった新しいお墓におさめられました。すべてが終わりましたが、ここから救いが始まるのです。