1月第一週  あけましておめでとうございます。今年の目標は何ですか?去年の反省をいかして去年よりも自分なりに一歩前進していけるといいですね。いろいろ挑戦してみましょう。失敗もまた力になります。いつも共にイエスさまがいてくださることを信じて進んでくださいね。 1月3日(日)ルカ三1〜2  荒野には水も食べ物も十分にありません。私たちにとっては不便で住みにくいところです。でもそのような場所で生活していたヨハネに神さまの言葉が与えられました。荒野のようなカラカラの心に与えられるみ言葉は、私たちの心の命の水です。 1月4日(月)ルカ三3〜6  神さまの言葉に動かされて、ヨハネは活動を始めます。ヨハネの与えられた働きは、やがてあらわれるイエスさまが、救い主であることを人々が信じ受け入れやすいよう、心を整えることでした。それは誰もが悔い改めて洗礼を受け、罪がゆるされなければならないことを示すことでした。 1月5日(火)ルカ三7〜9  アブラハムの子孫であるユダヤ人は、神さまから選ばれた特別な民族です。だから自分たちはみんな救われていると思っていました。でもヨハネは言いました。ユダヤ人であってもなくても、悔い改めて心を入れかえ、神さまに向き直らなければ誰も救われないのだと。 1月6日(水)ルカ三10〜14  悔い改めるとは、今までやってきた間違った生き方をやめることです。ではどうしたらいいのでしょうか。ヨハネは勧めました。群衆には、持っているものを持っていない人々と分け合いましょう。取税人には、決まった分だけの税を集めましょう。兵隊には、こわがらせ、だますことをやめましょうと。私たちができることはどんなことでしょう。 1月7日(木)ルカ三15〜17  ヨハネの教えによって人々の生き方が変わっていったので、みんなヨハネが救い主なのかなと思うようになりました。しかしヨハネは、救い主はわたしより力のある方だと言いました。力があるとは、神の力によって人を救うお方ということです。 1月8日(金)ルカ三18〜20  ヨハネはその地域をおさめていた領主ヘロデに対しても、彼がした悪いことを厳しくとがめました。ヨハネはそのために牢に入れられてしまいます。そうなることがわかっていても彼は自分の与えられた働きをやめませんでした。 1月9日(土)ルカ三21〜22  イエスさまもヨハネから洗礼を受けました。イエスさまは罪のないお方ですから本当は受ける必要はありません。でも私たちと全く同じ人となるために、人に必要な道をたどって洗礼を受けられました。聖霊がくだり、天から語られた神さまの声は、イエスさまこそ救い主だという示しでした。 1月第二週  私たちは誰でも誘惑にあいます。誘惑に何度も負けてしまうと、あきらめてしまいそうになるかもしれません。でもイエスさまは誘惑を聖書の言葉で勝利されました。聖書の言葉は私たちにも誘惑に勝たせてくださいます。 1月10日(日)ルカ四1〜2  イエスさまは洗礼を受けた後、四十日の間、聖霊に導かれて荒野におられました。そこでは何も食べずお祈りをして過ごされました。これは食べないで、お祈りに気持ちを集中するためです。そしてこれからの救い主としての働きのための準備をされました。準備として悪魔からの誘惑もありました。 1月11日(月)ルカ四3〜4  悪魔はお腹がすいてしかたのないイエスさまに、「もしあなたが神の子なら、石をパンに変えられるはずだ」と言いました。神の子として力があることを示したくなるのが誘惑です。けれどもイエスさまは、ご自分ができるのにされないで、聖書の言葉「人はパンだけで生きるものではない」で悪魔を退けました。 1月12日(火)ルカ四5〜8  次に悪魔は、自分にひざまずくなら、世界のすべてを支配する権威をあげましょうと言いました。悪魔にひざまずけば世界のすべてがイエスさまの言うことを聞くようなる、言いなりになるというのです。けれどもイエスさまは、「ただ神さまだけに仕えよ」という聖書の言葉で悪魔を退けました。 1月13日(水)ルカ四9〜13  悪魔はイエスさまを神殿のてっぺんに立たせました。そして「もしあなたが神の子なら、ここから飛び降りて天使に助けさせるのを見せてみろ」と言いました。そうすれば神殿に来ている人々がイエスさまの死なない奇跡に驚いて一躍人々の人気者になれるだろうと言いました。しかしイエスさまは「神さまを試してはいけない」という聖書の言葉で悪魔を退けました。 1月14日(木)ルカ四14〜15  イエスさまは悪魔の言うままにすることによって人々の心をつかもうとはされませんでした。でも聖霊に満たされたイエスさまの働きは自然とみんなの心に希望を与え、尊敬され、有名になっていきました。 1月15日(金)ルカ二二39〜46  イエスさまは十字架へ向かために何度もお祈りをされました。イエスさまも十字架の苦しみを取りのけてほしいと願われたのです。しかし、ご自分の願いではなく、神さまの御心を受けとるために祈り続けられました。 1月16日(土)ルカ二二35〜39  悪魔の誘惑は人々の口を通して、十字架の上にまで迫りました。「神のキリストなら」「ユダヤ人の王なら」自分を救ってみろとののしる人々の言葉によってです。けれどもイエスさまはご自分を救うことをしないで、私たちを救ってくださいました。 1月第三週  イエスさまは神さまなのに、人として故郷でずっと生活し、地元の中にとけこんで歩まれました。生まれてひとっ飛びで救い主の働きを始めたのではなく、大工の子としての生活を地道に積み重ねられました。 1月17日(日)ルカ四16〜19  イエスさまがみんなの前で読まれた聖書の言葉は、救い主がどのようなお方なのかが語られていました。救い主は、聖霊を注がれた方で、人々の罪をゆるし、目の見えない人を見えるようにするのです。それを見たり体験したりする人はみんな、希望がわいてくるのです。 1月18日(月)ルカ四20〜21  イエスさまが読んだイザヤ聖書の言葉はまさに、イエスさまのことを語っていました。だからイエスさまは今日この言葉は実現したと言われました。それは、人々が悔い改めて歩むとき、この言葉をイエスさまを通してみんなが体験できるのだと語られたのです。 1月19日(火)ルカ四22  イエスさまが説明する聖書の言葉は、みんなの心にはっきりとわかり、神さまのすばらしさが伝わってきました。けれども一方で聞いている多くの人が小さい時からのイエスさまを知っていました。そのため、貧しい大工の息子のくせに人を教えるとは、と、素直に心を開けませんでした。 1月20日(水)ルカ四23〜24  イエスさまを子どもの頃から知っている人々は、イエスさまが何か普通の人にはできないことをしてみせてほしいと思いました。そうしたら、イエスさまを認めようと思ったのです。けれどもイエスさまはそういう人々の思い通りにして、認められようとはされませんでした。 1月21日(木)ルカ四25〜27  さらにイエスさまは、預言者エリヤやエリシャの時代、外国人が神さまの恵みを受けとることができたことを語りました。そして神さまに選ばれたユダヤ人でなくても、外国人にも神さまの恵みは与えられると語られました。 1月22日(金)ルカ四28〜29  イエスさまの言葉は、ナザレの人々の誇り高い心を傷つけました。神さまに特別に選ばれたユダヤ人と選ばれていない外国人が同じように神さまの愛を受けるとは、あってはならないことだからでした。自分たちの名誉を傷つけられ、彼らはイエスさまを殺そうとするほど怒りました。 1月23日(土)ルカ四30  イエスさまは人々の殺そうとする手を逃れて、ナザレを去りました。殺そうとするほどに怒ることかな?と私たちは思います。でも私たちは自分のことを悪く言われたり、名誉を傷つけられたと感じたりすると、強く怒るものです。自分は悪くないと思っているからです。そのような思いがやがてイエスさまを十字架につけるのです。 1月第四週  ぜったいにこの願いはかなえてもらいたい、そういう願いがある時に、でも神さまがそれでいいと思われたらかなえてくださいね、とは言えないものです。「みこころでしたら」とは、神さまが「それがいいと思われたら」ということです。「みこころがなるように」と心から願う私たちでありたいですね。 1月24日(日)ルカ五12  重い皮膚病に悩んでいたら、すぐにでも治してもらいたいと思う私たちです。でもこの病気の人は、「みこころでしたら」とイエスさまに願いました。心から治りたいと願っていましたが、結果は神さまにすべてをおまかせしていたのです。 1月25日(月)ルカ五13  イエスさまはすぐにその人にさわって病気をいやされました。当時皮膚病の人に触ると、触った人も「汚れた」と言われていました。しかしイエスさまはそういうことは関係ないかのようにして手を伸ばし触っていやされたのです。その人がいやされることが私のこころだとあらわしてくださいました。 1月26日(火)ルカ五14  皮膚の病気は「汚れている」と言われて、汚れている間ユダヤ人社会では生活できませんでした。そして治った時には、祭司によって「清められた」と認めてもらう必要がありました。そうすればユダヤ人社会の中でまた生活できるからです。 1月27日(水)ルカ五15  イエスさまは、どのようにしていやされたか誰にも話さないようにと言われましたが、おそらくいやされた人は黙っていることができなかったのでしょう。イエスさまなら病気を治せる、助けてくれる、教えがいい、と評判が広がっていくばかりでした。そして大勢の人がイエスさまのもとに集まって来たのです。 1月28日(木)ルカ五16  私たちがもし人気者になったら、有頂天になったり、もっと期待にこたえないと、と思ったりします。けれどもイエスさまは、人気を失わないようにしようと思ったり、期待にこたえられなかったらどうしようと悩んだりせず、いつもまず一人になってお祈りすることを大事にされました。 1月29日(金)使徒二一7〜14  パウロはエルサレムで捕らえられて牢にいれられると預言がされました。周りの人はパウロが危険をさけること願いました。けれどもパウロの固い決心を止めることができなかったとき、神さまのみこころにまかせました。人がいいと思うことを越えて最も良いことをされるのが神さまだからです。 1月30日(土)ローマ一10  パウロはローマの教会に行きたいと願っていました。ローマ教会の人々と会って、信仰を励ましたかったのです。そのために、ローマ行きが神さまのみこころとなって、道が開かれるようにとずっと祈り続けました。 1月第五週  もうだめだと私たちはあきらめてしまいそうになることがあります。でもイエスさまにはあっては、あきらめることはありません。長年病気だった人もあきらめずイエスさまに期待しました。娘が死んだと聞いた両親があきらめそうになった時も、イエスさまはあきらめさせませんでした。 1月31日(日)ルカ八40〜42  イエスさまのもとに死にかけている娘を助けてほしいと心から願うヤイロがやってきました。ヤイロは家にイエスさまがきてくれたら、娘は絶対に助かると信じていました。しかしあまりに多くの人々にイエスさまの道はふさがれて、早く娘の所に行ってほしいのに、なかなか前に進めませんでした。ヤイロはどんなにやきもきしたことでしょう。 2月1日(月)ルカ八43〜44  たくさんの人の中に、十二年間病気が治らないで悩んでいた女の人がいました。彼女はせめてイエスさまの服に触らせてもらうだけでも治ると期待しました。そして後ろからイエスさまの服にさわると、本当に治ったのです。 2月2日(火)ルカ八45~46  女の人はそのままそっと帰ろうとしました。ところがイエスさまは気づかれました。まさか気づかれるとは思っていないのです。でも押し寄せてた触った人とは、女の人の「さわった」は違っていたのです。イエスさまならいやしてくださると信じた思いが、イエスさまの力を引き出したからです。 2月3日(水)ルカ八47〜48  自分の事情を話した女性に、イエスさまははっきりと語られました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。もし今悩みや困った問題の中にいるなら、イエスさまに触れさせてくださいと祈ってみませんか。確かな助けと力となるお言葉が与えられます。 2月4日(木)ルカ八49〜50  そうこうしているうちに、ヤイロの娘が死んでしまったと報告が入ります。絶望と悲しみのどん底に落とされたヤイロに、イエスさまは「ただ信じなさい。娘は助かるのだ」と言われました。本当ならあきらめるしかない状況でも、イエスさまに頼るなら、希望があるのです。 2月5日(金)ルカ八51〜53  確かに娘が死んだことを確認した人々は、イエスさまの「娘は眠っているだけだ」という言葉をあざ笑います。イエスさまの力を知らなかったからです。でもイエスさまはお言葉通りのことができるお方なのです。 2月6日(土)ルカ八54〜56  イエスさまが呼びかけると娘の霊が戻って来て、死んだはずの娘は起き上がりました。これには両親は驚きました。そして喜んだことでしょう。イエスさまに頼って良かったと感謝したことでしょう。イエスさまにはあきらめはないのです。 2月第一週  大切な家族が死んでしまったらどうしよう。そう思うと恐くなります。みんないつまでも長く生きていてほしいと願います。もし大切な人の死が突然やってきたら、どんなことも慰めにならないかもしれません。でもどんな死にも本当の慰めをイエスさまは与えてくださいます。 2月7日(日)ルカ七11〜13  夫をなくした女性が、今度はひとり息子にも死なれてお墓に葬りに行こうとしていました。そこへイエスさまがちょうど現れました。イエスさまはこの女性の悲しみをまるでご自分の悲しみのように感じられました。私たちの深い悲しみや痛みをイエスさまも共に悲しみいたんでくださるのです。 2月8日(月)ルカ七14〜15  イエスさまは近寄って棺に手をかけ、死んだ息子に声をかけました。「若者よ、さあ、起きなさい」。イエスさまはもう一度この息子に命をお与えになりました。死んだ息子が生き返ったことは、お母さんにとって何よりの慰めとなったことでしょう。 2月9日(火)ルカ七14〜15  私たちの周りにも、この息子のように生き返ってほしい人がいるかもしれません。でも今の私たちには、イエスさまが死んだ人を生き返らせて戻すという慰めはなさらないのです。私の教会にも息子を亡くして、深い悲しみの中にあるご夫婦がおられます。神さまはきっと別の形で豊かな慰めをこのご夫婦に与えてくださるのだと信じています。 2月10日(水)ルカ七16  死んだはずの人が生き返ったとなれば、だれもが驚きます。そしてイエスさまをただ者ではない「大預言者」だと思います。苦しみや痛みを抱えている自分たちの歩みに神さまはこの大預言者を送って、自分たちを救おうとしている。こんな慰め、こんな励ましがあるだろうかと、神さまをほめたたえました。 2月11日(木)ルカ七17  死んだ人が生き返ったこと、そして人を生き返らせたイエスさまのうわさはあっという間に広まりました。それは人々の心に、神さまが与えてくださる希望となりました。今の私たちの教会や私たちもまた、あそこには慰めがある、救いがあるといううわさが広まっていくように用いられますように。 2月12(金)マルコ六34  イエスさまはいつも私たちの心によりそってくださいます。私たちの途方にくれる問題や病気、悲しみ痛みなど様々な人生の悩みを抱えているのをご覧になって、体の奥深くに痛みを感じるかのように、心をいためてくださいます。私たちのことをよくわかっていてくださいます。 2月13日(土)ローマ一二15  私たちもまた誰かの喜びを共に喜び、誰かの悲しみを共に悲しめる、人の心によりそえる人になりたいものです。 2月第二週  イエスさまの本当の姿は神さまの輝きを持つ姿です。でも人となって歩まれたイエスさまは、その輝きを隠しておられました。 2月14日(日)ルカ九28〜29  山で祈っている間にイエスさまの姿が変わりました。そのイエスさまの姿は神さまとしての輝きを放っていたのです。私たちはイエスさまの本当の姿をまだまだ十分には知らないのでしょう。特に神の子としてまばゆい輝きを持つことを。そしてその輝きは私たちが圧倒されるほどのものなのです。 2月15日(月)ルカ九30〜31  まばゆいイエスさまのそばにはいつのまにかモーセとエリヤが共に立っていました。三人は、イエスさまがこれらか十字架にかけられることについて話し合っていたのです。この三人はイスラエルの民を奴隷の苦しみや間違った神から、そして罪から導き出し、自由にするという、共通の働きを担っていました。 2月16日(火)ルカ九32〜33  祈りの中で熟睡していたペテロは目を覚まし、三人が語り合っているのを見ました。そしてこのすばらしい光景をいつまでも留めておきたいと思いましたが、どうしていいのか、何を言っていいかもわからず、三人のために小屋を建てることを申し出ました。三人がこのままいてくれれば、世界はすばらしいものになると思ったのかもしれません。 2月17日(水)ルカ九34〜35  しかしみんなあっという間に雲に覆われてしまいました。そして雲の中から神さまの声を聞いたのです。イエスさまのことを「これはわたしの選んだ者だ、これに聞け」と。三人いたら世界はすばらしいと思ったペテロでしたが、神さまはイエスさまに聞けと言われたのでした。 2月18日(木)ルカ九36  雲もなくなり、声も聞こえなくなった時、彼らに見えたのはイエスさまお一人だけでした。ただイエスさまだけを見つめて行けばいいのです。どんな暗闇をも輝き照らし出すイエスさまを見つめていくなら、私たちが暗闇に閉ざされたと思えるときも、イエスさまの輝きが導いてくださるからです。 2月19(金)エペソ五8  イエスさまを信じたら、私たちはみな光の子です。イエスさまの光の輝きを受けて、私たちも輝いて生きるようにされます。それはイエスさまを信じても失敗や間違いや過ちを犯し、時に罪の悔い改めをしなければならない私たちですが、ゆるされて救われてよかったと感謝して生きることなのです。 2月20日(土)Uコリント三18  やがて私たちはこの地上での生活を終える時がきます。そしてイエスさまが再びこの地上に来られてこの世界を新しくされる時には、私たちも復活し、主と同じ姿に変えられるのです。 1月第三週  イエスさまと出会ったらいっぺんで人生が変わったという人もいれば、そんなに変わったかなあ、という人もいるでしょう。ザアカイのように劇的に人生が変わると、周りの人がみてもわかりやすいです。でもイエスさまを信じたなら、劇的でもそうでなくても、確かに変えられていくのです。 2月21日(日)ルカ一九1〜2  ザアカイの仕事は税金を取るという仕事でしたが、人々から大変嫌われた仕事でした。なぜなら、決められた額よりも多くとりたてて、残りを自分のものにしていたからです。そしてイエスさまはまるでこのザアカイに会うためかのようにエリコを通られたのでした。 2月22日(月)ルカ一九3  ザアカイはイエスさまに興味を持っていました。自分の仕事が人々から歓迎されないものだったのに、イエスさまはそういう仕事の人々もみんな受け入れて友だちになっていると聞いていたからです。いったいどんな人なのだろうと見てみたかったのです。 2月23日(火)ルカ一九4〜5  ザアカイはただイエスさまを見たいとだけ思っていたのです。ところが次々と不思議なことが起こります。イエスさまが木の上のザアカイの名前を呼ばれ、「あなたの家に泊まることにしている」と言われたからです。なぜ名前を知っているのか。なぜ嫌われ者の家に泊まるのか。誰もが不思議でたまりませんでした。 2月24日(水)ルカ一九6  ザアカイは急いで木からおりて喜んでイエスさまを家に迎え入れました。とにかくうれしかったのです。自分にイエスさまが声をかけてくださったことが。自分を知っていてくださったことが。それはイエスさまが得体の知れない人ではなく、罪人や嫌われた人とも友であり、自分にもそうしてくれたからです。 2月25日(木)ルカ一九7  しかしイエスさまの行動を気に入らないと思う人もたくさんいました。イエスさまのように人々から尊敬されている先生は、罪人と呼ばれる人と一緒に食事をしたり、話をしたりしないからです。偉い人のすることではないのです。しかしそう言う人も罪人と言われる人もイエスさまを必要としているのです。 2月26日(金)ルカ一九8  ザアカイは変わりました。お金がすべてという生活をやめ、お金の使い方、集め方をあらためたのです。貧しい人に与え、多くとった人には四倍にして返すと。お金ではなく、イエスさまに従って生きることが喜びとなったのです。 2月27日(土)ルカ一九9〜10  「今日救いがこの家に来た」。イエスさまも喜ばれました。ザアカイが神さまの元に返って悔い改めたからです。そして彼の人生が変えられたからです。イエスさまを信じ従う人生は喜びです。 1月第四週  もし自分の命が明日で終わると知ったら、あなたはどんな風に残りの時間を過ごしますか。イエスさまは弟子たちと食事をした後、十字架に向かうため最後まで祈られました。 2月28日(日)ルカ二二39〜40  過越の食事を終えると、イエスさまはこれからどんなことが起こるかを知っていましたが、いつものようにいつもの場所でお祈りをされました。これから起こることを考えるといても立ってもいられなくなるとき、イエスさまのように祈りに心を向けることが私たちの助けになります。 2月29日(月)ルカ二二41〜42  イエスさまは楽勝で十字架に向かわれたのではありません。祈りの中でみこころならこの十字架という苦しみの杯を取りのけてくださいと願われたのです。でも祈りに祈って、「わたしの思いではなく、みこころが成るように」と祈られました。 3月1日(火)ルカ二二43〜44  天使によって力づけられるほど、イエスさまの苦しみは深くまたもだえるほどでした。その切なる祈りは汗が血のしたたりのように流れるほどでした。それほどにイエスさまにとっても十字架は避けたいものだったのです。 3月2日(水)ルカ二二45〜46  それでもイエスさまはついに十字架に向かう決断をされ、祈りを終えて立ち上がられました。弟子たちはその間、起きて祈っていることができませんでした。「誘惑に陥らないように起きて祈っていなさい」とは、誘惑されてもそれに陥らないよう守ってくださいと祈ることです。イエスさまは弟子たちにも祈りによって支えてもらいたいと願いましたが、弟子たちは起きていられませんでした。 3月3日(木)ルカ二二47〜48  イエスさまを捕らえに来た人の先頭には十二弟子の一人のユダが立っていました。ユダは自分の先生を裏切って、お金でイエスさまを売り、祭司長や律法学者たちの手に渡すためにやってきたのです。イエスさまはユダの裏切りを知っていました。そして裏切る彼のためにも祈っておれたのです。 3月4日(金)ルカ二二49〜53  弟子の一人が祭司長の僕の耳を切り落としてしまいました。イエスさまを守りたい、助けたい、そういう思いで必死に行動したのです。しかしイエスさまはその耳をいやされました。そしてイエスさまは静かに捕らえれるままにされたのでした。 3月5日(土)ヘブル四15  「イエスさまは神の子として最初から力をふるい人々をひれ伏させることもできたはずです。しかしイエスさまの歩みは人に仕え、またご自身が試練にあわれ、とことん人の人生を共に歩んでくださいました。だから本当に私たちの弱さを思いやることができるお方なのです。 3月第一週  東日本大震災からちょうど五年が経とうとしています。被災された方々のあの時の苦しみは計りしれないものです。なお被災された方々のために祈りたいですね。また毎年どこかで大きな災害があります。そしてこれからも災害がどこかしこで起こるのかもしれません。神さまの助けを祈り続けていきましょう。 3月6日(日)ルカ二二54〜55  ペテロはなにくわぬ顔で大祭司の家の中庭に入り込みました。庭の真ん中にたかれていた火のまわりに人々が座っていたので、ペテロもそこに座りました。そこなら裁判の様子を見ることができたのです。弟子たちがみんな逃げて行ってしまった中で、ペテロはそっとイエスさまに着いて来たのです。 3月7日(月)ルカ二二56〜60  ところが思いがけないことに、火を囲んでいる人の中から次々とあなたもイエスの仲間だ」と三人の人に言われてしまいました。ペテロは恐ろしくなりました。自分がイエスさまの仲間だと知れたら、自分も捕まえられるのか?自分も殺されるのか?彼は必死で「私はあの人を知らない、関係ない」と言ってしまったのです。 3月8日(火)ルカ二二61〜62  鶏が鳴いた瞬間、ペテロははっとしました。そしてイエスさまの方に目を向けると、振り向かれたイエスさまと目が合ってしまったのです。イエスさまの目はペテロを受け入れていました。しかしペテロはイエスさまの言葉を思い出し、裏切ってしまった自分が情けなくて激しく泣くしかありませんでした。 3月9日(水)ルカ二二63〜65  イエスさまは次々と監視している者たちからばかにされ、辱められました。なんてひどいことをと思わずにはいられません。人は人を見下すと、人を人とも思わない態度をとるようになってしまうのです。 3月10日(木)ルカ二二66〜69  長老、祭司長たち、律法学者たちは、とにかくイエスさまを罪ありとしたかったのです。「あなたはキリストなのか」という質問にどう答えても、イエスさまは罪人にされるのです。私たちは自分を正しいと認めさせようとして、相手をとことん悪くしようとする罪があるのです。 3月11日(金)ルカ二二70〜71  最後にイエスさまは「あなたは神の子なのか」と問われました。しかしイエスさまが答える「わたしは神の子」ということと、人々が問う「神の子」は違っていました。イエスさまはあくまでも人のために命を捨てることによって、神の子としての働きを成し遂げられるからです。人々の想像する神の子とはかけ離れていたのです。 3月12日(土)イザヤ五三5  イエスさまは私たちを救うためにすべての屈辱、懲らしめを耐え、徹底し苦しみを受けてくださったのです。 3月第二週  どんな物語でも、ヒーローが死んでしまうことはあり得ないことです。死んでしまったらお話が終わってしまうからです。でも聖書はイエスさまが私たちのために死なれたことを書いています。そしてイエスさまにあっては死んで終わりでなく、よみがえりがあり、そこに希望があると教えてくれるのです。 3月13日(日)ルカ二三26  クレネのシモンは旅行でエルサレムに着いたばかりでした。しかし思いもかけず、イエスさまの十字架の横木をむりやり背負わされたのです。しかしこれをきっかけに、いつの日かどうやらシモンはイエスさまを信じました。そして息子たちもイエスさまを信じ、聖書に名が残されました。 3月14日(月)ルカ二三27〜31  イエスさまに従ってきた女性たちは、嘆き悲しみながら、十字架への道も従いました。その彼女たちの上にやがて起こる大きな悲しみのことをイエスさまは思い、苦しみの中でも彼女たちに慰めの言葉を語られました。 3月15日(火)ルカ二三32〜33  ついにされこうべと呼ばれる場所に着きました。イエスさまを真ん中にして二人の犯罪人も両脇に共に十字架につけられました。イエスさまは罪を犯さなかったのですが、他の二人と同じように罪人とされることを受け入れて十字架に進まれました。すべては私たちのために。 3月16日(水)ルカ二三34  十字架にかけられてもイエスさまは祈られました。それも自分のための願いではなく、イエスさまを十字架につけたすべての人のために「彼らをおゆるしください」と祈られたのです。イエスさまの十字架上での祈りは、今の私たちのためにも響き、神さまのもとに届けられています。 3月17日(木)ルカ二三35〜37  十字架を見ている人々はイエスさまをののしります。そして当たり前のように「神の子なら、ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と挑戦してくるのです。かつて悪魔が「神の子なら証明してみよ」と誘惑したことがここでも繰り返されます。悪魔のねらいは十字架の救いを失敗させること。しかしイエスさまは自分を救うことをされませんでした。 3月18日(金)ルカ二三38  イエスさまの頭に上に掲げられたどんな罪を犯したのかを説明する言葉は「ユダヤ人の王」でした。「ユダヤ人の王を勝手に名乗った」ではなく「ユダヤ人の王」とはっきりと書かれていました。不思議なことに、イエスさまは十字架につけた人々が認めたくなかった「ユダヤ人の王」として死なれたのでした。 3月19日(土)イザヤ五三7〜12  イエスさまの苦しみはイザヤによって預言されていました。十字架の出来事はすべて神さまが救いの道として用意されたことなのです。 3月第三週  今週は受難週です。イエスさまが十字架にかけられたのが今週の金曜日だからです。この一週間、イエスさまが私たちのために苦しみを耐え忍んでくださったことを覚えて歩みたいですね。そして十字架で死んでくださったことがどんなに私に大きな恵みであったか、すばらしいゆるしと救いであったかを心に深く感じて感謝したいと思います。 3月20日(日)ルカ二三39〜41  イエスさまの右と左に十字架にかけられた二人のうちの一人が「あなたがキリストなら、自分を救い、われわれも救え」とののしり始めました。しかしもう一人は、それをたしなめ「この方は何も悪いことをしていない」とイエスさまを認めていました。彼の心は死を前にして自分のやったことを深く反省していたのです。 3月21日(月)ルカ二三42〜43  そして彼はイエスさまにすがりました。「わたしを思い出してください」と。イエスさまの言葉は、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」というすばらしい救いの約束でした。 3月22日(火)ルカ二三44〜46  イエスさまが息をひきとる直前、神殿の聖所の幕が裂かれました。それは、神さまによって裂かれたのです。人と神さまとの間を隔てていた罪の壁がイエスさまの死によって取り除かれたので、神と人とを隔ての幕は必要なくなったのです。そしてイエスさまは「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。と言って息を引き取られました。 3月23日(水)ルカ二三47〜48  イエスさまは死んでしまいました。ところが、このイエスさまの十字架での最期をみた百卒長は、「本当にこの人は正しい人であった」と神をあがめました。イエスさまの人のために祈り、死の苦しみを耐え忍ぶ姿を見て、そこに真の神の子を百卒長は見たのです。 3月24日(木)ルカ二三49  弟子たちがみな逃げてしまった中で、遠い所に立ってイエスさまの十字架を見ていた、主を知る者たちや女性たちがいました。彼らは逃げないでイエスさまを見つめていました。 3月25日(金)ルカ二三50〜54  アリマタヤ出身のヨセフは議員をしていましたが、イエスさまを十字架にかけることには賛成しなかった人です。議員でありながらイエスさまの弟子であることを示すのは勇気がいったでしょう。でもこの人はイエスさまの体を引き取って、亜麻布に包んで、新しいお墓の中に納めました。こうして弟子であることを示しました。 3月26日(土)ルカ二三55〜56  安息日がすぐ迫っていました。女性たちはイエスさまに最期まで着いて行き、死とお墓に納められたのも見届けました。深い悲しみの中で安息日を迎えました。 3月第四週  イースターおめでとうございます。教会の今年度はイースターで始まり、イースターで終わりです。イエスさまのよみがえりが、どんなに私たちに大きな力となるかを深く知ることができる一週間でありますように。 3月27日(日)ルカ二四1〜3  あるべきものがそこにないと誰かが動かしたのかと思います。ちゃんと元に戻しておいて、なんて言ったりもします。でもお墓の中のものがないとなると勝手が違います。それは大変なことです。朝早くお墓にやってきた女の人たちが見たのは、あるはずのイエスさまの体がなく、空っぽのお墓でした。 3月28日(月)ルカ二四4〜7  女の人たちは、途方にくれていると天使が現れて、さらに驚かされました。天使は言いました。「なぜ生きた方を死人の中にたずねるのか。よみがえられたのだ。」そうなのです。イエスさまの体がないのは当然なのです。死に打ち勝ってよみがえられたからです。 3月29日(火)ルカ二四8〜10  そこでみんなは思い出したのです。そうだ、イエスさまは三日目によみがえると言われていたことを。女の人たちはお墓から戻ると、これらのことを十一人の弟子たちや他の人たちに報告しました。私たちもみ言葉をたくさん蓄えておきたいですね。そうしたら聖書にはこう書いてあったということを思い出して、信じて歩んでいけるからです。 3月30日(水)ルカ二四11〜12  ところが、これを聞いた使徒たちは、女の人たちの報告を信じようとしませんでした。愚かな話のように思われたのです。しかし本当に愚かなのは、イエスさまのよみがえりを信じることのできない使徒たちだったのです。 3月31日(木)ルカ二四13〜16  エマオへ向かう二人の人がこの出来事を熱心に話しながら歩いていました。そこへイエスさまが近づいてこられ、一緒に歩きはじめたのです。しかし彼らはイエスさまだとは気づきません。復活の出来事が理解できないでいる彼ら。イエスさまは今現実に起こっている出来事を理解できず悩んでいる所に近づいて来て、一緒に歩いてくださいます。するとそこには必ず解決があるのです。 4月1日(金)ルカ二四17〜29  十字架の出来事があったことを何も知らないこの人に二人は説明していたのですが、いつの間にか二人はその人が説明してくれる聖書の言葉に聞き入っていました。 4月2日(土)ルカ二四30〜32  一緒に食卓につくと、その人が二人のためにパンをさいて祈りをして彼らに分けてくれました。それを見た瞬間、彼らの目が開かれてイエスさまだとわかったのです。復活されたイエスさまがずっと一緒にいてくださっていたのでした。