あけましておめでとうございます。新しい年の新しい週を迎えました。短い冬休みがそろそろ終わり、今年度もあと三ヶ月です。受験生にとっては気の抜けない時ですね。受験が終わったらあれもこれもしようと思っているでしょう。みなさんの残りの学期間が充実したものでありますように! 1月4日(日)マタイ四12  バプテスマのヨハネが牢屋へ入れられてしまいました。ヘロデ王が兄弟の奥さんを横取りして自分の奥さんにしたことを、「それはいけない」と注意したので、王の怒りを買ったのです。私たちは素直にあやまれずに、むしろ注意した人に怒ってしまうことがあります。どうぞ罪を素直に悔い改めることができますように。 1月5日(月)マタイ四13〜16  イエスさまは、カペナウムという田舎町に住んでそこで教え始めました。昔預言者イザヤは、田舎でさげすまれている町にやがて希望の光がのぼることを預言しました。その通りにイエスさまはそのような場所から真っ先に救いの働きを始めて、さげすまれた者たちを引き揚げてくださったのです。 1月6日(火)マタイ四17  「天国にはどうやって行けるの?」と私たちは思います。でも本当は天国のほうから近づいてくるのです。イエスさまは言われました。「悔い改めよ。天国は近づいた」。天国の方からやってくる。すごいことですね。 1月7日(水)マタイ四17  イエスさまが人となって来てくださり、旅をしながら神の言葉を教え、病気をいやし、悪霊を追い出されました。そしてみんな思ったのです。イエスさまに教えられ助けられてイエスさまと一緒に歩む生活こそ、天国なんだと。 1月8日(木)マタイ四18〜19  漁師をしていたペテロとアンデレの兄弟。イエスさまは彼らに「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。人間をとるとは、人々を神さまの救いのもとへ導く人になることです。 1月9日(金)マタイ二20  突然のまねきに普通は驚くでしょう。ところがペテロとアンデレはすぐに漁師の仕事をやめて、イエスさまの弟子になりました。そっちの方がもっと驚きですね。自分の仕事を捨てて本当にイエスさまの従ったのですから。それほどイエスさまに倣うことに魅力があったのです。 1月10日(土)マタイ二21〜22  さらにヤコブとヨハネの兄弟も、漁師の仕事とお父さんをおいてイエスさまに従いました。親子の縁を切ったのではありません。どんなことよりもイエスさまを第一にして従う人になったのです。そしてイエスさまのすることにならったのです。あとは、イエスさまがペテロたちを造りかえてくださいました。  聖書の言葉は難しいですか?たいくつですか?もしそうだったとしても、このお言葉を聞き続けていくなら、ある時その言葉が「これって自分に言われてるみたいだ」と気づく時があるのです。そうすると、関係ないと思っていた聖書の物語が自分の心にたくさん響いてきて、うれしくなります。もっともっと知りたくなります。 1月11日(日)マタイ八5〜7  イエスさまの時代、イスラエルの人々は神の民ではない外国人の家に行って、一緒に食事をしたり、交わりをしたりすることはありませんでした。そういうことをすると人々から悪いことをしていると注意されたのです。しかしイエスさまは外国人の隊長さんの家に出かけようとされました。イエスさまにはそういう垣根はありませんでした。 1月12日(月)マタイ八8〜9  隊長さんは、そういうイエスさまの事情をよく知っていたました。だから家に来るのではなく、ただイエスさまのお言葉だけをくださいとお願いしたのです。イエスさまが語られる言葉は「病気がなおれ」と命令すれば、その通りになることを信じていたからです。 1月13日(火)マタイ八10  イエスさまの言葉は、私たちを驚かせることが多いのですが、ここではイエスさまがこの隊長さんの言葉にとてもびっくりされ、喜ばれました。こんなにもイエスさまの言葉が本当になると信じ切っている人に、イスラエルの中でもなかなか出会えなかったからです。 1月14日(水)マタイ八11〜12  そしてイエスさまは、いつか天国で宴会が開かれると言われましたその宴会を楽しむことができるのは、神の民とされているはずのイスラエルではなく、神の民ではないとさげすまれた外国人たちだろうと言われたのです。 1月15日(木)マタイ八13  隊長さんの信じた通りイエスさまの言葉で隊長さんの僕はいやされました。私たちに人の病気はなおせませんが、私たちが信じてイエスさまにお願いするなら、イエスさまがいやしてくださるのです。 1月16日(金)創世記一1〜8  神さまはこの世界を言葉によって造られました。まず「光あれ」と言われれば、光があらわれます。そのように一つ一つ神さまが言われると、「そのようになった」のです。「そのようになる」神さまの言葉の力に私たちは頼っていいのです。 1月17日(土)イザヤ五五10〜11  神さまはああ言われたけど、そうならないね。と思っていることはありませんか?私のイメージでこうなるだろうと思っていると、わからないことがあります。神さまが言われた言葉が、今の私たちにも行われていることを、どうぞ私たちが発見してけますように。    イエスさまの語ること、なさる奇跡は「悔い改めよ、神の国は近づいた」ということを、見たり、聞いたり、感じたりできるためのものでした。それがわかるには、イエスさまを受け入れる柔らかい心が必要でした。 1月18日(日)マタイ十一1〜6  イエスさまはいったい何者なのでしょう?イエスさまが語る言葉で人が救われ、病気をいやしたり、悪霊を追い出したり、出会う人たちが生き生きしていきました。それを見たら、昔預言者イザヤが救い主について預言していたことと一致していて、イエスさまが預言されていた救い主なんだとわかるのです。 1月19日(月)マタイ十一7〜10  多くの人はバプテスマのヨハネが救い主ではないかと期待しました。では、ヨハネはどういう人なのでしょう。ヨハネも預言者によって預言された、救い主の働きのために人々の心を準備する人です。人々が救い主の方に心を向けることができるようにと、救い主を宣伝する人でした。 1月20日(火)マタイ十一11〜15  しかしヨハネは、今牢に入れられています。彼はこの後殺されのです。それはまた彼が指し示す救い主イエスさまも苦しまれることを予告していました。人々が、ヨハネもイエスさまもいらないと言う時がくるのです。 1月21日(水)マタイ十一16〜19  ヨハネと弟子たちは、断食をし、なるべく世の中の楽しみをさけて生活することを大事にしました。イエスさまと弟子たちは、罪人としてさげすまれた人々と食事をし、交わりを大事にしました。しかし多くの人々はどちらも受け入れませんでした。 1月22日(木)マタイ十一20〜24  イエスさまに「わざわいだ」と言われることは、恐いことです。しかし頑な心は、イエスさまのすばらしい業を見ても、救いの言葉を聞いても悔い改めることをさせないのです。頑な心からどうぞ私たちを助けてください。 1月23日(金)マタイ十一25〜27  神さまが、イエスさまのこと、神の国のことをわかるようにとされたのは、熱心に神さまに仕え、よく勉強しているような、人の目からみたら賢く立派な人ではありませんでした。ただ自分が神さまに頼るしかない弱い者だと知っている人が、イエスさまのことをわかるようにされました。 1月24日(土)マタイ十一28〜30  今何か悩んでいませんか。落ち込んでいませんか。どうしていいかわからなくて不安でたまらなくなっていませんか。苦しみや悲しみで潰されそうではありませんか。一人で背負わなくていいのです。イエスさまが共に背負ってくださいます。またイエスさまを信じている誰かに話しを聞いてもらうといいですよ。  私たちは心が激しく揺さぶられる嵐のような苦しみに襲われることがあります。苦しみが長く続くと、心が暗闇で覆われてしまいそうになるかもしれません。でもイエスさまは真っ暗な希望を持てない心に、必ず光をもたらしてくださるお方なのです。 1月25日(日)マタイ十四22〜23  イエスさまは、弟子たちを先に向こう岸へ向かわせて、一人になって静かになる時間を持ちました。いつでもイエスさまは大勢の人々に囲まれていました。だからこそイエスさまは、一人だけの時も持ったのです。心を神さまにむけてお祈りをし、まず神さまの思いに耳を傾けることを大事にされたのです。 1月26日(月)マタイ十四24〜25  一方弟子たちの舟は、嵐にあい、前にも後ろにも進めません。イエスさまが弟子たちのもとへ水の上を歩いて行かれたのは明け方の四時でした。もっと早く来てくださったらよかったのに。イエスさまが来てくださったのは、暗闇の一番深い時だったのです。どんなに深い暗闇にもイエスさまが来てくださいます。 1月27日(火)マタイ十四26〜27  あまりの真っ暗闇で、弟子たちは幽霊がやってきたと勘違いして、こわがり叫びだしました。「しっかりするのだ。わたしだ。恐れることはない」。イエスさまのはっきりとした言葉に、弟子たちの叫びは安心と喜びに変わりました。良かったこれで大丈夫だと。 1月28日(水)マタイ十四28〜29  すると、ペテロはイエスさまにお願いして、イエスさま目指して水の上を歩きはじめました。イエスさまは私たちにも、もはや進む道がなくどうしようもないと思える苦しいところを、「おいでなさい」と命じて歩かせてくださいます。 1月29日(木)マタイ十四30  イエスさまをみつめて歩いていたペテロの目が、激しくゆれる波と、吹いて来る風にとらわれたとたん、ペテロは溺れかけてしまいました。イエスさまが進ませてくださっても、ついイエスさまから目をそらしたとたん、問題の大変さにとらえられて溺れかける私たちなのです。 1月30日(金)マタイ十四31  イエスさまはすぐに手を伸ばし、「主よ、お助けください」と叫ぶペテロの手をと引き揚げて言われました。「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」ペテロははとしました。ただイエスさまを信じて見つめて進んでいけばよかったんだと。 1月31日(土)マタイ十四32〜33   不思議なことに、イエスさまとペテロが舟に乗り込むと、風がぴた りとやみました。イエスさまってすごいですね。いるだけで風がやむのですから。神の子イエスさまが一緒にいるということは必ず嵐のやむ時がやって来るということなのです。    学校には規則や伝統があります。それは守ることによって先生も生徒もお互いが楽しく生活し、また生活態度が正しく導かれるためです。しかし真面目すぎて、規則はお互いが生かされるためのルールであることを忘れると、人の批判ばかりしてしまうかもしれません。 2月1日(日)マタイ十五1〜2  「食事の時に手を洗う」のは、私たちにとっても当たり前のことですよね。でもここでは、私たちがばい菌が入らないためによごれを落とすのと違って、神の前にけがれたままで食事をしないために、きよめてからいただくということなのです。でもその方法は、神さまから言われたのではなく、昔の人が決めた方法でした。 2月2日(月)マタイ十五3〜6  パリサイ人や律法学者たちは熱心でまじめでした。でも熱心に昔から言い伝えられてきたことを守ることによって、神さまからの律法に従わないことがあるとは気づいていませんでした。時に昔からの言い伝えが、律法よりも大事にされてしまったのです。 2月3日(火)マタイ十五7〜9  「偽善者たちよ」という言葉は、「いい人のふりをしているだけの人たちよ」ということです。真面目にやっている学者たちにとってはイエスさまの言葉は、強烈で腹立たしかったでしょう。でも彼らは、外側ばかりが立派で、心の中の思いとは一致していなかったのです。 2月4日(水)マタイ十五10〜11  どんなに水で手を洗い清めても、心の中の罪は清くなりません。そして清めない手で食事をしても、それが心の中を汚すこともないのです。私たちの心の中にある醜い思いが、何かの拍子に出てきて、人を傷つけ、自分のみにくさを現してしまう、つまり汚してしまうのです。 2月5日(木)マタイ十五12〜14  よく勉強している学者たちが、目が見えていなとはどういうことでしょうか。物事を見る目が、本当に大事なことと、大事ではないことがわからなくなっているのです。人一倍熱心であるはずなのに、実は心が神さまからずっと離れてしまっていることに気づいていなかったからです。 2月6日(金)マタイ十五15〜20  私たちは食べたもので必要ないものはトイレに入って出しています。だから口に入るものは外に出ます。では人の口から出てくるものとはなんでしょう。言葉が出てきます。言うことは、思っていることですし、することにもつながります。 2月7日(土)マタイ十五15〜20   体を洗っても心をきよめることはできません。人の努力や立派な行いではきよめることのできない罪を、イエスさまが十字架の血潮で洗いきよめてくだいました。学者たちのためにも私たちのためにも。  イエスさまって一体何者なんだ?多くの人がイエスさまについて興味を持ちました。ある人たちはイエスさまをすばらしい人だと思いましたが、ある人たちはイエスさまをねたんで良いとは思いませんでした。あなたにとってイエスさまはどんなお方ですか? 2月8日(日)マタイ十六1〜4  パリサイ人とサドカイ人は、ユダヤ教の中にあるグループのことです。彼らは普段は考え方の違いから、仲良しではありませんでした。しかしイエスさまを陥れたいということには意見が一致していました。悪意で一致団結してしまう、そういう罪を私たちもおかしてしまうことがあります。 2月9日(月)マタイ十六1〜4  彼らはイエスさまが神の子なら「天からのしるしを見せてもらいたい」と求めました。しかしイエスさまはすでに大勢の人をわずかなパンと魚でおなか一杯にしたり、病気をなおしたりしました。そして何よりもイエスさまが神さまのことがわかるしるしなのです。でもイエスさまを認めたくない心は、見えているものを見えなくしていました。 2月10日(火)マタイ十六5〜10  イエスさまが「警戒せよ」と言われたことを、弟子たちは違った意味でとらえました。そこでイエスさまに「まだわからないのか」と言われてしまいます。パンを忘れても、今まで五千人や四千人の人々をお腹一杯にできたように、イエスさまにただ信頼すればよいからです。イエスさまにはどうすることでもできるのです。 2月11日(水)マタイ十六11〜12  「パリサイ人とサドカイ人のパン種を警戒しなさい」とはどういうことなのでしょう。少量でパンを膨らませるパン種のように、イエスさまの言葉を受け入れない彼らの教えで心をいっぱいにしないように、ということだったのです。 2月12日(木)マタイ十六13〜16  イエスさまのことをすごい人だ、力のある預言者だとみんなうわさしました。でもペテロは、イエスさまこそが「生ける神の子キリストです」と告白しました。他の弟子たちも同じ思いでした。 2月13日(金)マタイ十六17  ペテロも私たちも、イエスさまを「生ける神の子キリスト」だと信じることができたのは、賢かったり、一生懸命学んでわかったりしたことではありません。天の神さまがそのことを聖霊によって示してくださったからなのです。 2月14日(土)マタイ十六18〜20   教会はペテロや私たちがイエスさまこそ救い主ですと告白する信仰の上に建っています。そして教会であるペテロと私たちには、天国を開く鍵が授けられました。それは「あなたの罪はゆるされます」と伝えることによって天国を開く鍵なのです。  私たちは自分の身近にいる人、親や、家族、先生などからいろいろな影響を受けています。それは背中を見て学んでいるとも言います。イエスさまの弟子としての歩みも同じです。イエスさまの背中を見て学ぶのです。目に見えないイエスさまですが、み言葉を聞いて従おうとする時に背中を見つめて歩んでいるのです。 2月15日(日)マタイ十六21  「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白できて喜んでいた弟子たちに、イエスさまは思いがけないないことを話し出されました。それはこれからご自分が苦しめられ殺されるというのです。聞いた弟子たちにはなんとショックな話でしょう。でもそれで終わりではありません。三日目によみがえるべきこともちゃんとしめされました。 2月16日(月)マタイ十六22〜23  「それはとんでもないことだ。あってはいけない」。ペテロはイエスさまのことを思って言ったつもりが、「サタンよ、引き下がれ」と言われてしまいました。自分の方が正しいとイエスさまを押しやり、前に出てしまいがちな私たちです。神さま、イエスさまの後ろにさがって歩む者としてください。 2月17日(火)マタイ十六24  自分を捨てるとは、自分のことなどどうでもいいと思うことではありません。どうしても私がイエスさまの前に出て、でしゃばってしまうことをやめて、イエスさまの後ろに下がることです。私が思ういいことより、イエスさまの思ういいことを受け入れることです。 2月18日(水)マタイ十六24  私たちのモデルはイエスさまです。イエスさまを目標にして生活していくことによって、私たちもまた十字架を負ってイエスさまに従う者にされていきます。 2月19日(木)マタイ十六25〜26  私たちはなるべく自分が損をしないようにしたいと思います。またせっかくあるものはなるべくなくならないようにしたいものです。でもイエスさまは私たちのために命まで捨てて神さまには見捨てられて、誰よりも大損して、私たちを救ってくださいました。 2月20日(金)マタイ十六25〜26  もし死んでしまったら、たくさんの財産も名誉もむなしいものになります。だから自分のことだけを考えて生きるより、イエスさまと人と一緒に生きることを大事にするなら、損をしたり、無駄になったりすることがあっても、それを越える多くの祝福をいただけます。 2月21日(土)マタイ十六27〜28  イエスさまの弟子の生活は、楽しいことばかりではなく、悲しみや苦しみ痛みもあります。けれどもいつかイエスさまが再び来られる時に、イエスさまの弟子で本当に良かったと全てが喜びに変えられるのです。  イエスさまは、十字架に向かってエルサレムへ進んでいかれました。しかし弟子たちの興味は、自分たちが偉くなれるかどうかでした。イエスさまに従ってきたのだから、後には良い位が与えられるはずだと。しかしイエスさまに従う者の道は、偉くなることからは離れて行く道であったのです。 2月22日(日)マタイ二十17〜19  弟子たちは今回のエルサレムへの旅は、いつもと違うことを聞かされます。それはイエスさまが、エルサレムで罪人としてとらえられ、死刑を決定され、十字架につけられると言われたのです。弟子たちはどんなにか悲しい気持ちになったことでしょう。でもイエスさまは三日目によみがえることも語られました。 2月23日(月)マタイ二十20〜21  弟子たちはまだ、イエスさまの十字架の話の意味が、よくわかりませんでした。ただいつかイエスさまが王になる国の大臣になれるように今のうちにお願いしておこうと、ヤコブとヨハネと彼らのお母さんがやってきたのです。これは他の弟子に大臣の座をとられないようにするための抜け駆けでした。 2月24日(火)マタイ二十22  このずうずうしいお願いは、もし自分たちがお願いしていることがどんなに大変なことなのかを知っていたらしなかったかもしれません。なぜなら彼らはまずイエスさまと同じように苦しみを耐えなければならないからです。それはイエスさまのために命を奪われることになるのです。 2月25日(水)マタイ二十23  そして将来確かにヤコブとヨハネはイエスさまのために死ななければならなくなります。けれどもだからといって、大臣になれるとは、約束されませんでした。それは父なる神さまがお決めになることだとイエスさまは言われました。 2月26日(木)マタイ二十24  さて、この二人の抜け駆け行為を聞いて、他の十人の弟子たちはかんかんに怒りました。彼らばかりずるいではないか。自分たちだって、イエスさまに従ってきたのだから、大臣に選ばれてもいいはずだ。それを抜け駆けしようとは許せないと。 2月27日(金)マタイ二十25〜27  力のある人、地位のある人は、自分の力で人を動かすことができます。偉くなったことを感じて気持ちがいいかもしれません。しかし神の国の生き方は、自分の力で人を動かすのではなく、人のために自分のできることをする、僕になるのです。 2月28日(土)マタイ二十28  イエスさまこそ、持っている力をふるって人を脅して支配しませんでした。むしろ無力になって私たちを救うために十字架で死んでくだいました。神の子が私たちの僕になってくださったのです。  華やかな都エルサレムへやってきたイエスさまと弟子たち。大勢の人たちに迎えられました。しかしイエスさまの目は、人々がちやほやすることの先に起こる十字架へ向かっていました。 3月1日(日)マタイ二一1〜3  イエスさまは前もってあるお家の人に子ろばを貸してくれるよう頼んでおられました。だから弟子たちが行って、借りる時の合い言葉、「主がお入り用なのです」を言えば、すぐに借りられるようになっていました。「主がお入り用なのです」と私たちも言われたら、すぐに立ち上がることができますように。 3月2日(月)マタイ二一4〜5  イエスさまは子ろばに乗ってエルサレムの町へ入ろうとしていました。昔の預言者が、救い主は子ろばにのって来られると預言しました。だからイエスさまが子ろばに乗れば、みんなあの預言の言葉はイエスさまのことだったとわかるのです。それも戦いに出陣する軍馬ではなく、ろばに乗る王は平和をもたらすお方なのです。 3月3日(火)マタイ二一6〜8  弟子たち言われた通りに子ろばを連れてくることができました。イエスさまが子ろばに乗ると、多くの人々は、自分たちの上着を道にしいてイエスさまを自分たちの王としてお迎えしました。しかしイエスさまの手には戦いの剣や勇ましい姿はなく、また人々が期待していた王とも違う、十字架に向かう救い主としてエルサレムに入っていかれました。 3月4日(水)マタイ二一9  多くの人々が「ダビデの子にホサナ(主よ、救ってください)」と叫びました。それはイエスさまこそ、王様、救い主だという賛美と喜びの叫びでした。しかしこの叫びが数日後にはイエスさまのことを「十字架につけよ」という叫びに変わっていくのです。 3月5日(木)マタイ二一10〜11  子ろばに乗るイエスさまを賛美して迎えるさわぎに、「いったいこの人はどういう人だ」と思った人々がいました。イエスさまはどういうお方なのでしょう。預言者であり、王であり、救い主です。しかしそれが気に入らない人々には、この騒ぎは騒音でしかありませんでした。 3月6日(金)マタイ二一12〜13  イエスさまはそのまま神殿に向かいました。そしてそこで自分たちのお金をもうけるために神殿を利用している人々を、驚くほど激しく怒って追い出されました。神殿は神さまと祈りによって交わる場です。またいやされて神さまに感謝する場であるからです。 3月7日(土)マタイ二一14〜17  イエスさまの神殿での行動や賛美する子どもたちの言葉は、学者たちを不愉快にさせました。しかしイエスさまへの賛美をやめさせることはできませんでした。  イエスさまが十字架へ向かう時が刻一刻と迫っていました。イエスさまの語られる言葉は、一つ一つが衝撃的でした。「私を食べなさい」、「あなたがたはわたしにつまずく」、「わたしは悲しみのあまり死にそうだ」。でも弟子たちは誰もイエスさまの思いを本当に理解することができませんでした。 3月8日(日)マタイ二六26〜29  奴隷から救い出されたことを感謝する過越の食事の時でした。十字架を前にして、イエスさまは新しい過越の食事を定められました。それはまるでイエスさまの体を食べ、血を飲むように、パンとぶどう酒をいただくことで、罪の奴隷から私たちも救われたことを覚え感謝する食事です。今は洗礼を受けたらいただくことのできる聖餐として受け継がれています。 3月9日(月)マタイ二六30〜35  イエスさまは、「今晩、あなたがたはみなわたしにつまずいてしまうだろう」と言われました。弟子たちはまた悲しいことを聞きました。しかし彼らの心には残らなかったかもしれませんが、「よみがえってガリラヤに行く」という希望の言葉も聞いていたのです。 3月10日(火)マタイ二六36〜39  ゲツセマネの園でのイエスさまの祈りは、悲しみと苦しみでいっぱいでした。そしてこれからイエスさまを襲う苦しみを避けることができたらとまで祈られました。しかしイエスさまは、自分の思いを通すのではなく、神さまの思いに全てを任せられました。 3月11日(水)マタイ二六40〜46  弟子たちはイエスさまが苦しみもだえながら祈っている間、起きていることができませんでした。体の弱さ、心の弱さが私たちを祈れなくさせます。神さま、私たちが目を覚まして祈ることができますように。 3月12日(木)マタイ二六47〜50  人々がイエスさまを捕らえようとしにやってきました。弟子たちの眠気は吹き飛びました。その人々の中に、弟子仲間のユダがいたのです。裏切り者の姿は弟子たちの心を大きくゆさぶりました。しかしイエスさまのユダへの呼びかけは「友よ」でした。友として最後まで、ユダのことも思っておられたのです。 3月13日(金)マタイ二一51〜54  イエスさまを守らなければと、一人の弟子が剣をぬいて大祭司の僕の耳を切り落としました。イエスさまは、その弟子を止め、ご自分も自分を守ることのできるいっさいの奇跡をなさらず、ただされるがままに任されました。 3月14日(土)マタイ二一55〜56  このようにして起こったことはみな、預言者たちによって預言されていたことでした。そして弟子たちもイエスさまの予告どおり、みな逃げ去ってしまいました。  イエスさまは、裁判にかけられることになりました。味方は一人もいません。人々が嘘ばかり言って、イエスさまを死刑にしようとしているのを知っていても、イエスさまはじっと耐え忍ばれました。 3月15日(日)マタイ二六57〜58  とらえられたイエスさまは大祭司の家に連れて行かれました。そこでイスラエルのリーダーたちが、イエスさまを裁判にかけました。ペテロは遠くからついて行き、中庭に入ってなにくわぬ顔で、他の人々に紛れて座りました。イエスさまがこれからどうなるのか見届けようと思いました。 3月16日(月)マタイ二六59〜61  裁判はまるでインチキでした。なぜなら、イエスさまが悪いことをしたと言えるはっきりとした証拠も証人もいなかったからです。みんなとにかくイエスさまが死刑になるように、嘘の話をいろいろしました。人を悪いとするために、私たちもつい嘘をつくことがあるのではないでしょうか。 3月17日(火)マタイ二六62〜64  イエスさまはいっさい、自分のことを言い訳したり、間違っていないと自分を守ろうとしたりしませんでした。大祭司が「あなたは神の子キリストなのか」言った時「あなたの言う通りである」と言っただけです。私たちだったら自分の立場がどんどん悪くなるのに、黙って耐えるのはなんと大変なことでしょう。 3月18日(水)マタイ二六65〜68  イエスさまの答えに、大祭司たちは「これだ」と飛びつきました。「この男は、自分を神と同じだとしている。これは死刑だ」と決定したのです。その後の人々のイエスさまに対する仕打ちはひどいものでした。ばかにしたり、暴力をふるったり。私たちも人を自分よりも下に見て、愚かなことをしてしまっていることがあるかもしれません。 3月19日(木)マタイ二六69〜70  ペテロの周りの人々が「あなたもイエスの仲間だ」と言い始めました。ペテロは三回言われ、三回とも「知らない。関係ない」と言いました。鶏の鳴く声を聞いてはっとしました。自分はイエスさまを裏切ってしまった。固く決心したはずだったのに、恐くなってしまった。自分は弟子失格だ。ペテロも私たちも弱い者なのです。 3月20日(金)マタイ二七1〜4  ユダもまた自分のしてしまった大きな罪に気づきました。しかし悔い改めた場所では、それを受け入れてもらえませんでした。神さまの前に悔い改めたなら、彼もまた許されることを知ることができたのです。 3月21日(土)マタイ二七5〜10  ユダの結末は悲しいものでした。でもイエスさまはユダのためにも十字架で死なれました。ユダさえ主のもとに戻れば、チャンスが与えられたのです。 イエスさまを死刑にするには、ローマの総督のゆるしが必要でした。イスラエルがローマ帝国に支配されていたからです。ローマの総督ピラトのもとでもう一度裁判が行われますが、ピラトははじめからイエスさまには何も罰するような悪事を見つけられませんでした。 3月22日(日)マタイ二七11〜14  ピラトは、イエスさまが、祭司長や長老たちに訴えられているのに、「それは違います」とか「それはこういう意味です」と言って、彼らのうその訴えから自分を守ろうとしないのが不思議でたまりませんでした。イエスさまは自分から十字架へ向かっておられたからなのです。 3月23日(月)マタイ二七15〜19  ピラトにはあきらかにイエスさまが何の罪もないことがわかっていました。これはねたみのために、イエスさまを陥れようとしているだけだと。だから過越の祭にちなんでゆるされる囚人は、イエスさまであるべきだと思っていたのです。 3月24日(火)マタイ二七20〜23  しかし、祭司長や長老たちは先回りして群衆に「バラバ」をゆるしてもらうよう示し合わせていました。人々は「バラバをゆるしてほしい」と叫びました。そしてイエスさまのことは「十字架につけよ」と叫びました。どうしてもイエスさまを死刑にしなければという思いは、正しいことを折り曲げていきました。 3月25日(水)マタイ二七24〜26  ピラトにはイエスさまは悪くないことがわかっていたにも関わらず、このまま群衆を無視したら、もっと大変なことになるかもしれないと思いました。そこでピラトは自分を守るために手をひいて、イエスさまのことをユダヤ人に引き渡したのです。ピラトもまた正しいことを折り曲げてしまいました。 3月26日(木)マタイ二七27〜31  十字架に向かう前、ローマの兵士たちがイエスさまの周りを囲み、イエスさまに赤い外套を着せ、いばらのかむりをかぶらせ、葦の棒を持たせました。そして「ユダヤ人の王ばんざい」と言って、イエスさまをさげすみ、ばかにし、笑い飛ばしたのです。人の心のなんと悲しいことでしょう。 3月27日(金)イザヤ五三1〜5  イエスさまが生まれる四百年前に、イザヤは救い主が苦しめられることを預言していました。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。」「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ」とあるように、イエスさまの生涯と重なります。 3月28日(土)イザヤ五三6〜12  イエスさまが黙々と苦しみや恥ずかしい思いを受けられたのは、私たちの罪のためでした。イエスさまは預言されていたように、私たちのために救い主の道を歩んでくださいました。  「パッション」という映画で、イエスさまが長い時間むちで打たれるシーンが忘れられません。聖書はただ「イエスをむちで打ったのち、十字架につけるために引きわたした」(二七26)とだけ書いていますが、むち打ちがどんなにむごいものであったのか実感した場面でした。 3月29日(日)マタイ二七32〜34  むちで打たれたイエスさまの体は、すでにぼろぼろでした。ひどい傷と激しい痛みのある背中で重い十字架をかつぐのは無理なことでしょう。思いがけず通りすがりのクレネ人シモンが十字架を無理に背負わされました。しかし痛みをやわらげるふどう酒は飲むことなく、痛み全てを引き受けられました。 3月30日(月)マタイ二七35〜38  イエスさまの罪はどういうものかを示すはずの罪状書きには、「これはユダヤ人の王イエス」と書かれていました。そう言って自分を神としたと記されてもいいはずなのに。むしろ、ユダヤ人の王であるお方を十字架につけていると、ユダヤ人たちの過ちを示すかのようでした。 3月31日(火)マタイ二七39〜44  十字架で苦しまれるイエスさまに、多くの人々が「神の子なら、自分を救え」と言ってののしりあざ笑いました。悪魔は人々のそうした言葉と態度を利用して、イエスさまの十字架を失敗させようと誘惑しました。しかしイエスさまはその言葉にのりませんでした。そして神さまが決められた救いの道を成し遂げられました。 4月1日(水)マタイ二七45〜49  イエスさまは「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエスさまが神さまから見捨てられるとは!私たちは神さまから見捨てられたらもう救いはありません。でもイエスさまが私たちの全ての罪を裁かれ見捨てられてくださったので、私たちはもう決して見捨てられないのです。 4月2日(木)マタイ二七50〜56  イエスさまが息を引き取られた時、神さまと人の間を隔てていた罪がとりさられました。そして不思議なことが数々起こりました。この出来事を見て、それが神の業だとわかった人たちは、「イエスさまは本当に神の子だった」と信じました。 4月3日(金)マタイ二七57〜61  イエスさまは墓に納められました。墓の穴は大きな石でふさがれました。それを見届けたのは、イエスさまの十字架を最後まで見届けた女たちでした。 4月4日(土)マタイ二七62〜66  「三日の後に自分はよみがえる」と言われたイエスさまの言葉を覚えていたのは、イスラエルのリーダーたちでした。しかし信じない心には、何事も起こらないよう阻止しなければならない邪魔なことにしか思えませんでした。