167号聖書だワクワク  御言を聞くことはとても大切なことです。昔は文字通り、御言を聞きました。私たちのように手軽に聖書を持って、自分の部屋で聖書が読めるなんて、昔の人にはとても考えられないことだったでしょう。その代わり、集まりなどで代表者が読んでくれる聖書の御言を、みんな注意深く聞きました。聞くだけだと忘れてしまいますから、聞いたことを自分でも言い直して覚えました。頭の中で何回も思い出して考えました。みんなはどんな「聞き方」をしているでしょうか。 10月2日(日)マタイ七13〜14 狭い門と広い門、通りやすい門と通りにくい門、みんながぞろぞろ行く門とあまり行かない門。そして、命に通じる門と滅びに通じる門。あなたはどちらを選ぶでしょうか。イエスさまはあなたにも命に至る門から入ってほしいのです。 10月3日(月)マタイ七15〜20 よい木と悪い木をどうやって見分けるか。簡単です。実を見たらいいのです。本当の預言者と嘘の預言者とどうやって見分けるか。何を話しているかと共に、その人たちがどのような生き方をしているかをじっと見つめることです。ところであなたはどんな実を結んでいますか。 10月4日(火)マタイ七21〜23 神さま、神さま、と言って何回も大声でお祈りしていればいいということではありません。お祈りするのは大切ですが、神さまの御心を行っていなかったら何にもならないのです。 10月5日(水)マタイ七24〜29 神さまの言葉を聞いていても、聞くだけでやめてしまったら嵐が来たら吹き飛ばされてしまいます。大切なことは聞いたとおりに行うことです。御言の上にしっかり土台した人生を進んでいくことです。 10月6日(木)黙示録二1〜7 エペソの教会に当てた手紙の中でイエスさまは、初めの愛に立ち帰るようにとおっしゃいました。最初イエスさまを信じて歩み出したときに心にもっていた愛です。あなたはイエスさまを愛していますか。 10月7日(金)黙示録二8〜11 スミルナの教会にあてた手紙の中で、イエスさまは教会が苦難の中にあること、これからもその苦難が続くことを知っておられました。けれども、イエスさまはスミルナのクリスチャンたちがきっと忠実に生きてくれると信じておられました。    ◇  ◆  ◇ 10月8日(土)黙示録二12〜17 ペルガモの教会はとても厳しい中に置かれていました。町はまるで悪魔に乗っ取られているかのようです。けれどもそんな中でも命をかけて信仰を守る人たちがいたのです。  聖書の言葉は神さまの言です。神さまが口で語られた言葉です。神さまの口から出て来た言葉です。聖書を書いた人のうちに神さまの霊が働いて、この言を書かせられたのです。聖書の言は真実で、信じて大丈夫です。時代は変わります。人々の考え方も変わるでしょう。けれども聖書の言は変わることはありません。私たちは不確かで、不真実であったとしても、聖書の言は確かなのです。 10月9日(日)マタイ八1〜4 重い皮膚病の人は誰にも助けてもらえませんでした。ずっと悩んでいました。苦しんでいました。きまりでは許されていないことでした。この人は勇気を出してイエスさまに近づいていきます。イエスさまは手をのばしてこの人にさわり、「そうしてあげよう、清くなれ」とおっしゃいました。そして、すっかり清くなりました。 10月10日(月)黙示録二18〜29 神さまはテアテラのクリスチャンたちの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っておられました。またそのクリスチャンの生き方がよくなっていることもちゃんと知っていてくださいました。まだまだ課題も多かったと思います。でも神さまは期待しておられたのです。 10月11日(火)黙示録三1〜6 サルデスのクリスチャンたちは、死んでいる、死にかけていると言われています。まさにクリスチャンとは言えなくなってきているぞ、と警告されているのです。大事なことは最初のことを思い出して悔い改めることでした。 10月12日(水)黙示録三7〜13 ヒアデルヒア教会は大きな力をもってはいませんでした。けれども、この人たちは迫害や困難の中にあってもイエスさまを拒むことはありませんでした。神さまはあなたを愛していると言われます。 10月13日(木)黙示録三14〜22 ラオデキヤの教会は生ぬるい教会でした。イエスさまはこの教会をしかられます。けれどもそれはこの教会が嫌いだからではなく、この教会を愛しておられたからです。イエスさまは戸を開いて私を受け入れなさいと招いておられます。 10月14日(金)Uコリント一1〜7 私たちは苦しいことを経験することがあります。けれども神さまは私たちを慰めてくださいます。そして、私たちは、神さまからいただくその慰めをもって今度は他の人たちを慰めることができるようにされるのです。 10月15日(土)Uコリント一8〜11 パウロも苦しいことを経験しました。死にそうなこともありました。そして、自分がどんなに当てにならないかを知りました。でも同時に、パウロは死人をよみがえらせてくださる神さまを当てにすることを学んだのです。  聖書の言葉は単に印刷されて本になった言葉ではありません。それは神さまご自身を表すものです。だから聖書を読むことは何かの義務やおつとめではありません。お仕事や宿題でもありません。神さまの祝福であり、恵みです。それは神さまとお会いすることです。私たちは聖書を読むときに、私たちを愛してくださっている主にお会いして、喜びに満たされるのです。 10月16日(日)マタイ八5〜13 百卒長はローマの百人隊長です。けれどもこの隊長は決して威張り散らすような人ではなく、自分の僕のひとりが病気になった時に本当に心配して、イエスさまにそのことを伝えます。そして、「ただお言葉をください」と語ります。この百人隊長はイエスさまの力を信じていました。イエスさまの言葉の力を信じていました。 10月17日(月)マタイ八14〜17 ペテロの奥さんのお母さんが熱を出して苦しんでいました。イエスさまは家に入って、そのお母さんの手を取っていやしてくださいました。いやされたお母さんは、すぐに起き上がってイエスさまをもてなしました。 10月18日(火)マタイ八18〜22 イエスさまについていくには覚悟がいります。イエスさまについて行っても、お金持ちにはなれないかもしれません。できないこともあるかもしれません。それでも、イエスさまについていくのはすばらしいことですよ。 10月19日(水)使徒二〇32 パウロはもうエペソには行けないと思いました。でもエペソの教会の人たちに、神さまがいてくださるから、御言があるから大丈夫と教えます。御言は私たちを導いて神さまの国に生きる者とするのです。 10月20日(木)ヘブル四12 神さまの言は生きていて力があります。単なる「言葉」ではありません。この言は私たちを生かし、私たちを造り変えます。御言の前に立つと、私たちの心にあることが本当に神さまを愛する本物かが分かってきます。 10月21日(金)詩篇一一九97〜104 神さまの言は私たちに知恵を与えて私たちを正しい道に導きます。この詩篇の作者は神さまの言を愛しています。どんなに甘い蜜よりも甘く、おいしくて、私たちの心を満ちたらせてくれるのです。 10月22日(土)詩篇一一九105〜112 悪い人たちはわなをしかけて、詩篇の記者が失敗するようにたくらんでいます。けれども御言があれば大丈夫です。迷うこともありません。御言はどんなに暗い中にあっても、私たちの足元を照らし、私たちの行くべき道を教えてくれるからです。  聖書の言には権威があります。神さまがおっしゃったことはその通りになります。決して御言は都合が悪くなったり、変わってしまうことはありません。御言には力があります。御言は私たちが掲げるべき目標ではありません。御言は生きていて、その言にあるとおりのことを私たちの生涯の中に成し遂げていくのです。御言には力があるのです。 10月23日(日)マタイ八23〜27 イエスさまと弟子たちはガリラヤ湖の上で大嵐に会います。イエスさまのお弟子さんたちの中には漁師もいました。嵐も何回も経験していたことでしょう。でも、その弟子たちが怖くて悲鳴をあげます。しかし何も怖がる必要はありませんでした。イエスさまは起きて、風と波をお叱りになりました。すると風も波も静まりました、イエスさまには力があるのです。 10月24日(月)マタイ八28〜34 向こう岸に着いたとき、そこに悪霊につかれた人が二人いて、墓場に住んでいました。彼らは大声を出して乱暴をするのです。イエスさまはこの人たちの悪霊を追い出してあげました。みんなはイエスさまに出て行ってほしいと言います。豚の方が大事だったからです。 10月25日(火)詩篇一〇七1〜9悩むこと・苦しいこともあるかもしれません。でもすばらしいことは、そのような時にも私たちが神さまに叫ぶことができることです。神さまは私たちの祈りを聞き、私たちを助けてくださいます。 10月26日(水)詩篇一〇七10〜16 暗黒と深い暗闇の中にいる人たちがいます。罪の中に入り込んでしまったのです。けれども、そんな罪人が神さまに叫ぶときに、神さまはその人を救い出し、本当の自由を与えてくださいます。神さまはいつくしみ深いお方です 10月27日(木)詩篇一〇七17〜22 罪を犯し、滅びに向かって進んでいた人でも、主に助けを求めると、主は御言を遣わしてその人を救ってくださいます。イエスさまを信じた時にいただいた聖書の御言を覚えていますか?聖書の御言はあなたをいやし、あなたを救います。 10月28日(金)詩篇一〇七23〜32 嵐に巻き込まれて、どんなに勇気のある人でも悩み、途方に暮れてしまうようなその時、その悩みの中で神さまに助けを求めると、神さまはその嵐を沈め、波も穏やかになります。どんな困難の時にも、主はあなたを救うことができるのです。 10月29日(土)詩篇一〇七33〜43 悪を行い続ける人を神は裁かれます。しかし、同時に神さまはどんな困難・悲しみ・悩み・貧しさの中にある人でも救うことのできるお方です。神さまには力があるのです。神さまをたたえましょう。 私たちが神の子かどうか、私たちの罪が赦されて、天国に行けるかどうか、どうしてわかるでしょうか。あなたはイエスさまを信じてからも、また罪を犯したことでしょう。それでも神の子だとどうして言えるのですか。それは聖書の御言にそう書いてあるからです。あなたの気持ちがすっきりしているかどうかとか、うれしいかどうかということではありません。もし聖書の言うとおりにイエスさまを信じたら、あなたは神の子です。聖書にそう書いてあるからです。 10月30日(日)マタイ九1〜8 この人は体が動かなくなっていました。友だちがイエスさまのところに連れてきてくれたのです。でもこの人にとって一番の問題は体のことではなく、心のこと、罪のゆるしのことでした。そしてイエスさまは本当に助けてくださいました。 10月31日(月)マタイ九9〜13 イエスさまは取税人マタイに声をかけてお弟子さんにされました。イエスさまはみんなから嫌われている人たち、悪いやつと言われている人たちともお友だちになりました。イエスさまは罪人をあわれんで招いてくださるのです。 11月1日(火)マタイ九14〜17 イエスさまの教えは新しいものでした。そしてイエスさまの新しい教え・新しい救いの道には、新しい考え・新しい生き方が必要でした。パリサイ人たちもヨハネの弟子たちも古い生き方にしばられていたのです。 11月2日(水)詩篇三二1〜5 罪を隠していると心が重たくなります。何よりもすばらしいのは罪が赦されることです。そして、神さまは私たちが自分の罪を隠さないで告白し、イエスさまを信じるときに私たちの罪を赦し、平安と喜びを与えてくださるのです。 11月3日(木)詩篇三二6〜11 悪いことをして、楽しい気持ちになったとしても、得をしたと思うことがあったとしても、それは不安と悲しみにつながっていきます。大切なことは罪を悔い改め、神さまに従い、神さまを信じておすがりすることです。 11月4日(金)Tテモテ一12〜17 パウロは自分を罪人の頭だと言います。けれども、そんな罪人の自分を救うためにイエスさまが来てくださったというのです。イエスさまは罪人を救うために十字架にかかって死んでくださったのです。 11月5日(土)使徒二37〜42 ペテロは自分の罪が分かって苦しくなった人たちに言いました。悔い改めてイエスさまを信じてバプテスマを受けなさい。罪のゆるしが与えられる。今も同じです。私たちが悔い改めてイエスさまを信じるなら、どんなに罪が深くてもゆるしていただけるのです。 聖書の言は私たちを救いに導いてくれるだけではありません。聖書の言は、神の子にされた私たちが、悪魔に負けないように守ってくれます。私たちは神の言によって悪魔に立ち向かい、悪魔を打ち破ることができるのです。悪魔は聖書の言が大嫌いです。そして私たちがあまり聖書を読まないように、読んでもすぐに忘れるようにしようとします。だまされてはいけません。御言をしっかり心にたくわえましょう。 11月6日(日)マタイ九18〜26 イエスさまは病気の女の人も、会堂司の娘さんもいやしてくださいました。大切なのはいやしてくださるイエスさまです。それぞれがイエスさまだったら直していただける、イエスさまだったら娘も生き返る、そう信じていたのです。イエスさまは、信じていたとおりに答えてくださったのです。 11月7日(月)マタイ九27〜34 二人の目の見えない人が「私たちをあわれんでください」とイエスさまについてきました。目が見えるようにしていただきたかったのです。イエスさまは二人に「私にそれができると信じるか」と問いかけられました。あなたはどうですか。 11月8日(火)マタイ九35〜38 「収穫」とはここでは、神さまの働きが豊かに表されていくこと、多くの人たちの心が神さまに向いていくことです。収穫は多いのです。足りないのは神さまのお手伝いをする働き人です。あなたはどうですか。 11月9日(水)マタイ十1〜4 イエスさまはまず神さまのお仕事をする十二人のお弟子さんを選びました。決して有名人や特別に立派な人たちではありませんでした。でもイエスさまはこのお弟子さんたちを育ててくださったのです。 11月10日(木)マタイ十5〜15 イエスさまは弟子たちを神さまを伝える旅に送り出されました。その旅行を通して弟子たちは神さまに信頼することを学び、また町々で人々のために平安を祈りました。私たちもみんなのために平安を祈る仕事があるのです。 11月11日(金)マタイ十16〜33 イエスさまは弟子たちのお仕事がやさしくないこと、時に人々から嫌われ、迫害されることを知っておられました。でも父なる神さまがちゃんと一緒にいて、話すことも教えてくれると、イエスさまは励ましてくださいました。 11月12日(土)マタイ十34〜42 イエスさまについて行く人は、自分の十字架を負って行きます。たとい命を失うことがあっても、その人は誰にも奪われない永遠の命を持っています。また、神さまは支えてくれるすてきな仲間たちも必ずおいていてくださるのです。  聖書の御言はあなたが悪魔に勝つことができるように助けてくれるだけでなく、神の子になったあなたが、神の子として元気に成長し、神さまが喜ばれるものとして造られていくように、あなたの心に栄養を与え、命を与え、あなたを整えて、立派に神さまのお仕事ができるようになるように、あなたを育ててくれます。聖書を読まないクリスチャンはいつまでも赤ちゃんで、気がつかないうちにだんだん元気がなくなってしまいます。御言はあなたを育てるのです。 11月13日(日)マタイ一三1〜23 聞いてはいるけれど、すぐに忘れてしまう。聞いてはいるけど、都合のいいときしか従わない。聞いてはいるけど、他にも大事なことがたくさんある。それでは豊かな実を結ぶことはできません。大切なことはしっかりと心で理解して、従うことなのです。 11月14日(月)マタイ一三24〜43 神さまが歴史を完成してくださる終わりの時がやってきます。そのときは神さまを信じて歩む人には救いの日です。けれども、神さまに背いて歩き続けている人には裁きの日です。それまでは神さまを信じていてもいなくても同じように見えるかもしれません。でも違うのです。 11月15日(火)ヤコブ一19〜21 御言は私たちを救う力を持っています。だから神さまが語られる言をきちんと聞いて、神さまの嫌われる罪からきちんと離れ、心にくださる御言をしっかり受け止めることが大切です。 11月16日(水)ヤコブ一22〜27 御言を聞くだけではいけません。大切なのは聞いて従うことです。神さまがおっしゃるとおりに生きることです。神さまはそのために必要な力を、あなたにちゃんと与えてくださるからです。 11月17日(木)ヤコブ二1〜4 御言を聞くだけでなく行うとはこういうことだということをヤコブは語ります。ひいきをしたり、差別をしたりしたら、イエスさまを信じていることにならないよ、というのです。 11月18日(金)ヤコブ二5〜13 神さまは、神さまがあの人は嫌いだからと、その人を貧しくしているのではありません。その貧しい人も豊かな信仰を持っています。神さまはあなたがその人を愛し、その人から学ぶようにその人を置かれたのです。 11月19日(土)ヤコブ二14〜26 聖書を読んで知っているというだけでは何にもなりません。頭の中で信じているというのも足りません。信じている人は、そのように生きます。あなたは聖書の御言を信じていますか。もしそうだとしたら、あなたの生き方は信じることでどう変わっているでしょう。  聖書の御言にはあなたに御国をつがせる力をもっています。あなたが神さまとつながって神さまのご支配の中に生きることができるようにしてくださいます。やがての日、天国で主と共に住むことができるようになるまで私たちを造り続けてくださいます。神さまは責任をもって私たちを導いてくださるのです。そして、そのことは私たちが聖書を読み、聖書と親しむ中で私たちに起こるのです。 11月20日(日)マタイ一三44〜46 天国にはとてもすばらしい高価なものです。そして天国は私たちが全部をかけないと自分のものにはなりません。言い方を変えると、どんなものにも変えられないほど、天国はすばらしいものなのです。天国に入るために他のものを全部ささげたとしても惜しいとは思わないでしょう。天国はそれくらいすばらしいところだからです。 11月21日(月)マタイ一三47〜52 世の終わりの時にはすべての人は神さまの前に立ちます。そして神さまは天国に入る人と、地獄に行く人を分けられます。知ってください。イエスさまを信じる人は天国に入れていただけるのです。 11月22日(火)マタイ一三53〜58 イエスさまは自分が育たれた町に来て、そこで神さまのことをみんなにお話ししました。でもナザレの町の人たちはイエスさまのことを信じようとはしませんでした。せっかくそこにイエスさまがいらっしゃるのに信じなかったのです。 11月23日(水)イザヤ一1〜20 イスラエルの人たちは罪を重ね、その心は神さまから遠く離れていました。けれども神さまは、そんなイスラエルの人たちの汚れた心が雪のように白くなり、羊の毛のようになるとおっしゃいました。神さまがそのことをしてくださるのです。 11月24日(木)イザヤ一21〜31 イスラエルの国ではみんなが悪いことをしました。昔はそうではなかったのに、と神さまは嘆かれます。けれども、罪にあふれたその町に、正義と忠信と公平とが回復すると神さまはおっしゃいました。 11月25日(金)イザヤ二1〜5 「終わりの日」とは神さまの歴史の完成の時、「主の家の山」とはエルサレムのことです。神さまにはとっておきのご計画がありました。世界中の人たちが神さまを求め、主の言を求めて集まってくるというのです。 11月26日(土)イザヤ二6〜22 イスラエルの国は偶像だらけになっていました。またすぐに神さま以外の強い人とか強い国にすがろうとしていました。そんな姿でありながら、人々は高ぶり、自慢ばかりしていました。しかし、高ぶる人を低くされ、主のみが高くあがめられるようになるのです。  聖書の言が命を与え、また私たちを神さまの御国に導く力があるのは、その言を語られたお方に権威があり、その言が指し示している救い主イエスさまに力があるからです。もちろん、旧約聖書の中には「イエス」というお名前は出て来ません。けれども、旧約聖書も新約聖書もこの同じお方、私たちの救い主であるイエス・キリストなのです。 11月27日(日)イザヤ三1〜26 国のことを考え、人々のことを考えるべきリーダーたちは自分のことしか考えていませんでした。エルサレムの若い女性たちは、国が大きな危機の中にあるときに、たくさんのぜいたくな宝石で身を飾り、自分がどれだけ美しいかを誇っていました。神さまの前に自分の罪を悔い改め、心をきれいにしていただき、心を美しくしひょうとはしなかったのです。 11月28日(月)イザヤ四1〜6 イザヤはこのままではこの国は滅んでしまうということを知っていました。けれども、それだけではなく、神さまがもう一度、イスラエルの罪を洗い清め、聖なる者とし主の栄光にあずからせてくださることも知っていたのです。 11月29日(火)イザヤ五1〜7 神さまはイスラエルを愛して、主の愛するぶどうの木として、良い地に植え、肥料をやり、細心の注意をして最良のお世話をし、良い実ができるのを待っていました。しかし、イスラエルから生まれてきたのは罪と汚ればかりでした。 11月30日(水)イザヤ五8〜30 「わざわいなるかな」イザヤは深いため息をつくような思いで語ります。イスラエルの人たちはお酒ばかり飲んで、悪いことばかりして、良いことはしない、欲張り…イザヤはそんな民に早く自分の姿に気づいてほしかったのです。 12月1日(木)イザヤ六1〜7 とても力のあったウジヤ王が死んでしまったとき、イザヤは神殿で神さまのみ姿を見ます。そのときにイザヤはどんなに自分が汚れているかを知ります。けれども神さまはそんなイザヤの罪をゆるし、悪を除いてくださいました。 12月2日(金)イザヤ六8 イザヤは「わたしはだれをつかわそうか」とおっしゃる神さまのお声を聞きます。イザヤはその時に「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」とお答えしました。あなたはどうお答えしますか? 12月3日(土)イザヤ六9〜13 人々に語るようにと言われたのはみんなが喜んで聞くようなメッセージではありませんでした。かえって、語れば語るほど、人々は頑固になっていきました。けれどもイザヤは神さまのメッセージを語り続けなければなりませんでした。  今日はアドベントの第二聖日です。クリスマスを前にした四週間の二週目です。私たちはこの四週間、クリスマスを待ち望んで過ごします。それはプレゼントを楽しみに待つというだけではありません。クリスマスの意味を考え、そのことを思い巡らすのです。なぜ、イエスさまは生まれてくださったのでしょう。なぜイエスさまが生まれことをみんなでお祝いするのでしょう。神の子のイエスさまが人になってくださったということはどういうことなのでしょうか。 12月4日(日)イザヤ七1〜9 北イスラエル王国とスリヤとが一緒になって南ユダ王国に攻めてきました。みんなとても不安でした。けれども、イザヤは恐れないで、神さまを信じて静かにしているようにと語ります。神さまは南ユダの王も人々も神さまに信頼していることを願っておられたのです。 12月5日(月)イザヤ七10〜17 神さまはアハズ王に一つのしるしを与えられます。それは神さまの救いが確かであり、神さまに頼っていれば間違いがないことをしめししるしでした。そして神さまが与えてくださったのはおとめから生まれたイエスだったのです。 12月6日(火)イザヤ九1〜7 ガリラヤは神さまの恵みが届かないと言われた暗い地方でした。けれども、そのガリラヤに救い主が来てくださいました。神さまは私たちのために赤ちゃんのイエスさまをくださったのです。神さまは熱い愛でこれをなさったのです。 12月7日(水)イザヤ十20〜27 神さまはイスラエルを全く滅ぼすことはなさいませんでした。神さまの元に帰り、エルサレムに帰って来る一握りの者たちを残してくださったのです。彼らは神さまに頼って神さまの救いをいただくのです。 12月8日(木)イザヤ一一1〜5 エッサイはダビデのお父さんです。ダビデの家系から救い主がこられることが約束されていました。この救い主の上には神さまの霊がとどまり、このお方は正義と公平をもって世を治められたのです。 12月9日(金)イザヤ一一6〜10 イザヤは単に救い主が来てくださることだけを語ったのではありません。イエスさまはイザヤが預言したとおり来てくださいました。けれどもそれで終わりではありません。神さまは新しい世界を作ってくださいます。みんなが神さまを知っている新しい世界です。 12月10日(土)イザヤ一二1〜6 イザヤは神さまに感謝の賛美をささげます。神は罪を裁かれますが、それはイスラエルが悔い改めてもう一度救われるためでした。神さまはすばらしい救いをみごとになし遂げられたのです。私たちも神さまに感謝しましょう。  今日はアドベントの第三聖日です。今週はミカ書を一章ずつ読んでいきます。ミカはイザヤとほぼ同じ時代に北王国イスラエルと南王国ユダの人々に語りました。ミカはイザヤとは違ってエルサレムから遠く離れた田舎の人でした。けれどもミカは神さまの言葉を語らないではいられませんでした。世の中は豊かな時代で、また国は一時的に栄えているように見えたかも知れません。けれども神に背き続けたまず北イスラエル王国はミカが活躍していた時代にアッスリヤ帝国に滅ぼされてしまったのでした。そのような時代にミカは神さまの裁きと救いを語ったのです。 12月11日(日)ミカ一1〜16 サマリヤは北イスラエルの首都、エルサレムは南ユダの首都でした。北も南も神さまに背き続けていました。そのような民に神はミカを通して語られたのです。 12月12日(月)ミカ二1〜13 人々はミカを黙らせようとしました。自分に都合の良い話しか聞こうとはしませんでした。罪を犯し続ける人々を神は滅ぼそうとしておられました。けれども同時に、神はその民をもう一度^救い、導き帰ろうとしておられたのです。 12月13日(火)ミカ三1〜12 イスラエルの民を導くべき指導者たちも、神さまの言葉を語る預言者たちも、神さまに背き続けていました。それなのに、神さまがおられるから災いは来ないと言っていました。イスラエルの人たちは自分の罪に気づき、それを認めて悔い改めるべきでした。 12月14日(水)ミカ四1〜14 神さまは裁きと共に、終わりの日に、もう一度エルサレムが回復され、世界中の人たちが神さまを慕って集まってくると語られます。傷ついた人々が神さまにいやされ、強くされるのです。 12月15日(木)ミカ五1〜14 神さまの救いはどのようにして起こるのでしょうか。神さまは王なるお方、平和をもたらすお方がユダの国の中でも小さな小さな町だったベツレヘムに生まれると約束してくださいました。 12月16日(金)ミカ六1〜16 ミカは人々にもう一度、神さまが何をしてくださったかを思い起こすようにと言います。そして言います。主が喜ばれるのは、民が正しい道に立ち帰り、へりくだって神さまと共に生きることだったのです。 12月17日(土)ミカ七1〜20 ミカはイスラエルの人々の罪を見ています。みんなが罪を犯し、だましあい、誰も信じられなくなっています。けれども、ミカは主を仰ぎ、救いの神を見上げます。そして、ミカは確かにイスラエルの民を回復してくださる神の救いを待ち望むのでした。  この日曜日はアドベントの第四聖日です。旧約聖書の時代から人々が救い主のお生まれを待ち望んでいたように、私たちも主イエス・キリストのお生まれを待ち望みます。もちろん、イエスさまはもうとっくに二千年も前に赤ちゃんとして生まれてくださいました。けれども、私たちはこのクリスマスの季節に毎年、イエスさまが何のためにこの世に来てくださったのかを思い巡らすのです。それだけではありません。もう一度来るからと約束してくださった主イエスのお約束を思い起こすのです。 12月18日(日)マタイ一1〜6 イエスさまの系図が出てきます。イエスさまはアブラハムの子、ダビデの子として生まれてくださいました。またここにはタマル、ラハブ、ルツという三人の女性の名前も出てきます。神さまのご計画は不思議に進んで行きました。 12月19日(月)マタイ一6〜11 ダビデはからの名前は王さまたちです。神さまはダビデに約束してダビデの家系からずっと王さまが出るからとおっしゃいました。けれども、やがて国はバビロンに滅ぼされ、人々もバビロンに捕らえ移されてしまいます。これは神に背いた人間の歴史でもありました。 12月20日(火)マタイ一12〜17 イスラエルの人たちはゾロバベルの時代にエルサレムに帰ってきます。イスラエルの人たちはずっと神さまが約束された救い主を送ってくださるのを待ち望んでいました。そして、イエスさまはお生まれになったのです。 12月21日(水)ルカ一26〜38 御使ガブリエルはマリヤにすばらしい知らせを伝えます。不安や心配もあったでしょう。けれどもマリヤは、神さまのしもべとして、自分に語られた神さまの言をそのまま受け入れたのでした。 12月22日(木)ルカ一39〜44 エリサベツおばさんはマリヤの親戚でした。エリサベツはマリヤが救い主のお母さんになることをとても喜んでくれました。神さまのおっしゃったことは必ずそのとおりに実現するとマリヤがそのまま信じたことを喜んでくれました。 12月23日(金)ルカ一45〜55 マリヤは心から神さまを賛美しました。神さまがこんなに小さく弱い自分のことを心にとめて、自分のためにすばらしいことをしてくださったからです。マリヤのためだけではありません。この赤ちゃんはイスラエル全体の救い主、世界全部ための救い主でした。 12月24日(土)マタイ一18〜25 婚約者ヨセフはとても戸惑っていました。けれども、主の使いが語った言を信じてヨセフはマリヤを受け入れました。イエスさまは神さまがいっしょにいてくださることを証しする方でした。  クリスマスおめでとう!イエスさまは私たちを救うために赤ちゃんになってこの世に来てくださいました。神さまに心から感謝し、また神さまのしてくださった大きな御業をたたえましょう。  今日は二〇一一年の最後の日曜日でもあります。神さまはこの一年どのような恵みをくださったでしょうか。神さまのしてくださったことを一つ一つ思い起こして感謝しましょう。次の日曜日は二〇一二年になります。来ることのできない人は、教会の先生にそうお話ししておいてくださいね。 12月25日(日)マタイ二1〜12 博士たちは遠い東の国からイエスさまを礼拝するためにやってきました。そしてイエスさまを見つけて、心から喜んで礼拝しました。でも王さまも他の人たちもイエスさまをお迎えしようとはしませんでした。 12月26日(月)マタイ二13〜18 主の使いがヨセフに危険が迫っていることを教えてくれました。ヨセフはこのことを聞いた時に、夜のうちにすぐに用意をして、危ないところを助かりました。ヨセフはエジプトに逃れます。旧約聖書に書いてある通りでした。 12月27日(火)マタイ二19〜23 主の使いはまたヨセフに知らせて、家族をもう一度イスラエルに戻されます。イエスさまが育ったのはガリラヤのナザレという村でした。これも旧約聖書に書いてある通りでした。 12月28日(水)詩篇一一二 「主をほめたたえよ」はヘブル語では「ハレルヤ」です。神さまに祝福される人とは、どんな中にあっても主に信頼する人、正しいことを行い、憐れみ深い人です。困っている人を見捨てることはありません。主はそのような人を覚えていてくださいます。 12月29日(木)詩篇一一三 この詩篇もハレルヤで始まりハレルヤで終わります。主は高いところにおられるお方です。けれども主は貧しい人、弱い人、またみんなから馬鹿にされている人をお心にとめていてくださるのです。 12月30日(金)詩篇一一四 神さまはイスラエルの民をエジプトで奴隷であったところから導き出されました、神さまは紅海二つに分け、ヨルダン川をせき止めてイスラエルの民を進ませられました。イスラエルのために岩を池に、石を泉にされました。 12月31日(土)詩篇一一五 私たちがすばらしかったのではありません。神さまがすばらしかったのです。偶像や人は全くあてになりません。偶像にすがる人は愚かです。私たちは、私たちを助け、守られる主に信頼し、永遠にずっと主をほめたたえます。神さまに感謝しましょう。ハレルヤ!