15×24×1+15×26×2 いよいよ新学期ですね。新しい学年に進み、また新しく進学するお友だちもいることでしょう。神さまはこの新しい一年も、みなさんにきっとすてきな出会いを与え、またたくさんの恵みをくださるはずです。新しい学校に行ったり、新しいクラスになるのはドキドキしますけど、大丈夫です。イエスさまがみんなと一緒に行ってくださいます。期待していきましょう。    ◇  ◆  ◇ 4月3日(日)ルカ二二1~6 ユダにサタンがはいった・・・と聖書は言います。イエスさまのいるところにみんなを連れて行って、イエスさまを捕まえさせるかわりに、お金をもらってしまったのです。悪魔は一番大事なことが何かが分からないようにしてしまいます。悪魔に心にはいられないようにしてください。そのためにはあなたの心の真ん中にイエスさまにいていただくことです。 4月4日(月)ルカ二二7~13 過越の祭が近づいていました。イスラエルの国で一番大事なお祭りです。昔、神さまがエジプトから救い出してくださったことを思い起こすのです。イエスさまは十字架につかれる前に、この大事な祭を祝おうとされました。イエスさまの十字架の救いの時が近づいていたからです。    ◇  ◆  ◇ 4月5日(火)ルカ二二14~23 イエスさまはパンと杯を弟子たちに与えられました。それは、イエスさまが十字架の上で裂かれるからだと、流される血を意味していました。これが最初の聖餐式です。    ◇  ◆  ◇ 4月6日(水)ルカ二二24~30 弟子たちは十字架の前の夜も、誰が一番偉いかと話し合っていました。偉くなってもいいのです。ただ偉いということはみんなにいばり散らすということではなく、みんなに仕える人になるということなのです。 4月7日(木)ルカ二二31~38 ペテロはイエスさまを裏切ることになります。でもイエスさまはペテロのために祈ってくださいました。失敗してだめになってしまうのではなく、ペテロが信仰を取り戻し、みんなを励ますことをイエスさまは知っておられたのです。    ◇  ◆  ◇ 4月8日(金)ルカ二二39~46 イエスさまはいつものようにオリブ山に行って、いつもの場所で祈られました。イエスさまはそこでとても大切なお祈りをなさいます。イエスさまも十字架がどんなに大変なことかを知っておられました。でもみこころが成るようにと祈られたのです。    ◇  ◆  ◇ 4月9日(土)ルカ二二47~65 イエスさまが捕まったとき、ペテロハ遠くからついて行きました。でもあっという間に三回もイエスさまを知らないと言ってしまいました。でも、イエスさまはそんなペテロを見つめておられました。 さあ、新学期が始まってどうでしたか?三月までと同じクラスでお友だちと始められた人もいるでしょうけれど、クラス替えがあったり、新しい学校に進んだりして、まだ知らない人ばかり、ということもあるかもしれません。だれかが声をかけてくれるまでに待っているのではなく、ぜひあなたの報からみんなに「おはよう!」と声をかけてください。神さまも、神さまの方から私たちに近づいて、私たちに声をかけてくださったからです。    ◇  ◆  ◇ 4月10日(日)ルカ二二66~71 イエスさまは神の子です。だから神の子かと言われて、あなたがたの言うとおりと答えられました。でもみんなは嘘だと言いました。本当です。本当にイエスさまは神の子なのです。みんなはせっかく神の子がそこにおられたのに信じようとしなかったのです。 4月11日(月)ルカ二三1~5 ピラトはローマの総督でした。ユダヤ人たちは、ローマが認めてくれないとイエスさまを死刑にできなかったのです。イエスさまは自分は「ユダヤ人の王」とおっしゃいました。イエスさまこそ、ユダヤ人だけではなくすべての人の王の王、主の主です。    ◇  ◆  ◇ 4月12日(火)ルカ二三6~12 イエスさまは、ヘロデがどんなにひどいことを言っても、黙っておられました。ヘロデにとっても神さまを信じるチャンスでした。でも、目の前に神の子がおられたのに、その神の子をばかにしたのです。    ◇  ◆  ◇ 4月13日(水)ルカ二三13~25 ピラトはイエスさまが何も悪いことをしていないことを知っていました。でも、みんなが大声を上げて、十字架につけよと叫び続けたとき、その声に負けてしまいました。 4月14日(木)ヨハネ一八28~40 イエスさまは王でした。でもイエスさまの国はこの世のものではありませんでした。イエスさまは真理をみんなに分からせるために来てくださいました。イエスさまご自身が真理でした。ピラトも目の前にいるイエスさまを信じるべきでした。    ◇  ◆  ◇ 4月15日(金)ヨハネ一九1~12 見よ、この人だ!とピラトはいばらの冠をかぶったイエスさまを引き出しました。そこにいた人たちはイエスさまを十字架につけよと言いました。けれども、このイエスさまこそが私たちの救い主です。    ◇  ◆  ◇ 4月16日(土)ヨハネ一九13~16 本当はイスラエルでは神さまが王様でした。でも神さまを信じているはずの人たちが、カイザル(ローマ皇帝)だけが私たちの王様だと言いいました。私たちの王様って誰でしょう。神さまを王として従うお互いでありたいと思います。 今週は受難週です。十字架のイエスさまのことを思いながら過ごすときです。今週の日曜日にホザナの声の中、エルサレムに入って行かれたイエスさまは、木曜日の夜、ゲッセマネの園で血の汗を流してお祈りした後に捕まえられ、金曜日に十字架につけられました。イエスさまが何か悪いことをしたのではありません。イエスさまだけが何も罪のないお方でした。そのイエスさまが私たちの罪を負って死んでくださったのです。    ◇  ◆  ◇ 4月17日(日)ルカ二三26 シモンは遠い国から過越の祭のためにエルサレムに来ていたのでしょう。どれほど、この祭を楽しみにしていたことでしょう。けれどもとんでもないことが起こりました。イエスさまの十字架を負わされてしまったのです。でもシモンはこの十字架のイエスさまを信じる人になったと言われています。 4月18日(月)ルカ二三27~31 女の人たちが泣きながらついてきていました。でもイエスさまはエルサレムに災いが近づいていることを告げられました。人のことどころではない、危機が迫っている。なのに人々はそのことにきづいていませんでした。    ◇  ◆  ◇ 4月19日(火)ルカ二三32~38 イエスさまは十字架の上で、自分を十字架につけた人たちのためにお祈りされました。恨んだり、憎んだりしないで、その人たちがゆるされ救われるようにお祈りされたのです。イエスさまのお祈りは私たちのためでもありました。    ◇  ◆  ◇ 4月20日(水)ルカ二三39~43 両側には強盗が十字架につけられていました。その中の一人はイエスさまが何も悪いことをしていない特別なお方であることが分かりました。イエスさまを信じたその強盗をイエスさまは天国に連れて行ってくださいました。 4月21日(木)マルコ一五33~41 私たちの罪を負って十字架の上で死んでくださったイエスさまは、父なる神さまからも見捨てられてくださいました。その苦しみのおかげで、私たちの罪が赦され、神の子とされる道が開かれたのです。    ◇  ◆  ◇ 4月22日(金)ルカ二三44~49 イエスさまは最後まで父なる神さまに信頼しておられました。全部を見ていたローマの百卒長が、この人は正しい人だったと言いました。聖所の幕が裂けました。イエスさまによって神さまに近づく道が開かれたしるしでもありました。    ◇  ◆  ◇ 4月23日(土)ルカ二三50~56 ヨセフは身分のある人でした。でもこの人は勇気を出してピラトのところに行って、イエスさまのお体を取り下ろし、引き取り、イエスさまを布でくるんで、お墓の中に入れました。神の子であるイエスさま、死ぬはずのない方が、本当に死んでくださったのです。 イースターおめでとうございます。週の初めの日、日曜日の朝早く、イエスさまはよみがえられました。イエスさまは本当によみがえられたのです。イエスさまのお墓は空っぽです。どこにもイエスさまの骨はありません。イエスさまのお墓にお墓まいりはしなくていいのです。イエスさまはお墓にはいません。イエスさまはよみがえって、今も生きておられるからです。    ◇  ◆  ◇ 4月24日(日)ルカ二四1~12 女たちは、香料を買ってイエスさまに塗ってあげようと思っていました。でもイエスさまはお墓にはいませんでした。女たちは大慌てです。でも、女たちが探していたのはイエスさまの死体でした。でもイエスさまはすでによみがええって墓にはおられなかったのです。女たちも弟子たちも、イエスさまが何回も何回もおしゃっていたことを忘れていたのです。 4月25日(月)マタイ二八1~10 み使いが女たちにイエスさまはよみがえられたと告げました。女たちは大喜びです。弟子たちにこのニュースを伝えるために走っていきました。私たちもイエスさまがよみがえられたという喜びを多くの人たちに知らせたいと思います。    ◇  ◆  ◇ 4月26日(火)マルコ一六1~8 イエスさまのお墓の前には大きな石が転がしてありました。一人では動かせないような大きな石です。でもイースターの朝、その石が転がされて、お墓の入り口がぽっかり空きました。誰もイエスさまをお墓の中に閉じ込めておくことはできなかったのです。    ◇  ◆  ◇ 4月27日(水)ヨハネ二〇1~10 ペテロもヨハネもイエスさまのお墓に行ってみました。そこにはイエスさまはいませんでした。ただイエスさまをまいていた布がそこに残されていました。イエスさまは確かによみがえられたのです。 4月28日(木)ヨハネ二〇11~18 マグダラのマリヤはお墓の前で泣いていました。悲しくて悲しくて泣いていました。まだイエスさまがよみがえられたことが分かっていなかったのです。でもイエスさまはマリヤに近づいて「マリヤよ」と声をかけてくださいました。    ◇  ◆  ◇ 4月29日(金)ヨハネ二〇19~23 その日曜日の夕方、弟子たちは戸を全部閉めて、部屋の中で息をひそめていました。でもその部屋の中にイエスさまが来てくださって、「安かれ」とおっしゃいました。おばけではなく本当にイエスさまでした。弟子たちは主を見て喜びにあふれました。    ◇  ◆  ◇ 4月30日(土)ヨハネ二〇24~29 トマスは一人だけそこにいませんでした。でも次の日曜日に、イエスさまはまた弟子たちの前に姿を表されました。イエスさまは人事ない者にならないで信じる者になりなさいとおっしゃいました。 五月になりました。新しい学校に進んで皆さんは新しい学校に慣れたでしょうか。たくさんお友だちができたでしょうか。誰か仲間に入れてくれないかなあ・・・と待っているのではなく、みんなの方から誰かに近づいて、その人のお友だちになれるといいですね。それがイエスさまの生き方でもあったと思います。まだ話したことがない人がいたらぜひ、今週声をかけてみましょう。    ◇  ◆  ◇ 5月1日(日)ルカ二四13~16 二人のお弟子さんたちが、エルサレムからエマオに向かって歩いていました。そこにイエスさまが近づいて一緒に歩いて行かれました。でも二人は気づきませんでした。イエスさまはあなたの行く所にもあなたと一緒におられます。あなたは一緒におられるイエスさまに気づいていますか。 5月2日(月)ルカ二四17~24 イエスさまは二人の弟子たちに声をかけます。二人はそれがイエスさまだと気づかずに、十字架のこと、そして空っぽになった墓のことを話しました。二人はまだ悲しい顔をしています。よみがえったイエスさまを信じていなかったからです。    ◇  ◆  ◇ 5月3日(火)ルカ二四25~27 イエスさまは、救い主が苦しむことになっていることも、死んでよみがえることもちゃんと聖書に書いてあることを聖書全体からお話になりました。これは聖書の約束だったのです。    ◇  ◆  ◇ 5月4日(水)ルカ二四28~32 イエスさまが聖書をお話になった時、二人の心が燃えてきました。そしてイエスさまがパンをさいて、渡されたとき、イエスさまだと気づいたのでした。あなたは聖餐式の時、そこにイエスさまがおられることが分かりますか。 5月5日(木)ルカ二四33~43 イエスさまがお弟子さんたちの中に立たれたとき、弟子たちは喜びよりも、恐れを感じました。お化けかもしれないと思ったのでしょう。でもイエスさまはおばけではありませんでした。確かによみがえられたのです。    ◇  ◆  ◇ 5月6日(金)Ⅰコリ一五1~8 パウロは自分が伝えた福音はこれだと言われました。それはイエスさまが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んでくださったこと、そしてよみがえってくださったことです。パウロもそのイエスさまにお会いしたのです。    ◇  ◆  ◇ 5月7日(土)Ⅰコリ一五10~11 パウロは、教会を迫害し、クリスチャンをいじめていた自分が救われたのも、自分がこのようにイエスさまのことを一生懸命伝えているのも、自分が偉いのではなく、自分と共にあった神の恵みだと言いました。 今年のゴールデンウィークはどうでしたか。お出かけした人も、どこにもお出かけしなかった人もいるでしょうね。でも学校がお休みだからこそできたこともたくさんあっただろうと思います。みなさんの中には小学生の人も中高生の人もいるでしょう。今、いろいろなことをして、いろいろなことを感じているはずです。ぜひ日記を書いて見てください。今、あなたが感じていることを忘れないためです。今のあなたに神さまがしてくださっていることを忘れないためです。    ◇  ◆  ◇ 5月8日(日)ルカ二四44~49 イエスさまに起こった事は十字架も復活も全部旧約聖書に書いてあったことでした。でもそれでは終わりません。弟子たちは聖霊を与えられて、世界中に罪のゆるしのすばらしい知らせを伝えるようになっていくのです。 5月9日(月)ルカ二四50~53 イエスさまは弟子たちを祝福しておられる中で天に帰っていかれました。今もイエスさまは天で、私たちのことを祝福していてくださいます。このイエスさまの祝福に支えられて、私たちは生きるのです。    ◇  ◆  ◇ 5月10日(火)使徒一1~5 イエスさまはよみがえられてから四十日にわたって弟子たちにご自分を示されました。あわててはいけません。イエスさまはエルサレムにとどまって聖霊を待っているようにとお命じになったのです。    ◇  ◆  ◇ 5月11日(水)使徒一6~8 イエスさまはお弟子さんたちに、あなたがたは私の証人になるとおっしゃいました。イエスさまがどんなにすばらしいか、その救いと復活をみんなにお話しするのです。でもそのためには、聖霊を待たなければなりませんでした。聖霊なしには力が出ないのです。 5月12日(木)使徒一9~11 イエスさまが天に変えられたとき、弟子たちはしばらく天を見上げて立っていました。けれども天使が現れていったのは、イエスさまはやがて同じように天から帰って来られるということでした。私たちもイエスさまを待っているのです。    ◇  ◆  ◇ 5月13日(金)ピリピ二1~5 心を合わせて一つになるためには、他の人たちの良いところを認めて、自分はへりくだった心をもつことです。へりくだって生きていかれたイエスさまのことをいつも思うことです。    ◇  ◆  ◇ 5月14日(土)ピリピ二6~11 イエスさまは神の子です。いばっていいのです。でもイエスさまは自分を低くして、みんなのしもべとして生きておられました。だから父なる神さまは、イエスさまをよみがえらせ、高く引き上げられました。いえすさまは王の王、主の主です。 今日から旧約聖書のエリシャの物語を学んでいきます。エリシャはエリヤのお弟子さんです。そしてエリヤのお仕事を引き継ぎました。そしてエリシャは預言者の学校を作って、神さまのことを教えてあげたといいまする  みんなには教会にも牧師先生や、教会学校の先生がいますよね。でもみんなが大きくなったら、ぜひ今、先生たちがしているお仕事をみんなが引き継いでほしいと思います。みんながまだ小さくても、少しずつお手伝いができるといいですね。    ◇  ◆  ◇ 5月15日(日)列王下四1~7 エリシャの知っていた預言者が子どもと奥さんを残して死んでしまいました。借金取りがお金を取りに来るのですがお金がありません。エリシャはからっぽの器をたくさん集めさせます。器は油でいっぱいになりました。 5月16日(月)列王下四8~17 シュネムの女はエリシャにとても親切にしてくれました。でもその女の人には子どもがいません。エリシャはこの女に、来年の今頃子どもが生まれるよ、と話します。信じられない話でした。でも本当に、その女の人に赤ちゃんが与えられたのです。    ◇  ◆  ◇ 5月17日(火)列王下四18~25 シュネムの女の子どもが大きくなったとき、突然頭が痛くなって、死んでしまいました。その女の人はすぐにエリシャの所にとんできます。どうしてもエリシャに会わないといけないと思ったのです。    ◇  ◆  ◇ 5月18日(水)列王下四25~31 シュネムの女の子どもに大変なことが起きたことを知ったエリシャはすぐにゲハジを遣わします。でも女はエリシャが来てくれるまではそこを離れませんでした。エリシャ、そしてエリシャの神さまに助けを求めたのです。 5月19日(木)列王下四32~37 エリシャは一人で、子どもの寝かされている部屋に入って、そこでお祈りしていました。エリシャは自分のからだを何度も冷たい子どものからだに重ねます。子どもはだんだん温かくなって、ついに目を覚ましました。    ◇  ◆  ◇ 5月20日(金)列王下四38~41 ききんで食べるものがほとんどないような時、エリシャは預言者たちのために野菜の煮物を作ります。ところがその中に間違えて毒が入ってしまいました。けれども、エリシャはその煮物の毒を消してしまいました。神さまが助けて下さったのです。    ◇  ◆  ◇ 5月21日(土)列王下四42~44 エリシャのところには百人の人がいました。でもパンはとても足りません。エリシャは神さまの言葉を伝えました。お腹いっぱい食べて、それでも残るから。神さまがおしゃった通りになりました。 エリシャは預言者たちを集めて、その人たちに神さまのことを教えました。今では、牧師先生になる人は聖書学院で勉強します。みんなが寮に住んで、一緒にご飯を食べ、一緒にお祈りし、聖書の勉強をします。それだけではありません。牧師さんになって困らないようにたくさん実習もします。神さまがあなたに牧師や宣教師になりなさい、とおっしゃったら、ぜひ来てくださいね。    ◇  ◆  ◇ 5月22日(日)列王下五1~7 ナアマンはスリヤの大将でした。でもナアマンは病気で悩んでいました。そのことを知ったイスラエルの少女がナアマンにサマリヤにいる預言者の話をします。エリシャのことです。王さまにはその病気は治せません。実はエリシャにも治せません。でもエリヤが信じ仕えていた神さまはどんな病気でも治せるのです。 5月23日(月)列王下五8~14 エリシャはナアマンにヨルダン川で七回身を洗うようにと言いました。ナアマンはカンカンになって怒ります。そんなことで治せるはずがない。でもエリシャの言うようにしたら、病気が治ってすっかりきれいになりました。神さまがきよくしてくださったのです。    ◇  ◆  ◇ 5月24日(火)列王下五15~19 ナアマンはうれしくて感謝でいっぱいで、エリシャにたくさんお礼がしたいと思いました。でもエリシャは受け取りません。治したのはエリシャではなく、神さまだったのですから。ナアマンは神さまを信じる人になりました。    ◇  ◆  ◇ 5月25日(水)列王下五19~27 エリシャのお手伝いをしていたゲハジはナアマンがくれようとしていたおみやげがほしくてたまりません。嘘を言って、それを自分のものにしました。でもそれは神さまが嫌われることでした。 5月26日(木)列王下六1~7 エリシャと一緒に神さまのことを勉強していた預言者たちは自分たちの家を建てるために木を切っていました。でもある人がお友だちから借りてきていた大事な大事な斧が水の中に落ちてしまいました。でもエリシャは一本の枝を使ってその斧を取り戻してあげました。    ◇  ◆  ◇ 5月27日(金)マタイ八1~4 イエスさまのところにもナアマンと同じ病気の人が来ました。イエスさまはその人の方に手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言って、その人をきよくしてくださいました。    ◇  ◆  ◇ 5月28日(土)詩篇三〇1~12 神さまは私たちが叫び求める時に、その祈りに答えてくださるお方です。神さまは私たちの嘆きや悲しみを喜びや踊りに変えてくださるのです。私たちが神さまに感謝してこころから神さまをほめたたえるためです。 神さまは、私たちの目には見えませんが、いつも私たちと一緒にいてくださいます。でも私たちは、目に見えない神さまを信じていると、まるで神さまがいないかのように、自分のことを忘れてしまっているかのように思うことがあるかもしれません。でも神さまは絶対にあなたのことを見捨てません。私たちは、神さまが一緒にいるような気がするときも、そんな気がしないときも、大丈夫。神さまはちゃんと一緒にいてくださっているよ。    ◇  ◆  ◇ 5月29日(日)列王下六8~14 神の人エリシャはスリヤの王さまがどこから攻めてくるか、あらかじめ知っていました。神さまがエリシャにそのことを教えてくださったからです。だから、イスラエルの王さまはエリシャの言う神さまの言葉を聞いている限り大丈夫でした。 5月30日(月)列王下六15~19 エリシャのいた町はスリヤの軍隊に囲まれてしまいました。でもエリシャにはもっと別のものが見えていました。それは自分を守ってくれている神さまの軍隊でした。神さまは私たちのことも守っていてくださいます。    ◇  ◆  ◇ 5月31日(火)列王下六20~23 スリヤの軍隊が目が見えるようになったとき、サマリヤの町の真ん中にいました。びっくりです。でもエリシャさんはこの人たちにたくさん食べさせて、安全に帰してあげなさいと言いました。憎しみは憎しみしか生まないのです。    ◇  ◆  ◇ 6月1日(水)エペソ一15~19 私たちには顔についている目の他に心の目があります。心の目が見えると、神さまのことが分かるようになります。神さまがどんなに力があり、どんなにすばらしい希望をくださっているかが分かるようになります。 6月2日(木)エペソ一20~23 神さまを信じる人の中には神さまが働いていてくださいます。その力は、イエスさまをよみがえらせた力です。そして、そのキリストは教会のかしらです。この教会には、神さまが満ち満ちていてくださるのです。    ◇  ◆  ◇ 6月3日(金)マタイ二〇29~34 イエスさまは、わたしに何をしてほしいのか、と尋ねられました。二人の盲人は、目が見えるようになることです、と答えました。あなたの心の目は見えていますか。見えるようにしてくださるのはイエスさまです。    ◇  ◆  ◇ 6月4日(土)詩篇一一九17~24 心の目が開かれると、神さまの御言葉が分かるようになります。神さまがどんなにすばらしいお方であるかが、どんなに私たちのことを愛し、考えていてくださるかね御言葉を読んでいる中でよく分かるようになってくるのです。 神さまは力のあるお方です。神さまにはどんなことでもできないことはありません。神さまは天地を創造してくださいました。山も、空も、海も、全部神さまが造ってくださいました。私たちもまた神さまに造られました。造っただけではありません。神さまは今も造られたものを支えていてくださいます。私たちのお祈りを聞いて答えてくださいます。こんな力のある神さまにお祈りできるってうれしいですね。    ◇  ◆  ◇ 6月5日(日)列王下六24~31 サマリヤがスリヤの軍隊に囲まれてしまったことがありました。敵に囲まれてしまったサマリヤの町は食べるものがなくなってしまいました。王さまは、神さまが悪いと、神さまのしもべのエリシャに八つ当たりをします。でも本当にしなければならなかったのは神さまに助けを求めることだよねえ。 6月6日(月)列王下六32~33 王さまはエリシャをつかまえるために使者を遣わします。神さまが助けてくれないからこんなことになるのだ、神さまを信じてもしょうがない、そう王さまは言います。でもエリシャは神さまを待っていました。助けて下さる神さまを信じていました。    ◇  ◆  ◇ 6月7日(火)列王下七1~2 一セアとは七リットルほどと言います。それが1シケルになる。今ははとのふん一カブ(六分の1セア)が5シケルなのです。いくら神さまでも・・・でも神さまは本当に天に窓を開こうとしておられました。    ◇  ◆  ◇ 6月8日(水)列王下七3~8 四人の病気の人たちがスリヤの陣地に出て行きます。でもそこはすでに空っぽでした。神さまが戦車・馬・大軍の音を聞かせられたからです。神さまがスリヤと戦われたのでした。 6月9日(木)列王下七9~15 お腹がいっぱいになった四人はふと大事なことに気がつきました。こんなすばらしいニュースをまだ町の人たちは知らない。早く知らせよう、と彼らは町の人たちに知らせました。私たちはイエスさまのすばらしいニュースを他の人たちに伝えなくていいでしょうか。    ◇  ◆  ◇ 6月10日(金)列王下七16~20 神さまの言葉の通りになりました。町は救われました。食べる物が十分とても安い値段で手に入るようになりました。神さまにだってできっこないと言った副官は、食べ物を見ながら食べることなく死んでしまいました。    ◇  ◆  ◇ 6月11日(土)列王下八1~6 シュネムの女は七年間ききんを避けてペリシテ人の地に行っていました。帰って来たら家も畑も、人にとられてしまっていました。でも神さまは女に持ち物を全部返してくださいました。 この日曜日は聖霊降臨日です。イエスさまは自分は父なる神様のところに帰るけれど、聖霊というお方を送ってあげる。このお方はあなたがたに罪を示し、神さまの言葉を悟らせ、私たちがイエスさまを信じることができるようにしてくださいます。そしてこの聖霊が来てくださると、私たちはイエスさまのことを他の人たちに証しすることができるようになるのです。この聖霊がお祈りしていた人たちに注がれて教会はスタートしたのです。    ◇  ◆  ◇ 6月12日(日)ヨエル二28~32 ヨエルはイエスさまの来られる八〇〇年前に北イスラエル王国で預言をしました。人々はなかなか神さまに返ろうとしませんでした。ヨエルは神の裁きが迫っていることを語ると共に、神の救いと回復を語ります。ヨエルは聖霊の注がれる日を予告していたのです。 6月13日(月)使徒一12~14 お弟子さんたちはイエスさまに言われたようにエルサレムに戻って、そこでお祈りしていました。一二〇人ほどの人たちが集まっていました。みんな心を合わせて、ひたすらお祈りしていました。    ◇  ◆  ◇ 6月14日(火)使徒二1~4 お祈りを始めて十日。五旬節(ペンテコステ)の日のことです。みんなが集まっていると、そこに聖霊が来られました。そこにいた人たちは、聖霊に満たされて、今まで話したことがないようないろいろな国の言葉で神さまのすばらしいこと、イエスさまの救いのことを語り出しました。    ◇  ◆  ◇ 6月15日(水)使徒二5~13 お祭りのために世界中から集まって来た人たちが物音に驚いてやってきました。そして、ガリラヤ出身の弟子たちが、自分の国の言葉で神さまのすばらしいことを聞いてとても驚きました。 6月16日(木)使徒二14~21 ペテロは、そこで起こっていることがヨエルが旧約聖書で約束しておられたことであることを知りました。神さまの霊が注がれて、神さまの言葉を語るようにされる。そして、世界中のどこの国の人でも、イエスさまの名を呼ぶ時に救われる・・・そのことが起ころうとしていました。    ◇  ◆  ◇ 6月17日(金)使徒二22~36 イエスさまは十字架につけられたけれど、よみがえられた。それは旧約聖書の中でダビデも預言していたことだ。そして、このイエスこそ、旧約聖書に約束されていた救い主だ、とペテロは語りました。    ◇  ◆  ◇ 6月18日(土)使徒二37~47 ペテロは聞いていた人たちに、悔い改めてバプテスマを受けるようにと勧めました。その日だけで三千人の人たちがイエスさまを信じました。救われる人たちはその後も毎日加えられていきました。 神さまはきよく、聖なるお方です。神さまが聖なるお方だとは、神さまが、人間をはるかに越えたお方、人間とは全く違うお方であることを意味しています。ですから、神さまには人間のような弱さや限界はありません。また人間がどんなにがんばっても、神さまになることはありません。神さまは私たちを造ってくださったお方、私たちは神さまに造られ、今も支えられている者なのです。    ◇  ◆  ◇ 6月19日(日)エレミヤ一1~10 エレミヤはまだ若者でした。そのエレミヤに神さまは語りかけられました。そして、エレミヤにあなたを預言者にしたとおっしゃったのでした。それは神さまの思いつきでおこったのではありません。神さまはずっと前からそのように決めておられたのです。恐れるエレミヤに神さまは私が共にいると語ってくださいました。 6月20日(月)エレミヤ一11~19 災いが来ようとしていました。みんなが神さまの喜ばれる生き方をしないからです。厳しいことを話すのは難しいことです。でも、神さまはエレミヤを励まし、わたしが共にいて、あなたを救うと約束してくださいました。    ◇  ◆  ◇ 6月21日(火)エレミヤ二1~8 神さまが最初、イスラエルをエジプトで奴隷であったところから救い出された時、イスラエルはとても神さまの前に素直で、喜びと神さまへの愛にあふれていました。でもすぐに、人々は神さまから離れていったのです。    ◇  ◆  ◇ 6月22日(水)エレミヤ二9~13 神さまが生ける水の源でした。神さまのところにはいつも尽きることのない泉がわき出ていました。でもイスラエルの人たちはこわれた水ためを掘るようにして、自分の力に頼ったり、偶像にすがるようになっていったのです。 6月23日(木)エレミヤ四1~4 神さまは、神さまに背を向けて自分勝手に生きているイスラエルの人たちに、それでもわたしの所に帰って来なさいと招いておられます。イスラエルの人たちは神の民としての特別なしるしを身体につけていました。でも大事なのは身体のしるしではなく、心でした。    ◇  ◆  ◇ 6月24日(金)エレミヤ五1~6 真実を求める人がひとりでもいたら・・・と神さまは語られます。でも貧しい人たちの中にも、また身分の高い人たちの中にも神さまに従う人はいませんでした。厳しい裁きがのぞもうとしていました。    ◇  ◆  ◇ 6月25日(土)エレミヤ七1~15 エルサレムに住む人たちは、そこにある主の神殿をとても自慢していました。そしてこの神殿があるから大丈夫と言っていました。でも神さまが願っておられたのは、みんなが神さまを信じ、神さまが喜ばれる生き方をすることでした。 神さまは愛に満ちたお方です。神さまはきよく、私たちをはるかに越えたお方ですけれども、小さく、弱く、罪深い私たちのこともお心にとめて愛していてくださいます。そして、私たちが滅んでしまうことなく、命に生きるために、主イエスさまをこの世に送ってくださいました。イエスさまは私たちの救いのために十字架にかかって死んでくださいました。神さまはそれほどまで私たちを愛してくださったのです。そして、その愛の神さまはいつも私たちと一緒にいてくださいます。    ◇  ◆  ◇ 6月26日(日)エレミヤ八1~7 神さまに背を向けて自分勝手に生きているイスラエルの人たちのことも、神さまは心配して、神さまの所に帰ってくることを待っておられました。でもイスラエルの人たちは心を固くし、頑固になって、神さま所に帰りませんでした。 6月27日(月)エレミヤ八8~15 確かにイスラエルの人たちは聖書を知っていました。でも知っているだけで、従わなかったら何にもなりません。大丈夫でないのに、平安・平安、大丈夫、と言い続けていました。    ◇  ◆  ◇ 6月28日(火)エレミヤ八16~22 エルサレムに裁きがのぞもうとしていました。エレミヤはそんなイスラエルに語り続けながら、心を痛めています。自分の仲間の人たちです。そこにやって来る苦しみを思って、悲しい気持ちでいっぱいになるのです。    ◇  ◆  ◇ 6月29日(水)エレミヤ九1~3 エレミヤは「涙の預言者」と言われています。エレミヤは、みんなが神さまの言うことを聞かなくて滅んでしまってもしょうがないとは思いません。その仲間のために涙を流すのです。あなたは誰かのために涙を流してお祈りしたことがありますか。 6月30日(木)エレミヤ九4~11 みんな表面的には仲良く見えます。優しく見えます。口でもそう言います。でも、心の中では、他の人たちを傷つけ、やっつけ、おとしめることばかりを考えていました。神さまはそんな人々の本当の姿を知っておられたのです。    ◇  ◆  ◇ 7月1日(金)エレミヤ九12~22 大変な滅びがやって来ようとしていました。エレミヤは涙を流しています。けれども人々は自分勝手な生き方をし続けてやめようとしないのです。神さまが願っておられることを知っているのにしらん顔をし続けているのです。    ◇  ◆  ◇ 7月2日(土)エレミヤ九23~26 エレミヤは自分で預言者になったのではありません。神さまにそう言われたのです。エレミヤは、もし神さまの道からそれることがあって、自分をこらしてほしいと願います。神のこらしめはその人が悔い改めて生きるためだからです。