「分離事件」から満80年

 
福音による和解委員会 平野信二
 
 イスラエルの五大祭には、それぞれ彼らの歴史における神の救いや自らの罪を記念する意味が込められています。同様に、私たちが恵みや喜びを憶えるだけでなく、過去の罪・過ちや痛みを神と向かい合う機会として記念することには意味があります。

 1917年、東洋宣教会ホーリネス教会は46教会、1406名の会員で設立されました。12年後の29年には206教会(巡回地233)、1万人を超える会員を擁する教団になり、33年には427教会、約2万人の会員(現在会員は約1万人)と成長し、プロテスタント主要三教派に肉薄しつつありました。純粋かつ単純に聖書を信じて熱心に伝道する姿は、初代教会の弟子たちのように「無学なただ人」と揶揄されながらも、否定しようのない力強さを持っていました。福音伝道館開設からわずか32年後のことです。そのような隆盛の真っ只中、今から80年前の1933年9月に「分離事件」が起こりました。この出来事はキリスト教界のみならず、一般紙にも報じられるほどに世間を賑わした後、36年10月の「和協分離」をもって一応の決着を見ます。財産は二分、聖書学院は中田派が使用、両者は今後「日本ホーリネス教会」という旧名称を用いないことを確認し、中田派は「きよめ教会」、委員派は「日本聖教会」としてそれぞれの道を歩み始めます。しかし、「分離事件」はその後の教会と牧師・信徒の中に影を落とし、今日に至るまでホーリネス系教会全体に大きな影響を与えています。

 だからと言って、戦前のホーリネス教会の歩みを否定したり、自分たちと関係のなかったものにすることはできません。また、ある一面だけを取り上げて「昔は良かった。あの頃のホーリネスに戻ろう」と言うのもおかしなことです。私たちは良くも悪しくもホーリネス教会の延長線上を歩んでいるのです。福音を伝えるということにおける熱心で純粋な信仰は、これからも継承していくべき大切な特質です。そして分離事件が、ホーリネス教会が最も大切にしてきた「救霊」「伝道」を推進していく中で起こった信仰の逸脱であることについて、私たちは真正面から受け止める必要があります。

 分離の主な原因は、監督・中田重治の「独裁指向や民族主義的な聖書解釈」という信仰のあり方にありました。そして、中田の問題点が明らかになってきた時に、双方が「両者の主張を冷静に分析・確認し、解決に向けて主体的にこの問題に関わり、自らの信仰によって判断をくだすことを回避した」ため、「ホーリネス教会が初めて経験する『神学論争』となる可能性」は放棄され、「神学的問題点を明確にしないまま分離に至ってしまった」のです※。この分離における「再臨信仰の躓き」は、「再臨信仰に関する教義を変更」し、「神社参拝や天皇崇拝などの偶像礼拝に堕ち」ていく序章となりました。伝えることに夢中になるあまり、福音理解(何を伝えるのか)という点が疎かになり、教派としての特質を失ってしまいました。

 今日、ホーリネス教会の流れを汲む教団は10を数えます。それぞれが特色をもって、日本の福音宣教を担っています。「戦責告白」以降、その交わりは深められ強められていますが、分離についての共同の学びと検証はまだ始まったばかりです。
(2013年11月「りばいばる」誌)
※分離事件については『日本ホーリネス教団史第一巻 ホーリネス信仰の形成』参照。