JHC 東日本大震災対策方針

災害対策本部からのお知らせ

「災害対策本部の設置と今後の方針」

「災害対策本部の設置と今後の方針」

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災害対策本部長 郷家一二三 

 今回の大規模地震災害に対し、3月15日(火)に東京中央教会にて、教団委員会・緊急支援対策室・総務局の合同会議を行い、「災害発生時の連絡・行動マニュアル」に従い、大規模災害に対して「災害対策本部」の設置を決定いたしました。
 すでに地震直後から、緊急支援対策室の 先生方が、被災された各県の教会を訪問し、 被害状況を調べ、緊急の支援物資を
届けて下さいました。
 また各教区長からも教区内の被害状況の報告をいただきました。これらはすでに総務局からのメールにて教区長に発信してきました。
災害対策本部は「災害対策本部設置決定後の行動マニュアル」に従って、
  ①救済活動の方針決定  ②情報の発信  ③関係各所との連絡調整  ④金銭管理  ⑤活動記録  ⑥活動終結次期の決定などを行います。

1.被災地で生活上の困難に直面されている方々に向け、

 特に教会の置かれている地域で必要とされる支援を行います。被災地のホーリネス教会の教会員をはじめ、地域の諸教会との交わりや地域住民への支援を優先させたいと願っていますので、必要を災害対策本部(綾瀬教会)までお申し出ください。

2.災害本部は中越沖地震の時にも共同で救援活動をした

  「クラッシュ」というクリスチャンの団体と連携して、今回も救援活動を行います。またJEA(日本福音同盟)、JEF(日本福音連盟)との連携をとって活動を進めます。

3.これらの活動を支援するための支援献金の口座を設けました。またボランティアを今後募集します。

  ご協力をよろしくお願いいたします。

4.なお現地への直接の働きかけは混乱を

  引きおこしますので控えて下さい。本部への問い合わせをよろしくお願いいたします。

5.会堂・牧師館の応急の補修は、現地の判断を

  優先して実施し、原状回復に努めます。その経費は教団から支援いたします。
 この危機的な状況にあって、われわれは、改めて主イエスの十字架を見上げ、被災地域に心から仕える救援活動が展開できるように祈り、考え、判断し、実行したいと願っています。

皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

                          以 上

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夜の祈り会の恵み

 10月に入り忙しさが増した。韓国でのWH連総会、北海道聖会、聖書学院での授業。終日の教団委員会。夜までの会議。キングスガーデンの礼拝説教。木曜午前と夜の祈祷会。本部での会議…3日から休む間もなく走り続けていた。13日の夜の祈祷会を前に静まっていると、急に何とも言えない脱力感を感じた。「もう、いい」と独り言を言っていた。
 「賛美しましょう」という兄弟の声にハッとした。ピアノが鳴り始め、グリーンチャペルが賛美で満ちていった。賛美の中でこの11日間に出会った方々の顔が思い出された。キングスの礼拝でピアノを弾かれた松原先生。車椅子で共に礼拝に出られた大倉先生。授業での修養生の顔。聖会で賛美する札幌・芽室・旭川教会の方々。ユースジャムのアッピールをする井下先生と山中先生。WH連の各国の代表の顔。開拓伝道を展開し、宣教師を送る喜びを語っていた。すべての出会いが素晴らしく、また明るい展望を与えてくれた。でもその中で、なぜか必要以上に大きな声で語っている自分がいた。行き詰った時の強行突破型が危ないと言われているのに、コントロールを失いかけていた自分がそこにいた。
 その夜の説教は、ひとりの信徒が伝道の書五章から御業を語った。「富にではなく神に信頼しよう。働くものは心地よく眠る。神に信頼して働き、神に信頼して喜び、眠り、休もう。神が彼の心を喜びで満たされる。」御言葉が響き、そしてみんなでひとつになって祈った。
 「そうだ、主に信頼して休もう。明日はゆっくり休もう。」自然にそう自分に言うことが出来ていた。疲れ果てていた自分にとって、その夜の祈り会の恵みは、自分を解き放ってくれた。

                郷家一二三

きぼう

12月号

上から来られた方

「わたしは上からきた者である」(ヨハネによる福音書6:23~24)
 人が全く助けのない孤立した状況に追い込まれた時、それを「四面楚歌」と言います。この言葉は、楚の項羽が咳下という場所で漢の劉邦の軍に囲まれた時、夜更けて四面の漢軍中から盛んに楚国の歌がうたわれるのを聞いて、楚の民がすぺて漢に降伏したのかと、驚き嘆いたという『史記』の故事に基づくものです。
 私たちの人生も、このままでは孤立し、助けのない絶望の中に追い込まれていくのではないでしょうか。それを一変してくれるのは、四面が囲まれても決して包囲されない上からの援軍なのではないでしょうか。
 主イエスは、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」と宣言されています(ヨハネ6:23~24)。
 ここで主イエスは、私たち人間は「下から出た者」すなわち「この世」に属する者として、「自分の罪のうちに死ぬ」と言われています。この言葉のように私たちは、生まれながらの状態では、罪のうちに永遠の死を刈り取らなければならない存在なのです。この「罪のうちに死ぬ」とは、周囲を罪に囲まれ四面楚歌の状態で地上の生涯を歩むことであり、最後はその罪の中で死ぬこと、すなわち永遠に罪からの救い主と離別することを意味しています。
 しかし、このような状況にある私たちを救うため「上から来た」方、すなわち、天の父なる神のもとから降りてこられた方がイエス・キリストなのです。彼は神の御子であられたのに、この地上に肉体を備えて生まれてくださったのです。しかもこの方は、人が刈り取らなければならない罪をご自分の身に引き受けて、十字架におかかりくださり、死の恐ろしさを味わい、死に打ち勝って復活してくださったのです。実にこの「上から来られた方」、すなわち救い主を信じる者は罪の中で死ぬことはないのです。クリスマスとは、この救い主がこの地上に来てくださったことをお祝いする日なのです。メリークリスマス!

11月号

天にある国籍

「彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある」ピリピ人への手紙3:19~20)
 今年三月、かつて経験したことのない巨大地震、津波が東日本を襲い、かけがえのない尊い命が失われました。行方不明者を合わせ、その数は二万人とも言われています。被災された方々に謹んでお見舞いを申し上げます。
 そのような深い悲しみの中にも日本は今、希望をもって立ち上がろうとしていますが、時として、私たちもかけがえのない大切な命を失い、深い悲しみの中にも一縷(いちる)の望みを抱いて歩み出そうとすることがあるものです。そのような時、「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)との御言葉は、私たちの目を天に向けさせ、不思議に生きる力を与えます。
 国籍と言われても、ピンと来ないでしょう。日本は比較的恵まれている国だからです。しかし、内戦や貧困にあえぎ、劣悪な環境の中に生きている人たちにとって国籍の違いは生死を分けることさえあり、そのため、密入国、あるいは偽装結婚や賄賂を使って不法に他国籍を取得しようとする人たちが後を絶ちません。
 この言葉が書かれた二千年前も同様でした。当時の世界を支配していたローマ帝国の国籍を持つことは、多くの恩恵にあずかることを意味していたのです。だからこそ使徒パウロは、天の国籍を持つ者こそが幸いなのだと語ったのでした。
 確かに、イエス・キリストを信じ、救われた者に与えられる天国籍を得たとしても、この世に生を受けている以上、災いや悩みはあります。けれども、あえて申し上げますが、そのような時こそ、そして、死に臨む時においてこそ、天国籍にあずかっていることがどんなに大きな祝福であり、光栄であるのかがわかります。
 災いや悩みの時に、そして、生涯を終えようとしている時、この世で得た権利は何の効力も発揮できません。しかし、天国籍を持つ者には希望があります。力があります。喜びがあります。救いがあります。だから毎日を感謝し、賛美をもって喜々として生きられるのです。
 「どんな手を使っても獲得すぺきは天の国籍である」と聖書は言います。そして、それだけ価値のある国籍は、主イエスーキリストを信じることだけで得られと約束されています。

10月号

勝ちにこだわる

「すべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ人への手紙8:26)
 プロ野球のペナントレースも最終盤。サッカーW杯の予選や五輪の出場権をかけた戦いもあり、毎日一喜一憂しています。ただ、読者の中には「勝負事には興味がありません」、「なぜ勝敗にこだわるんですか」などと言われる方もおいででしょう。しかし、そのようなあなたも、実は、「勝負の世界に生きている」のです。しかもそれは、絶対に負けてはならない、勝ちにこだわらなければならない戦いです。
 と言われても戦っている感覚はないでしよう。でも、自分の無力さを感じたことはありませんか。屈辱感を味わったことがないでしょうか。また、思い煩いや苦悩に満ち、焦りや見えないプレッシャーに押しつぶされそうになって生活をしているとしたら、それはあなたがその「戦い」に敗北している証拠です。
 そうです。誰もが、否が応でも、日常の生活に起こってくる様々な問題と戦わざるを得ず、勝っていかなければなりません。ところが、いくら背伸びをしたところでそれに勝ち続ける力などなく、簡単な相手を破っても、すぐに強敵が現れ、打ち負かされてしまう。それが現実です。
 それではどうしたらよいのでしょうか。
 聖書には、「すべての事において勝ち得て余りがある」、つまり、「どんな相手でも圧倒的な勝利を得られる」秘訣が書かれています(ローマ8:31~39)。
 「患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣」といった、私たちの生活に関わる重要事が列記されています。それらは回避できない、戦っていかなければならない課題として、いつも私たちの前に立ちはだかります。
 これらの難敵を向こうに回し、「これらすべてにおいて勝ち得て余りある」と聖書が言い切っているのは、「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)、神を味方につけて戦えるからなのです。
 私たちは常に敗北を味あわされています。もし、勝ち続けられるなら、どんなにすばらしいでしょう。そのために、今こそ、神と敵対する立場を取るのではなく、自分の無力さを認め、神を受け入れ、神に頼り、神を味方にして、勝ち続けていく生き方をすべきなのです。

9月号

主にゆだねよ

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ」(箴言16:3)
 七月に海外の二つのニュースが新聞の一面を占める事態が起こりました。一つはノルウェーの連続テロ事件、もう一つは中国の新幹線事故です。ニュースを聞いた人々は、「まさか!」と同時に、「やはり!」という反応だったように思います。
 敬意とあこがれを持つ文化国家での驚くような残虐な事件、世界中の知恵と技術を集めた鉄道の事故、これらのニュースは大きなショックを世界中に与えました。両者とも人間の知恵をあざ笑うかのように起こった事件でした。
 人の知恵は、それがどんなに優れていても必ず欠けている部分があります。また、人間が立てる計画は、それがどんなに完璧に見えてもどこかで行き詰まる部分を秘めているものです。行き詰まりを感じている日本の国に、すばらしい指導者が現れて、すばらしい政策を実行したとしても、どこかで何かの弊害を生み出す事は避けられないでしょう。
 では、どうせ何をしても行き詰まるのならば、最初からあきめて無気力に生きていくべきでしようか。そうすれば何が起きようと驚かないかもしれません。それとも、さらに完璧を求めてばく進して行くべきなのでしょうか。
 無気力に生きることは虚無的に生きることです。そこには人生の喜びはありません。一方、完璧を求めて強行に前進することは勇ましい事ですが、挫折した時の苦痛は痛ましいものがあります。また心のゆとりがなくなり、周りを蹴散らし傷つける危険性があります。
 聖書は両者の中間とも思えるような道を私たちにボします。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3新改訳)。
 私たちのする事の結果を神にお任せするのです。そこから生まれるものは無気力ではありません。心の穏やかさです。結果はどのように出たとしても、私たちを愛してくださる神はベストの方向へと導いてくださると信じるのです。私たちは自分のできる範囲内でベストを尽くせば良いのです。私たちは結果を完全にコントロールする事はできません。それは神がなさる領域です。それを信じて歩む私たちは揺らがないのです。

8月号

真の神がおられる

「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(使徒行伝17:23)
 日本に来てから不思議だと思つているのは(ちなみに私は韓国人です)、日本人の宗教への熱心さです。至る所に神社があり、寺院があり、熱心に手を合わせている姿をよく見かけます。しかし、私の驚きはそこではなく、それぞれに願い事はあるのでしようが、だからといって、どんなものにも、時には何がまつってあるのかわからなくても祈つている、そのような行為に対して疑問を抱いてやまないのです。
 聖書に、同じ疑問を持つた人が出てきます。使徒パウロです。彼が伝道のために訪れたギリシャのアテネに来た時、驚くような光景を目にします。日本と同じく、神々が至る所に存在し、まつられている神の名も知らないのに、人々が熱心に拝んでいたからです(使徒行伝17章)。
 パウロは、そのようなアテネの人たちの熱心な宗教心に触れながらも、それが本当の信仰ではないことを指摘しました。すなわち、「どんな神かもわからないのに、拝んでいるのはおかしい」というわけです。そして、彼は、「あなたがたが拝むべき神はただ一人、真の神はただ一人しかいない。あなたが知らずに拝んでいる真の神を教えよう」と語り始めます。
 仮に、神社や寺院で祀られている神々の中に、本物の神が一つあったとしたら、それ以外のものは本物ではないことになります。もし、「そのようなことを考えなくてもいい。そこに寺社があるから手を合わせるのだ」と言うのであれば、それはもはや信仰の行為ではなく、ただの習慣的な、気休めに過ぎない行為、あるいは文化的な行為と言わざるを得ません。そこに救いはありません。
 聖書は、真の神がおられることを教えています。しかし、すぺての人間は罪があるために、真の神の存在がわからなぐなっているとも証言しています。ですから、神が、自然などの被造物を通してご自身を表されていても、また、神の御言葉である聖書を通してご自身をはっきりと示してくださっていても、真の神がわからず、それゆえに、知らず知らず、身近な神仏を拝んで、安心を得ようとしているのです。
 パウロは言います。「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」。
 あなたを救う、真の神を求めてください。

7月号

神の陰で憩う

「主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰」(詩篇121:5)
 夏は強い日差しをさえぎる涼しい木陰を求め、そこに憩いたくなるものですが、そのように、私たちは日常的に「陰」を必要とし、様々な「お陰」で生活が成り立っていると思うのです。「おかげさま」は、感謝の気持ちや挨拶で用いられているのですが、もともと「陰」とは「神仏の偉大な陰」を指し、その庇護(おおい守る)を受ける意味として使われてきました。
 原発の事故による電力不足で、家庭でできる節電、エコ対策として、「緑のカーテン」作りが各自治体で推奨されてきました。歴史的には、遮光や目隠し効果を目的にした物が古くからありました。日本の夏の風物詩には「すだれ」「のれん」といったものがあり、外国でもカーテン、ブラインド等が存在します。特にブラインドは、古代エジプトの初期王朝から使われていたそうです。
 さて、旧約聖書の中に登場する、ユニークな預言者ヨナをご存じでしようか。隣国の女性スケーターとは全く無関係な無骨男です。
 彼は神の意向に逆らい、そのことが原因で、船から投げ出されて魚に食べられてしまいます。魚の腹の中で悔い改めた彼は、再度使命を与えられ、敵国の首都ニネベヘ行き、神の命令に従って「四十日後にニネベは滅びるぞ」と警告して回ります。敵ですから、そのまま滅んでしまえばいいとヨナは思っていたようですが、神はそのようなヨナを「陰」によって諭します。
 強い日差しが容赦なく彼に照りつけていた時、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごま(ひょうたんの一種)を備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けます。ヨナはこれを非常に喜んだのですが、それはすぐ枯れてしまいました。陰を失い、ヨナは「どうして枯らしたのか」と神に訴えるのです。すると、神は、「お前がとうごまを惜しむ以上に、私はニネベの人々をも愛しているのだ」と言われたのでした。神がすぺての人たちをおおい、守ろうとされていることがわかったのです。
 「主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である」(詩篇121:5)とあります。
 神はあなたの全存在をおおう陰となってくださいます。このお方の陰で、あなたも心安んじて憩ってください。

6月号

神も仏もあるものか

「あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ」(アモス書5:4)
 今年、私たちの国は未曾有の震災を経験しました。津波に流された地に立ち、被災された方々の事を思いますと、こんなことがあっていいのかと心が張り裂けそうです。そして、それこそ「神も仏もあるものか」という気持ちになります。
 このような災害は、まことに不条理な悲しみです。そして、この不条理な悲しみは、何も地震だけの事ではありません。愛する者を亡くした悲しみ、いわれなき差別やいじめ、病の苦しみ。私たちの周りには、不条理な悲しみや苦しみが満ちあふれています。そして、不条理な悲しみに出会うと、いったい、何で私にこんな悲しみや苦しみが訪れるのかと思い。やり場ない悲しみと、ぶつけ先のない怒りの中で、「本当に神はいるのか」と叫びたくなります。
 そんな時、牧師である私でさえ、「神はいない」という、その叫びの前に沈黙せざるを得ないような思いです。そして、それこそが不条理な悲しみが私たちを襲う本当の原因なのだと思うのです。
 聖書は、「この世」を支配しているのは悪と罪であり、早め背後には、神に敵対する存在である悪魔がいると言います。この悪魔は、自分が存在していることを人に知ゝに7れないようにしています。人々が悪魔なんかいないと思うのが、彼にとって一番都合のよいことだからです。そうやって身を潜め、「神はいない」と人々に思わせることが悪魔のもうとも望むことなのです。だから、「神なんかいるもかか」と思うような出来事を私たちの前に差し出すのです。
 みなさん。罪と悪とが支配する世界には、確かに神はいません。しかし、それは本当に神がいないというとではありません。罪と悪とが支配する「この世」には神がいなくとも、神は実在するのです。だから、私たちは、神のいない「この世」にあって、神を求めて生きていかなければなりません。罪と悪とが支配する世界に生きている者だからこそ、神を信じ、私たちの心を神に支配していただかなければならないのです。神の支配がおよぶ所には、愛と恵みと喜びがあるからです。
 そして、その神の支配を私たちの心にもたらすために、神のひとり子イエス・キリストは十字架の上で命を投げ出し、罪と悪、そしてその背後にいる悪魔に勝利なさったのです。

5月号

希望の光を灯そう

「わたしは世の光である」(ヨハネによる福音書8:12)
 三月十一日の大地震、大津波を経験し、その後も続く余震や原子力発電所のことなどで先の見えない暗闇が心を支配しました。まだ復興途上にあり、様々な困難と共にあります。
 その日、家に帰ると食器や書類が飛び出し、部屋に散乱していました。ニュースを見て不安になり、生活必需品を買いに走りました。お店はどこも混んでいて、空になっている棚もありました。被災地は、私たちは、日本はどうなるの?と混乱し、冷静にとは思いつつ、動揺を隠すことができませんでした。
 停電でしばらく電気が使えなくなることを知り、まだ寒さが残る中でどうやって暖を取り、明かりを確保するか考え、古いガスヒーターと懐中電灯とろうそくを準備しました。
 ふと試しにろうそくの明かりを灯してみると、ほわっと優しい明かりがあたりを照らしました。暗闇の中ではより力強く光り輝いてくれました。その光を眺めていると、緊張し、不安にとらわれていた心が落ち着き、心にも明かりを灯してくれたようでした。
 希望の光というのは、暗闇の中に灯されたこのような明かりのことをいうのだと思った時、「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)との、イエス・キリストの言葉を思い出しました。
 恐れや悲しみ、不安が心を占める時、先が見えず、まるで暗闇にいるように感じます。世の光とは、その暗闇の中で優しく灯り、希望を与えてくれる光なのです。たとえ暗闇にいても、イエスーキリストが照らす光の中を歩む時、希望が与えられます。希望が見えない時にも、死への恐れ、愛する者を失った悲しみ、怒りに満ちていたとしても、灯された光のように、主はあなたを抱きしめ、優しく包んでくださいます。
 イエス・キリストは十字架で苦しまれ、死からよみがえりました。それは、人の苦しみを知り、死に勝る力を持つことを示された出来事でした。その方が私たちを包んでくださるのです。イエスーキリストを信じた時、あなたの心にも命の光が灯され、希望が与えられることでしょう。
 「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」

4月号

我らのヒーロー

「わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネによる福音書16:33)
 昨年暮れのクリスマスに、群馬県前橋市の児童相談所前に十個のランドセルが置かれていました。送り主は、伊達直人。それ以来、タイガーマスク現象が、全国的に広がりを見せました。タイガーマスク、本名伊達直人は、プロレスのファイトマネーを、自らが育った孤児院「ちびっこハウス」の経営を助けるために匿名で寄付していました。その結果、自らがプロレスラーになる訓練を受けた「虎の穴」の刺客に命を狙われる結果となったのです。命がけで悪役レスラーを倒し、子どもたちを助ける伊達直人は、タイガーマスク世代の筆者にとって、まさにヒーローです。しかし、私たちにとって忘れてはならないヒーローがいます。
 まさに、あの十個のランドセルが置かれたクリスマスの日の主人公、イエス・キリストです。
 彼は、全く罪なく、きよい方でしたが、人類の罪の身代わりに、自分のいのちを十字架にささげて死んでくださいました「多くの人のあがないとして、自分の命を与える」(マルコ10:45)とあるように、それは、まさに神が人類に与えてくださった最高のプレゼントでした。
 タイガーマスクは「虎の穴」を敵に回したことで、悩まされ続けていきましたが、私たちも、私たちの力では勝つことのできない敵に悩まされてきました。「死」です。
 しかし、キリストは十字架にかかって私たちの罪をきよめてくださっただけではなく、死の力に勝って、よみがえってくださいました。そのことを信じるならば、イエスの勝利の力によって死に勝利ができ、「永遠の命」を得ることができるというのです。
 神さまからのプレゼント、主イエス・キリストは、私たちの前に置かれています。それを受け取るかどうかは、私たち次第です。しかし、もしあなたが、自分の罪に苦しみ、死の恐怖にさいなまれ続けている方ならば、ためらってはなりません。今日、イエス・キリストを信じて心にお迎えし、喜びと勝利の生涯をスタートしてほしいのです。
 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。
 イースターの喜びがあなたにありますように。

3月号

人生が変えられるなら

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(聖書・コリント人への第二の手紙五章17節)
 年が明けてから数週間たったある日、ふと机の隅を見やると、そこには忘れられていた日記帳が書類の下に埋もれていた。「ああ、忘れてた。今年も三日坊主になってしまった」。そう嘆くのは、これで何回目だろうか。今年こそは、と決意しても、少しも変わらない自分に、呆れを通り過ぎて何か納得してしまうのも悲しい…。
 人間は変わろうと思っても、おいそれとは変わらないものです。誓いを立てても、環境が変わっても、自分を変えることはなかなかできません。人生を最初からやり直せたら、と考えることもありますが、自分が変わっていないならば、同じような状況が訪れたとき、同じ間違いをしてしまうでしょう。
 また、自分の問題を見ないふりをして、責任を他人に押し付けることもあります。でも、「あの人も困ったものだ。あの人が良くなってくれたら」と思っても、相手を変えることは不可能に近いことです。本当は自分が変われば相手も変わるとわかってはいますが、それができたら誰も苦労はしません。
 誰でも自分を作り変えることはできません。しかし、人との出会いが人を変えることがあります。人間は他者との関わりによって成長するものだからです。特に、すばらしい人と、表面的な付き合いではなく、深い交わりを持ち続けるなら、どれほど大きな影響を受けることでしよう。
 人生が大きく変わった人たちがいます。日本人を憎んでいたアメリカ兵が、日本人を愛する宣教師に変えられました(デシェーザー宣教師)。五体が不自由になり絶望した若者が、多くの人に慰めと励ましを与える詩人となりました(水野源三さん)。なぜ彼らは変わったのでしょう。それはイエスーキリストに出会つたからです。キリストにより人生が変えられ、あるいは今、変えられつつある人たちが、クリスチャンなのです。
 あなたも教会においでになりませんか?クリスチャンを通して、また聖書を通してイエス・キリストと出会う時、あなた自身が新しく変えられ、あなたの人生が変わるのです。

りばいばる

11月号

この世の義に勝る神の義

信徒教団委員 伊藤聖治

「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」(マタイ五20)

 不謹慎ではありますが、私が子どもの頃に流行った冗談の1つに、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という言葉があります。周囲の目を気にする日本人は、良くないことだとわかっていても、他の人も同じ事をしていれば、平気で行ってしまう傾向があります。

 その「みんなでやればこわくない」ことが、最近大きな問題として顕在化するようになりました。大相撲の八百長事件、生肉による食中毒事件、大物芸能人と暴力団との関係、そして本来は正義を追求する立場にある検察官が証拠を改ざんする事件まで起きています。

 このような事件が次々と起こる中、企業はいかにして世間の人々の信頼を得るか?ということに相当神経を尖らせています。不祥事を起こして信頼を失った企業は、存亡の危機に立たされ、回復には気の遠くなるような労力と時間を要するからです。そのようなリスクを回避するため自ら姿勢を正し、社会的責任(CSR)を果たす制度を整備して社員全員に遵守させる動きが、ごく一般的になっています。(詳しくは経団連の「企業の社会的責任」 http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/csr.html というHPが参考になります)。

 このように、一般世間でも高い企業倫理を目指し、社員に責任ある行動を求める動きが活発になってきている中、私たちキリスト者はどうでしょうか。もちろん、一般社会での倫理基準と信仰とは、決して同列に比較できるものではありません。しかし、世間が一層高い倫理基準に向かっている中、誰よりも神の義ときよめに与るはずのキリスト者の姿勢は、更に高みへと向かっているでしょうか。

 私は時々、「自分はパリサイ人になっていないだろうか?」と自問することがあります。パリサイ人の義は、御言葉よりも人々の言い伝えを重んじ、神様の目よりも周囲の人々の目を気にして格好良く振る舞うだけのもの。的外れな努力をして人々を裁き、真理も愛のかけらもない、単なる自己満足に過ぎません。

 まことの義は、実に神様の憐れみにより、罪を悔い改め、きよめを求める者は誰でも与ることのできる恵みです。この恵みに感謝し、悔い改めに相応しい実を結ぶことこそ、神の義を具現化することです。この世の倫理基準よりはるかに勝る神の義ときよめの恵みを、更に追い求める者でありたいと切に願います。

10月号

勧士制度に見る共同牧会の結実

教育局長 平野信二

「御言に仕えた人々が伝えたとおり」(ルカ一2)

 この夏、教育局主催の勧士セミナー講師として奉仕する機会が与えられた。牧会に関する特別な学びを積んだ訳ではないが、「牧師として24年間奉仕してきた経験から語ることがあるはず」との思いを胸に、祈りつつ備えた。教えることが一番の学びとなると言われるように、今回のセミナーを通して私は多くのことを教えられ、同時に、私たちの教団の将来について一縷の希望を見出すことができたように思う。

 すでに勧士として任命を受けておられる方々の奉仕への真剣な取り組みと、それに伴う勧士としての成長には目を見張るものがあった。局員の一人がセミナー最後のセッションで、「すでに任命を受けて奉仕している勧士と、勧士志願者との間には歴然とした違いがある」と語ったことが今も心に残る。もちろん、志願者の方々が劣っていたのではない。彼らも教会員、役員として訓練を受け、忠実に教会に仕えてきた方々である。しかし、礼拝式等において御言を語るために自らの足りなさや罪深さと向かい合いつつ準備を重ね、御言を語る資格のない者が講壇に立つという畏れの中で奉仕する経験には、他では得られない、「御言に仕えた人」だけが知り得る神の恵みがある。

 また、今回のセミナーの主題は「牧会」であった。「信徒説教者」である勧士が牧会に携わるのは、規則上、常駐する牧師のいない教会に任命された場合などに限られる。しかし、勧士たちは、すでに「牧会者」の視点で状況を捉え、御言に基づいて対応することを実践していた。そのことは事前に出された課題の発表、任命を受けている教会の実情とそこにおける自分自身の役割の認識、そして参加者同士の何気ない言動にも如実に表れていた。彼らの存在そのものが生きた教材となり、牧会とは何なのかを良く現していたと言える。

 信徒が牧師と共に説教と牧会を担う勧士制度が導入されて6年が過ぎた。今、9教会に10名の勧士が任命され、11名の志願者が学びを行っている。今回のセミナーを通して、御言に仕える大切さと、そのことを通してのみ御言が伝わっていくという、ごく当たり前で基本的なことを教えられた。同時に、私たちの教団で10年ほど前より提唱されてきた「牧師と信徒の共同牧会」が、実りつつある姿を見た。

9月号

主からの使命の再確認

奉仕局長 内藤達朗

「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を作り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」 (創世記一26)

 神さまは人間を創造された時、その人間、私たちにこの世界を「治めさせよう」(26)、「治めよ」(28)と言われました。私たちがこの世界を治めることは神さまの意思であり、願いであり、私たちへの命令であり、それは、私たちに与えられている主からの使命です。

 「治める」と言うのは、決して専制君主のように治めるのではなく、神さまのみ旨に従って、神さまが願っているように治めることです。私たちは主の祈りで、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。神さまの御心をこの世界に実現することが私たちの使命です。神さまの願っておられるようにこの世界を治めることです。それは、この世界のすべての生き物が、神さまの願っているように生きられるように治めることでしょう。

 果たして、この世界はそのように治められているでしょうか。人間の便利のために他の生き物が犠牲にされているように、間違って治めてはいないでしょうか。海、空、地の上のすべての生き物を、適切に治めていると言えないのではないでしょうか。

 救われて、神さまのみ旨を果たす使命に立った私たちは、それぞれの立場でこの世界を治める働きに「仕える」べきです。それぞれがついている仕事や働きを通して、神さまのみ旨が行なわれるように働くことです。

 何かのもの作りがされているとするなら、それがこの世界を治めるために必要なのか、この世界を治めるために、この世界のすべての生き物が豊かに生きるために必要なものか、必要ならそのようなものとして作られているか、それらのことを考えながらもの作りをすることです。もし、そのように原子力発電もされていれば、このような事態を招かなかったことでしょう。

 この世界の一部の利益、人間の利益のためにだけものが作られてはならなかったのです。教育、医療、介護においても、経済、政治においても、工業、農業、商業等においても、そして、子育て等家庭の営みにおいても、この使命を果たしているという使命を再確認しての生き方が行なわれるべきでしょう。一人ひとりが、それぞれの場で与えられている使命を私たちは生きています。

8月号

神にあって夢を見、幻を見る!

宣教局長  中西 雅裕

「その後わたしはわが霊を すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。」 (ヨエル二28)
 ある時、電車に乗ってぼんやり外を眺めていたら、「若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」の文字が目に飛び込んできました。十字架の塔の下に垂れ下がった10数メートルもある大きな布に、この言葉が書かれていたのです。
 3月11日の未曾有の大震災、原発問題と、今日本は変わらざる得ない時に来ています。被災された方々、被災地の教会の先生方とお会いし、お話しを聞く中で思わされるのは、今までの生活とはまったく違う緊張感の中での生活が続いておられるということです。まさしく走りっぱなしの数ヶ月間であり、先が見えない、またそれがいつまで続くか分からないということです。将来を見ることが出来なくなっているのです。未来に希望が持てない中で苦しんでおられるのです。それは被災地から離れた所に住む者たちも同じです。
 神はヨエルを通して、先の御言葉を語られました。終わりの時に、御自身の霊を全ての人に注ぐとの約束です。ヨエルが預言して800年後、父なる神は御子をこの世に送られ、十字架につけられ、私たちの全ての罪を贖われ、三日目に死に勝利されました。復活されたイエスは、父の約束を待つように弟子たちに命じられ、天に昇られたのです。そして、ペンテコステの日に、祈り待ち望む弟子たちに聖霊が降臨しました。弟子たちを代表してペテロは、ヨエルを通して神が預言された約束が成就したと宣言したのです。
 その時以来、聖霊は私たちに働いておられます。私たちを慰め、真理へと導き、イエスを主であると告白させて下さいます。父なる神が計画し、御子イエスがなされた救いの御業を私たちのところへもたらして下さり、神の恵みと慰めと愛で私たちを満たしておられるのもこの聖霊です。
 そして、この聖霊はヨエルが預言したように、今私たちに幻を見させて下さる、夢を見させて下さるのです。この不安と恐れ、先の見えない混迷の時代、力と勇気を与えて下さるのは聖霊であることをしっかり覚えたいと思います。私たち自身を、教会を、この日本を、そして世界を新しく造り変える力は神から来るのです。この時、聖霊を通して幻を見させていただきましょう。夢を見させていただいて、神の約束を信じて立ち上がる者たちとさせていただきましょう。

7月号

キリストが、わたしのうちに生きておられる

財務局長 久田 博

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ二19~20)
 クリスチャンにとって、何が起きても決して変えてはならない人生の土台は、聖書信仰(み言)と、毎週の礼拝と、ディボーション(祈りの応答)です。「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白する信仰は、神からの賜物ですから、信じること無しには、揺るがない命も生活も無いのです。すべては主の御手の中にあり、罪赦され贖われ、救われている事に気づいた時に初めて、真の喜びや平安が与えられます。それは、「もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる」生涯です。
 わたしは困難な時に祈ると、つい自分の思いや願いを遂げようとすることが中心となってしまうことがあります。「なんとしてもこの杯を取り除いて下さい…」と。それがきかれると喜び、きかれないと不信仰になってしまいます。しかし、祈りはみ言を通し、人の思いを超えた神の思いを聴き、従うことが中心です。「御心のままに…」と心を広くして、「この身のうちに、この身を通じて、キリストが働いて下さるように」と、自分を差し出した時に、聖霊がわたしのうちに住んでくださいます。主ご自身は、目の前にある現実の十字架の向こうにはっきりと復活を見ていました。だから、父なる神の御心を知り、信頼し、全てを委ねられました。
 わたしの幸福は、他の人の手助けができること、そして他の人と一緒にいることです。キリストの救いからは、誰も除外されていません。どんな人も、神から大事に思われているということを知ってもらいたいのです。しかし、わたしはキリスト無しには何もできません。「キリストのおっしゃることは何でもします」と、神の僕として自分を差し出す時に、わたしは愛に燃える心を与えられます。
 今も、あなたを通じてでなければあらわされない、神の助けを必要としておられる方が大勢おられます。全てを主なる神に明け渡して、自分の持っている最良のものを与える時に、あなたのうちに「このいと小さき者にしたのは、わたしにしたのである」という主のみわざが実現していくのです。主は、み言に聴き、礼拝し、祈りに生きるあなたを豊かに恵みで満たし、遣わそうと待っておられます。

6月号

イースターからペンテコステへ

総務局長 島津 吉成

 3月11日、東北、北関東を巨大地震と大津波が襲いました。そして、あまりにも多くのかけがえのないいのちが失われました。たくさんの涙が流された春となりました。
 その悲しみの中で、4月24日、私たちはイースターを迎えました。 「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」(ルカ二四46)。聖書は、あえて「三日目に」と言います。主イエスは死んですぐによみがえられたのではないのです。人間の体は、残念ながら時間と共に朽ちていきます。主イエスが人となってくださったそのお体も、また例外ではなかったでしょう。画家のホルバインは、その三日目の主イエスのお体を、「墓の中の死せるキリスト」と題して描きました。裸同然で横たわる、それは悲惨としか言いようのないお姿です。
 主イエスは、この中からよみがえられました。「三日目に」、絶望の、まさにそのどん底からよみがえられたのです。ですから、私たちには、絶望はなくなったのです。今年のイースターほど、この恵みを深く噛みしめたことはありませんでした。
 そして、私たちは来る6月12日、ペンテコステを迎えます。主イエスは、弟子たちを初めとする多くの人々にお姿を現してくださいました。こうして、主イエスは確かに死を打ち破ってよみがえられたことを明らかにしてくださったのです。そして父なる神のおられる天に帰られ、祈って待つ弟子たちに約束の聖霊を贈ってくださいました。
 あのペンテコステの日、聖霊に満たされた弟子たちは、どのように変えられたのでしょうか。彼らは、「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」(使徒行伝二24)と、主イエスの復活を証ししました。失望と恐れの中にあった弟子たちが、まず復活のいのちにあずかり、希望と喜びに生きる者へと変えられたのです。そして、この恵みを証しする者へと変えられました。聖霊は、主イエスの復活の恵みに生きる力、この恵みを大胆に証しする力を与えてくださったのです。
 今、深い苦しみと悲しみの中にある一人ひとりに、主イエスは復活の希望を与え、その希望に生きる力、そしてこの希望を証しする力を与えてくださいます。これは、自分の頑張りによって絞り出すものではありません。主からの贈りものです。私たちも、あの弟子たちのように祈って待ちましょう。今こそ聖霊を、豊かに注いでください、と。そして、信仰をもって立ち上がりましょう。

5月号

「勇気を出して実行しよう」 (Ⅰ歴代誌二八10・新改訳)

教団委員長  郷家 一二三

 大地震の10日後、第48回教団総会は予定通り開かれ、重要な案件の審議と共に、私が教団委員長に、島津吉成師、上中栄師、内藤達朗師、中西雅裕師、平野信二師、久田博兄、矢田澄枝姉、伊藤聖治兄の8名が教団委員に選ばれました。みなさまのお祈りとご協力をよろしくお願いいたします。
 新年度の教団の5つの方針を掲げました。
一  霊的刷新 み言葉に生かされるディボーション
二  礼拝刷新 恵みと喜びがあふれる伝道的礼拝を求めて
三 主体性に基づく任命制度改革の継続
四  組織的改革 直面する課題に対応するプロジェクトの新設
五 財政的改革
 今総会で真剣に討議しましたのは、「K元牧師性加害事件検証報告」です。「痛恨の極み」であるこの事件を検証し、討議し、これから具体的な行動を起こし、神と人の前に責任を果たす教団へと変革することを決議しました。
 選ばれた新教団委員会の目の前にある課題は、実に大きく重く、また多いのです。そしてこれらは日本ホーリネス教団に所属する全員の課題です。
 新年度を歩み出すにあたり、慰め励ましてくださる神は、歴代上第二八章10節の御言葉を私に与えて下さいました。ダビデは息子ソロモンに神殿建設をゆだねます。ダビデが十分に準備したのだから、建設は簡単であろうと思われます。しかしダビデは、主なる神はこの聖なる宮を建てさせるためにあなたを選んだのだ、と語ります。この時代に、これらの課題を受け止めて生きる。そこにわたしたちも選ばれて立たされています。
 「勇気を出して実行しなさい」とダビデはソロモンを励まし、また20節では「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい」と繰り返します。
 わたしたちの主イエス・キリストこそは、天の位を捨てて地に降られ、十字架の死に至るまで忠実に救いを成就して下さった「勇気ある実行者」です。わたしたちの勇気の泉は、主イエス・キリストです。主から勇気をいただいて実行に踏み出すとき、ソロモンの時のように、積極的な協力者が次々とおこされるのです。神の働きは孤軍奮闘ではなく、主イエス・キリストと共に、そして主にある全国の教会の兄弟姉妹と共に進んでいくのです。

4月号

「勇気を出せ。わたしはあなたがたと共にいる」

東京聖書学院長 石原 潔

 去る3月11日、千年に一度と言われる大震災が発生、多くの方々が被災され、今も苦闘しておられます。その痛みを共有し、一日も早い復興を祈り求めていきましょう。
 この様な中で私たちは、教団創立110周年を迎え、新たな決意をもって新年度を始めました。特に本年は、東京聖書学院・OMS・日本ホーリネス教団にとって歴史的な変革を前にした年になります。それは2012年にOMSより、OMS所有の土地約6千坪の半分と聖書学院の経営が教団に委譲されるからです。勿論、今まで培われてきた三者の協力関係に変化はありませんが、土地の所有権や聖書学院の組織が新たにされます。
 この新たな課題を前に、預言者ハガイの言葉が心に響いてきます。 「主は言われる、ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。」(ハガイ二4)
 この言葉の背景には、クロス王の帰還許可で帰国し神殿の再建工事に携わった民の挫折があります。工事を始めた民の熱烈な思いは、周辺の敵により打ち砕かれ、基礎は据えられたものの荒れ果て、早16年が過ぎていました。民は自分たちの生計を立てるのに忙しく、宗教的関心は薄れるばかりでした。彼らは日毎の労働に追われていましたが、労した割に収穫は少なく、生気も失われていました。
 しかし神はハガイを預言者として召し、16年の中断を乗り越えて、再度神殿工事へと民を向かわせたのです。神は一人の傍観者をも許しませんでした。政治的指導者にも宗教的指導者にも、その地に住む全ての人々にも神は「勇気を出せ」と命じたのです。この言葉は「強くなる」「固くなる」「勇敢になる」の命令形です。気力を失い、心弱く、意思も脆く、信仰も冷えてしまった指導者や民に、神は再度工事に挑戦せよと語られ、天の軍勢を掌握している万軍の主、歴史を支配している主ご自身が共にいると語られたのです。
 現在OMSは財団法人から宗教法人への手続きを進め、聖書学院と教団は組織や建物の老朽化に取り組もうとしています。この三者は一つになって主が共にいて下さるとの約束に立ち、勇気を出して働き、「後の栄光は、前の栄光よりも大きい」との御言葉に信頼して進もうとしています。この大きなプロジェクトを祈りつつ共に進めようではありませんか。

3月号

「愛をもって互に仕えなさい」

奉仕局長 安井 満

 3月は年度替わりの時期です。私たちの教団においても、この時期に人事の交代がなされます。私は3月開催の教団総会で、教団委員・奉仕局長の任が解かれることになっています。これまで奉仕局長の肩書きで巻頭言を担当しましたので、奉仕することの喜びと大切さを、紙面を通して書いてきました。「仕える教会」を目指す、これが構造改革後の奉仕局に付託された課題の一つでありました。
 私が奉仕する教会の今年の標語は、「愛をもって互に仕えなさい」(ガラテヤ五13)であります。1月第2週の礼拝説教では、「喜んで仕える者にさせていただきましょう」と呼びかけました。その礼拝の席上献金の祈りの当番の高齢者が、「仕えられてばかりいる私ですが、・・・」と祈りました。その日も、教会の車で壮年会長が高齢者たちを送迎していました。仕えられることに対して、感謝の意味を込めた祈りでした。               
 私は4年間奉仕局長をさせていただいて、社会の癒しと奉仕活動について学習する機会を得ることができました。得た知識を派遣された教会で、その地域社会で実践することが、今後の私の課題であると受けとめています。と言っても、4月で71歳になる者ですから、「仕える」ことよりも、「仕えられること」が、多くなるようにも思っています。             
 自立支援が介護の原則になっています。自立のためには、本人の頑張りが求められます。また逆に、頑張る人ほど他人の手を患わせたくないという思いが働きます。それでも介護に頼らざるを得ない状況に追い込まれますと、惨めな自分に向き合うことになります。喜びと感謝しながら介護を受けることが難しくなります。しかし、先ほどの祈りをささげた高齢者は、自立した女性であると教会のだれもが認める信徒です。      
 「愛をもって互に仕えなさい」というパウロの勧めは、ガラテヤ人への手紙第五章に出てくる言葉です。この章でパウロは、キリスト者の自由を訴えています。「互に」にですから、パウロの念頭には、仕えられる存在があります。世の権力者は、奴隷のごとく仕えることを要求します。彼らにとって感謝の言葉は無縁です。しかし、仕えられる立場になったことを主の御心と受けとめることができれば、自然に喜びと感謝が溢れてきます。その姿に接することは、仕える者にとって大きな励みになることでしょう。

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