5.聖霊である神


 父と子から出る聖霊は、キリストを証しし、全ての真理に導く。教会に賜物として与えられたこの方は、世の人に罪を認めさせ、次いで新生と聖化の恵みに導き、実を結ばせ、奉仕のためにさまざまな賜物を与えられる。聖霊は神の造られた世界に対して、ひきつづき働いておられ、全宇宙のあがないの完成をめざしておられる。

① 父と子から出る聖霊

 《しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう》(ヨハネ一四・二六)とあるように、聖霊は、父なる神がイエスの名によってお遣わしになった方です。同時に聖霊は、《わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊》(ヨハネ一五・二六)とあるように、父である神と子である神から遣わされた方でもあります。
 ニカヤ・コンスタンティノポリス信条は、聖霊について「われは信ず。主にしていのちを与える聖霊を。聖霊は御父より出て、御父と御子と共に礼拝せられ、あがめられ、預言者を通して語られる」と告白しています。この信条に対して、古来、聖霊とキリストとの関係については明確に告白されていないとの疑問が投げかけられて来ました。
 やがてこの信条が礼拝において用いられるようになった時、西方教会は、しだいに「聖霊は御父と御子(フィリオクエ)より出て」と告白するようになりました。このことは、後に東西教会が分裂する大きな要因となりました。
 わたしたちの信仰告白では「父と子から出る聖霊」と言い表しますが、これはわたしたちの教団が、西方教会(今日のローマ・カトリック教会とプロテスタント教会)に属しているからです。東方教会とは、ギリシャ正教会やハリストス正教会という名で知られている、東方正教会のことです。

② キリストを証しし 

 《彼ら(預言者たち)は、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたかを、調べたのである》(Ⅰペテロ一・一一)とあるように、キリストの霊である聖霊は、旧約の預言者たちの内に働かれ、キリストを証しさせた方です。キリスト教会が旧約聖書を正典として受け入れるのは、そのキリスト証言のゆえです。《あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである》(ヨハネ五・三九)とあるとおりです。
 また、主イエスご自身、《わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう》(ヨハネ一五・二六)と言っておられます。聖霊がキリストを証しするとは、イエス・キリストの教えやみわざ、十字架の死と復活が、信仰者にとってどのような意味をもっているかを明らかにし、それを信仰者に体験的に知らせることです。

③ 全ての真理に導く

 主イエスは、《わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来るときには、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう》(ヨハネ一六・一二~一三)と言われました。
 この聖句によると、「全ての真理」とは、主イエスが弟子たちに伝えようとされた救いの出来事、言葉を換えれば「神の国の奥義」と言うことができます。この神の国の奥義を、主イエスは時には譬えによって、また奇跡によって、そして主イエスの存在そのものをとおして弟子たちにお示しになりました。
しかし、彼らは聖霊を受けるまで、自分たちが受け継いだものを理解することができませんでした。聖霊を受けたときに弟子たちは体験的にそれを理解したのです。
 わたしたちの信仰生活は、キリストによる神の恵みを、聖霊の導きによって体験的に理解して行く歩みと言えます。

④ 教会に賜物としてあたえられた方 

 パウロは、《なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである》(Ⅰコリント一二・一三)と言っています。つまり、聖霊を受けるということは、第一には「一つのからだになる」という教会的な出来事であって、その上で《すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである》(Ⅰコリント一二・一一)とあるように、個人的な出来事になるということです。
 旧約のイスラエルに代わる新しい契約の共同体として、主イエスは十二使徒をお選びになりました。その使徒たちを中心とする弟子たちのうえに、ペンテコステの日に聖霊が下り、その共同体は教会としてスタートしました。「教会に賜物としてあたえられた方」という表現は、ペンテコステ以前に既に教会が存在し、その教会に聖霊が与えられたと理解される恐れがありますが、ペンテコステに先立って、すでに主の弟子たちの共同体は存在していました。その共同体が聖霊を受けることによって、キリストのからだとなる教会となったのです。

⑤ 世の人に認罪を与え 

 《それがきたら、罪と義とさばきについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしをみなくなるからである。さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである》(ヨハネ一六・八~一一)と主イエスは言われました。聖霊はわたしたちに罪を認めさせます。《罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである》とあるように。罪とは、単に悪い心とか、悪い行いではなく、神との関係の破れ、すなわち不信仰です。聖霊は、わたしたちの心に神のみこころをお示しになると同時に、神の前に生きる人間の罪深い姿をもお示しになります。
 主イエスは、律法の中心を《心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ》という戒めと、《自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ》という二つの戒めにまとめられました(マタイ二二・三七~三九)。ですから、罪とは神を愛さないこと、隣人を愛さないこと、すなわち、自己中心に生きることを意味します。そして、聖霊はそのような人間の姿を明らかにされるのです。

⑥ 新生と聖化の恵みに導き 

 世の人に認罪を与える聖霊は、また《あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう》(ヨハネ一六・一三)とあるように、人を真理へと導かれます。先に、「全ての真理」とは救いの出来事であると見てきました。つまり聖霊は、人を新たに生まれさせる恵みと、さらに罪をきよめる聖化の恵みへと導かれる方なのです。
 またパウロは、《すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる》(ローマ八・一四~一六)と、聖霊が人を神の子へと導き、その身分を授け、その事実をあかししてくださることを明らかにしています。
 このように聖霊は、人が神の子として生まれ変わる新生から、神の子として聖化されるまでのすべての過程を導かれる方であり、認罪から新生と聖化の恵みに至る、救いのすべての過程で主導権をもっておられるのです。(新生と聖化の恵みが何であるかについては「救い」の項を参照してください)。

⑦ 実を結ばせ 

 聖霊はわたしたちに品性の実を結ばせます。聖霊が結ばせる実とは、《愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制》(ガラテヤ五・二二~二三)です。これらの実は、かつて御霊を持たなかったときに結んでいた《不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい》(ガラテヤ五・一九~二一)と対比されています。
 聖霊の実は、心の習性としての愛、喜び、平和。社会的徳としての寛容、慈愛、善意。行動の一般原則としての忠実、柔和、自制に区分することができます。このように聖霊は、キリスト者の全人格と深くかかわりをもたれ、キリストに似た者となるように働きかけてくださるのです。

⑧ 奉仕のために様々な賜物を与えられる 

 聖霊はわたしたちキリスト者に、キリストに仕え、キリストの教会を建て上げるために、様々な賜物を与えてくださっています。《すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言葉、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見分ける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるので》す(Ⅰコリント一二・八~一一)。
 これらの賜物は、知性的な賜物としての知恵の言葉と知識の言葉、実践的な賜物としてのいやしと力ある業、宣教的な賜物としての預言と霊の識別、国語的な賜物としての種々の異言と異言の解き明かしに分類することができます。いずれにせよ、ここに列挙されている賜物がすべてというのではなく、キリストのからだである教会を建て上げるために《各自が御霊の現れを賜っている》(Ⅰコリント一二・七)のです。このようにキリスト者は、それぞれ種々の能力を与えられています。それらを自分の能力として、自分のためにだけ用いるのではなく、神の栄光のために用いるべきでありましょう。

⑨ 神の造られた世界に対して、ひきつづき働いておられ 

  《もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。主は海の水を水がめの中にあつめるように集め、深い淵を倉におさめられた》(詩篇三三・六~七)、《あなたがみ顔を隠されると、彼らはあわてふためく。あなたが彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る。あなたが霊を送られると、彼らは造られる。あなたは地のおもてを新たにされる》(詩篇一〇四・二九~三〇)とあるように、主の口の息である聖霊は、神が造られた世界に働いておられます。人間の歴史は不確かさに満ちています。多くの出来事が偶然によって起こっているかのように、一見思います。しかし、その歴史の背後に、聖霊の働きがあるのです。

⑩ 全宇宙のあがないの完成を目指しておられる 

 わたしたちキリスト者は、神の永遠のご計画に基づいて神の選びにあずかり、贖いが完成される日を待ち望んでいます。この日のためにわたしたちは、《聖霊の証印を受けた》(エペソ四・三〇)のです。《この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るため》(エペソ一・一四)とも記されています。
 実は、この贖いの日の完成は、全被造物も待ち望んでいるものです。パウロは次のように記しています。《被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである》(ローマ八・一八~二一)。
 この贖いの完成を待ち望んで、《被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けて》(ローマ八・二二)おり、わたしたちキリスト者のうちにおられる聖霊は、《言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして》(ローマ八・二六)いてくださるのです。このように聖霊は、全宇宙のあがないが完成される時を目指して働いておられるのです。