3.父である神


父である神は、永遠者であり無限の力と知恵といつくしみを持つ方である。この方は、見えるものと見えないものとの創造者であり、またその保持者である。

① 父

  「父である神」とは、三位一体であられる神の第一位格である方を表す言葉で、第二位格であられる御子イエス・キリストとの関係において明らかにされた神の呼び名です。御子であるイエス・キリストは、《天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます》(ルカ一〇・二一、その他に、ルカ二二・四二、二三・三四、四六、マルコ一四・三六、ヨハネ一二・二七、二八、一七・一を参照)と、神を父とお呼びになりました。それによって両者の関係が、「父と子」であることを明らかにしておられます。さらに主イエスは、《わたしと父とは一つである》(ヨハネ一〇・三〇)と宣言されました。これは、当時のユダヤ人にとって冒涜行為であり、決して受け入れることの出来ない言葉でした。
 しかし、ユダヤ人たちが重んじていた旧約聖書には、神がイスラエルを「子」と呼び、イスラエルが神を「父」と呼んでいる実例があります。例えば、神はイスラエルに対して《まことに彼らはわが民、偽りのない子らである》(イザヤ六三・八)と宣言しておられます。また神はホセアによって、背いたイスラエルを《あなたがたは、わたしの民ではない》(ホセア一一・一)と、一度は拒絶するのですが、後に再び《あなたがたは生ける神の子である》(ホセア一一・一)と、いわれるようになると告知しました。
 一方、イスラエルも《その聖なるすまいにおられる神は、みなしごの父》(詩篇六八・五)であり、さらに《われわれの父は皆一つではないか。われわれを造った神は一つではないか》(マラキ二・一〇)と告白しています。これは、イスラエルが神との特別な関係に生きていたことを示しています。
 このような旧約聖書における神と民との特別な関係を受け継いで、新約聖書は、イエス・キリストによって贖われた人々を、《神の民》(ヘブル八・一〇参照)であり、《神の家族》(エペソ二・一九参照)であると呼んでいます。それは、彼らが聖霊によって《アバ、父よ》(ローマ八・一五)と、神を父と呼ぶことができるようにされたからなのです。使徒パウロは、《あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送ってくださったのである》(ガラテヤ四・六)と、この事実を説明しています。
 ですから、これは無条件で神が全ての人の父であることを意味しません。つまり《彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである》(ヨハネ一・一二)と記されているように、神を父と呼ぶことのできる力(身分)を与えられた人々の特権なのです。換言すれば、《すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子》(ローマ八・一四)なのです。それは神の一方的な恵みにより、聖霊によって新しく生まれることによって、神の子とされた結果として生じることなのです。
また、神が父であるとは、《「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである》(ヘブル一二・五、一一)との励ましの言葉のように、父である神が、子として召したものたちを注意深く教育し、訓練し、恵みの中で支配してくださることも含まれているのです。

② 永遠者

 このような「父である神」は、また永遠に存在しておられる方です。アブラハムは、《ベエルシバに一本のぎょりゅうの木を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ》(創世記二一・三三)とあります。イザヤは、神を《とこしえの神》(イザヤ四〇・二八)と呼んでいます。
 それでは神が永遠者であるとは、どのようなことなのでしょうか。それは、神の存在に関係することです。つまり、詩篇に《あなたは変わることなく、あなたのよわいは終わることがありません》(詩篇一〇二・二七)とあるように、神の存在が無限であることです。また、《山がまだ生まれず、あなたがまだ世界を造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる》(詩篇九〇・二)と記されているように、神が時間を超越しておられることです。さらに、新約聖書でヤコブが伝えるように《父には、変化とか回転の影とかいうもの》(ヤコブ一・一七)が一切ありません。すなわち神は、理性で解明できない神秘的な存在です。したがって神は、人の知恵によっては測り得ないほどに崇高な方であるため、《主よ、あなたはとこしえに高き所にいらせられます》(詩篇九二・八)とたたえられる存在なのです。
 神は《主なるわたしは初めであって、また終わりと共にある、わたしがそれだ》(イザヤ四一・四)と宣言されています。そのように神は、始めであり終わりであり、その力も知恵もいつくしみも人の知恵によっては測り得ない存在です(詩篇一四七・五、ローマ一一・三三参照)。
 このように、神が永遠者であられるということは、神が時間的に永続して存在すると言う意味だけではなく、神と人との間に越えることのできない断絶があることも意味しています。これが神の存在の本質そのものです。それだけに、この永遠者である神が、人と交わりを持たれるというのは、実に測り知ることのできない恵みです。そのために、イエス・キリストが贖いを完成され、この断絶に橋渡しをしてくださいました。驚くべき恵みではないでしょうか。

③ 創造者

  さて聖書は、その冒頭に《はじめに神は天と地とを創造された》(創世記一・一)と、「父である神」が創造者であると告げています。すなわち、《主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれた》(出エジプト二〇・一一)とあります。詩篇の作者は《もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた》(詩篇三三・六)と告白しています。また神はエレミヤによって、イスラエルの民が《生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った》(エレミヤ二・一三)と告発しています。使徒パウロは《天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に》(エペソ三・一五)祈りをささげています。
 このように聖書が明らかにしている「創造者」とは、全宇宙の存在の原因、すなわち、万物の根源である方です。ですから、物質、エネルギー、恒星、惑星、植物、動物、人間、その他現在存在している全ての起源は、創造者である神にあります。
 すなわち、《万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られた》(コロサイ一・一六)のです。したがって神は、《わたしは大いなる力と伸べた腕とをもって、地と地の上にいる人と獣をつくった者である》(エレミヤ二七・五、五一・一五)と宣言しておられます。換言すれば、万物は、神の力ある御業により、知恵によって初めて存在するようになったのです。注目すべきことは、創造者なる神が天地をお造りになったときには、既に何か存在する物質があってそれを用いたのではなく、《神は「光あれ」と言われた。すると光があった》(創世記一・三)とあるように、無から全てのものを存在させたことです。
 このように、神の力は創造の御業において現されていますが、それはまた、人を救うときに働かれる力でもあります。使徒パウロは《だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである》(Ⅱコリント五・一七)と述べ、人がキリストにあって新しく生まれるのは、神による新しい創造の業がなされることであると言っています。新生の恵みの背後にある神の創造の力をほめたたえたいものです。

④ 保持者

 父である神は、目的をもって全てのものを創造されました。したがって、造られた全てのものは、全く神に依存しているばかりか、神の創造の力によって時々刻々支えられているのです。ダビデは、《あなたは万有をつかさどられます》(Ⅰ歴代志二九・一二)、《すべての物はあなたから出ます》(Ⅰ歴代志二九・一四)と、主を賛美しています。神が「保持者」であられるとはこのような意味です。
 また、神が全宇宙を創造されたというのは、単なる過去の出来事ではありません。神は全宇宙を機械仕掛けの時計のように創造し、その後はただその仕掛けを傍観しておられるのではないのです。《天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりより高く、わが思いは、あなた方の思いよりも高い》(イザヤ五五・九)と言われる神は、《天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える》(イザヤ五五・一〇)保持者として、創造された宇宙に対して関心を持っておられます。また、《わが口から出る言葉も、むなしくは帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送ったことを果たす》(イザヤ五五・一一)とあるように、宇宙もただ与えられた法則によって運行しているのではなく、神の目的のもとに存在しています。
  《二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている》(マタイ一〇・二九、三〇、ルカ一二・六、七)のみ言葉のように、保持者なる神は、創造の瞬間から今に至るまで、全ての造られたものに対して創造の力を働かせ続けておられ、常に支えておられるのです。
 このように、神が目的をもって全てのものを創造し、それを保っておられることは、わたしたち一人一人にも生きる目的があるということです。しかも《これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである》(コロサイ一・一六)とあるように、御子のために造られたという、神の創造の目的に沿った信仰の歩みを進めることこそ、わたしたちの真の生きがいなのです。全宇宙を創造され、保持しておられる神の壮大な御計画のうちに、信仰の歩みが進められていることを覚えたいものです。