歴史的曲折Ⅱ 1930年から1945年まで

はじめに

 1930年から1945年は、ホーリネス教会にとって、大きな事件の続いた時期であり、それはまたちょうど「昭和十五年戦争」の時期と重なります。したがって、教会は戦争や特に国家権力と対峙せざるを得ず、そのような厳しい状況下で教会がどのように信仰を言い表したのかが焦点となります。宣教運動として始まったホーリネス教会は、当初から教派としての教会を組織する意図がなかったため、当然のことながら信仰告白を制定することもありませんでした。しかし、自らの信仰内容を言い表すという意味では、信仰告白に代わる働きをしたのが、「四重の福音」と言うことが出来るでしょう。

 そこで、ここでは批判的な側面が中心とはなりますが、特に「四重の福音」の内容が問われた「分裂」と「教会の合同と日本基督教団への参加」を取り上げ、その前後の「リバイバル」と「弾圧」について簡単に触れることにします。

① 「リバイバル」と信仰告白

 ここで取り上げるのは、1930年(昭和5年)のリバイバルです。「昭和のリバイバル」と呼ばれることもありますが、この時のリバイバルは、世界的な恐慌や、そのような中での自給独立がその背景として考えられます。そのリバイバルを支えたのは再臨信仰でした。リバイバルの高揚した雰囲気の中では、再臨信仰は非常にリアリティのあるものであったでしょうが、それを教会の言葉である信仰告白として成文化することが意識されたとは考えにくいと言えます。

 そもそもリバイバルは、信仰告白や教会制度等ある意味で目に見える形と、それらの形骸化に対する反動という要素を持つことが多く、特に他の諸教派と一線を画していた当時のホーリネス教会が信仰告白に対してどのような考えや態度を示したかを知ることも出来ません。ただ、ホーリネス教会の旗印であった「四重の福音」は、当時の「日本ホーリネス教会」の会則の中に、「教義」として記されています。現在、この会則全体を確認することは出来ませんが、後の弾圧時の裁判で問題となる、「再臨」についての文言のみが確認出来ます。以下の通りです。

「我らは主イエス・キリストが、栄光の貌(かたち)をもって再来したもう時、聖徒は空中に携え挙げられ、後、千年王国のこの地上に樹立せらるるを信ず」。

 リバイバルの積極的評価は正しくなされるべきですが、リバイバルが分裂等の遠因となったことは、信仰告白を持たぬ教会の弱さを内包していたと言わねばならないでしょう。

② 「分離」と信仰告白

 次に、わたしたちの間でいわゆる「分裂」とも呼ばれてきた事件です。1933年(昭和8年)に起きたこの事件によって、日本ホーリネス教会は、創始者中田重治と、彼の聖書理解に異議を唱えた聖書学院教授らとに分裂しました。教授であった車田秋次らは臨時総会を招集し、中田重治の監督職の進退とその聖書理解について話し合いますが、この総会の合法性をめぐって両派の分離は決定的となります。このときの中田重治についたグループが「きよめ教会」、車田秋次を中心としたグループが「日本聖教会」です。わたしたちの教団の前身は、この「日本聖教会」です。このように、分離の直接の原因は、中田重治の信仰理解にあったと言えますが、ここではそれに対する「日本聖教会」の態度について考えることにします。

 中田重治の主張に対して、「日本聖教会」は、自分たちの信仰が正しいと主張しました。しかし、その信仰を明確に言い表すことが出来たかというと、決してそうではありませんでした。特に、再臨信仰については「破産状態」という表現が当時の資料に記されていますが、その辺りの事情をよく表しているように思われます。

 事件後の和協分離によって発足した「日本聖教会」は、独自の会則を制定します。その中で、先の「再臨」については、以下のように変更されました。

 「第五条 本教会は旧新約全書を悉く神の言なりと信じ、使徒信経に記されたる基督教基本教理を維持し、四重の福音の信仰をもってその特色とす。

四項 我らは主イエス・キリストが栄光の貌(かたち)をもって再来したもう事と、その時キリストに在り死にし者はよみがえらせられ、地にある聖徒は栄化せられ、ともに空中に携え挙げられ、後、地上に神の国の樹立せらるべきことを信ず」。

 この変更は新組識となったために当然なされたものですが、特に「千年王国」を「神の国」としたことによって、信仰内容が精神化されました。のちの裁判で「神の国」は個人の救い、霊的秩序の完成、すなわち全く精神的なものと主張していますが、教義の変更の結果、正統的信仰であるという自覚と、正統的日本人、つまり皇国臣民であるとの自覚が、日本聖教会の中では混同してしまったのでした。

 つまり信仰告白を持たない教会は、そのキリスト教信仰が次第に変質するという事態に陥るという弱さをもっていると言わなければなりません。

③ 「教会の合同と日本基督教団への参加」と信仰告白

 宗教界に対する国家の圧力は、この時期に成立した「宗教団体法」によって次第に強められていきます。当時のキリスト教界は、ほとんどその波に呑まれていきますが、日本聖教会もその例外ではありませんでした。この時期に独自の認可を得ようと、会則の変更がなされ、その中で教義が再び変更されました。以下の通りです。

 「第五条 本教会は旧新約全書を悉く神の言なりと信じ、使徒信経に記されたる基督教基本教理を維持す。
四項 我らは主イエス・キリストが栄光の貌(かたち)をもって再来したもう事と、その時キリストに在りて死にし者はよみがえらせられ、地にある聖徒は栄化せられ、ともに空中に携え挙げられ、後、神の国の来る事を信ず」。

 ここでは「四重の福音」と「地上」という言葉が削除されましたが、信仰内容の精神化が一層進んだことを表しています。それが、国家権力に屈したものであったことは、この時の会則改正委員であった安部豊造牧師の次の証言によって明らかです。

 「第一の改訂は、日本聖教会会則制定のときで、文部省の注意にはよらないが…第二の改訂は日本聖教会が単独の教団になるために会則制定の指導をうけていたとき文部省当局の注意があり、四重の福音の全文を訂正した…」。

 さらに国家の圧力は強まり、日本の諸教派は合同に向かいますが、それを国家の圧力ではなく、信仰的な主体的な決断と理解しました。その結果、日本聖教会ばかりでなく、ほとんどの教派は信仰告白を捨てたも同然の状態に陥り、こうして日本基督教団が生まれました。そして規則の中に天皇制を取り入れ、教会は偶像礼拝や戦争協力を進めたのでした。天皇制と信仰告白が混同した教会の悲劇を見る思いがします。

④ 「弾圧」と信仰告白

 このようなの信仰の変遷は、弾圧時の裁判記録からも知ることができます。ここで、弾圧経験者の信仰の戦いを過小評価するつもりは毛頭ありません。車田秋次の予審調書や菅野鋭の訊問調書に記されている事柄は、弾圧時の信仰の戦いであり、そこで問われているのはまさに信仰告白の問題です。弾圧を経験した教団が、このような先達の信仰を継承するためにも、信仰告白に生きることはとても重要なことです。

 しかし、わたしたちの教団の中で、これまで金科玉条のように伝えられてきた「弾圧」の中でさえ、信仰告白が変質してしまった事実を、わたしたちは心に留めなければなりません。そして、国家権力への追従、天皇制とキリスト教信仰の交錯、神社参拝や祖先崇拝などの偶像礼拝、隣人を切り捨ててまでの自己保身などは、信仰告白を持たぬ、あるいは軽視した教会の姿であったと言えるでしょう。すなわち、信仰告白を持たぬ教会は、キリストの教会とは言えないことを、ホーリネス教会の「歴史的曲折」は、わたしたちに示しているのです。

 最後に、触れておきたいことは、弾圧時の裁判での「無罪」の主張が意味することです。もともとホーリネス教会が違反したと言われた「治安維持法」は、天皇制の護持のために制定、強化されたものでした。確かにホーリネス教会は、道義的には何の罪にも問われない、その意味では罪のない教会であったと言えます。しかし、神格化された天皇を中心とした国体護持を目的とする治安維持法に対して無罪を主張することは、「イエスは主である」という信仰告白と矛盾しています。戦後も長く治安維持法についての無罪によって弾圧が評価されてきたことや、戦争責任が問われるまでに長い月日を要したことは、歴史認識の問題であるばかりでなく、現在のわたしたちが「イエスは主である」という信仰告白に生きる生き方が問われていると言えるのではないでしょうか。

 天皇制社会に生きる日本の教会とって、信仰告白に生きることはきわめて重要な課題であることを、「歴史的曲折」はわたしたちに示しています。